深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

量子論が語るもの 第1部

2010-01-03 17:05:21 | 心身宇宙論

スピリチュアル・ヒーラーや成功哲学の指導者を標榜する人たちは、量子論が好きだ。ヒーリングや成功法則を量子論と関連づけて述べたものをしばしば目にする。その代表的なものが「『思考は現実化する』ことが量子論で説明できる」というものである。もう少し詳しく述べると、「量子論によれば、量子は観測者の意識によって波としても粒子としても観測される。それは『世界はそれを見る者の意識のあり方によって変化する』ということであり、それはすなわち『意識こそが現実を作る』ということだ」という言説である。

だが、このように量子論を持ち出す人たちのうち、そもそも量子論とは何かがわかっているのは、どれほどいるのだろうか?──チャールズ・サイフェの『宇宙を復号(デコード)する 量子情報理論が解読する、宇宙という驚くべき暗号』(早川書房刊)を読みながら、そんなことを考えていた。

この『宇宙を復号(デコード)する』という本は、はじめ北千住の丸井で見かけた時、キネシオロジーの筋反射テスト(筋肉反応テスト)で「絶対買っとけ~」という反応が出て買ったのだが、その後、多くなりすぎた本を実家に送ったり売ったりする中で、いつの間にか所在が分らなくなってしまっていた。それが、市立図書館で年末年始に読む本を物色していてたら、そこにあったのが目に止まり、さっそく借りてきて読んでみると、相対論、量子論、更にその先の量子情報理論について、非常にコンパクトかつ明快にまとまった名著であり、改めて筋反射テストの結果に感服した次第。

さてここからは、最初に述べた言説について考えていきたいのだが、そのためにはかなりの準備が必要になる。まずは量子の重ね合わせについて。なお、以下の引用は全て『宇宙を復号(デコード)する』からのものである。


(前略)電子はビームスプリッターに当たると同時に両方の道筋を進む。道筋Aと道筋Bのどちらかを選ぶのではない。二つに分かれることができないにもかかわらず、同時にどちらの道筋も進むのだ。一度に左にも右にも行く。同時に0と1を選ぶ。電子は、互いに排除しあう二つの選択肢に直面して、どちらも選ぶのだ。
 これは量子力学で「重ね合わせ」と呼ばれる原理だ。すなわち、「光子や電子あるいは原子のような量子的対象は(古典的に考えれば)矛盾しあう二つのことをしうる。あるいはもっと正確に言えば、同時に二つの相互に排除しあう量子状態を取りうる」ということだ。(中略)そして情報理論的に言えば、一個の量子的対象は同時に0と1でありうる。

(中略)

 この効果の奇妙さでは足りないというならまだつづきがある。話はさらに奇妙になっていくのだ。実はこの重ね合わせはもろく、崩れやすい。重ね合わせ状態にある対象を人が見たとたん、たとえば、ある電子が実際に0なのか1なのか、スピンアップなのかスピンダウンなのか、道筋Aと道筋Bのどちらを進むのかについて情報を得ようとしたとたん、電子は突然ランダムに(と思われる仕方で)どちらかを「選ぶ」。重ね合わせは破壊される。(中略)あたかも神が決着をつけるために宇宙のコインを投げたかのように。


ここで重要な点は、

電子は突然ランダムに(と思われる仕方で)どちらかを「選ぶ」

という部分にある、と思われる。それは本当に数学的な意味でランダムなのか、それとも観察者の意思が影響するのか──それによって、最初に述べた、量子論に基づくとされる言説が正しいのか間違っているのかが決まるからだ。だが、その前に有名な「シュレディンガーの猫」の思考実験について見ておこう。


 シュレディンガーの思考実験は、ある量子的対象が重ね合わせ状態にあるという状況から出発した。どんな重ね合わせ状態かは問題ではない。(中略)二つの選択肢0と1の重ね合わせなら何でもいいのである。しかしここでは、電子がビームスプリッターに当たって同時に二つの道筋を進むのだとしよう。どちらの道筋も一つの箱に行き着く。箱の中には、かわいい小さな子猫がいる。道筋Aは行き止まりだ。電子がこの道筋を選んでも何も起こらないい。こちらを0とする。一方、道筋Bは電子検出器に通じている。電子が検出器に当たると検出器は電子モーターに信号を送り、モーターはハンマーを落とす。ハンマーは、子猫が入っている箱の中にある毒の小瓶を割り、あわれな子猫は即死する。こちらが1だ。電子が道筋Bをとる、すなわち1が選ばれるということは、子猫が死ぬということだ。
 それではシュレディンガーのこの猫はどうなるのだろう。重ね合わせのおかげで、電子は同時に道筋Aと道筋Bを進む。同時に0にも1にもなる。(中略)したがって、子猫は死ぬとともに死なない。(中略)量子力学の法則にしたがえば、子猫そのものが重ね合わせ状態にあるということになる──同時に生きてもいるし死んでもいるのだから。

(中略)

 だが、驚くのはまだ早い。話はもっとおかしくなるのだ。この重ね合わせ状態が存続しうるのは、だれも箱を開けないかぎりのことだ。猫が生きているか死んでいるか、状態0にあるか状態1にあるかについてだれかが情報を引き出した瞬間に、(中略)ネコが死を「選ぶ」のだ。そして突然、0か1かが決められる。しかし原理的に箱を手つかずままにしておくかぎり、つまりネコと箱からなる系について何も情報を引き出さないかぎり、ネコの重ね合わせは乱されないままだ。(中略)これはあたかも、観測という行為、情報を引き出すという行為がネコを殺すかのようだ。情報は時に命取りな結果を生むのである。この不条理に聞こえる結論は、重ね合わせの原理から導き出される避けられない結論のように思われた。

(中略)

 こうして私たちはパラドクスに行き着いた。量子論の数学にしたがえば、科学者は野球ボールやネコのような大きな物体も重ね合わせ状態に置くことができるはずであるように思われる。しかし、野球ボールが一度に二ヵ所にありえる、また、ネコが同時に生きてもいるし死んでもいることがありえるなど、考えるにもばかばかしい。量子力学の法則が巨視的な物体にもあてはまるなら、巨視的な物体はなぜ量子力学的対象のように振舞わないのか。これでは筋が通らない。


つまり、量子論はあくまで量子レベルの極微小な世界にしか適用できないのである(それはなぜなのか、ということについては後述)。とすると、観測によって電子が0か1かを「選ぶ」際、そこに観測者の意識が影響するかどうかはともかく、観測あるいは観測者によって変化する範囲は、あくまでミクロなレベルだけに留まるように思われるのだ(注)

この話はまだ続くのだが、長くなったのでいったんここで中断。続きはあとで。

(注)ここで言わんとしているのは、「思考が現実化する」というのは嘘だ、とか、どのような意識を持っても何も変わらない、ということを示すことではない。「そうした考え方が量子論によって裏づけられている」という言説が、果たしてその通りなのかどうかを、もう一度量子論に立ち戻って考えてみよう、ということである。誤解なきよう。


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3 コメント

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Unknown (ハリセンボン)
2010-01-07 23:17:37
第二部が待ち遠しいですぅぅ
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Unknown (通りすがり)
2010-01-08 10:26:51
パラレルワールド的ですね。

たぶんスプリッターで無限に分ける事が出来るでしょう。

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第2部upしました。 (sokyudo)
2010-01-08 12:00:52
>ハリセンボンさん

リクエストにお答えして?、第2部upしました。でも、これで終わりじゃありません。


>通りすがりさん

コメントありがとうございます。
量子論は実に不可解です。だからこそ、人を引きつけてやまない魔力があるのでしょうね。
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