読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

マネジメントは嫌いですけど

2025年01月20日 | ビジネス本
マネジメントは嫌いですけど

関谷雅宏
技術評論社


 というわけでビジネス本である。と言っても関谷雅宏って誰やねん? 奥付の著者紹介をみても、ソフトウェアやミドルウェアの開発会社の管理職や役員を歴任してきてきた技術職畑の人くらいしかわからない。著者のXのアカウントが掲載されていたので覗いてみたが個人的趣味爆裂のアカウントでもっとよくわからない(笑)
 ビジネス書は日々新刊が発表される。これもありがちな量産本のひとつかと思ったけれど、書店でパラパラしてみたら

 ・表紙を開いて1ページ目の本扉を見ると、左下にサブタイトルのように、『「人を動かす」では得られない答えがある』と書いてあった。カーネギーの古典三部作にケンカを売っているところに興味を持った。
 ・めずらしく横書き右開きのレイアウトであった。最近では「まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書 」がこのタイプだったので、それを彷彿させた。
 ・出版元が技術評論社。この出版社はたまにエッジの効いた変に面白い本を出す。

 という点が気に入ったので買ってみることにした。前回の投稿でも言ったように、僕もちょっとスランプ気味で、いろいろな観点にあたってみたいという気持ちもあった。


 さて。読んでみての感想としては、まあそんなところかなという順目な感じも多かったが、とは言えしっかり言語化してくれてもやもやしていたものが明確になったのも事実だ。本書は技術職やIT業界を踏まえての書き方が主なのでそうでない業界の自分としては隔靴掻痒なところもあったが、だからこその『 「マネジメント」とは「仮説」と「計測」を繰り返す「技術(あるいは機能)」でしかない』と突き放した姿勢はなんか心が洗われたような気がする。

 「人を動かす」では得られない答えがある、というのは、単なる挑戦的な惹句なのではなかった。著者の主張によれば「人を動かすことに長けるマネジメント」とは「交渉力で問題を解決するマネジメント」であり、それすなわち「現在起こっている問題を現在用意できそうなリソースでなんとか解決しようとするマネジメント」ということになる、というロジックなのだ。これはけっきょく「全体的に短期的な目的を、手元にある資源を使いこなして達成するマネジメント」になってしまい、「未来に向かうマネジメントを行う余裕がなくなる」と主張するのである。

 著者にとってマネジメントは「未来から逆算して考える」ものであり、マネジメントとは「現実に変化を起こす」ことであり、その判断は「仮説と計測」に尽きるもので「正解はない」ということであった。つまり、常になにかトライ&エラーをしながら、組織の体質改善を図り続けることがマネジメントであり、コトが勃発するたびにその交渉力でなんとかリソースを確保して解決していくのはマネジメントではない、ということになる。この両者は何がちがうかというと、前者が「成長」と「持続可能性」をマネジメントの目的に内包させているのに対し、後者はあくまで都度都度の対症療法でしかない、ということである。その違いは組織構成員(要は部下)の成長やモチベーションとか、その組織が出すアウトプットの向上というものに違いとなって現れてくる。

 そうかー カーネギーの「人を動かす」は僕も一目置いていたのだが、本書の指摘もなるほど、という気がする。人が自分の意図どおりに動いてくれたりするとマネジメント冥利の感慨もあってついついそこに腐心してしまうが、それはやがて「短期的な目標に対しての問題解決型」マネジメントに終始してしまい、組織の成長や持続可能性といった観点が後背に追いやられてしまう。対症療法的な綱渡りを続けているうちに致命的なクライシスを迎えつつあることに気づかなったりするのだ。このあたり「世界はシステムで動く」の第1のフィードバックと第2のフィードバックの話にもちょっと通じる。

 とはいっても、日々の業務の中で、人を動かさなければならないのはマネジメントとして避けられないことなので、ここは極論に振るのではなく、「人を動かして目の前の問題の解決をはかる」ことと「未来のために現在の仕組みを変え続ける」ことの両方をアウフヘーベンさせなければならないのだろう。


 一方で、本書はかようなマネジメントは、所詮は「技術」であって「機能」である、とする。こと中間管理職の立場としては、それは経営など上層部から任命と指名において「させられている」ものであって、要は仕事としてわりきっていいのだ、とする。具体的には

 ・うまくいくうまくいかないは大雑把に50%の確率
 ・仕事は頼んだほうにも責任がある
 ・今現在ないものをつくるのだから、失敗しても今より悪くはならない
 ・誰かがやらなければならないから任命されたのであって、実績があるから任されたのではない
 ・結局、後から振り返れば「できることはできている」し、「できないことはできてない」

 と吹っ切れている。見事なものだ。ついでに言うと我々がいつも苦しむ示達予算というものについても、「予算」というのは「押し付けられた不快なもの」だが「会社全体が生き残るための金なのだ」として、誰しも「今は採算がとれなくても、いずれ莫大な利益を生む」という言い草は会社の日常なのだから、「予算」がふってくるのは仕方がないのだ、というのは変に浪花節の説得力がある。本書ではむしろ「財務や経理がどんな理屈や力関係で予算をつくっているかを知っておくほうがいい」と諭している。


 というわけでそれなりに面白い本であった。著者の矜持が垣間見えたところとしては「私はマネージャーの責任の中には会社が潰れたときにも食べていけるようにしてあげること」というくだりである。こういう上司に恵まれた部下は幸いであろう。

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「こつ」と「スランプ」の研究 身体知の認知科学

2025年01月17日 | サイエンス
「こつ」と「スランプ」の研究 身体知の認知科学

諏訪正樹
講談社


 僕はどちらかというと「頭でっかち」の性分で、それゆえに考えすぎというか脳みそが煮詰まってくるとたまに身体論の本を読む、という結局「頭でっかち」なことをしてしまっているのだが、本書もその類である。

 本書によれば「スランプ」は次の成長のための必要悪な存在らしい。つまり「スランプ」なき成長はありえないのである。「スランプ」というと主にスポーツを想像するし、本書も野球やゴルフやボーリングを代表例にして説明をしているが、もちろんスポーツに限らない。受験勉強や楽器の演奏なんかにもスランプはあるし、飲み会でうまく会話の流れに乗れなくなったとか、料理の仕上げが思うようにいかなくなった、というようなことだってスランプの一種である。

 スランプの対義語に「こつ」という言葉を持ってきたのは本書の慧眼だ。確かにうまく軌道に乗っているというのは「こつ」をつかんでいる、ということだろう。
 この「こつ」がくせ者で、これすなわち「身体知」に他ならないのだが、「こつ」は大概において言語化さられない。つまり暗黙知である。しかし本書はこの「身体知」を暗黙知のままにしておかないでなんとかして自分の言葉で言語化することを強く勧めている。というのは、この「言語化」こそが暗黙知化している身体知を、外部からの観察と検証を可能にしてPDCAさせる秘訣であり、この言語化されたものをモニタリングすることによって「こつ」と「スランプ」と上手につきあって、つまりは「成長」できる、とするのだ。

 どういうことかというと、人はボーリングでもピアノでも、ものを習得するとき最初はぎこちない。姿勢や規則的な動作、動きを他人からコーチされたり、見様見真似したり、本や動画と首っ引きになりながらやっていく。このとき自分の口でつぶやきながらやればそれは言語化である。このとき言語化されるものは「身体の詳細部位」に関するものが多いそうだ。ボーリングならば「ここで顔の位置は変えずに後ろ側に肘をあげる」とかピアノならば「卵を持つようにやさしく指を丸める」とかそういうやつだ。
 もちろん言語化されたものがすぐには自分の筋肉を理想通り動かすに至らない。最初は七転八倒であり、ちっともうまくいかない。うまくいったと思ってももう一度試すとやっぱり失敗したりする。つまりまだ身体知を体得できていないのだ。だけどそうやって日々鍛錬していると次第に「こつ」をつかむ。
 そのときに多くの場合は言語化によるモニタリングをやめてしまう。いわゆる「体が覚える」というやつだ。ところがここでも頑張って意識的に言語化を続けると、実は言語化される内容が変わっていくという。身体の詳細部位に関するコメントよりも、より大きな視点での言語化がなされるそうだ。ボーリングならば「体が振り子のようにいく」とか、ピアノならば「腕から弾いていく」とか曖昧な言い方になっていく。こういう大まかな言語化になっているときは「コツ」をつかんでいるときらしい。この粒度になったときの言語化を「包括的シンボル」と本書では表現している。

 ところが、そうやって「こつ」をつかんでボーリングなりピアノなりの研鑽にさらに励んでくると、やがて成長がとまって踊り場となる。場合によっては下手になったりする。これはいろいろな原因がある。
 たとえば、ここまで習得することによって、逆に今まで見えていなかった広い世界が眼前に現れ、それはこれまでの習得技術では太刀打ちできない、なんてのがある。そのやり方だと70点までは上達するけど、それ以上うまくなるにはそのルートではダメなんだよ、というやつだ。ピアノの世界では国内の音大で優秀な成績を収めていた学生が海外の有名音大に留学したらその弾き方では上達しないと言われて基礎からやり直しをさせられたなんて話がざらにある。
 長い期間をかけて習得するものの場合は、自身の身体の変化が影響する場合がある。オリンピックのアスリートでローティーンのときはすごい記録を出すのにその後伸び悩むなんてのは、体がさらに成長して重くなったり大きくなったりしたのが原因だったりする。
 また、対戦相手があるような分野だと、相手自身も強くなってこれまでのようには勝てなくなった、なんてことは多いにある。

 つまり、成長は必ずどこかで壁にあたる。これがスランプである。

 で、そうなるとどうやってスランプから脱するのか。本書によれば、ここで再び言語化しながらおのれの試行錯誤と向き合って再構築していくのが結果的にスランプの克服になっていくそうだ。実験によると、スランプになるとその言語化は、例の「包括的シンボル」から、また再び身体の細かいところの話になっていくそうだ。ボーリングならば「ここで親指を5時の方角に1センチ引く」とか、ピアノならば「右手薬指を自分の気持ちよりプラス1センチ右に動かす」とか。そうやって試行錯誤していくと(場合によっては長い時間を要するが)やがてスランプを抜け出し、ふたたび「こつ」を取り戻す。
 そのとき、あなたのボーリングなりピアノなりの技術は、スランプ前よりも一段高いレベルになっている。

 なるほど。「スランプ」は成長前のシグナルなのだ。これはとても勇気のある指摘である。スランプのときは「詳細部位」のところが気になり、こつをつかんでいるときは「全体」を語って詳細のところが暗黙知になる。


 ところで、僕はここのところ会社の仕事がスランプ状態である。このブログでも何度か吐露している。なんか思うように提案書が書けないとか、説得力をもって人に説明ができないとか、新たなサービスが覚えられないとか。歳のせいかとすっかり自信喪失なのだが、一方でここのところビジネス関係の本を手にすることが多い。ゆえにこのブログもビジネス本の登場が増えているが、これこそが「詳細部位」なのではないか。
 なんか調子がいいときは、ビジネス本なんか目にもくれず、どちらかというと歴史本とか哲学本みたいなものから仕事のヒントや方針みたいなのを導き出してなんとなくひょうひょうとやってきていた。それは一種の「包括的シンボル」に基づいた「こつ」だったのだろう。しかし、ここのころ内外さまざまな要因で思うようにいかない。つまり「スランプ」だ。そこでなにがしか助けにでもならんもんかと何冊かビジネス本を読んではおのれにあてはめて反芻していたのだが、本書を信じればまさにこれはスランプ期の効果的な過ごし方である。

 というわけで、自分の仕事が本調子を取り戻したとき、それはさらなる高みに上っているはずだ。ということを励みに今日も悪戦苦闘は続く。もうしばらくビジネス本は続きそうである。

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「変化を嫌う人」を動かす 魅力的な提案が受け入れられない4つの理由

2024年12月27日 | 経営・組織・企業
「変化を嫌う人」を動かす 魅力的な提案が受け入れられない4つの理由

ロレン・ノードグレン デイヴィッド・ションタル 訳:河崎千歳
草思社

 初版は2023年2月。積ん読していたのだが、来年から仕事において表題のような人を何人も相手にしなければならなそうになり、すがる思いで読むことにした。
 なお、原タイトルはThe Human Element -Overcoming the Resistance That Awaits New Iddeasという。「「変化を嫌う人」を動かす」という邦題はかなり巧みな名訳だと思う。

 本書は、ものぐさで保守的な人間(世界最高峰の経営教室 も参照)に新しいことをさせるにはどうすればいいかを説いた本だ。ありそうでなかった本である。リーダーシップの本では部下やスタッフのモチベーションをいかに持ち上げるかとか、マーケティングの本ではいかにモノやサービスを魅力的して顧客に意識させるか、なんてことが解説されているが、本書ではメリットをとことん強調したりいたずらにハッパをかければかけるほど実は逆効果であると断罪する。「モチベーション」より数倍やっかいなのは「抵抗感」であり、これをどう無効化するのかについて解きほぐしている。
 あらためて日常を考えればまさしくその通りなのであって、セールスマンがいくら弁舌さわやかに新商品の魅力をたっぷり語ってきたところで、語れば語るほど聞き手はドン引きしていくことはよくあることだ。
 本書によると、誰でも人間の習性としてなるべく現状を維持したい」「曖昧模糊な未来に乗り出すのは警戒する」「面倒くさがり」という側面を持っている。年齢が長じるによってそれに拍車がかかることもあるだろうし、特定の分野にそれが生じることだってあるだろう。国がいきなり労働者にリスキリングしろと迫ってそのメリットを強調しようとも、路線変更を強いられることによる抵抗感はバカにできない。

 要するにメリットを語って人を動かすというのは、語る対象が「変化する用意ができている」場合に限るということだ。頼みもしないのに勝手に何かを要求したり推薦してきたりする場合ではこの話法ではダメなのである(本書によるとデメリットによって人を脅すやり方(このままだとあなたこうなるよ)も、たいして持続効果がないそうである)。
 ではどうするのか。本書によるとその秘訣は意外にシンプルだ。
①その「変化」は、もともと身近にあった何かと同じようなものであることを伝える 
②なんとか自分から「宣言」させる
③まず何をすればいいのかの、最初の一歩目のやり方を教える 
 なるほど。①についてはスティーブ・ジョブズが、iPhoneを世界に初めてお披露目したときに「超小型のタブレット端末」とも「タッチパネルのモバイルPC」とも言わずに「電話(phone)」と説明したことを思い出させる。これによってこの前代未聞の小型端末は一気に市民権を持って迎い入れられる素地を持ったのだ。
 ②は昔ながらの方法で、禁煙を誓ったタバコのスモーカーが「禁煙」と紙に手書きみんなの見えるところの壁に貼る、なんてサザエさんでもドラえもんでも見かけたことがある。かの効果は案外にバカにできなくて、捕虜の洗脳なんかに使うこともあるそうだ。

 ぼくが、そうか確かにとうなずいたのは実は③である。四の五の言わずにまず最初に何をすればいいのかを教えてあげれば、けっこう人は動くのではないか。通販番組がことあるごとにここに電話しろと言ってくるとか、ラーメン屋でこのメニューはこのようにして食べろという説明紙がイラスト入りで貼られているのなんかまさにそれだ。「変化を嫌う人」は、茫漠感の中に放り込まれるのを極端に恐れる。迷子になるくらいならばはじめからここから動かない。なんとなくやったほうがいいんじゃないか、くらいの雰囲気さえつくれればあとはメリットをマシンガントークするよりは、じゃあファーストステップとして今から何をすればいいのかの筋道をお膳立てするほうがよいのである。リスキリングの必要性を説くのは程々にして、まずは顎足付きでもなんでもいいから体験教室に連れ出すことが大事なのだ。
 そう考えると、例の山本五十六の名言「「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」というのはかなりの真実を突いていることになる。

 というわけで、来年からの僕の仕事の多少のヒントにはなったが、なにをかくそう僕自身がだいぶ「変化を嫌う人」になっている自覚がある。誰か僕に最初の一歩を教えてほしい。
 

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まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書

2024年12月23日 | 実用
まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書

阿部幸大
光文社


 年の瀬も迫った頃にようやく読んだのだが、評判にたがわずめちゃめちゃ面白かった。今年読んだ本のベストワンかもしれない。
 刊行時から話題を呼んでいたものの、さすがにこちとら企業勤めのサラリーマン、もちろん論文など書くことなどなく、いまさら「アカデミック・ライティング」でもないなとスルーしていたのだが、信頼のおける後輩から「いやあれ、めちゃ面白いっすよ!」と酒の場で勧められ、しからばと購入したところ大当たりだった。

 なるほど。本書は大学生や研究者を対象にした論文の書き方指南書ではあるに違いない。
 だけれど、読みようによっては本書は広くこの世に働く者、世に真価を問いたい者に敷衍できる内容をもっているのではないか。少なくとも、最近疲れ気味の停滞気味の僕にとってはバッドで殴られたかのような衝撃を受けたのだった。毎日なくもながなの提案書や報告書を生産しているホワイトカラーの僕にとって本書は間違いなく、襟を正せるものだった。

 本書は、世の中にあまたある「論文の書き方」本であるけれど、本書の白眉は、冒頭の第1編【原理編】と、最後の【発展編】にあるのではないか。いや、この二編こそが本書をして生半可のビジネス本を形無しにしてしまう名ビジネス本とまで呼べそうな域に押し上げていると断言してしまおう。


 第1編 【原理編】では「アーギュメント」とは何か、ということを取り扱っている。「アーギュメント」とは「主張」のことだ。
 本書では、良いアーギュメントは「AがBをVする」という文章で言い切れる主張である、と喝破している。すなわち「要は何が言いたいの?」である。
 何かを報告するなり提案するなりの場面で相手からこのように突っ込まれてしどろもどろした経験があるビジネスマンは多いはずだ。もちろん僕も何度も食らわされていてイヤな思い出だ。ビジネス界ではこのような「要は何が言いたいの?」を端的に言い切る短めの報告のことをエレベータープレゼンとかエレベーターピッチと呼ぶ。キーマンとたまたまエレベーターで乗り合わせたときに目的階に着くまでに売り込むことができるか否かからこの名がついた。キーマンが食いつかない「主張」は提案としてダメなのである。
 ここで「AはBをVする」というSVO構文みたいな英語他動詞構文をもじっているのも本書によればちゃんと理由がある。この構文でずばっと言い切る(多少な躊躇を覚えるくらいの勇み足で)ことができるのがよくできた「アーギュメント」なのだ。論文しかり、ビジネス提案しかりである。

 さらには、その際にキーマン(アカデミック論文で言えば査読者)が心動くアーギュメントは、これまでの通説を否定してくるもの、というのが特に人文学系研究では大事というのが本書の指摘である。つまり「常識を覆す」ものということなのだが、もちろん、それはちゃんと論証しなければならない。

 つまり、誰かが言っていることを二番煎じで繰り返したり、調べればすぐにその証拠が出てくるようなものでは「アーギュメント」にならないのだ。また、前提を誰もが知らないようなことをとつぜん持ち出しても「アーギュメント」にはならない。

 自分の仕事を顧みても、採用されなかったり黙殺されるレポートや提案書は、やっぱり「アーギュメント」がなかったな、と思い至る。時間がなくてやっつけ仕事だったり、気乗りがしなくてなあなあで済ませてしまったものだけでなく、新しい手法を試してみたくてやったものとか、斬新さにこだわりすぎてしまったものなんかでポシャってしまったものを顧みてみると、確かに手法が先に立ちすぎて結局何が言いたかったのかを「AはBをVする」という形で説明しようとするとバシッと決められないのだ。反対に、逆境をものともせずにモノにした仕事や、競合相手から競り勝った仕事は「アーギュメント」があったように思う。あらためて「AはBをVする」という構文でセンテンスをつくろうとするとちゃんとできることに気が付く。

 そして冷静に見渡されれば、僕や僕の部下たちによって日々量産されるレポートや提案書の多くがアーギュメントを喪失している。ビジネス上のルールや会社の有形無形なお作法には準じていて外形的なつじつまはとれているものの、中身はスカスカで、したがって不採用に終わったり、なんとなく採用されてもけっきょくいつの間にか立ち消えしたりそんなものだらけだ。copilotやchatGPTのような生成AIの助けを借りるとますます外形の確からしさと中身の薄さの温度差が助長されていく気がする。

 というわけで年末にいい感じに気合が入る本を読んだ気分だ。人文学の論文の書き方指南書に背中を押されるとは思ってもいなかった


 なお【発展編】は、論文の書き方を通り越して「なぜ他ならぬあなたがこの研究をするのか」という問いに向き合ったもので、この章もカロリーが高い。ネットのレビューなどを見ると、この【発展編】で心を動かされた人が多いようだ。ここでの語りは研究者に限らず、「なぜ他ならぬあなたがこの『仕事』をするのか」とさらにレイヤーを上にあげたときにデヴィッド・クレーバーの「ブルシット・ジョブ論」やマックス・ウェーバーの「プロ倫」にまで肉薄しているものではないかと感じた次第である。


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イシューからはじめよ【改訂版】

2024年12月15日 | ビジネス本
イシューからはじめよ【改訂版】

安宅和人
英治出版


 「イシューからはじめよ」はえらく売れたビジネス書だそうだ。刊行時に書店で平積みされているのを見たときはなんか鼻について敬遠したのだが、このたび「改訂版」が出たということなので読んでみることにした。

 本書の主張は、仕事でも何でも、なにか取り組むときには見通しがたたないまま着手するんじゃなくて、まずは要となるところを見定めてそこから逆算するように全体の進行設計をたてろ、ということである。つまり最短距離をまずは見つけてからそれから走れ、ということだ。
 これだけ書くと当たり前のように思うのだが、この世の中には当たり前でないこいことをしてしまうことはざらである。なんだかよくわからないからとにかく手をつけてみるとか、しょせん人が見通せるこの先なんてのは限界があるとか。よって、最終ゴールにたどり着くまではしなくてもよかった余計な仕事や回り道をしてしまう。昨今ビジネス界で盛んに言われる「生産性の高い」とはこの余計分が少ない人ということでもある。
 この「要となるところ」を本書はイシューと読んでいる。イシューとはissueのことだ。本書が確信犯的に「イシュー」と書いているように、どうもここにしっくりくる日本語がない。僕も「要となるところ」となんとなくぼやかしてしまったが、どういうものが「要」になるのかをぴしっと言いきれないでいる。
 イシューを日本語で訳すと、英和辞典では「課題」とか「問題」とか「争点」とか出てくる。「課題」も「問題」も「争点」も微妙にニュアンスが異なる。
 ・課題⇒結論が出ていないこと
 ・問題⇒解答があるはずのいまだ未解決のこと
 ・争点⇒合意がとれていない未解決のこと
 といったところだろうか。ここらへんをまとめて「イシュー」という。
 本書における「イシュー」の定義は著者によれば
 ①2つ以上の集団の間で決着のついていない問題
 ②根本に関わる、もしくは白黒がはっきりしていない問題
 の両方の条件を満たすもの、としている。
 ①に従うならば、無人島に一人でいる場合は「イシュー」は起こらないことになる。また②に従うならば、どうすればいいかわかって後はとりくむだけのものも「イシュー」とは言わないことになる。
 つまり、「相手がいて見解の統一がまだできてなくてでもこの部分がスッキリすれば万事うまくいくんだけどなあ」というところが「イシュー」になる。「イシューからはじめよ」とは、そういうところをまず見つけてそこから段取りを逆算しなさいよ、ということである。

 閑話休題。
 「ハンス・フォン・ゼークトの4象限」という有名な組織論がある。
 組織に所属する人を、「有能か無能か」「やる気があるかやる気がないか」で4象限に分類するやり方だ。「有能×やる気あり」がいちばん優秀かというとそうでもない。「無能×やる気がない」がいちばん使い物にならないかというとそうでもない、というのがこの象限の面白いところだ。どの象限に属する人も、組織の中でそれぞれ有益なポジションがある。ただし例外は「無能×やる気あり」だ。これはまわりに害を与えるおそれがあるので始末したほうがよい、とされる。
 僕は会社の中の立場ではいちおう管理職というものであり、したがって部下がいる。このゼークトの組織論はなかなか頑強で、ぼくも部下を見てこいつは「やる気のない有能タイプだな」なんてことを心の中で値踏みしている。僕自身が他人からどう分類されているかはこの際無視する。
 そこで、確かに手を焼くのは「やる気のある無能タイプ」なのである。ひとりで明後日の方向を追いかけて締め切り間際に見当違いのアウトプットを持ってきたり、意味のない作業を後輩にさせてしまったりする。

 さて、本書「イシューから始めよ」に話を戻すと、このイシューから始めるタイプを、直観的にできてしまう人は「やる気のない有能タイプ」に多いように思う。さっさと仕事を終わらせてしまいたいから、あとくされない最短距離を見つけるセンスに長けてくるのだろう。こういう人はいまさら本書は必要ない。
 で、そう考えると「イシューから始めよ」というメソッドは、最短で及第点を突破するための方法、と言えなくもない。つまりそのテストの合格ラインが80点ならば100点ではなくて80点越えをすればいいのである。とことんビジョンを追求するアーティストの思考法を述べた「東京藝大美術学部 究極の思考 」の逆とでも言おうか。安打を量産することと逆転ホームランを打つこととどちらが大事かは時と場合によるが、本書はやたらにトレーニングに精をだしているのに凡打しか出せない人に対しての啓発本ということになる。要するに「やる気のある無能タイプ」にむけてのものなのだ。
 こんど彼に読ませてみようか。


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セールスにはびこるムダな努力・根拠なき指導を一掃する 営業の

2024年12月07日 | ビジネス本
セールスにはびこるムダな努力・根拠なき指導を一掃する 営業の科学

高橋浩一
かんき出版

 いまの僕は管理職、それも内勤なので、自分でセールスに関わるような提案書を書いてクライアントのところに行ってプレゼンするような機会がほぼなくなってしまった。先日、久しぶりに自分がそれをやらなければならない機会があって、久々なので勘所を忘れてしまっていた。提案書にはどんなことを書けばいいんだっけ?

 この「どんなことを書けばいいんだっけ?」というのは、マーケティングとかソリューションのことを指すのではない。「どういう書き方をすればクライアントはその提案をお買い上げをしてくださるか」である。いってみれば、提案書そのものがクライアントという世界におけるマーケティングに裏打ちされているものでなければならない。正論を正面から書いてもクライアントが素直に採用するとは限らない。むしろそうではないことの方が多い。世の中は生き馬の目を抜く本音と建前の生存競争であり、競争相手だっているし、予算のことだってあるし、クライアント自身の思惑や保身やプライドもある。提案を通すというのは、提案の中身も大事だが、そういったクライアントのコンディションをめぐるファクターもまた重要なのである。

 というわけで本書は「営業の科学」。営業とは足と熱意と度胸だよ、というのは昔の話、パフォーマンスが優れている営業とそうではない営業をアンケート結果から比較してそのココロをひも解いた本だ。正直言うと僕はアンケート結果というものをあんまり信用していない。「人は自身の本当のところをアンケートで答えることはできない」とさえ思っている。国勢調査のように事実関係をYESかNOかみたいなもので尋ねるタイプならばズレもないが、「あのときあなたは何を思いましたか」とか「どうしてあなたはそうしたのですか」みたいな意識めいたものを問う質問は、言語化以前の脳味噌の判断も多いにあるし、様々なシナプスの連鎖反応の結果でもあるし、肌感の直観のときだってあるだろう。質問作成者が作る質問や選択肢の文章が、回答者が普段あやつっている言語感覚と合致したもであるかどうかもあやしいし、この中から選べと提示されている選択肢の区分が適切かどうかもあやしい。

 だから、本書のアンケート結果そのものはそんなに注目はしなかったけれど、著者が導き出すロジックそのものはけっこう勉強になった。というか、そうだそうだたしかにそうだ、と忘れていた感触を思い出した具合である。その大前提は「お客様は本音を話さない」というところである。

 じゃあ、どうすれば本音を話してくれるのか、といえば、ここで出てくる決まり文句が「信頼関係」だ。いかにクライアントと「信頼関係」をつくるか。そこにごまんと回答がある。トップセールスをほこる保険や自動車のセールスマンは何が違うのか? 飛び込み営業の名人は何が優れているのか? とはいえ、こういうレジェンド級営業による信頼関係の作り方はやはり常人離れしていて、凡夫たる我々が即とりいれられるものでもない。

 では、本書はどうか? 本書はかなり分厚いのだが言っていることはシンプルで、実に「本音の引き出し方」と「決裁のさせ方」である。「本音の引き出し方」は、「あなたの個人的主観でいいから・・」という枕詞をつけて回答しやすくさせろとか、あえて「困ってないんじゃないですか?」という角度で質問することで相手の課題を口に出させろとか、急に見積依頼がきたときは見積だけでなくてお役立ち情報も渡して「話が早くて頼りになるやつ」というポジションをまずつかめとか、なんかビジネスマンマンガなんかで指南されそうなことが次々と出てくる。「信頼関係」という言葉で投げ出さないところがミソだ。こういうのは耳学問じゃなくて体が会得しなければならないものだけれど、こういった勘所も最近の自分は忘れかけていたなと思う。

 これくらいならWEB記事とかにも出てきそうだが、「決裁のさせ方」の中に目を見張るものがあった。決裁の権限を持つ者は独断専行かというと多くの場合はそうではなく、何を基準にそれを選んでいいかわからなかったりする。そこで「決裁のさせ方」、これさえ押さえていれば、決裁者は安心して決裁する。ここにそれを書いてしまうと営業妨害になるような気もするので適当にはしょるが、営業トークだけでなく、提案書を書くときとかも肝要である。それは

 ・課題の把握
 ・解決策の希少性
 ・費用対効果

 が抑えられているということだ。本書にはもう少し詳しくそれぞれのことが書いてあるのだが、この話をきいて僕は、提案を通すには「3つのi」が大事なんだよ、という会社の先輩の話を思い出した。それは   
 ・issue (課題)
 ・insight(課題解決の根拠)
 ・idea  (独創的な企画)
 というやつだ。わりとよくできているので、先輩も何かの受け売りだったのではないかと思っているのだが、これとよく似ている。どちらも「課題」で始まっている。

 この最初の「課題は何か」をとらえ損なうと、間違った方向に踏み出してしまう。いくら斬新なソリューションがあっても、費用対効果があってもお門違いになる。したがって「課題は何か」はとても重要な第一歩なのだが、厄介なことに「自分はいま何が課題なのか」は案外にクライアントもわかっていないものである、

 しかも、この提示する「課題」が求められるスイートスポット範囲というのはわりと絶妙なのだ。「そんなの言われなくてもわかっているよ」では関心を持ってもらえないし、「それ、本当に本当なの?」という新奇性が強すぎても疑われたり、相手の脳にうまく入ったりしない。
 じゃあ、クライアントが納得する最適な課題の把握とは何か。それは僕の経験では「言われてみりゃ確かにそうだな」という読後感を得るものである。

 「そうそう言われてみりゃ確かにそうなんだよ」と課題を言い当てられたら、回答は半分出たも同然なのだ。根拠が少々怪しかったり、課題の分解がMICEになっていなくても、クライアントが「言われてみりゃ確かにそうだな」と反応すれば、それは好感触である。反対に、いくらデータが出そろっていてもロジックが完璧でも、クライアントに「言われてみりゃ確かにそうだな」がなければ、その提案はどこかで自然消滅する。

 ところで。もともと僕は「どういう書き方をすればクライアントはその提案をお買い上げをしてくださるか」の勘所を忘れてしまって本書をひも解いたのだった。行き着いたのは「言われてみりゃ確かにそうだな」とクライアントがつぶやきそうな「課題」を提示することだった。
 でも、このスイートスポットを探り当てるにはどうすればいいのだろう? これはもはや「営業」ではなくて、「マーケティング」とか「コンサルティング」とかの世界になってくる。これもかつてはなんかうまく探し当てられたような気がしたのだが、これこそは日ごろの世の中の観察とか、日常のちょっとした違和感を見つけるアンテナが大事だ。内勤の管理職なんかやっているとこういうのからどんどん離れていく。書を捨てよ街へ出よとか、事件は会議室で起きているんじゃない、とか、そういう世界だ。これだけこたつ記事があふれている今日、ポイ活目当てのモニター登録者が答えるアンケート結果からみられる分析なんかに「言われてみりゃ確かにそうだな」は見つからない。まさかマーケティングのほうが足と熱意と度胸の世界になるとは。

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刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機

2024年12月03日 | 歴史・考古学

刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機
 
関幸彦
中公新書
 
 
 刀伊の入寇キター!
 
  最近の日本史をテーマにした新書は「観応の擾乱」とか「中先代の乱」とか渋いところをついたものが多くて興味深かったが、まさか「刀伊の入寇」が一冊の新書になってやってくるとは。
 
 「刀伊の入寇」は僕にとって謎に満ちていた事件だ。なにしろほとんど言及されたものを見たことがないのである。高校生のときに学校で使っていた山川の教科書でも欄外に注釈みたいな一文が書かれていただけで、情報量としてはほぼゼロであった。
 なので「刀伊の入寇」でまるまる新書一冊というのは僕にとってタイトルしか知らされてなかった謎の事件の全容をいよいよ知るということなのである。
 
 それにしても「刀伊の入寇」が、元寇のように語り継がれていないのははぜだろうか。本書を読むまでは史料がそれほど残ってないからかとも思っていたが、どうやらそれなりに記録は残っていたようである。むしろ日本があっさりと迎撃してしまい、元寇ほど歴史的インパクトを残さなかったことが理由としては大きいのかもしれない。
 たしかに元寇はその後の日本の歴史に作用した。北条政権すなわち鎌倉時代を追い詰める一因になったし、日蓮宗という新仏教の隆盛とも因果をつくった。元寇という事件は歴史の流れに影響を与えるものだったと言える。
 だけど「刀伊の入寇」が平安時代の流れに何がしかの影響を与えたかというとどうもそこまでは言えないようである。刀伊軍が対馬の地を襲撃してから最終的に朝鮮半島のほうに敗走するまでの期間はわずか半月程度で、全体的にみれば日本の完勝であった。海の反対側から女真族が攻めてくるという平安時代最大の対外危機でありながら歴史の教科書で軽視されてしまうのはこのあたりが背景だろう。
 
 むしろ平安時代というあの世に、刀伊軍をあっさり潰走させるだけの兵力をもった日本軍がいたという事実のほうが考察に値する。
 
 つまり、「刀伊の入寇(1019年)」の理解とは、平将門や藤原純友の反乱である「天慶の大乱(939年)」と、源頼義・義家親子の東北遠征である「前九年の役(1051年〜)」というミッシングリンクをつなぐことなのである。
 
 「天慶の大乱」と「前九年の役」という武士が関わる二つの争乱の間には藤原摂関政治の頂点時代がすっぽりとはまる。「刀伊の入寇」があったときの京都はあの藤原道長の時代なのだ。どうもこの時代の印象は王朝文学とか国風文化であったり朝廷内の内ゲバ的な権力争いだったりして、なんとなく生ぬるい平和な印象がある。一方で浄土思想なんかも芽生えていて決して煌びやかなだけではないけれど、その前後の時代に比べるとどうも緊張感がないなというのが僕のイメージであった。本書によると朝廷や京の貴族たちは海外情勢もよくわかっていなかったようである。
 
 だけど中央部がふやけているということは、地方への行政指導力が弱まったということでもあり、地方はそのぶん自治が強まっていった。税制としての班田制が廃れて荘園制が台頭し、治安を確保するための警察力として武士(兵)なるものが育っていくのである。教科書では武士についての記述は「天慶の大乱」の後は「前九年の役」まですっとばされてしまってこの間のことがわからなくなってしまっているが、刀伊の入寇があったとき九州北部には兵団と兵力があったのだ。中世への序章はすでに始まっていたのである。
 
 この地方におけるガバナンスのあり方は100年近く時間をかけて完成されていったようだ。律令制が緩み、由緒ある出自の国司崩れや在庁官人(桓武平氏、清和源氏、藤原傍流など)と地元の有力豪族の虚々実々なバーターがあって利害の一致と協力関係の仕組みとして整えられた。「天慶の大乱」は監視が緩やかな地方において貴族のボンボンが調子こいて火遊びしちゃったような面が無きにしも非ずですぐに鎮圧されてしまったが、「前九年の役」では蝦夷サイドの安倍氏がなかなか強く、朝廷が派遣した源頼義も手を焼いた。結局、源頼義が勝利したのは安倍氏と同じ俘囚の清原氏(後の奥州藤原氏)が源氏側に加担したことが大きい。それでも安倍氏を討ち破るまでには11年を要することになった。「刀伊の入寇」はこの両者の過渡期に起こっているのだ。
 
 刀伊が入寇してきたときの日本側の総司令官的立場にあったのが藤原隆家だ。この人は藤原道長の甥に当たり、前半生は宮廷内で権力争いをしていた。有名な花山法王誤射事件なんかにも関わっていて、藤原伊周と一緒に左遷させられたりしている。道長にとってかなり煙たい存在であったようだ。いろいろあっての太宰府への赴任は隆家本人の希望であったとされるが、道長は九州勢力と結託するのを恐れて妨害しようともしたらしい。
 しかし、結果的には隆家が太宰府にいたことは刀伊の入寇において日本側の僥倖と言えるだろう。彼はなかなか気骨ある貴族だったようである(もともと荒っぽい性格だったようだ。枕草子にも登場する)。地元の豪族もよく管掌していた。刀伊との戦闘においては戦略戦術ともによく機能し、刀伊軍を蹴散らしたのは彼の統帥が優れていたからでもある。太宰府は国防上の要所だからそれなりの人物を配すことにしていたのだろう。もしも紀貫之のような人間がこの時の太宰府権帥だったら目も当てられなかっただろう。
 
 
 ところで善戦したとはいっても刀伊軍の経由地であった対馬・壱岐の犠牲は甚だしい。元寇のときもそうだが、この二つの島は地政学上の宿命として悲惨な歴史を負っている。日本人はもう少しこの二つの島に関心を持ってよいのではないかと思う。

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デザインはストーリーテリング  「体験」を生み出すためのデザインの道具箱

2024年11月26日 | 編集・デザイン
デザインはストーリーテリング  「体験」を生み出すためのデザインの道具箱

著:エレン・ラプトン 訳:ヤナガワ智予
ビー・エヌ・エヌ新社


 銀座はGINZA SIXの6階に蔦屋書店が入っている。小洒落た空間でカフェが併設されている。扱っている本は、インバウンドを意識してか日本文化を扱ったものも多いが、全体的にはアートや建築に関するものが幅を利かせていてそういうコンセプトの本屋のようだ。
 ふらっと立ち寄る機会があって、なにげに棚を眺めていたら本書の装丁とタイトルに惹かれた。ぱらぱらめくると大きなイラストと読みやすい文字組。奥付を調べてみたら2018年刊行の本だ。すこし時間が経った専門書は一般の大型書店でも出くわしにくいので、これも僥倖と思うことにして買ってみることにした。要するに衝動買いである。

 あらためて読んでみれば、かなり欧米(というかアメリカ)のカルチャーと、いかにも翻訳翻訳した文であったが、何事も3段式にしてしまえば食いつきやすくなる、という話に興味がわいた。

 ・魅入る映画は、序盤・中盤・終盤がはっきりしている
 ・物事の手順を教えるときは3ステップに分解して教えると理解しやすい
 ・我々が美味しいものを食べたり、セックスで快楽を得るのも3段階である(欲する⇒気に入る⇒満足に浸る)
 ・要点をまとめるときは「3つある」とするのがよい。(3つめが肝心、ないしオチにするのがコツ)

 なお、本書でみられる三段式は、クライマックス曲線とでもいうか、左向きの滑り台みたいな形の推移で表現されている。誘惑してどんどんカタルシスを高めていって絶頂に達し、クールダウンは速やかに、という形だ。あけすけではあるが人間の本能や生理に即しているのだろう。

 というわけで、美術館なり遊園地なり、あるいはコンカフェなりは、単にモノを見せたり買わせたりするだけでなく、建物に入る前から、建物から出た後までを3段式を活用して体験設計するとよい、ということだ。本書はほかにもいろいろ手法や考え方が紹介されていたが、なんとなくわかった気になったのは上記のことである。


 考えてみれば、TED式プレゼンとか、1枚で説明せよ系のハックでもこんな感じの説明がよいとされている。

 ①こんなことありませんか? (課題という名の誘惑)
 ②これで解決しちゃうんです!(ソリューションの提示)
 ③具体的にはこうやって解決します、あるいは具体的にこんな良いことがあります! (自分ごと化)

 ジャパネットたかたのトークもこうだよな。これで雨の日でも気にせず洗濯ができる! とか。

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谷川俊太郎氏 逝去

2024年11月21日 | その他

谷川俊太郎氏 逝去



 本当に「詩」で食っていけている人はこの日本では絶対的に少ないはずだが、谷川俊太郎氏はその中のひとりだっただろう。彼の訃報に際し、SNS上ではめいめいがお気に入りの氏の詩を上げながらお悔やみの投稿をしていた。


 若き日のデビュー作「二十億光年の孤独」は今から70年も前に発表されたものだが、現在読んでも心に迫るものがある。デビュー作がこれでは、ピークアウトが早すぎてしまやしないかと思うくらいだが、その後も彼の詩は世間に愛され続けてきた。


 僕は13才のときに、東京都内にある某私立中学校を受験した。国語で出題されていたのが谷川俊太郎の「朝のリレー」だった。受験本番の入試問題という非常事態にも関わらず、この「朝のリレー」のあまりにも清廉さに僕は心を奪われてしまった。谷川俊太郎の名前は知っていた。小学6年生の国語の教科書にも出ていたし(「りんごへの固執」だったと思う)、あとで書くけど僕にはおなじみの名前だった。


 だけど「朝のリレー」は、そのときが初読だった。カムチャッカの・・で始まって次々とメキシコ、ニューヨーク、ローマとつながっていく言葉のマジックは、純粋な13才の僕の心をノックアウトしたのである。40年前の話なのにしっかりと覚えている。

 にもかかわらず、というべきか、それゆえにというべきか、僕はこの中学校の受験に落ちてしまった。


 だけれど、僕はこの「朝のリレー」と出会うためにこの中学校を受験したのだ、とずっと思っている。

 この「朝のリレー」は、その後テレビのCMなどにも使われて谷川俊太郎の代表作になった。彼の作品の中でも特に抒情性と優しさに富んだ詩である。


 しかし、なんといっても僕にとって谷川俊太郎といえば「スヌーピーの翻訳者」だ。スヌーピーやチャーリーブラウンでおなじみのコミック「ピーナッツ」を50年にわたって我が日本にて翻訳してきたのは彼である。そのことは「スヌーピーたちのアメリカ」という本を紹介したときに克明に書いた。ピーナッツのマンガを初めて手にしたのが僕が小学校4年生のときなので、私立中学の入試問題よりも小学6年生の教科書よりも、僕は翻訳家として谷川俊太郎の名前を知ったのだった。日本において、ピーナッツの翻訳が単なる英文翻訳家でも児童向け翻訳家でもなく、詩人の谷川俊太郎であったことは日本にとってまことに奇蹟的幸運だったと本当に思う。


 晩年の彼の講演を聞いたことがある。千葉県にある美術館で行われたイベントだった。自作の詩を朗読した。既にご高齢だったからあまり声の張りはなかったが、いやいやと照れながら朗誦する姿を見ながら、目で追う詩と耳で聞く詩はぜんぜん別物なのだと強く思った。楽譜を見るのと実際に音で聞くのの違いくらいーーというと大げさすぎるが、台本を読むのと実際の舞台を見るものくらいの違いはあったような気がする。谷川俊太郎の詩は音なんだなと思った。ご冥福を祈る。


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この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた

2024年11月18日 | SF小説

この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた

(※「新世界より」「復活の日」「渚にて」のネタバレに触れているので注意)

 

ルイス・ダートネル 訳:東郷えりか

河出書房新社

 

 

サバイバル百科事典あるいはサイエンス読み物の名を借りたSF小説とでもいおうか。

つまりは、「大破局」なる人類滅亡後に幸いにも生き延びたものがどうやって生活の糧を得て生き延び、再建していくかというのを、飲料水の確保の仕方、農業の始め方、建材の集め方や作り方、家の建て方、情報の取り方、移動の仕方、薬の調達の仕方など解説していく。

 

ただ、本書の示すような「世界の消え方」にはいくつか条件がある。

つまり、人類は滅亡しても建物とか道路とか文明の利器はしばらくそのままあるということだ。もちろん電気やガスは止まっているが、スーパーには食品がひとまずあるし(散乱しているかもしれないが)、乗り捨てられている乗用車などもある。人類だけがいない。サバイバルのためにはこういう残された文明の再利用からまずは始まるのである。

だから、「ノアの箱舟伝説」のように、大地を大津波が襲っていっさいがっさい流されてしまい、かろうじて高いビルの上にいた人だけが生き残った、とかだとこの条件にはあてはまらない。「地球の長い午後」のように、地球の自転軸にまで影響を与えるような破局も、破滅度がデカすぎてちょっと無理な気もする。「火の鳥未来編」のように核爆弾が世界中で同時多発的に投下されるのも都市が壊滅しすぎてしまい、土壌も汚染されるからダメな気がするし、「風の谷のナウシカ」の「火の七日間」も破壊力が強すぎそうだ。

いっぽうで、少しずつ人口が減って滅亡に瀕するというのも破局の設定としてはよくあるのだが、これも本書にはちょっとあてはまらない気がする。このパターンには貴志祐介の「新世界より」なんかがそうだ。ほかにも「トゥモロー・ワールド」や「世界を変える日に」のように人類に子どもが生まれなくなるというSFもあるが、いずれにせよ人口の減少と同時に都市機能も少しずつシュリンクしていくはずなので、あちこちに残る文明の残骸を再利用を試みるには、すでにもう撤去されてなかったり、仮に放置されていたとしても建材や道路の劣化がひどすぎ、時間が経ちすぎているとみるべきだろう。

 

したがって本書の設定する大破局はわりと条件が狭い。あてはまるとすれば、謎の病原菌が蔓延し、速攻で人がバタバタ死んでいった中、幸運にも隔離された環境にいた人が生き残ったというパターンだろうか。「復活の日」や「渚にて 人類最後の日」などの設定だ(「渚にて」は最後全滅してしまうが)。また、一見全然違うようでいて案外似ているなと思ったのは「火星の人」(映画名は「オデッセイ」)である。

 

つまり、普遍的なサバイバルというか文明の再建を解説する体でありながら、これが成立する条件というのはわりと狭く、その裏側には何か物語がーー「復活の日」や「渚にて」や「火星の人」のようなこういう破局条件に導かれるようなSF的な物語がそこにはあるはずなのである。その破局に至る物語は読者各自の想像にすべて委ねてしまい、ただクールに文明を再興させる方法を解説するという、なかなか高度なテクニックを用いたこれはSF小説なのである。それは「復活の日」にて南極大陸から戻ってきたあなたかもしれないし、「渚にて」でなぜか耐性を身につけたあなたかもしれないし、「火星の人」のように、人類全員が別の星に逃亡したのになぜか地球にひとりおきざりされたあなたかもしれない。その設定はすべてあなたの好みである。なんとわくわくする読み物ではないか。

 


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人類学者と言語学者が森に入って考えたこと

2024年11月13日 | 民俗学・文化人類学
人類学者と言語学者が森に入って考えたこと

奥野克己
伊藤雄馬

教育評論社


 僕が文化人類学の本(といっても入門書)を読む理由は、観察対象を知るためというよりは、僕自身をとりまく生活環境の閉塞感の打破のためであることが多い。日々の生活において約束事や決まり事で忙殺されているうちに、価値観がどんどん狭窄的になる。知らず知らずにストレスが溜まっていく。

 そんなときに、自分とまったく違う世界において、まったく違う価値観と生活様式で生きる彼らを知ることで、自分自身がとるにたらないことにとらわれていたのだ、と気づくことができる。これは精神衛生上まことによい。文化人類学の本を読むことは、僕にとって詩集よりも写真集よりも癒されるのである。このことは「文化人類学の思考法 」のところでも書いた。

 ということを、もう少し本気でディープに語っているのが本書である。ボルネオ島のプナンの民を調べる人類学者の奥野克己氏と、ラオスの少数狩猟民族ムラブリを調べる言語学者の伊藤雄馬氏の対談と寄稿で構成された本だ。社会人類学者のティム・インゴルドやインフルエンサーのプロ奢ラレヤーなども引き合いに出していきながら、プナンやムラブリの生活のありようから、日本社会として何が学べるかを議論している。本書ではそれを「すり鉢状の世界の外で生きる」と表現している。我々の日常はすり鉢の中の世界で、あたかもそれが全てのように生きているが、実はその外にも世界があるという見立てだ。プナンやムラブリはすり鉢の外である。

 両者が行う議論の内容は難解なものもあるが、根本的には絵本作家ヨシタケシンスケの名言「それしかないわけないでしょう」という観点だ。科学的に真実はひとつでそれ以外は間違い、というものの見方に対し、いやいやA だってBだってありえるのだ、と発想する。「科学的に真実はひとつ」というものの見方自体が生き方の選択肢の一つである、ということである。「幽霊が見える」という人に対して、幽霊が見えるわけないじゃないか、何かを幽霊ということにしているのだ、というメタな話に収めるのではなく、彼らには幽霊が見えるのだ、ということをそのまま受容するのである。幽霊が見える世界観の中を彼らは生きている。そこから、幽霊が見えない我々は彼らから何を学ぶことができるかを考える。西洋論理学の基本である弁証法に似てなくもないし、いったん断定を保留するエポゲーのようでもある。哲学的態度による試みと言えよう。


 本書の白眉と言えそうなのが、伊藤氏が語る、インゴルドの引用をさらに発展させたofからwith、そしてasへという話だ。
 つまり、かつて文化人類学は、対象をあくまで距離を保ちながら観察していた。安全な場所から一部分だけをクローズアップしてみていたのである。それは対象のofを見ていたことになる。博物学や物見遊山を出ていない。インゴルドは、そうではなくて、観察対象とはwithでなければならない、とした。一緒に生活して一緒に食べて一緒にものを見て、はじめてそこで観察対象のことがわかる。参与観察とかフィールドワークとか今では当たり前になったが、そのココロは他者から学ぶということだ。文化人類学は観察の学問ではなく、我々がどう生きるべきかの取り入れる学問になったのである。
 伊藤氏は、さらにas、「…として」の境地を目指す。withいうところの「一緒に」というのはまだ対象に没入していない。日本人のままである。日本人がムラブリと一緒にいるのではなくて、ムラブリとして生きてみる。日本人がムラブリになれるわけないじゃないか、に対して「それしかないわけないでしょう」。本人がasになりきれている、と言うならば、多自然主義ならばそれもありなのだ。それどころか、本人がムラブリにasならば、その活動場所はもはやラオスでなくてもよい。日本でもよいのだ。その境地に達した伊藤氏はラオスへの渡航を中止してしまった。

 このof、with、asは、自分と対象の距離と重なり具合そのものであろう。ofは離れており、withは部分的につながっており、asは完全に対象の中に自分が入り込んでしまっているわけだ。こうなると完全に身体感覚である。むしろ頭で考えて理解しようとしている限りでは、本当に取り込んで対象から学びや糧を得ることはできない、ということでもある。本書では第2言語習得論というのが出てくる。「モニター仮説」というのがあって、それによると言語を覚える際には習得(無意識)と学習(意識)があるそうだ。習得されたシステムが発話の生成を行い、学習された知識はその発話が正しいかどうかをモニターする、という仕組みである。モニター機能が強すぎると、正しさの追求のあまりに発話ができなくなる。日本人の外国語苦手な習性はここにきているのかもしれない。少なくとも僕自身にはすごく思い当たる仮説である。出川イングリッシュは習得がずば抜けているということだろう。
 しかし、これもof、with、asという概念が援用できる。ofに留まる限り、あるいはwithであったとしてもそれは正しさを追求する「学習」的態度を免れない。しかし、本当に身に付けるにはasによる習得ということになるのだろう。
 伊藤氏によれば、asでいるためには単にムラブリの言語に興味を持つのではなく、彼らの会話の中身や生活そのものに興味を持たなければならない。この時点でもはや「言語学者」を逸脱する。対象を無限抱擁するasになることことそ、我々の日常生活ーーすりばちの中の生活から、外に出でる道なのだろう。

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「自分の意見」ってどうつくるの? 哲学講師が教える超ロジカル思考術

2024年11月06日 | 生き方・育て方・教え方
「自分の意見」ってどうつくるの? 哲学講師が教える超ロジカル思考術

平山美希
WAVE出版


 表題には書かれてないけれど、本書は「フランス流 自分の意見のつくりかた」といったところだ。著者は、フランスはソルボンヌ大学に留学後、現地にて教鞭をとっているらしい。

 何かの事象なり誰かの発言なりに接して、それに対してどう思うか? これすなわち「自分の意見」である。会社員なんてやっていると、自分の意見を求められることはよくある。同じくらいの頻度で、特に求めてないのに「自分の意見」を永遠としゃべり続けて周りを困らせる人もいる。

 「自分の意見」というのは案外に難しい。本書はイラストのテイストからみるに高校生大学生むけに書かれているのだろうが、この歳になってもまだ難しい。それは意見ではなくて感想だろう、というのは自他ともにあるし、それは主観に過ぎないだたのコメントだろう、というものだって多く心当たりがある。本書では「主観でない意見なんてない」と喝破しているが、主観か客観かというよりは、その意見は聞くに値するか、何事かの参考になるか、意思決定に役立つか、という観点からみたときに無用な意見であればその理由として「それは主観に過ぎない」とくさされるのが実態に思う。
 意見を言った後のその場の空気が気になって、その意見が正解だったのか不正解だったのかをひどく気にする国民性の日本人は、意見を言うのに口が重くなる。一方でフランス人はそんなのは無頓着でとにかく何か言う訓練をしている、というのが本書である。もちろん口から出まかせではなくて、それなりのロジック構築の訓練を子どもの頃から受けている。このあたりはアメリカのShow&Tellにも通じる話だ。

 そのフランス流の具体的テクニックとは、「問いをたてる」「言葉を定義する」「物事を疑う」「考えを深める」「答えを出す」というステップにあるとか、人が何かを主張するときは発言者が主に何にこだわっているかを「道具性」「経済性」「論理性」「良識性」で大まかに分類して、議論の際はそこを揃えないと水掛け論になったりボタンの掛け違いになったりするとか、弁証法、帰納法、演繹法を駆使せよ、とかいろいろ解説がある。

 それぞれについての解説はなかなか面白くて、この歳になってもなるほどなあと思ったりもする。とくに「①そもそも→②たとえば→③たしかに→④でも」というフォーマットで文脈をつくると自分の意見になる、なんてのは哲学講師ならではだ。矛盾や逆説を導き、さらにはアウフヘーベンさせるのは哲学思考の基本所作と言えるだろう。①は議題がなんであったかの確認、②はその議題の具体例、③は議題が是となる理由の導き出し、ときてここまで与件を揃えてから④でも・・・と導いてみたときに脳味噌は何を引き出してくるか、だ。なにかにつけて反対したり否定したり難癖付ける人はこの④の神経が研ぎ澄まされているのだろうと思うが、①②③をクリアにすることで、それなりに説得力が出てくる。

 要するに本書の伝えたいことは、「自分の意見を言う」というのはそこになんらかの正解(right)があるということではなく、ちゃんと答え(response)ができるということなのである。


 とは言うものの、議論好きの外国人(西洋人に限らない。中国人なんかもそう)とつきあっていると、単に自分の言いたいことを言ってアイデンティティを満たしているだけだな、と思うことは多々ある。まさに単なるresponseだ。
 「建設的な意見」という観点から見れば、海外の議論好きの中には「オレは言いたいことを言った。この『意見』をどう使うかはお前次第だ」という態度の人が多いように思う。しかも、その議題の結論がどうなろうと己の立場は変わらない人ほどいろいろ意見を言ってくる。
 と書くとまるで嫌味っぽいが、要するに自分の発言にそこまでの責任を持たないし、相手もそこまで発言内容の責任を追及しない、という合意がそこにあるのだろう。文化と言ってもよい。日本語は冗長性が多くて定義があいまいなまま会話が進行するのが特徴とされる言語だが、それゆえに上手いこと言えたか言えなかったかは発言者の言語あやつり能力の責任に帰結させることが多い。つまり発言するからには意味がなければならず、失言に不寛容である。一方で英語みたいにロジックがしっかりしている言語は、発言の趣意や定義は明確になるが、それだけに「でも人間そんなに一貫になれないよね」という前提があって発言そのものの責任制は軽くみられている(つまり失言に寛容)とか、そんな見方もできそうだ。英語やフランス語はそれが建設的かどうかは無頓着に意見しやすい言語ということなのかもしれない。

 なんて書くと、著者からはこの「自分の意見」とはまさにあなたはどう考えるのか、という問いへの対応を説いているのであって、議題の解決を進めるための繰り出し方を説明しているわけでない、と指摘されそうだ。「意見」というと社会課題への意見表明みたいな硬派なものを考えがちだが、むしろ食レポを上手にこなすやり方くらいの温度感でとらえるべき話なのかもしれない。


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婚活マエストロ (ネタバレ)

2024年10月29日 | 小説・文芸
婚活マエストロ (ネタバレ)

宮島未奈
文藝春秋

 「成瀬は天下を取りにいく」の宮島未奈による新作小説。発売日を待って満を持して書店で購入。文芸作品で発売日を指折り待つなんてウブな買い物は何年ぶりであろうか。デビュー作である「成瀬シリーズ」が賞も話題も総なめだったので、作者にとって完全新作の第2作目は大変なプレッシャーだったのではないかと思う。あの元気はつらつなノリの作風で、婚活といういまどきテーマをもってくるのだから、ある程度の佳作にはなりそうな予感はあるものの、婚活ネタはすでに辻村深月の「傲慢と善良」とか垣谷美雨の「うちの子が結婚しないので」とか石田衣良の「コンカツ?」とか藤谷治の「マリッジ・インポッシブル」とか定番の激戦市場でもある。最初の数ページを読み進めるときは、面白くなかったらどうしようとこちらまで緊張してしまう。

 それは杞憂だった。最初の方こそ安全運転かな? とも思ったが、章を追うに従ってエンジンがかかった感じだ。まさか成瀬シリーズでおなじみの琵琶湖の遊覧船ミシガン号が登場するとは思わなかったが、その章あたりではもは作者も吹っ切れていたように思う。最終章を読み終えたときはあと2,3話ほしいぞと思うくらいだったが、このくらいの読後感がちょうどいいのかもしれない。それともひょっとしたら続編が出るのかしら?


 主人公は40才になっても学生アパートに住むこたつ記事フリーライターの猪名川健人、いわゆる三文記者である。ヒロインは婚活支援事業をやっている零細企業ドリーム・ハピネス・プランニングの社員の鏡原奈緒子。あとは社長さんと大家さんが強いて言えばの準レギュラーで、他はその場限りの登場人物がほとんどだ。なので第1章を読み終えたあたりから猪名川健人と鏡原奈緒子はくっつくなという予感がしたし、手強いライバルの出現も、あらぬ誤解の大失態も、絶望的な大喧嘩もない。要するにハリウッドの恋愛コメディのような周到なプロットではない。そういう意味ではストーリーラインはほぼ微温のそよ風といった感じだ。
 そもそも、このドリーム・ハピネス・プランニングが開催する婚活パーティ自体がかなりぬるい。参加者が椅子を自分で手で持って運ぶとか、飲み物が水出しのコップ麦茶とか。それなのにドリーム・ハピネス・プランニングの結婚支援事業がそこそこ続けられているのは、鏡原奈緒子が高確率でカップルを成立させる「婚活マエストロ」としてそこそこ評判だからということになっている。
 鏡原奈緒子がなぜそんなにカップル成立の腕を持っているのかは詳細は本書に委ねるが、とは言うものの、読んでみた限りでは、そこの事情はこの小説のメインでも重要な伏線でもなかったように思う。単に人の目線や声色を読み取る観察力が人一倍鋭いのだ、でも通用したのではないかと思うくらいだ。

 じゃあ、この「婚活マエストロ」。いったい何が面白いのかというと、全体を漂うこの「ぬるさ」がクセになる。ドリーム・ハピネス・プランニングが主催する婚活パーティのへんな手作り感も、インターネット黎明期のようなホームページ(阿部寛の例のあれのようなものらしい)も、まあまああまり肩肘張らないでやろうよと言っているようである。
 だいたいSNSの鉄板ネタ「デートでサイゼリヤに行けるか」を知ってか知らずか(いや作者は確信犯なんだろうが)、何度もサイゼリヤで食事するあたりはかなり意味深である。しかも必ず看板商品かつコスパ最強の「ミラノドリア」を頼んでいる。もしかしてこの小説、「本気で結婚を考えている」ならばサイゼリヤに行けるか、あるいは行ってくれるかこそが相性のリトマス試験紙だと暗に仄めかしているようだ。
 しかもその果てに、そもそも婚活婚活いいながら、猪名川健人と鏡原奈緒子がだんだんくっついていくという、けっきょく職場恋愛かい! というツッコミどころもあってひょっとしたらこれは婚活小説の革命かもしれない。


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最先端研究で導き出された「考えすぎない」人の考え方

2024年10月23日 | 生き方・育て方・教え方
最先端研究で導き出された「考えすぎない」人の考え方

堀田秀吾
サンクチュアリ出版


 だいたい、読書好きでこんなブログを長々やっているくらいだから「考えすぎる」クチである。家人にもよく言われる。
 「考えすぎ」は必ずしも良い結果につながらない。考えすぎているときは考察の対象が厄介ごとや面倒くさい類のものであることがほとんどだし、思考がぐるぐるして寝つけなくなったり、自家中毒みたいに隘路にはまって他のことに手がつかなくなってしまうこともある。身に染みてわかっているのだが、この「考えすぎ」は性分としかいいようがない。

 「悩まずにはいられない人 」という本によると、「悩んでいる人は悩みたいから悩んでいる」そうだ。悩んで立ち止まっているほうが事態を前に進めるよりも精神的に楽だからだ。
 これに準えれば「考えすぎの人は考えたままでいたいから考えすぎている」と言えるだろう。

 そうではなくて、考えるのはほどほどにしてちゃっちゃと決断しなさい。その決断の内容がのるものかそるものかは、結果論からみれば実は大事ではない。自分が味わうことになる幸福感(Well-being)としての結果はその決断内容がどういうものであれ、考えすぎて決断を先延ばしにしておくよりももずっと高いというのが統計的に証明されている。本書の「最先端研究」によるとそうなのだそうである。

 また、とにかく先に「行動」、つまり、えいやで手をつけちゃったほうがその先にいろいろ考えるべき判断があるにしても最善に近い結果に着地しやすいとも本書では示されている。早起きにしろ雑事の片付けにろ気が進まない他人への連絡にしろ先延ばしにいいことはない。ひところ流行ったアドラー心理学では、人は考えてから行動するのではなくて、まず行動してからそこに考えがあてはまっていくと唱えられている。だから、行動しないでぐちゃぐちゃ考えるというのは、「考えること」そのものが行動になりさがってしまい、その「考え」に「考え」当てはまることになってずるずると自家中毒のようになっていく、ということだろう。

 ということは、いちばんハードルが高いのは「行動」の最初の一歩である。重たい石の車輪をごろっと一回転させるごとく、ここの気力が大事なのである。フットワークが軽い人はこの最初の一歩にためらいがない人だ。


 僕だってもちろんそんなことはわかっているのだ。それでいて考え過ぎちゃうのだから始末に悪い。むしろ大事なアジェンダは「どうすれば考えすぎずに行動にうつせるか」である。本書によれば

 ①情報を過多にとらない。
 ②メリットデメリットで考えない。
 ③「損しないためには」という発想で考えない。
 ④第3者視点で見つめてみる。
 ⑤なにか夢中できるものに気をそらす。
 ⑥文字にして書き出す

 を挙げている。なるほど、あらためて解説されると思い当たることばかりだ。

 ①情報を過多にとらない。
 行動経済学でもよく言われているが、選択肢が増えると人は判断できなくなる。目の前に3つしか商品がなければ自分が買うべきものはすぐに選べるが、10個並んでいるとどれが最善の選択だかわからなくなる。これは様々な角度からの情報が増えて優先順位が作れなくなるからだ。昨今はとにかく情報が多い。しかもスマホでいちど調べたり注目したりしたニュースや情報については、レコメンド技術によって次々と類似情報が目に入るようになった。もちろんその中には相矛盾するものだって含まれている。判断の材料としては迷うものが増えていってどうしていいかわからなくなる。
 したがって、少ない情報のほうでとどめ、後はシャットアウトしたほうがむしろ行動には出やすくなるということだ。先に言うように、行動をしてみた結果がなんであれ、行動をせずに感じる結果よりは幸福感満足感は高いのだから、意図的に情報は少なくしておくというのは確かにありなのだろう。
 
 ②メリットデメリットで考えない。
 ぼくはあまりメリデメで検証するようなことはしないのだけれど、ぼくの周囲にはこのタイプがいる。しかしこれもいい判断結果を導かない。なぜかというとメリットよりもデメリットのほうを人は過剰反応するからだ。これも行動経済学で有名な指摘である。「結婚はすべきか」なんて問いをメリデメで考えるなんてのはあるあるだが、どうしたってデメリットのほうが多く挙がるし、深刻に見える。そうすると「やらない(つまり行動しない)」というジャッジになりやすい。メリデメ論に陥ったら思考のトラップだと思ったほうがいい。

 ③「損しないためには」という発想で考えない。
 これは、致命的な判断ミスにつながるリスクがあるからだ。「損」に対してのインパクト評価を人は実情以上にとってしまうので、それをカバーしようとしてとんでもないことをする。本書ではギャンブルで損した分を取り戻そうとありえないな大穴狙いをしてしまう話を挙げているが、出銭に関することだけでなく、いわゆる不祥事の隠蔽や粉飾行為もこれに当たると思う。怒られたくないあまりに嘘を嘘で固めたり、「クライシスマネジメントの本質 本質行動学による3・11大川小学校事故の研究 」のように、形だけの整合性をとって面倒を背負うことから回避している間に中身が破滅的なことになっていく例は枚挙にいとまがない。

 ④第3者視点で見つめてみる。
 いわゆる「離見の見」というやつ。自分のことというのは冷静に見れないものである。他人が同じ状況に陥ってたら、案外に自分はその人に冷静にアドバイスをしたり、論点がどこかがはっきりわかったりするだろう。よく自称を自分の苗字や名前で話す人(女性に多い)がいるが、あの自分自身を遠巻き感覚でみる感受性は、ライフハックの一つかもしれない。

 ⑤なにか夢中できるものに気をそらす。
 当座の考察はいったん脇においといて趣味でもスポーツでも他のことに頭を全振りすると、気分もよくなるし、脳の回路もほどけて考察の対象がシンプルになるということ。「アイデアの出し方」にも似たような話がある。脳生理学的に有効なのだろう。園芸が心身によいというのも(「庭仕事の真髄 老い・病・トラウマ・孤独を癒す庭 」参照)同じ観点かもしれない。強制的にぼーっとしてみるのも有効とのこと。いわゆるマインドフルネスだな。

 ⑥文字にして書き出す。
 頭の中のぐるぐるは手を使って文字に書き出すといい。ジャーナリングとも言う。これもよく知られたライフハックだが、スマホのメモ帳などを使うのではなくて実際に手に筆記具を持って書くところがポイントのようである。前頭葉が動くことで、ぐるぐるを司っていた大脳辺縁系の動きがおさまるそうな。要するに「考えすぎる」脳の運動をそもそも止めてしまう効果がある。


 本書のサブタイトルは「最先端研究で導き出された」だ。とは言え「考えすぎ」は情報過多時代の現代病かというとそうではなく、昔の人はこういうのを「下手な考え休みに似たり」「案ずるより産むが安し」と言っていたわけである。昔から人間の性としては知られた習性なのだが、だから考えすぎることに対してどうすればいい塩梅に落ち着くのかは永遠の問いなのかもしれない。さらに最々先端の研究結果求む。

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アマテラスの正体

2024年10月21日 | 歴史・考古学
アマテラスの正体

関裕二
新潮新書


 著者の本は初めてだ。先行する著作がいくつかあるようで、本当はそちらを読んでからのほうがよさそうではある。

 僕自身は日本書紀も古事記もよく知らないので、本書で書かれている著者の主張が妥当なのか奇想天外なのか判断するだけの知識も材料もない。だから本書の判断や結論からは距離を置くとして、とはいえ、古代史ミステリー話はキライではない。ヤマトタケルは鉄文化の伝播に託した神話だよとか、邪馬台国は本当は岩手県の八幡平にあったんだよとか。

 とはいえ、日本人が学校の授業で正式に習う日本古代史は、文部科学省が認可した日本史の教科書のそれである。日本の古代史にあたっては、僕が中高生の頃(30年前)と現代とでは、考古学分野での調査や研究が進んでだいぶ記述が変わったそうだ。仁徳天皇陵は、大仙古墳(伝仁徳陵)になったそうだし、聖徳太子は実在さえ疑われだしてとりあえず厩戸皇子という記述になった。
 何よりも、僕が学生の頃は、古代日本については壱与なる巫女が女王に付いたあとは、中国の歴史書から倭国の記述が消えてしまってその後しばらくどうなったかわからない、とされていた。100年くらいの空白期間があって中国や朝鮮の文献に倭国に関する記述が再び現れ、それと考古学的な研究をあわせてどうやら4世紀あたりには近畿地方に支配力の強い王権ができたらしい、とされていた。越前から某人物が奈良盆地に繰り出して継体天皇になり、九州で磐井という連中が反乱を起こしたくらいが軽く触れられて、教科書は仏教伝来の話になっていく。

 最近では、東日本地方での発掘が進んだり、科学的アプローチが試みられるようになって、隔靴掻痒の感があった古墳時代の日本のありようがだいぶ見えてきたようである。古墳の分布を人口衛星から解析したり、出土品に残された染料や糸の成分から製造地を比定したりもするそうだ。

 このような考古学的アプローチが進んでくると、もともと怪しいとされていた日本書紀や古事記の記述はますます眉唾になっていく。元来が編集方針として神話色がつよい古事記はともかく、日本国家の正史を編纂しているつもりの日本書紀も、天孫降臨などの神話時代のエピソードはともかくとして、一見もっともらしい歴史的記述だったり、「神話のフォーマットを借りた史実の何かだったのだろう」という好意的に解釈できたエピソードも、どうやら出鱈目だらけと疑心暗鬼にかられる。

 もっとも、建国史が荒唐無稽であるのは日本に限らないだろう。正史の編纂なんてのは施政者の立場をより頑強にするために編纂されるものだ。本書は、日本書紀の編纂を事実上指導したとされる持統天皇と藤原不比等によって、天皇家と藤原家がいかに由緒正しくこのまほろばの国を治めるに至っているのかを説明したいがためにかなり牽強付会な編纂を行っているとされる。あったはずのことがなかったことにされたり、あるはずの無いことが書いてあったり、人間のはずが神様扱いになっていたり、Aの神様がBの神様にすりかえられたりしている。その詳細は本書に委ねるが、あまりにも饒舌で僕はとてもついていけない。

 学生の頃からぼくが素朴な疑問を持っていたのは、なんで同じ時期に同じような内容の歴史書ーー古事記と日本書紀が編纂されたのだろうということだ。もともと焼失した歴史書があったらしく、それの復刻とさらなる論理強化を目指したのが日本書紀と古事記ということで、どちらも天武天皇の指示によって開始されたプロジェクトだそうだ。両者は文体や物量、刊行の目的が異なるとされていて、対比表みたいなものも検索すれば出てくるが、大同小異じゃね? という気がしてならない。むしろ素人のピュアな発想では、こういう似たようなプロジェクトが同時発進する場合は社内コンペみたいに競わせたとか、あるいはプロジェクトメンバー同士がライバル関係(あるいは敵対関係)だったんじゃないかなんて勘繰りたくなる。本書では、古事記は、日本書紀のウソを暴くための告発装置として書かれているなんて大胆な仮説を出している。人間の心理を考えるとこっちのほうがリアリティを感じてしまう。

 また、本書によれば、意外にいい仕事をしているのは「続日本紀」だそうだ。僕なんか、日本書紀の続編くらいの認識しかなかったのだが、実は先輩の日本書紀が胡麻化そうとしたことをしれっと暴露したりして、日本書紀の記述の信ぴょう性に冷や水を浴びせているそうである。
 これは「続日本紀」の編纂者による歴史家としての良心か、と思いたくなるが、もちろんそんなことはなくて、これさえも「続日本紀」編纂時代の施政者が己の立場を強くするために処置したものだろう。「続日本紀」が扱っている歴史範囲は飛鳥浄御原京から長岡京まで、つまり奈良王朝とそのエピ&プロローグであり、それをその次の時代、つまり平安京メンバーが書いている格好だ。
 要するに、「続日本紀」は天智天皇系(桓武天皇)の血統が天武天皇系(元明・聖武・孝謙など)時代の記述をしていることになる。日本書紀は天武天皇系が都合のよいような書き方をしているのだから、そりゃ否定してくるわけである。

 というわけで、日本書紀も古事記も続日本紀も、記述内容のもう一つ上のレイヤーで、皇族(および藤原氏の)の骨肉の争いを行間から見せているのだ。こういうの酒飲み話としてうってつけでとても面白い。


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