幾年 故郷来てみれば・・
アメリカのLST艦でテニアンを引き揚げたEmiiが、再びテニアンに戻り、自分が生まれた家の跡に立つまでの間には、約30年の年月が流れていました。
30年ぶりに来てみると、家跡は当時のテニアン市長ボロアさんのファミリーが所有する屋敷に変わっていました。
縁は異なもの!と言いますが、ボロアさんは前の年に慰霊ツアーでお付き合いを始めたのですが、東京には奥さんと来られて我が家に泊り、東京見物をしたことがあります。
このような方のファミリーが、Emiiの家跡に住んでいるというのも、不思議な巡り合わせだと思います。
昔の家の土台を利用して、バラックが建てられていました。
ここは牛小屋か堆肥小屋の跡ではなかったかと、Emiiは思い出していました。
飲み水を溜めた天水タンクも、30年前と同じ形で残っていました。
この近くにマンゴーの木があったと言って探したのですが、昔の木は見当たらず、子供か孫にあたる若い木が生えていました。
この道は、家の横をソンソン町に向かって続く道路で、家の前が四つ角になっていました。
道路の右側には、Emiiの両親が開拓した大きな砂糖キビ畑がありました。
先日、南洋興発の現場指導員をしていた有元さんから電話があったので聞いてみたら、面積は1万8千坪(6ヘクタール)あったと教えてくれました。
畑はこの坂の上にある道路(三郎さんの家がある道)まで続いていますから、相当広い面積なので開拓が大変だったのだろうと思います。
四つ角の一方は、水源地方向からカロリナスに向って続いています。
この付近から見るライオン岩は、本当にライオンの形をしていますねー。
Emiiが、玉砕の時に隠れていた場所に行って見たいと言ったので、ジョー金さんの案内でカロリナスのジャングルに入りました。
多分この辺だったと言うのですが、暗闇の中を艦砲射撃を逃れて彷徨った場所は確認することは困難です。
でも、3人ぐらいが隠れられる小さな洞窟を発見して、この場所らしいということにして来ました。
戻る時が大変です。
下からお尻を持ち上げられながら、上まで上がってきましたが、Emiiは30年前に、この上からアメリカ兵が、「水も食べ物も沢山あるから出てきなさい。私達は何もしませんから・・。」と怒鳴っていた声が、今も聞こえるといっていました。
さて、ソンソンに戻って小学校に来ました。
何回も紹介していますが、この頃の校庭には「日本軍の機関砲」が置かれていました。
今は、テニアン空港に持って行って飾っているようですが。
テニアン神社の鳥居跡も、はっきり見ることが出来ました。
横道にそれますが、白爺の友人ホーンさんの家です。
現在大木になって困っている「ロクロクパンの木」が、このときは右端に小さく写っています。
この写真を写した後で、あのような大木に育ったのだと思うと、月日の流れは速いものだと思います。
本願寺か幼稚園か分かりませんが、トイレ跡が残っていました。
この手前には幼稚園が建っていて、今のフレミングホテルになっているのですが、この頃はまだ101~104の部屋は建っていませんでした。
ホテル裏のグランドには、マニュエルさん(日本時代にマルポの南さん方で仕事をしていたので、自分の名前は南だと言っていました)が指導して、野球のバックネットやベンチを造っていました。
このときに手伝っていた子供達も、今ではテニアン島の中心人物になっているのではないでしょうか?
見ていると、休みもしないで一生懸命に造っていましたが、今の子供だったらどうでしょうか?
モンローさんが椰子の実を持ってきてくれたので、レストランでご馳走になっているところらしいです。
気前のよい陽気な方でしたが、一番早く亡くなってしまいました。
隣には、南さんの奥さんの顔も見えます。
南さん夫妻の金婚式には招待されて、教会やパーティに行きましたが、今では二人とも亡くなってしまいました。
想い出はここまで。
さて、白爺は今日成田空港北ウイング近くのホテルに泊ります。
そして、明日10:35Amには、この飛行機でサイパン空港に向けてフライトします。
成田にいても、心は既に宙を飛んでいますねー。
”余談!曾孫の名前が宙(ソラ)です。”
14:52Pm(日本時間)には、このサイパン空港にいることでしょう。
サイパンでは、ノウスウエストに勤めている友達が、わざわざ休みをとって迎えに出るといってきましたが、白爺は手をにぎるだけで、ローカル空港からテニアンへ飛び立ってしまうことでしょう。
テニアンの様子は、帰国したら又報告します。
待っていてください。
アメリカのLST艦でテニアンを引き揚げたEmiiが、再びテニアンに戻り、自分が生まれた家の跡に立つまでの間には、約30年の年月が流れていました。
30年ぶりに来てみると、家跡は当時のテニアン市長ボロアさんのファミリーが所有する屋敷に変わっていました。
縁は異なもの!と言いますが、ボロアさんは前の年に慰霊ツアーでお付き合いを始めたのですが、東京には奥さんと来られて我が家に泊り、東京見物をしたことがあります。
このような方のファミリーが、Emiiの家跡に住んでいるというのも、不思議な巡り合わせだと思います。
昔の家の土台を利用して、バラックが建てられていました。
ここは牛小屋か堆肥小屋の跡ではなかったかと、Emiiは思い出していました。
飲み水を溜めた天水タンクも、30年前と同じ形で残っていました。
この近くにマンゴーの木があったと言って探したのですが、昔の木は見当たらず、子供か孫にあたる若い木が生えていました。
この道は、家の横をソンソン町に向かって続く道路で、家の前が四つ角になっていました。
道路の右側には、Emiiの両親が開拓した大きな砂糖キビ畑がありました。
先日、南洋興発の現場指導員をしていた有元さんから電話があったので聞いてみたら、面積は1万8千坪(6ヘクタール)あったと教えてくれました。
畑はこの坂の上にある道路(三郎さんの家がある道)まで続いていますから、相当広い面積なので開拓が大変だったのだろうと思います。
四つ角の一方は、水源地方向からカロリナスに向って続いています。
この付近から見るライオン岩は、本当にライオンの形をしていますねー。
Emiiが、玉砕の時に隠れていた場所に行って見たいと言ったので、ジョー金さんの案内でカロリナスのジャングルに入りました。
多分この辺だったと言うのですが、暗闇の中を艦砲射撃を逃れて彷徨った場所は確認することは困難です。
でも、3人ぐらいが隠れられる小さな洞窟を発見して、この場所らしいということにして来ました。
戻る時が大変です。
下からお尻を持ち上げられながら、上まで上がってきましたが、Emiiは30年前に、この上からアメリカ兵が、「水も食べ物も沢山あるから出てきなさい。私達は何もしませんから・・。」と怒鳴っていた声が、今も聞こえるといっていました。
さて、ソンソンに戻って小学校に来ました。
何回も紹介していますが、この頃の校庭には「日本軍の機関砲」が置かれていました。
今は、テニアン空港に持って行って飾っているようですが。
テニアン神社の鳥居跡も、はっきり見ることが出来ました。
横道にそれますが、白爺の友人ホーンさんの家です。
現在大木になって困っている「ロクロクパンの木」が、このときは右端に小さく写っています。
この写真を写した後で、あのような大木に育ったのだと思うと、月日の流れは速いものだと思います。
本願寺か幼稚園か分かりませんが、トイレ跡が残っていました。
この手前には幼稚園が建っていて、今のフレミングホテルになっているのですが、この頃はまだ101~104の部屋は建っていませんでした。
ホテル裏のグランドには、マニュエルさん(日本時代にマルポの南さん方で仕事をしていたので、自分の名前は南だと言っていました)が指導して、野球のバックネットやベンチを造っていました。
このときに手伝っていた子供達も、今ではテニアン島の中心人物になっているのではないでしょうか?
見ていると、休みもしないで一生懸命に造っていましたが、今の子供だったらどうでしょうか?
モンローさんが椰子の実を持ってきてくれたので、レストランでご馳走になっているところらしいです。
気前のよい陽気な方でしたが、一番早く亡くなってしまいました。
隣には、南さんの奥さんの顔も見えます。
南さん夫妻の金婚式には招待されて、教会やパーティに行きましたが、今では二人とも亡くなってしまいました。
想い出はここまで。
さて、白爺は今日成田空港北ウイング近くのホテルに泊ります。
そして、明日10:35Amには、この飛行機でサイパン空港に向けてフライトします。
成田にいても、心は既に宙を飛んでいますねー。
”余談!曾孫の名前が宙(ソラ)です。”
14:52Pm(日本時間)には、このサイパン空港にいることでしょう。
サイパンでは、ノウスウエストに勤めている友達が、わざわざ休みをとって迎えに出るといってきましたが、白爺は手をにぎるだけで、ローカル空港からテニアンへ飛び立ってしまうことでしょう。
テニアンの様子は、帰国したら又報告します。
待っていてください。
いよいよテニアンですね!!
お気をつけて行ってきてください。
きれいな写真を待ってますよ!!
お写真UPと、楽しいお話お待ちしています。