カンタービレ声楽教室主宰の永石陽子の自己紹介とプロフィールです。
〇子供時代の私
恥ずかしがり。
好きな遊びはお絵かき、おままごと、お人形遊びといった遊びが好きな子供だった。
小さい頃は扁桃腺をよく腫らしては熱を出していた。
からかわれて泣いて帰って母に慰められるというパターンが小学2年生くらいまでは続いた。
〇クラシック音楽との出会い
幼馴染が通うピアノ教室にたまたまついていき、その様子が楽しくって親に頼んで通うことになった。
「人魚の歌」という曲に出会い、あまりに美しい曲で、感動して涙を流しながら練習した。
この曲との出会いが自分の想いと音楽はリンクするのだという風に私の音楽観を変えた。
〇中学時代
中学時代は音楽をやる上で最高の三年間だった。
というのも、中学時代の音楽の先生がとにかく歌わせてくれる先生で、音楽の授業が最高に楽しかった。
またこの先生が顧問の吹奏楽部にも所属していたので、毎日充実した音楽生活を送っていた。
〇高校時代
充実した音楽生活が一転、高校一年生の時は自分の満足できる音楽に全く触れる機会がなかった。
受験勉強のためにピアノを止めていたし、当時の音楽の授業も吹奏楽も「音」が存在するだけで「音楽」や「芸術」が存在するようには感じなかった。
両親が共働きで、父の意見が何より優先されるような家だったので、家にいて自分のことを言うことがなかった私が心を表現できるもの、それが音楽だったので、自分を外に出せなかったこの時期は何もかもがうまく回転しなくて毎日がしんどかった。
〇声楽との出会い
高校二年生の時に、この先、長いお付き合いになる先生に出会う。
この音楽の先生は東京芸大声楽科出身の先生で(高校一年生時の音楽の先生とは別の先生)私の声を聴いて評価してくれ、声楽の個人レッスンを受けることになった。
ここから声楽人生が始まった。
この先生の伴奏で歌うのは最高に楽しかった。
高校2、3年次のこの先生の授業ももちろん楽しかった。
大学合格までの声楽レッスンは、自分にとっては遊びの延長は言い過ぎかもしれないが、全てが喜びだった。
ただずっと心に引っかかっていたのは、自分の録音の声が好きになれなかった。
何度聴いても好きになれなかった。
でも、先生の指が奏でる音楽は自分の信じる音楽と一緒だと思ったので信じて突き進んだ。
〇発声に躓きまくった大学時代
大学ではとても音楽の知識が豊かな先生に師事した。
この頃、私の音域は全く広がらず、女性であるにも関わらずまともに出せる声が2点Fまでで、ろくに歌が歌えなかった。
歌える曲を歌うしかなかった。
高校時代の先生にはとにかく声を出せと言われたが、出した声が自分の音楽観に反する声なので、どうしても出せなかったし歌に使いたいと思えなかった。
だからせっかくの知識豊な先生がいる大学時代に私がこの先生の知識を自分の歌に生かせる機会はほぼなかった。
しかし、これも歌いたい曲はあるのに歌えない自分の現実に苦しむ日々の幕開けでしかなかった。
〇大学卒業後
イタリアに留学していた先生に師事した。発声をとても大事にしていた先生だった。
先生の持つ雰囲気からはイタリアをとても感じたし、この先生のお陰で第一回目のコンセルバトーリオ受験ができた。
この時、私は全くイタリア語が喋れなかったし、コネもないのに、とにかく行ってみるの一念で受験した。
見事落っこちたが、なんの力もない自分にイタリアで出会った人はとにかく親切で、見返りを求めないやさしさを学んだ。
自分の人生にとって大切な経験を積む一方で、やはり発声の問題は全く解決せず、むしろ深まっていった。
レッスンでも当時働いていた聖歌隊でも、自分の声が分からなくなり、声を出すときにいつも冷や汗をかいたり、恐怖感を伴うようになった。
〇普通の人の生活
ただ歌が大好きで自分の思う音楽を表現したいだけ。
友達と遊んだりサークル活動をするよりもただ歌が好きだったから歌い続けてきたけれど、この頃は声を出すとき、常に恐怖感が伴った。
こんな自分は生きること自体がうまくいっていない気がしたので、聖歌隊以外の一切の歌から離れてみることにした。
そして普通の大学生や同年代がしそうな遊びをおもいっきりしてみようと思った。
〇主人との出会い
イタリアのコンセルバトーリオ受験の時に習っていたイタリア語教室もそのついでに再開した。
その時に出会ったのが主人である。
主人を始め、この時一緒にイタリア語を勉強した友人と「ただ遊ぶ」ということをした。
なんだか足りなかったパーツが埋まる気がした。
でも、そうしていたら、一番近しいものの存在、歌が足りないと感じるようになり、やっぱり毎日がしんどくなった。
そんな時に主人が「もう一度歌ってみたら?」と背中を押してくれた。
〇師匠Maddalena Calderoniとの出会い
結婚後、主人の知り合いにオペラ歌手がいるという話になり、もしいい先生なら日本に招いて声楽講習会を企画しようと会いに行った。
写真でみるとすごく迫力があって、正直怖そうという第一印象だったが、初めて会った先生はものすごく私を開放してくれた。
私の声はメッツォソプラノと言われていたが、先生は私の声をソプラノレッジェーロと言い、スザンナや夜の女王を歌う声だと言った。
こんなことを言われたのは初めてだったし、2点Fまでしか使えない声だった私がたった二日のレッスンで3点Fまで声が出た。
自分の可能性を知り、実際に声が出た事実に天にも昇る気持ちだった。
〇飛躍
師匠であるMaddalenaとの出会いによって、どんどんと自分の声楽家としての人生が開けた。
イタリアでのコンサートやオペラ出演、教会でのソロ演奏、コンセルバトーリオ受験では外部生としては最高得点という好成績での合格をし、目に見える形で自分の実力を認められ、単純に歌いたかった曲にどんどん挑戦し歌えたことが何よりうれしかった。
〇声楽教室開校
その後、「歌いたい歌を歌うのに私みたいに遠回りする人は私が最後でいい」という思いからカンタービレ声楽教室を開校した。
〇出産
3年後、出産を機会に声楽教室を休校。
育児と同時に母の看病。
不眠と心労が重なった結果、軽度の自律神経失調症になった。
歌う時にも出産前のように思う通りに体が動かなくなった。
〇現在
以前から、技術的な説明に対して頭で十分に理解している生徒さんがなぜ再現できないのか、という疑問を持っていたが、体を壊したことをきっかけに体のことに深く注目・研究や勉強をするようになり、現在はイタリアの歌の技術の体得と、それと同時にその技術を受け止められる体に整えるという視点からレッスンを行っている。
イタリアの技術が体現できるということは体が最も効率よく自由に動くということである。
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カンタービレ声楽教室 大阪・京橋にある声楽教室
・お一人お一人の「自由に好きな歌を歌いたい」を実現するお手伝いをします。
・一回のレッスンの中で自分が納得できる声を一度は出せることを目標にしています。
音楽大学を卒業した方への専門的なレッスンはじめ、イタリアの声楽技術を生かしながら体作りや体の使い方に重点を置いたレッスンをコーラスで歌われる方や、ミュージカルやポップス歌手の方に幅広く行っています。
音大受験指導では大阪教育大、同志社女子大学、京都女子大学合格者がいます。
歌えなかった経験があるから、いろんな方の発声の問題点がよく見えてきます。
そして、それを乗り越えて解決した経験があるから、その問題点にどのようにアプローチしていけばいいかが見えてきます。
悩んでいらっしゃる方ももっと歌えるようになりたい方も一緒に楽しく歌いましょう!
大阪教育大卒。Maddalena Calderoni、安保恵美に師事する。イタリア国立ブレーシャ音楽院(Conservatorio di musica “Luca Marenzio” Brescia)にて三年制のディプロマ(corso di diploma I livello)、及びAtelier,la voce dell’arteによる声楽マスタークラスのディプロマを取得。コロラトゥーラソプラノ。イタリア、Baveno市にてPremio Fedora優勝作品であるオペラ「Airline Icarus」、Verbania市にてコンサートに出演するなど声楽家として活動しながら、後進の指導やイタリア人オペラ歌手によるマスターコースの企画など、イタリアの声楽技術の普及にも力を注いでいる。マニフィカ ラ・ムージカ♪企画、カンタービレ声楽教室主宰。奈良県音楽芸術協会理事。
[取得免許]
中学校・高等学校音楽科第一種教員免許
大阪・京橋 カンタービレ声楽教室
ホームページはこちら♪
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〇子供時代の私
恥ずかしがり。
好きな遊びはお絵かき、おままごと、お人形遊びといった遊びが好きな子供だった。
小さい頃は扁桃腺をよく腫らしては熱を出していた。
からかわれて泣いて帰って母に慰められるというパターンが小学2年生くらいまでは続いた。
〇クラシック音楽との出会い
幼馴染が通うピアノ教室にたまたまついていき、その様子が楽しくって親に頼んで通うことになった。
「人魚の歌」という曲に出会い、あまりに美しい曲で、感動して涙を流しながら練習した。
この曲との出会いが自分の想いと音楽はリンクするのだという風に私の音楽観を変えた。
〇中学時代
中学時代は音楽をやる上で最高の三年間だった。
というのも、中学時代の音楽の先生がとにかく歌わせてくれる先生で、音楽の授業が最高に楽しかった。
またこの先生が顧問の吹奏楽部にも所属していたので、毎日充実した音楽生活を送っていた。
〇高校時代
充実した音楽生活が一転、高校一年生の時は自分の満足できる音楽に全く触れる機会がなかった。
受験勉強のためにピアノを止めていたし、当時の音楽の授業も吹奏楽も「音」が存在するだけで「音楽」や「芸術」が存在するようには感じなかった。
両親が共働きで、父の意見が何より優先されるような家だったので、家にいて自分のことを言うことがなかった私が心を表現できるもの、それが音楽だったので、自分を外に出せなかったこの時期は何もかもがうまく回転しなくて毎日がしんどかった。
〇声楽との出会い
高校二年生の時に、この先、長いお付き合いになる先生に出会う。
この音楽の先生は東京芸大声楽科出身の先生で(高校一年生時の音楽の先生とは別の先生)私の声を聴いて評価してくれ、声楽の個人レッスンを受けることになった。
ここから声楽人生が始まった。
この先生の伴奏で歌うのは最高に楽しかった。
高校2、3年次のこの先生の授業ももちろん楽しかった。
大学合格までの声楽レッスンは、自分にとっては遊びの延長は言い過ぎかもしれないが、全てが喜びだった。
ただずっと心に引っかかっていたのは、自分の録音の声が好きになれなかった。
何度聴いても好きになれなかった。
でも、先生の指が奏でる音楽は自分の信じる音楽と一緒だと思ったので信じて突き進んだ。
〇発声に躓きまくった大学時代
大学ではとても音楽の知識が豊かな先生に師事した。
この頃、私の音域は全く広がらず、女性であるにも関わらずまともに出せる声が2点Fまでで、ろくに歌が歌えなかった。
歌える曲を歌うしかなかった。
高校時代の先生にはとにかく声を出せと言われたが、出した声が自分の音楽観に反する声なので、どうしても出せなかったし歌に使いたいと思えなかった。
だからせっかくの知識豊な先生がいる大学時代に私がこの先生の知識を自分の歌に生かせる機会はほぼなかった。
しかし、これも歌いたい曲はあるのに歌えない自分の現実に苦しむ日々の幕開けでしかなかった。
〇大学卒業後
イタリアに留学していた先生に師事した。発声をとても大事にしていた先生だった。
先生の持つ雰囲気からはイタリアをとても感じたし、この先生のお陰で第一回目のコンセルバトーリオ受験ができた。
この時、私は全くイタリア語が喋れなかったし、コネもないのに、とにかく行ってみるの一念で受験した。
見事落っこちたが、なんの力もない自分にイタリアで出会った人はとにかく親切で、見返りを求めないやさしさを学んだ。
自分の人生にとって大切な経験を積む一方で、やはり発声の問題は全く解決せず、むしろ深まっていった。
レッスンでも当時働いていた聖歌隊でも、自分の声が分からなくなり、声を出すときにいつも冷や汗をかいたり、恐怖感を伴うようになった。
〇普通の人の生活
ただ歌が大好きで自分の思う音楽を表現したいだけ。
友達と遊んだりサークル活動をするよりもただ歌が好きだったから歌い続けてきたけれど、この頃は声を出すとき、常に恐怖感が伴った。
こんな自分は生きること自体がうまくいっていない気がしたので、聖歌隊以外の一切の歌から離れてみることにした。
そして普通の大学生や同年代がしそうな遊びをおもいっきりしてみようと思った。
〇主人との出会い
イタリアのコンセルバトーリオ受験の時に習っていたイタリア語教室もそのついでに再開した。
その時に出会ったのが主人である。
主人を始め、この時一緒にイタリア語を勉強した友人と「ただ遊ぶ」ということをした。
なんだか足りなかったパーツが埋まる気がした。
でも、そうしていたら、一番近しいものの存在、歌が足りないと感じるようになり、やっぱり毎日がしんどくなった。
そんな時に主人が「もう一度歌ってみたら?」と背中を押してくれた。
〇師匠Maddalena Calderoniとの出会い
結婚後、主人の知り合いにオペラ歌手がいるという話になり、もしいい先生なら日本に招いて声楽講習会を企画しようと会いに行った。
写真でみるとすごく迫力があって、正直怖そうという第一印象だったが、初めて会った先生はものすごく私を開放してくれた。
私の声はメッツォソプラノと言われていたが、先生は私の声をソプラノレッジェーロと言い、スザンナや夜の女王を歌う声だと言った。
こんなことを言われたのは初めてだったし、2点Fまでしか使えない声だった私がたった二日のレッスンで3点Fまで声が出た。
自分の可能性を知り、実際に声が出た事実に天にも昇る気持ちだった。
〇飛躍
師匠であるMaddalenaとの出会いによって、どんどんと自分の声楽家としての人生が開けた。
イタリアでのコンサートやオペラ出演、教会でのソロ演奏、コンセルバトーリオ受験では外部生としては最高得点という好成績での合格をし、目に見える形で自分の実力を認められ、単純に歌いたかった曲にどんどん挑戦し歌えたことが何よりうれしかった。
〇声楽教室開校
その後、「歌いたい歌を歌うのに私みたいに遠回りする人は私が最後でいい」という思いからカンタービレ声楽教室を開校した。
〇出産
3年後、出産を機会に声楽教室を休校。
育児と同時に母の看病。
不眠と心労が重なった結果、軽度の自律神経失調症になった。
歌う時にも出産前のように思う通りに体が動かなくなった。
〇現在
以前から、技術的な説明に対して頭で十分に理解している生徒さんがなぜ再現できないのか、という疑問を持っていたが、体を壊したことをきっかけに体のことに深く注目・研究や勉強をするようになり、現在はイタリアの歌の技術の体得と、それと同時にその技術を受け止められる体に整えるという視点からレッスンを行っている。
イタリアの技術が体現できるということは体が最も効率よく自由に動くということである。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
カンタービレ声楽教室 大阪・京橋にある声楽教室
・お一人お一人の「自由に好きな歌を歌いたい」を実現するお手伝いをします。
・一回のレッスンの中で自分が納得できる声を一度は出せることを目標にしています。
音楽大学を卒業した方への専門的なレッスンはじめ、イタリアの声楽技術を生かしながら体作りや体の使い方に重点を置いたレッスンをコーラスで歌われる方や、ミュージカルやポップス歌手の方に幅広く行っています。
音大受験指導では大阪教育大、同志社女子大学、京都女子大学合格者がいます。
歌えなかった経験があるから、いろんな方の発声の問題点がよく見えてきます。
そして、それを乗り越えて解決した経験があるから、その問題点にどのようにアプローチしていけばいいかが見えてきます。
悩んでいらっしゃる方ももっと歌えるようになりたい方も一緒に楽しく歌いましょう!
大阪教育大卒。Maddalena Calderoni、安保恵美に師事する。イタリア国立ブレーシャ音楽院(Conservatorio di musica “Luca Marenzio” Brescia)にて三年制のディプロマ(corso di diploma I livello)、及びAtelier,la voce dell’arteによる声楽マスタークラスのディプロマを取得。コロラトゥーラソプラノ。イタリア、Baveno市にてPremio Fedora優勝作品であるオペラ「Airline Icarus」、Verbania市にてコンサートに出演するなど声楽家として活動しながら、後進の指導やイタリア人オペラ歌手によるマスターコースの企画など、イタリアの声楽技術の普及にも力を注いでいる。マニフィカ ラ・ムージカ♪企画、カンタービレ声楽教室主宰。奈良県音楽芸術協会理事。
[取得免許]
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