2022年夏期のアニメの中でも、一部で異様な盛り上がりを見せた『リコリス・リコイル』(長いので以下『RR』。正しくは『LR』だが、カタカナの『リコリス・リコイル』の略ならこっちの方がいいだろう)。この『RR』には、監督自身が明らかにしているように、下敷きとなった作品がある。それが『GUNSLINGER GIRL』(長いので以下『GG』)である。
アニメ『GG』は相田裕の同名のマンガが原作で、その原作マンガは2002年7月から2012年11月に雑誌連載されたが、アニメは第1期が2003年、第2期が2008年に放送された(ちなみに、その第2期は視聴者から批判が殺到して炎上する騒ぎになった。その経緯は非常に面白いが、この記事の趣旨から外れるのでここでは触れない。興味がある人は自分で調べてみ)。なお私は『GG』は第1期しか見ていないので、以降の『GG』についての記述は第1期のものに基づいている。
さて、『GG』と『RR』という2つの作品のアウトラインを述べると──
まず現代のイタリアが舞台の『GG』。主人公の少女、ヘンリエッタたちが所属する社会福祉公社は、表向きは障害者支援を行う公益法人だが、その実態は、さまざまな理由で心身に傷を負い、身寄りのなくなった少女たちに、身体能力を強化させる義体(サイボーグ)化手術と、「条件づけ」と呼ばれる薬による洗脳を行い、彼女たちを先兵として秘密裏に反政府勢力を掃討する活動を行う組織である。義体化と「条件づけ」は戦闘において力を発揮するが、肉体と精神に対する負荷は大きく、記憶障害などを引き起こす少女もいる上、長くは生きられない。そして彼女たちもそのことはハッキリと分かっている。
対する『RR』は現代の日本が舞台のオリジナル・アニメ。主人公の錦木千束(にしきぎ ちさと)と井ノ上たきなは、孤児の少女たちを集めて作られた超法規的治安機関「リコリス」のメンバである。「リコリス」は警察よりずっと前から存在し、日本の治安にとって脅威となるものを密かに殺害、排除してきたとされている(なお、「リコリス」とは別に、少年たちだけを集めて作られた同様の組織「リリベル」も存在する)。あまり明確には語られないが、「リコリス」のメンバには年齢制限があって、18歳になると任務を解かれるようだ。
元々、薬で「条件づけ」され、命令を受けて人を殺すことを業務としているせいか、『GG』の義体化された少女たちは人の死に対して驚くほど冷淡だ。自分自身の命の短さについても知っているが、そのことでも感情が大きく動くことはない。諦めているわけでも達観しているわけでもなく、ただ事実を事実として受け入れているのである。だが、そんな少女たちにも感情的になることがある。それが自分の担当官との関係である。
彼女たちは日常的に自分の担当官に従うよう「条件づけ」され、、原則として作戦中は担当官と行動を共にする。同じ社会福祉公社の少女同士の横のつながりはあるが、少女たちにとって自分の担当官は、命すら預ける、よくも悪くも最も近いところにいる存在であり、それゆえどのペアも少女と担当官は、多かれ少なかれ何らかの屈折した思いや執着や歪みを抱えている(それが最も如実に表れていたのが、第1期のエルザとラウーロのペアが描かれたアニメ・オリジナル・エピソードだった)。
『GG』は、義体化した少女、ヘンリエッタとその担当官であるジョゼを中心に置きながら、1~2話完結でエピソードごとにフィーチャーされる少女(とその担当官)が変わる。物語が殺伐としているだけに、全体のトーンもほの暗く、乾いていて、どこか静謐な感じも漂う。少女たちのキャラデザは現在主流の“美少女系”や“萌え系”とは正反対で、表情も乏しい。アニメーションの作りも、今見るととさすがに古さは否めないが、ガンアクション・シーンのクオリティはかなり高い。
『RR』は、「リコリス」の本部、DA付きのメンバであった井ノ上たきなが、ある武器取引の現場で仲間を救おうとして容疑者を皆殺しにしてしまい、DA付きを解かれて元「リコリス」の訓練教官だったミカが店長を務める喫茶「リコリコ」(実は「リコリス」の末端)に異動させられるところから始まる。そこでたきなは、並外れた動体視力と反射神経を持ち、かつてDAで“天才”と呼ばれた少女、錦木千束と出会うのだが、たきなや千束が「リコリス」に入ることになった経緯が物語の中で語られることはない。だから、視聴者は彼女たちの(もしかしたら、非常に悲惨な)過去を一切意識することなく、2人の噛み合わない凸凹コンビが本物のバディになっていく様子を楽しく見ていられるのである。
制作はA-1 Picturesだが、キャラデザは思い切り京アニに寄せていて、京アニ風の美少女キャラと、目の覚めるようなガンアクション・シーンが『RR』最大の売りだろう。千束が「一切、人を殺すことはしない」という誓いを立てていることもあって、本当はかなり血なまぐさい作品のはずだが、視聴者に直接見せている範囲ではバトルシーンも含めてひたすら明るくポップな作りになっている。
ストーリーは、『GG』のように一話完結のエピソードを並べながら、その裏には千束と彼女の恩人である「ヨシさん」との因縁話があって、やがて全てのエピソードがそこに収斂していくように進む。この「ヨシさん」との因縁話の中に『GG』での義体化した少女と担当官のどこか歪んだ関係が垣間見えるが、そこに『GG』のような悲劇性はほとんど感じられない(あの心臓を巡るエピソードすら、ちょっと危ないギャグ程度のものでしかない)。それは『RR』という作品の持つトーンの明るさによるものなのだけれど、『GG』と『RR』を並べてみると、比較的似た設定のこの2つの作品のトーンの違いに驚かされる。『RR』制作陣が、あまり『GG』と似ないように敢えてそうした、ということはあるにしても、このテイストの差は一体どこから来ているのだろう?
上で私は『GG』の持つトーンを「ほの暗く、乾いていて、どこか静謐な感じ」と書いた。それに対して『RR』のトーンは、「どこまでも空虚な明るさ」だと思う。その差がゼロ年代と20年代との時代性にあるのかどうかは分からない(し、そもそも『RR』が20年代を代表するアニメ、というわけではないので、これを通して20年代を語ることは意味がない)が、やはりそこには何からの形で時代の空気感が滲み出ているのは事実だろう。その『RR』から滲み出る今の時代の空気とは、「気持ち悪いほどのやさしさ」であり、その1つの帰結が、コンプライアンスの名の下に差別的、暴力的と見なされたものをことごとく排除し、あらゆる「もの」や「こと」を徹底的に無毒化、無害化した“安心・安全な社会”である。「リコリス」でありながら決して誰も殺さないという、思い出の中の「ヨシさん」に呪縛された千束の行動原理の裏にあるのは、この「気持ち悪いほどのやさしさ」に他ならない。
そんな「気持ち悪いほどのやさしさ」に充ち満ちた『RR』も、最終回ではそんな「やさしさ」によって塗り込められた下にあるものが垣間見える瞬間があって、正直、心が躍った。「ここまでの薄っぺらさをラスト1回でひっくり返してくれるのか?」と。多分、制作陣はホントはこういうのを作りたかったのだろう。けれど、そんな素敵な瞬間もすぐに消えて、結局は意味もなく明るいだけの茶番劇で終わってしまった。だから私の中にある『RR』の印象は、ホワイトアウトしてしまったような、ただの「真っ白な無」である。
しかし「陽極まれば陰に転ず」という言葉もあるように、そろそろ「どこまでも空虚で明るく」、「気持ち悪いほどやさしい」時代は終わりつつあるような気がする。そして、ちょうどその転換点が「20年代を代表するアニメというわけでもない」この『RR』だったりしたら、とても面白いことだと思う。
視聴者の中には「小難しいことなんかどうでもよくて、美少女が派手なガンアクションをしてるのを見るだけで最高に萌えるし、もうお腹いっぱい」という人もいるだろう。それならそれでいいのだけれど、私などは「それならPVだけでよくね?」と思ってしまうのだ。
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