マニフィカ カンタービレ声楽教室
レッスン中に私が歌うことについて少し書きたいと思います。
私がレッスンの中で歌うということは、私が歌うことで生徒さんの歌を良くするのに効果があると考えるからで、例えば歌わないのがもったいぶっているとか、出し惜しみをしているという訳ではありません。
歌わない時の理由の一つとして例を挙げるなら、声真似になる危険性を考えていることがあります。
これは私の経験ですが、ドランマーティコの先生と私の声は違うのに、先生の声の大きさや厚み、豊かさまで真似をしようとしてしまってうまくいかなかったことがあります。
だけど、真似はあくまで「どのように声を出しているか」という部分だけを聴かないといけません。
(テノールのドミンゴも同じようなことを言っていました。動画を見た当時は「ふ~ん」という感じでしたが、今ならすごく分かります。)
でもそれが曖昧だと、生徒さんが持っている問題点の解決にならないことがあります、私のように。
私が歌わない、声を使わない場合の理由の一つです。
後は生徒さんの歌の表現を邪魔すると思った時かな…。
あくまで生徒さんの歌を歌ってほしいと思うので、私が歌ってしまうと「私の歌になる」と思う時には控えるようにしています。
自分自身が高校時代からこの年まで歌を勉強していく中で、「声」に対するイメージはどんどん変わっていきました。
昔はもっと苦労して、というか頑張って出すものだと思っていました。
でも、今は生徒さんに頑張るなというくらいです。
このイメージ一つ違うだけで、声は全く変わります。
私が声を出して生徒さんが分かることもある、もちろんその通りで、その為に私もレッスンで声を使います。
しかし、そのタイミングは人によって違います。
私はやっぱりその方に一番効果的な時に使いたいと思います。
そうですね、通っている生徒さんもこのように言われるとお気づきかもしれませんが、レッスンの最初は身体の調子を整えて、少し歌いやすくなってから一緒に歌ったりしますよね。
それと、もう一つ書いておきたいことがあります。
分からないのはそんなによくないことでしょうか。
逆に全て分かるレッスンって、どうなのかな…。
もちろん、何年も一緒に勉強してきて何度も言われ続けているから理解していることもあると思いますが(この場合には調整という感じになるかと思いますが)、新しいことを勉強しているのに分からないことがよくないことだと判断するのはどうでしょうか。
私がイタリアに行ってレッスンを受けている時も、毎日新しいことだらけで、分からないまま言われたことをとにかく繰り返していました。
これで先生の言っている道から外れていないだろうと思って練習していっても、次のレッスンで直されることなどざらでした。
行きたい先は決まってても、先生がどんな道順で案内してくれるかなんて、道を遠く過ぎてから見返してみるまでは分からないということもあるんではないかなと思います。
というか、そんなのばっかりです。
ただ、この分からない道を分からないままに進むというのは、「先生を信じていないとできない」と言うことはできます。
以前のブログで同じようなことを書いたことがあるかと思いますが、こういう理由もあって、この先生なら信頼できそうとか、話をちゃんと聴けそうだと思える、という風でないと、いいレッスンにはならないと思いし、私も結局教えられないんですよね。
そうだな、目隠しされている時に手を引いてもらう、そんな感じにも似ているかもしれませんね。
なので、レッスンって本当に生徒さん主体のものであるとも言えます。
だから私にできることというと、信頼に足る先生であるように常に自分磨きだなーと思います。
こういうことを考えると結局ここに行き着くなー、「自分磨き」(笑)