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なにかを成立させることよりも、成立させたくなるなにものかにむけて

2016-11-06 10:43:31 | 趣味人的レビュー

これはブクレコに投稿した『重力との対話 ―記憶の海辺から山海塾の舞踏へ―』のレビューを加筆したもの。

「なにかを成立させることよりも、成立させたくなるなにものかにむけて」──この一言だけで、この本を読んだ意味があったと思った。スピードこそが大事とされ、「取り敢えず何かテキトーにでっち上げてしまえ。そうすれば後は何とでもなる」という時代の中にあって、その対極を行くようなこの言葉と覚悟。これだけでもう、天児牛大(あまがつ うしお)がただ者でないことが知れる。ちなみにアマガツという名前の由来について、彼はこう記す。

幼児の魔除けとして枕もとに置いた形代(かたしろ)。その人型のことを、昔、日本ではアマガツと呼んだ。つまり人形以前の人形なるものとして、かつてアマガツなるものが我が国には存在していたのだ。ひるがえって舞踏家というものは、そうした様々な人の形を舞台に移しだす存在だといえる。だからこそ一人の舞踏家として考えたとき、自分の舞台上の名にアマガツという単語が入っていることは適切に思えた。


舞踏は麿赤兒(まろ あかじ)率いる大駱駝艦の公演を何度か見に行ったことがあるが、山海塾の公演はまだ見たことがない。日本での公演自体が多くない上に、何だかあまりに静かすぎて途中で寝てしまうようなイメージがあったからだ(あくまでイメージだが)。しかしこの『重力との対話』を読んで、山海塾の舞台を見に行きたくなった。

『重力との対話』は舞踏集団、山海塾を主宰する天児牛大の自叙伝であり、創作ノートであり、舞台哲学を記したものだ。彼が行うのは舞踏であり、そこには一言のセリフも出てこないはずだが、これを読むと彼が非常に注意深く言葉を選んで使っているのがよくわかり、彼の言葉に対する洞察と感性、そしてその背後にあるイマジネーションに圧倒される。それは「思考の密度」と言い換えてもいいかもしれない。「なにかを成立させることよりも、成立させたくなるなにものかにむけて」とは、そもそも圧倒的な「思考の密度」なしにはあり得ないのだから。

他に個人的に触発されたのは、「意識の糸」という一節に書かれた山海塾で行っている内的鍛錬の具体的な方法である。

それは強いて言葉にするなら「ていねいに」「静かに」という言葉がしっくりくる集中力。繊細で静謐で柔らかな意識の糸を保つ集中力こそが、舞台に立つうえで最も大切な能力のひとつだ。

と彼が書くその鍛錬法はこの『重力との対話』に詳しく述べられているので、興味のある方は実際に読まれるといいと思うが、そうして内的に鍛錬されて得られる「意識の集中」が、「思考の密度」と対になって天児牛大という人の持つ「身体の観念」を成り立たせているのだ。その「身体の観念」とは

個の身体の周縁(環境)を設定することで、決定される身体の在り方。その周縁(環境)は持続し断絶し変容する。また、身体のうちに体感を設定することは可能である。色、におい、質感、密度、感情など。この個の、いわば中心の設定も持続し断絶し変容する。周縁も中心も互いに変容し関係は変化していく。
仮想の設定は意識による所有であり、実際物を所有しないことで他の所有への移行、変化を可能にする。所有しない所有である。これはそこに不在であるからこそ世界にかかわり、世界を現前させるものとしてコスモロジカルなものである。


それにしても、彼が大駱駝艦の設立メンバの1人であることは知っていたが、そこは最初から舞踏集団を指向して創設されたわけではなかった、ということは、この本を読むまで全然知らなかった。
( ゚-゚)( ゚ロ゚)(( ロ゚)゚((( ロ)~゚ ゚ナント!!!

「もしあのとき……」と、人生の節目節目で問うていたらきりがない。ただもしも、大駱駝艦を設立するときに戯曲を提供してくれる人がいたら、私たちは舞踏ではなく演劇の道を歩んでいたかもしれない。だがそのとき周囲にはなぜか一人も戯曲提供者がいなかったため、麿さんは、自然と状況劇場以前につながりのあった土方巽(ひじかた たつみ)さんの身体表現のほうに立ち返っていったのだ。

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