平凡倶楽部
こうの史代
本ブログでは何度目かのこうの史代である。彼女の単行本はたぶん全てコンプリートしてきたつもりだが、多忙にかまけて本書の刊行を見逃していた。本日、ようやく手にとって読んでみて、凍りついていたところである。
なんという発想と表現の多様性の持ち主かとおそれおののく。これまでの諸作品でも随所に実験的な試みが散見されてきたが、そんなこうの史代の実験ラボみたいである。観察対象は「平凡」であっても、ここにくりひろげられる世界は非凡極まりである。はっきりいってこれで1200円は安い。5、6000円の芸術書や思想書に匹敵する内容である。
とにかく驚くことは、実験が実験に堕しておらず、それが作品表現の深みを2倍も3倍もしていることである。
たとえば「古い女」は、ここで描かれる世界そのものが戦慄と福音が同居する摩訶不思議なテイストをもった作品だが、これが古いチラシの裏に描かれることで、ちょっと尋常でないリアリズムをつくりだす。父親の病院見舞いを手書きで記したエッセイ「遠い目」は、望郷と諦観がにじみ出たまさしく「遠い目」を感じさせる文章であるが、この文字の配列や太さの妙で、遠目にみると、病院の廊下の光景になるというだまし絵になる。この廊下の光景というのが、逆光に照らされてコントラストがきつい不安げに満ちた廊下なのである。これひとつでトラウマになりそうだ。予定調和なマスコミインタビューにわだかまりを覚える「なぞなぞさん」、記号的かつ抒情的という高度なバランスで沈黙の哀歌を描いた「へ海らか山」、正岡子規よろしく病床からの夕顔観察「花かぜの夜」、いずれも生半可でない対象への観察の思いと、そして表現上の試みがある。
こんなことばかりしていてこうの史代の健康は大丈夫なのかと思っていs舞う。なんかもう命を削って描いているようで、長生きしないのではないかとまで危惧してしまう。だから、最後のあとがきで“愉快だったなあ‥”と書かれると、ほっとすると同時に、これを愉快の一言で済ませられてしまうことにまた戦慄を覚える。
誤解をおそれずへんな言い方してしまうと、凡人の神経の持ち主ではないんだろうと思う。鬼才級の詩人や芸術家のみが持ち合わせているような感覚知、ある種の狂気までも感じる。鋭利な観察眼とたしかな創作技術、もはや漫画家や単なる表現者の枠を超えてしまってた、思想家の人である。