※全編において私が推測としているのは、細部についてまで確定した資料が無いからである。あくまでできるだけ当時の映像や自身で調べた資料などから推測しているに過ぎないこと、予め了承の上で接するべき文章に過ぎない。
冬になって、再び浅河原調整池附近を訪れた
赤丸の部分は、 浅河原調整池附近 として以前に簡単に紹介している
まずは池となっている鐙坂のS字区間
マップ上で青丸の附近である
以前も紹介したが、このS字附近である
宮中方を向いて(浅河原調整池を背にしている)
緩くカーブしているのが分かる
ため池を堰き止めている堰堤部分
今は民家が立っているが、材料運搬線の路盤はこれくらい低い位置か、これよりもっと掘り下げられていたと推測される
おそらく後年になって堰き止めてため池にされたのだろう
ため池になるくらい深い掘割となっているのは、ここから河岸段丘を降りて行くため
浅河原川の辺りまでの高度差を出来るだけ稼ぐためと推測している
結構な勾配になるだろうから、出来るだけここは掘り下げて行きたかったはずだ
ため池のほとりには工マークの柱が植えられている
浅河原調整池を背に、少し宮中方面に移動する
やたらと古めかしいコンクリート構造物が残っていた
対岸にも同じような構造物が顔を突き合わせている
水管のようなものを通せる穴が対となっているから、掘割を越えるための用水路の類だろうと思われる
掘割の下まで信濃川らしい丸石で組んだコンクリートの土台が続いている
もっとも、材料運搬線時代の構造物かどうか確かめられないので何とも言えないが、
もし水管が通っていても軽便程度の小さい機関車なら潜れそうなくらい掘割も深いだろうから当時からあってもおかしくはない
そして、ため池の終わり
宮中方はガッツリ埋められている
建物は立っているし、道路も通っている
しかし、道路を越えると、また材料運搬線の跡が姿を現す
今度は池ではなく、湿地帯として
低くなっているので水が溜まって抜けないのだろう
宮中方を見ている(浅河原調整池を背にしている)
カーブを描きながら民家の陰に消えて行っているが、軌道はそのまま道路を越えていたようである
続いて、黄緑の丸で囲んだあたりだ
吉田の河岸段丘沿いに浅河原川を渡るために高度を下げ、浅河原川を渡るまでである
軌道跡上から宮中方を見ている(千手方を背にして)
(写真の左奥が浅河原調整池、正面に分水ゲートが見える)
浅河原川の手前で軌道跡は途切れる
振り返って千手方を見る
緩やかなカーブは航空写真でも確認した材料運搬線の線形と一致する
それにしても、軌道跡は吉田の体育館裏から連続しているので、ここで急に途切れるのも気になる
当時のこの辺りの映像があったので、紹介しよう
最初のグーグルマップで➁と示したアングルである
地形や構造物から推測するに、浅河原川の上流から調整池方向を向いての撮影のようだ
映像の中央下にあるトンネルのようなコンクリート構造物は、浅河原川の水を調整池の下を通って信濃川に流すためのものらしい
この施設を調査・紹介しているサイトがあったので、参考までに
【 JR信濃川発電所 浅河原調整池(その3) 】
http://abe-sin.com/suiryoku/hatudenn/asakawara3.htm
さて、浅河原川で途切れていた軌道跡だけど、映像から、ここにも立派な築堤があったようだ
築堤の上に軌道が走っていたかどうかまではこの映像からは判別できない
築堤部分をアップする
緑色の線で示すのは道である。
そして、この道はほぼ現道の位置と一致すると考えている
構造物や地形からしても、現道は割とそのままだと思われる
つまり、軌道は築堤で嵩上げし、今より高い位置を走っていたということが言いたい
分かりにくいが、軌道が道路を跨ぐところには橋のようなものが見える
ここでぷっつり切れていたと思っていた軌道跡だが、ここから先にも築堤があったかもしれないと思うと、
出来るだけ高度を失わなくて済むから、これから河岸段丘を登っていくのにも好都合だと思われる
(この河岸段丘を登った先に先ほどの鐙坂のS字の掘割がある)
それにしても、築堤の映像を見ても、築堤に木が生えてそれなりに成長しているように見える
そんなに前からこの築堤があったのか?
映像自体は戦中かそこらの時代、
それ以前となると大正時代の準備工事で材料運搬線を整備した際にこの築堤も築いていたのか?とか
さて、ここまで浅河原調整池附近の材料運搬線の様子を紹介してきた
その中で、軌道は浅河原川から鐙坂までの河岸段丘を登っていた、掘割と築堤で高度を稼ぎたいだの、
つまりは勾配を緩やかにしたいと推測を述べさせてもらっているのだが、肝心の軌道の位置を示せていない
航空写真でも判別は難しい上に、正直、現地を歩いてきた私もよく分かっていない
何か無いかなと調べていたら、連絡水槽建造当時の写真にヒントと言えそうなものを見付けたので紹介する
左が連絡水槽建造時の写真、右が現在の姿だ
冒頭画像の①のアングルである
連絡水槽建造当時の写真を見ると、丸いトンネルが一つ開いているが、これこそが宮中ダムから続いている水路隧道である
浅河原調整池の連絡水槽の着工が一期工事であること、水路隧道は二期工事で2条(つまり2本の水路隧道が並行して掘られた)になったことから、
写真は一期工事から二期工事終了までの間で、まだ水路隧道を掘削している途中だと推測すると、宮中―浅河原までの隧道工事のために材料運搬線も健在だったという可能性が高い。
小難しいことを言ったが、連絡水槽も完成していないことには千手発電所まで水を送ることもできないので、
この映像は一期工事の最中であるから、材料運搬線は生きていた時代の筈である
肝心の材料運搬線の平場が何処かと言えば、私は材料運搬線は一番上の平場だと考えている
トンネル(水路隧道)のすぐ上の線は現道と一致してそうなのと、やっぱり高度を稼ぐために浅河原川に高い築堤を築いてまで通した軌道、
出来るだけ緩やかに行ってそうだと推測される
多少の差異はあれども、現在の雪崩対策の柵がある辺りを材料運搬線が走っていたという説で行きたい
何を言いたいかと言うと、現道の勾配は流石に鉄道にゃ厳しすぎるんじゃないかと思っていたことと、
材料運搬線は下駄を履かせられて(盛りに盛った築堤と、池になるほど掘った掘割で)勾配が緩やかになるような線形で河岸段丘を克服していたんじゃないかと言うこと
まぁ、それを示す資料を私はまだ見ていないのだけど、以上、紹介までに。
オマケ
浅河原調整池、浚渫のためなのか数か月に渡って「池の水ぜんぶ抜く」状態なので、
工事の当時との比較の写真を紹介したい
私はこういう比較をしては興奮しているだけだ。劇的ビフォアフター。
冬になって、再び浅河原調整池附近を訪れた
赤丸の部分は、 浅河原調整池附近 として以前に簡単に紹介している
まずは池となっている鐙坂のS字区間
マップ上で青丸の附近である
以前も紹介したが、このS字附近である
宮中方を向いて(浅河原調整池を背にしている)
緩くカーブしているのが分かる
ため池を堰き止めている堰堤部分
今は民家が立っているが、材料運搬線の路盤はこれくらい低い位置か、これよりもっと掘り下げられていたと推測される
おそらく後年になって堰き止めてため池にされたのだろう
ため池になるくらい深い掘割となっているのは、ここから河岸段丘を降りて行くため
浅河原川の辺りまでの高度差を出来るだけ稼ぐためと推測している
結構な勾配になるだろうから、出来るだけここは掘り下げて行きたかったはずだ
ため池のほとりには工マークの柱が植えられている
浅河原調整池を背に、少し宮中方面に移動する
やたらと古めかしいコンクリート構造物が残っていた
対岸にも同じような構造物が顔を突き合わせている
水管のようなものを通せる穴が対となっているから、掘割を越えるための用水路の類だろうと思われる
掘割の下まで信濃川らしい丸石で組んだコンクリートの土台が続いている
もっとも、材料運搬線時代の構造物かどうか確かめられないので何とも言えないが、
もし水管が通っていても軽便程度の小さい機関車なら潜れそうなくらい掘割も深いだろうから当時からあってもおかしくはない
そして、ため池の終わり
宮中方はガッツリ埋められている
建物は立っているし、道路も通っている
しかし、道路を越えると、また材料運搬線の跡が姿を現す
今度は池ではなく、湿地帯として
低くなっているので水が溜まって抜けないのだろう
宮中方を見ている(浅河原調整池を背にしている)
カーブを描きながら民家の陰に消えて行っているが、軌道はそのまま道路を越えていたようである
続いて、黄緑の丸で囲んだあたりだ
吉田の河岸段丘沿いに浅河原川を渡るために高度を下げ、浅河原川を渡るまでである
軌道跡上から宮中方を見ている(千手方を背にして)
(写真の左奥が浅河原調整池、正面に分水ゲートが見える)
浅河原川の手前で軌道跡は途切れる
振り返って千手方を見る
緩やかなカーブは航空写真でも確認した材料運搬線の線形と一致する
それにしても、軌道跡は吉田の体育館裏から連続しているので、ここで急に途切れるのも気になる
当時のこの辺りの映像があったので、紹介しよう
最初のグーグルマップで➁と示したアングルである
地形や構造物から推測するに、浅河原川の上流から調整池方向を向いての撮影のようだ
映像の中央下にあるトンネルのようなコンクリート構造物は、浅河原川の水を調整池の下を通って信濃川に流すためのものらしい
この施設を調査・紹介しているサイトがあったので、参考までに
【 JR信濃川発電所 浅河原調整池(その3) 】
http://abe-sin.com/suiryoku/hatudenn/asakawara3.htm
さて、浅河原川で途切れていた軌道跡だけど、映像から、ここにも立派な築堤があったようだ
築堤の上に軌道が走っていたかどうかまではこの映像からは判別できない
築堤部分をアップする
緑色の線で示すのは道である。
そして、この道はほぼ現道の位置と一致すると考えている
構造物や地形からしても、現道は割とそのままだと思われる
つまり、軌道は築堤で嵩上げし、今より高い位置を走っていたということが言いたい
分かりにくいが、軌道が道路を跨ぐところには橋のようなものが見える
ここでぷっつり切れていたと思っていた軌道跡だが、ここから先にも築堤があったかもしれないと思うと、
出来るだけ高度を失わなくて済むから、これから河岸段丘を登っていくのにも好都合だと思われる
(この河岸段丘を登った先に先ほどの鐙坂のS字の掘割がある)
それにしても、築堤の映像を見ても、築堤に木が生えてそれなりに成長しているように見える
そんなに前からこの築堤があったのか?
映像自体は戦中かそこらの時代、
それ以前となると大正時代の準備工事で材料運搬線を整備した際にこの築堤も築いていたのか?とか
さて、ここまで浅河原調整池附近の材料運搬線の様子を紹介してきた
その中で、軌道は浅河原川から鐙坂までの河岸段丘を登っていた、掘割と築堤で高度を稼ぎたいだの、
つまりは勾配を緩やかにしたいと推測を述べさせてもらっているのだが、肝心の軌道の位置を示せていない
航空写真でも判別は難しい上に、正直、現地を歩いてきた私もよく分かっていない
何か無いかなと調べていたら、連絡水槽建造当時の写真にヒントと言えそうなものを見付けたので紹介する
左が連絡水槽建造時の写真、右が現在の姿だ
冒頭画像の①のアングルである
連絡水槽建造当時の写真を見ると、丸いトンネルが一つ開いているが、これこそが宮中ダムから続いている水路隧道である
浅河原調整池の連絡水槽の着工が一期工事であること、水路隧道は二期工事で2条(つまり2本の水路隧道が並行して掘られた)になったことから、
写真は一期工事から二期工事終了までの間で、まだ水路隧道を掘削している途中だと推測すると、宮中―浅河原までの隧道工事のために材料運搬線も健在だったという可能性が高い。
小難しいことを言ったが、連絡水槽も完成していないことには千手発電所まで水を送ることもできないので、
この映像は一期工事の最中であるから、材料運搬線は生きていた時代の筈である
肝心の材料運搬線の平場が何処かと言えば、私は材料運搬線は一番上の平場だと考えている
トンネル(水路隧道)のすぐ上の線は現道と一致してそうなのと、やっぱり高度を稼ぐために浅河原川に高い築堤を築いてまで通した軌道、
出来るだけ緩やかに行ってそうだと推測される
多少の差異はあれども、現在の雪崩対策の柵がある辺りを材料運搬線が走っていたという説で行きたい
何を言いたいかと言うと、現道の勾配は流石に鉄道にゃ厳しすぎるんじゃないかと思っていたことと、
材料運搬線は下駄を履かせられて(盛りに盛った築堤と、池になるほど掘った掘割で)勾配が緩やかになるような線形で河岸段丘を克服していたんじゃないかと言うこと
まぁ、それを示す資料を私はまだ見ていないのだけど、以上、紹介までに。
オマケ
浅河原調整池、浚渫のためなのか数か月に渡って「池の水ぜんぶ抜く」状態なので、
工事の当時との比較の写真を紹介したい
私はこういう比較をしては興奮しているだけだ。劇的ビフォアフター。