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いいやま線とか、、、飯山鐡道、東京電燈西大滝ダム信濃川発電所、鉄道省信濃川発電所工事材料運搬線

信濃川発電所工事材料運搬線列車正面衝突事故

2021-03-08 20:00:00 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
十日町新聞 昭和十年十一月三十日
信電機関車 正面衝突 死者一名、重傷二名 工事場の惨事
去る二十七日午後一時十五分頃、吉田村字石橋地内において鐡道省信濃川發電材料運搬用の蒸気機関車とガソリン機関車が正面衝突をなし車は双方とも大破、死者一名、重傷二名を出したと云う信電工事開始以来稀の大事故があった
合図なしに発車 惨事の原因が判明
惨事の現場は千手隧道上手のカーブで急カーブの上木製のスノーセットに遮られて全然見通しが利かない處であった。そのため列車發車の際は千手町地内コンクリ―試験室と十日町倉庫見張所で合図をなし、本月はじめからは宮中行線と千手行線の分岐点に電話を設けそこから十日町見張所と連絡をとっていた。それで惨死した村田機関手の運転するガソリン汽関車は千手山野田線延長用バラスを惨事の前日の二十六日より高城澤隧道口から運搬中のものでその日は午前中に五往復し、六回目を空車で高城澤へ向ふ途中前記石橋分岐点に於いて平野車掌が電話で十日町見張所に合図している間に村田機関手はどう勘違いしたか発車したので折柄宮中方面に向かって材木を満載疾走中の寺居機関手の運転する蒸気汽関車とバツタリ行き逢ったものでガソリン車の平野車掌は電話口に残されて乗車していなかったため、また蒸気車の渡邉車掌は無蓋車から飛び降りたため無事であったが両機関手は発見が遅く遭難したものであった
機関手 程なく絶命 二名も重傷
ガソリン車には本籍盛岡市仁王町、当時十日町機関手村田源吉(四六)千手町字水口澤平野久治(二三)の両名が・・・(中略)・・・ガソリン車の村田機関手は両脛骨の骨折、前頭部陥没骨折の重傷を負い十日町至誠堂病院に収容手当を施したが同二時遂に死亡(以下略)




冒頭から痛ましい労働災害を伝える当時の十日町新聞の記事を紹介した。材料運搬線関連の事故はこれ以前にもいくつか起きているが、列車同士の正面衝突事故はこれが初見である。そして、この記事からは当時の材料運搬線の運転の一部が垣間見える。これは材料運搬線の運転についてほんの触りに過ぎないだろうが、鐡道省側の資料では材料運搬線は準備工事の進捗や延長など施設的な側面で記載されているのみであり、その線路の上を走り材料の輸送を担った列車の運転についての記述に乏しい。今回、この記事を紹介したのは信濃川発電所第一期工事における材料運搬線の運転を知る上で重要だと考えられるからである。

私が気になった点を箇条書きにすると
・電話での合図による列車間安全確保を採用していた
・昭和10年時点で材料運搬線の高城澤・石橋付近はスノーシェッドで覆われている区間があった(千手トンネルの真上くらいは崖の真下を走っていたようなのでその辺りだろうか)
・千手コンクリ―試験室の位置は後で調べるが、事務所か発電所のある位置だろう(十日町新聞にコンクリ試験室の工事請負情報が載っていたと記憶しているので、後で調べる)
・宮中行線と千手行線の分岐点
・千手山野田延長の工事。(事務所から発電所(今のサージタンクのある辺り)への延長だと思われる。発電所基礎などの請負入札とかやっている時期ですし。)
・圧力隧道高城澤横坑のズリを材料運搬線の線路のバラストに使用
・午前中だけで5往復するくらいの工事列車の運転頻度

私は当時の鉄道の運転について勉強不足であるし、ましてや材料運搬線なり専用線の運転については参考までに比較参照する対象すら思いつかない。ただ、上記の記述から材料運搬線の運転について分かったことがある。

・電話を用いた見張所への合図によって列車間の安全確保を採用していた
・見張所への連絡は車掌が行い、運転可能か確認の上で車掌の指示により列車は出発する

この二点が言えるのではないだろうか。材料運搬線は単線であるから、その区間を走る列車は運転方向なり1列車に占有させる措置を講じなければ危なくて仕方がない。
更に、郷土史に以下の記述があったので紹介しよう。

・別冊市史リポート 手記 私の証言 第三集 十日町市史編さん委員会
昭和十七年真夏に、小さい二階建ての事務所兼、人夫だまりが出来た。操車場と呼ばれていた。現在の国道の桜並木の下で、広くて小泉の粘土場へ通ずる軽便線の見張所でもあった。あの時代には珍しい、マイクロホンが使われたのだった。機関車の線路が単線のために、上り下りを知らせるアナウンサーが、私だった。運転手は若い人たちばかりだったが、四、五日見えないなと思うと、出征したのだと聞いた。

昭和10年当時と昭和17年当時を比べるのも若干の不安があるし、運転が大きく変わってないと仮定しての話になるが

・単線のため、見張所では上り下りを知らせていた

という事が分かる。車掌が見張所へ合図していたと言うが、見張所からは進出する区間に対して上り下りを指定して、車掌が自列車の運転方向と合致するのを認めた上で、運転手へ出発を指示していたかのように見える。1列車に単線各区間を占有させるなら、上り下りとは言わないはずだ。そもそも、見張所と連絡を取る電話のある個所で列車交換ができるわけでもなさそうなため、列車ごとに占有させるより、上り下りを時間帯で分けて流していたのかもしれない。


ちょっとした話かもしれないが、私には材料運搬線の運転について少し触れられた気がして嬉しい。鉄道は線路が敷かれようが、電話が整備されようが、車両が配置されようが、運転があってこそ使命を全うできるからである。軌道、通信、車両はどれも欠かせない要素であるものの、それらは割と記録に残りやすい。一方、物や形として残りにくく、連続的に変化していくために水物である運転は後世に伝えられないことが多い。その一端が垣間見られた気がしたので、今回紹介したのである。