【1981年】(2囘生)
カタバミの下宿
金曜日。
翌日からの鹿島槍登山へ向けて、この日はガスなどの消耗品や食糧などの買出し。
カタバミの下宿に泊めて貰ふ。
【1982年】(3囘生)
Y 11:30am
Nice Dream,
Soon Turned Nightmare!
土曜日。
手帳にはYとあるが、Hのこと。
前年5月25日にふられて 以來、1年5ヵ月ぶりの再會だ。
私の記憶の中では、もう一度逢はうといふ話はHから出たことになつてゐる。
たしか、ひるまにHから電話がかかつて來た筈だ。
私から、もう一度逢つてくれと懇願したとは思へない。
この頃には自分の中で片をつけてゐた筈なのだ。
それなのに、手帳にはHからかかつて來た電話の痕跡が殘つてゐない。
私の記憶が捏造されたものなのだらうか。
ともあれ、11時半に待ちあはせをしたらしい。
おそらく河原町四條の高島屋か阪急の前だらう。
ぼんやりとスパゲティを食べた氣がするが、定かではない。
私の記憶は一氣に夜へとスキップする。
ひるま何をしてゐたのか、まつたく覺えてゐないのだ。
夜になつて、河原町通りの四條から三條に上がる右手(東側)のビルの2F、「Ski Club」といふパブで飮んだ。
思へば、これがHと酒を飮んだ始めであつた。
この1年半の間、どんな生活をしてきたか、なんて話をしたと思ふ。
久しぶりのHとの會話は夢のやうに樂しかつた。
そして、酒が入るにつれて、なんでオレはふれらたんだらうといふ究極の疑問が浮んで來て、その質問をHにぶつけた筈だ。
筈だ、といふのは、いまとなつてはよく覺えてゐないのだ。
それが時間の所爲なのか酒の所爲なのかはわからない。
でも、その質問にかんして何らかの答へを得た記憶がある。
さらに酒が入り、私はHをくどいた。(に違ひない)
また、つきあってくれ、と。
ダメモトで口に出したのだが、いちど口にするとそれをなんとか實現したいと思ふやうになり、ひたすら懇願した。(のではないかと思ふ)
氣がついたら、11時を廻つてゐた。
歸らなくてはといふHを、まあまあと引き止めてゐるうちに電車がなくなつた。
今更ながらではあるが、Hは家に電話をかけに席を立つた。
しばらくして戻つてくると、「父が仙丈くんを出せと云つてる」といふ。
二人で電話ボックスに入り、電話をかけた。
父君は烈火のごとく怒つてをられた。
その後で母君が電話に出た。
「仙丈くん、責任もつてHを家まで送つてね。タクシー代はこちらでもつから」
午前0時の河原町。
神戸市の西の端まで行つてくれるタクシーはなかなかみつからなかつた。
タクシー會社のクルマは乘務員交代といふのがあるらしく、いまからそんなところまで行つたら交代時間までに戻つて來られないといふことらしかつた。
やつとのことで個人タクシーを見つけて、西へと向つた。
Hの家についたのは午前2時近かつたと思ふ。
ここからが、じつに恥づかしい記憶になる。
思ひ出すだに、消え入りたくなる。
父君のお叱りにたいして、申し譯ありませんといふ姿勢でゐた私だつたが、つまらぬことで逆ギレしてしまつたのだ。
當時は「逆ギレ」などといふ言葉はなかつたが、まさにその言葉通りの振る舞ひ。
父君が、自分の言葉によつてさらに激昂して來たのか、「おまへ」といふ言葉を使つた。
私はすでにいつぱしのオトナのつもりだつたので、親しくもない相手から「おまへ」と云はれることに大きな抵抗があつた。
で、云つてしまつたのだ。
「あなたにおまへと云はれる覺えはありません」
青年の未熟な自意識、生硬な自尊心のなせることとはいへ、どれだけ失禮なもの云ひをしたものか。
それをきつかけに、私はそれまで云ひたかつたけれど我慢してゐたことを口にだした。(やうな氣がする)
「あなたの娘は22歳、立派なオトナです。それが門限を破つたからと云つて一緒にゐた男を非難するのはお門違ひといふものではありませんか」とか。(たぶん)
いまの私はかつての父君と同じ位の年になつてゐる。
22歳の青年にそんな生意氣な口をきかれやうなものなら、私なら手をあげてゐたかもしれない。
情けないことに、その後のことは覺えてゐない。
翌朝どんな顏で父君と顏を合せたのだらうか?
それとも、私の顏を見ずにすむやうに父君はゴルフの練習にでも出かけてゐたのだらうか・・・
この出來事の後、あたりまへだが、しばらくHとは逢へなかつた。
つぎに逢へたのは2ヵ月後のことだつた。
【1983年】(4囘生)
關教パーティー。クマシタさん婚約
クマシタさんとダンス。スミイさんは、still Free。
カワムラ宅に泊
日曜日。
當時私は枚方で塾の講師をしてゐたが、その本部は奈良・富雄にあつた。
手帳にある「關教」はその本部の名前を勝手に短くしたもの。
この日はパーティーがあつた。
本部で講師をしてゐるクマシタさん(女性)が婚約したので、そのお祝ひだ。
クマシタさんはKGの學生で、私と同じ4囘生。
枚方の講師と本部の講師は多少ながら交流があり、私はクマシタさんと何囘か酒を飮んだことがあつた。
さすがにKGの學生だけあつてあか拔けてゐて、一緒に遊んでゐてもリードされてゐるやうな感じだつた。
2次會でカラオケスナックのやうなところへ行つた。
誰かがムーディな曲を歌つてゐる時に、クマシタさんとチークを踊つた。
それまでにもチークを踊つたことはあつたが、もうぢき人妻かと思ふとなんかゾクソクした。(オレは變態か?)
で、調子に乘つてスミイさんとも踊つたのだが、こちらは迷惑だつたみたい。
スミイさんはクマシタさんの友達で、大學は私と同じ。
本學には珍しく美人だつたが、惜しむらくは金剛石の如くかたかつた。
宴のあとはカワムラ邸へ。
カワムラは高校の同窓で、枚方で一緒に塾の講師をしてゐる仲間。
母君となぜか 森有禮 の話をしたり、 淡嶋神社 の話をしたのを覺えてゐる。
ただ、私が森有禮の話をしてゐるのに母君は 森有正 のことを話してゐたりと、微妙に噛み合つてゐなかつたところもあつたやうな氣が・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<1982年>
10月9日:京都。Hと飮む。~H宅。
12月10日:シンフォニーホール。ヘンデルのメサイヤ
12月24日:梅田。クリスマスイヴ。
<1983年>
2月18日:花房晴美リサイタル。ベートーヴェン:ピアノソナタ第32番ほか。
5月14日:京都。「楢山節考」。
5月26日:大阪城など。(秋田沖地震)
6月2日:みゅーず → 圓山公園 → 枚方。
6月11日:「細雪」 → 須磨海岸。
6月17日:藤原眞理のチェロ。
7月20日:ピカソ展 ~ 銀閣寺。
8月2日:鞍馬寺、夕立。
9月23日:H宅訪問。
10月1日:三宮、「陽暉楼」。
カタバミの下宿
金曜日。
翌日からの鹿島槍登山へ向けて、この日はガスなどの消耗品や食糧などの買出し。
カタバミの下宿に泊めて貰ふ。
【1982年】(3囘生)
Y 11:30am
Nice Dream,
Soon Turned Nightmare!
土曜日。
手帳にはYとあるが、Hのこと。
前年5月25日にふられて 以來、1年5ヵ月ぶりの再會だ。
私の記憶の中では、もう一度逢はうといふ話はHから出たことになつてゐる。
たしか、ひるまにHから電話がかかつて來た筈だ。
私から、もう一度逢つてくれと懇願したとは思へない。
この頃には自分の中で片をつけてゐた筈なのだ。
それなのに、手帳にはHからかかつて來た電話の痕跡が殘つてゐない。
私の記憶が捏造されたものなのだらうか。
ともあれ、11時半に待ちあはせをしたらしい。
おそらく河原町四條の高島屋か阪急の前だらう。
ぼんやりとスパゲティを食べた氣がするが、定かではない。
私の記憶は一氣に夜へとスキップする。
ひるま何をしてゐたのか、まつたく覺えてゐないのだ。
夜になつて、河原町通りの四條から三條に上がる右手(東側)のビルの2F、「Ski Club」といふパブで飮んだ。
思へば、これがHと酒を飮んだ始めであつた。
この1年半の間、どんな生活をしてきたか、なんて話をしたと思ふ。
久しぶりのHとの會話は夢のやうに樂しかつた。
そして、酒が入るにつれて、なんでオレはふれらたんだらうといふ究極の疑問が浮んで來て、その質問をHにぶつけた筈だ。
筈だ、といふのは、いまとなつてはよく覺えてゐないのだ。
それが時間の所爲なのか酒の所爲なのかはわからない。
でも、その質問にかんして何らかの答へを得た記憶がある。
さらに酒が入り、私はHをくどいた。(に違ひない)
また、つきあってくれ、と。
ダメモトで口に出したのだが、いちど口にするとそれをなんとか實現したいと思ふやうになり、ひたすら懇願した。(のではないかと思ふ)
氣がついたら、11時を廻つてゐた。
歸らなくてはといふHを、まあまあと引き止めてゐるうちに電車がなくなつた。
今更ながらではあるが、Hは家に電話をかけに席を立つた。
しばらくして戻つてくると、「父が仙丈くんを出せと云つてる」といふ。
二人で電話ボックスに入り、電話をかけた。
父君は烈火のごとく怒つてをられた。
その後で母君が電話に出た。
「仙丈くん、責任もつてHを家まで送つてね。タクシー代はこちらでもつから」
午前0時の河原町。
神戸市の西の端まで行つてくれるタクシーはなかなかみつからなかつた。
タクシー會社のクルマは乘務員交代といふのがあるらしく、いまからそんなところまで行つたら交代時間までに戻つて來られないといふことらしかつた。
やつとのことで個人タクシーを見つけて、西へと向つた。
Hの家についたのは午前2時近かつたと思ふ。
ここからが、じつに恥づかしい記憶になる。
思ひ出すだに、消え入りたくなる。
父君のお叱りにたいして、申し譯ありませんといふ姿勢でゐた私だつたが、つまらぬことで逆ギレしてしまつたのだ。
當時は「逆ギレ」などといふ言葉はなかつたが、まさにその言葉通りの振る舞ひ。
父君が、自分の言葉によつてさらに激昂して來たのか、「おまへ」といふ言葉を使つた。
私はすでにいつぱしのオトナのつもりだつたので、親しくもない相手から「おまへ」と云はれることに大きな抵抗があつた。
で、云つてしまつたのだ。
「あなたにおまへと云はれる覺えはありません」
青年の未熟な自意識、生硬な自尊心のなせることとはいへ、どれだけ失禮なもの云ひをしたものか。
それをきつかけに、私はそれまで云ひたかつたけれど我慢してゐたことを口にだした。(やうな氣がする)
「あなたの娘は22歳、立派なオトナです。それが門限を破つたからと云つて一緒にゐた男を非難するのはお門違ひといふものではありませんか」とか。(たぶん)
いまの私はかつての父君と同じ位の年になつてゐる。
22歳の青年にそんな生意氣な口をきかれやうなものなら、私なら手をあげてゐたかもしれない。
情けないことに、その後のことは覺えてゐない。
翌朝どんな顏で父君と顏を合せたのだらうか?
それとも、私の顏を見ずにすむやうに父君はゴルフの練習にでも出かけてゐたのだらうか・・・
この出來事の後、あたりまへだが、しばらくHとは逢へなかつた。
つぎに逢へたのは2ヵ月後のことだつた。
【1983年】(4囘生)
關教パーティー。クマシタさん婚約
クマシタさんとダンス。スミイさんは、still Free。
カワムラ宅に泊
日曜日。
當時私は枚方で塾の講師をしてゐたが、その本部は奈良・富雄にあつた。
手帳にある「關教」はその本部の名前を勝手に短くしたもの。
この日はパーティーがあつた。
本部で講師をしてゐるクマシタさん(女性)が婚約したので、そのお祝ひだ。
クマシタさんはKGの學生で、私と同じ4囘生。
枚方の講師と本部の講師は多少ながら交流があり、私はクマシタさんと何囘か酒を飮んだことがあつた。
さすがにKGの學生だけあつてあか拔けてゐて、一緒に遊んでゐてもリードされてゐるやうな感じだつた。
2次會でカラオケスナックのやうなところへ行つた。
誰かがムーディな曲を歌つてゐる時に、クマシタさんとチークを踊つた。
それまでにもチークを踊つたことはあつたが、もうぢき人妻かと思ふとなんかゾクソクした。(オレは變態か?)
で、調子に乘つてスミイさんとも踊つたのだが、こちらは迷惑だつたみたい。
スミイさんはクマシタさんの友達で、大學は私と同じ。
本學には珍しく美人だつたが、惜しむらくは金剛石の如くかたかつた。
宴のあとはカワムラ邸へ。
カワムラは高校の同窓で、枚方で一緒に塾の講師をしてゐる仲間。
母君となぜか 森有禮 の話をしたり、 淡嶋神社 の話をしたのを覺えてゐる。
ただ、私が森有禮の話をしてゐるのに母君は 森有正 のことを話してゐたりと、微妙に噛み合つてゐなかつたところもあつたやうな氣が・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<1982年>
10月9日:京都。Hと飮む。~H宅。
12月10日:シンフォニーホール。ヘンデルのメサイヤ
12月24日:梅田。クリスマスイヴ。
<1983年>
2月18日:花房晴美リサイタル。ベートーヴェン:ピアノソナタ第32番ほか。
5月14日:京都。「楢山節考」。
5月26日:大阪城など。(秋田沖地震)
6月2日:みゅーず → 圓山公園 → 枚方。
6月11日:「細雪」 → 須磨海岸。
6月17日:藤原眞理のチェロ。
7月20日:ピカソ展 ~ 銀閣寺。
8月2日:鞍馬寺、夕立。
9月23日:H宅訪問。
10月1日:三宮、「陽暉楼」。
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