秋桜とおいこっと
昨日の記事で「信濃川上流の集落であった話で補助金の額が少ないから当初の計画を流して停留所になった駅もあったという」と記述したが、その舞台となった地域
この横倉は補助金も満たして当初の計画では停留所だったものが停車場に格上げ設置されたという、郷土資料でも残っている程度の集落である
今でも奥信濃によくあるこじんまりとした集落だけど、学校もあり、住宅も割と新しい感じであったりと、狭い範囲ながらお隣の停留所になった集落との差は感じざるを得ないのが正直なところだ
千曲川のカーブの内側の横倉の平地と、川向うの山々が迫る感じに囲まれるような対岸の集落も見られる
対岸の集落、飯山鉄道の時代は勿論、割と昭和になってだいぶ経った時代まで川の上にワイヤー張って籠で人も荷物も横倉の集落まで行き来していたようです
ロープウェーなんて生易しいものじゃない移動手段が当たり前にあったようです
まだまだ千曲川・信濃川の永久橋が架橋される前の時代のはなしですね
JR東日本 飯山線 越後鹿渡駅。
長野の方からおいこっとが単行でやってきた。
越後鹿渡駅はかつて交換駅だった名残の線形そのままに、今では単線の無人の停留所だ。
停車場にするか停留所にとどめるかについて、補助金をいかに出したかという傾斜を付けて飯山鉄道は決定していた節がある。この越後鹿渡駅も、飯山鉄道の建設当時は地元の寄附金如何で停留所になるか停車場になるかという計画されていたそうだ。それは例えば信濃川上流の集落であった話で補助金の額が少ないために、停車場で計画されていた駅すら当初の計画を流して停留所になった駅もあったという。
もっとも、この越後鹿渡駅については現・東京電力RP信濃川発電所建設のための鉄道物資輸送の基点となった駅だ。
越後鹿渡駅構外工事用側線が設けられていた駅であることは、このブログでも再三申し上げている通り。そして、その工事のみならず、工事に伴って形成された鉱山街ならぬ発電所工事集落ともいえる飯場の生活を支える荷物扱いも盛んになるのは目に見えている。元々からしてそこまで大きな集落ではなかった鹿渡なり外丸なりで、最盛期はその住民数を数千人規模で増大させたほどの大工事であるから、新たな集落が形成され、人の営みが生まれるのも必然だ。今のように方々から車で通勤するような時代でもないから、沿線各駅から工事に従事する人も運んだだろう。また、人が多く住めばそれに伴って様々な物資が必要になる。工事物資は言うまでもなく、その工事に関わる人の営みに必要な物資までをも飯山鉄道が輸送していたのだろうと推測される。これらの背景からも、越後鹿渡駅は停車場でしかるべき駅なのは疑いようもない。
とはいえ、今では乗降も少なく寂しい駅と言われる。別な言い方をすれば、当駅にとって本来の当地の営みに融け込んだ結果だ。
かつて、山側には鉄道で荷物を扱っていた日通の営業所があった。
更に川側には保線など施設系の詰所もあったというから、今では考えられない。今でも往時を偲ばれる平場が駅の周りには残されている。是非、当時のそんな栄えていた時代を想像しながら鹿渡の駅や集落を眺めるのも面白いと思う。
私は工事側線がこの写真の列車のいる辺りで上下に分岐していたと考えている。
下部側線と上部側線だ。前者は発電所建設のため、後者は水圧鉄管建設のための軌道だ。私はその真相を証明する資料を探している。
長野の方からおいこっとが単行でやってきた。
越後鹿渡駅はかつて交換駅だった名残の線形そのままに、今では単線の無人の停留所だ。
停車場にするか停留所にとどめるかについて、補助金をいかに出したかという傾斜を付けて飯山鉄道は決定していた節がある。この越後鹿渡駅も、飯山鉄道の建設当時は地元の寄附金如何で停留所になるか停車場になるかという計画されていたそうだ。それは例えば信濃川上流の集落であった話で補助金の額が少ないために、停車場で計画されていた駅すら当初の計画を流して停留所になった駅もあったという。
もっとも、この越後鹿渡駅については現・東京電力RP信濃川発電所建設のための鉄道物資輸送の基点となった駅だ。
越後鹿渡駅構外工事用側線が設けられていた駅であることは、このブログでも再三申し上げている通り。そして、その工事のみならず、工事に伴って形成された鉱山街ならぬ発電所工事集落ともいえる飯場の生活を支える荷物扱いも盛んになるのは目に見えている。元々からしてそこまで大きな集落ではなかった鹿渡なり外丸なりで、最盛期はその住民数を数千人規模で増大させたほどの大工事であるから、新たな集落が形成され、人の営みが生まれるのも必然だ。今のように方々から車で通勤するような時代でもないから、沿線各駅から工事に従事する人も運んだだろう。また、人が多く住めばそれに伴って様々な物資が必要になる。工事物資は言うまでもなく、その工事に関わる人の営みに必要な物資までをも飯山鉄道が輸送していたのだろうと推測される。これらの背景からも、越後鹿渡駅は停車場でしかるべき駅なのは疑いようもない。
とはいえ、今では乗降も少なく寂しい駅と言われる。別な言い方をすれば、当駅にとって本来の当地の営みに融け込んだ結果だ。
かつて、山側には鉄道で荷物を扱っていた日通の営業所があった。
更に川側には保線など施設系の詰所もあったというから、今では考えられない。今でも往時を偲ばれる平場が駅の周りには残されている。是非、当時のそんな栄えていた時代を想像しながら鹿渡の駅や集落を眺めるのも面白いと思う。
私は工事側線がこの写真の列車のいる辺りで上下に分岐していたと考えている。
下部側線と上部側線だ。前者は発電所建設のため、後者は水圧鉄管建設のための軌道だ。私はその真相を証明する資料を探している。