
さて、今回取り上げるのは、萩尾望都先生の名作「メッシュ」です♪(^^)
何故今回は「メッシュ」だったのかというと……某HKの漫勉にて、
浦沢:「萩尾先生、初期の絵柄って、もっと少女漫画系の色が強かったと思うんですよ。それが、80年代から90年代にかけて、どんどんリアルな描線になってきている。あれは、どこかで何か影響を受けたとか?」
萩尾:「70年代の終わりくらいから、ちょっとお姉さん向けの漫画に移動して」
浦沢:「(読者の)年齢層がね」
萩尾:「人物の等身が、ちょっと変わったんですね。頭がちょっと小さくなる。それで目とか、バランスを少しずつ小さくしていく。そこにクルンとした「の」の字の目を描くとおかしいので、目からちょっとずつリアルになって。目がリアルになると、他のものも少しずつリアルにしないと顔のバランスがうまくいかない。ここらへんの兼ね合いが難しくて。じゃあ、写実的に描けば表情が出るのか、というとそうでない。今でもちょっと暗中模索。どこまで描けば、ちょうどいいバランスだろうかって」
浦沢:「僕もずっとそれを悩んでいるんです。どこまでリアルにして、どこまで漫画を残すかっていう。ご自分の中で、あのへんで絵が変わってきたって、如実に感じたときはありますか」
萩尾:「『メッシュ』ですね」
浦沢:「あそこは、ずいぶん絵がハードになりましたもんね」
と、あったんですよね。
それで、わたしすぐ「メッシュ」の第1巻の最初のほうを試し読みして、ウィキなどで、どういった内容の漫画なのか、軽くググりました(笑)。
で、わたしはものすごーく穿った目的によって、萩尾先生・竹宮先生双方の漫画を読んでいこうと思ってるので、軽くアンテナに引っかかったわけです。
ウィキぺディアやレビューなどを読むと、主人公のメッシュという青年は両性愛者っぽいというか、男性・女性両方とベッドインしているらしい……みたいなことがわかって、ここが実はポイント☆だったのです(^^;)
何故かというと、萩尾先生が「メッシュ」を描いた動機のほうは、(例によって)ご家族との問題が理由とのことなのですが、1980~1984年に連載とのことで、この頃「風と木の詩」もまた、同じ雑誌「プチフラワー」にて連載してたんですよね(正確には風木が「プチフラワー」に移ってきたのは、1981年冬の号から
)。
ですから、メッシュはゲイというのとは違うかもしれないけれど、同じ<同性愛>というテーマで被るところがあるので――絵に変化が生じた可能性があるのではないかと、最初にそう思い込んだことが『メッシュ』を読むことにしたきっかけです(例の盗作問題で、出来るだけ風木と被りたくないと言いますか、そうした考えも多少はあったのではないかと想像したというのがあります^^;)。
もちろん、漫勉で萩尾先生がおっしゃってることのほうが正しいわけですが、もともとわたし、『残酷な神が支配する』から入った人なので、どのあたりから萩尾先生の絵の「カンジ」が変わっていって、現在の絵のほうに近づいていったのかを知りたいとも思ってたんですよね
で、以上の理由によって、「訪問者」と「メッシュ」の文庫版の1~3巻を購入したのですが、何故か先に「メッシュ」の3巻だけ一日早く送られてきまして(何故?笑)、残りの3冊は明日届くと思うんですけど――とにかく萩尾望都節全開ですごおおく面白かったので、感想を書かずにいられなくなったというか
「3巻の感想書いて、その次に1~2巻について書くのかよ」といった、なんとも微妙な展開ですが(汗)、まあわたし、ブログの記事はほとんど自分のためのメモ書き
と思ってるので、こんなものでいいのです(開き直りっ!
←殴☆
)
それで、「メッシュ」の文庫版3巻には、「苦手な人種」、「謝肉祭」、「シュールな愛のリアルな死」の3作が収められているのですが――まずは「苦手な人種」から
・「苦手な人種」
おもな登場人物は、メッシュとポーラとルーという姉妹、ルーが大ファンのハブという名のロックバンド・ヴォーカリストなど。
いえもー、笑いました、笑いました。もう大笑い
ポーラは美人で、ルーという子のほうでは、この美人の姉にコンプレックスを持ってるという設定なのですが、このポーラさんのモデルはどうも萩尾先生のお姉さんっぽいですよね(^^;)
こういう、「悪意のないいい子ちゃんの顔をしていながら、無害であるがゆえに周囲に害を及ぼす」タイプの人を、萩尾先生は描くのがすごくうまい気がする……と思ったら、根っこの部分にはどうもお姉さんのことがあるらしい――というのはたぶん、ファンの方の間では有名なことらしく(笑)。
でも今回はお笑いパターンのオチだったのでびっくりしました
「スターダスト」というディスコの横にあるカフェでアルバイトすることになったメッシュですが、ここで以前知りあったルーというロック好きの子と再会します。というのもルーちゃん、このディスコのロックヴォーカリスト、ハブのことが大好きで、彼に自分のことをアピールすべく通いつめているようで……。
そこへ姉のポーラがある日やって来て、「すげーシャン(美人☆笑)が来てらァ」ということで、ハブはポーラと踊ります自分もハブと踊りたいと思ってるのに、「美人だ」という理由だけですぐそう出来たお姉さんに腹を立てるルー。
ルー:「好きな人はいるわよ!姉さんが今ダンスした人!片思いよ。いつもあたし、彼とダンスしたいと思ってたわ。姉さんは今日来てもういっしょに彼と踊るのね…ひどい……!」
ポーラ:「そんな……ルー、何?だってむこうから手を出して申しこまれたのよ。断れないじゃない。そんなの怒るのへんよ。もう顔も覚えてないわ。そんなこといちいち気にしなきゃいいでしょ、神経質に。あなた、それだから好かれないのよ。あたしなら、気にしないわ……」
ルー:「気にしない?」
ポーラ:「だって……人の言うことなんか、聞きながしてしまえばいいじゃない。そしてニコニコして……そしたら好かれるものだわ」
ルー:「あたし……聞きながせない……!」
ポーラ:「そこがダメなのよ……ルー、あなた病気なんじゃないの……?」
(カチン☆とくるルーちゃん)
ルー:「生まれて一度もブスと言われたことのない人に、あたしの気持ちなんかわからないわ!」
「病気やて?おまえがじゃ!」と思ったのは、わたしだけではありますまい(笑)。漫画読んでる女性の方は絶対ポーラって苦手な人種だろうし、そういう意味ではみんなルーの味方と思います♪
別の日、ルーがディスコへ行ってみると、ハブはバンド仲間と揉めて荒れていました。そこへルーがやって来て、お酒を飲んでいる彼に「大好き!」、「あなたはわたしの王子さまよ、ハブ」などと話すうち、危うくレイプされそうに……そこへメッシュがやって来て、彼女のことを助けます
その後、ドイツのミュンヘンへ行くことになったルーと、メッシュはキスしてベッドインすることになるわけですが――ルーが襲われた同日、ハブの元へポーラが向かっていました。というのも、ルーのことを心配してのことだったわけですが、ハブは今度は美人のポーラを狙おうとして、死亡します(爆笑☆)。
「え?なんでそーなるの?」といったところですが、ディスコの上のほうにいたハブ、階段を上っていこうとしたポーラが何かの配線をうっかり引っぱってしまい……それに足を取られて墜落してしまうんですよね。この時の死に様がもう間抜けというか、なんというか――とにかく、何度そのコマ☆を読んでも大爆笑です!!
このメッシュの中の「苦手な人種」を読むだけでも、メッシュの第3巻は買って絶対損はないと思うくらい
いえ、このハブという人物……登場時から>>「オレはメロメロォ、オレはクタクタァ」、「言っておくれよ、スキスキスキスキ。うそでもいいぜ、ベェイビー♪」などという歌を歌っておりまして、その時から自分的に(死ねや、コラァ)とか(万死に値いする
)といった言葉は脳裏をよぎっていました。でもまさか、本当に作中で死亡するとは思ってもみなかったというか。。。
そんで、配線引っぱったポーラ姉さんなのですが、>>「え……あの人亡くなったの?まあ……そう……それは運の悪い方ねえ。お気のどくだわ……」と、自分がその原因を作ったことには、まったく気づいてない天然なご様子なんですよね(^^;)
なんにしても、読みはじめがコレ☆だったので、めっちゃゲラゲラ笑って、もう一気に「メッシュ」を読むのが楽しくなりました♪
さて、それでは次は「謝肉祭」です
・「謝肉祭」
お話の冒頭でリオの謝肉祭(カルナバル)のことが軽くミロンとメッシュの間で語られていますが、自分的に思い出すのは映画の「黒のオルフェ」です♪(^^)
ということはさておき、色々なことがあってファッションデザイナー・オズのモデルをすることになったメッシュ。おもな登場人物はこのオズ・バードという男性と、彼の助手兼恋人といった感じのダーダ、またオズの大学時代の友達だったというルシアン、彼の妻のマルラなどです。
ちょっとややこしいのですが(汗)、オズの大学時代の友人だったというマルラとルシアン、このふたりは現在結婚しているわけですが、実はこの大学時代、マルラもオズのことが好きだったというエピゾードがあとから出てきます。大学時代、オズのほうではマルラにめろめろだったわけですが、オズは孤児で奨学金をもらっていた……といった生い立ちであり、その他色々あってルシアンとマルラは結婚したらしい。
それでこのルシアン、モデルとして舞台に立っていたメッシュを女性と間違え、その後男性とわかって驚き――小さなことがきっかけで、メッシュの首を絞めて殺そうとします。
「え?なんで急にそーなんの?」といった感じですが、彼、実は隠れ同性愛者なんですよね(というか、そのことに気づかない振りをして自分で自分を抑圧している同性愛者)。それで、実は大学時代、彼もまたオズのことが好きだったと、メッシュは鋭く気づくわけです。
このルシアン、格好いいイケメン・ビジネスマンとして描かれてるのですが、『残酷な神が支配する』のグレッグパパを思わせるところがあって、そうした意味でなかなか興味深い人物でした。彼は自由なルシアンに嫉妬し、オズに会いたがる妻のマルラに不安を覚え、父親と同じ偉くて立派な人間であるべきだ……といったような、強迫観念にも悩まされている様子
実はこのルシアンさん、お父さんが女装バーというのか、そうしたクラブで亡くなっていて、「自分は違う」、「父さんは立派な人だった」、「だからその偉くて立派なお父さんと同じ人間にならなくちゃいけない」といった<型>に自分で自分を当てはめて苦しんでいる……といった人物でもあったのでした
その後、ルシアンさんは自分の殺人未遂が露見するのを恐れてか、ニースで車をぶっ飛ばし、そのままガードレールの向こうへ消えるという自動車自殺をはかります大学時代、ルシアンさんの家来といった立場だったオズは、彼の出現でファッション・デザインの仕事にブレが見えますが、「大学時代崇拝していた彼は、本当はどんな人間だったのか」と考えるうち、突然目が覚めたようになるのでした。
ここの、オズが「自分はルシアンの何を知っていたのか」と言うところ――この部分だけ、ちょっと竹宮先生のことが頭をよぎったかもしれません(^^;)>>「ぼくの知ってるルシアンとはちがう。なら……ぼくはルシアンの何を知ってたんだろう。勝手に彼を理想化して、彼が見せる正しい完璧な面ばかり喜んで……彼を苦しめたんだ。彼のことを何も知りはしなかった。ぼくだって責任がある」……>>「わたしの知ってるケーコたんは人に盗作疑惑をかけたりするような人じゃない。なら、わたしはケーコたんの一体何を知ってたんだろう。勝手に彼女を理想化して、彼女が見せる正しい面ばかりを喜んで……彼女を苦しめた。彼女のことを何も知りはしなかった。わたしにも責任がある」――と、オズのセリフをまったく同じように当てはめて、そんなふうについ思ってしまったと言いますか(ええ、わかってますとも。まったくもって余計なお世話というやつです)。
オズはマルラから「大学時代、あなたが好きだった」と告白・誘惑されていますが、結局のところダーダとの愛を再確認し、彼女と彼女のお腹の子供の元へ戻ってきました。また、ファッション・デザイナーとして彼のショーが成功したというところも、物語に最後、深い癒しをもたらしてくれていて、読者的にはほっとします♪
では次!「シュールな愛のリアルな死」にいってみよう!!
・「シュールな愛のリアルな死」
これで最終話なわけですが、ここで一応メッシュの生い立ちその他について、少し触れておこうと思いますm(_ _)m
メッシュの正式な名前は「フランソワーズ・マリー・アロワージュ・ホルヘス」と言い、このフランソワーズ・マリーという名前は、誰がどう聞いても「女性の名前なのでは?」というものだと思います。なので、メッシュは自分のことを髪の毛の一部にある銀髪から、「メッシュ」と名のっていたりするわけです。
メッシュの実のお母さんは、2歳の頃に彼を捨て、別の男性と駆け落ちしているわけですが、どうやら女の子が欲しかったらしく、自分の子にそのような名前をつけたようです。また、お父さんのほうではこのことから妻の不貞を疑っていたわけですが……メッシュのメッシュを見て(ややこしいな☆笑)、自分の遺伝的形質を受け継いでいると思い、実の子との確証を持てたメッシュに強く執着しているといった関係性のようです(でも、その確信が持てるまでは、スイスの寄宿舎にメッシュのことを放り込んで放っておいた)。
そして、この最後のお話では、とうとう(?)メッシュのお母さんが登場します。でもすでに頭がおかしくなってる人なので、メッシュと再会しても、「おお、我が息子よ!」、「お、お母さん……!!
」といった、感動の再会とはなりません。
読者さんの多くの方はもしかしたら、お父さんがギャングで息子に対して支配的であり、実のお母さんは頭がおかしい――という設定で、「浮世離れしとんなー」とか、「ま、人が頭で考えた物語やもんな
」といった印象さえ持つかもしれません。でも、「100分de名著」の中で、「(お母さんとは)宇宙語でしゃべってるみたいに話が通じない」とか、その他、インタビューの中で語っておられる家族エピソードを読んだりすると……実は萩尾先生は相当リアルなことをお描きになっておられるのだな
みたいに、考えが変わるのではないでしょうか。
で、『一度きりの大泉の話』を読んだり、萩尾先生の特に初期の頃の作品を読んで(『ポーの一族』も含む)、「萩尾先生、『赤毛のアン』お好きなんだな~」ということがわかって、嬉しい限りだったのですが――この赤毛のアン・シリーズの中に、4人も子供がいるのに、牧師という自分の職業以外のことでは、あまり子供に構いつけないというお父さんが出てきます。わたしここ読んでて、「こんな人いるかなあ。いくら奥さんが亡くなってどうしていいかわかんないとか、そういう部分もあるとはいえ……4人も子供がいて構いつけないとかって、頭おかしいんでねえの?
」なんて思いながら読んでいたわけです。でもこの牧師さん、実際のところモンゴメリの旦那さんのことをそのまま描写したような人物だったんですよね(^^;)
ですから、この一見するとウソくさいように思える設定の中にこそリアルが潜んでいる――ということなわけです。それで、お話の筋のほうにはあまり触れませんが、メッシュはあんまり美形すぎて女性のようにも見える中性的な男性ですから、モデルをした時などもそうですが、「その時に求められるシチュエーションによって」女装してたり、女性の服を着てたりすると、間違われて言い寄られちゃったりするんですよね。
そして、まだ1、2巻を読んでないわたしがこんなこと言っていいのかわかりませんが(汗)、他の萩尾先生のインタビューか何かにあるように、「メッシュ」という物語は「父親からも母親からも捨てられた子供の自立」ということがテーマなのだそうです。それで、そのインプットがあってこの3巻を読んだせいか、ようするにこの物語は「ありのままのオレを愛してよ」、「どうして、ありのままでいるだけでは自分は親に愛されないのだろう」といった物語なのかな、と思いました。
また同時に性の揺らぎといったことも扱われていて、まずメッシュの実のお母さん自身がメッシュが「女の子であること」を望み、お父さんのほうでは、彼が唯一の自分の血を受け継ぐ息子、男であるということに物凄い執着心でもって固執している。彼の周囲の人々も、女装していた彼をレイプしたり、都合よく女と思ったかと思えば、男として扱ったり……「一体自分はどんな自分なら、ありのままで愛されるのだろうか」とメッシュは模索するけれど、その部分がいつまでも見えてこない。
この「シュールな愛のリアルな死」で、メッシュは母親に花鋏によって殺されかけますが、「あなたがそうと望むなら」と、危うく無抵抗のまま、メッシュは刺されかけます。単に支配的なだけで、愛されているとは実感できない父親、そして母親にも拒まれたメッシュ……お話の割と最初のほうで、メッシュは同居人のミロンと喧嘩してるわけですが、彼はあとから迎えに来てくれたとはいえ――メッシュはまたしても「居場所のない孤児」、「よるべのない精神的孤児」といった立場になっています
しかも、女装していたために女と間違われてレイプされたりと、普通なら世を儚んで自殺することを考えても不思議ではないところです。でもミロンは結局迎えにきてくれたし、メッシュをレイプした連中のことは、メッシュの義兄にあたるルイードが次々締め上げていってくれ……メッシュは母方の祖父とも猟に出かけて、心の交流を持ちます。またこの時、母親の再婚相手である男性に、何故あんなに父親がメッシュに拘るのかの理由についても教えてもらい――こうしてパリに帰ってきたメッシュは、駅で父親のことを偶然見かけます。
振り返り、メッシュのことに気づいたものの、ドアが閉まってしまい、どうにも出来ないメッシュの父親は、電車に乗ってそのまま行ってしまいますまた、ミロンも恋人のカティと、他の電車に乗ってしまい――メッシュも彼らと一緒に行くつもりだったのでしょうが、父親の存在を駅で見かけたことで、乗り遅れてしまうのです。
こうしてひとり、駅に取り残されるメッシュ……いえ、自分的には素晴らしいラストでした!!こう書くと何か、「ひとり取り残されて、メッシュ可哀想
」といった感じなのですが、わたし自身は悲壮感のようなものは一切感じませんでしたし、彼はひとりでも、これからいくらでも自分の好きな道を選んでゆけるという、そうした希望のあるラストでなかったかと思います
以前、何かのコラムかエッセイで、人は誰かに「I love you」か「I need you」と言ってもらえさえすれば、生きていける……みたいな文章を読んだことがありましたが、確かにそうなのだと思います。仮にそれが血の繋がった親でなくても、誰かにそう言ってもらえさえすれば。でも、メッシュの置かれた状況は複雑で、「I love you,I need you.But I hate you」といったような、そうしたものだったのかなと思ったり(^^;)
愛しているし、必要でもあるけれど、同時に憎んでもいる……通常の親子関係であれば、「愛してるし、おまえが必要だよ」で終わるところに、憎しみがくっついてくる。個人的に、わたしが自分に照らし合わせて思うに――「憎しみ」というものは、他者が外から教えたものであって、最初から自分の内側に存在していたものではありませんでした。そしてその「憎しみ」というものを、自分の親から教えられねばならないというのは、メッシュの抱える葛藤の大きさを推し量って余りあることなわけですけど、萩尾先生はこの「メッシュ」という作品を描くことで、御両親となんらかの感情的折り合いをつけられるようになられたのだろうか……などと、つい想像してしまいます(^^;)
そして、この「メッシュ」を読むと、萩尾先生が「残酷な神を支配する」を描いたのが何故なのかも、かなりのところ見えてきました。ですから、「残酷な神が支配する」を読むと「風木に対する創作的復讐としか思えない」というのは、やっぱりわたしの穿ったものの見方なのかなあ、と思ったりもします。
また、「少年の名はジルベール」の最後のほうにあった>>「すべての作品に自分を反映するストーリー展開の力は健在だ」という竹宮先生の言葉は、こうした意味だったのかなあ……とも思ったり。萩尾先生のインタビューの言葉といった、なんの予備知識もなく「メッシュ」を読んだ場合、萩尾先生がご家族との問題を反映して描いた――なんていうことは、まずもって見えてきません(^^;)
でも、「メッシュ」や「残酷な神が支配する」といった作品を竹宮先生や増山法恵さんが呼んだ場合……「モーさまがこうした作品を描く動機は何か」について、相当混乱するような気がします。でも、インタビューなどを読むと、ある程度理由がわかってきてほっとするというか、何かそうしたところがあると思うんですよね(=萩尾先生のほうでは竹宮先生の作品を読んでなくても、竹宮先生のほうでは漫画のみならずインタビュー記事など、その後も色々読んでおられたということなのではないでしょうか)。
なんにしても、おかしな順序ですが、まだ1~2巻読んでませんので、その後間違った点に気づいたとすれば、その時に再び訂正したいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!