これに限らず、学校の指導要綱は子供の平均的な学習速度や理解力をもとに組み立てられる。
リチャード・P・ルメルト 訳:村井章子
日本経済新聞出版
企業が事業拡大を果たそうとするときに、ついついいままでやってきたことと矛盾、相殺するようなことに手を出してしまうことはたしかに多いと思う。
事業拡大を考える段階というのらは、少なくともそこまではうまくいっている、ということである。うまくいってるから事業拡大を計ろうとするのだろう。つまり、その時点でその企業は競争優位性があったということである。
うまくいっていたということは、うまくいくための土台がそこにできていたということを意味する。ビジネスモデルとか、調達の安定性とか、顧客の継続性とか。あるいは従業員の質とか。つまり、「競争優位性の資源」がそこにあったのである。
ところが事業拡大をするときーーとくにこれまで手を出さなかったことに進出しようとするときは、「いままで手を出さなかった」だけあって、今までのビジネスモデルや調達ルートや顧客や従業員教育と異なるカルチャーを要することが多い。そして今まで割いていた会社のリソースをこの戦略拡大の分にふりわけようとするとそこに矛盾が生じる。
まず、新たに事業拡大として進出したところは、さして「競争優位性」がないはずである。先行する競合企業がいるだろうし、ノウハウも調達も既存事業のそれとは異なってくる。
あまつさえ、これまで既存事業では競争優位性の資源となっていたリソースが、相矛盾する戦略拡大によって弱体化したりする。
M&Aなどで多角化経営・事業拡大をはかる企業の、その成功率は五分五分なのである。手を出さないほうがよかったのではないか、と思うような買収劇は国内外問わずさまざまだ。しかし、案外に経営者というものは、自分の競争優位性の資源がなんだったかというのに無自覚なのである。勘違いしていたり、読みが浅かったりする。
いやそんなことはない。事業戦略を立てる際に、自分の会社の強みは何かを徹底的に掘り下げた。そういう経営者は多いだろう。コンサルティング会社が用いるようなフレームワークとか、専門用語とかを駆使して自社の強みを見極めようとするだろう。
しかしそこで見落としがちなのは、その「強み」は、いろいろな制約条件下でようやく機能することが多いのである。その制約条件は案外にも感知されにくい。
たとえば「規模」というのがある。その既存事業のビジネスモデルや調達の安定性や従業員教育は、同一市内、10店舗程度、100人くらいの従業員ならば「強さ」を発揮する。しかし、その「強さ」は、他の地域、もっと多い店舗数、もっと多い従業員数でも通用するかというとそんなことはない。10店舗を経営するのと100店舗を経営するのでは、抜本的に異なるオペレーションを必要としたりする。
まして、違う業態とか違う市場に出ようとするときは、かなり仕組みが違うのである。
ほかにも「その時代特有の背景」というのが条件になっているとか、ある種の規制保護が条件になっているとか、「企業の強み」というのは案外に制約下でのみ発揮することが多い。
事業拡大は難しい。かといって、既存事業戦略のまま維持・安泰を狙って行けばよいのかというのもまた問題がある。世の中のほうが変化してくるからだ。期待されるサービス、導入される新技術、新たな法制度、そして新たな競合企業。そのような環境下で、自社の強み、競争優位性の資源が本当になんであるか、それが有効資源足りえる条件はなんなのかを真に見極めて上で、持続可能な経営をしていかなければならない。これは本当に大変なことである。大企業から個人経営までほとんどの企業はこれがうまくいかないものなのである。
ただ、うまくいかないからといって即倒産とか即廃業かというとそうはならない。そこには「慣性の法則」が働く。この「慣性」がまたバカにならない。法律上の規制保護が続いているとか、お得意様がなんとなくまだついてきているとか、従業員の暗黙知的なテクニックがかなり発達していて時代遅れになった生産設備を埋め合わせしていて、見た目の生産高に違いがないとか。場合によってはこの慣性の法則は10年くらい続いたりもする。大企業だともっと続くかもしれない。
ただこういうのは、今回のコロナ禍のように、有無を言わせない圧力がかかると、一気に軋みが露呈する。
したがって、競争優位性の資源を見極め、その強さを堅守しながらも、時代の変化に機敏に対応しなければならないとする。言うはやすく行うは難し。これはけっこうな離れ技だ。
本書では、その企業が持つ競争優位性の資源と、そこからもたらされる目標(流行りのコトバでいうとビジョンとかパーパスデザインというやつか)のこの一連の鎖を「カーネル」と表現する。この「カーネル」をぶれさせない戦略が「良い戦略」である。「競争優位性の資源と、そこからもたらされる目標」の因果関係は逆でもよい。ある目標があって、それを実現させるために試練と試行錯誤を繰り返し、強固になったものが競争優位性の資源になった、ともいえるだろう。
で、この「カーネル」をぶれさせないことを死守しようとすると、それは必然的に「一点豪華主義」になってくる。あれやこれやと総花に手を出さない。各方面の妥協よりも一点集中になり、万人のための一般解は選ばず、一部の人の最適解を志向するようになる。
なぜかというと、そのようにロジックをシンプル化しないと、実際に戦略目標を達成するための算段がたてられないはずだからである。本書の主張はこれで、目的や目標だけ箇条書きしてどうやってそのプロセスを達成するかの算段が一斉なかったり、精神論でごまかしたりする「悪い戦略」が幅を効かせていることに警告する。なぜ、そんな「悪い戦略」が横行するかというと、そもそも経営資源と相矛盾するような、相殺するような戦略拡大をねらったものがあまりにも多く、目標達成のための「算段」が詰められないからにほかならない。複数の目標を同時に実現するためのマジックのような綱渡りのような戦略もたまに見かけるが、どこか間違うとすべて破綻する。そしてたいていの物事は予定通りに進まないものである。
本書は指摘する。「戦略の要諦はフォーカスにあるが、多くの大企業はリソースをフォーカスできない。彼らはいくつもの目標を同時に追いかけるので、結局はどれも達成できない。」
国家経営の本質 大転換期の知略とリーダーシップ
野中郁次郎 戸高良一 寺本義也
日本経済新聞社
「失敗の本質」シリーズのなかのひとつである。文庫化されていないからか、シリーズの中では存在感が薄い。僕もつい最近までこの本の存在を知らなかったのである。
しかし、コロナウィルス禍によって時代は今まさに「国家経営」の本質が問われている。第2次世界大戦以来最悪の状況とまで言われる経済危機と国境封鎖のなかで、各国のリーダーがいかに舵をとるかで、それぞれの自国も国際社会の行方も大きく左右する。トランプ大統領、ジョンソン首相、メルメル首相、マクロン大統領、プーチン大統領、習近平国家主席、安倍首相は、いまこの国家の危機に際して舵をどう切るか。
実際にそれぞれのリーダーの決断が成功だったか失敗だったかは、もっと先にならないとわからないだろう。いまの日本政府の対応ぶり、稚拙にみえる施策の数々はもはやトンデモではないかとさえ感じられるが、30年先になって振り返ると意外にもあれがいちばん最適な決断だった、なんてこともないとは言えない。というか、せめてそうであってほしい。
本書で挙げられた人物は、みな80年代のリーダーたちだ。サッチャー首相、レーガン大統領、ゴルバチョフ総書記、コール首相、鄧小平国家主席、そして中曽根首相。すなわち冷戦終結前後の国際情勢を担った連中である。彼らの歴史的評価は今なお定まっているとはいいがたい。本書では基本的に肯定的な評価となっているが、光も影もあると言えるだろう。中曽根康弘なんかは、ぼくが小学生のときの首相だが、そんな名首相だったかなあなんて思う。レーガンとの蜜月関係、流行語となった「不沈空母」、防衛費の1%超えあたりをぼんやりと覚えているが、それよりも地価の上昇とか国鉄民営化とかリクルート事件とかそっちのほうの印象が強い。本書によると、安保のただ乗りに甘えるのではなく、西側陣営の一員として米欧と目線のそろった国としてのポジションをとりにいったとのことである。内政の印象と外交上の成果はだいぶ違う。ふうん。
国内の評価と国外の評価がまったく異なるといえばゴルバチョフだが、いま思うに、この時代にゴルバチョフがいたことは僥倖だったとは「西側陣営」の人としては思う。ゴルバチョフという才覚と大局観を持つ人間の出現は、ソ連にとって致死遺伝子となる突然変異の誕生とさえ言える。僕はこの人をみると徳川慶喜を思い出す。どちらも旧体制の抜本的改革に乗り出し、最後は体制の幕引きを英断したトップである。太平洋戦争で大日本帝国が破綻したのは、ゴルバチョフや徳川慶喜にあたるような人が出てこなかったからではないか。
最高権力が持つ麻薬性に溺れず、抑制された良識と大局観を大事にした。良識的すぎてソ連内の生き馬の目を抜く修羅場をくぐれず、保守派のクーデターを許してソ連崩壊を免れなかった、というのが本書によるゴルバチョフ評だが、ぼくが思うには、冷戦を終結させたあの才覚と、ロシアの内ゲバを統治する能力はオルタナティブではなかったのかと感じる。
鄧小平も見事すぎるとしか言いようがない。天安門事件という歴史上の大汚点があることは未来永劫否定できないが、文化大革命で30年は後退したあの国を、まさかの世界2位、アフターデジタル最先端の超強国へと渡りをつけたのは奇蹟であろう。共産主義体制を残したままの経済開放政策という荒療治をやってのけたつけとして、今回の武漢発のウィルスもあるというストーリーもつくれそうな気もするが、鄧小平という人物が現れなかったら中国という国はとっくに崩壊していたのではないかと思う(香港インフルエンザやSARSの段階でダメだっただろう)。鄧小平の人生は3回失脚しながらもいずれ世界の強国になるためにじっくり体制を整えて歩む壮絶なもので、こんな人間に勝てるわけがない。本当の強さとはそういうことなのだと思うと同時に不気味でさえある。改革開放路線を掲げたのは1978年。南巡講和が1992年とぶれていない。
鄧小平もそうだし、毛沢東も孫文もそうだし、習近平なんかにも思うのは、やつらはものすごく長い時間軸で物事を考えるということだ。南京条約における「100年先に香港返還」なんてのもそうだ。西洋的価値観からすれば100年先というのは未来永劫のような茫洋さを感じるが、中国にあっては「100年」は計算の範囲内なのである。どうもこれは中国のお家芸とさえ感じる。そう考えると習近平の一対一路構想も30年くらい先には本当にそうなってるんじゃないかと。元を通貨軸とした大中華経済圏が完成しているんじゃないかと不気味である。
本書では、80年代の冷戦終結前後における各国のリーダーのありかたに「理想主義的なプラグマティズム」と「歴史構想力」を持っていたことを挙げている。どちらも難しい言い方だが、前者は自分自身がこれまで歩んできた人生、経験でつちかった理想像を持っていたことであり、書物や理論で導きだされた理想像ではないということ。そして歴史構想力というのは、今おかれた状況を、むこう100年または数百年の歴史上のダイナミズムと未来への展望から逆算して定義する視野の広さだ。これは時間軸だけでなく地政学的な空間軸も含む。また、そういう構想力を持つことで、国をどうしたいかどうすべきかという説得力のあるストーリーが生まれる。
たしかにそういう視点からいけば、他国のトップのことはわからないが、いまの安倍首相はやはり物足りない面がある。政治家家系のボンボンでこれといったプラグマティズムの背景があるとも思えないし、正直いって大局的な歴史構想力を築くだけの教養があるのかも不明である。後者については記者会見やインタビューの語りでみるボキャブラリーの貧しさや文化政策についてまるっきり語れないところに基礎的な教養不足を感じ取れるのである。(一方で、本当に国のかじ取りをしているのは不眠不休の官僚の人たちであり、したがって神輿は軽いほうが良いと言う意見もあるのだが)
LEAP(リープ) ディスラプションを味方につける絶対王者の5原則
ハワード・ユー 訳:東方雅美
プレジデント社
先行優位のままでい続ける企業はいない、という話。必ずや大量生産やオートメーションを施した後続企業に抜かれる。
先行企業が先行であり続けるためには、「リープ」すなわちヨソに飛ばなければならない。つまり先行しているうちにみずから土俵を他所に移すのである。P&G(もともとは石鹸メーカー)もリクルート(もともとは求人情報雑誌)もノバルティス(もともとは染料メーカー)そうやって先行でい続けた。AppleやAmazonでさえそうなのである。
しかし、リープ先はどうやって見つけなければならないか。
そこは「創発的戦略」というのが必要である。これの対義語は「意図的戦略」だ。
「意図的戦略」というのはいわばある種の計画をもって行う戦略である。それは段取りみたいなものだ。
ただこれは、言わばゴールが明確で、そこに至るまでのプロセスをどうすればいいかわかっている場合の戦略である。それにもとづいた人事であり、予算配分である。
これに対し、「創発的戦略」というのはゴールが見えない、しかし何か生まれるはず、何かよさげな化学反応が起きるはずという目論みのもとの段取りや人事や予算配分をする。有名なのはGoogleの20%ルールである。
また、現代において有力なリープ先は「デザイン思考」的なものだという。人の心理の奥とか行動経済学的な癖を利用応用したものに突破口が得られやすい。こういったデザイン思考なものは創発的戦略の末に生まれやすいのだろう。ゲーミフィケーションとかゼロフリクションとかサブスクリプションとかそういうことなのだろう。
また、こういった創発的戦略によるデザイン思考でリープ先を探すときは、既存のビジネスとカニバることがよくある。ここで既存のビジネスがかわいいあまりに、投資や人事を渋ったりすると後で泣くことになる。地上波テレビ局が地上波を守るためにネット配信への投資や人事を小出しにしてしまうようなものである。
いずれにせよリープ先が定着するまでは七転び八起きを覚悟しなければならない。当初の予定や思惑とは違うかたちで拡大発展していくことはかなりよくある。その意味では「意図的戦略」はほとんど意図通りにならないということでもある。
とまあ、そんなことがいろいろな事例とともに書いてある本だ。ポイントはやはり「リープ」であろう。
ぼくは経営者でも事業主でもないが、会社組織の中でのひとつの人材ということで考えるとぼちぼちリープしないとまずいなあとも思う。
ここで僕が思い出すのは「風姿花伝」だ。「風姿花伝」の第1章、「年来稽古条々」だ。これは能役者というものの子ども時代から老いる時代までのことを文章だけれど、まんま人生のことというか、とにかく深い含蓄がある。それによれば、いかに全盛期に花形になろうとも、やはり中年域に入るともう後進に譲るのがよろしい、ということである。それは周囲の期待や時の勢い、肉体上の充実と衰えなども加味されての進言なのである。そうして後進にゆずり、自分は前座や引き立て役として退きながらもそれでも何かその人ならではのものが残り、それを人が尊重してくれれば、それこそがその人の「誠の花」なのである。
このように、自分の「誠の花」を信じて歩むのが美しい人生だが、しかしやはり会社ではお給料はもらわなければならないし、なんだかんだで一日の多くの時間をそこで過ごすのだから少しでも心が穏やかなところにいたい。老害のように思われるのはたいへんよろしくないわけである。
なので、今のポジションが「誠の花」なのではなくて、「誠の花」と信じているものにじつは自分のリープ先のヒントがあるのではないか、などとも思う。
本書「LEAP」では、P&Gやリクルートやノバルティスの例で、リープ先というのは必ずしもこれまでのポジションと全く無関係ということなのではなく、やはりなんらかの因果がそこに見られる。それこそがその企業のDNAみたいなものだろう。P&Gの場合はもともと心理マーケティングとでもいいたくなるような「誠の花」があり、リクルートの場合は「人の欲望(勝ちたい・儲けたい・もてたい・気持ちよくなりたいなど)のマッチング」みたいなものがある。ノバルティスの場合は見えにくいがどうも「ケミカルとバイオの力で打ち勝ってみせるスピリッツ」みたいなものを感じる。企業憲章とか見ていないけれど、たぶんそんなところなのではないか。
というわけで、僕の中では「LEAP」と「風姿花伝」がくっついた。これはもちろん半分以上でまかせである。ゆめゆめ本気にされぬよう。
サバイバル組織術
佐藤優
文芸春秋
これは僕が以前の会社に勤めていたときに先輩から聞いた強烈な話である。先輩は「原石人材」と「研磨人材」というコトバを使った。原石はみがくと宝石になる。しかしそのためには研磨石がいる。なんだかんだで組織の評価というのは相対的であるから「できる人」の横には「できない人」が必要となる。つまり、「できる人」を作り出すには「できない人」がいなければならない。
いちど「原石人材」と「研磨人材」としてレールにのると、その後ますますこれは助長されるというのが先輩の解説であった。たとえばある仕事があってまずAにその仕事をまかせるがうまくいかない。で、次にBにさせるとうまくいく。ところがBが成功したのはAによってどうすればうまくいかないかとか、どこまでは掘り進めたのか、とか先行情報があったからでもある。
しかし結果からするとAは仕事ができない、Bは仕事ができるという評価になる。そしてAが「研磨人材」、Bが「原石人材」となる。Bにはますます大事な仕事が来る。Aには誰でもできるような仕事しかこない。査定などの人物評価はバイアスがかかりやすいから、いちどこういう評価がつくとそれを後々覆すのはなかなかエネルギーがいる。
その先輩が「原石人材」と「研磨人材」のどちらだったのかはともかく、当時新人の僕にとってかなりインパクトのある話だった。その後、会社組織というものを眺めていて確かにそう思えるような人事や査定評価をみることは確かにあった。
この話の恐ろしいところは、実はBは本人の意識無意識にかかわらず、Aのような自分を引き立てる存在をいつのまにか引き寄せるのである。また、Aは知らず知らずにBのお膳立てになってしまうような仕事を引き出してしまうのである。
組織ってそういうところなのである。上層部がこの仕事を最初からBにはさせなかったり、あるいはBが最初はAに担当させるように立ち回ったりするのだ。
つまり、抜け目ない人は、自分が「原石人材」になるように周到に「研磨人材」を用意して利用すると思ってよい。あなたは、誰かの研磨人材になっていないかはかなり注意したほうがよい。また、サバイバルという観点からすれば、あなたは誰かを研磨人材にしなければならないのである。
「作戦」とは何か 戦略・戦術を活かす技術
中村好寿
中央公論新社
「作戦」が好きである。
なんかこう、アドレナリンが出るような、アゲアゲな気分になる。
めんどくさい仕事とか、腰の重たい用事がふってくると、僕は「新世界攻略作戦」とか「四月の嵐作戦」とか名前をつけて片付けてしまったりする。多少は心理的効果がある。
本書によれば「作戦」とは、「戦略」と「戦術」の間に位置するものだという。
「戦略(strategy)」-「作戦(operation)」-「戦術(tactics)」
これらの用語、ものの本によっては、すなわち時と場合によっては、あてはまるコトバが異なることもあるが、要は物事を成し遂げるにはレイヤー(階層)で考えたほうがよいということだ。
このレイヤー構造という“ものの見方”は、生きていく上で広く役に立つと思う。日常ではなんとなく無意識的にこなしていることでも、自覚することでいろいろな物事への対処力がついてくる。
たとえば、外出中の家族から急に連絡があり、予定を早めてあと15分で帰ってくるとする。あなたは今晩の家族の夕食をあと15分で用意しなければならなくなった。
このとき「ミッション」は、「15分後に食卓の上に夕食がある」ようにすることである。どうすればいいか。
①15分でちゃっちゃとつくれるものをつくる。(1)あなたに15分で家族分の食事をつくる技量があるのならば可能である。
②今からすぐに出前をしてくれる定食屋に電話する。(2)あなたにそういう店に心当たりがあるのならば可能である。
③お惣菜をささっと買ってくる。これも(3)近所に手ごろな店の心当たりがあるのならばこれだって可能である。
要は15分後に食卓に家族分の食事が並べばいいのである。
このとき、①②③は「戦略」である。そして(1)(2)(3)は、その「戦略」を達成できるための術(すべ)をあなたが持っているということだから、これは「戦術」である。(1)は料理の腕であり、(2)は店への連絡手段、(3)は店への移動手段を持っているということである。
では「作戦」とは何か?
①の場合、でも「ちゃっちゃとつくれる算段はあるの?」というのが課題になる。それに対して「たまたま炊飯器にご飯が炊飯器が残っていて、冷蔵庫には鶏肉と玉ねぎと卵がある」とする。これは親子丼の材料だ。つまり買い物に行く時間や小皿料理をつくる時間を省き、「冷蔵庫のあるもので一気に丼物をつくることで時短をはかる」。これが「作戦」ということになる。さしづめ「冷蔵庫にあるもので親子丼作戦」だ。
②の場合は、「15分で家まで届ける定食屋なんてあるの?」というのが課題だ。それに対して「通りの向こうの中華屋は、チャーハンをつくるのが異常に速い」という前情報をあなたは持っていたとする。したがって「特盛チャーハンを出前してもらって、家で家族分に皿にわけてしまう」ことで15分で決着をつけさせる。つまり「すぐ出てくるものを大皿で頼んでしまう」、これが「作戦」なのである。いわば「メガ盛チャーハン調達作戦」だ。
③の場合は、”セブンイレブンのお惣菜が充実している”というのを最近CMで観たとする。なので近所のセブンイレブンにいってお惣菜をこまごま買い込み、家のレンジでチンして家の皿に盛り付ければ15分で間に合う。「コンビニお惣菜作戦」である。
こうしてみると「作戦」というのは、「情報」と「兵站」と「補給」で成り立つということがよくわかる。冷蔵庫の中になにがあるのかもわからずに、また近所にどういう店があるのかもわからずに、あてずっぽうで家で料理するのを決めたり、お総菜をもとめて街に繰り出したら、とても15分で用意はできないだろう。
つまり、「作戦」というのは「勝算」を算段するものなのだ。
ところでこのミッションは、「15分後に料理ができている」ということだ。しかし、これはあくまで「軍事的ミッション」に過ぎない。実はこのレイヤーの上に「大戦略」あるいは「政治的ミッション」というのがある。この「大戦略」によって、今回の選択肢①②③のどれを選ぶのが最適かというのがまた変わってくる。
たとえば帰ってくる家族というのはお父さんと息子2人、スポーツ大会の帰りでとにかく空腹でがっつり食べたいということがわかっているとする(この場合、あなたはお母さんであるとしよう)。腹ペコに違いないその家族を満足させる、というのが「政治的ミッション」だとすると、ちまちま小皿を並べる③はあまり満足度の高い結果に結びつかなそうである。②も悪くはないが、子供のひとりがグリンピースが嫌いだとする。チャーハンにはグリーンピースが入っている。お父さんともう一人の息子は問題ないが、ただ一人の息子のためにグリーンピースをよけるのはかったるい。したがって、「家族を満足させる」という政治的ミッションに最も近い戦略は、がっつりした親子丼が出る①ということになる。
ところが、帰ってくる家族というのは、実はすごく機嫌の悪い妻だったとする。(この場合、あなたは旦那さんだとしよう)。
どんぶり飯や大盛チャーハンを食べるような妻ではないし、コンビニの総菜なんかは見抜かれそうな勢いである。
ではどうするか?
家に帰ってきた妻に対し、その旦那さんは、車のキーを手にして「ごちそうするから着替えて街に食事にいこう」とやるのだ。
これは「15分後に食事ができている」という「軍事的ミッション」そのものを変えさせる、という「作戦」なのである。
これが成功するには、家に車がある、旦那さんの財布に余裕がある、妻はそういうのに弱い、といういくつかの諸条件をクリアしていなければならない。
が、よくよくみればこれも「情報」と「兵站」と「補給」であることがわかるだろう。
そして、そもそも今回の「政治的ミッション」は「家族の満足度が高くなる」ということを思い出してほしい。
仮に、上記の①②③のいずれかを行って15分で食事ができたとしても、妻の機嫌は悪いままの可能性がある。それは、ベトナム戦争のアメリカ軍と同様に「戦闘には勝っているが戦争には負けている」のと同じなのである。
それどころか、車のキーを用意して妻の帰りを待つのは、「15分で夕食を用意する」という軍事ミッション、すなわち戦争を回避して勝利を手に入れる、という「戦わずして勝つ」孫子の兵法ばりの作戦である。
「作戦」は、「軍事的ミッション」だけでなく、「政治的ミッション」を達成するためにひもづくということがわかるだろう。
なお、ミッションを遂げるにあたってはこの事態を構成するものが何かを見極める必要がある。今回のミッションでいうと、料理を用意するあなた、帰ってくる家族、冷蔵庫の中の食材、家の近所の中華屋やコンビニ、自家用車、用意できるおカネ、などがある。これらひとつひとつのアイテムを「ノード」という。
これら「ノード」は「連結線」で相互につながっている。たとえば、「あなた」というノードと、「冷蔵庫の中の食材」というノードは、「あなたの料理のスキル」という連結線でつながっている。あなたの料理スキルが高ければ高いほど、この連結線は堅固であり、あなたが料理はからきしダメということになればこの連結線は脆くなる。
つまり、事態は「ノードと連結線」で構成されているのである。そうすると、「情報」「兵站」「補給」はすべて、「ノードと連結線」でいうところの「連結線」であるというのが重要な点だ。「家族の心理状況がわかっている」「あの材料とこの材料で何が作れるか知っている」「お店の事情を知っている」「家とお店の位置関係がわかる」というのはすべてそれぞれのノードとの関係性の中で浮上してくる話なのだ。
物事を成し遂げるとき、登場人物や道具立てを「ノード」、それらの関係性を「連結線」ととらえることで、作戦が見えてくる。
したがって、「作戦」というのは「連結線」をどれだけ把握しているかということなのである。
しかも、この「連結線」は常に確保できるかといえばそうではない。その日はお店が休みかもしれないし、冷蔵庫のたまねぎが切れていたかもしれないし、旧に大雨が降ってきてとても出掛けられないかもしれない。すなわち、つねに最新の情報を把握していなければならないのだ。
したがって、「戦略」と「戦術」はどれだけ手数を持っているかということが大事になるが、「作戦」に関してはどれだけ柔軟に対応できるか、ということが重要になることも留意したい。
OODA LOOP (ウーダループ)
チェット・リチャーズ 訳:原田勉
東洋経済新報社
PDCAではなくてOODAである。
PDCAというのもビジネス業界にはびこり始めてずいぶん経つように思うが、そのうちOODAも普及するようになるのだろうか。とはいうものの、PDCAとOODAの関係は簡単ではない。PDCAの概念の中にOODAも含まれているという見方もできようし、PDCAのアンチテーゼとしてのOODAという見立ても可能だ。両立可能という見解も可能である。本書の表現では、PDCAは演繹的発想であり、OODAは帰納的・仮説的発想と比較している。
OODAというのは、Observe(状況観察)・Orient(状況判断)・Decide(決断)・Action(実行)というプロセスなのだが、PDCAから発想すると単線的なループプロセスを想像してしまう。つまり、O→O→D→Aという理解である。しかしそれは重大な誤解である。しかしたとえばOODAをGoogleで画像検索するとなんだか複雑な遷移図が登場してしまい、これはこれでわかりにくい。
つまり、OODAというのは図解的概念で解釈しようとすると実はけっこう厄介であり、PDCAからのミスリードを誘発しやすいところだ。ここ、大事なところであろう。
OODAというのは要は「戦いに常勝するには」とでもいうべきものであり、そのポイントは以下の3つである。
①戦いに勝つには、相手よりも素早く動き、相手に冷静な判断をさせるスキを作らないこと
②相手より素早く動くには、状況をスピーディに判断してすぐに実行に移せるような訓練と体制を日ごろから用意しておくことである
③その日ごろからの訓練と体制というのは、「ゴールの状態(ビジョン)を示し、やり方は任せる(権限移譲)」という意思決定方針と、日頃からの上官と部下、あるいはメンバー同士の相互信頼ができている
ということである。
上記のことができている=自然にOODAができている、と言ってよい。
つまり、日頃からチームの間の相互信頼ができていて、目標さえ共有できればそのプロセスは誰もうるさく言わないようなチームは、実際の戦闘や不確実性の高い状況でも各自でちゃっちゃと最終目標にむかって自己判断して次にすべき行動をとっていく。そんなスピード力のあるチームに敵はひるんで立ち向かえずにパニックをおこしてしまい、そのチームは勝利する、ということである。
これをあえてユニット構造のようにとらえたのがOODAである。
本書はなかなか分厚い本だが、OODAの要諦は以上である。
じゃあ、なんでこんなに分厚いのかというと、③での「ではチームの相互信頼というのはどうやったらできるのか」と「目標の共有とはどうやるのか」というところに大幅な紙面を割いているからである。(あと、②のスピーディな戦略展開論として「正・奇論」に一章を割いているが)。
僕なりに整理すると
(1)「戦略≠計画」ということと
(2)「戦友」をつくること
(3)ねらうべきは「形勢」づくりであること
だろうか。
(1)は本書でもつまびらかに解説してある。たしかに世にはびこる「戦略」(経営戦略とか販売戦略とか)のほとんどは「計画」だ。「戦略」とは、不確実性の高いこの世の中で、外部環境がいかように変化しても目標に最終的には到達するような「体制」をいかにつくるか、ということである。つまりどのような計画変更になろうとも目標に到達するにはどうすればいいかが「戦略」だ。
(2)はチームの相互信頼のつくり方。「戦友」というコトバは本書には出てこないが要はそういうことだなと思われる。海兵隊のブートキャンプは戦場に赴く前に戦友をつくるという意味合いもあるのだろう。
(3)は本書の最後にちょろっと指摘されているが、実はけっこう大事なことと思われる。孫子をはじめとする東洋思想に見いだされる戦い方の精神。たしかに毛沢東の戦術論なんかでもこれに近い記述があるし、宮本武蔵の五輪書なんかもろにこれだ。
でこうやって書くと、やっぱりPDCAとOODAはぜんっぜん違う世界のものだなあ。
OODAをPDCAのようにフレーム論で語らせようとするあたりが、案外誰かの「奇」の仕業なのではないかと思ったりもする。
ティール組織 マネジメントの常識を覆す次
世代型組織の出現
著:フレデリック・ラルー 訳:鈴木立哉 英知出版
期せずしてほぼ時期を同じくして似たような主張の本を読んでしまった。ねらっていたのではなくて偶然である。
偶然だけれど、やはり今日の「複雑系」的な世の中に適応する組織体としてこれはひとつの答えなんだろうと思う。軍隊でさえそうならばビジネス組織だってそうである。
理想的な組織の行き着く先とは、要するに「自律分散」なのだよな。生命学的あるいは生態学的アプローチから組織を研究するとこれに行き着く。ただし、インターネット論ではわりとはやくからこのことは言われていた。そもそもマーケティングというのが戦争のロジックから敷衍されたことであるのに対し(したがって「ストラテジー」とか「ターゲット」とか、戦争用語が出てくる)、インタ―ネット社会は生態学にアナロジーされやすい。したがって「バズ」とか「エコシステム」とか「オーガニック」とか生態学っぽい引用が好まれる。ホストマシンを持たない「自立分散型」こそインターネットの最大特徴だから、生態学的切り口で組織論を語ると「自立分散」という答えが出てくるのは自然ではある。
本書でいうところの「進化型組織」というのは自律分散にほかならないのだけれど、本書の面白いところは確信犯的に組織論を進化論風にあてはめてみたところだ。「衝動型組織(徒弟型の世界)」→「順応型組織(官僚的な世界)」→「達成型組織(「マネー・ボール」的な世界)」→「多元型組織(「企業の社会的責任」的な組織)」そして「進化型組織」である。なお、カッコ書きは僕の勝手な主観である。
とはいってもマルクス論のようにひとつの組織がこのような変遷を遂げるわけではなく、ダーヴィニズムのように、次の組織体によって以前の組織体が淘汰されるわけでもない。この世の中には「衝撃型組織」も「順応型組織」もいまだ存在する。また、著者も認めているように「多元型組織」だった企業が「達成型」に戻ることだってある。
したがって「進化型」というのはやや誤解が生じるのだが、しかし時代状況、技術背景、環境、人間を支配する価値観その他によって最適とされる組織体が変遷していくというのはその通りだろう。ぶっちゃけ、昭和の価値観で企業を成長させた日本のたたき上げ経営者が、そのままでいまのグローバルビジネス環境や雇用される若者の価値観を斟酌せずに組織経営を行ってもうまくいかないー最大かつ最適なパフォーマンスを発揮はできないだろうとは思う。
「進化型組織」のキーワードは自律分散と全体性ということになるだろうか。全体は部分の乱れなきパフォーマンスの集合であり、部分は全体の維持と発展のためにふるまう。しかし全体をコントロールする人はいない。管理職というものも存在しない。各自が自律して自分の信じる道を判断し、行動している。それなのに全体としてのパフォーマンスはとれており、それどころか明確な全体像ができあがっている。
これは、各人が「全体像」を共有し、自分が何をすればいいかが「全体像」につながるかを理解しているということだ。しかもその「全体像」はだれか一人が決めたものではなく、みんなの合意形成の中で浮上したものである。
本当にそんなことができるのだろうか、と思うが、アメリカ海兵隊にまでこの本に書かれているようなことを試行しようとしているということは、ある種の確信がやはりそこにあるんだろうなと思う。
また、本書の指摘としてそうなんだろうなあと思うのは、「順応型組織」にしろ「達成型組織」にしろ、その組織体を維持するために使うエネルギーやコストが、実は生産性の限界や、社員の消耗をいたずらにつくっている、ということだ。たしかに、上司という存在、ヒエラルキー型の意思決定、を機能させるためのシステム、それを維持させるための有形無形のエネルギーは途方もないだろう。浅田次郎の「蒼穹の昴」を読むと中国の科挙と官僚のシステムをみると、国家のGDPの多くがこの行政機構の「維持」のために消耗させられているのではないかと思ったりする。それでいて国家(この場合は清王朝の末期)はひたすら貧していくという大いなる矛盾の道をゆく。
清王朝の例は大きすぎるとしても、たとえば上司と部下という関係、経営と中間管理職と現場という縦の関係を維持するための不文律、社内政治、ストレスによる社員の摩耗その他のネガティブエネルギーは、本来の生産性、あるいは環境適応性という点からみればマイナスの効果に働いているはず、という本書の指摘はうなづくものがある。
僕の勤務している会社は「順応型」と「達成型」の間くらいかな、なんて思う。腰の重い典型的日本企業だけど、このままじゃいかんと不器用に社内改革に手をつけているといった具合だ。多くの、それなりに図体の大きい日本企業はそんなものなんじゃないかと思う。
で、仮にこの「進化型組織」が正しいとしたとき、どうやってこれを導入できるのか。これが本書でも後半のテーマになってくるが、なかなか険しい道のりだ。まずその企業全体が仮に「達成型組織」だったとして、本書を読んだある中間管理職が、オレのところは進化型でいこう! と思ってもそれはまず無理である。そりゃそうだろうな。せいぜいが期間を区切った実証実験だろう。この進化型組織をテストすることの諸刃は、かりにこれが成功したとすると既存の組織体をひっぱってきた人達が全員否定されてしまうところにある。
進化型組織を達成するには、CEOとオーナー(株主)が心替えをするしかない。しかしこれもまた難しい。達成型企業のCEOが、進化型企業のCEOになるには、自分が掌握している権利権限権力その他を手放さなければならないからである。なぜなら、経営層の権利権限権力こそが進化を阻む要素だからだ。これはそうとうの聖人でなければ難しい。オーナーにとっても、そのほうがリターンがよくなる、とあったとしても基本的に実験の領域であり、よほどの背に腹は代えられぬ状況下での抜本的刷新でなければ難しいだろう。
だから本書でも、せっかく「進化型組織」になったにもかかわらず、CEOの交代やオーナーの横槍により、ふたたび旧来型に戻ってしまった企業の例が出てくる。
それからもうひとつつくづく思うのは、社内政治に汲々としてきたり、人を指図することにカタルシスを感じるような上層部の人は、司馬遼太郎は読んでも、こんな分厚くて重たい本を読むわけないということだ。
ここらへん企業経営のモチベーションとは何かというあたりも関係してくるけれど、人間本来の欲求が衝撃型組織、達成型組織というものへの誘惑にあるとすれば、進化型組織はそうとうに自制・自浄された倫理的規範の立った人間ということになる。が、そんな人が社内政治に勝って経営層に躍り出るのも稀だろう。その企業に、隕石衝突級かシンゴジラ来襲級のインパクトでもあればまた変わるのかもしれないが、ここで得た知見を実践で試してみるにはまだまだ越えなければならないハードルは多そうだ。
とはいえ、僕も中間管理職。自分自身の戒めにはずいぶんなったような気がする。「あえて口出ししないことこそ上司にとってもっとも試練を要求する」という指摘にごもっとも。