まず、紹介するのは浅河原調整池と小泉付近の土堰堤工事地区をトリミングした空中写真だ。元画像は「USA-R1907-28 撮影日1948/10/12(昭23) 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」である。
例によってポンチ絵で材料運搬線のおおよその部分をトレースしている。小泉車庫構内の側線は端折った。今回はそこについて深く言及するわけではないので。
更に、本記事で書きたい部分を示すと、以下の右図の赤線部分である。
赤線部分が鐙坂手前で見切れているけど、この戦後の米軍撮影のUSA-R1907-〇〇シリーズはここで切れてしまっているのである。個人的には浅河原調整池を中心とした当時の写真が欲しい所だけど、インターネットで見られるだけでも時代の恩恵がすさまじい話なので、ありがたく使わせて貰っている次第である。
さて、浅河原調整池の南側である。
この区間はこれまでも当ブログではどうやって材料運搬線が崖を克服したか明言を避けてきたはずだ。かなりの推測で逃げてきた。
まず、私がそう判断した理由を、googleのストリートビューで現地を紹介して示したい。
連絡水槽を左手に見つつの、鐙坂へ向かう坂道だ。相当な急坂で、とても蒸気機関車というか鉄道で抜けられる勾配に思えない。ましてや、ここは十日町から宮中方面に向けて材料を満載した貨車が登る筈の坂だ。急こう配は空転による輸送障害を産むことは鉄道輸送ではよく知られた話である。それに対して、信濃川発電所材料運搬線を調べれば調べる程に、現地調査をすればするほどに、材料運搬線の線路の勾配の克服に心を砕いてきただろう設計者の本気を感じていることは、これまでの記事でも示せていると思う。信濃川発電所工事の材料運搬のために軽便線を敷設して、材料運搬を担わせるなら、線形(勾配)による輸送障害はあってはならないのだ。線形に起因する輸送障害が生じるならば、線形を決定した設計者の責任になりかねず、国家事業にそれが許された時代背景だったろうか。かようならば、鉄道としておおよそ常識(25‰以下の勾配)らしい線形になる筈である。しかし、当地の現道の勾配はそれより遥かに急なのである。こんなところを鉄道が通っていたとは考えられない。
とまで考えていたのだが、当時の当地の解像度の良い写真を手に入れて、おおよそそうらしいと言えるようになった。 写真の出展元は「信濃川水力設備要覧 鐡道省東京電気事務所 昭和十五年三月二十日」である。なお、必要に応じて私がトリミングを行っている。
材料運搬線は何処ですか?私が推測したのは以下のポンチ絵の通りだ。
私は桟橋の上を材料運搬線が通っていたとほぼ確信している。斜面中腹に桟橋を設けても巧みに勾配を克服していたと、私は言いたい。こういう位置関係で材料運搬線が敷設されていたと言うことに迷いはない。現時点で私の主張は、上記で示した位置に材料運搬線があって、浅河原調整池南側の線路は斜面中腹を桟橋で克服していたとする。現時点では、そう言う他ない。
※私は発電所工事関連の当時の証言や資料の提供を募集しています。そうでなくとも地元の方からコメントを頂けると、私は本当に嬉しいです。些細なことでも良いです。親から聞いた程度の話も貴重です。工事当時の話について、私にとっては何でもない話はありません。当時の生活の話でも何でも、私にとっては嬉しい情報です。
例によってポンチ絵で材料運搬線のおおよその部分をトレースしている。小泉車庫構内の側線は端折った。今回はそこについて深く言及するわけではないので。
更に、本記事で書きたい部分を示すと、以下の右図の赤線部分である。
赤線部分が鐙坂手前で見切れているけど、この戦後の米軍撮影のUSA-R1907-〇〇シリーズはここで切れてしまっているのである。個人的には浅河原調整池を中心とした当時の写真が欲しい所だけど、インターネットで見られるだけでも時代の恩恵がすさまじい話なので、ありがたく使わせて貰っている次第である。
さて、浅河原調整池の南側である。
この区間はこれまでも当ブログではどうやって材料運搬線が崖を克服したか明言を避けてきたはずだ。かなりの推測で逃げてきた。
まず、私がそう判断した理由を、googleのストリートビューで現地を紹介して示したい。
連絡水槽を左手に見つつの、鐙坂へ向かう坂道だ。相当な急坂で、とても蒸気機関車というか鉄道で抜けられる勾配に思えない。ましてや、ここは十日町から宮中方面に向けて材料を満載した貨車が登る筈の坂だ。急こう配は空転による輸送障害を産むことは鉄道輸送ではよく知られた話である。それに対して、信濃川発電所材料運搬線を調べれば調べる程に、現地調査をすればするほどに、材料運搬線の線路の勾配の克服に心を砕いてきただろう設計者の本気を感じていることは、これまでの記事でも示せていると思う。信濃川発電所工事の材料運搬のために軽便線を敷設して、材料運搬を担わせるなら、線形(勾配)による輸送障害はあってはならないのだ。線形に起因する輸送障害が生じるならば、線形を決定した設計者の責任になりかねず、国家事業にそれが許された時代背景だったろうか。かようならば、鉄道としておおよそ常識(25‰以下の勾配)らしい線形になる筈である。しかし、当地の現道の勾配はそれより遥かに急なのである。こんなところを鉄道が通っていたとは考えられない。
とまで考えていたのだが、当時の当地の解像度の良い写真を手に入れて、おおよそそうらしいと言えるようになった。 写真の出展元は「信濃川水力設備要覧 鐡道省東京電気事務所 昭和十五年三月二十日」である。なお、必要に応じて私がトリミングを行っている。
材料運搬線は何処ですか?私が推測したのは以下のポンチ絵の通りだ。
私は桟橋の上を材料運搬線が通っていたとほぼ確信している。斜面中腹に桟橋を設けても巧みに勾配を克服していたと、私は言いたい。こういう位置関係で材料運搬線が敷設されていたと言うことに迷いはない。現時点で私の主張は、上記で示した位置に材料運搬線があって、浅河原調整池南側の線路は斜面中腹を桟橋で克服していたとする。現時点では、そう言う他ない。
※私は発電所工事関連の当時の証言や資料の提供を募集しています。そうでなくとも地元の方からコメントを頂けると、私は本当に嬉しいです。些細なことでも良いです。親から聞いた程度の話も貴重です。工事当時の話について、私にとっては何でもない話はありません。当時の生活の話でも何でも、私にとっては嬉しい情報です。