さて、Ⅰのほうで、先に3巻の感想を書いてしまったというのがなんですが(汗)、読み方としてはそんなに間違ってなかったような気もします(^^;)
「萩尾望都の漫画って、実はそんなに好きじゃないんだよね」という方でも、メッシュの文庫版3巻に収められてる『苦手な人種』は超ですし、読み切りの連載形式ですので、3巻からじゃなくても、2巻から読んだりでもあんまし問題ないんじゃないかな~と思ったり
そんなわけで今回は、残りの1~2巻の感想について何か書こうと思ったんですけど……たぶん書き切れないのは間違いないので、2回くらいに分けることになるかもしれません(^^;)
ところで、こうした先入観はまったく排除して読んでも『メッシュ』は素晴らしい作品と思うのですが――でも、1巻の解説でやっぱり、萩尾先生のご家族に関してすごく気になることが書いてありました
>>「当時、私はもうひとつ私自身の問題をかかえていた。両親から、『そろそろ漫画家をやめたら』と言われていたのである。両親にしてみれば、結婚もせず、昼夜を逆転した不健康な生活をしている姿を見て、お金も貯まったし、後は趣味で童話でもかけばいいと思ったらしい。私が漫画をかいているのは、お金を貯めるためでもなく、単に気楽に絵をかいて楽しむためでもないのだが、私はついに、なぜ、たいていのことを犠牲にしても漫画をかいていきたいのかを、両親が理解できるように説明することは出来なかった」
(萩尾望都「〃訪問者〃前後」、『訪問者』小学館版より)
わたしが注文したの、文庫版なので――この萩尾先生の文章を読みたかったら、『訪問者』のコミックス版を買ったほうがいいということなのでしょうか(でも、どうしても欲しい。この文章を読むためだけに……!>_<)。
なんにしても、ウィキのほうを読みますと、>>1977年に定年になった父親を代表として会社「望都プロダクション」を設立した。しかし後に両親との不和が高じて大げんかとなり、2年後に会社をつぶす。――とあるわけですが、どうやらそれが『訪問者』を描いていたあたりのことらしく、>>親との関係を見つめるため心理学を勉強し始め、内なる親から解き放たれるために、1980年に親殺しをテーマにした『メッシュ』の連載を開始……とあります。
他にウィキでわかるのは、>>「まあとにかく親と決裂したので変な親子の話を描いてやろうと。『メッシュ』ですね。ここでやっと私は親と対決する話を描くハメになるんですね。なぜ対決するかというと、理解したいから」と語られている(『imago(イマーゴ)』(青土社)1995年4月号「特集 少女マンガ」の巖谷國士との対談(「少女マンガという装置」)――といったところでしょうか。
もっとも、『メッシュ』の1~3巻を読んでも、こうした萩尾先生の深いご事情といったことは、読者にはよくわからないというか、純粋な漫画作品として関係のないこととは思います。そうした前情報的なものを得てから読むと「なんとなくわかる気もする……」くらいなもので、そのあたりのことを考えることなく読んだほうがいいという部分も大きいんだろうな~と言いますか
まあ、こんなことばかりウダウダ☆書いてても仕方ないですね。とりあえず順番に漫画のほうの感想を書いてみたいと思いますm(_ _)m
『メッシュ』第1巻、第1話――メッシュはパリの下町(たぶん)で、荒くれ者どもに囲まれて、右腕をへし折られます。ボス・バンのヤクを盗もうとした報復だったようですが、このくらいで済んだのは、メッシュがギャング・サムソンの息子だったかららしく。
その後、腕をへし折られてふらふらしていたところ、ミロン・ファレルという男の車の前にメッシュは飛び出してしまい……ミロンは怪我をしているメッシュのことを自分のアパルトマンへ連れ帰ります。
「ヤツを殺ってやる……どうしてもだ。葬ってやる……殺られる前に」と、朦朧とした意識の中つぶやくメッシュ。ミロンが「ぶっそうな話だな。ヤツって?」と聞くと、メッシュは「サムソンだ」と答えます。
メッシュは2歳の頃に母親から捨てられ、父親は彼が自分の血の繋がった息子とは思えず、スイスの寄宿舎に入れて12歳の頃まで放っておいたと言います。メッシュは金髪に銀毛が左右に一筋あって、メッシュの父はこの「祖父方の遺伝」を見て――彼が自分の息子であるとの確信を持てるなり、突然手のひらを変えるように態度を変えたということでした
それからは会うたびに母親の悪口を吹きこんだ父親のことを、メッシュは激しく憎むようになり……この第1話目の次のお話、第2話の「ルージュ」で、メッシュは実際に父親に対して銃を発砲しています。その時、メッシュの父サムソンは、眼鏡が吹きとび、左耳の上のほうを少しだけ失いました(ほんのちょっとだけ☆)
父親殺しに失敗したメッシュは、止めにきたミロンと一緒に家へ帰り、泣いているメッシュのことをミロンは慰めます。>>「どうしてオレはこんなに人を憎めるんだ?オレはいつだって、いつだって、あいつが学校に来て、名前を呼んでくれるのを待って……やさしい顔で、声で呼んでくれるのを……そうしたら、そうしたらオレは、飛んでかけていって……〃とうさん〃って、飛んでかけていって――首に抱きついて、何度もだきしめて、キスして……そうするんだって……そうする夢ばかり見て……」――12歳の時、粉々に砕かれた自分の心の復讐のため、また、頭や心に誰かに対する「憎しみ」がある時って、どうしても苦しい。そうしたせいもあって、メッシュは自分の父親を殺すことさえ出来れば、そうした憎しみからも苦しみからも解放されると信じていたのだと思います。
ちょっとこのあたりは、「親との関係で悩んでいる」、あるいは悩んでいたとしても「殺すことはまでは考えたことがない」という方には少し理解が難しいかもしれません。これはわたしのただの推測ですが、萩尾先生はもしかしたらメッシュに父親殺しをしてもらうことで――親に対する憎しみや怒りから解放されたかったのかもしれない……と、想像したりもします(右腕をへし折る=漫画家の命である腕を折って描けないようにすることの比喩……というのは、流石に考えすぎですかね^^;)
確か、メッシュは14歳の頃に家を出て戻っていないとのことで、この頃は17歳とかそのくらいだったでしょうか。けれど、メッシュがただの不良少年というわけでもなく、父親の束縛からひたすら逃れたいと思う気持ちもわかりますし、このお父さんにはお父さんなりの愛情があるらしい……と、読者的には感じ取れなくもない。でも、あんまり不器用すぎて「そんなんじゃ絶対伝わるわけがない」という、せいぜいのところを言ってそうした雰囲気しか感じられないわけです(ギャングじゃそれも無理ないとは思うんですけど^^;)
ミロンがただ普通に、ちょっといなくなったメッシュのことを「心配した」というだけで――心の中で天高く舞い上がるくらい嬉しがる、可愛いメッシュ。メッシュがミロンとその後もずっと暮らし続けたのは、「その美貌を利用して稼いでこい」と指図するでもなく、彼のことを何か利用しようという隠れた魂胆があるわけでもなく……ただ友人の居候として「普通に」接してくれたからという、そうした理由なのではないでしょうか。
実をいうと第3話の「ブラン」と第4話の「春の骨」については、そんなに書くことありません(^^;)いえ、面白くなかったとかいうことではなくて、メッシュにはコメディ的要素もあるので、「ブラン」はそうしたお話と思うし、ミロンが何かと「普通に」メッシュの世話を焼いたりするドタバタ劇って、「そうそう!メッシュにはそうしたことが必要なのよ」といった感じで、読者としてはとても和みます♪(^^)
ミロンが贋作画家であることもあって、ゴヤやユトリロなど、有名画家の作品が時々出てくる『メッシュ』ですが、「父親殺し」に関係したインパクトとして一番強いのは、やっぱりゴヤの『我が子を食らうサトゥルヌス』でしょうか。。。
【我が子を喰らうサトゥルヌス】フランシスコ・デ・ゴヤ
まあ、超有名すぎる絵なので、わざわざ引用する必要もないとは思うものの――『残酷な神が支配する』のテーマ性として、メッシュで掘り下げが足りなかった部分をこちらで完全に掘り下げたという、そうした部分もあったんじゃないかなあ、と思ったりしました。
それで、ミロンが贋作画家というのは、実際のところもしかしたらそんなに深い意味はないのかもしれません。でも自分的に……ふとこう思ったんですよね。時代は違うとはいえ、舞台はフランスのパリで、主人公は美青年、そして同性愛的な描写も出てくる――ということで、わたし的には絶対『風と木の詩』と「被る要素がある」ことを、萩尾先生は「まったく気にしなかった」ということが果たしてあるだろうかと思うのです。
また、ミロンのあの絵を描いている間、集中力を邪魔された時の怒りようというか、ああした描写というのはネーム中の萩尾先生にも通じるところがあるんじゃないかなあと思ったり(エッセイ漫画『デクノボウ』より。まあ、萩尾先生の場合は怒るのではなく間になるという意味ですよね・笑)。ミロン=贋作画家=「そーですよ。私は少年愛(同性愛)がわかんない、どうせ贋者ですよ」……という、軽いブラック・ユーモアが働いての設定だったらどうしよう、なんて(^^;)
あと、自分的に勝手に思うに、『メッシュ』の連載中に竹宮先生の『風と木の詩』が『週間少女コミック』から同じ『プチフラワー』に移ってきて――萩尾先生は嫌じゃなかったのかなあとも思いましたというのも、『少年の名はジルベール』には、連載途中で雑誌を変えた理由についても書いてあったからです。
>>『風と木の詩』の連載は、途中で『週間少女コミック』から創刊したばかりの『プチフラワー』に移籍したが、大きな理由は、物語がこの先は大人の話になっていくので、少女マンガ誌向きではないと判断したからだ。
移籍先を『プチフラワー』に決めたのは、Yさんが創刊編集長として仕切っていたからにほかならない。『プチフラワー』は現在の『月間flowers』。年齢層を上げての再連載は、実は願ってもないことだった。
Yさんが『プチフラワー』に異動することになって、私も同時期にそこへ移りたいと何度か直訴していた。しかしそのたびにYさんからは、「それは、今はちょっと難しい」とか、「それをやってしまうとなぁ……」とか渋られていて、実はなかなか決まらなかったのである。
しかし、それでもなお強引にYさんにお願いして、舞台を変えさせてもらった。
(『少年の名はジルベール』竹宮惠子先生著/小学館より)
このあと、さらに>>「そして強引に移籍した『プチフラワー』での連載がどうにか終わって」……と続くわけですが、「風木の文庫版3巻あたりを過ぎたらもう、そのあと年齢層の上がった雑誌で連載したってあんま変わんねーだろ☆」と思いますし、そんなことより何より――盗作疑惑をかけたのは竹宮先生側なのですから、「そのくらい気を使ってくれよ」と萩尾望都ファンとしては胸が痛んでなりませんでしたまあ、週間の連載がキツかったとか、理由は他にも色々あったのかもしれませんけども(^^;)
なんにしても、次は『メッシュ』の第2巻の感想について何か書いてみたいと思っています♪
それではまた~!!