白爺は、杉爺さんに教えてもらいながら作ったカフェスタのHP
「嗚呼我が故郷テニアン」を店じまいすることにしました。
そちらには写真アルバムのページがあったので、
南洋興発の写真集から、テニアンの開拓時代の写真を載せていました。
店じまいするとこれらの記録が残らなくなってしまうので、こちらのブログに転載して残すことに決めました。
既にあちらで、ご覧になった方々には申し訳ありませんが、記録に残すことにご協力を頂き、このページは眺めるだけにしてください。
これから紹介する写真は、この写真集からコピーしたものですが、今ではこの本をもっている方はほとんどいないと思うので、貴重なものになると、白爺は自我自賛しています。
南洋航路の貨客船
横浜港出港 別れのテープで涙を流した人もいたでしょう
テニアン沖に停泊する連絡船
サイパンに南洋興発を設立した松江春次社長の銅像が建てられて社長が挨拶をしている
テニアン島に上陸した人たちは、先ず住む家を作りました。
ジャングルの木を切って開拓者同士が助け合いながら建てたと、Emiiの母は言っていました。
4家族単位で農地が割り当てられたので、家も4軒が隣組になっていたようです。
テニアン島の耕作地原簿です。
Emiiが南興会の理事を仰せつかっているので、元興発の偉い人から写しを手に入れました。
写真集の巻末には、テニアン島に最初に入植した方々の名簿が添付されています。
Emiiの家族もこの名簿に載っていますが、この本が発行された頃にはEmiiはまだ生まれていません。(ちょうどお腹の中でした)
矢印のマルポ22番地がEmiiの耕作地でした。
開墾当時は、野鶏や野豚が沢山いたそうです。
Emii家族は、彼女が小学5年生のときに農業を止めて、今のフレミングホテル前の家に転居してきました。
「嗚呼我が故郷テニアン」を店じまいすることにしました。
そちらには写真アルバムのページがあったので、
南洋興発の写真集から、テニアンの開拓時代の写真を載せていました。
店じまいするとこれらの記録が残らなくなってしまうので、こちらのブログに転載して残すことに決めました。
既にあちらで、ご覧になった方々には申し訳ありませんが、記録に残すことにご協力を頂き、このページは眺めるだけにしてください。
これから紹介する写真は、この写真集からコピーしたものですが、今ではこの本をもっている方はほとんどいないと思うので、貴重なものになると、白爺は自我自賛しています。
南洋航路の貨客船
横浜港出港 別れのテープで涙を流した人もいたでしょう
テニアン沖に停泊する連絡船
サイパンに南洋興発を設立した松江春次社長の銅像が建てられて社長が挨拶をしている
テニアン島に上陸した人たちは、先ず住む家を作りました。
ジャングルの木を切って開拓者同士が助け合いながら建てたと、Emiiの母は言っていました。
4家族単位で農地が割り当てられたので、家も4軒が隣組になっていたようです。
テニアン島の耕作地原簿です。
Emiiが南興会の理事を仰せつかっているので、元興発の偉い人から写しを手に入れました。
写真集の巻末には、テニアン島に最初に入植した方々の名簿が添付されています。
Emiiの家族もこの名簿に載っていますが、この本が発行された頃にはEmiiはまだ生まれていません。(ちょうどお腹の中でした)
矢印のマルポ22番地がEmiiの耕作地でした。
開墾当時は、野鶏や野豚が沢山いたそうです。
Emii家族は、彼女が小学5年生のときに農業を止めて、今のフレミングホテル前の家に転居してきました。
白爺様、何度見ても興味深いので、こちらでもじっくり見せていただきます!!