映画は冒頭、ゴシップ週刊誌、「週刊テラス」で記者をしている田中武志(妻夫木聡)が妹、光子(満島ひかり)を拘置所に訪ねるシーンで始まる。光子は生まれた子にほとんど食事を与えず衰弱させた育児放棄の疑いで取り調べを受けているのだ。
光子との接見後、武志は不安を振り払うように、1年前に起こった未解決のままの一家惨殺事件の取材を上司に願い出、のめり込むように取材を重ねていく。
事件から1年を経た取材で語られる事件と被害者のこと。そして、そこから真実が明らかになった時、この物語は全く別の顔を見せることになる。
貫井徳郎の同名の原作を映画化した『愚行録』はミステリ作品だが、最後に意外な犯人と事件の真相が明らかになるだけではない。犯人が明らかになった瞬間、それまでの何気ないシーン一つひとつが全く違う意味を持って立ち上がってきて、ちょうど図と地が反転するように、この物語全体がそれまで見えていたのと全く違うものであったことがわかる。一言で言えば、だまし絵のようなミステリ──それが『愚行録』だ。
こうした趣向は前例がないわけではない。中でも最も有名な作品はジョン・ディクスン・カーの『火刑法廷』(ハヤカワ・ミステリ文庫)だろう。ミステリ評論家の瀬戸川猛資はエッセイ『夜明けの睡魔』の中で『火刑法廷』を、「あまりにもアクロバットが凄すぎて、それがアクロバットであることすらわからなくなってしまった作品」と評している。私も中学の時に読んで、ぶっ飛んだことを覚えている。
映画『愚行録』は、そのアクロバットを映像の中でやってのけた作品であり、それがわかった瞬間、私は頭の中で唸った──のだが、『火刑法廷』を読んだ時のような驚きはなく、むしろ「あー、アレをやったのか」と思いながら、心の中は意外なほど冷めていた。それは、これまであまたのミステリを読んできて、この手の作品にも慣れているから、というだけではない何かがあった。
それが何なのか、実は今もまだよくわからないでいる(映画を見たのは3/1のことだった)。ただ1つにはディテイルの問題があるような気がする。これは映画というよりも原作の問題なのだが。
田中武志が、ちょうど犯行から丸1年になるので一家惨殺事件の再取材をやらせてほしい、と願い出た時、同僚は「日々、ゴシップ記事になるような出来事が起きている中で、もう誰も覚えていないような、あんな事件を何でまたほじくり返す必要がある?」と悪態をつく。実際、かつての事件現場に行っても他にどこも取材に来ておらず、武志は1人で真相につながるような新たな証言を次々とものにすることができた。
そのことはあのクライマックスのために必要な要素なのだが、しかし例えば2000年の12月30日に起こった世田谷一家殺害事件が、いまだに年末になるとニュースに取り上げられるように、幼い子供を含む一家3人が惨殺され、未解決のままになっている事件を、1年の節目になるのにどこのマスコミも取り上げない、というのは極めて不自然だ。また、武志が再取材によって掘り起こした証言についても、マスコミの取材力ということを考えると、事件直後に既にどこかの社が取り上げていたとしても不思議ではないものが大半で、証言内容に被害者の知人が事件から1年たって初めて語ったという必然性が感じられない。
つまり、どんでん返しから逆算して設定を決めたために、最も重要な物語のリアリティが損なわれてしまっているのだ。
ミステリとはそれ自体極めて人工的なものであり、だから多少の不自然さは目をつむる、という暗黙の了解があるが、『愚行録』のような話はとにかく物語としてどこまでもリアルでないと、クライマックスでの「1つのリアルが一瞬で別のリアルへと反転する」という仕掛けが単なる絵空事になってしまう。
問題はこれだけではないと思うが、『愚行録』については、なまじよくできていただけに、私としては非常に残念な作品だった、とだけ言っておこう。
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