谷川俊太郎氏 逝去
本当に「詩」で食っていけている人はこの日本では絶対的に少ないはずだが、谷川俊太郎氏はその中のひとりだっただろう。彼の訃報に際し、SNS上ではめいめいがお気に入りの氏の詩を上げながらお悔やみの投稿をしていた。
若き日のデビュー作「二十億光年の孤独」は今から70年も前に発表されたものだが、現在読んでも心に迫るものがある。デビュー作がこれでは、ピークアウトが早すぎてしまやしないかと思うくらいだが、その後も彼の詩は世間に愛され続けてきた。
僕は13才のときに、東京都内にある某私立中学校を受験した。国語で出題されていたのが谷川俊太郎の「朝のリレー」だった。受験本番の入試問題という非常事態にも関わらず、この「朝のリレー」のあまりにも清廉さに僕は心を奪われてしまった。谷川俊太郎の名前は知っていた。小学6年生の国語の教科書にも出ていたし(「りんごへの固執」だったと思う)、あとで書くけど僕にはおなじみの名前だった。
だけど「朝のリレー」は、そのときが初読だった。カムチャッカの・・で始まって次々とメキシコ、ニューヨーク、ローマとつながっていく言葉のマジックは、純粋な13才の僕の心をノックアウトしたのである。40年前の話なのにしっかりと覚えている。
にもかかわらず、というべきか、それゆえにというべきか、僕はこの中学校の受験に落ちてしまった。
だけれど、僕はこの「朝のリレー」と出会うためにこの中学校を受験したのだ、とずっと思っている。
この「朝のリレー」は、その後テレビのCMなどにも使われて谷川俊太郎の代表作になった。彼の作品の中でも特に抒情性と優しさに富んだ詩である。
しかし、なんといっても僕にとって谷川俊太郎といえば「スヌーピーの翻訳者」だ。スヌーピーやチャーリーブラウンでおなじみのコミック「ピーナッツ」を50年にわたって我が日本にて翻訳してきたのは彼である。そのことは「スヌーピーたちのアメリカ」という本を紹介したときに克明に書いた。ピーナッツのマンガを初めて手にしたのが僕が小学校4年生のときなので、私立中学の入試問題よりも小学6年生の教科書よりも、僕は翻訳家として谷川俊太郎の名前を知ったのだった。日本において、ピーナッツの翻訳が単なる英文翻訳家でも児童向け翻訳家でもなく、詩人の谷川俊太郎であったことは日本にとってまことに奇蹟的幸運だったと本当に思う。
晩年の彼の講演を聞いたことがある。千葉県にある美術館で行われたイベントだった。自作の詩を朗読した。既にご高齢だったからあまり声の張りはなかったが、いやいやと照れながら朗誦する姿を見ながら、目で追う詩と耳で聞く詩はぜんぜん別物なのだと強く思った。楽譜を見るのと実際に音で聞くのの違いくらいーーというと大げさすぎるが、台本を読むのと実際の舞台を見るものくらいの違いはあったような気がする。谷川俊太郎の詩は音なんだなと思った。ご冥福を祈る。
この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた
(※「新世界より」「復活の日」「渚にて」のネタバレに触れているので注意)
ルイス・ダートネル 訳:東郷えりか
河出書房新社
サバイバル百科事典あるいはサイエンス読み物の名を借りたSF小説とでもいおうか。
つまりは、「大破局」なる人類滅亡後に幸いにも生き延びたものがどうやって生活の糧を得て生き延び、再建していくかというのを、飲料水の確保の仕方、農業の始め方、建材の集め方や作り方、家の建て方、情報の取り方、移動の仕方、薬の調達の仕方など解説していく。
ただ、本書の示すような「世界の消え方」にはいくつか条件がある。
つまり、人類は滅亡しても建物とか道路とか文明の利器はしばらくそのままあるということだ。もちろん電気やガスは止まっているが、スーパーには食品がひとまずあるし(散乱しているかもしれないが)、乗り捨てられている乗用車などもある。人類だけがいない。サバイバルのためにはこういう残された文明の再利用からまずは始まるのである。
だから、「ノアの箱舟伝説」のように、大地を大津波が襲っていっさいがっさい流されてしまい、かろうじて高いビルの上にいた人だけが生き残った、とかだとこの条件にはあてはまらない。「地球の長い午後」のように、地球の自転軸にまで影響を与えるような破局も、破滅度がデカすぎてちょっと無理な気もする。「火の鳥未来編」のように核爆弾が世界中で同時多発的に投下されるのも都市が壊滅しすぎてしまい、土壌も汚染されるからダメな気がするし、「風の谷のナウシカ」の「火の七日間」も破壊力が強すぎそうだ。
いっぽうで、少しずつ人口が減って滅亡に瀕するというのも破局の設定としてはよくあるのだが、これも本書にはちょっとあてはまらない気がする。このパターンには貴志祐介の「新世界より」なんかがそうだ。ほかにも「トゥモロー・ワールド」や「世界を変える日に」のように人類に子どもが生まれなくなるというSFもあるが、いずれにせよ人口の減少と同時に都市機能も少しずつシュリンクしていくはずなので、あちこちに残る文明の残骸を再利用を試みるには、すでにもう撤去されてなかったり、仮に放置されていたとしても建材や道路の劣化がひどすぎ、時間が経ちすぎているとみるべきだろう。
したがって本書の設定する大破局はわりと条件が狭い。あてはまるとすれば、謎の病原菌が蔓延し、速攻で人がバタバタ死んでいった中、幸運にも隔離された環境にいた人が生き残ったというパターンだろうか。「復活の日」や「渚にて 人類最後の日」などの設定だ(「渚にて」は最後全滅してしまうが)。また、一見全然違うようでいて案外似ているなと思ったのは「火星の人」(映画名は「オデッセイ」)である。
つまり、普遍的なサバイバルというか文明の再建を解説する体でありながら、これが成立する条件というのはわりと狭く、その裏側には何か物語がーー「復活の日」や「渚にて」や「火星の人」のようなこういう破局条件に導かれるようなSF的な物語がそこにはあるはずなのである。その破局に至る物語は読者各自の想像にすべて委ねてしまい、ただクールに文明を再興させる方法を解説するという、なかなか高度なテクニックを用いたこれはSF小説なのである。それは「復活の日」にて南極大陸から戻ってきたあなたかもしれないし、「渚にて」でなぜか耐性を身につけたあなたかもしれないし、「火星の人」のように、人類全員が別の星に逃亡したのになぜか地球にひとりおきざりされたあなたかもしれない。その設定はすべてあなたの好みである。なんとわくわくする読み物ではないか。