世の中は身銭を切っていない人で溢れ、そういう人はエルゴード性の有無を見抜けていないことが多い。身銭を切ってきた人だけが、リスクを鋭敏にキャッチし、生き抜くことができる。それはリンディ効果が証明している。身銭を切って長い試練に耐えてきた人だけが、未来も持続可能に生き残れるのである。
風土
和辻哲郎
岩波文庫
台風19号はやはりすさまじかった。わが千葉県、実は風水害に弱いのは歴史的には明らかだったのだが、近年の土木・治水・防災技術の向上によっていささかそのことが忘れられていたように思う。寺田寅彦の名言「災害は忘れた頃にやってくる」はまことにもってその通りと言うしかない。
一方、今回の台風は日本列島到達前から首都圏直撃をもってニュースとされた。しかし台風が過ぎ去って蓋を開けてみれば、氾濫・決壊を起こした河川のほとんどが首都圏の外の川だ。千曲川、阿武隈川、久慈川、那珂川などなど。
東京の治水能力が凄いというよりは、それだけ東京の治水に金をかけているということである。首都圏外郭放水路も環七下調節池も荒川放水路も莫大な予算と時間をかけて整備されたものだ。人と重要機能が集まる首都だからこそ、防災についても他所を優先させてつくりあげるという理屈は頭ではわかっているが、死者行方不明者がみんな都外の人間というのをみるとやはり納得しがたい感情があふれてくる。
これで東京への人口流入が過多だから地方へ分散させろとか、地方創生こそ日本の将来とか唱えるのは白々しすぎる。
本来、日本は「台風と大雪」がやってくる世界でも珍しい風土なのだと看破したのは和辻哲郎だ。地震と火山も日本列島の特徴といえるが、「台風と大雪」は定期的にやってくる。毎年必ずやってくる。したがって日本列島に住む人間は、古来から必然的に「台風と大雪」がありきの生活スタイルになっていく。それは世界観や行動様式にまで影響する。
もちろん台風と大雪だけではない。太平洋の西側隅っこにあり、ユーラシア大陸の最も東側すなわち極東にある島国という地勢的条件が繰り出すさまざまな条件ー温度、湿度、風、雨、日射があり、それらがつくりあげる植生、動物の生態、土壌があり、そこに人間は生活する。自然との対峙・共生の中で人間は折り合いをつけて生きていく。その過程で家族や社会形態の在り方、道徳や倫理、芸術的感性や宗教へのとらえ方が形成されていく。風土の数だけ人間の様式はあるといってよい。
こういう観点からの学問は、現代では理学や人類学の分野がこれに相当する。事例やデータを集めて分類と統合を繰り返しながら系統を観ていく。
これに比べると昭和初期にまとめられた和辻の「風土」は主観的であり(井上光貞氏による巻末解説では「天才的な芸術的直観によるもの」と表現されている)、アカデミズムな手続きによるものではない。その主観も、当時の彼の洋行経験と、当時にあって入手できる情報を基にしての直観によるものだから、今日における世界中の情報が調達できるような状況からみればいささか見当違いの言及もある。トンデモ本と言いたくなるような箇所もある。
風土というものがその地に住む人間に与える世界観や生活様式の決定力の強さは間違いないと思うが、和辻風土論が現在においてどのくらい正鵠を得ているのかは議論があるだろう。一般においては、彼の「風土」は地理学というよりは哲学や思想として受容されている。思想としてここから見られるのは、今で言うなら多様性だ。その多様性は風土に準拠しているものである、つまり風土の数だけ正解がある。
和辻は世界の風土を「モンスーン型風土」「沙漠型風土」「牧場型風土」と3分類してみせた。
「モンスーン型風土」をつくりあげるもとになるのは「高湿」である。夏のむわっとした湿度、冬のじめっとした湿度である。高湿がつくる「モンスーン型風土」にあてはまるのが、東はインド・中国(本書では「シナ」。上海を含む主に揚子江領域から南のほうを想定しているようだ)・南洋、そして日本である。彼によると「モンスーン型風土」に生きる人間は、モノゴトに対して「受容的・忍従的」になるという。
和辻風土論では、モンスーン型は「受容的・忍従的」と指摘したように、他の風土においても、沙漠型は「服従的・戦闘的」、牧場型は「支配的・合理的」と分類される。多様性の思想という観点からみれば、この地球上においてどれが正解かどれが間違いということはないということだ。
また、モンスーン型の人間は、本質的には牧場型の人間にはなれない、とする。我々はどう突っ込まれても欧米にはなれないのである。ただし自己を相対的に見直すことによって、モンスーン型の基礎を自覚した上で、牧場型を応用することはできる。おのれを知り、他者を知ることで多様性は維持できる。そういうことは「風土」ですでに指摘されているのである。
で、和辻哲郎は我が日本をどう評しているか。「台風と大雪」にみまわれるのが日本の特徴であるとして、その結果、西洋と比して日本人は「公共的なるものへの無関心を伴った忍従が発達」したと和辻は言う。(ここに至るまでのロジックはなかなか面白いだが長いので省略する)。
日本では、民衆の間に(公共人としての義務としての)関心が存しない。そうして政治はただ支配欲に動く人の専門の職業に化した。(中略)公共的なるものを「よそのもの」として感じていること、従って経済制度の変革というごとき公共的な問題に衷心よりの関心を持たないこと、関心はただその「家」の内部の生活をより豊富にし得ることにのみかかっている(第三章「モンスーン的風土の特殊形態」ーー日本の珍しさ より)
驚くことにこの指摘が昭和4年である。
話を台風19号に戻す。台風19号の前に、千葉県は台風17号に見舞われた。そして日本列島全体でみれば、近年の台風被害の増加は明らかである。地球温暖化のせいで台風の勢力が高まっているとも言われている。
つまり、台風19号による被災は例外的な災害ではなく、今後も毎年、日本は見舞われるということだ。日本は「台風と大雪」がやってくる風土なのである。外郭放水路や貯水池の整備は金と技術にものを言わせた力技の防災だ(和辻論的にいえば「牧場型」と言えるだろう)。しかし日本が本来的に高湿にみまわれたモンスーン型であるとすれば、しなやかな「受容と忍従」を備えた防災の在り方も一方で考えておかねばと思うのである。
京大変人講座
酒井敏・小木曽哲 他
三笠書房
「京大的アホがなぜ必要か」がたいへん面白かったのでこちらも読んでみた。もっともタイトルの印象からして「最後の秘境 東京藝大」みたいな変人賛歌あるいは変人列伝を想像していたのだが、そうではなくて、京大のいろいろな分野の教授がそれぞれの専門にある「常識にとらわれないものの見方」の話をするのだった。ドーナツの穴を食べる方法の本に近いかもしれない。こういうのは関西のお家芸なんだなとつくづく思う。
興味深かったのは、①サービス経営学からみる「なぜ鮨屋のおやじは怒っているのか」、②法哲学からみる「安心、安全が人類を滅ぼす」、③システム工学からみる「なぜ遠足のおやつは300円以内なのか」。
①は高級鮨屋ほど板前は無愛想でメニューも不親切でしかも高額なのに客はありがたがるというパラドクスを、「サービス」の観点から考察したものだ。「サービス」というのは「価値あるものを受け取った」と思う気持ちである。本書によると、そこにはなんと「人間関係の承認欲求のすれ違い」あるいは「主人と奴隷の弁証法」というものが浮かび上がってくるのだ。なるほど。動物は2匹がぱったりあった瞬間、背格好や態度やその他の情報からどちらが上でどちらが下かという目に見えない戦いが瞬時に行われるというが、人間社会においても同様で、その位相によってサービスの在り方が変わるのである。で、自分より上の立場から承認されることはたいへんな「価値」になる(下の立場から承認されても当たり前だから価値にはならない)。高級鮨屋は客より自分のほうが「上」になる時空間演出を心得ているのである。
高級鮨屋の板前の言動をモニタリングして再現しているのだがこれがまた面白い。
②は「安心」と「安全」は違うという話。この見立てそのものは、福島第一原発事故以来しばしばとりあげられたアジェンダである。肌感覚にもわかる。まず「伝えられる情報だけで『安心』はつくれない」というのがポイントだ。安心は体感を伴う必要がある。もうひとつの問題提起は「安心」はどこまでいっても主観的なものであって実際のところ「安全」を保障されてはいないということ。そして「未来永劫まで絶対的な『安全』」というのはあり得ないこと。
ここから帰結することは「100%安全の保障を得て安心する」というのは不可能解であるということだ。それどころか「『安心』しておけばしておくほど、実は「安全」ではなくなっていく」というパラドクスも出てくる。
ここしばらく悲劇的な自動車事故が相次いでいてやるせない。行政も自動車メーカーも安全をうたい、運転者は安全に自信がある。それでいて事故はおこる。なんかもう道路行政も自動車メーカーも運転者も歩行者もどこまで対策しても「絶対安全」にはならないものだと諦め、「安心して歩ける往来」なんてものは幻想で、極論すれば「車はつっこんでくるものだ」という前提で歩行者は道を歩くということなんじゃないかなと思う。「安心なんてできないのだから自分の安全は自分で守るしかない」という鉄則がこんなところで浮上したりする。
③は制限や制約の中でいろいろ考えさせるのが楽しい、という話。これはなんとなくわかる。制約から創意工夫は生まれるし、自分ならではのカスタマイズ感をどこかにつくりたいのは①の承認欲求なんかにもつながるどこか本能的な欲求かもしれない。便利になることの延長上には「あなたはいなくてもいい」というのが待っているのだから。制約の中での創意工夫というのは、少なくともその瞬間は体が生存の喜びを感じているように思う。パズルやゲームのようなものを子どもはもちろんオトナもついつい熱中してしまうからくりもこのへんにあるのではないか。
いずれも一見するとパラドクスだがじつは・・・という話だ。つまり弁証法である。本書は弁証法の思考サンプルと言うこともできるだろう。
そういう意味では各教授の話を読んだあとに、巻頭の山極局長と越前屋のプロローグに戻るとよい。
東大が「討論・ディベート型・積み上げ方式」であるのに対し、京大は「対話・ダイアローグ型・発見方式」であり、そのココロは東大が事前に情報を収集し知識を蓄えておく必要があることに対して、京大は手持ちがなくて現場に赴き、むしろその場でのアドリブが要求される。事前の情報収集はどうしても本人の中に常識というか基準みたいなものができてしまい、良くも悪くもそれがバイアスになる。予定調和っぽくなるわけだ。白紙からのアドリブだと予定調和がないから、思いがけない発見や境地に行き着くこともあるし、支離滅裂でなんのオチもないまま終わることもある。リスクが少ないのは東大型だが、一発逆転ホームランがあるのは京大型ということなる。どちらが良い悪いではなく、時と場合によって有用性はかわってくるが、本書の本編で出てくる各教授の「常識にとわれない」話は、対話と発見の流れから導き出たんだなと思うと興味深い。
あと、「教員は熟練してくると、官僚的になるか芸人的になるかの2つに分かれる」という森毅の名言にはうなった。教員に限った話ではるまい。芸人的にありたいものである。