雨降る新宿花園神社、現れ出でたる紅テント…
ゴールデンウィーク最後の日、雨の中を花園神社に唐組の春の公演を観に行ってきた。タイトルは『行商人ネモ』。TOBを仕掛けられ身売りすることになった、ある紳士服メーカーを退職し、その退職金代わりに受け取った75本の白いスラックスを行商するネモ。しかし、彼にはそのスラックスが自分の仲間のように思えて、行商に出ても商品を売ることができない。そして最後に、彼はそのスラックスの仲間たちに、新たな仲間(人間の)を乗せた行商屋台「ノーチラス(脳散らす
)号」を動かし、新たな世界へと旅立っていく──という、これはジュール・ヴェルヌの名作『海底二万マイル』をモチーフにした(のか、ホントに?
)唐十郎(から じゅうろう)の新作である。
唐十郎の描く世界を最も簡潔に言い表すなら「妄想」という言葉が一番ピッタリくるかもしれない。唐のシナリオに出てくる人間たちは皆、何がしかの妄想を抱き、妄想に取り憑かれている。登場人物たちの抱く妄想が現実に直面した時に起こるダイナミックなうねりが、唐の作品世界そのものと言っていい。その具体的な姿を、唐が状況劇場解散後に新たに旗揚げした唐組の、第1回公演作品『さすらいのジェニー』を例に見てみよう。
唐版『さすらいのジェニー』は、ポール・ギャリコ原作の『Jeny』の邦訳『さすらいのジェニー』(注1)の後日談という設定の中に、唐十郎の妄想世界が展開される。主人公は、自分はギャリコの『さすらいのジェニー』に登場する猫のピーターがその後、人間になった存在だと信じているピタ郎。そしてピタ郎は、同じく人間になったであろう、自分にとっての運命の人、ジェニーを捜している。そして、水を青く甘い液体に変える“さすらいジュースの素”を持った、人間になったジェニーと出会うのだ。ジェニーもまた、自分がかつては路地裏に暮らす猫であり、それが人の姿になったと信じている。
だが、ジェニーにはそうした妄想の中の自分とは別の、もう一つの自分がいた。彼女はかつて人工甘味料チクロ(注2)を開発し、その催奇性により世間から指弾され、社会的に抹殺されてしまった男の恋人(だったと思うが、やや記憶が曖昧)でもあり、その男の心の支えだった。彼女は、またいつか男の発明が社会から認められる日が来ると信じ、その一助になろうとしていた。彼女が持っていた“さすらいジュースの素”とは、実は発売が禁止されていた、チクロ入り粉末ジュースの素(注3)だったのである。
自分の女が、世に出てはならないはずのチクロ入り粉末ジュースの素を配っていたことで、男は窮地に立たされる。そして、二枚の舌を持ち、妄想と現実の間を自由に行き来するベロ丸らの暗躍により、女=ジェニーは妄想の世界でピタ郎を取るか、現実の世界に留まってチクロを開発した男を取るか、その選択を迫られることになり、ついに彼女はその妄想と現実の間で引き裂かれてしまうのだ。
『さすらいのジェニー』では、ラストで舞台の向こう側が開き、五輪真弓の『恋人よ』のイントロ部分が繰り返し流れる中(注4)、ジェニーはピタ郎のたらいの舟に乗せられ、その舟は外の世界(本当に劇場の外)へと漕ぎ出していくのだった(と思うが、記憶が曖昧)。
(注1)後に別の出版社からも『ジェニー』という題で邦訳が出た。
(注2)チクロは砂糖、サッカリンに代わる人工甘味料として開発された。安価に製造でき、甘さは砂糖の数倍だったことから、昭和40年代前半には安い駄菓子などに大量に使われた。しかし、その後、催奇性があることが判明、使用を禁じられた。
(注3)昭和40年代には、水に溶かすだけでメロン味やイチゴ味のジュースができる、という触れ込みで、こうした粉末ジュースの素が駄菓子屋などで1袋10円くらいで売られていた。
(注4)唐の舞台では、歌謡曲のイントロや映画のサントラなどが演目ごとにテーマ曲として使われていて、『さすらいのジェニー』ではそれが五輪真弓の『恋人よ』のイントロ部分だった。ちなみに『行商人ネモ』では、『墨攻』と『硫黄島からの手紙』のサントラがテーマ曲として使われていた。
このように唐の芝居では、妄想と現実は同じ価値を持ち、それどころか登場人物たちは、それと承知で妄想の方を選ぼうとする。商品であるスラックスを仲間のように思うネモも、自分は元は猫だったと信じるジェニーも、実は妄想の方を選んでしまった人たちなのだ。それゆえ、彼らは現実との狭間でズタズタにされてしまう。しかしなお、彼らは妄想を手放すことをしない。それは、妄想を選んでしまった彼らにとって、妄想こそがレゾン・デートル(=存在理由)だからなのかもしれない。
そして、唐の舞台では最後に大きな仕掛けが待っている。それが、舞台の壁が崩れ去り、外の世界とつながる
、ということである。ここで、芝居の中で現実であったものも、外(=我々が生きている、この世界)から見ると実は唐十郎の頭の中の妄想であったことが明らかになる。そして登場人物たちは外へと歩み出していく。それはある意味、芝居という妄想の世界で繰り広げられた「夢の終わり」であると同時に、妄想が(芝居の中の現実ではない、本当の)現実の中に入り込んでいくようでもある。
そう、妄想はまだ終わってはいない。妄想の中に住む者たちにとって妄想が現実であるように、現実もまた妄想なのかもしれない。
無間地獄のうつし世に、魔性のものの声がする…
ゴールデンウィーク最後の日、雨の中を花園神社に唐組の春の公演を観に行ってきた。タイトルは『行商人ネモ』。TOBを仕掛けられ身売りすることになった、ある紳士服メーカーを退職し、その退職金代わりに受け取った75本の白いスラックスを行商するネモ。しかし、彼にはそのスラックスが自分の仲間のように思えて、行商に出ても商品を売ることができない。そして最後に、彼はそのスラックスの仲間たちに、新たな仲間(人間の)を乗せた行商屋台「ノーチラス(脳散らす
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_tehe.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_ase2.gif)
唐十郎の描く世界を最も簡潔に言い表すなら「妄想」という言葉が一番ピッタリくるかもしれない。唐のシナリオに出てくる人間たちは皆、何がしかの妄想を抱き、妄想に取り憑かれている。登場人物たちの抱く妄想が現実に直面した時に起こるダイナミックなうねりが、唐の作品世界そのものと言っていい。その具体的な姿を、唐が状況劇場解散後に新たに旗揚げした唐組の、第1回公演作品『さすらいのジェニー』を例に見てみよう。
唐版『さすらいのジェニー』は、ポール・ギャリコ原作の『Jeny』の邦訳『さすらいのジェニー』(注1)の後日談という設定の中に、唐十郎の妄想世界が展開される。主人公は、自分はギャリコの『さすらいのジェニー』に登場する猫のピーターがその後、人間になった存在だと信じているピタ郎。そしてピタ郎は、同じく人間になったであろう、自分にとっての運命の人、ジェニーを捜している。そして、水を青く甘い液体に変える“さすらいジュースの素”を持った、人間になったジェニーと出会うのだ。ジェニーもまた、自分がかつては路地裏に暮らす猫であり、それが人の姿になったと信じている。
だが、ジェニーにはそうした妄想の中の自分とは別の、もう一つの自分がいた。彼女はかつて人工甘味料チクロ(注2)を開発し、その催奇性により世間から指弾され、社会的に抹殺されてしまった男の恋人(だったと思うが、やや記憶が曖昧)でもあり、その男の心の支えだった。彼女は、またいつか男の発明が社会から認められる日が来ると信じ、その一助になろうとしていた。彼女が持っていた“さすらいジュースの素”とは、実は発売が禁止されていた、チクロ入り粉末ジュースの素(注3)だったのである。
自分の女が、世に出てはならないはずのチクロ入り粉末ジュースの素を配っていたことで、男は窮地に立たされる。そして、二枚の舌を持ち、妄想と現実の間を自由に行き来するベロ丸らの暗躍により、女=ジェニーは妄想の世界でピタ郎を取るか、現実の世界に留まってチクロを開発した男を取るか、その選択を迫られることになり、ついに彼女はその妄想と現実の間で引き裂かれてしまうのだ。
『さすらいのジェニー』では、ラストで舞台の向こう側が開き、五輪真弓の『恋人よ』のイントロ部分が繰り返し流れる中(注4)、ジェニーはピタ郎のたらいの舟に乗せられ、その舟は外の世界(本当に劇場の外)へと漕ぎ出していくのだった(と思うが、記憶が曖昧)。
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このように唐の芝居では、妄想と現実は同じ価値を持ち、それどころか登場人物たちは、それと承知で妄想の方を選ぼうとする。商品であるスラックスを仲間のように思うネモも、自分は元は猫だったと信じるジェニーも、実は妄想の方を選んでしまった人たちなのだ。それゆえ、彼らは現実との狭間でズタズタにされてしまう。しかしなお、彼らは妄想を手放すことをしない。それは、妄想を選んでしまった彼らにとって、妄想こそがレゾン・デートル(=存在理由)だからなのかもしれない。
そして、唐の舞台では最後に大きな仕掛けが待っている。それが、舞台の壁が崩れ去り、外の世界とつながる
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そう、妄想はまだ終わってはいない。妄想の中に住む者たちにとって妄想が現実であるように、現実もまた妄想なのかもしれない。
無間地獄のうつし世に、魔性のものの声がする…
ここが考えるスタートだと思う。