【1980年】(1囘生)
松本 ~ 豐科 ~ 須佐渡 ~ 東澤出會C1
6:30 澤渡(さわんど) C1 ~ 12:30 上高地 C2
火曜日。
當初の豫定では、この日松本を出發して蝶ヶ岳に向ふことにしてゐた。
しかし、天候の見通しが思はしくなかつたので、出發を1日早め、コースもリスクの低い 上高地經由の長塀尾根ルート に變更した。
前日のうちに松本を出て、松本地鐵で新島々、そこからバスで澤渡(さわんど)まで入つてゐた。
澤渡を出發し、無雪期ならバスの走る道路をひたすら歩く。
天候は雪。
雪はまるで氷のやうにガチガチに固つてゐて、つるつる滑つてとても歩き難い。
20kgを超える荷物を背負つてゐるので、バランスを崩すと立直すのが難しく轉びさうになる。
だからと云つてアイゼンを裝着すると今度は雪が少ないところで歩き難いし、そもそも平地でアイゼンをつけることには山屋として抵抗があつた。
さらに難儀だつたのがトンネル。
上高地までいくつものトンネルがあつたが、1kmを超えるやうな長いトンネルもいくつかあつた。
その中でも長かつたのは、上高地の手前の最後の難關、「釜トンネル」だ。
ヘッドライトをつけて歩くのだが、眞つ暗で足元の狹い範圍しか見えないので愼重に歩く。
しかし、ヘッドライトの光量では地面(雪面)の凹凸が判らず、バランスを崩して何度か轉んでしまつた。
「釜トンネル」といへば幽靈が出ることで有名なのだが、轉ばないやうに神經を集中してゐた所爲か幽靈は出てこなかつた。
上高地に着いたのは12時半。
澤渡からちやうど6時間かかつた。
小梨平でテントを張る。
夏場ならテントだらけになるところだが、冬のこの季節、ここにテントを張るパーティーは少ない。
お蔭で靜かで良かつた。
夕方から雪が激しくなり、ドームテントの上にまで雪が積るやうになつた。
時々テントの中から天井を突き上げて雪を落す。
この分だと明日は上に行けないな。
さう話しつつ眠りに落ちた。
【1982年】(3囘生)
富雄 冬期講習6日目
酒:ミヤシタ、ヤマムラ at 無法松
木曜日。
中3の國語。
奈良・富雄から歸つて來て、夜は酒。
ミヤシタは高校の同級生で、同じ大學の4囘生。
ヤマムラはアパートの友人で、産大の3囘生。
2人は時々アパートで一緒に麻雀をしてゐたので面識はあつた。
學生は25日を過ぎると歸省する者が多く、この日まで殘つてゐたのは私とヤマムラだけだつたと思ふ。
ミヤシタが何故こんな遲くまで京都に殘つてゐたのかわからないが、お蔭で元日には彼のクルマに便乘して歸省することが出來た。
飮んだところは 「無法松」 。
叡電「八幡前」驛にある居酒屋だ。
アパートから近いので晩飯で定食を食べたり、アパートの連中と飮んだりしたこともあつたが、店のジジイと喧嘩したことがあつて、それ以來使はなくなつた。
あまりに遲いので催促したら注文が通つてゐなくて、それでゐながら謝りもしないで言ひ譯ばかりするジジイに腹が据ゑかねたのだ。
この日行つてゐるところを見ると、使はなくなつたのは83年以降だつたのだらう。
食べログで見たら、いまだにあるらしい。
それもそこそこ人氣があるやうだ。
とつても意外だ。
あのジジイは、さすがにもうこの世に存在してゐないだらうな。
【1983年】(4囘生)
風邪 尾川醫院へ
金曜日。
前々日からの風邪が治らない。
4日後に迫つた山行を思ふと氣が焦つて仕方がなかつた。
このままではいかんと思ひ、八千代台にある尾川醫院に行つた。
尾川醫院は花見川團地に住んでゐた頃、母が看護婦として勤めてゐたところ。
久しぶりに尾川先生にお目にかかつた。
これまでにも、ここぞといふ時にはお世話になつてゐたが、最後にかかつたのは高校入試直前だつたと思ふ。
だとすると、7年ぶりといふことになる。
注射をして頂き、アイスをご馳走になつた。
熱があるときはからだを内側から冷して熱を下げるのにアイスは有效なのだとか。
日本ではからだを暖めることだけを考へるが、アメリカではからだを冷すのだとか。
アメリカでは患者を水風呂に入れることもあるさうだが、それはご勘辨のほどを。
いま氣がついたのだが、もしかすると尾川醫院に行つたのはこれが最後だつたかもしれない。
6:30 澤渡(さわんど) C1 ~ 12:30 上高地 C2
火曜日。
當初の豫定では、この日松本を出發して蝶ヶ岳に向ふことにしてゐた。
しかし、天候の見通しが思はしくなかつたので、出發を1日早め、コースもリスクの低い 上高地經由の長塀尾根ルート に變更した。
前日のうちに松本を出て、松本地鐵で新島々、そこからバスで澤渡(さわんど)まで入つてゐた。
澤渡を出發し、無雪期ならバスの走る道路をひたすら歩く。
天候は雪。
雪はまるで氷のやうにガチガチに固つてゐて、つるつる滑つてとても歩き難い。
20kgを超える荷物を背負つてゐるので、バランスを崩すと立直すのが難しく轉びさうになる。
だからと云つてアイゼンを裝着すると今度は雪が少ないところで歩き難いし、そもそも平地でアイゼンをつけることには山屋として抵抗があつた。
さらに難儀だつたのがトンネル。
上高地までいくつものトンネルがあつたが、1kmを超えるやうな長いトンネルもいくつかあつた。
その中でも長かつたのは、上高地の手前の最後の難關、「釜トンネル」だ。
ヘッドライトをつけて歩くのだが、眞つ暗で足元の狹い範圍しか見えないので愼重に歩く。
しかし、ヘッドライトの光量では地面(雪面)の凹凸が判らず、バランスを崩して何度か轉んでしまつた。
「釜トンネル」といへば幽靈が出ることで有名なのだが、轉ばないやうに神經を集中してゐた所爲か幽靈は出てこなかつた。
上高地に着いたのは12時半。
澤渡からちやうど6時間かかつた。
小梨平でテントを張る。
夏場ならテントだらけになるところだが、冬のこの季節、ここにテントを張るパーティーは少ない。
お蔭で靜かで良かつた。
夕方から雪が激しくなり、ドームテントの上にまで雪が積るやうになつた。
時々テントの中から天井を突き上げて雪を落す。
この分だと明日は上に行けないな。
さう話しつつ眠りに落ちた。
【1982年】(3囘生)
富雄 冬期講習6日目
酒:ミヤシタ、ヤマムラ at 無法松
木曜日。
中3の國語。
奈良・富雄から歸つて來て、夜は酒。
ミヤシタは高校の同級生で、同じ大學の4囘生。
ヤマムラはアパートの友人で、産大の3囘生。
2人は時々アパートで一緒に麻雀をしてゐたので面識はあつた。
學生は25日を過ぎると歸省する者が多く、この日まで殘つてゐたのは私とヤマムラだけだつたと思ふ。
ミヤシタが何故こんな遲くまで京都に殘つてゐたのかわからないが、お蔭で元日には彼のクルマに便乘して歸省することが出來た。
飮んだところは 「無法松」 。
叡電「八幡前」驛にある居酒屋だ。
アパートから近いので晩飯で定食を食べたり、アパートの連中と飮んだりしたこともあつたが、店のジジイと喧嘩したことがあつて、それ以來使はなくなつた。
あまりに遲いので催促したら注文が通つてゐなくて、それでゐながら謝りもしないで言ひ譯ばかりするジジイに腹が据ゑかねたのだ。
この日行つてゐるところを見ると、使はなくなつたのは83年以降だつたのだらう。
食べログで見たら、いまだにあるらしい。
それもそこそこ人氣があるやうだ。
とつても意外だ。
あのジジイは、さすがにもうこの世に存在してゐないだらうな。
【1983年】(4囘生)
風邪 尾川醫院へ
金曜日。
前々日からの風邪が治らない。
4日後に迫つた山行を思ふと氣が焦つて仕方がなかつた。
このままではいかんと思ひ、八千代台にある尾川醫院に行つた。
尾川醫院は花見川團地に住んでゐた頃、母が看護婦として勤めてゐたところ。
久しぶりに尾川先生にお目にかかつた。
これまでにも、ここぞといふ時にはお世話になつてゐたが、最後にかかつたのは高校入試直前だつたと思ふ。
だとすると、7年ぶりといふことになる。
注射をして頂き、アイスをご馳走になつた。
熱があるときはからだを内側から冷して熱を下げるのにアイスは有效なのだとか。
日本ではからだを暖めることだけを考へるが、アメリカではからだを冷すのだとか。
アメリカでは患者を水風呂に入れることもあるさうだが、それはご勘辨のほどを。
いま氣がついたのだが、もしかすると尾川醫院に行つたのはこれが最後だつたかもしれない。
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