進化思考 生き残るコンセプトをつくる「変異と適応」
太刀川英輔
海士の風
最近、読書がスランプ気味で思うように読み進まない。回復するまでは時間がかかりそうだ。
本書もそんなバッドコンディションの中で読んでいたものなので真意をどこまですくいとれたかははなはだ心もとないが、すべての創作行為は「変異と適応」のいったりきたりの中から生まれる、というのが「進化思考」の極意と言えよう。
変異を起こすためには、数多くのバリエーションを出さないといけない。当たるも八卦当たらぬも八卦。一撃必殺を狙ってもうまくいかない。エジソンは電球を発明する際、竹の素材に行きつくまで千に近い素材を試した。突然変異級のイノベーションを起こすには、死屍累々のトライ&エラーが必要なのである。
その中で、過去現代未来の文脈に沿うものを見つけ出す。それが「適応」だ。
本書ではこのようなクリエーション、アイデアエーションの方法論を生命の進化をメタファにすることで編み出している。「変異と適応」とはそもそも進化論や生態学の世界で起こってきたことである。DNAがつかさどる生命のシステムと進化を、知恵と知識から創発するアイデアエーションにあてはめてみたころが本書の慧眼足るところだろう。
ところで「変異と適応」というと僕は「雑草」を連想する。オオバコもドクダミもセイタカアワダチソウも、驚異的な生命力をほこるが実はあれらは変異と適応の産物だ。そしてその背景には本来ならば弱者だった彼らのポジショニング戦略でもある。外来種や突然変異といったこれまでの系統の外からやってきた植物は数限りないが、多くは既存の生態系にはびこる植物群によって排除されるのである。
しかし、したたかにニッチを見つけてそこで増殖をしていったのが、現代の雑草だ。ニッチを見つけるというのは「適応」だが、雑草のその「適応」の仕方は目を見張るものがある。数年にいちど地面が掘り返されるタイミングを捕まえて発芽するもの、ぎりぎりまで刈り込まれても生長点がそれよりも低いところにあるために茎を伸ばせるもの、踏まれれば踏まれるほど成長力を発揮するもの、これらは他の植物にはない、その雑草のみが身に着けた「適応力」だ。逆に言えば、ニッチなところに「適応」できなかった雑草は、既存の植物群に制されて生き残ることはできないとも言える。
つまり「変異と適応」とはニッチなポジションが見つかるまでのトライ&エラーであり、それが「生き残る」ということになる。根強い雑草が残るまでにはかなりの淘汰の歴史がそこにあったはずなのだ。
よく「雑草魂」と表現されるが、あれはふまれてもふまれても立ち上がる強さではなく、本来的には自分の生存場所を確保するまでのトライ&エラーということもできる。しっかり生き残るものつくる創作行為とは強い雑草をつくることなのだというマインドセットはどうだろう。
本書はなかなか評判がよいようで、職場の若い社員がこの本に大変感銘を受けてあちこちで風潮していた。それで興味をもって僕も読んでみた。なかなかのページ数で、情念と執念がこれでもかと詰め込まれた大変に厚くて熱い本で、50代の僕にとってはちょいと胃もたれも感じさせたが、20代の頃にこの本を読んだら、もっと素直にすいすいと入って、きっといろいろな開明があっただろうなあと思う。松岡正剛が編集工学系の本を次々と出していたのがちょうど僕が20代の頃で、多いに感銘を受けたものだった。とくに「知の編集工学」の衝撃といったらなかった。なるほど、企画や創造というのはこのように頭を動かしてやるのかと、社会人になったばかりの僕は思ったものである。
本書「進化思考」も、編集工学の世界に近いものがあるなとは思った。その極意は「意図的に情報を遊ばせる」というところだろう。強制的に頭をうんうんひねっても、出てくるアイデアは限られる。しかし、ある文脈や状況に「情報」を乗せてみると、熟成、あるいは発酵するようになかば自動的にふくらんでくる。それこそが編集の妙だ。そういう意味では本書も「進化論」にあてはめてみるという「変異」と、Jヤング「アイデアのつくりかた」や外山慈比古「思考の整理学」や例の松岡正剛などのアイデアーエションの系統に通じる「適応」を試みた本と言えるかもしれない。
佐藤ナオキのボツ本
佐藤ナオキ
日経BP社
著者は、nendoというデザインオフィスの代表。本書では早稲田大学ラグビー部の新ユニフォームとか、IHI(旧・石川島播磨重工業)の広告とかが紹介されている。
本書は、いちプロジェクトの過程で日の目を見ることのなかったボツ案が出てくる。そしてボツ案を通すことで、プロジェクトのプロセスにおける著者のこだわりがわかる。
ふうんなるほど、と思うことは、著者の場合かならず問題解決の要になる「ブツ」をみつけることだ。タカラベルモントの美容室プロジェクトの場合は椅子、早稲田大学の場合はユニフォーム、 ロッテのガムの場合はパッケージ、IHIの場合はその会社のロゴ、スーツケースの場合は車輪である。
そしてその「ブツ」を徹底的にデザインする。そこで多数のボツ案が出る。
つまり、フォーカスポイントを探すにあたってたくさんのボツ案が出るのではなく、キーとなるブツを見極めてたあとに、そこのデザインのバリエーションにボツ案が出るということだ。
このボツ案のデザインバリエーションは、どの方向に企画性を尖らせていくかというものであり、単に思いつくままいろいろ雑多に書き並べていくというのとは違う(おそらくはそういうボツ案も大量にあるには違いないが)。
その「デザイン」も、おもにプロダクトデザインだから、単にカッコいいとかかわいいではなく、何かしら機能的な意味合いがある。何かを動かす「機能」がある。この「機能」こそが問題解決だ。
だから思考の順番でいえば、かかえる「課題」があり、その課題解決にはこんな「機能」をもつ何かがあればいいい、と考え、ではその何かに直結する「ブツ」は何かと考える。で、その「ブツ」が見極められると、そこに「機能」を託したデザインがほどこされ、それを中心に周辺のさまざまな施策が考えられていく、ということになる。
ボツ案がいろいろ出てきて面白そうと思って手に取った本だったのだが、デザイン思考というのはこういうことかというのがとてもわかりやすくて勉強になった。
たのしい編集
和田文夫・大西美穂
ガイア・オペレーションズ
多くの本好きは「文章」好きなだけでなく、姿かたち手触り重さを持つ物体としての「本」も好きなものだ。装丁・レイアウト・書体・紙質の種類・矩形やサイズなどはすべてささやかなメッセージを放っており、総体として「本」というメディアになっている。
しかし、電子書籍の普及によって、紙の本づくりへのこだわりはまたひとつ前時代的美意識になったかもしれない。Kindle端末は文字の大きさが調整できる。調整できるということは、1ページ(というか1画面)あたりの文字数が変わるということである。これすなわち1行あたりの文字数が変わる。文字が大きくなるほど、1行あたりの文字数が少なくなり、よって1ページ(1画面)あたりの文字数が変わる。
1画面あたりの文字数が変わろうと、文章自体の情報は変わらないのだが、かつては原稿用紙から本になるときは、1行に何字用いて、行間スペースをどれくらい空け、1ページあたり何行いれるかというのはすべて考案すべきものであった。さらに段組みという選択肢もある。
また、Kindle端末では書体を選ぶことができる。明朝体もゴシック体もある。
つまり、Kindle端末は、紙を無くさせたのではなく、「本」というメディアを無くさせたことになる。それがどのくらいの情報損失なのかは極めて定性的な世界なので一概には言えない。しかし、本書でも触れているように、読書という行為は「情報の記憶」でもあり「体験の刻印」でもある。後者の視点に立つならば、電子書籍による「体験」と、本による「体験」はかなり違うものといってよい。
かくいう僕もKindle を重宝していて、電子書籍の長所は多いに実感している。むしろ、Kindleを使うようになってから、紙の本の「紙」であるがゆえの本というメディアによって味わえる「体験」もまた意識できるようになったと言ってよい。
ところで、僕は、勤務先の業務ではしばしばパワ―ポイントを使う。仕事で使うビジネスソフトが何かは、その業種や職種によって異なると思う。ワードのような文書作成ソフトを主流とするところもあるだろうし、かつてはエクセルを「表計算ソフト」ではなく、文書作成として用いるところも多かった。罫線や枠組みをそろえやすいという利点を活かしてのことだったが、これは日本特有の現象だったんではないかと思う。Microsoft社の想定外だったのではないか。
で、パワーポイントであるが、あれは本質的には白地の画用紙みたいなものなので、文字の大きさも1行あたりの文字数も行間スペースも書体も自由といってよい。図表をいれたり、複数の色を用いてみたりする。企画書の場合は表紙もつくる。
つまり、パワポの書類づくりというのはどこか「本」づくりみたいなところがあって、僕はキライではない。ワードで書類をつくるほうが、文章づくりには集中できるが、なんだか味気がなくてつまらない。ワードでつくる文章はあくまで「情報」を相手に届けるだけだが、パワポでのドキュメントづくりは相手に対し、どういう「体験」をさせてやるかという企てを考えるところがある。
あくまでビジネス上のドキュメントだから、まさか詩集のようなものをこさえるわけにはいかないが、あまり形式ばらなくて済むような場合では、表紙デザインやタイトルにちょっとひねりをいれたり、1ページあたりの空白を大きくとってみたりする。ノンブルの打ち方も工夫する。2ページ連続して「ぱっと見た目が同じ」ようにならないようにする。余計な労力かもしれないが、つまらない1時間の作業より、なにか面白い2時間の仕事のほうが精神衛生的にはまことによい。
僕は編集者でもなんでもないが、編集の本をたまに読んで楽しんでいるのは、自分の仕事の心得や技術として援用できることが多いからでもある。
ただ、最近はペーパーレス化が促進されていることもあり、みだりに印刷をすることが許されなくなった。会議でも事前にメールで資料を送り、各自手元のパソコンで見るとか、会議室のモニターで見る、ということが増えてきた。電子書籍同様、こちらも次の一手を考えないといけないようだ。
問題解決に効く「行為のデザイン」思考法
村田智明
CCCメディアハウス
これは聞いた話なんだけれど、道具というものがあるとき、日本の道具は、使い手のほうが道具にあわせる。これに対し、西洋の道具は、道具のほうを改良する。という道具観の違いがあるそうだ。
たとえば、小学校でも使うリコーダーの穴の数は8つである。リコーダーは西洋由来の楽器だ。
これに対し、和楽器である尺八。伝統的な尺八の穴は5つである(そうでない種類のもあるが)。
つまり、出せない音があったとき、西洋のやり方だと新たなに穴をあけるが、日本のやり方は吹き方や微妙な指の押さえ方で解決しようとする、ということである。
食事をするとき、西洋は、ナイフ、フォーク、スプーンと揃えていく。日本は箸で、切る、つまむ、割く、混ぜるなどをマルチな対応を要求される。使い手側からみれば、西洋流のほうが求められるスキルが単純で済むということになる。
ということは、本書いうところの「行為のデザイン」は西洋流ということになる。アップルのようなインターフェースは、西洋のDNAがなしたものということになる。日本の家電製品などに多くみられる、初見のハードルの高さや分厚いマニュアルを、みんな「そういうもんだ」と黙認していたのは、日本の道具観がそうだったからということなのかな。
編集とはどのような仕事なのか 企画発想から人間交際まで
鷲尾賢也
著者は講談社の編集者だった人で、杉浦康平が装丁をやっていた頃の講談社現代新書の編集長や、いしいひさいちの4コマがスピンアウトした「現代思想の冒険者たち」シリーズを手掛けた人である。今年の2月に逝去した。
本書は2003年に書かれたもので、著者の逝去を機に新版として改めて刊行された。とはいえ、底本も晩年に書かれたもので、なんとなく全編に「最近の若い者は節」が漂ってしまってはいるものの、編集者のみならず、働く人のバイブルではあろう。とくに人に仕事をさせなければならない立場の人にとっては。
特に他山の石としたいところが以下の指摘である。
一冊の本というのは既知と未知の組み合わせである。既知と未知の査は専門家同士では大事な問題であろう。ところが読者にとっては、それは第一義的関心ではない。むしろ主題をどのようにおもしろく、興味深く伝えてくれるかが大事である。ところが著者は、書いているうちに、構想していたプロットから少しずつはずれてゆく。読者のことをいつの間にか忘れてゆくのである。同業者(専門を同じくしている、いわばライバル)に、どうしても目が向いてしまう。あいつには負けたくないという気分から、未知の問題や、得意領域にスペースを割きがちになる。
自分も、仕事でよくドキュメントをつくる。お得意先に見せるための提案書や分析書だったり、上司にみせるための報告書だったりする。
だが、書いているうちに、だんだん読み手よりは、同じ立場の別の者より秀でたものを書いてやろう、という欲が働く。その分、専門的には大事な差であっても、一般にはどうでもいい瑣末なところに妙に凝りだしたり、時間をかけてしまったりする。そして、結果的にはクライアントや上司にとってはわかりにくいものができてしまう。
他人が書いたもののほうが採用されたり、褒められたりして、ではと思ってその文書を見てみると、拍子抜けすることがある。なんだこんないいかげんなの、と思ったり、こんな簡単にしちゃっていいの、と思ったりする。
だが、これこそが罠で、わたしという同業者の評価軸ではそうであったとしても、クライアントや上司の評価軸は違うのである。そしてここで大事にしなければならないのは後者のほうの視点なのだ。
このことに気付いてないわけではなかったのだが、いっぽうで妙なプロのプライドみたいなものが働いていて、100%認めてはいなかった。上記の文章に出会って、ようやくはじめて蒙を拓かれた感じである。
エディターシップ
外山滋比古
外山滋比古といえばちくま文庫の「思考の整理学」がロングセラーだけど、1975年に刊行された「エディターシップ」は、その当時とても話題になった。
それまで「編集」という言葉は、まさに出版用語でしかなかった。それを、家庭で料理をするのも、会社で会議を進行させるのも、これみな「編集」であると喝破したのは本書であり、これ以降、「編集」とは知的生産行為そのものであるとみなされるようになった。
この本はいまなお現役であり、増補改訂を経て今は「新・エディターシップ」というタイトルで出版されているが、内容は初版からほとんどぶれていない。つまり汎用と普遍に耐えた内容である。1983年刊の「思考の整理学」が今なおここまで売れているのなら、こちらももっと読まれてよさそうだが、amazonの様子などみていてもレビューがついていない。出版社がみすず書房ということで、ちくま文庫にように廉価で広範囲に流通しにくいのが残念である。
というわけで、ここでとりあげてみたのだが、あらためてネットで調べてみたら、さすがに名著の誉れ高く、あちこちで紹介されていた。
なので、ここでは総括的な話はしないで、一点、「編集」と「分析」の対比の説明の個所に触れたい。というのはこの部分、今の時代を予見しているというか、現代だからこそ心しなければならないことのような気がするからである。
「分析」は、できている縁をうちこわして事象を正視しようとするもの。近代の文化はそういう分析的学問によって発展した。
編集とは新たな縁で統合するもの。学問や勉強をすればするほど、分析と云う鋏の使い方の名手にはなるが、離れたものを関係づける糊の使い方は忘れてしまう。研究をすればするほど創作的な仕事に適しない人間になるという皮肉がそこから生まれる。
我々は要素への分析に気をとられていて、統合の緊要性を忘れがちだが、人間がもっとも人間らしいのは、孤立したものを結び合わせる能力においてである。
つまり、「編集」とはつまるところ「統合」であって、断片情報をつなぎあわせてひとつの文脈をつくりあげることである。
これに対し、「分析」というのはカタマリを細分化していく考察である。
情報が断片化されてそれぞれにタグがつけられ、いつでも検索可能になっているのが今の世である。で、現代の我々の社会はそのテクノロジーの発達も手伝って、あれも分析できる、これも分析できる、と細分化合戦のようなことになっている。ログの解析とかビッグデータの取得とか。
だが、「分析屋」という言葉が一種の揶揄になっているように、「分析」は「分析」でしかなく、そこに新しい価値とかイノベーションみたいなものが生まれる保障はない。むしろ「分析」に満足してしまっていることの方が多い気もするし、「分析すること」が偉大な目的であるような錯覚をいつの間にか起こしていることが多い。
やはり大事なのは、分析し、解題されたそれらから、何を新しい文脈として読みとり、つくりあげるかということだろう。このことについて本書はとても大事なことを示唆していて、それが「人間がもっとも人間らしいのは、孤立したものを結び合わせる能力においてである」というくだりである。
つまり、分析はコンピュータにやらせて、編集すなわち統合こそが人間の出番だ、ということである。現代においてヒトが人材力として求められているのは、分析力ではなくて統合力である。三題噺のセンスが問われるということなのである。
実は、この編集あるいは統合こそが知的生産の要という視点はそれほど斬新なことではなく、ジェームス・W・ヤングの「アイデアの作り方」(1944)でも、梅棹忠夫の「知的生産の技術」(1969)でも指摘されているのだが、そこに「人間らしさ」を見出したのが慧眼だと思う。分析のほうは究極的にはコンピュータ処理に叶わないのであり、統合こそがヒトの道というこの示唆は、これからの時代を生きていく上での大きなヒントだと思う。
知の編集工学
著:松岡正剛
前の職場、そこは事業コンサルティングとかマーケティング上の戦略企画とか、そういうのに毛がはえたようなことをやるところだったのだが、そこに新卒で入社したとき、とにかく右も左もわからず、先輩からどやされてばかりいた新人時代ですっかり自信を喪失していた日々が続いたわけだが、そんなときに出会ったのが本書である。15年前くらいかな。
僕はこの本を読んで、嘘でもなんでもなく、仕事が3倍速くなった。もちろんたまたま仕事になれてきた時期とタイミングが重なったともいえるだろう。いろいろ仕事の内容や自分の立ちまわりが腑におちると急に仕事がまわるようになる。ただ、当時の自覚として、僕は本書の内容に自信と手ごたえを感じ、あきらかに自分の仕事に自信を持つことができた。
最近、ゆきづまりを感じてきて、初志を思い出す意味もあって本書を再読した。座右の本ではあったものの実は10年以上開いていなかったので、だいぶ内容は忘れていて、いったい自分が本書のどこに琴線に触れたかを確認したかったのだった。
で、松岡正剛の本はどれもそうなのだが、はっきりいって何が書いているのかさっぱりわからないのである。博覧強記を母体にする彼の著書は衒学趣味に溢れていて話は右へ左へ手前へ奥へと自由自在に移動し、文脈を追うのも一苦労なのである。彼の著書の味わい方というのは、一生懸命文章を追って理解するのではなく、なんか言語のシャワーを浴びて、そのところどころになんだかココロにひっかかるもの、ひざをたたくものがぐぐっとクローズアップされ、そしてまた遠景へと去っていく感じを味わう、そんな読書スタイルがあっていると思う。彼の本は、プログラムとしては日本語の文章による一本の流れで成り立っているけれど、彼流にいえば「ノンリニア」に味わうものである。少なくとも僕はそのように読む。(というか、そのようにしか読めないのだが)。
で、当時の僕がなぜ仕事が3倍速くなったと自覚するほど本書に学ぶところがあったのか。なんとなくぼんやりと覚えているのは当時の僕は「仕事には正解がある」と硬直して信じ切っていたのだが、本書を読んで「自分の信じるように、自分の持ち前の知識と技術でやって問題ないんだ」と肩の力が抜けたことである。この「脱力」こそが最大の成果だったかもしれない。
再読してみてけっきょく具体的にはどの個所にそこまで目ウロコされたのか思いだせなかった。むしろ内容をほとんど覚えておらず、初読とかわらないほどだった。
だが再認識したこともある。報告書も提案書もついつい書きこんでしまう。誤解や解釈の多様をなくすために硬直化した論理構造と文章をとろうとする。でも実はちっとも読み手に感激も関心も与えないのである。むしろ「示唆を与える」程度で投げだしたもののほうがずっと相手にとって歩留まり、関心され、感謝され、お買い上げになることが多い。本書的に言えば「相手に編集させる」ということなのだが、これまでの実体験を省みて、正しいように再認識した。
とはいえ、今の僕が読んでもやはり全部の7割くらいは読んだ先から忘れていく。15年前の僕はいったいこれらのどこを読んで、そんなに目ウロコだったのだろうか。自分で自分を神話化してしまったような本である。
杉浦康平のデザイン
臼田捷治
もう20年近く前、学生時代に、杉浦康平の講演を聞いたことがある。そのときは、曼荼羅をテーマとしたデザイン論だったが、そのプレゼンテーションに度肝を抜いた。当時はまだパワーポイントの投射なんてのはなくて、彼はスライド映写機を使ったのだが、約1時間の講演時間に驚くなかれ、彼は100枚以上の画像を次々見せていった。1枚1分以下である。
この圧巻な「畳み掛け」プレゼンテーションに僕はいたく衝撃を受けた。出しているのはスライドの写真、つまり静止画なのに、圧倒的に動画的な世界、たとえばNHKスペシャルでも見ていたかなような経験だった。このときの濃密な経験が忘れられなくて、僕は今でも、パワーポイントかなんかでプレゼンをするとき、1枚のスライドの投射時間は1分以下を守ろうとしている。
その後、例の「時間軸変形地図」を見た。もともと子供のころから地図を見るのが好きで、社会科の教科書のダイアグラムなんかも好んで見ていたのだが、「時間軸変形地図」の発想は正直いってたまげた。その後、「犬地図」とか「日本神話の時空構造」とか「富士山ロードマップ」とか見て、この人は神様なんじゃないか、と思った。こんなのひとつでもいいからつくってみたい。
一方で、「噂の真相」とか「講談社新書」の装丁も杉浦康平だと知って、意外な気持ちがした。だが、いわれてみれば、たしかに他と違う。当時は新書は、岩波と中央公論と講談社しかなかったが、講談社新書のクリーム色の生地、明朝体のタイトル、表紙に踊る文字や文章、それどころか紙質の触感まで妙に特徴的で、岩波や中公とは全く違うオーラを放っていた。
その講談社新書が、どういう都合からか、この装丁をやめて、現在の実につまらないカバーデザインになってしまったのはなぜなんだろうか。
杉浦康平のデザインは、きわめて主観的な(認知的な)ものに依存する知覚世界を、客観的なフォーマットであるダイアグラムで可視化してみせるということで、内在と外在の同時表現を達成したものである。言うはやすく行うは難し。その後、似たような試みをするアーティストやデザイナーはいっぱい増えたが、いずれも杉浦の手の平から出てないようにさえ思う。そのくらい、杉浦康平のデザインは、人を突き動かす。
著:竹熊健太郎・夏目房之介・他
今の「別冊宝島」というムックは、A4判つまり雑誌と同じサイズだが、かつてはA5版だった。矩形が半分になる分、今のよりも厚みは倍くらいあった。
それも通常版とEX版とあって、見た目はまったく一緒で、編集対象の差異もあまり相違なかったのだが、たぶん制作時間が通常版よりもかけることができたのだろう、ひとひねりした力作が多かった。図版が豊富で、執筆陣も気鋭陣をそろえ、なかなか力が入っていた。
このEX版が90年代の中盤頃だったと思うのだが、「○○の読み方」というシリーズを出した。「絵画の読み方」「デザインの読み方」「写真の新しい読み方」などがあり、特に西岡文彦が担当した「絵画の読み方」はセンセーションを巻き起こし、のちに洋泉社で復刻された。
そのシリーズの中で、唯一入手し損ねたのが表題の「マンガの読み方」であった。機会あれば入手したかったのだが、先日、古本市でエサ箱に200円で放出されたのを発見。即効でゲットした。
実は、僕は小学館コロタン文庫の「まんがのかき方全百科」という本が、小学生時のバイブルだった。というか、なんとここで書かれたことは原体験として、いまの自分にもどこかで活きているように思う。
たとえば、1本の長い線が横に引っ張ってあって、これを8等分するように定規を使わずにフリーハンドで線を区切れ、と言われた場合どうするか。こんなのは、仕事でホワイトボードで表を書くときなんかでもよくあるわけだが、左からひとつずつ区切っていってはいけない。こうすると後のほうになると間隔が最初の方に比べて広くなってしまうか、あるいは狭くなってしまうおそれがある。こういう場合、なるべく誤差を出さないのは、まず真ん中に1つ区切って、2分の1にし、それぞれをさらに真ん中で区切って4分の1にし、さらにそれぞれを真ん中で区切って8分の1にする。こうすれば、実用上はほぼ問題なく8等分が可能になる。
実際、ぼくは線状のものを等分にわける場合はこうやっているわけだが、このノウハウを知ったのは、まさしくこの「まんがのかき方全百科」であった。
「まんがのかき方全百科」については、別にまた書こう。
で、「別冊宝島EX マンガの読み方」。キャラクターの描き方とか世界観の構築というよりは、メタレベルでの「マンガという文法」を主な視点として書かれている。たとえば、コマ割りの流儀、吹き出しの仕組み、スクリーントーンが多様化するまでの話、ペン先(カブラペン・Gペン・ミニペンなど)による画風の違いと、その歴史などが解説される。
このペン先の歴史はなかなか興味深くて、手塚治虫が中庸な筆致を可能とするカブラペンを用いたことから、その後の手塚系(藤子不二夫とか石森章太郎とかかな)がカブラペン派になり、そのカウンターカルチャーとしての劇画(川崎のぼるとかだな)が、より筆圧が筆致に影響を与えやすいGペンを使用して、あの劇画特有の画風を可能にし、さらにその暑苦しさのからの解放で、大友克洋が丸ペンを用いて、あのクールな描写を描き、精密性と温かさの共存ということで現在好まれている画風はGペンとミニペンの使い分けといったクロニクルの話はなかなか圧巻だった。
鳥山明が「Dr.スランプ」でGペンを用いながら、Gペン風の筆致をおさえ、むしろカブラペン風の効果を出そうとした、という話も興味深い。あの独特な画風は、道具の使い方がまず独特だったおちうことである。
鳥山明にはかつて「鳥山明のへたっぴマンガ研究所」という珍本がジャンプコミックから出ていて、鳥山明流「マンガの書き方本」なのだが、ここでも確かにGペンを推奨していた。ちなみに、「鳥山明のへたっぴマンガ研究所」では、鳥山明はロットリングペンも使っているようなことが書かれていたが、「別冊宝島EX マンガの読み方」ではロットリングペンを使いこなしたマンガ家は、ひさうちみちお氏ただ一人ということになっている。
90年代の本なので、今ならば井上雄彦の筆入れとか、CGとペンタブレットなんて話も入ってくるのだろうが、このように道具の技術変遷が、歴史そのものに重要な役割を果たすことは非常によくある話で、マンガの場合もそうなのであった。そういえば「絵画の読み方」では、「チューブ入り絵具」が開発されたことが屋外での絵画制作を容易にし、印象派の活躍を可能にした、と指摘していた。
つまり、道具の技術とコンテンツ制作は二人三脚ということだ。ここは意味深い。予断だが、昨今の会社のドキュメントが、かつてとなんか調子が違うとしたら、それはパワーポイントがもつフォーマットのせいかもしれない。
ところで、日本まんがが発見した無音を表す効果音「シーン」。ある意味、インドの「ゼロ」の発見に匹敵するこの「シーン」。石森章太郎が最初に「発明」したものなのだそうだ。
今回は、本の紹介にかこつけた、ある事件の感想。
「アンクル・サムがこちらを指さして、I want you!と言っているポスター」といえば、デザイン関係の仕事を知っている人なら誰でも知っている、第1次世界大戦時にアメリカがつくった募兵用のポスターである。
これは、デザイン史の教科書で必ず出てくるくらいの名作ポスターで、それゆえにこれまで幾多のパロディがつくられた。日本でも過去に木村恒久が中曽根康弘を使った作品をつくっているし、いしいひさいちの戦争4コマの中にも見かけた記憶がある。涼宮ハルヒがやっているのもネットで見つけた(第1次世界大戦時のデザインなので著作権は切れている)。
それだけの普遍性と完成度がある構図ということなのだが、このアンクル・サムのポスターも実はさらに元ネタがあって、それはイギリスの募兵用のポスター。モデルは英国陸軍のキッチナー元帥で、時代としてはこちらのほうが先である。しかしアンクル・サムのほうが有名なのは、アメリカということもあろうけれど、より完成度が高かったということだろう。こういうのを本歌取りという。
著者の西岡文彦はそれを「先端恐怖症の迫力を持つデザイン」としていて、このポスターデザインの起源と影響を見開きにして本書で説明しており、様々なところでの影響やパロディを紹介している。
この「デザインの読み方」は、こういった著名なデザインの発想のルーツと、それを受け継いだ影響をこまめに調べてわかりやすく提示しており、非常に勉強になる。
ところで、パロディというのは、とうぜん元ネタが分からないとパロディにならない。それどころか「盗作扱い」されてしまって、二重に笑えなくなったのが、この「<夏祭りポスター>米の募兵用ポスターにうり二つ 三重・伊賀市認める」という事件。
このポスターをデザインした製作者も当然、パロディとしてつくったのだろう。決して黙しての盗作とか剽窃の類ではない。というのはこの祭りのポスターは、観た人がオリジナルのネタを知っていることを前提につくっているからだ。実際、元ネタを知っていれば、この祭りのポスターの出来は、それなりにバカバカしくて面白い。
が、どうやら商工会議所も市会議員も誰も元ネタを誰も知らなかったようである。「外人が浴衣着てこちらを指さしているポスター」以上のなにものでもなかったようだ。
市内に張り出された後、それを市民が通報した。通報したということは元ネタを知っていたということなのだろうけれど、この「市民」もあまりシャレがわからなかった人のようだ。
で、騒ぎとなってポスターをデザインした業者も「別のイベントで似た図柄のポスターを見て、インパクトがあったので引用した。浅はかだった。すみません」となり、議会は「二度とこのようなことがないようにしたい」。これを報じた毎日新聞記者も、たぶんその上のデスクも、どうも元ネタが有名な作品であることを知らなかった節がある。
意外にも元ネタが知られていなかった、意外にもシャレの分かる人がいなかったというところが敗因なんだろうけれど、この祭りのポスターを実際に手を動かしてデザインした人は、とんでもない悪夢だったに違いなく、ちょっと同情してしまった。なんだかこの事件そのものがパロディみたいである。それとも議会の派閥争いか何か裏でもあるのかな。
清水義範の本で「最近の若者は学力が下がった」に対する反論として、たとえばポスターなんかのデザインをやらせると、昔の若い人よりもはるかに洗練されて上手なものをつくってくる、と指摘している。つまり、デザイン力は上がっているわけだ。
上記のは、もちろん安直な「最近の若者は論」に対するアンチテーゼとして出されたものだが、デザイン性、もっというと視覚によるコミュニケーションというものが年々重要視されているように思う。
これは「人は見た目が9割」とか「最初の3秒で心をつかむ」とか「企画書は1枚」とか、とにかく今という時代が、ごく短い瞬間的な接触で全体の評価をしなければならないリテラシーが求められていることと無縁ではないと思う。本質的には昔だってそうだったと思うが、今日はよりこういったビビットな情報の交信が戦略的に求められているのだ。
もっとも「少ない色数で効果的に物事を見せる技術」は、直近の現象、つまり僕の部署に入ってきた最近の若手の人の書くものを見ると、逆に劣って来はじめたようにも思う。一言で言うと、なんだか見にくいのである。つらつらいろんな人のを見たり、逆に見やすいものと見比べたりした結果、「色の使い方」が下手、というか無頓着になってきているように感じた。1枚に10色くらい使ってサイケになっていたり、平気で赤い背景に緑の字を乗せていたりするのだ(光の三原色であるモニターだと見落としがちだが、これは印刷物とては可視性の悪い配色なのである。)それでいて、本人の着ている服のカラーコーディネートはしっかりしていたりする。
これは「少ない色数で効果的に物事を見せる技術」を会得する機会がないまま、いきなり総天然色のプリンターがある環境に生まれているからだと気付いた。
かつては大企業でも印刷物はモノクロが主流だった。企画提案でも通達でも、モノクロで紙面を構成させることが普通だった。つまり白地に黒のグラデーションという幅の中だけで、どこまで効果的に物事を伝えていくか、というセンスはいわば制限あってこそ磨かれる技術だった。チラシなんかで使用される二色刷りも、そういった制限の中でどこまでデザイン性(アートではなく)を引き出すかという戦いになる。そういった制約された環境にいるからこそ、色が豊富に使えるという場面では、どこでどう使うと効果的かがなんとなくわかる。
が、純粋培養でカラープリンターやカラーコピーに慣らされると、色のアリガタミも当然ないわけで、しかも写真や図もWebから簡単に持ってこれる。だからパッと目になんだか完成度の高い書き物ができてしまうのだ。
最近トヨタが、パワーポイントの使用の制限を出すとか出さないとか報道されていた。パワーポイントへの批判は、ある程度は有名税というか宿命みたいなものがあると思うが、パワーポイントのせいではなくて、使い手のレベルが露骨に出てしまう、というつまり、「道具」としてしごく真っ当な状況に戻ったということだろう。かつてはものめずらしさもあって、少々のプレゼン下手やデザイン音痴でも七難隠す作用がパワーポイントにはあったわけだが、その魔力がなくなったいま、“幽霊の正体みたり枯れ尾花”といったところか。