こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

「一度きりの大泉の話」と「少年の名はジルベール」。

2021年06月25日 | 日記

 

 わたしもしつこいですねえ(^^;)

 

 いえ、わたしのブラウザに竹宮先生のお名前入れると、「竹宮恵子萩尾望都への嫉妬」っていう選択肢が、「竹宮」って入れただけで5番目くらいに表示されるんですよね(ちなみにわたし、このワードでは一度も検索してないんですけど

 

 それで、そんなに多くないというか、少しですけど、そうした記事についても読んでみることにしました。他の本のレビューなどでも、この件に関しては色んな方が色々な読み方・感じ方をされているのだなあ……と思い、さながらリン・フォレストの霧の森の中へでも迷い込んでしまったかのようです。。。

 

 その中の御意見の中で、自分的に興味深かったのが、自分が一番描きたいと思っている「男子寄宿舎」と「少年愛(同性愛)」のことで、むしろ逆に竹宮先生のほうが「萩尾望都作品をパクった☆」と言われることを恐れていたのではないか――という感想がありました。

 

 確かに、竹宮先生自身、萩尾先生への嫉妬を深めていく中で、>>「ファンなどから「竹宮さんって『ポーの一族』を描いていますよね?って言われるようになりました。それを気にする自分もイヤでした」と「扉はひらく いくたびも」に書かれており、これは萩尾先生のほうでも、竹宮先生の作品を描いていると間違われることがあったそうですから――お互いにそうだったにしても、唯一違うのは、萩尾先生のほうでは竹宮先生にそうした種類の嫉妬は持たなかったということですよね(^^;)

 

 ゆえに、「11月のギムナジウム」、「ポーの一族の中の「小鳥の巣」」、「トーマの心臓」……と、「男子寄宿舎」の出てくる話を萩尾先生が描かれたことで、そのあとに竹宮先生が画期的な「風と木の詩」を発表したとしたら――「萩尾望都の漫画を見て、竹宮惠子はインスピレーションを受け『風と木の詩』を描いたのだろう」と言われかねない。「違うのよ!わたしは「風と木の詩」を、ずっと前から構想してたんだから」と言っても、人はそれぞれ思いたいことを勝手に思いたいように思うものですから。

 

 それで、ですね。もしかしてわたし、竹宮先生が萩尾先生に対して盗作疑惑をかけたことについて、もしかしたら誤解してたのかもしれない……と思うことが出てきました。わたし自身、「風と木の詩」、「ポーの一族」、「トーマの心臓」……といったように読んできて、「一度きりの大泉の話」の中の、>>「あなたはわたしの作品を盗作したのではないか」というのは――てっきり、「ポーの一族」の中の「小鳥の巣」というエピソードのことだけなのだろうと最初は思っていました。でも、そのことのみならず、もっと大きな枠組みで言うとすれば、萩尾先生には「一度見た絵を一か月間は細部まで暗記できる」能力があり(※ウィキ情報)、こういった萩尾先生の才能を竹宮先生は当時から脅威に感じていたらしいのです。

 

 

 >>でも竹宮先生が一度だけ、萩尾先生がいない時に「モーサマが怖い」って言ってた覚えがあります。萩尾先生は、例えば棚とかカップとか、見たものをぱっと覚えてすぐに絵にできるんですよ。特技というか才能、ですね。見たらすぐにそれを漫画に落とし込んで描ける。だから竹宮先生は、自分の家にある好きで集めているお気に入りの品とか家具とかを萩尾先生が「あら素敵」ってすぐに漫画に描きそうで怖い、っていうようなことを言ってたんですよね。

 

 竹宮先生の手紙について萩尾先生から相談された時も、そのことは頭にあったと思います。なので「人のことはわからない」なんて答えたんじゃないかと。「あなたがなんでも覚えてしまうからだ」とは言えなかったんでしょう。

 

(「一度きりの大泉の話」萩尾望都先生著/河出書房新社より)

 

 

 これは、当時萩尾先生のお宅と、竹宮先生のお宅の両方にアシスタントとして出入りしていたという、萩尾先生の現マネージャーである城章子さんが本の巻末あたりで書かれていることです。

 

 つまり、これはわたしの勝手な想像ですが、萩尾先生が竹宮先生のお宅(この場合は例のOSマンション)で綺麗なアンティークのカップなどを見たとしますよね。それで、萩尾先生は「素敵だな」と思っておうちに帰られる……そしてその後、御自身の原稿の中などで、登場人物たちがお茶する場面などで、もしかしたら少し変えられているかもしれないけれど、無意識のどこかにあったそのアンティークのカップを描く――といったようなことです。

 

 そして、この場合は「たかがそんなのティーカップの話、まあティーセットでもなんでもいいけど、そんなの物語の小物の話だろ。そんなもん、盗作したうちにも入んねえよ」となると思います。でもそうではなく……竹宮先生が恐れていたのは、御自身のクロッキーブックなどを見た時に、萩尾先生が無意識のうちにもそうした中の何かを覚えていて、クロッキーブックにあったものを、何か別の形で表現する、ということがありうるかもしれない――という、そうしたことだったのではないでしょうか。

 

 これは、あくまで「無意識のうちに起きる」ことなので、当然萩尾先生には盗作したという意識が芽生えることはありませんし、もしそうした事実があったとすれば、誰より読者さんというのはそのあたり敏感ですから、そうした指摘が山のようにあったことでしょう。でもそんなこともなかったということは、竹宮先生が当時相当思い詰めておられたことからくる被害妄想である可能性のほうが高いとは思うのです(^^;)

 

 また、「風と木の詩」という、竹宮先生がもっとも描きたいと思い、漫画家生命を燃やしている漫画のテーマ(少年愛、今でいうBL)を、誰より萩尾先生には――というより、萩尾先生のみならず、他の誰にも竹宮先生も増山法恵さんも奪われたくなかった。

 

 

 >>『空がすき!』の連載が終わろうとするころから、どうしてもマンガ化したい『風と木の詩』の冒頭50ページをクロッキーノートに下書きのような形で描き、「この人ならわかってくれるかもしれない」と思った編集者に、少しずつ見せて回るようになっていた。出版社、雑誌を問わずに探し、ツテからツテへと訪ね歩いたが、どの編集者もあきれるだけで反応は散々だった。

 

 私がこの50ページを描き上げたのは、萩尾さんと暮らすようになってからすぐのことだ。クロッキーノートの表紙には、「71・1・21」と入っている。私は周囲にも自分が強く執着している作品『風と木の詩』があることを話していて、萩尾さんが、私にそんな強い想いを持った作品があることがうらやましいと、誰かに話していたことも知った。その後、萩尾さんは『ポーの一族』を生み出した。吸血鬼をテーマにした物語はそれまでの映画にもあったが、そのディテールには彼女のオリジナリティが詰まっていて、すごいなと思った。彼女が得意とする少女を前面に押し出せるし、少年ついても詳しく研究していて、脅威に感じた。

 

 このころ、増山さんと私が少年に夢中だったからかもしれない。世の中の流れとしてもホモ・セクシュアルを認める傾向の強い作品が映画界を中心に相当数出てきていて、無視できない流れもあった。それでも、萩尾さんの目指すところと私の立ち位置は大きく違っていて、そういう意味で同じ道ではないと考えていた。

 

(「少年の名はジルベール」竹宮惠子先生著/小学館より)

 

 

 道は違うと思っていた……それなのに、萩尾先生は「ポーの一族」の「小鳥の巣」という作品の中で、男子寄宿舎を舞台に、しかも温室で男の子同士のキスシーンを描いた。確かに、「風と木の詩」の最初の50ページの中には、今の「風と木の詩」の第1巻にもあるとおり、温室で主人公のジルベールと上級生らしき不良くんのキスシーン及び、ラブシーンなのかレイプシーンなのかよくわからない場面があります。

 

 でも、今現在「風と木の詩」と「ポーの一族」、「トーマの心臓」などを読み比べた方なら「いや、間違いなく道は違うだろう」とわかると思います。これはわたしの勝手な想像なので実際どうなのかはわかりませんが(当たり前・笑)、竹宮先生的には当時、本当に盗作されたとしか思えない「何か」があったのではないでしょうか。

 

 何故わたしがこんなことを書いているかというと、実際、萩尾先生が盗作したのではないとわかっているけれど、「竹宮先生の漫画の中の脇役に、こんな人がいたよーな」といった感じの方を見かけたことがあるような気がするんですよね。それで、これは何か萩尾先生がどうこうといったことではなくて、逆に竹宮先生の作品の中にも、「萩尾先生の漫画の中に、確かこれと似た場面があった気が……」というデジャヴが起きることがある。わたしまだ、竹宮先生の作品も萩尾先生の作品も少ししか読んでませんけれど、これはたぶん探せばもっと色々出てくるんじゃないかな……という気がしています。

 

 特段「お互いパクリあっている」ということでもなく、たとえて言うなら、ジャ○プ作家さん同士が、若干設定の被る脇キャラを作品中に登場させていても、「ちょっと△□先生の漫画に出てくる□△に似てますね」くらいで終わるような話。そしてこれを誰もパクリとまでは言わないわけです(^^;)

 

 でもこの頃、竹宮先生は一番発表したいという熱意のある作品、「風と木の詩」を連載させてくれそうな雑誌が見つからず、その上嫉妬を覚えている萩尾先生に、最後の砦とも言える少年愛(BL)まで奪われそうで、それが萩尾先生を盗作疑惑でマンションに呼びだす……という行為にまで繋がってしまったのかもしれません。

 

 もっとも、萩尾先生にしてみれば身に覚えのないことですし、ある意味この時――萩尾先生が頭が真っ白になってしまって弁解も何も出来なかったというのは、結果として正しいことだったような気がします。何故かというと、その~、「この人はわたしの作品を盗作している」と思い込んでる方って、その当人の弁明の言葉って、あまり信じないからなんですよね(というより、弁明すればするほど「あやしい」みたいになる可能性のほうが高い)。そうではなく、その場にいた増山さんのように、信頼している第三者の意見によってであれば、「あなたの被害妄想なんじゃない?」とでも言われれば、信じるかもしれない。その後、竹宮先生が萩尾先生に「あの時のことはなかったことにして欲しい」と言ってこられたことから見ても、竹宮先生自身、「神経過敏になっている」と気づかれたのかもしれません。

 

 でも、もし仮に竹宮先生が「萩尾先生はわたしの描いた何かを無意識のうちにも盗作して、自分の漫画の中へ落とし込むことがある」との疑いを持っていたとすれば――これはもう、竹宮先生がお手紙に書き記した通り、「距離を置きたい」とでも言うより他、仕方のないことだったのではないでしょうか。

 

 これは前にも書きましたが、間違いなく竹宮先生が「風と木の詩」の原稿を見せたどこかの出版社が、「やってみましょう!」とかなり早い段階でOKさえ出してくれていたら……萩尾先生と竹宮先生は今もお友達だったのかもしれないって思うんですよね。

 

 なんていうか、嫉妬していたにしても、同業者であればそうした感情を持つのはある意味自然でもあるわけですし(むしろ萩尾先生のほうが天才すぎて変わってるのかも?)、竹宮先生が「漫画家生命を賭けても絶対描きたい」という情熱を燃やしている作品さえ早期に発表できていれば――「萩尾さんは確かに凄いと思う。でも、わたしには「風木」があるからいいもーん!」くらいで済んでたような気がするのです(^^;)

 

 でも、運命の巡り合わせが悪く、そうならなかったということが……萩尾先生と竹宮先生の間で地雷が爆発してしまった理由だったのではないでしょうか。。。

 

 蛇足ですが、<盗作>ということについて、以前こんなふうに表現されている方がいました。「才能の小ぶりなAという作家がいた。彼が花を生けている花瓶はアンティークの豪華なものだったが、生けてある花のほうはカノコ草といった、地味で目立たぬ花ばかりだった。そこへ中くらいの才能のある作家Bがやって来て、「こんな花はまったくいただけない。アンティークな花瓶に見合う別の花を生けるべきだ」と言って、花屋で買ってきた百合をそこに生けた。もちろん、Aは怒った。「この花瓶はオレのものだ。どんな花を生けようとオレの自由だ」と。作家Bは「自分のほうが花瓶本来の美を生かすことが出来る」と言い、ふたりは喧嘩になった。果たしてこの場合、どちらが正しいのか?」……といったような話だったと思います。

 

 まあ、説明するまでもなくわかりやすいたとえ話と思いますけれど、萩尾先生と竹宮先生の場合は――お互いにお互いの才能が大きすぎたことと、もし仮にこの花瓶が大泉であったとするなら、花瓶はひとつしかない。でも、そこには薔薇(萩尾先生)と芍薬(竹宮先生)が半分ずつ生けられていて……芍薬は薔薇に嫉妬したけれど、薔薇のほうでは自分よりも芍薬のほうが美しいと思っていた……もしかしたら、そうした話でもあったのかもしれません。

 

 それではまた~!!

 

 

 

 

 


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