読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

空想の補助線 幾何学、折り紙、ときどき宇宙

2024年02月20日 | サイエンス
空想の補助線 幾何学、折り紙、ときどき宇宙
 
前川淳
みすず書房
 
 
 知的興奮を刺激される面白い本だった。書店でたまたま目に留まり、目次を眺めてから中身をぱらぱらしてえいやと買ってみたものだが正解だった。ネット書店だとこうはいかない。決して大型ではない書店だったが、よくぞこのような本を仕入れたものだ。なにしろ購買層をかなり選ぶみすず書房である。
 
 著者は、本書の奥付によると1958年生まれのソフトウェアエンジニアとのことだ。天文観測や電波解析を主に行っていたそうだが、「折り紙」の研究者としてそのスジでは知られているらしい。不明ながら僕は本書で初めて知った次第である。
 
 本書は理系色の強いエッセイではあるが、単に数学的な見解を披露するだけでなく、人文や自然科学の現象にまで思いをつなげていて、その芸風は寺田寅彦を思い出させる。このような理系の方法論と文系の感受性を橋渡しするような読み物は、このブログでもいくつかとりあげているが(これとかこれとか)、個人的にはこういう話は好きである。
 
 本書の特徴としてはやはり著者の専門領域である折り紙の話を随所に紛れ込ませているところだろう。僕自身は折り紙はまったく苦手で、鶴を折ってみても尻尾が変に太かったり、裏と表の縁をぴったり合わせられなくて羽の隙間から裏の白地がどうしてもはみ出てしまう不器用な指先なのだが、こうやって語られてみるとなるほど、折り紙という二次元の紙に張り巡らされる折り線や交点は、確かに幾何学的な世界へ誘う入り口なのであった。「解けないことが証明されている」ギリシャ三大作図問題を、折り紙を駆使することで解決していく様は手品をみるようだ(なお、ギリシャ三大作図問題は、折り紙や目盛り付き定規を使って解いてはいけないことになっているので、これをもって三大作図問題そのものが解決されたというわけではない)。
 
 
 本書で僕がもっとも興味をひいたのは「あやとり」の話だ。折り紙の専門家なのにあやとりに注目されるのは著者として本意ではないのかもしれないが、折り紙の専門家ならではのあやとりの固有的価値をうまく言い当てていて関心した。いや感動したくらいである。折り紙もあやとりも子どもの遊戯ではないかと思うなかれ、この2つの相違をしっかり考察するとこの人の世のすべてはこの二分に相当するのではないかというほど対照的な真理を持ち合わせているのだ。
 
 あやとりと折り紙を著者の目線で掘り下げていくと、「構造」と「手順」の相違に行き着く。これは著者が折り紙の名人だからこその指摘である。
 折り紙というのは、鶴でも紙飛行機でも、完成形をあらためて開いて広げてみれば、そこにはいく筋もの山折り線谷折り線が刻まれた正方形の紙が出現する。言ってしまえばこれは設計図だ。折り紙の名人ともなれば、その設計図を眺めれば、どこをどう組み立てればいいかは即時に脳裏に浮かぶという。これはその折り紙の組み立てを「手順」で覚えているわけではないということになる。したがって実際に組み立てる際の手順もその時々によって違ったりもするそうだ。
 繰り返すが、これは折り紙の名人だからこその視座である。僕なんか折り紙は手順でしか掌握できない。広げられた正方形の紙についた折れ線の具合から何ができるのかを想起するなんて神業はまったく想像の外である。
 
 つまり折り紙は設計図として記録することができる。この折り紙への認識は、著者の言葉でいうと「構造」ということになる。構造さえわかっていればなんとかなる。そもそも折り紙というのは二次元にプールされた情報を三次元に配置させるという極めて位相幾何学的な行為なのかもしれない。
 折り紙は「構造」として記録させることができるから、これを未来に継承したり、他の地域に普及させることはそんなに難しいことではない。折り紙は日本のものが有名で国際的にもorigamiで通用するが、かのような造形物と行為自体は世界各地にあるとのことで、折り紙文化が持つ普遍性や耐久性の証左と言える。
 
 一方であやとりだが、こちらは「構造」がなくて「手順」が全てであり、「記録」ができなくて「記憶」の世界に立ち現れるもの、というのが本書の指摘である。
 これはつまり、あやとりは他地域や次世代に継承されにくいということでもある。したがって文化人類学的な目線で観察すると、各地各コミュニティに形の異なったあやとりがある。また、言い方はあれだが先進国ではあやとりが盛んな国は少ないそうである。日本は例外ということだ。あやとりの文化が認められているコミュニティは、ネイティブアメリカンとか東南アジアの先住民あたりに顕著らしい。なんとこれは「文字を持たない文化」とも重なるそうだ。
 
 そして、あやとりというのは、折り紙とちがって形が残らない。どんなに複雑精緻な芸術的あやとりであっても、指が離れた瞬間にもとの輪っかの紐に戻ってしまう。この刹那的なところがあやとりの芸術的側面の極致とも言えよう(本書によるとあやとりは岡本太郎の琴線に触れていたということである。)
 形が残らないから、あやとりのやり方は「手順」の「伝承」ということになる。五指を模した5本の突起を左右に一対つくってそこに糸をはりめぐらせて保存したり移動させたりすることは不可能ではないがちょっと非現実的だろう。また、そうやってできたあやとりの完成形を見て、これはこれをこうやってこうすればつくれるな、ということを見抜けて再現できる名人というのが存在し得るのかも僕はわからないが、直観的には折り紙の比ではない難度な気がする。折り紙に比べるとあやとりは保存と継承の点でずっと困難な文化なのだ。
 
 あやとりの手順は、現代ならば動画に録ったりしてなんとか記録に残すこともできようが、本質的にあやとりとは手順の記憶による遊びなのである。したがって文字を持たなかった先住民族の言語がそうであるように、あやとりのバリエーションはすたれていく運命にあるというのが著者の指摘である。日本でももう誰も作り方がわからなくて過去の霧のむこうに消えてなくなったあやとり作品がたくさんあるに違いない。この章ははからずもあやとりの挽歌になっていた。
 
 
 上記の他にも、「大器晩成」は伝言ゲームのミスで本来は「大器免成」、つまりその意味は「大きな器の人間は形にこだわらない(弘法筆を選ばずのような意味)」であって、大物は遅れて花咲くなんて意味の格言は本来なかった可能性があるとか、国歌「君が代」の歌詞に出てくる「さざれ~石の~」は、原典の万葉集にさかのぼればこれは「さざれしの」と詠むのが正しいので、いまの国歌の歌詞の区切りは一単語を途中でぶった斬った不自然なのであるとか、気になる小ネタをもちだしながらさりげなく折り紙を用いた幾何問題に話がすりかわっていくところは落語のようだ。ぜひ続編も待ちたい。

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大学4年間の統計学が10時間でざっと学べる

2024年01月03日 | サイエンス

大学4年間の統計学が10時間でざっと学べる

倉田博史
KADOKAWA


 昨今は統計学がトレンドである。AIやビッグデータの隆盛がその背景にあるのは間違いない。企業の採用でもその手の人材を募集していたり、大学がその名を冠した新学部を創設したり、学生全員を必修科目にするなどしてアピールに余念がない。

 本来的に統計とは試薬の開発や気象分析などサイエンスの分野を支える手法だが、いっぽうで人々を説得するロジックとしてしばしば引き合いに出された。戦場の天使ことナイチンゲールは統計の論法を用いて国を説得し、大規模な医療改革を引き出した。かつて多変量解析は心理学の研究で用いられることが多く、日本の大学では文学部心理学科に統計学の講義があったりした。20世紀も終わりごろになって企業が製造過程において生産効率性をはかるスローガンとして統計誤差に注目するようなことがあった。

 僕は大学を卒業して数年ほどデータ統計をなりわいにしていた小さな会社に在職していたことがあった。大手企業のマーケティング部署が出してくるデータのアウトソーシング先みたいなところだった。僕自身は大学時代にいっさい統計学の授業をとったことがなく、統計については全く無知であった。それなのになんでこんな会社のこんな仕事にまわされたのかというと単にExcelが使えたからである。そんな時代であった。僕の仕事が、当時の日本のGDP向上にどのくらい貢献したのかはさっぱりわからないが、僕自身がここで統計というものを知ったのは役得ではあったと言えよう。

 ただ、そういう在野で身につけた知識の故、その中身はたいへんムラがあるものだった。なにしろ計算そのものはExcelのソフトウェアがしてくれるので我々は出てくるスコア表を見ればよい。出てくるスコアが信頼に足るものかどうかはP値なるものをみて0.05を下回っていればよいとか、そういうのは覚えたが、ではP値というのはいったい何者で、なぜ0.05を下回ればいいのかなんてことは二の次であった。そのくせクラスター分析とかコンジョイント分析とか手数だけはいろいろやってみて重宝されたが、これらの分析の計算過程はブラックボックスで、ただ出力されたスコアが信頼できるかどうかをマニュアルにしたがってチェックするだけだった。

 現場でいいかげんに身に着けたそのような統計学にプライドとコンプレックスがあったまま幾星霜、ここにきて統計ブームである。勤め先も立場も変わり、いまの自分の職務は必ずしも統計知識とは関係ないのだがなにしろ世間が追い風なので何かと会社はデータデータ言ってくる。実際に、膨大なビッグデータをぐるぐるまわして脚光を浴びる若手社員なんてのも出てくる。

 そうなってくると「俺だって若いころは統計やってたんだぜ」と言いたくなる欲求がムズムズわくが、これは老害以外のなにものでもない。ただ、ロートルのレッテルを貼られたままなのも癪である。

 ということで、統計検定を受検してみることにした。統計検定は1級・準1級・2級・3級・4級とある。統計の知識を問う資格については他にも姉妹的な検定がいくつかあるが、もっともスタンダードなのはこの統計検定だ。英検みたいなものである。
 その統計検定の中でも特に2級が目安とされていて、これをとっておくといちおう「この人は統計ができる」と市場価値として認められるとされる。

 というわけで統計検定2級にチャレンジしたのである。「昔やってたんだぜ」はウザいだけだが、「2級持ってるよ」ならば、もう少し人としてなめられなくて済むかもしれんなんて思ったのである。去年の夏頃の話だ。

 そしたら、ものの見事に玉砕した。もちろんぶっつけではなくて過去問なんかもぱらぱらみたのだが、合格点ラインが60点というのでまあなんとかなるだろうと油断したら、もう全然届いていないのである。

 というより、改めて考えると、齢50にもなってこの手のテストは本当に久しぶりなのである。これまでもいくつか資格試験や検定みたいなのものを受けたことはあったが、それらは基本的には「暗記」であった。まれに計算問題を課すものもあったがそれとて全出題のごく一部であって、なんならその問題は捨ててしまっても他で点がとれれば合格に影響しないものであった。

 しかし、統計なのだから当たり前なのだが、出題の大半が計算問題なのである。そんなテストを1時間半にわたって受ける。いまから30年以上前、大学受験以来なのではないか。その30年の間に、当方の脳みそは劣化し、集中力は続かず、出題文を読む目(試験会場ではパソコン画面で行う)は老眼でおぼつかず・・・

 

 「不合格」の画面がパソコン上にパンと出たときは絶望的な気分になったものの、それから心を入れ替えて本気で3か月ほど勉強してみた。過去問集や何冊かの参考書を相手にウンウンとやって年末に再受験したら、今度はギリギリの点数で合格した。これだけ真面目に一生懸命やったのだからもう少し点数はいくかと思ったのだが、本当にギリギリで、あと1問か2問ほど間違っていたら不合格というレベルだった。

 勉強の最後のほうは、統計知識を得るというよりは単に試験対策みたいになってしまい、このパターンの問題が出たらこのパターンの解答みたいな強引なスタイルになってしまっていた。そこで合格後に改めて手にしたのが本書なのである。

 

 

 ともあれ統計検定2級は合格したし、改めてこれを読めばもう一度情報も整理できて人前で「自分は統計ができる」と言ってしまって、なにか返り討ち的な質問をされてもまあ大丈夫かなと思ったのだが、意外にも本書を読み解くことは苦難だった。さんざん検定対策をして、そのうえで本書を読んだ上の感想だが、「10時間でざっとわかる」のは無理なんじゃないのだろうか。もちろん各章題である「分散」「t検定」「独立性の検定」「標準化」などがなんであるかはわかる。というか、それは本書を読む前から勉強していたのだから知っている。しかし、そこに書かれている解説がけっこう晦渋なのだ。自分が勉強したものはこれだったっけ、みたいな戸惑いを感じる。これ、統計学初見の人がよんでわかるのかなあ、などと思ってしまうのである。

 はやりの学問だけあって、書店にいくと「文系でもわかる統計」「中学生の知識でわかる統計」など、お手軽にマスターできそうな統計本が揃っている。暗記物がメインの資格検定はそういうショートカットもありそうだけど、本来が数式と厳密なロジックで成立している統計学はあまり近道がないのではないかと思う。
 と書くと、なんだか教訓と自慢みたいな繰り言で終始してしまうので、なんでそうなってしまうのかというのをさらに考えてみたい。今回のブログ、かなり長文になってしまった。

 

 統計学について学ぶのに一番いいのは、教師役の人と問答しながら双方向で確認しながら進めていくことではないかと、これは独学で参考書を読んだり問題集と解きながらずっと思っていたことではあった。扱うデータもビジネス現場などで扱っている実際のものであればなおよい。というのは結局のところ、統計学の学びの対象は、実際のデータと、どのような論理で成り立っているかという話と、そしてそれをもとにした数式がすべてだからである。

 だけれど、これを一方通行の文章だけで表現して読み手に伝える、というのは参考書の書き手にとってはかなり厄介な仕事なのではないかと思う。統計学の先生なんてのは、想像するに文系的な言語ボキャブラリーが豊富とも思えないし、数字と数式で成立する世界の解説をいちいち日本語の文章で説明するのは外国語の翻訳と同じで隔靴掻痒であろう。厳密に定義しなければならないものほどコトバがもつ冗長性が障害になる。統計学には「棄却する」とか「独立の元では」とか「信頼空間が」とか「自由度」とか変なコトバがいっぱい出てくるが、これも数学の世界によくある定義の厳密性を追求しようとしてこんなへんな日本語になる。業界内では通用しても部外者にはその意味するところはなかなかピンとこない。本書は「10時間でざっとわかる」シリーズの一環で、経済学とか社会学とかいろいろ出ている中の1冊だが、統計学でこの制約を要求された著者も気の毒ではある。

 つまり、統計学(おそらく数学全般に言える話だろうが)を解説書形式で説明するのは、書き手としても高度な技術を要するし、読み手がそれに対してこの文章はどういう意味か、このコトバは何かの質問も確認もできないという一方的読書体制で学ぶのはなかなか効率が悪いのだ。変に四角張った意味がはかりにくい文章と、わかりやすいけど書き手によってその説明の仕方がぜんぜん違ってしまう解説が混在するのが統計学の参考書なのである。要するに参考書だけの独学勉強方法はムリゲーと言ってもよい。

 というわけで、僕がやった勉強スタイルでは、年齢のことは棚に上げるとして、どうもここが限界な気がする。当初はあわよくば準1級でもねらうかとか思ったものだったが絶対ムリだ。高校生の我が娘には、大学に入ったら統計学の授業はとったほうがいいぞ、最前列に座って受けて質問は積極的にした方がいいぞ、と言う。いつもはうるさいなという顔しかしない娘だが、このときばかりは素直にそうだねとうなづいたのは、休日も悪戦苦闘しながら勉強したのに一度目は不合格、二度目になんとかぎりぎり合格した父親の後ろ姿を見たからではないか、と思うと、今回のチャレンジの最大の収穫はこれだったかとも思うのである。

 


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世界はシステムで動く いま起きていることの本質をつかむ考え方

2023年03月18日 | サイエンス
世界はシステムで動く いま起きていることの本質をつかむ考え方
 
ドネラ・H・メドウズ 訳:枝廣淳子
英治出版
 
 
 2015年刊行だからちょっと前の本だ。著者の名前は聞き覚えがなくても「世界がもし100人の村だったら」を書いた人と説明すれば、ははあと思うかもしれない。
 
 本書の記述内容はけっこう難解なところもあるが、全体として言わんとしているのは、この世界は因果応報の仕組みで成立しているという話である。サーモスタットで温度設定している部屋は、寒くなるとスイッチが入って部屋の中を暖める。でもそのうち暖かくなりすぎるとスイッチが消えてそしたら自然にまた温度が下がる。サーモスタットは因果の連鎖である。
 ひとつの国が勃興して隆盛して衰退するのも、経済活動が盛んになって二酸化炭素排出量が増えて温暖化して気象異常が激しくなって経済活動を破壊するのも、様々な因果の連鎖によって起こっている。この因果の連鎖を「システム」という。
 
 本書では、そのシステムを成立させる2大ダイナミズムとして「バランス型フィードバック」と「自己強化型フィードバック」を挙げている。
 
 「バランス型フィードバック」というのは、均衡を保とうとする力のことだ。冒頭のサーモスタットは、ある設定した温度に収れんするように機能する。これは均衡を保とうとしている仕組みである。
 生態学の世界では、ある一種類の生物がなにかのはずみで大増殖するとどこかで頭打ちになって急激に数を減らしたりする。これも均衡を保とうとする動きの一種だ。その生物の餌が不足したり、近種交配が進んで生命力を失ったりする。
 最近よく例としてとりあげられるのはウィルスだ。コロナウィルスも人間に感染して爆発的なスピードで増殖したものの、ほとんどの人間に免疫ができてしまうとウィルスのほうは新たな宿主が見つけ出せなくなって増殖が止まり、人間とウィルスによる数の上での均衡状態になる。また、ウィルスはあまりにも殺傷力が強すぎると宿主である人間を早々に殺してしまうことになるため、感染拡大が期待できなくなる。やがてウィルスは弱毒化する方向で進化し、宿主である人間を生き永らえさせることで感染拡大の機会を広げる。これは人間とウィルスによる毒の程度の均衡状態である。大腸菌やピロリ菌など古来から人体に生息する菌はそのようにして定着した経緯があるそうだ
 人間自身もその例にもれず、ジャレト・ダイアモンドの「文明崩壊」では、イースター島の住民は増加しすぎて島の資源を渇化させてしまい、紛争と飢餓に陥って大量死したことを記している。このイースター島による人口増減も人間と資源の因果関係によるシステムである。
 
 生態学の分野だけではなく、経済学の分野でも貨幣の流通量や物価の決まり方などでこの均衡状態に導く「バランス型フィードバック」は発生する。この社会にはバランス型フィードバックが満ち溢れているだろう。
 
 
 一方の「自己強化型フィードバック」とは、いわゆる「富める者はますます富み、貧するものはますます貧する」メカニズムである。かつて「収穫逓増」なんて言葉がビジネスモデル用語として流行った。自己組織化とか自己増殖と呼ばれることもある。赤丸急上昇中の成長企業なんかはうまくこの軌道に乗ったといえるだろう。
 ただ、自己強化型フィードバックの恐ろしいところは、その増加が指数関数、つまりねずみ算のような増え方をするところだ。これはなかなか人間の想像力として苦手なところとするらしく、コントロール不能なことになりやすい。複利式の借金とか、壁にはびこるカビなんかがこのパターンだ。昨今の地球の平均気温の上昇もたぶんにこの自己強化型フィードバックに乗っかってしまったきらいがある。
 
 ネガティブな影響を及ぼす「自己強化型フィードバック」は、十二分に注意せよという話になるわけだが、実はリスクを警戒しなければならないのがポジティブ影響を及ぼす「自己強化型フィードバック」だ。事業がどんどん好転している企業とか、生産量が拡大が見込まれる人口交配の野菜とか。
 というのは「自己強化型フィードバック」の裏側には必ず「バランス型フィードバック」のメカニズムがどこかに張り付いているからである。ある日突然「自己強化フィードバック」は止まって「バランス型フィードバック」に移行するのである。しかも「自己強化フィードバック」の終わり方は、なだらかな減衰ではなく、急に終了することが多くの実例やシミュレーションからわかっている。リーマンショックとか、アンモナイトの大量絶滅とか、フジテレビの視聴率とかがそれである。
 これはすなわち「永遠に成長するものはない」という意味でもある。システム論としてはそれが必然なのだ。
 
 したがって、どんなに成長している企業でもいつかは止まるし、その成長速度が急であれば急であるほど破滅のインパクトもでかいということになる。地球の気温も上がるところまで上がった途端いっきに寒冷化するおそれがある。最後の最後は「バランス型フィードバック」が勝つ。ビッグバンこのかた膨張するこの宇宙も、どこかの到達点で一気に収縮すると言われている。
 
 
 したがって、この世の中で無事に安寧に生きていくには、この「バランス型フィードバック」と「自己強化型フィードバック」を念頭においておく必要があるということだ。
 本書では、どのような対処はシステムに影響を与え、どのような対処はたいして影響がないか、を指南している。
 
 たとえば、会社の業績が低調のときに、単に社長の首を入れ替えただけではうまくいく可能性は低いという。なぜならばシステムというのは、「要素」と「相互のつながり」、そして「機能または目的」で成り立っていて、大きな影響を与えるのはむしろ「相互のつながり」の方なのである。「要素」である社長だけ交代しても、その会社のビジネスモデルやサプライチェーンのありようや社員のモチベーションが変わらなければ、「機能または目的」も不全のままになりやすいのは当然である。「相互のつながり」である人事や組織を入れ替え、取引先を組み直し、生産ラインや企画プロセスを直してはじめて事業は好転する。(もちろんさらに悪化する場合もある)。もし現業の社長がそれらの「相互のつながり」の改善を行えるならば、なにも社長が変わらなくてもよいのである。
 
 しかし、こういう人事と組織改編というのは、現実的にはリストラなどを行うことが多い。それによって会社の「機能または目的」が改善されたとしても、その「相互のつながり」の調整つまりリストラにあった社員にとっては、このシステム改変は「善」とは言えないだろう。大量のリストラが、瞬間的にはその会社の業績を良くしても実は負のフィードバックが「バランス型」として跳ね返ってくる可能性はある。
 そこでむしろ「機能または目的」そのものを変えちまえ、という考え方もある。たとえば富士フイルムという会社は、写真フィルム事業という「機能または目的」をもったシステムだったわけだが、写真フィルムという目的はこの時代にあってはお先真っ暗になってしまった。そこで「要素」つまり今の社員や技術を生かした「化粧品事業」を富士フイルムの「機能または目的」とすることによって、システム全体を維持させることにしたのである。
 
 他にも、ルールをいじるとか、新たな情報ループをつくるとか、いろいろ著者は指摘しているが、共通しているのはシステムを支配しているのは「表から見えにくいところ」ということだ。社長の顔とか、総務課に届けられる経費の削減とか、そういうわかりやすいところだけいじってもなかなかうまくはいかず、むしろ良かれと思ったことが逆に悪化することもしばしばなのである。(雑貨出費の削減が社員のモチベーションを多いに下げ、生産効率をさらに悪化させたりする)。なにしろ店員と客の立ち話をしているかどうかがその店の売上の影響を決めていたなんて例もあったくらいである。(「データの見えざる手」という本によると、店員と客が立ち話している姿が見えると、店員が親切で店内の雰囲気が良く感じられ、店内滞在時間が長くなって一人あたり売上が上がるという効果があったそうだ。陳列方法や品ぞろえよりも売上が上がる効果があったとのこと)
 
 このように、自分のいる組織や地域や国、あるいは生態系がどのようなシステムで成り立っているかを自覚しておくのは、生き延びる上で重要なことだろうと思う。人はどうしても感知された情報だけで限定合理的に動くものだし、どうしても安きに流れるものである。それがシステム上でリスクを高めていることだってありうる。自分が1001日目の七面鳥になっていないかどうかはたまに振り返りたい。

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渡り鳥たちが語る科学夜話

2023年02月20日 | サイエンス
渡り鳥たちが語る科学夜話
 
全卓樹
朝日出版社
 
 前作「銀河の片隅で科学夜話」が大変に知的興奮を刺激する面白さで続編を待ち望んでいた。書店で平積みを発見して小躍り。こういう本の買い方久しぶりである。
 
 前作では最終章に渡り鳥のエピソードが載った。正確な飛行ができなくなった渡り鳥を人間がエスコートする話だった。本作ではタイトルにその「渡り鳥」が冠され、本書最終章にまた渡り鳥の話が選ばれている。これまた、ヒマラヤを越えてモンゴルとインドの間を飛ぶ渡り鳥アネハヅルと、その習性に人為が関与したとあるエピソードだ。
 著者は、渡り鳥になにか感じるものがあるのだろう。渡り鳥という習性から観察される壮大な行動範囲と繊細な判別コントロールに、科学の神髄、つまりはこの世の不思議の神髄をみるのかもしれない。
 
 もともと古来から人間は「鳥」というものに得も言われぬアンビバレントな感情を抱いた。本書でも人類最古の詩は鳥をうたったものと紹介されている。また、笛という楽器は鳥の鳴き声から由来したものという説もある。そして鳥は空を飛ぶというその特徴。大空を舞うその姿は、森昌子や加藤登紀子の歌に現れるように、人間に狂おしい切望を迫った。
 渡り鳥は、先祖からの習性によって備わった本能と機能でもって、巧みにその長旅を遂行していく。空を行き交う美しい姿のみならず、あまりにも奇跡的にみえるその正確なふるまい。鳥への希求とは科学者の夢の象徴なのだろう。
 そして人間もまた動物である。人間のなりわいに見て取れる諸現象を裏で支配する数式があるのではないか。本書はそんな科学者の夢を追求する。しかし、その夢はどれもちょっとばかり危険な香りがするものばかりだ。
 
 たとえば、前作に続いて登場するのは多数決による世論形成シミュレーションであるところのガラム理論だ。前作では、極めて強い意見を持つグループが母集団の17%いれば、残りの83%が浮動層だとしてもオセロをひっくり返していくようにやがて全体がその当初17%の意見に染まるという話を紹介していた。本作では、なんにでも反対する「逆張り層」という存在が、世論形成でどのように作用するかを紹介している。たいへん興味深いことに「逆張り層」ががんばればがんばるほど、本来の意見(反対しているはずの意見)に全体世論としては集約していくというパラドクスだ。本書に紹介されているロジックを読めば、それは決して複雑なものではない。
 しかし、TwitterやYouTubeなどで見かける「なんでも反対するアカウント」は、むしろ意思決定の強固に寄与しているのだというのはなんとも不気味である。ひょっとしてそこまで見越して当局が派遣しているのではないかとまで思ってしまう。
 
 一方で、「なんでも反対する層は大事にすべし」という教えもある。満場一致の意見、すべてがゼロサムに収れんされる意見というのは、社会運営のうえで何かどこかがおかしいわけだ。ユダヤ教は満場一致を信用しないとか(ガセネタともいわれているが)、シェークスピアの世界などに登場する王室における道化に役割なんかは、これすべて機構を維持するための人間の叡智なのである。本書では「逆張り層」の上手なマネジメントが、健全な世論形成、健全な民主主義を左右するものとして指摘している。
 
 なんてことは、教訓としても教条としてもよくわかっている。しかし、人というのは弱いもので、いつのまにかイエスマンだけで囲んでしまうガバナンス機構の例は枚挙に暇がない。反対分子は退けられ、満場一致の様式美が支配する。しかし、やがてそれは内部から腐敗し、脆弱化し、そして何かをきかっけに瓦解する。歴史の宿命である。
 驚くべきことに、この勃興と崩壊のサイクルにメカニズムを読み取って数式化してしまう試みが本書で紹介される「帝国興亡方程式」だ。本当に人間ってのものは方程式を追求したくなる誘惑にあらがえないのだなあ。三体運動のようなシミュレーションはなかなか興味深い。破滅の因子が初めからプログラムされているかのごとくである。ここで紹介されているのは古代中国、唐王朝から元王朝までのシミュレーションだが、現代中国でやってもらいたいものである。
 
 科学者が諸現象に方程式を見つけ出したくなる誘惑というものは、芸術家が美の真理を見極めたいという気持ちと同じ魂のなせるものだと思う。
 しかし、魅せられた対象が原子力とかになると要注意だ。手段と目的の逆転があっという間に死の世界を引き寄せることになる。本書で紹介されるのは、眼前にチェレンコフ光(いわゆる青い光)を発生させてしまったデーモンコアのエピソードだ。無邪気がもたらす恐怖のホラーである。
 しかし、原子力ならまだいいのだ(?)。本書の前半でとりあげられているようなブラックホールなどに魅せられると本当に危険である。いまはまだ宇宙の深淵にあるものを観測するだけだが、卓上で再現される小型ブラックホール、などというのは頼むからやめてほしい。SFでは既におなじみだが恒星間宇宙旅行を実現させる推進エンジンが実現する前に、地球が太陽系ごと無くなりかねない。
 科学者にはせめて、鳥に対しての文系的感受性ーーそこに平和の象徴を見るような想像力も併せて持っていてほしいものである。

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影の現象学

2022年11月10日 | サイエンス
影の現象学
 
河合隼雄
講談社学術文庫
 
 
 就寝中に夢をみたとき、そこにはいろいろな登場人物が出てくる。
 もう何年も会っていない昔の知人が出てくることもあれば、テレビでおなじみの有名人が出ることもあれば、まったく見知らぬ人物が出ることもある。男性も女性もいる。
 
 それらはみんな自分の「影」であると著者はいう。自分のなんらかの意識、思考、感情がその人物の形象となって現れたのである。
 
 
 昨夜、僕が見た夢では、大学時代に語学クラスで一緒だったA君が登場した。そのA君が夢の中で何をしたのかまではもう忘れてしまったが、彼が登場する夢を僕はこれまで数回見ている気がする。
 各段仲がよかったわけではない。会話した回数もそれほど多いわけではない。
 
 そんなA君がなぜ今でも僕の夢に出てくるのか。いままで特に考えたことはなかったが、本書を読んでこうやって「影」なのだ、と言われればなんとなく思い当たることがある。
 
 
 A君はいわゆる「陽キャ」だった。クラス全体のムードメーカーだった。男性にも女性にも人気があった。とはいえ、ちゃらちゃらしたキャラというわけでもない。要するに好青年だった。
 それに比すると、僕は地味だし奥手だったと言えよう。
 
 とある研修があってクラスメンバーをいくつかのグループに分けることになった。そのときたまたま隣に座っていたA君となんとはなしに会話になり、どちらからともなく一緒のグループになろう、ということになった。教室のグループ分け作業というのはいつの年齢になってもちょっと心がざわつく。僕は早々に彼と同じグループが決まったことでちょっとほっとした。
 
 しかし、その後なんとなくグループづくりの進展がなく、気が付けばA君がいるグループは僕抜きで人数いっぱいになっていた。けっきょく、僕はどのグループにも属せなかった人たちで集まったような「残りの人すべて」みたいなグループに落ち着いた。
 
 こう書くと、なんだか情けない悲惨な結末のようだが、実態はそこまでひどいものでもなかった。その「残りの人すべて」には僕が仲の良い人もいたし、実際の研修においては何の支障もなかったのだ。研修の後も、A君とは何事もなかったように普通に会話した。
 
 
 しかし。この出来事はやはり僕の中で屈辱とコンプレックスを澱のように残したのだろう。これはもう30年近く前の出来事なのだが、彼は昨夜の僕の夢にも登場してくるのである。
 著者の言葉を借りれば、僕は実世界においてもう少しA君に対しての「僻み」を素直に認め、それを取り入れて生活すれば、もっと円滑な人生ができたのかもしれない。「まあ、そんなこともあったね」と軽く解釈することにして心の奥底にむりやり沈めていたということなのだろう。
 
 
 影の存在をつかむには、健常な人においては「夢」がもっとも顕著だが、もちろんこれが深刻化すると妄想とか多重人格障害になっていく。いずれもその「影」は理由があって出てくる。なんらかの心のバランスやフィードバックとして現れてくる。そう考えると、生きていく上で、いや、生きている時間が長いほど「影」は育ってくるとも言えそうだ。もちろん、ある種の和解があれば、影は出没しなくなる。一方で、影が本体を乗っ取るようなこともある。鬱病になって通常の脳みその働きができず、悲観のほうにばかり思考がエスカレートしてしまうのも肥大化した「影」の力だ。自殺というのは「影」が完全に本体を乗っ取った場合ということもできる。 
 
 そういえば、ドラえもんに、影を自分のかわりに働かせるという道具が出てくるエピソードがある。のび太が例によって調子にのって自分の影を働かせすぎてしまい、その間に「影」はどんどん知恵と力をつけて、あわや本体ののび太を乗っ取りそうになる(かわりにのび太が影になってしまう)というストーリーだ。この「影の現象学」を読めば、このドラえもんのエピソードはなかなか意味深な寓話と言える。
 
 
 本書では、影の現象学として、物語を題材に「影」を考察する。シェイクスピアにたびたび登場する道化師や、昔話によく出てくる吉四六や彦一どんのようなトリックスターをつかまえ、これは何に対しての「影」なのかを詳らかにしている。「道化師」や「トリックスター」というのは「影」を体現したものとしてきわめて象徴的なのである。「影」というからには「本体」があるわけで、本体がなければ「道化師」も「トリックスター」も成立しない。ここには社会機能論としての「影」が扱われている。
 物語を題材に「影」を考察する試みの最後として、本書は最後に「戦場のメリークリスマス」の話が出てくる。正確にいうと、この映画の原作だ。映画ではトム・コンディ演じるイギリス人のロレンスと、ビートたけし演じるハラ軍曹による、捕虜収容所での会話と行動に、彼ら二人がかかえる「影」をみる。この2人の対決は西洋と東洋の倫理と論理の相克を扱っているように一般には語られるが、著者は、ロレンスとハラどちらも「影」をもっていて、それを相手に突き出したと解説する。著者曰く「二人の人間の対話が真に建設的なものとなるためには、お互いが他に対して自分の影を露呈することがなければならない。
 なぜ、僕はA君と同じグループでなかったのか。本当はあのときA君と話すべきだったのだろう。もしかするとA君もなにがしかわだかまることがあったのかもしれない。それこそ「二人の人間の対話が真に建設的になるには」僕は、影を押し殺すのではなく、その場で露呈して会話に挑むべきだったのだろう。

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増補普及版 日本の最終講義

2022年07月24日 | サイエンス

増補普及版 日本の最終講義

鈴木大拙 宇野弘蔵 梅棹忠夫 江藤淳 他
KADOKAWA

 ここのところしばらく、読書と記録付け意欲が減退中で、当ブログも停滞している。
まったく読書を絶やしているわけではなく、つねになんらかの本が読みかけであるにはあるが、読むスピードや集中力に欠けているし、何よりも読後に感想がまとまらない。断片的なエピソードとしては覚えていても、本の全体像が頭に入っていないといったほうがよい。

 要するに脳が老化している、ということにつきる。40代を境に急速に転げ落ちているかのようだ。このまま自分は認知症になっていくのではないか、という気にさせられる。

 しかし、そんな危うい脳みそにおいても、この本は読み甲斐があった。脳みそにじっくりと染み渡る。名高い研究者の大学での最終講義を集めたものである。古くは小泉八雲や鈴木大拙から始まり、最近だと阿部謹也や日野原重明のものがおさまっている。人文から科学まで網羅されている。増補普及版とはいってもなかなか分厚くて778ページあり、モビリティにきついものがあるが、それでもカバンにいれてちょいちょい読んできた。

 冒頭を飾るのは鈴木大拙だ。禅問答(公案)の重厚な解説にまず面食らうがそれでも禅の境地とは何かの一端を知ることはできる。何かに解釈や存在意義や確認を委ねようとする限り(つまり問いかけて答えを期待するうちは)、まだまだ未熟なのである。すなわち問答しているうちは絶対に禅の境地には到達しない、という鈴木大拙の語り口にうなされる。

 さらにいくつか個人的に感銘を受けたものをひろってみると、まず猪木正道の独裁論。独裁の定義と特徴--独裁の本来とは、従来のガバナンスでは立ち行かなくなったときに臨時に許される非常事態的ガバナンスであり、期限付である限り有効なのだが、人間はその地位を得ると濫用したくなる。そしてその人(国)は孤立し、最終的には周囲によって崩壊させられるという話ーーからは、プーチン大統領の成り行きのむべなるかなを知る思いがする。
 河合隼雄のコンステレーション論では、心療や心の相談において、相手の発言を額面通りに受けとるのではなく、何が彼をこんな発言させているのかに思いをはせ、こちらからは解決策を言わず、本人の中にあるであろう文脈や因果が表面に出てきてそれを本人が気づくようにすることに徹する旨が書かれている。今日の傾聴メソッドの基本であるが、こんなところから派生してきているのかと思う。
 江藤淳の最終講義はエンターテイメントとしても面白い。題して「SFCと漱石と私」。慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスに教授として招かれたいきさつと、ライフワークとなった漱石の研究と、自分自身の矜持みたいなものを、実に凛と語っているのだが、非常に迫力と緩急がある語り口で講談みたいだ。最後に拍手が鳴りやまなかったとあるが、さぞかし現場の興奮はすごかったに違いないと思う。僕は生前の江藤淳の講演をいちど聞いたことがあるのだが、古めかしいコトバ使いにもかかわらず、ちっとも弛緩しないその組み立てと語りのスキルに舌を巻いたことがある。

 しかし、この分厚い本で最も琴線に響いたのは、日野原重明が聖路加看護大学で行った最終講義である。ここでは看護師へのたむけが語られる。よく比較される医者と看護師について、世間は医者のほうが看護師よりも偉いように語られるがそんなことはない。医者はサイエンスで看護師はケア。しかし我々が見なければいけないのは人間であって、人間の相手をするというのはサイエンスではなくてケアである。とくに終末医療。この患者はどうしても助からないとなったとき、医者はもう何もすることはできない。サイエンスの限界である。しかし、看護師の仕事はここから始まる。その患者の人生を全うさせるためのケアは、医者にはできず、看護師に託された特権である。この話は非常に胸をうつ。昨今、ブルシットジョブなどで「ケア」という言葉は再注目されているが、その神髄がこの日野原重明の短い最終講義に凝縮されているといってもよい。

 象牙の塔とか、アカデミズムの閉鎖性と有用性などがよくいわれる研究界だが、彼らの信念と情熱をみると、人間や社会や世界の真理を彼らなりの角度でいかに照射し、そして多くの人にその光明を与えていくということで彼らの仕事は決して閉じたものではないことをしみじみと感じる。プロフェッショナルとしての矜持とはなにかを、本書の何人もが語っている。


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NOISE(ノイズ) 組織はなぜ判断を誤るのか?

2022年02月10日 | サイエンス
NOISE(ノイズ) 組織はなぜ判断を誤るのか?
 
ダニエル・カーネマン他 訳:村井章子
早川書房
 
 
 「ファスト&フロー」が超有名なカーネマンの注目の最新作。なんかもう、すべての経営者、マネージャー、ディシジョンメーカー、リーダー、アナリスト、スペシャリストの四肢五体を硬直させること間違いなしの内容である。
 
 我々は日々「判断」を行っている。今日の昼ごはんは何を食べるかも「判断」だし、今週の週末は何をして過ごそうかというのも「判断」である。
 満期になった定期預金をどうするか、というのも「判断」である。新たに繰越すか、他の投信にまわすか、あるいは現金化してしまうか。
 今日はちょっと体調が悪いがどうするか、というのも「判断」である。たいしたことがないとしていつものように過ごすか、大事をとって市販薬を飲んで安静にしておくか、それとも病院に行くか。
 知人から仕事話を持ち込まれてどうするか、受験志望校でどこを選ぶか、これすべて「判断」である。
 
 これら、お金の使い方とか、体調への気遣いとか、仕事や学業の選択とか、「判断」という行為においてはその後の人生に多かれ少なかれ影響を及ぼすものが少なくない。つまり「判断」とは少なからず未来に対しての「予測」とセットであり、それからその予測にむけて実際には何をするのかという「行動」が伴う。そしてその「行動」には「結果」が待っている。
 
 これを突き詰めていくと、人が何かを「判断」するとして、その判断は「結果」からみて「正解」だったのか「間違い」だったのか、という話になってくる。
 たとえば、満期になった「定期預金」の使い道として何を選択するか。「定期預金繰り越し」「他の投信」「現金化して何かを購入する」と選択肢があるとする。実際に我々はこれらの選択肢から1つしか選べない。並行世界SFものならば他の2つを選択した場合、彼の人生はどうなるかが比較できるが現実においては我々は選択しなかった場合にどういう人生を及ぶかは永遠にわからないのである。「繰り越し」と「他の投信」のどちらのほうがその後の人生で「正解」になるかは永遠にわからない。
 そこで我々は、定期預金の使い道について何とかして判断しなければならない。世の中の景気とか金利とか、当面のライフプランとか、銀行員のセールストークなどが頭のなかをぐるぐるとまわる。そしてベストと信じるものを「判断」する。
 
 仮に彼は「投信」に使うということを選択したとしよう。今度はどの商品を選ぶかという「判断」が待っている。我々の人生とは「判断」の連続である。その「判断」の分岐の数だけ、未来の予測はわからなくなる。そんな人生を我々は生きている。
 
 ところで、この「判断」。我々は同じ条件下であれば常に同じ「判断」を下すのだろうか。思考実験的になるが「世の中の景気」「金利」「当面のライフプラン」「銀行員のセールストーク」が同じ情報であれば、彼はいつなんどきでも同じように「投信」を選ぶことになるのだろうか。アルゴリズムであれば同様のインプットは同様のアウトプットをはじき出すはずだ。では人間はどうなのか?
 
 さにあらず。というのが本書だ。
 
 たとえば彼が銀行に行ったときの天気、銀行内の待ち時間、銀行員のちょっとした容姿の違いで、じつは彼の「判断」は異なってくるのだ(セールストークの中身は同じだったとしても)。「世の中の景気」と「金利」の情報のどっちを先に知ったのかでも「判断」は異なってくるのだ(たとえ内容は同じだったとしても)。
 それどころか彼が銀行に出かける前に、家庭の中で奥さんの機嫌がどうであったかによっても、最終的な満期になった定期預金の使い道は異なってきてしまう。本書はそう看破する。
 
 これが「ノイズ」である。我々は「判断」の際、つねにそれがベストであることを信じ、その判断の根拠となるロジックやストーリーの正当性を固く信じているが、実は「ぶれまくり」なのである。我々はたとえ同条件下であっても、決して一貫して同様の「判断」ができる生き物ではないのである。
 
 
 定期預金解約のたとえ話は、しょせん彼自身の人生に跳ね返ってくる話だ。すべては自己責任といってしまってもよい。
 ところが「判断」の中には他人の人生を左右するものが多々ある。たとえば入国審査、診療、人事評価、採用面談、裁判、合コンの品定め・・・
 
 本書によればこれも「ぶれまくり」なのである。つまり我々は他人の「ぶれまくり」な判断に翻弄されているということになる。こちらが同条件下にあろうとも、相手の「ぶれまくり」によって入国審査、診療、人事評価、採用面談、裁判、合コンの品定めの結果は毎回かわってしまうのだ。上司が朝令暮改であることをぼやく話は枚挙にいとまがないが、人間は本質的にそうなのである。
 
 じゃあ、どうすればいいのか。
 
 本書では「判断ハイジーン」という概念が出てくる。つまり、「ノイズ」はあるものという前提のもとで行動をする。具体的には判断のプロセスを前もって周到に決めておく。複数人で判断するとか、その複数人はまず相互に没干渉の状態で個別で「判断」し、それを突き合わせて再度「判断」するとか。判断の根拠となる要素を複数に分解して、それぞれごとに「判断」し、それを組み合わせてどうジャッジするかをはじめから決めておくとか。(先の満期になった定期預金の場合ならば、「世の中の景気」「金利」「当面のライフプラン」「銀行員のセールストーク」それぞれを個別に判断し、それらを係数化して総合判断を行う)
 どういうノイズが入ってくるかわからないがこのプロセスを愚直に行うことがノイズ予防の行動になる。ちょうど、帰宅後に手洗いやうがいを慣行することが、手や喉にどんな菌がついているかはわからないが(オミクロン株かインフルエンザかノロウィルスか・・)とにかく感染症の予防には有効であるように。
 
 ISOなんかの認証の仕組みも同様のコンセプトと言えよう。たとえばISO27001は企業のセキュリティがしっかり為されていることを証明する認証だが、その企業が本当にセキュリティに対して万全なのかは終ぞわからないのである。経営者の証言や社員の顔つきなどから判断することなどできないし、仮に今までセキュリティ事故が一切なかったとしても、今後に何らかのサイバーセキュリティに攻撃突破されないとは限らない。そんな予測はできないのだ。
 ではISOはどうやってその会社がセキュリティ万全と断じるのか。
 ISOは、セキュリティ万全であるための「プロセス」をまず規定し、その企業が「プロセス」に準じているかをチェックするのだ。うがいや手洗いを慣行していれば、100%これで風邪をひかないという保証はないが、しかしかなりの確率で疾患リスクが減ることも事実である。これと同様に、「セキュリティのための専門の部署」があり、「資格を持った人が一定数」存在し、「セキュリティの社内ルールが規則化」され、「定期的に社員に対してセキュリティ教育」が施され、「仮にセキュリティ攻撃を受けたときにどうするかの初動マニュアルが完備がされ」・・などいくつかのプロセスが完備されていれば、かなりの確率でその企業のセキュリティリスクは減ることにはなる。
 このプロセスをもって、この会社はセキュリティがしっかりしていると「判断」され、ISO270001は認証される。逆に言えば、どんなに経営者がカリスマであろうとも、過去に無事故であろうとも、このプロセスが満たされてなければ、その会社はセキュリティ万全とはみなさないのである。
 
 このように「プロセス」遵守という価値観を導入することで、組織の判断として「ノイズ」を減らす努力はできる。つまり、「自ら」のノイズは減らすことができる。
 
 だけれど問題は、「相手」のぶれまくりによって影響を受ける場合、こちら側としての対処はどうすればいいのか。相手にノイズを減らすつもりがなければどうするのか。本書によれば、経営者であれマネージャーであれアナリストであれスペシャリストであれ、おのれの実力を過信している人ほどこういったプロセス導入を毛嫌いする傾向があるという。有能な経営者は直感的決断を大事にする、という神話は後を絶たない。真に予測精度が高い人はむしろ「自分は間違っている」という前提を常に持つ者なのだ。しかしそんな殊勝な心掛けの人は稀有である。
 我々はあいからわず、入国審査官や医者や保険の査定者や上司の人事評価の気まぐれに黙ってつきあうしかないのか。これはもう絶望的な気分になる。
 
 実は、医者においてはセカンドオピニオンという概念が既に成立している。複数の人間にアタックするというのは、ノイズの軽減のために有効な方法だ。
 そこで思い出したのが「ドイツ式交渉術」という本だ。この本には意外なヒントがあった。
 
 本書「ドイツ式交渉術」で、特にポイントになるのが再凸と交渉のススメだ。
 
 この本では、コールセンターなどに相談を持ち掛けて思うような結果が引き出せなかったとき、時間をかけてもう一度電話せよということを述べている。つまり、コールセンターのオペレーターはぶれまくっているのだから、1度目はダメでも2度目は通る可能性は想像以上に高いのだという(違うオペレーターが出れば成功確率はぐっと上がる)。コールセンターのほうにノイズを除去するためのプロセスマニュアルが用意してあることも多いが、案外にマニュアルはたいして対処法を網羅していない。
 
 それに、一人の人間の中でも大いにブレているのだから、時間をかけて手を変え品を変えて交渉するのは十分に有望ともいえる。人間には一貫性のバイアスというのがあって一度下した結論を簡単には変えたがらないが、逆に言えば一貫性を崩す根拠なり状況なりを提示できれば、変更は期待できる。
  「交渉術」というのは、要するに相手の「ぶれまくり」の習性を利用して自分の思惑のように交渉を進めていくテクニックである。時間切れを狙う、相手の疲れているところを狙う、他の人との比較につけこむなど、相手の「ぶれやすさ」をむしろ利用するのである。
 人事評価も文句があるならばやはり言ったほうがいいのだろう。今回はもはや覆らなくても、次回は考慮してもらえる可能性はある。しょせん、上司の人事評価もそのときそのときのノイズでぶれまくりなのだから、こちらからノイズを与えてやってよいのだ。
 
 本書「ノイズ」は、いかに人間は「ぶれやすいか」を白日の下にさらし、せめてものその軽減に「判断ハイジーン」という概念を繰り出しているが、ぶれまくるのが人間であるならば、その「ぶれ」を込みで立ち回るのが社会における生存術ともいえるだろう。
 
 ***
 
 ところで、本書はハードカバーで上下巻。読み通すのに1か月以上かかった。最近ともに読書力が落ちて読んでる先から忘れたり、いつのまにか活字を目で追っているだけでちっとも頭に入っていないことが多かった。
 そこで「マルジニア方式」を採用してみた。ページの余白に感想や連想をどんどん書き込みながら、本と会話するような読書スタイルを通してみた。したがって今回の読書にあって本書は書き込みや傍線がびっしりになってしまった。
 そのような読み方なので、1ページ読み通すのに大変時間がかかり、完読までに1か月以上かかることになった。
 
 だけど、そのような読書法により、今回はけっこう頭の芯にまで入ったような気がする。それどころかペンを片手にしないと読書が落ち着かないような気分になってしまった。読書スピードは落ちるが、しばらくはこのスタイルで行こうと思う。
 

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チェンジング・ブルー 気候変動の謎に迫る

2021年09月11日 | サイエンス
チェンジング・ブルー 気候変動の謎に迫る
 
大河内直彦
岩波書店
 
 
 今年の8月に、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)が第6次評価報告書を発表した。
 
 ・温暖化が起きているのは間違いない
 ・今の温暖化は人為的なもの(二酸化炭素などによる温室効果)であることは間違いない
 ・今後20年で気温が1.5度上昇するのは間違いない
 ・温暖化が原因で極端な気象異常が起きているのは間違いない
 
 ということで、なんとなくそうなんじゃないかなーと思っていたものがみんな断定されたという感じである。
 
 
 ところで、本書は、地球温暖化に警鐘をならす本ではない。本書の内容を一言でいうと、
 
 「地球の平均気温はあるとき短期間でがくんと変わることがある」
 
 ということを、膨大な研究結果から説明してくれているものである。
 もう少し踏み込むと、
 
 ・地球という星は「氷期」と「間氷期」というふたつの平均気温帯で落ち着く諸条件をもっている。(現在は「間氷期」)
 ・間氷期と氷期の平均気温差は8度くらい。
 ・「氷期」から「間氷期」に(あるいはその反対に)変わるのは周期的な規則性がある(ミランコヴィッチ・フォーシング)
 ・ただし、その周期性とは別に、短期間で気温が低下(あるいは上昇)したことが過去の地球では何度か起こっている(イベントと呼ばれている)
 
 気になるのは最後の「短期間での気温変動」だ。つまり、現在「間氷期」である地球は、「短期間」で「氷期」のほうに転がり込むリスクがあるということである。
 
 
 あれ? 寒くなるの? 「地球温暖化」なんじゃないの? と言いたくなるが、そのからくりを本書はていねいに説いている。
 つまり、温暖化による北極海やグリーンランドの氷山や氷床の融解は、最終的には地球の寒冷化へのレバーを引いてしまうということだ。これを極端にしたのがハリウッドのパニック映画「デイ・アフター・トゥモロー」である。
 
 この短期間で急に変化する力学を、「ヒステリシス」という。解説で成毛眞氏が「履歴効果」と述べているが、つまり少しずつ変化するのではなく、ある程度いっぱいいっぱいまで要因になるものが溜まったところで急に相転移するように事態が変わることだ。鹿威しのようなものである。ヒステリシス現象そのものは自然界にも人間界にもあふれているが、気象条件にもこれがあてはまる。、
 で、これが怖い。過去の地球の歴史をつまびらかに調べてみると、これが何度か起こっているのである。しかもそのメカニズムがなんとなくわかってきたのである。
 
 この結論から本書が示唆することは、その氷期並みの低温にむかってヒステリシスのレバーを上げてしまっているかもしれないのが地球温暖化かもしれないということある。
 ここのところの気象異常の数々は温暖化現象が原因なのは薄々感づいているが、最終的にはダイナミックな変化として寒冷化してしまうというのがミソである。
 そのからくりとして、地球の気象条件を決めるスイッチが北大西洋海域の塩分濃度にあるという話は非常に興味深い。グリーンランド、北極、北米大陸の東側。このあたりの淡水や氷塊の状況が要になってくる。これが北大西洋に干渉すると塩分濃度は下がる。

 過去の歴史を検証すると、速いものではなんと30年足らずで一気に温度帯が変わっていったそうである。デイ・アフター・トゥモローはわずか数日で寒冷化してしまったが、30年で変化することは現実に起こったことなのだ。
 
 地球にはこういった「普遍的」な性質があるのだ。つまり、気候システムというのはびくともしないほど堅固なロジックに支えられている。本書の主眼はそこにある。なのでなにかを作用させると気候は変わる。過去の地球上はそうやって気候変動してきたのだ。これを証明してみせたのが様々な科学者の挑戦と苦難の歴史である。海底に積もる堆積物や、グリーンランドや南極の氷床コアを検体にして、地球の公転自転地軸の傾きなどの天文学的観点から、酸素同位体比や炭素年代法といった化学の世界をあてはめていきながら、過去の地球の気象の歴史を再現していく様はドラマチックだ。
 
 
 だから、繰り返すが本書自身は地球温暖化を警告した書ではない。ただ静かに「レバーを上げてしまえばもう止まらない」ことを伝えている。
 
 46億年の地球史において人新世の今日。そのレバーはもう完全に上まで動かしてしまったのかか。それともまだ半レバー状態なのか。
 先のIPCCの報告で究極に考えるべきは「氷河は溶け続け、数千年間にわたって海面水位は上昇し続けるという。」というこの部分になってくる。どこかで一挙にヒステリシスが稼働するとして、あとはそれが10年先か100年か1000年かということだ。
 そう考えるといまさらの二酸化炭素抑制ではなくて、そうなった地球での適応の仕方を考えることなんじゃないかなどとも思う。カーボンニュートラルと言われているが、2度気温があがってなお(しかもそのあと8度気温が下がる)、どうやって生存するかというのを実は考えておいた方がいいんじゃないかという気がする。
 

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「役に立たない」研究の未来

2021年07月16日 | サイエンス
「役に立たない」研究の未来
 
初田哲男・大隅良典・隠岐さや香・他
柏書房
 
 
 科学者の研究活動、とくに基礎研究と呼ばれる分野において、研究費のもとになる国や企業や財団からの補助金が、「何の役に立つのか」という観点で審査される、あるいは「すぐに役に立ちそうにもないから」という理由で予算を削られたり、審査に落ちたりする。基礎研究なんてものはそもそも簡単に「何の役に立つ」と断言できるものではないのにこれはどうしたことか、という問題意識を背景にしたシンポジウムの記録である。
 
 
 僕は「研究者」なんかじゃないけど、この「役に立つか立たないか」というアジェンダには日々頭を悩ませている。そしていつのまにか自分自身「それって役に立つのか?」という観点で物事を見てしまおうとしている。仕事上のあれこれもそうだし、子どもの教育とか諸々の経験値とかもそうだし。もちろん政治や行政であれこれやるたびにそれは役に立っているのか立っていないのかの観点で見てしまおうとする。ここまで強硬しながらの東京オリンピックも、大阪の万国博覧会も「何の役に立つのか」という観点でついついとらえてしまう。あろうことか、本来好きである読書でも、書店で本を手にとりながら「この本を読むと何か役に立つだろうか」なんてことを頭をかすめてしまう。
 ここ数年の新入社員の様子をみると「いかに自分が役に立つか」というアピールというか実績づくりに余念がない。プレッシャーになっているといってよい。万事において、この世の中「役に立たない」と思われた瞬間もはや居場所はない、ここから退場せよと通告されるに等しい。どうもそんな空気になっている気がする。
 
 
 とはいうものの、本書で再三にわたって議論されているように、この「役に立つか立たないか」というのは、ひどくトラップ性の高いアジェンダなのである。
 
 ①それは誰にとって役に立つことなのか。自分なのか、他人なのか、特定の集団なのか、日本なのか、社会なのか、地球全体なのか。
 ②それはいつ頃までの期限で役に立つことなのか。明日なのか、今月なのか、今年中なのか、数年以内なのか、10年後か、100年後か。
 ③それが役に立つのはどのくらい自明なのか。100%なのか、半々なのか、ひょっとするとなのか。
 ④それが役に立つか立たないのか判断するのは誰なのか。その人の判断や根拠は信用できるのか。
 
 こういったある種のプレゼンテーションに耐えられないといけない。
 
 だけど、実は最大のトラップは「役に立つか」というアジェンダそのものにあるだろう。
 たとえば、本書の主張にあるように、一見役に立たない基礎研究も、「遠い未来で役に立つ(かもしれない)」「何かの波及で役に立つ(かもしれない)」「誰かの研究と相まって役に立つ(かもしれない)」。
 つまり、何が役に立って何が役に立たないかを真に仕分けできる人間なんてこの世にいないのである。Covidウィルスの変異種を予見したワクチン開発の研究を10年前にやっても誰も役に立つなんて思わなかった。何が役に立つかなんてわからない、というのが真相だろう。
 ノーベル賞なんかをみていると、最近の研究結果のものもあるが、30年も40年も、どうかすると半世紀以上前の研究がここにきて功を認められて受賞したなんてものもけっこう多い。
 
 だから、何が役に立つかなんてわからないので、とにかく「多様性」を担保して、いろいろ同時並行でやってみて、何か芽が出そうになったらとりあえずそれに集中する、もちろん他のものもそのまま生かしておく、というのが本当は理想なのだ。本書の主張もそこにある。
 
 
 でも、そんなのみんなわかってるんだよなという気もする。
 研究機関の資金を支える国も、企業も、財団も、台所事情は似たり寄ったりで、全分野に潤沢に資金を用意できないからこそどうしようということなのだろう。そのときの予算の分捕り合いにおいて「役に立つ」プレゼンテーションの上手なものが勝つ、というのが実情だ。これは「研究」に限らない。会社のプロジェクトの予算申請も、国や自治体における各予算の分捕りも、さらには学校のクラブ活動の予算折衝も、家庭での大きな買い物の交渉も、子どものおねだりもみーんなそうである。
 つまるところ、我々の社会全体が「役に立つか立たないか」を仕分け判断として動いているとしか言いようがない。その先にはそれがどれだけ稼げるのかという経済的な面があるのも確かだし、行きつく先は資本主義社会とか民主主義あたりの妥当性の議論になってしまう。
 それに、この観点ではなくて「面白いか面白くないか」「カネがかかるかかからないか」など、他の判断軸を用いても結局は角が立つようにも思う。なんにせよ「仕分け」は避けられないからだ。そう考えていくと、この問題は出口がないような気もしてくる。
 
 一方で、本書は最後のほうで「役に立ちすぎる研究には怖い側面がある」としてルース・ベネディクトの「菊と刀」を挙げている。ある種、日本の運命を決定づけたといってもよい研究である。ある意味で「菊と刀」はGHQの日本占領統治方針において我々日本人にとってなんとかぎりぎりの妥協点の軟着陸を誘導したといってもよいだろう。だけど、本書の研究結果が違うものだったら、GHQは違う占領統治方針を敷いた可能性だってある。それが今より良いものだったか悪いものだったかはもはや永遠にわからない。政策に直結する研究というのは確かに怖いところがある。
 この「菊と刀」。じつは僕はこの本に心底感動したクチである。日本人分析の指摘の的確さというよりも、日本語もわからないし日本に行ったことがなくても、聞き書きだけでここまで迫真に近づけるのかということだ。彼女のスキルがすごかったということだが、文化人類学的手法の凄みを見た思いがした。
 そう考えると、「役に立つか立たないか」という観点のひとつに、その研究到達目標とはべつに「やり方」という点からフォーカスする意味もあるかもしれない。中世錬金術も目的としては現代から見れば噴飯モノであったが、その過程で結果的に多くの副産物が科学的成果として生まれた。聞きかじりだがナイロンもペニシリンもみんな別の研究課程の中で副産物として生まれたそうな。
そういう意味では、いろんな手数を確保しておくというのは、今後の不透明な社会においてかなり大事なことのようにも思う。

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0番目の患者 逆説の医学史

2021年06月06日 | サイエンス
0番目の患者 逆説の医学史
 
リュック・ベリノ 広野和美訳
柏書房
 
 
 「病気を感じる人たちがいるから医学があるのであり、医者がいるから人びとが彼らから自分の病気を教えてもらうのではない」。(ジョルジュ・カンギレム「正常と病理」)
 
 なるほど。その通りだ。愁訴する人がいてはじめてそれは病気と認定されて治療が施される。つまりはじめに患者ありきということになる。
 医学の歴史というと、ジェンナーやパスツールやアルツハイマーのように医者のほうばかり注目されるが、患者には患者のヒストリーがあり、そこには医者サイドから語られることのない世界がひろがっている。医者サイドからみる医学史は栄光の歴史だが、本書は患者側から病気と治療の歴史をみていくことで医学の黒歴史を照らしている。
 
 本書に出てくる患者は様々だ。病気や治療--失語症、前頭葉損傷、麻酔治療、脳外科手術、狂犬病ワクチン接種、無症候性腸チフス、アルツハイマーなどなどが登場する。それらの「0号患者」が登場する。「0号患者」とは、おそらくそれ以前にも同様の症状や体験をした人はいたに違いないが、医療界によって認められた最初の患者--すなわち最初の治験者である。
 
 この患者の歴史が示すのは「診断」と「治療」と「治癒」が必ずしも一致しないということだ。
 つまり医者の見立てが間違っていたり、治療法が間違っていたり、そもそもそこまでの医療技術がまだ発達していなかったりする。また、「診断」は正しくても、「治療」法がなくて対処的なことしかできない場合もある。また患者の人権意識というのもまだそれほど意識されていない時代である。いずれも医者側から見れば医学の発展につながるひとつひとつの礎と言うこともできるが、対象となる患者は一人一人血の通った人間であって、要は「0号患者」の多くは不幸な人生を歩んでいる(もちろん完全に治癒した幸運な人もいる)。
 
 ここらへん読んでいてなんとなくブルーな気分になってくる。
 
 
 もちろん時代が進めば、抗生物質やワクチンなど医療技術の発展によってかなりの病気が治療できるようになった。患者受難の時代は終わろうとしていた。
 
 ところが医療業界は次の手に打って出る。20世紀も後半になってくると、そもそもの「患者からの愁訴」だけではなく、医療業界および製薬業界のほうから、健康な人をつかまえてこれまで特に問題視されなかったものを「治療すべきもの」すなわち「病気」と定義するようになってくる。病気は罹ったら治すのではなく、罹らないようにする、という予防原則の道が拓かれたのである。
 一見ごもっともだが、この予防原則には落とし穴があって、本当にそれを「病気」のリスクとみなせるのか、予防のためにとったその処置は本当に妥当かというところが未解決なことが多いのである(ワクチン陰謀説もこの延長にある)。そしてここにまた、やらなくてもよかった余計な処置や投薬をして取り返しがつかなくなった悲劇のゼロ号患者が登場する。
 
 こうしてみると医学の発展とは患者の死屍累々の上にあるんだなと思うばかりだが、この傾向は今後もさらに続くであろう。ユヴァル・ハラリ「ホモ・デウス」の指摘を待つまでもなく、我々は「健康」維持のためにますますモニタリングされていく。最近のスマホは睡眠時間から歩数から椅子に座っていた時間まですべて記録してあれがリスクだこれがリスクだと指摘する。「三大成人病」こそがラスボスで未病や予防こそが原則であるという観点はいまや世界のスタンダードだ。ヘルスケアは巨大市場である。我々は「患者」ではないのに医療の対象になっているのである。
 
 そんなヘルスケアに日々執心する我々に冷や水を浴びせるように、現代でもたまに患者の愁訴で新たな「病気」が定義されることが間欠的におこっている。それが80年代のエイズ、90年代のSARS、00年代のエボラ出血熱、そして現代の新型コロナだ。これらは登場当初「治療できない病気」として人間界に出現し、世界中で大パニックになった。おそらく新型感染症はこれからも一定の頻度で出てくるのだろう。
 
 いまや我々は巨大なヘルスケア市場の真ん中で常時モニタリングされながら、それでも十数年に一度出現する新型感染症になすすべもなくなる、そんな未・患者を生きているのである。
 

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スマホ脳

2020年12月28日 | サイエンス
スマホ脳
 
アンデシュ・ハンセン 訳:久山葉子
新潮新書
 
 
 さいきん、ちっとも読んだ本が頭に入らない。それに集中力が続かず、すぐに休憩をいれたくなる。先ごろそんなことを書いた。
 
 それを歳のせいにしていたが、もしかしたらこれこそが「スマホ脳」のせいかもしれない。
 
 
 本書の主張はシンプルだ。

 わが人類の身体は、20000年の時間をかけて生存のために最適化した。
 
 20000年の期間のほとんどは、様々な外敵に脅かされ、あるかないかの食糧をひたすら探し回り、病気やケガに脆く、生まれた人間の半数は10歳までに亡くなった。
 そんな過酷な環境の中、人類は固い結束の小集団で生き抜いた。一方でそれは他の集団との仁義なき闘争でもあった。
 わが身体は、そういう環境で生き抜けるよう最適化されたのである。生き延びるためには何に警戒し、何に心を許してもよいか。すなわち、我々の脳は何にストレスを感じ、何にリラックスするかはこの20000年の積み重ねで得た生存本能なのである。
 
 ところが20000年の果てに、人類はこれまでの人類史上遭遇したことのない生活環境に急激に突入した。
 
 それが「スマホ」である。
 
 「スマホ」が世の中に普及して10年しか経っていない。人類の脳や身体はスマホのある社会にまだ適合できていない、というのが本書の主張である。
 
 10年。20000年の歴史のうちの最後の10年なんて、ほんの一瞬である。
 なにしろ、このブログでさえ、開始したのが2007年で、そのときにはまだスマホは登場していなかったのだ。まさについこの間である。
 
 スマホというのは極めて便利な機器であるが、その最大の価値は、24時間常に社会ネットワークにつながっていることだ。パソコンやインターネットはそれ以前から存在したが、スマホの「肌身」離さずに済む携帯性と、技術革新して高速化・広域化した通信環境が、われわれの社会ネットワーク環境を変えてしまった。
 
 結果、つねに我々は何百人というコミュニティと接続し、他人が何をしているかをSNSを通じて知り、リアルタイムでコミュニケーションをとり、「いいね!」やハートマークの数による評価を受け、昼も夜もディスプレイのブルーライトを目に浴び、手紙もメモも手書きではなくてフリップ入力するようになり、知らない事柄を調べるのも、路線の乗り換えを調べるのも、辞書やガイド本を繰ることがなくなった。
 端的にいうと、スマホの登場は20000年の人類史において突如「これまでなかったことが急激にあるようになった(社会ネットワークに常につながるようになった、他人が何をやっているかいつもわかるようになったなど)」一方、「これまでやってきたことを急激にしなくなった(手と足を使ってモノを調べたりすること、グーグルマップを使わずに勘と経験で知らない道を歩くなど)」という急変化をつきつけたのである。
 
 これが人類の脳にどういう影響を与えることになるのか。
 
 正確なことは誰にも解らないだろう。ただ、20000年人類をとりまいてきた環境に最適化してきたこの身体が、わずか10年で急に起こったスマホ環境にすぐに適合するわけはないとは思う。
 同様の仮説はスマホに限らない。現代病とも言われる肥満や糖尿病や高血圧つまり成人病は、現代生活にまだ人類が適合していない故と言われている。20000年に渡って少ない糖分塩分と、一日中動き回る運動量で最適化されている身体に、現代の食生活と運動量がかみ合っていない。(こういうリンクの存在も、本書によれば脳の集中力を殺ぐ効果があるらしい)
 しかし、成人病の根源とされる欧米型食生活も、一般に浸透したのは、戦後からカウントしたとしても約70年程度である。スマホの普及スピードはその比ではない。
 
 本書ではスマホ生活が我々の認知心理や行動にどう影響を与えているか様々な研究結果を紹介している。恐ろしいことに、こういう研究は着手してから実験や観察を経て分析結果を得るまでに5,6年かかる。いま、スマホが人体や社会に対して与えている影響の研究結果は、なんと2013,4年ころのスマホ環境なのである。ムーアの法則とラットイヤーの世界において、現代のスマホ環境が人類に何を作用するか、我々は永遠に知る機会はないかもしれない。

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ヒューマン・ネットワーク 人づきあいの経済学

2020年12月21日 | サイエンス
ヒューマン・ネットワーク 人づきあいの経済学
 
マシュー・O・ジャクソン 訳: 依田光江
早川書房
 
 ずいぶん前に「つながり 社会的ネットワークの驚くべき力」という本を読んだ。人間同士が築く社会ネットワークの効果や影響をシステム的に読み解いた本で実に面白かった。
 この本によれば、自分が行った行動は知ず知らずのうちに自分の知り合いの知り合いにまで影響を及ぼしているそうである。また、逆に自分自身が起こした判断が、実は知り合いの知り合いの行動に影響されている可能性があることなども示唆されている。あなたがダイエットを始めたきっかけをよく思い出してほしい。それは誰かの影響ではなかったか。そうしたら、その誰かもまた別の誰かの影響である可能性が高い。
 ほかにも、ネットワークの指向性として、似た者同士がつながりやすい、すなわち喫煙者なら喫煙者同士、肥満者なら肥満者同士がコミュニティを形成しやすいこと、転じれば幸福感の強い人は幸福感が強い人と知り合いとつながりやすく、逆に不幸感を積もらせやすい人はやはり不幸感のある人とつながりやすい、なんてことも書かれていた。
 
 SNSが世の中で一般化するよりちょっと前に刊行された本(日本版は2008年)だったためか、それほど大きな話題にならなかった。だけれど、この本は明らかに時代を先取りしていた。SNSが発達し、フェイルターバブルとかチェンバーエコーとか呼ばれる現象がささやかれる今日、この本は今一度読まれてよい内容だと思う。絶版はされていないようで、大型書店などにいくとハードカバーのものを今でも見かけるが、文庫本化したほうがいいと思うよ。講談社さん。
 
 
 今回とりあげた表題の本も同様のテーマである。もちろん今日の時代性を鑑みている。
 本書もいろいろな例や研究をとりあげているが(「つながり」と被る事例もある。ジェファーソン高校による学生同士の恋愛(肉体)関係ネットワークの事例は、やはりそうとうインパクトがあるからか、ちょいちょいあちこちで引用される)、本書のベースにあるのは、人が社会ネットワークを形成する上でどうしても働いてしまう「同類性」と「分極化」という力学だ。同類性というのは「似た者同士」。分極化というのは「お互いに疎遠になる」ということ。つまり「似た者同士」がつながりやすく、異質なもの同士は疎遠になりやすい、ということである。
 アメリカ大統領選挙に象徴された「分断」なんてのはまさにこれである。そういう意味では、「同類性」と「分極化」は今日的キーワードともいえるが、本書を読むと、SNS等とは関係なく、これらは古来から人間社会が持つ普遍的な性質なのだというのがよくわかる。だからこそ新約聖書には「富める者はますます富み、貧しき者は持っている物でさえ取り去られる」なんて書かれているし(俗に「マタイ効果」と呼ばれる)、まわりの大多数に影響されて意見が相転移していく現象に対しては昔から「朱に交われば赤くなる」なんて諺が存在してきたのだ。
 人は似たような見た目、似たような経歴、似たような考えを持つ人同士で群れたがり、異質なものとは遠ざかろうとする。これは古来からDNAとして刻み込まれた生物的本能なのであろう。ということは、多様性の確保というのは本能に逆らう行為とも言える。努力と覚悟がないとできないのだ
 
 
 「似た考えの者同士がつながりやすい」という指摘は、言わば神の視点での観察である。我々がここから学ばなければならないのは、では自分はいったいどこからその「考え」をもらったかということだ。
 人は、社会に生きる本能として、まわりの人がどういう言動をとっているかという状況を見ながら判断する。ひづめがあってほっそりした四本足の動物がいる。自分以外の大勢があの動物は馬だと主張していたら、自分もあれは馬なのだろうと信じやすくなる。もしかしたら鹿なんじゃないかと思ったとしても、あまりにもまわりが馬だ馬だとなれば、なかなか鹿と断言するまでの自信は持ちにくい。「馬鹿」という言葉の語源もここに由来する。
 
 ところがここに落とし穴がある。本当に自分以外の人はみんな心底あれは馬であると納得し、他人に証明できるのかとなれば、必ずしもそんなことはなかったりする。ここにネットワーク効果のいたずらがあるのだ。要するに「他の人があれを馬というから、自分も馬と思った」に過ぎないのである。
 あの動物は馬だという情報を最初に発した人は何人くらいいたのか。これが必ずしも多数者ではないことは往々にしてある。しかし、あの人がそういうのなら馬なのだろう、という連鎖が連鎖をよんで、「あの動物は馬」というのが常識のように見えてくる。当初は馬という意見と鹿という意見は少数者同士のほぼ拮抗で、それ以外の人はどちらの意見も持たなかったのだが(もしかしたら鹿という意見のほうがちょっと多かったかもしれない)、ちょっとしたゆらぎの違いでその後の増幅効果に差がついてしまい、あたかも馬以外にありえないように膨らんでしまうことが多いのである。
 
 本書では、この少数者の情報のはずだったものがいつのまにか主流意見のようにしてあなたの耳に届くようになる現象について「ダブルカウンティング現象」とか「エコー現象」として説明している。
 ダブルカウンティング現象というのは、あなたが2人から「あれは馬だね」と同じ意見をきいたとき、まるで2人がその意見を持っているように思うが、実はその2人は共通のとある知人である(仮にKさんとする)からもらった意見を語っているにすぎない場合を指す。つまり、本当はKさんただ一人が「あれは馬だ」という意見なのに、Kさんが2人に伝え、その2人が別々にあなたに「あれは馬だよ」と伝えたためにあたかも主流の意見に見えるということだ。
 エコー現象というのは、あなたが「あれは馬なんじゃないかな」という意見をLさんに話し、LさんがそれをMさんとNさんに話し、MさんとNさんがあなたににあの動物は馬ですね」という意見を伝えてくる現象だ。あたかもあなたは自分の意見「あの動物は馬である」というのは同意見者が多くて正しかったように錯覚する現象だ。実際は、あなたの意見がただ戻ってきたにすぎない。
 フィルターバブルやチェンバーエコーという現象は、こういう力学がSNSという非常にネットワーク性を発揮しやすいプラットフォームによって先鋭化したものである。
 
 こういったネットワーク効果による情報価値の肥大化に踊らされないようにするには、逆説的だがよりネットワークをまめに張り巡らせることだ、というのが本書の主張である。
 重要なのはネットワークの張り方だ。その要諦は「異質なもの」と相互ネットワークするということだ。これが同類性と分極化に端を発するダブルカウンティングやエコーを防ぐことになる。
 そもそも、社会の秩序とか持続可能性という観点からいうと、同類性と分極化を突き進むことはリスクなのである。本書では、孤立主義が戦争を引き起こしやすいということを証明しているし、有名な心理実験であるスタンフォード監獄実験は、同類性と分極化が人の心理と行動に何を与えるかを顕かにしたものともいえる。アメリカの「分断」はまさに社会不安や騒動を招いている
 反対から言えば、ガバナンスが良くなかったり不安がある社会は同類性と分極化が進んでいるということでもある。
 施政者があえてそのようなネットワークを築いている場合もあり、これは独裁の温床となる。本書で紹介されているメディチ家のネットワークの作り方は、メディチ家をハブとし、情報ノードをスポークのように伸ばしたものだった。すべての家系はメディチ家とつながっていたが、メディティ家以外の家系が横同士につながらないように巧みにコントロールした。メディチ家にとってはこれが繁栄の基礎になったが、それ以外の家系にとってはメディチ家の独走に抗うことができなかった。
 
 したがって、自分に影響を与えそうなコミュニティ、情報ソース、いつも自分がチェックしているSNSやインフルエンサーをいまいちど点検したほうがよい。それが「似た者同士(組織・年齢・地域・コミュニティなど)」ならば、あなたにくる情報はダブルカウンティングやエコーによって肥大化されていることを疑ったほうがよい。そして自分とは異質な人々とのつながりを意識して確保したほうがよいだろう。ハブとノードによる情報支配の一形態にパノプティコン型と呼ばれるガバナンス体制があるが、これに対抗するには横同士の情報共有が不可欠である

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生と死を分ける数学

2020年11月11日 | サイエンス
生と死を分ける数学
 
キット・イェーツ 訳:富永星
草思社
 
 歳のせいか、本を読んでもなんか頭に入ってこない具合がひどくなっている。記憶に定着しないとでもいうか。読んでいるときはなにか面白くてためになることが書いてある気がするのだが読み終わるともう忘れているのである。一説によると、歳をとると生きてきたぶんだけ脳内に蓄積されたメモリーの量も溢れ気味になって、情報処理するときにエラーをおこし、うまく記憶が引き出せなくなるのだそうである。
 一度読んで頭に入らなかったのならば、また読み返せばいいのだけど、べつに必要にかられて勉強しているわけでもないし、義務感で再読しても面白くない。かといってそのまま忘却の彼方に葬り去られるのもくやしい。
 というわけで、同ジャンルの本を何冊か続けて読むことがある。読めばだんだんこの分野の基礎リテラシーがついてきて、少しは頭に定着しやすくなるし、同じエピソードが出てくれば、それは業界内で重要なエピソードなんだということがわかる。
 
 というわけで、「銀河の片隅で科学夜話」や「平均思考は捨てなさい」や「アルゴリズム思考術」といった数学にまつわる本を読んでいる。「銀河の片隅で科学夜話」に出てきた検査の偽陽性発生率が引き起こす勘違いの話がこちらでも出てきて、この業界では有名なパラドックスなんだと知る。「アルゴリズム思考術」に出てきたオバマ大統領がバブルソートについてコメントする話が出てきて、なるほど反響を呼んだんだなとわかる。
 
 本書で一番興味深いのは最終章、感染症のパンデミックシミュレーションを数学的に解き明かす数理疫学の章だ。本書が執筆された時点でコロナ禍はまだ起こってなかったため、本書の指摘は予言の書ともいえるし、あらためてコロナ禍を照らし合わせてみることで本書の当たり外れの点検もできる。
 それにしても、あの「人の接触を8割減らす」とか「2週間は自宅で待機」とかいうのはみんな数理疫学のシミュレーションだったのだということが本書でわかる。7割でも10日間でもないのはしっかりとした計算根拠があるのだ。
 本書によれば、その数理疫学を活用して封じ込めに成功したのがエボラ出血熱とのことだ。しかし、西アフリカでおきたあの伝染病も、終結宣言が出るまでは2年半かかったそうだ。ということは、全世界に広がったコロナに終結宣言が出るのはいつのことだろうか。(そのまま風土病になる可能性もある)。
一方、イギリスにおける麻疹の再流行の話も興味深い。反ワクチンキャンペーンのため、ワクチン接種率が90パーセントから80パーセントに減ってしまった。たいして減ってないように見えるが、実はこのスコアの間に事態を相転移させる閾値が存在した。麻疹の患者はなんと20倍に増えたのである。ネットワークインパクトの恐ろしさをみる思いがする。
 
 ところで、本書のタイトルにある「生と死を分ける」、なかなか剣呑なタイトルだが、これが本書のコンセプトである。数理疫学なんかはその最たるものだろう。
 とはいうものの本書でとりあげられる事例の多くはもっと生臭い。数字というのは客観性の代名詞みたいなもので、しばしば証明や証拠に用いられる。しかし、その数字を用いるのはやはり人間であって、使い方を間違えると本人の意図に関わらず大変な結果をもたらす。まして人の命や人生がかかっているときは。本書ではそういう数字の間違った使い方による被害者、犠牲者が次々出てきて暗澹たる気持ちになる。
 
 とくに顕著なのは「統計」である。
 統計がいかに胡散臭いものであるかは「統計でウソをつく法」という古典的名著があってこれは文系理系問わず読んでおいて損はないと思うが、統計に限らず、何かの数字が誰かへの説得に使われるときは、ほぼ間違いなくその数字は客観的中立的根拠ではなく、説得のレトリックとして都合よく用いられると思ってよい。あからさまな「嘘」は少なくとも、いい加減だったり歪曲されたり、都合の悪いものは隠された統計の引用例はごまんとある。しかし、数字のもつ信頼感(宗教といってもよい)は、市政の人間を動かすに十分な力がある。
 説得に統計を持ち込んだのはナイチンゲールが最初だという説がある。これをして彼女のことを「統計学の母」と呼ぶむきもある。ナイチンゲールをペテン師視するつもりは一切ないが、ナイチンゲールはイギリス政府を動かしたくてその説得の材料に統計を用いた。この「動機」は事実である。実際にイギリス政府は、ナイチンゲールの示した統計によって動いたのだった。統計とハサミは使いようである
 
 
 「統計」についつい説得されてしまうのは、人が「数字」が示す肌感に弱いということでもある。人間の想像力を刺激してしまうのである。
 しかし、人間の想像力が追いつきにくい「数字」というのもある。そしてこれがまたその想像しにくさゆえに、人の生死に関わったりする。その代表例が「指数関数的増加」だ。ねずみ講とかウィルスの増加などでみられる増加スタイルだが、どうも人間が生理的に持つ想像力と相性が悪く、その本質をなかなか脳みそが受け付けようとしない。サイエンティストならばともかく一般の生活者にとっては直観的にそれを感じる機会がなくて抽象的になりがちなためか、なかなか適正な把握ができない。よって放射線の被ばく量を表すシーベルトのグラフや、リボ払いの複利計算などで、本来とは違う直線的増加に誤解釈してしまい、過剰な心配をしてしまったり、逆に過小評価しすぎて大変な目にあったりする。本書は翻訳書なので、すなわち指数関数的増加に人間の想像力が追い付かないのは万国共通ということらしい。
 ただ、教えれば”あれが指数関数的増加だったのか”と多くの日本人が持っている原体験がある。
 それは、ドラえもんの「バイバイン」だ。あのマンガやアニメを子供のころにみた人は、その指数関数的増加の恐怖を原体験的に味わっている
 いちおう説明しておくと、バイバインとはドラえもんのひみつ道具のひとつ、この薬を垂らした栗まんじゅうを、5分間ほっておくと分裂して二つに増える。さらに5分待つとそれぞれが二つに割れて全部で4つになる。わあ、おやつが沢山になったぞ! オチは推して知るべし。指数関数増加の性質を持つものは原則として警戒すべきなのだ。宇宙に打ち上げられたあの栗饅頭は、そろそろ自重に潰されてブラックホール化しているかもしれない。

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アルゴリズム思考術 問題解決の最強ツール

2020年10月14日 | サイエンス
アルゴリズム思考術 問題解決の最強ツール
 
ブライアン・クリスチャン&トム・グリフィス 訳:田沢恭子
 
早川書房
 
 本書には「秘書問題(運命の人はいつ現れるか?)」「スロットマシーン問題(どのマシンが当たりかを探し当てる問題)」「順列並び替えのライフハック(野口悠紀雄の超整理法も出てくるぞ!)」「上手なプロジェクト進行スケジュールの立て方(料理の段取りがうまい人ってこういうこと)」などが紹介されている。これらに共通するのは、未来への意思決定だ。
   未来というのは、本来的にはどうなるかわからない不確定なものである。したがってその意思決定が本当に正しかったのかはその未来が現実になるまでわからないし、その意思決定によって選択されなかったほうの未来は、本当にそれが間違っていたのか永遠にわからない。
   ところが、この「アルゴリズム思考」は、そういう不確定なはずの未来への意思決定を、ロジックを極めることで、現時点にいながら最適な行動を選択できる、という驚異的なものである。そのからくりたるや、確率統計論とかベイズ理論とかラプラス公式等が出てくる。訳者もたいへんだったに違いない。
 
 正直いって、本書を読んでそのからくりを理解できたとはとうてい思えない。もうすぐ50になろうとする中年おっさんの頭にはなかなか入らない。もっと若いころに読んだらもうちょっと理解できたかもしれないなあ。
 
 とは言うものの、このアルゴリズム思考なるものは面白い。不確定なはずの未来をあたかも制御するような感覚は、まるで魔法をみるようだ。
 こちらもかつては統計を生業にしていたこともある身。細かいロジックはともかくその肝は、
 
①最後から逆算する
②閾値を見抜く
③近似値でよしとする
③ルールを見抜く
 
 というところにあるような気がする。
 
 ①最後から逆算する、というのは、バックキャスティングという思考法として知られている。もっともわかりやすいのが「スケジューリング」と呼ばれる分野だ。料理が上手な人は最後に同時に複数の料理が出来上がる。彼らの頭の中には、最後に同時にできるには、というところから逆算してどの段階で何ができてなければらないか、何を先にやっておこないといけないか、ボトルネックとなる作業は何かというのを算段し、着手するのである。
 これはゴールを設定して、そこから最短距離をみつけだす方法だから、未来にむかってもっとも合理的な道筋を用意するということになる。当たり前の話のようだが、逆算思考はそれなりに脳みそを要求し、センスと訓練がいる。ついつい見切り発車してしまって余計な回り道や浪費を食ってしまうのが人の常である。
 
 ②「閾値」を見抜くとは、その現象がどこにむかって収束しているかというポイントを見抜くということである。先の「秘書問題(運命の人はいつ現れるか?)」はこれの代表例で、俗に「37%ルール」と呼ばれる。たとえば18-40才を出会いの機会と考える人は26才を過ぎたあたり(時間軸上で約37%くらいに位置する)の時点で「いいね」と思った人と結婚するのがもっとも賢い選択という結果が出てくる。(26才時点でつきあっている人がいてその人で特に不満がないのならば、もうその人と結婚したほうがよい)。それを「もっといい人がいるかもしれない」と逃してしまうと、釣り逃がした魚は大きい、という結果に終わるリスクが高くなる。
 では、なぜ約37%なのかということ証明の演算はなかなか難しい。この約37%とは正確にいうと、自然対数の底であるeの逆数なのである。eというのは、この世界を成立させる力学のかなり肝に近いところを支配する数値であるからして、この約37%という特異点が示す意味というのはなかなかに骨太にして深淵なのである。
 
 ③は教訓だ。完璧な到達目標を定め、そこに完全に合致するようにしようとするとものすごく労力・時間・コストがかかるが、“だいたいそこらへんでよし”というところを目指すならば、かなり労力・時間・コストはおさえながら、現実的にはほぼ当初の目的を達成できる。東京メトロ地下鉄を使って銀座駅から六本木駅にいく真の最短ルートを探し出すのは大変だが、とはいえ、よほど見当違いの方向にむかわない限り、どのルートを通ってもその差はせいぜい10分以内である。だったらそこに突っ立っていろいろ調べている時間より、さっさと乗ってしまったほうがよい。
 むしろ正確性を追求しようとして、多大に情報を集めたりすることは逆に「オーバーフィッシング」という現象を起こす。過剰に部分最適化を起こしてしまったり、情報収集に時間を集めすぎて、活用の方に十分な時間が得られず、当初の目的から離れていったりするのだ。
 
 ④はアルゴリズムで支配される世の中との付き合い方だ。ルールを見抜く、というのは「その支配からの逃れられ方」ということである。実は「秘書問題」も「スロットマシーン問題」も「スケジューリング」も、ゲームのようにルールが先に与件として存在していてそれに従って計算すると・・という世界である。アルゴリズムとはそういうものだ。だから前提が変われば計算方法も変わる。例の「秘書問題」37%ルールも、現実的には「相手が断ったらどうするんだ」とか、「以前振ってしまった人にもう1回アタックするのはどうなんだ」とか「最初はなんとも思ってなかったのにだんだん好きになる場合はどうするんだ」とか留保条件をつけると計算方法はどんどん変わっていく。だから、与件を疑うというのは大事なことなのだ。いくら自然対数の底eが相手だとしても、あなたは無批判的に「37%ルール」の奴隷になってはいけないのである。
 そして、実際の世の中を渡っていくとき、変な力学が働いているなと思った時(集団心理的な社会現象や不自然な出会いがある時など)は、何のアルゴリズムがそうしているのかをメタの視点で眺めてみることだ。本書の最後は「ゲーム理論」で、オークションにおける情報カスケード化現象を扱っており、「誰かが自分自身のシグナルを無視して、ただやみくもに先行者についていこうと決めると、非常に重大な影響が生じる」と指摘している。コロナ初期にあったトイレットペーパー買い占め問題なんかがこれだろう。下手にアルゴリズムの中に絡み取られると良くない流れに巻き込まれるリスクがある。そういうときは、絡み取られる前に、そのアルゴリズムを支配するルールの外に脱したほうがよい。(いわゆる「ゲームチェンジャー」というやつである)
 
 
 本書を読んで気づいたことは、未来を少しでもよくしたいならば、直感よりも多少「楽観的」な方に判断したほうが良いということだ。
 「目の前の人が運命の人」と思ってよいし(人はたいていバイアスが働いて見送りがちなのだそうである)、「勝てばキープ、負ければチェンジ」で概ね外さないし、「最も直近に接したものはやはり最も重要なもの」だし、「偶然の産物はむしろ事態を良いほうに化けさせる」力を持つし、「何かを判断するにあたっての情報の量はほどほど」でよいし、「疑わしきは罰せず」で良いし、「はじめのうちはじゃんじゃん失敗してよい」のである。これがアルゴリズム思考と野性的本能が交差するところである。
 

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銀河の片隅で科学夜話  物理学者が語る、すばらしく不思議で美しいこの世界の小さな驚異

2020年05月12日 | サイエンス
銀河の片隅で科学夜話  物理学者が語る、すばらしく不思議で美しいこの世界の小さな驚異

全卓樹
朝日出版社
 
 
 美しい花には毒がある。本書にあらわれる科学話は、どれも一見美しいようでどこかひりひりする。人間の無邪気な科学的好奇心と、それが蓋然的に意味する社会的影響・自然的影響の破滅的なインパクトの温度差みたいなものだろうか。「世にも奇妙な物語」に似たような感覚に近い。最終章の、渡り方を習う機会がなかった子どもの渡り鳥をナビゲートするグライダーの話でさえ、読んだ直後はなんだか心が洗われた思いがしたが、よくよく考えてみると、なぜ渡り方を知らない渡り鳥が出現するのかといった因果の点で人間の罪と業がどこかにあるのを否定できないし、そうやって渡っていった鳥が、今度は自分たちの子孫に、ちゃんと旅の仕方を教えることができたのかまで見届けないとなんだか安心できない気がする。

 興味深かったのは、多数決で物事が決まるまでの妙を数理シミュレーションで解き明かしたガラム理論の話だ。「最初17%の固定票があって残りの人がみんな浮動票ならば、いずれすべてがその票に集まる」というものである。これは面白いと同時に、どこか薄気味悪いところがある。
 つまり、世の中が浮ついていたり、へんに落ち着かないときに少数の固定観念を持つ集団がいると、次第にその気運に周囲が巻き込まれ、やがて世間の大多数がその観念に染まるということをシミュレーションで明かした理論である。著者の所属先である高知工科大学によりつっこんだ説明のサイトがあった
 リンク先のサイトはなにやら専門的だが、本書で説明されている限りのシミュレーションのロジックは決して難しくない。なるほど確かにそうだと思う。
 しかし、これが意味するところは非常に示唆的だ。というのは現実の社会でそういうのにいくつも心当たりがあるからだ。太平洋戦争に突入するときの世論がそうだし、少数政党のひとつだったナチスドイツが最後に独裁政権まで至ってしまった経緯にもこういうところがある。「それでも日本人は戦争を選んだ」の加藤陽子は「国民の正当な要求を実現しうるシステムが機能不全に陥ると、国民に、本来見てはならない夢を疑似的に見せることで国民の支持を獲得しようとする政治勢力が現れる」と指摘した。世論研究者の佐藤卓己は、1956年の東京オリンピックへの支持率が当初はほんの少ししかなかったのに、何度も新聞社が世論調査を繰り返してその結果を記事にしていくで次第に支持層が拡大していったことを指摘している。
 そして、今日の政権の暴走を許しているところの根っこにもこれはあったのではないかと思うし、コロナ禍で見られたデマやパニックの力学にも関係がありそうだ。本当に怖いのはガチガチのの固定層より、浮動層だ。おそるべきことに手続き的には民主主義以外の何物でもないのだ。


 科学技術の進展が倫理面と接触したときの危うさは、ユヴァル・ハラリなんかもしばしば指摘している。近年やたらに思考実験として出される「トロッコ問題」なんかは、自動車の自動運転など、社会装置をAIなどのテクノロジーに委ねる際にしばしば引き合いに出される。
 本書では、MITメディア研究所が行った、倫理感覚の国ごとの差異をクラスター分析で見せた研究の紹介が面白い。
 これは、自動車が歩行者をはねる事故を想定し、運転者や歩行者の属性や状況で誰を助けるべきかを判定するというのを各国の人にアンケートで答えてもらい、国ごとの傾向の違いをみるというものだ。分析した結果、世界の国は倫理パターンとして「西洋型」「東洋型」「南洋型」の3クラスターにわかれるという。この言い方は便宜的で、フランスが「南洋型」になったり、ブラジルが「西洋型」になったりもする。日本はもちろん「東洋型」に属するが、もちろん東洋型の中でもいくつか枝分かれがあって、日本はマカオやカンボジアと倫理パターンが近いのだそうだ。これもこちらのサイトでより詳細に紹介されている。ちなみに「日本は助かる命の数を重視しない(つまり、数よりも誰を助けるかという「質」を重視する)ほか、歩行者を助ける傾向が世界で最も強い。逆に、生存者の数を重視するのはフランスで、歩行者よりクルマに乗っている人を守ろうとするのは中国とエストニア」なのだそうである。
 
 アンケートに答えてもらって回答者をクラスター分析で分類する、という手法は社会調査統計手法としてはスタンダードである。この手があったかと思う次第だが、同一のアンケートを全世界でやった力技がこれの勝因だろう。
 そうすると気になることがある。国ごとの分類ならばこのような社会学の興味範囲で済みそうだが、国ごとでできるのならば個人単位でも分類できるはずで、そうなってくると不気味な実用が想像できる。本書でも警告気味な予言がしてあるが、個人個人の倫理パターンを全部解析すると、その人は結婚相手としてふさわしいか、就職採用して信用たる人間か、お金を貸して大丈夫な人間かなどがすべてシミュレーションできてしまうのである。中国なんかは既に人間信用スコアというのがあって、その人の経済力や賞罰歴をもとにデータベース化されていて、融資や保険の判断に使われている。倫理パターンから分析されるとなるとこれは全人格を把握されることにほぼ等しい。
 で、さきほど「同一のアンケートを全世界でやる力技がこれの勝因」と書いてみたが、よくよく考えると、Googleあたりがアルゴリズムをつかって瞬時に分析できそうではないか。技術的にはGoogleはひとりひとりの倫理パターンを自動的におさえられるはずである。20世紀の優生思想は否定されたものの、とんでもないパンドラの箱が見えないところで着々とデータを溜めているとなると急激に寒気がしてくる。


 アカデミズム上の思考実験や数値シミュレーションは、夢はあるけど悪夢とも裏表だ。銀河の片隅で科学夜話。眠りに誘うよりは、哲学的な思索に引きずり込まれる小話群である。
 

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