今朝も5.6℃と冷え込みは少なく、風もなく日差しはたっぷりなのにPM2.5?
で春を思わせる春日奥山の霞み具合、昼になってやっとこの程度です。
なお今日のPM2.5はやや少なく、明日はやや多い予報となっている。
13時、15.7℃、63%
167℃迄上がり11月中旬の暖かさに誘われ、やっと咲き終わる「コギク」を
刈れば、大きなお腹をしたカマキリが顔を出した。
慌ててカメラを取りに行けば、探しても探してもどこ?。
見つけたのは二度咲きの「ホタルブクロ」や「カワラナデシコ」です。
そしてまだ「ムラサキシキブ」の実もまだ色を残している。
鉢植えの「フジバカマ」、房状の花も枯れ、まだ種が残っているかとワタを
含めて摘み取った。3月下旬には一度植えてみようかな。
さてこの暖かさも来週月曜日に例年並みの寒波が来て、火曜日は氷点下かも、
そして週半ばは平年並み気候が続き、来週末から一級の寒波の来襲があると。
今日明日までに、小庭の大掃除を終えなければ・・・。
この5日、近鉄奈良駅前に駆け上がれば東大寺の方を向かれる「行基像」に。
11月12日に平城公民館講座「平城京・京を眺めた行基の供養堂」大阪大谷大学
教授・狭川真一の講義があったが、富山への帰省で欠席しており、資料です。
なお狭川先生は二年ほど前まで「元興寺文化財研究所」に在籍されていた。
今年6月元興寺文化財研究所から、平城京の西側小高い丘の上にある菅原遺跡
から行基さん関連施設が見つかったとのタイムリーな講義です。
「行基さん・668年~749年2月2日 」百済系の渡来人で和泉の人、法相宗を
学び、禁止されていた仏教の民衆への布教をされ、彼を慕う「行基集団」を
率い併せて困窮者の救済や社会事業を起こされ、一番は東大寺の大仏の造立
であったが、完成を待たず行基さんは82歳で入滅され、現生駒市の往生院で
火葬後、竹林寺に遺骨が納められ多宝塔が立てられた。
一辺約10mの方形の墳丘の墓所がある。
生駒市HPより、墓所
1235年に発掘され、舎利瓶や墓誌が見つかったが埋め戻された。
江戸時代に再度発掘され、その後多くは散逸し、残るは墓誌の一部となる。
生駒市HPより 講座資料より
行基墓誌復元図
なお大仏は752年に丸9年の歳月と、のべ260万人を動員して大仏は完成する。
このように行基さんは、奈良の大恩人でかけがえのない人なのですが、後世に
伝わる遺物等は墓所を除きほとんどない。
例えば東大寺の行基堂の行基菩薩坐像も江戸時代の作、また先日の菅原の里・
「喜光寺・元菅原寺」も行基さんの創建とされるも戦災などで残っていない。
唐招提寺・舎利瓶塔
平城京の西側小高い丘の上にある菅原遺跡、開発前の地形図では
1981年、菅原遺跡として近くを発掘調査されている。
今年6月元興寺文化財研究所から、2020年10月から今年3月まで奈良市疋田町
にある菅原遺跡(長岡院)の発掘調査報告があり、高僧=行基の供養堂と
みられる建物跡として発表された。
なお遺跡は平城宮跡の西方、標高106メートルの丘陵上にあり、東大寺の大仏
造立を指揮した行基ゆかりの寺「長岡院」推定地にあたる
調査では、回廊の跡とともに円形の建物の跡が見つかり、この建物跡は亡く
なった人の供養堂で、奈良時代の高僧・行基を供養したとする説があがる。
菅原遺跡の基壇復元推定図で、夢殿(八角円堂)と比べると明らかに違う
出土瓦で、平城京の瓦を縮小した瓦が出土している。
この講座の数日前の11月8日、夕方の奈良テレビの放送で
「菅原遺跡の円堂を公立鳥取環境大教授がCG復元」
公立鳥取環境大学の教授らが建物のCG復元案を作成し、8日、県庁で
作成した菅原遺跡の円堂の3種類の復元案を発表しました。
建物の土台となる基壇は失われていて基壇上の柱の位置関係が明らかになっ
ていませんが、浅川さんは基壇のかたちが円形ではなく正多角形だった
可能性もあるとして、奈良時代から鎌倉時代初期の建物を参考に作成した。
これは現在の五條市にある栄山寺八角堂をイメージした復元案。
建物の高さは10メートルほどで、大屋根とひさし状の裳階が接するような
かたちになっています。
なお現地は住宅地造成のための発掘調査、残念にも残されず宅地化している。
これからも保存と開発のせめぎあいはまだまだ続きますね。
わるような発でも歴史が変掘がこれからも続くかもしれません。