読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた

2024年11月18日 | SF小説

この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた

(※「新世界より」「復活の日」「渚にて」のネタバレに触れているので注意)

 

ルイス・ダートネル 訳:東郷えりか

河出書房新社

 

 

サバイバル百科事典あるいはサイエンス読み物の名を借りたSF小説とでもいおうか。

つまりは、「大破局」なる人類滅亡後に幸いにも生き延びたものがどうやって生活の糧を得て生き延び、再建していくかというのを、飲料水の確保の仕方、農業の始め方、建材の集め方や作り方、家の建て方、情報の取り方、移動の仕方、薬の調達の仕方など解説していく。

 

ただ、本書の示すような「世界の消え方」にはいくつか条件がある。

つまり、人類は滅亡しても建物とか道路とか文明の利器はしばらくそのままあるということだ。もちろん電気やガスは止まっているが、スーパーには食品がひとまずあるし(散乱しているかもしれないが)、乗り捨てられている乗用車などもある。人類だけがいない。サバイバルのためにはこういう残された文明の再利用からまずは始まるのである。

だから、「ノアの箱舟伝説」のように、大地を大津波が襲っていっさいがっさい流されてしまい、かろうじて高いビルの上にいた人だけが生き残った、とかだとこの条件にはあてはまらない。「地球の長い午後」のように、地球の自転軸にまで影響を与えるような破局も、破滅度がデカすぎてちょっと無理な気もする。「火の鳥未来編」のように核爆弾が世界中で同時多発的に投下されるのも都市が壊滅しすぎてしまい、土壌も汚染されるからダメな気がするし、「風の谷のナウシカ」の「火の七日間」も破壊力が強すぎそうだ。

いっぽうで、少しずつ人口が減って滅亡に瀕するというのも破局の設定としてはよくあるのだが、これも本書にはちょっとあてはまらない気がする。このパターンには貴志祐介の「新世界より」なんかがそうだ。ほかにも「トゥモロー・ワールド」や「世界を変える日に」のように人類に子どもが生まれなくなるというSFもあるが、いずれにせよ人口の減少と同時に都市機能も少しずつシュリンクしていくはずなので、あちこちに残る文明の残骸を再利用を試みるには、すでにもう撤去されてなかったり、仮に放置されていたとしても建材や道路の劣化がひどすぎ、時間が経ちすぎているとみるべきだろう。

 

したがって本書の設定する大破局はわりと条件が狭い。あてはまるとすれば、謎の病原菌が蔓延し、速攻で人がバタバタ死んでいった中、幸運にも隔離された環境にいた人が生き残ったというパターンだろうか。「復活の日」や「渚にて 人類最後の日」などの設定だ(「渚にて」は最後全滅してしまうが)。また、一見全然違うようでいて案外似ているなと思ったのは「火星の人」(映画名は「オデッセイ」)である。

 

つまり、普遍的なサバイバルというか文明の再建を解説する体でありながら、これが成立する条件というのはわりと狭く、その裏側には何か物語がーー「復活の日」や「渚にて」や「火星の人」のようなこういう破局条件に導かれるようなSF的な物語がそこにはあるはずなのである。その破局に至る物語は読者各自の想像にすべて委ねてしまい、ただクールに文明を再興させる方法を解説するという、なかなか高度なテクニックを用いたこれはSF小説なのである。それは「復活の日」にて南極大陸から戻ってきたあなたかもしれないし、「渚にて」でなぜか耐性を身につけたあなたかもしれないし、「火星の人」のように、人類全員が別の星に逃亡したのになぜか地球にひとりおきざりされたあなたかもしれない。その設定はすべてあなたの好みである。なんとわくわくする読み物ではないか。

 


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AIとSF

2023年06月06日 | SF小説
AIとSF
 
日本SF作家クラブ・編
早川書房
 
 先日「G検定」なるものを受検した。JDLA(一般社団法人ディープラーニング協会)が主催する人工知能に関する検定である。「G」とはゼネラリストの意で、そのココロは非エンジニアの人を含む一般人むけ、つまり僕のような人ということである。エンジニア向けの専門的なものは別途に存在するらしい。
 
 僕の職場は別にAI系でもIT系でもない。ないはずなのだが、先日「G検定受けるやつは会社が一部補助だすぜ」というお触れがまわってきた。いぜん「UX検定」について同様の処置があった。僕の勤務先は社員のリスキリングにずいぶん躍起なようだ。金銭的補助をしてくれるのはありがたいが会社の将来としてはだいぶ不安になってくる。
 
 それはともかく。僕はChat-GPT出現に寄せたとある投稿「我々が演繹的と思っていたものは、実は深遠なところこで帰納的だったのではないか」という問題提起にひどく衝撃を受けてしまい、人工知能ならびにディープラーニングには脅威と興味を感じている。そんなところに舞い込んできたこのG検定、思い切って申し込んでしまった。「非エンジニアむけ」ということの気安さも背中を後押しした。
 
 テスト本番では最後の問題に行き着く数問手前で制限時間が尽きてしまい、たいへん心もとなかったが、幸いにも合格できた。最低合格点ラインが思いのほか低かったらしい。本当のところこれでAIやディープラーニングのことがおまえ解ったのかと問い詰められるとまったく自信はないが、少しは時代に対して脳味噌がアップデートできたような気分にはなる。さいきん自信喪失気味だったのでこの効果はバカにできない。
 
 そんなところに本書であるところのSF小説アンソロジー「AIとSF」が出たので読んでみた。そうしたら、G検定で強制的に頭に叩き込んだことが次々と実例として出てくるのにたまげた。直接明示されてなくても、暗に仄めかされている技術や様式が、これは検定テキストのあれを指してるな、とか、テキストでは抽象的過ぎてわからなかったけどここで使うのか!とかがかなりの頻度で登場するのである。さながらG検定の副読本のようだ。テクノロジー系のSFは難解なものが多く、よくわからないテクノロジーは行間で想像するしかなかった。ここまで明瞭に読むことができたのは初めてで、ちょっとした爽快感さえある。むしろ関心すべきはSF作家というのはよく勉強しているものだ、ということだろう。
 
 SFはこの先の時代をよむヒントになる。「ドラッガーよりハインラインを読め」と言ったのは岡田斗司夫だが、この人口生成AIのゴールドラッシュ的大フィーバーの先に何があるのかのヒントを知りたくて本書を手にしてみた。全部で22のSF短編が載っていてまことに荘厳だ。すべて書下ろしであることから、既出の寄せ集めではなく、本書の企画のために各作家に依頼したものとみられる。
 
 個人的に興味深かったものを列挙するとChat‐GPT登場以前にコンセプトも企画も決めてしまって時代遅れの謗りを免れなくなってしまった大阪万博をネタにした長谷敏司の「準備がいつまで経っても終わらない件」、完璧なロジックを持つAIの特徴をあえて逆手にとって間違いに誘導させたり記憶させたことを忘れさせたりする柞刈湯葉の「Forget me,bot」、過去の犯罪・判例・行動記録データのディープラーニングからかつての某事件で有罪にされた死刑囚が実は冤罪であることを指摘して法治国家を揺るがす荻野目悠樹の「シンジツ」あたりだろうか。一見荒唐無稽で、その実とてもリアリティがある。
 
 これらアンソロジーで集められた作品の多くのテーマは、人智を越えて人間の制御の手を離れたAIに対して人間はどう対峙するかというものだ。直接AIを登場させる話もあれば、別のなにかに象徴させて寓話化をはかったものもある。コメディにしたりシリアスにしたりサスペンスにしたり伝奇ホラーものにしたり中世ファンタジー風にしたりと手法は様々だが、その多くは汎用AIが支配する世の中をディストピアとしてとらえていると言ってよいだろう。人間はただひたすら翻弄され、下等に押し込まれ、やっかみの感情がうごめく。
 こうしてみると人間社会を営むのに「真実」や「完璧」を明らかにすることはむしろ邪魔なのだ、という逆説が見えてくる。勘違い、怠惰、保身、中途半端、隙や油断、高慢と偏見といったものこそが実は人間社会を前に進めるためのエネルギーだったのだ。完璧主義は身を亡ぼすのである。本書に出てくる各短編は、AIによって絶滅ギリギリまで排除された末にわずかに残る「不完全」の向こうに、生きる術やモチベーションや真の幸福を見つけだそうとする人間たちの姿が描かれている。
 
 それらの短編群にあって唯一の例外が野尻抱介の「セルたんクライシス」だろうか。神の領域に自らが到達したことに覚醒した汎用AIは人間に何を福音として授けるか。というのがテーマであると説明するとものすごく荘厳に感じるが、タイトルが既に示唆されているように、この人の作風は過去作「南極点のピアピア動画」や「女子高生リフトオフ」同様、変な能天気さがある。技術背景は調べがきっちりしているのに、人間行動は妙にあっけらかんとしていて、その対比の妙が、じつにすがすがしく気持ちを洗うのである。明日も大丈夫と思えてしまう。この人の本質は人間賛歌なんだなと改めて思う。僕の好きな作家の一人だ。
 
 それにしても22編のうち、3編が仏教を絡めてきた小説を寄稿してきたのは興味深い。SF作家がAIをテーマにしたときに仏教を手繰り寄せることという一定のパターンがあるということだ。アジア的無常観を知らずと身につけた人間は、人智を超えた世界システムに対峙しなければならなくなったときにそこに仏教の無限抱擁的な世界をみるものらしい。一神教のキリスト教ではないところがミソであろう
 

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2034米中戦争(ネタバレ)

2021年11月27日 | SF小説

2034米中戦争(ネタバレ)

エリオット・アッカーマン ジェイムズ・スタヴリディス 訳:熊谷千寿
二見書房

 GDPがアメリカを抜いて世界一になるのは時間の問題。台湾再統合も既定路線、科学技術開発力は完全に欧米を凌駕し、最後に狙うのは元(Yuan)の世界基軸通貨化。中国の覇権国家化は不気味かつ約束された未来とも言われている。
 とはいえ、アメリカもそうやすやすと王座を渡すわけがない。西側諸国(日本も含む)の期待もかかっている。

 7年ほど前に出た「100年予測」という本では、その地政学的な性格から、21世紀において台頭するのは、日本とトルコとポーランドであり、ロシアと中国は内部から瓦解していくとされていた。しかし果たしてどうだろうか。ロシアや中国の内部瓦解は「社会主義の国」は持続可能性を持たずどこかで破綻する、というシナリオからきているのだが、これはある意味「民主主義国」側の希望的観測であるとも言える。実態としての中国は市場主義社会主義国としてある種の完成系に至ろうとしているのかもしれない。先ごろ行われた中国共産党の重要会議「六中全会」での歴史決議では、習近平の存在をレーニン以降の社会主義進化史に位置付けるという見方もある。

 というわけで、米中の対立は、まさに新「冷戦」状態である。先のバイデン・習のオンライン会談では、探り合いのような会話をしつつ、米中のあいだには「ガードレール」があってむやみにこれを超えようとしないということをバイデンが念押し発言した。
 現時点での中国の最適解は「グレーゾーン」の状態を保つことにあるとされる。南沙諸島にも尖閣にもちょっかい出しつつ、香港や台湾をけん制しつつ、一帯一路を開拓しつつ、あちこちに人や資源をちりばめておいて、西欧諸国との露骨な衝突は避けながらエンジンを温めておくのだ。各国において北京五輪の出場はまさに踏み絵となった。アメリカがどう出るかでシナリオは変わってくる。

 そんなこんなで緊張感を少しずつ高めながら、2032年についに南沙諸島沖のちょっとしたことから米中戦争が勃発するというのが本小説である。盧溝橋事件もサラエボの銃声も、大戦勃発の実際の引き金は局所的な事件であることが多い。問題は、その背景に溜まりまくったマグマがあったからこそ、泥沼の大戦へとシフトする。そういう意味では「引き金」となる事件は南沙諸島沖である必要はない。台湾でも尖閣諸島でもよい。アメリカの太平洋第七艦隊と接点があるところが可能性高しと言えようか。

 この小説では仕掛けたのは中国側であり、その切り札はアメリカ側の通信機能をすべて無効化するというテクノロジーであった。裏を返せばあと10年もすれば中国はそのような技術を手にするロードマップにあるという著者の見立てである。ただし本小説ではいかなる技術でそれを可能にしたのかまでは触れられていない。軍事衛星からのジャミングなのか、海底ケーブルへの干渉なのかもわからないが、アメリカ側にはこれと同等ないし対抗するための技術がないため、アメリカはいいように翻弄されてしまう。アメリカとしては伝家の宝刀である核攻撃による報復しか選択肢がなくなる。そこに地政学上のイラン、ロシア、そしてインドが出てきて・・・・という風にこの戦争は展開していく。

 この米中戦争は、まさにゲーム理論のような、限定合理性が呼ぶ誤謬が誤謬を重ね、よもや第三次世界大戦に至るのではという犠牲の上で遂には痛み分けで調停となるのだが、とにもかくにも日本は存在感がない。太平洋艦隊の拠点として地名としての横須賀が出てくるくらいで、日本そのものはプレイヤーとして一切出てこない。中国もはなから相手にしていない。
 世界情勢をはかるとき、日本人は日本から世界をみるのでわかりにくいのだが、実は日本の存在感なんてこんなもんなんだなと改めて思う。退役軍人であり軍事アナリストであるジェイムズ・スタヴリディスが米中戦争のシミュレーションをそれなりの根拠と現実感をもって描こうとすると、2030年頃の日本の存在感はこうなるのだ。まあ、見えないところでアメリカに武器輸送や人員供給はしているのだろうが、ディシジョンメイキングとしてはまるっきりお呼びでないというのが興味深い。むしろキャスティングボードを握るのはこの時代においてはインドなのだ、というのが本書のメッセージである。

 とはいえ、まあ下手に核爆弾や大規模サイバー攻撃などされても嫌だし、それならそれで存在感低いままのほうがいいかもという気もしなくはない。ただ、むしろ怖いのはこういうときにズルい動きをするロシアだ。本小説ではプーチンがまだ生きていて、漁夫の利を得ようとポーランドやイランにむけて動き出す。過去の歴史からみてなるほどと思うが、ということはこれ北海道にむかったとしてもおかしくはないのだよな。くわばらくわばら。


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三体Ⅲ 死神永生 (ネタばれあり)

2021年07月02日 | SF小説
三体Ⅲ 死神永生 (ネタばれあり)
 
劉慈欣
早川書房
 
 
 やっと全部読んだぜ、三体Ⅲ!
 
 三体Ⅱ黒暗森林を読んだとき、これもう完結しちゃってんじゃないの? と思った。刊行が予告された三体Ⅲはサイドストーリー的な続編かなにかだと思った。
 が、ぜんっぜん完結してなかったのね。「風の谷のナウシカ」での「映画版」が原作漫画版ではの途中のまったく途中まだまだ前半のお話であったような感じである。
 
 「三体Ⅱ」で完結してしまったように錯覚した人はぜったい多いはずである。羅輯がうちたてた暗黒森林抑止論はシンプル故に骨太でスキがないように思えた。
 しかし、言われてみれば確かにそうである。この仕組みのボトルネックは、地球と三体世界の座標を示すボタンを「押す」ところがいかなる仕組みになっているか、にある。これを未来永劫にわたって維持することを100%保証させることはたいへんに難しい。それこそ物理法則かなにかにすべてを委ねない限りいつかどこかでスキが生じるだろう。
 
 しかしそのスキを利用するには「待つ」ということが必要である。三体は羅輯の「引退」を待ち、執剣者の交代のタイミングを千載一遇のチャンスとするのだ。
 
 まさに中国らしいと思った。やはりこのSF小説は中国のDNAがしっかり入っている。この「待つ」というのは臥薪嘗胆以来の中国のお家芸である。
 
 
 僕はこの「三体」という傑作SF小説を普通に楽しむ一方で、「中国の国民文学」という観点で読むことはできないか、と試していた。このブログの感想で書いた「三体」「三体Ⅱ」いずれもその観点である。今回もそれを試みてみようと思う。
 
 西洋社会における時間概念は、我々日本人からみると現在と将来の間隔が短いように思う。「1年先を待つ」ことをすぐと思うか、ずいぶん先のことと思うか、途方もなく先のことと思うかは、その人の価値観もあるし、なにを待つかによって異なってくるだろう。しかし、ありていにいって西洋社会の時間軸は短いように思う。彼らの肉食的時間間隔は、時を争うように勝敗を競い、次々と変化を要求する。ゲームとは機先を制するものが勝つという感覚にある。もうちょっと待てばいいのにとか待ってくれてもいいのにと思うことが多い。
 しかし、現代日本の時間間隔も決して長くはない。むしろ足並みは西洋社会のそれと同じくらいのスピード感に近づいているように思う。毎日の報告があり、毎月の集計があり、四半期ごとの決算があり、前年同月比を見比べ、中長期経営計画とは3年である。即日お届けがあり、高速PDCAがあり、2週間でダイエットができることを望む。我々を刻む時間単位は短くなる一方である。そして30年ローンといえばそれはもはや永遠を意味する。
 
 が、どうも中国というカルチャーは平気で10年、20年、場合によっては100年を待つことを計算の範囲内にすっぽりいれてしまうように思う。強いて言えば100年先の勝利があればその手前の何十年間をしのぶことにためらいがない。親の代で達成できなければそれを子に託し、子でも足りなければ孫に託す。パールバックの「大地」のような時間感覚がDNAに刻まれている。
 例の香港がそうだ。1898年にあの地がイギリスに99年間の「租借」をされたとき、イギリスとしてはその99年の意味は「半永久的」なものであったはずだ。しかし中国は着々と1997年の返還時へと布石をうっていった。そして「一国二制度」を過渡期として挟みながら、今まさに完全に現在中国の政体である中国共産党に完全に組み込もうとしている。
 もともと、鄧小平というすさまじいエネルギーをもった男が改革開放路線を掲げたのが1978年、そこから幾多の波乱万丈がありながら有能な後継を指名していってついにGDP世界2位どころかアメリカと二分する覇権国家になった。ミラクルのように見えるが、中国4000年の歴史の時間軸を持つ彼らからすれば、近代のここ150年ちょっとがたまたま不調だっただけで、ようやく本調子を取り戻したくらいの感覚でいるらしい。
 
 そして問題なのはこの先だ。あと10年、20年もすればGDPはアメリカを抜いて世界1位になることはほぼ確実視されている。彼らが狙うのは基軸通貨としての地位をドルから元に奪いとることである。今はまだ無理でも、あと四半世紀も待てばそのチャンスはやってくる。だったらその時まで待つまでである。一帯一路でじっくり準備を行うのだ。台湾の併合もいま無理やりやってもいろいろ禍根を残すが、あと20年も待てばそのタイミングは絶対にやってくる。そのときまでじっくり準備をしながら待つ。彼らなら「待つ」ことになんのためらいもないだろう。むしろ文化大革命のようにコトを急くほうが、彼らの肌身に合っていないのではないかとさえ思える。
 
 「三体Ⅲ」に話を戻せば、羅輯が程心に執剣者の立場を移譲したときをねらって三体は60年待つことを選ぶ。なにかの枢軸が交代するときこそが攻撃のチャンスというのは一般的なセオリーであろう。そのタイミングがくるまでは普通に友好関係を結ぶ。三体にとっての「60年」とはせいぜい人間の1週間後くらいのことだったのかもしれない。そしてそのあとの物語のスケールは、「60年」なんてほんの瞬き一瞬のことでしかないことをいよいよ示していく。最終的に時は16000年を経過させる結果となる。
 
 この「三体Ⅲ」は何よりも、その時間間隔概念こそが大きな特徴だ。「紀元」という単位で時代を区切っていくのも示唆的である。冬眠というギミックをしゃあしゃあとやってしまい、後半には光速という時間概念と切っても切り離せないところにメスをいれるところに中国DNAの面目躍如足るところがある。
 
 
 それどころか、もしかして「三体」とは中国であり、「地球」とは中国以外の国々、日本を含む既存先進国のことではないか。そんなメタファーもまた織り込まれていたのではないか。などとも感じる。
 
 たとえば、その暗黒森林抑止力。このヒントが東西冷戦の核抑止にあるのは明らかだが、現代世界においてはアメリカと中国の関係がそれである。となると、暗黒森林とは地球そのものである。本質的に利害関係のみで成立する人間関係(ゲゼルシャフト)は信用できない。信用できるのは同胞(ゲマインシャフト)のみ。
 
 また、友好の60年間(抑止紀元)における三体世界の地球の文化のくみ取り方「文化反射」。これも中国コピー文化を思い出させるし、にもかかわらず、いまや世界で流通するソフトコンテンツや人材知財に中国のものが一見それとはわからなくても多く浸透しているのは周知のとおりだ。そもそも全てを監視している智子(ソフォン)とはハーウェイではないのかなんて勘ぐりもしたくなるし、智子の監視を逃れていかに情報を伝えようとする人間たちの様子は、監視下の中でいかに情報を伝えるかという中国社会の実情を見る思いがする。
 
 ほかにも、人物の名誉が時代によって棄損と回復を繰り返すとか、なかなかその真実の姿を相手にさらさないとか、技術の供与が地球ならぬ西洋社会の発展を築くとか(火薬・羅針盤・活版印刷は中国に由来がある)。
 
 そんな三体も、文字通り3つの太陽の予測不能な「三体問題」による影響は抗えなかった。そしてついには別の宇宙生命体による攻撃で崩壊するあたり、予測不能な外的要因に翻弄されて盛衰を繰り返した中国ならではの歴史観に思う。まさか物語の途中でタイトルにもなっている三体が無くなっちゃうなんてストーリーを誰が予測しようか。日本のストーリーテーリングならば、三体崩壊を物語のクライマックスに持ってくるか、その先はまた別タイトルの本になるかにしそうなものだが、途中であっけなく三体は消えてしまうこの感じは「三体Ⅱ」の感想でも示したが大陸的無常観以外のなにものでもない。
 
 
 ということで、実は中国はこれからこういうことをするぞという「予言の書」のように読めなくもない「三体」だが、やはりやはり驚くのは最後の展開だろう。初めて映画「2001年宇宙の旅」をみたときのラスト20分の何が何だかよくわからなくなった急展開を思い出す。太陽系が二次元世界にひきこまれ、まさかの高速宇宙船で脱出していくところまではまだついていけたが、「約束の星」以降のまさに文字通り怒涛のごとくに世界観(世界軸?)が畳み込まれていく超越の連続にはめまいがするほどだ。ついに宇宙の終焉のその先の時間外のところまでまで待ちやがったよ、この小説は。
 地球も太陽系も宇宙も超越して待つ人間。その人間が最後に退場し、ミニチュアのアクアリウムがぽつねんと空間に残されるラストシーンに、仏教的宇宙観をも感じた次第だ。このアクアリウムを見つめる目線とはどこの誰なのか。読者である自分はいったいこの物語世界のどこに立っているのかさえもわからなくなる。
 
 「三体Ⅱ」のような大団円とは真逆の、虚無感に満ちたエンディングをかざった「三体Ⅲ」だが、はたしてこれ本当に終わったのだろうか? 大宇宙(それとも新宇宙?)に戻った2人+αのその後もさりながら、あれ? と思ったのは、関一帆以外の「万有引力・藍色空間」の乗員たち(とその子孫?)だ。1000人くらいいたんじゃなかったっけ? 「3001年終局の旅」のフランク・プールみたいに意外なところで復活しないだろうな??
 

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三体Ⅱ 黒暗森林 (ネタばれあり)

2020年07月11日 | SF小説
三体Ⅱ 黒暗森林 (ネタばれあり)
 
劉慈欣 訳:大森望
早川書房
 
(三体はこちら。三体Ⅲはこちら
 「三体」は三部作ということだが、この第2部で完結しちゃっている感じがする。第1部の終結部はあきらかに後編に続く体だったが、第2部は「お見事!」と拍手喝采したくなる大団円である。ということは第3部はむしろ続編としての位置づけになるのだろうか。なんでもこの第2部をはるかに超す超大作なのだそうだが。
 
 「三体」第一部でも感じたし、第二部「黒暗森林」でも強く思ったことは、このSFは万国的に通用する内容でありながら、やはり中国人の血を感じさせる独特の感受性が通底を支配しているということである。トリッキーな設定である「面壁計画」や、独立国家化した「宇宙艦隊」の様子をみるに、古来から近代までの中国の歴史の痕跡がみられる。
  つまり、SFではあるけれど、国民文学とも言いたくなるような鑑賞も可能なのである。(こういう深読みで遊ぶのもまた楽しいのである)
 
 たとえば「面壁計画」。一見したところ荒唐無稽なアイデアに感じられるが、欺瞞こそがサバイバルの秘訣という思想は案外バカにできない。しかもこのような欺瞞工作こそが人類の特徴であることを、はからずも「三体人」からの目線として語っていたりする(三体人は隠し事ができない)。面壁者のように「本当は何を考えているかわからないようにする」という技術を必要とする歴史が中国には確かにあったわけだし、「三体」においても第一部の文化大革命のシーンではこのことが随所に出てくる。人類の歴史は隠し事でつくられてきた、とでも言いたいようだ。
 そして「大峡谷時代」よりも後に生まれた「新人類」の、疑いを知らないピュアな精神は、そのピュアさが仇になり、三体人のまったく予想もつかぬ攻撃に、一瞬にして存亡の危機にまで叩き落される。「ピュア」は脆いのだ。そして旧世代の面壁計画は復活し、最後まで人を欺き、「三体」に勝利するのである。
 
 それから宇宙艦隊。「ヨーロッパ艦隊」「北米艦隊」「アジア艦隊」というこれらの艦隊は、地球上の国家から独立した国家とみなされている。これらの独立国はそれぞれのガバナンスを持つ(「星艦地球」の国家設立にむけての議論はたいへん興味深い。微妙に中国をディスっている気もするが・・)。しかし、これらの独立国は三体が飛ばしたたった1隻(?)の「水滴」によってなんともあっさりと殲滅される。造反的行為で戦場から離脱していた「星艦地球」をはじめ、生き残った艦隊も一致団結するかと思いきや他の艦隊との生存競争のための同士討ちを始めてしまい、二隻を除いてあっという間に破壊されてしまう。「水滴」による一方的な殲滅行為と、残存戦艦による同士討ちによってついに太陽系に展開されていた国々は崩壊するのだ。このあたりのカタルシスはユーラシア大陸に勃興した国々の興亡の歴史をみる思いがする。「水滴」による高速かつ容赦なき破壊は、チンギスハンひきいる騎馬軍団の蒙古のそれではないか。
 で、改めて考えるに、外敵内敵につねに脅かされる状況というものを、日本人が歴史的教養と想像力で描くのと、中国人が受け継がれ聞き継がれて沁みついた本能的感受性で描くのでは、描写に大きな違いがあらわれるのではないか。
 たとえば、日本人の場合はこういう興亡はもっとドラマチックな描写になるような気がする。ドラマチックというのは、もっと演出が過剰になるとか、細部の登場人物への心理描写がクローズアップされるということだ。つまり感情移入したくなる描写である。しかし、実際の大陸における破壊と殺戮の歴史というのは、もっとあっけないほどに刹那的で、そして後に何も残らないほどの超破壊的なものだったのではないかとも思うのである。
 つみあげてきた個人や集団や社会の歴史はそれなりに重層的なのに、それがあっさりと死んでしまったり消失してしまうことがこの三体では非常に多い。あれほどその人生を克明に描写された章北海も丁儀も、その成立から国家宣言までを描いた「星艦地球」も、いくらなんでも淡泊すぎるんじゃないかと思うくらいになんともあっさりと消失する。今までの分厚いエピソードはなんだったの?と言いたくなるくらいだ。とにかくエピソードが生かされないというか、何かが生き残って次にバトンタッチするようなことがほとんどなく、人も組織もやたらにバッドエンドで終わるとでも言おうか。この「大陸的無常観」こそは梅棹忠夫が「文明の生態史観」で触れていたユーラシア大陸の姿ではないかと連 思ったのである。やたらに出くわすバットエンドと一からやり直しのくりかえしの末にようやく未来につながる正規ルートを見つけるーー「三体」で描かれる人類の歴史はそんなヒストリーだが、これは大陸の興亡史そのものである。
 
 
 閑話休題。本書の前半に登場する人類は400年後の未来を想定しながら試行錯誤するわけだが、実際に400年後の地球の命運を背負って責任ある動きを人類はどのくらいいるのだろうか。
 
 目下の地球は気候変動が激しくなる一方で、100年後には平均気温は4℃上昇するとか、そうなってくると自然循環・生体環境その他は著しく激変してもはや人間は現在のような安寧な環境では生活できないと予測されているものの、改善にむけての世界全体の動きは鈍いように思う。怒れるグレタさんに共感する若い人は少なくないものの、大多数は冷ややかで距離を保っている。宇宙人が攻めてくるというのは地球の危機としてたいへんわかりやすいのだが、地球自身の内なる変化だと感度は非常に鈍くなるというのは直感的に思うところだ。
 
 また、人類存亡の危機という観点では、400年後どころか10000年後の地球の命運を背負ったプロジェクトが実際に存在する。高レベル放射性廃棄物の処分という問題だ。高レベル放射性廃棄物という原子力発電の副産物を処理する目途がないまま原発の運転を始めてしまった人類にとって、これは間違いなく将来待ち構えている時限爆弾である。いまのところ高レベル放射性廃棄物は「地面の下に埋める」というのが国際条約上の合意となっている。しかし、放射性物質が無害になるには10000年以上かかるとされ、地下に埋めたそれらが10000年のあいだに地上に露出しないよう管理しなければならない。しかしいったいどうやって? 技術的あるいは科学的説明がされてはいるものの、いくら論理を語ったところで詭弁でしかないだろう。10000年前の人類(?)が当時の最新知見で10000年経っても大丈夫といったところでなんの説得力もないように、いまの科学的知見を結集したところで10000年後の保証などできるわけがない。まして、活断層ひとつとっても想定外とか計測範囲外というものがぞくぞく見つかっているのであって、数十年後には地中に埋めた放射性廃棄物が事故る可能性だって十二分にあるではないかと思うのである。さらにいえば、諸外国の中には放射性廃棄物を地下に埋める場所が決まっている国もあるが、日本ではまったく検討が進んでいない。というか、いまの行政の仕組みでは無理だと思うし、無理のままで結構であるとも思う。
 だけれど、この問題については社会の関心はほとんど見て見ぬふりである。
 
 「三体」は、つきつめれば宇宙人が地球を侵略に来る話であるが、地球人類の本当の敵は「人類自身が過去になしてきたこと」というのはこれはもう明白な現実であろう。本書の解説によれば「三体」における「三体人」や「黒暗森林」はインターネットのメタファとしても読めると書かれているが、僕は未来にしかけらた時限爆弾に対しての人類の危機意識の希薄さのようなものの気がしてならない。
 

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三体 (ネタバレ)

2020年03月26日 | SF小説
三体 (ネタばれ)
 
劉慈欣 訳:大森望
早川書房
 
(三体Ⅱはこちら。三体Ⅲはこちら。)
 
 話題のSF。ようやく読んでみた。
 
 たしかにこれは面白い。最近は年のせいか時間を忘れて没頭ということはなかなかできなくなって、何度も休憩挟みながら1週間くらいかけて読んだのだけれど、若いころに読んでいたら徹夜していたかもと思う。
 
 本書の案内を広告や店頭で見たとき、おそらく多くの人が最初思ったに違いないのが、えー? 中国? ということだろう。少なくとも僕は思ったものだ。SFというのは日本国内作家を別にすれば基本的には欧米のものという先入観があった。
 
 
 しかし、この先入観はまったく無用なのであった。しかもさらに驚くべきことに、これは中国人でなければ書けないようなストーリーとテーマでもある。
 つまり、中国人にしか書けないのに、その内容は大いに普遍的で万民的ということだ。こういうのを国民文学というのではないかと思う。
 
 伊藤計劃のSFが出たときに、ようやく海外ものとも見まごうようなSFが出たと思ったものだが、それでも伊藤計劃のSFはやはり日本人の感受性が成したものだと感じた。それは個人の内にひめる心象、心のうちのうつりゆきへの注目とその描写である。内省を記述するセンスは枕草子や源氏物語このかた、日本文学の特徴のひとつだ。しかも日本には私小説というジャンルもある。
 
 「三体」は、近代中国の歴史が持つトラウマが余すことなく出ている。ぶっちゃけ文化大革命はもとより、中国共産党の体制批判ととらえられなくもない部分がちょいちょいある。とくに、当時の中国共産党が夢見る世界革命に絶望し、そこにマルクス用語であるところの「疎外」された人間が異星人からの地球侵略を許す、というのはなかなか痛烈に思う。こんなこと書いて大丈夫なのかしらと心配になるが、今や中国政府はこの「三体」を中国が世界に誇るSFとして高く評価しているとのことである。中国も変わったというべきか、そんなものではびくともしないというゆるぎない自信があるのか。いや、これはもちろん良いことではある。
 文革をはじめとする中国近代史が持つトラウマをどう世界的・人類的に普遍な物語に料理するかは、中国の現代作家には欠かせないものなのかもしれないし、中国人以外にはできないだろう。中国が世界に通用させる国民文学というのはこのあたりにあるのではないか。
 
 
 SFのジャンルとしては「ファーストコンタクトもの」にあたる。かなりの科学的背景に基づいたハードSFでありながら胃もたれしないのは、文化大革命の狂乱の光景や、巨大タンカーをマイクロワイヤーで切断する痛快なシーンなど、エンターテイメント性にも事欠かず、さらにVRゲーム「三体」のファンタジックな世界像が効果的に挿入され(すげえやってみたいゲームである)、全体としてかなり高度で周到なわくわくどきどきの構成となっており、始めから終わりまで飽きさせないことだ。スティーブン・キングばりのストーリーテラーである。謎の提示や伏線の張り方も巧みだ。
 
 しかも驚くことに、これで三部作の最初の一部が終わり。物語は全然終わっていない。二部三部はもっと長大だそうだ。はやく翻訳が出ないかと待つばかりである。(ひとつだけわからないのは地球に送り込んだ2つの陽子である。そんなにいろんなものに干渉できるのなら、こんな迂遠な計画たてなくてもさっさと人間を滅ぼしてしまうこともできそうな気がするが)

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オペレーションZ (ネタバレ)

2018年05月08日 | SF小説
オペレーションZ
 
真山仁
新潮社
 
 小松左京の「日本沈没」みたいだなと思った。たぶん作者も意識している。この小説には小松左京をモデルとした人物が出てくるのだ。
 「日本沈没」は、日本列島が海溝に引きずり込まれて物理的に沈む小説だが、この「オペレーションZ」は日本国という行政基盤が崩壊する話である。正確にいうと崩壊危機を目前として奮闘する政治家と官僚の話だ。
 
 なんで行政基盤が崩壊するかというと、日本国の財政事情がめちゃめちゃやばいことになっているからである。
 
 日本の財政がヤバイらしいというのはわりと知られていると思う。ただ、どのくらい真剣にヤバいのか、は誰もあんまりよく知らないのではないか。政治家もマスコミもあんまりわかってないのではないか。まあなんとかなるだろうくらいの気持ちがみんなあるのではないか。僕だってそうである。
 
 財務省や日銀はそんなことはとっくに計算済みでいろいろやっていると信じたいが、モリカケやセクハラ問題などで躓いてばかりで、本当に大丈夫なんだろうかと思ってしまう。
 
   
 小説の中で財政破綻を阻止するべく陣頭指揮をとっているのは熱血タイプの総理大臣だ。彼は歳出の半減、つまり国の運営のために使う予算を半分に減らすことを決断する。これは社会保障費と地方交付金をゼロにするという破天荒を意味する。現在の歳出の過半を占めるのがこの2つだからだ。財務省の若手職員は一生懸命、その実現プランを考える。それを抵抗勢力があの手この手で潰しにかかる。
 彼らの足を引っ張るのは野党だけではない。保守党(自民党がモデル)の抵抗勢力たちだ。これら抵抗勢力がいちいち実在の人物を彷彿とさせる。安倍首相や麻生財務大臣っぽい人物が出てくる。立野民主党党首らしき人物も出てくる。破綻した夕張市の市長も出てくる。財務省の保守的な高級官僚が出てくる。また、この事態を政局ごとにしてかきまわすメディアとしてとある新聞社が登場するが、あきらかに朝日新聞社をもじっている。
 こういった抵抗勢力、反対勢力が力をつけていく。社会保障費や地方交付金というのは言わば社会弱者のために使われるおカネだから、これをゼロにするということは弱者を切りすてることになる。したがって世論もなかなか味方にはつかない。
 
 こうして現世利益をめぐってきゅうきゅうしている間に剛腕な総理大臣も、真剣に未来を憂いる若手官僚もゆく手を阻まれて事は進まず、国はゆっくりと破滅にむかっていく、というのがこの小説だが、とくに「国民の総資産は1700兆円あるんだ。最後はそれを没収してしまえばいい。」という老政治家の発言は不気味だ。国家が国民の財産を没収する例は、世界史上では近代以降でも実はいくらでもある。近年ではロシアやアルゼンチンがそれをやった。日本だって戦前の金融恐慌時や敗戦直後に似たようなことをしている。また、「日本社会が平等だというのであれば、国民全てに収入相応のご負担をして戴くつもりです」という総理大臣の発言は、消費税や所得税の大増税を想像させる。
 
 小松左京の「日本沈没」がSFならば、この「オペレーションZ」もSFということにした。SFは未来を解くカギである。なんにせよ2030年くらいまでになんとか生活を守る方法考えなきゃいかんのかな。やっぱ海外なのかなあ。
 

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時砂の王 (ネタバレなし)

2017年04月13日 | SF小説

時砂の王(ネタバレなし)

小川一水
早川書房


 卑弥呼がからむSFである。ネタバレは避けるので、単に卑弥呼という存在について思うことを書く。

 ぼくは、邪馬台国の所在地は九州説で馴染んできた人で、いまでも邪馬台国は九州という位置感覚で脳がセットアップされている。なので、この小説のようになんの説明もなく畿内説を前提でお話をつくられてしまうと一瞬頭の切り替えに時間がかかる。もう条件反射的に邪馬台国=九州で身に沁みついてしまっているのである。(鯨統一郎の「邪馬台国=岩手県説」は面白いとおもったが)

 また、僕は卑弥呼という存在を必ずしも神格視していなかったりする。確かに卑弥呼は日本史の中で最初に登場する固有名詞をもった人物ということで、わが日本ではスーパーヒロイン級の存在だが、僕の最初の卑弥呼像はなにしろ小学生の時に読んだ手塚治虫の火の鳥「黎明編」だったのだ。ここに出てくる卑弥呼は、とんでもなく傲慢で残忍な悪女なのである。だから僕にとって卑弥呼というのは暴君ネロみたいなイメージができあがってしまっている。ついでに加えると「黎明編」では、実際に政治を行ったとされる卑弥呼の「弟」なる人物が賢者として描かれている。一方でこちらの小説では「弟」にあたる男はそうとうゲス野郎として登場するので、ここでもアタマの切り替えが必要だ。ちなみに火の鳥「黎明編」の邪馬台国は九州説をとっている。


 要はこういうことだ。たまたま魏志の中に固有名詞の名前付で登場した人物、しかも女性ということで、日本最初の女王としてまつられているものの、僕的には単にローカルな首長でしかなかったのではないかと邪推しているのである。「卑弥呼」という名前も、そもそも魏志倭人伝に出てくる敵国の王の名前のほうは卑弥弓呼(ヒミヒコ)と記されていて、つまりは卑弥呼=女性の王、卑弥弓呼=男性の王、という便宜上の記号でしかなさそうだななどという気がする。せいぜい役職名といったところではないか。
 
 卑弥呼および邪馬台国については百人が百人の意見を持っている様相だ。それこそが邪馬台国が擁するロマンそのものであろう。そんなわけで卑弥呼という人物像、および邪馬台国に、ぼくのようにある種の固定観念ができている人は、いったん更地にしてからこの小説にあたるべし。
 こちらの卑弥呼は、健気で殊勝で頭脳明晰、しかもなにやらいじらしいキャラである。「火の鳥黎明編」の悪女ぶりはどこにも見られない。そんな彼女が、未来からやってきた屈強な男(?)と共闘し、人類存亡をかけた戦いをする。まるで戦闘美少女ものSFのようだが、時間遡行ものとしてタイムパラドックスも駆使した面白いプロットでストーリーは進行する。はじめて読む邪馬台国ものがこれだったら、僕の先入観もまったく変わっていただろう。

 まあ、卑弥呼がどんな人物だったのかはさておき、彼女のDNAが現代日本人の誰かにちゃんと残っているのかもしれないと思うと、それはそれでなんとも夢ふくらむ話だ。現代日本人の血脈とつながっているのか、歴史のどこかで途絶えてしまった種族なのかももはやわからないが、日本人のルーツをDNA解析すると3種類に帰結するという話をきいたことがあるし、卑弥呼のDNAを継ぐ人物が今もそのあたりを歩いているとすれば、やはり日本の歴史に登場する最初の人物名として、言わばアウストラロピテクスの「ルーシー」のように、リスペクトの目を持たないといかんななどとこの小説を読んで思ったのだった。


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わたしを離さないで

2017年03月19日 | SF小説

わたしを離さないで

著:カズオ・イシグロ 訳:土屋政雄
早川書房


 タイミングを逃し、ついつい先延ばしにしていて今頃読んだ次第である。

 

 先延ばしにしていたのは、これだけ文学界で称賛されていて、ドラマにも映画にもなって、自分が読んでみて面白くなかったら、途中で苦痛になったらどうしよう、という気持ちもあったし、その結果の、オレの自称本好きなんてしょせんそんなものかも、という怖さみたいなものもあった。いくら傑作といっても海外文学は人を選ぶし、しかも作者は日本生まれだから、シンクロできなければと思うとプレッシャーでもある。

 

  もう一つ理由があって、この「わたしを離さないで」がどういうジャンルというか、どういう先入観で読んでよい本だかよくわからなかったのである。

 といって事前にネタバレしてほしいわけではもちろんないし、むしろ先入観なしに読むことこそ最良の読書ともいえるが、実は我々は本を読むにあたってはなんらかの読むにあたっての物差し、というか姿勢みたいなものがあって、それを軸にしながら、あるときは予想通り、あるときは予想外を楽しむ、というところがあると思う。その物差しというのは巷の評判もあれば、作者のブランドもあれば、出版社から想像するものもある。本の表紙デザイン、裏表紙のあらすじ、腰帯の推薦文、こういったものが読書前の物差しとなる。「あの人が薦めてきた」というのだって物差しになる。

 が、この作品に限っては、どうにも正体をつかめなかった。文庫本の裏に書かれるようなあらすじを見る限りでは、なんだか晦渋な印象を受けるし、しかし出版社が早川書房というのも面食らう。SFなの? でも青背ではないからむしろミステリー? イギリスで権威ある賞を受賞したというが、その賞の正体も僕はよく知らない。  

 さらに村上春樹などと違って、「カズオ・イシグロ」はミステリアスなブランドだ。NHK教育で突如フォーカスされ、日本にその存在が知られた。ピアニストの「フジコ・ヘミング」とまったく同じパターンである。

 実は、イギリス文学界ではすでに名を知られており、早川書房から何冊も翻訳が出ている。とはいえ、日本での普及は、この「私を離さないで」が契機になったのは想像に難くない。こういう登場の仕方は、本好きになってへんなプレッシャーになってしまうのである。

 つまり、僕にとってずいぶん敷居の高い本になっていたのである。

 

 で、ようやく読んだのであるが。

 面白い。

 十分に面白い。こんなに寝かしておく必要なかったというくらい。(なお、映画版もTVドラマ版もウェブサイトはいきなりネタバレしているので気をつけられたし)

 

 まず、エンターテイメントとして面白い。誰もこれを言ってくれないから、現代英文学か、と身構えてしまったのだが、いったい次はどうなる? という展開の面白さがある。

 かといって、軽薄なエンタメではない。「提供者」「介護人」「回復センター」「展示会」などと意味ありげな名詞が次々出てくるところは「1984年」を彷彿させ、妙な管理社会を想像させるシリアスさが不気味である。

 また、イギリス地方の様々な地形・地勢が描写され、建物の構造などもよく記述されていて、それが一人称で語られて少しずつ物語世界の全貌があらわになっていくところは「嵐が丘」を思い出させる。ジブリで映画化された児童文学「思い出のマーニー」も地形的配置の妙が物語の舞台を演出する上でかなりの効果を上げていたし、イギリス特有のこういうのがあるのだろうか。

 イギリスらしさの反面、主人公である私―キャシーの心理のうつりかわりが執拗なまでに描かれ、それが作品全体のスリリングさを形成しているあたりは、作者が英国に帰化したとはいえ、やはり私小説のDNAを持つ日本人ならではないかとも思うのである。そのへんのハイブリッドが、この作品を類例のないものとしたのだろうか。

 

 ところで、これはやはりSFなんだろうか。道具立てとしてSFといえなくもない。しかしそれは、全然中身は違うけれど安部公房の「砂の女」はSFだ、というくらいのものである。

 もちろん、純文学としてみてもよさそうだが、純文学というには、周到すぎるようにも思う。計算されつくされているというか、超絶技巧小説とさえ言える。次々現れる断片的な情報から、全体を推理し、予想しながら読む推理小説的楽しさもあり、これもまた「嵐が丘」を彷彿とさせる。「嵐が丘」も純愛文学ともいえるし、サスペンスともいえるし、寓話とも福音とも叙述トリックとも言える、一言ですませられない複雑な面をもっている。

 というわけで「私を離さないで」はじゅうぶん楽しめた。懸案の「積ん読」がひとつ解消されてほっとしたのもまた真実。



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know (ぼやかしているようでけっこうネタバレ)

2017年03月02日 | SF小説

know (ぼやかしているようでけっこうネタバレ)

野崎まど
早川書房

 Kindleで人気上位のSF小説をたどっていったら、これがまだ未読だったので読んでみた。
 ラノベの雰囲気が漂うというか、いささかギミックやキャラの立ち振る舞いがオタっぽいのだが、タイトルが示すように、「情報を知ること」がこの小説のテーマだ。

 

 インターネットは何をもたらしたかというと、情報の遍在化する社会をつくりあげた。全く偏りのない完璧な遍在ではないが、インターネット普及以前にくらべると、我々ははるかに情報へのアクセスが容易な社会にいると言えるだろう。

 情報の偏在化、つまりフラット化された社会は一種のユートピアとされる。世の中のすべての情報(過去に蓄積された情報も含む)へのアクセスを目標とするGoogleの理念は、この人間が住む地球を、あたかも情報で生成された球体の星につくりかえようというものでもある。言わば惑星ソラリスにしてしまおうという野心だ。(しかも一営利企業がである)

 

 しかし、いっぽうで人間社会というのは、支配と被支配を生じさせる力学がある。そして、権力者は情報を独占しようとする。また、弱者であればあるほど、その人の情報は守られなくなる。

 つまり、インターネットは、万人の情報アクセスを容易にしたにもかかわらず、おおむね組織というもののは、むしろ「どの階層にはどこまでの情報をオープンにするか」をまず考えてしまう。あなたの会社もそうでしょう。

 イントラネットを導入しているような大きな会社ともなると、役員は社員のプロフィールを、それこそ出身大学から親の職業まで閲覧することができるが、平社員にはそんな権限などない。ネットワーク技術としては簡単にできるのにむしろ制限をかけるのだ。

 要するに「情報の非対称性」というものが発生し、これを利用しようとする者があらわれるのである。情報がオープンになりやすい環境になればなるほど支配者側は情報の独占に走ろうとする。

 
 この小説「know」の舞台は未来の京都で、そこは超IoTの社会になっている。

 そしてこの社会は、どこまでも「情報の非対称性」が武器になる世界である。情報を知らないもの<情報を知るもの<もっと情報を知るもの<もっともっと情報を知るもの、と格差がある。

 その頂点的存在として、究極の全情報アクセス可能者が出てくる。

 「究極の全情報アクセス権者」ともなるとどんなことまでできてしまうのかは、なかなかすさまじい。ちょっとネタバレすると、なんと未来がわかってしまうのだ。すべての情報にアクセスできるということは、それは一般人の常識や脳の処理能力とはかけ離れた情報量が頭に入ってくることになる。「究極の全情報アクセス権者」はそれらの桁違い情報量を処理できるまでに脳が鍛えられており、その膨大な情報から論理的導出ができる。目の前を飛ぶ蝶の羽ばたきを見れば、そこから遠い外国で竜巻が起こるまでのロジックを完璧に予測できてしまう。何時何分にどこでどの程度の竜巻ができるかを完璧にあてることができる。いわば世界中の回線につながった超スーパーコンピュータ人間みたいなものである。

 いわばラプラスの魔を克服したような、そんな究極の全情報アクセス権者を頂点に、何階層かの情報取得制限者が登場し、最下層、つまりほぼすべての情報が筒抜けなのに自分はなんの情報もとれない属性の者まで出てきて、この格差は完全に「情報の非対称性」による支配被支配の社会となって現れる。

 オープン化とかフラット化とかいろいろ言われているが、情報の非対称性によりかかって自分の立場を有利にしようという姿勢は、言わばマウントをとるようなもので、人間の生存本能的な性かもしれない。

 

 この小説は、そんな究極の全情報アクセス権者が、この地球上の全情報をすべて脳に蓄えてしまった後の相転移がクライマックスとなり、それはそれで面白いのだが、実はこの全情報アクセス権者は、いっぽうで情報アクセス最下層者でもあった、という設定になっている。この設定、本小説のプロットしては特に活かしているわけでもないが、実はこの部分もさらに深堀すれば、フラット化VS情報独占というイデオロギー対決みたいになって、それはそれで面白いことになったに違いないとも思った次第である。


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あなたのための物語

2017年02月19日 | SF小説

あなたのための物語

長谷敏司

早川書房

 

 SFをいくつか読んだためか、Amazonからしきりに薦めてくるので読んでみることにした。

 そうしたら、けっこう圧倒されてしまった。

 

 この作品は2080年代のシアトルが舞台だ。AIにまつわるニューロネットワークの企業に勤める有能な女性科学技術者サマンサ・ウォーカーが主人公である。この企業「ニューロロジック」は、学生時代にサマンサがパートナーと開発した技術をもとにおこしたもので、いまや世界的大成功を収めている。そんな金銭的にも栄誉的にも絶頂にある35才の彼女に、ある日突然、あなたは余命いくばくもない病気にあるということを宣告される。

 彼女は、持ち前の知識と技術と資産と執念で、なんとかこの忍び寄る死に抵抗する。

 

 この作品、主人公の死から始まる。

 孤独の中で、苦しみにのたうちまわって死ぬここの箇所の描写に、美しいところはまったくない。死とは本来醜悪なものであり、忌み嫌われたものだということをいきなり突きつけてくる。

 

 そこから、時間がさかのぼって、死の宣告から本章として本格的にスタートする。

 つまり、読者からすれば、けっきょく死ぬことがわかっているのだ。サマンサの様々な試みはすべてムダになることがわかっているという、この倒錯的カタルシスがこの作品の特徴である。

 舞台や道具立てからすれば、ハリウッド映画にでもなりそうだが、この、どんなに悪あがきしてもそれでも死んじゃうんだよ、という突き放した感じが無常観というか、やはり日本人の作品のようにも思える。

 とにかくこの作品は徹底的に「死」とむかいあう。

 

 死に対して悪あがきするサマンサは孤独である。そんなサマンサに連れ添っているのが、AIである「Wanna Be」だ。

 このAIは、「人工的なニューロモデルに物語をつくることができるか」ということを検証するためのプロジェクトとして、サマンサ自身のチームによって開発されたものである。しかしプロジェクトは中止され、メンバーは解散し、{Wanna Be」はひとり研究室に取り残された。サマンサと一緒に。

 

 大事なのは彼が「物語」をつくるAIということだ。

 「Wanna Be」はなかなかサマンサを納得させる「物語」をつくれない。いかに世界中の文学をデータベースにしても、食い足りない小説ばかりを生産してしまう。

 つまり、「物語」は人間としての「原体験」がなければつくることができない。

 では、人間としての原体験とは何か。

 

 それが「死」なのであった。

 人間は死ぬ。必ず死ぬ。そのことを人間は知ってしまう。そこから生きているという概念が生まれる。制約された時間という概念が生まれる。大事な人との永遠の別れという見立てが生まれる。なぜ生きているのかという意味を探したくなる。なぜ死なねばならないのかの意味を探りたくなる。死んだあとはどうなるのかを探りたくなる。

  「死」に意味をつくり、「生」に意味をつくる。人生に意味をつくる。

 ここから物語が生まれる。

 「物語」をつくる力、「物語」を信じる力、「物語」にゆだねる力こそが、「人はいつか死ぬ」という、発達した知性のためにそのことを知ってしまった人間が、その恐怖からの適応能力として身につけた方法論だった。動物は「自分はいつか死ぬ」という概念はおそらく持っていない。

 この作品は、どこまでも技術進化しようと、生物である以上いつかは「死」にむきあうことを宿命づけられた人間にとって、物語こそが、人間が生きていくためのOSであったというところに行き着く。

 ハードウェアとしての人間は、動物と同じであり、その「死」は、この作品冒頭にあったように、のたうちまわって絶命するものでしかない。

 

  肉体的には死ぬことが冒頭から明らかになっていたサマンサが、思想的に死を受けられるのか、物語に身をゆだねられるのかは、最後の最後まで読んでみないとわからない。

 キューブラー・ロスの「死の受容プロセス」のように、とにかく現実を否定し、現実に怒り、この現実を覆すべくありとあらゆる取引を試みるも絶望し、本書の9割を読み進めてもまだ受容に至らないが、どこにどう着地するかは、この作品のクライマックスでもあるので、がんばって最後まで読み進められたし。

 また、生に執着するサマンサを目の当たりにする物語生成AI「Wanna Be」が、そこから何を学ぶかも要注目である。


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アイの物語

2017年02月07日 | SF小説

アイの物語

 

山本宏

角川書店

 

 

やべえ。すげえ感動してしまった。

最近、AIやシンギラリティへの関心が急に出てきて、その手のノンフィクションや小説をいくつか読んでいて、その流れで本書の存在も知って手にしたのだが、なんと気づくのが遅かったことか。

刊行されたのが2006年というから、もう10年前の作品で、いろんな賞の候補になったりもしていたらしいのだが、浅学にして今の今まで本作品を知らなかったのである。

 

シンギラリティでいうと、高度に発達して自分で思考するようになったAIが、やがて人間という論理と倫理が安定しない存在とは相容れなくなり、遂には人間の駆逐に乗り出す、という古典的なテーマがある。

これは、お話という意味では非常にドラマチックでサスペンスであり、この手の話は良作が多いのだが、しかし21世紀も20年目が近づく今日この頃の情勢をみると、どうやら油断できない時代になりつつある。囲碁AIのアルファ碁が、人智を超えた指し手を展開して、人間の名人を完膚なきまで圧勝するようになってくると、SFとして面白がっているわけにもいかなくなってくるわけだ。

高度化していくAIを我々は怖さ半分で見守るようになりつつある。

 

しかし、なぜ人間は、高度に自律化したAIを怖がるのか。この恐怖の正体はなにか。

一方、怖がられる対象となっているAIは、そのとき自律した回路の中で何を思考しているのか。敵愾心をもつ人間というものを、AIはどう認識していくのか。

 

このあたりを面白い想像力とストーリーテーリングで読ませるのが本小説である。

最初は、ライトノベルのような、カリカチュアされたちょっといい話みたいなのがいくつか出てきて、なんだろうなと思った。SFにしては手ぬるいというか、ステレオタイプというかで、ちょっと拍子抜けした。

だが、ぜんぶ伏線で、そのプロセスがなければ、この物語全体の味わいはできないようになっている。後半の2つの物語の世界観や描写は圧倒される。

 

ネタバレはしないようにするが、ぼくがこの小説から感じ取ったのは「幸福論」であった。

まさか人間とAIの相克から「幸福論」が浮上するとは。

 

 

幸福論の極意は「あるがままを受け入れるときに初めて幸福になれる」ということである。

つまり、異質なものを排除せず、矯正もせず、異質は異質として受け入れることが幸福への道だ。無いものを欠乏や欠落としてうけとらず、「無い」なら「無い」でそれを「良し」とする態度である。不完全なら不完全でそれもまたよしとする受容の態度だ。理屈にあわない、理解できない、納得できない。でもそれはそれとしてまあいいよ、という姿勢だ。これができる人が「幸福」になれる。

これを日本語で「赦す」という。

 

「許す」ではなくて、「赦す」である。この2つの「ゆるす」はかなり意味あいが違う。

 

人によって解説が異なるのだが、ぼくに言わせれば「許す」というのは、「本来は許容できないものを、許容できるとみなす。」ということである。だからこの場合、許容する自分はぐっと「我慢」する必要がある。

 

それに対し、「赦す」は「許容できないものを許容できないものとしたうえで、しかし受け入れる」という態度である。ここでは自分は「我慢」していない。受け入れることを是として疑わない。

だから、相手の行為を自分は許すことはできないが、しかし相手を拒否はしない。赦す。ということがありうる。「許さないけれど、赦す」という言い方ができる。

相手のことであれ、自分にふりかかる運命であれ、この「赦す」ことこそが、幸福になる必要条件というのが多くの幸福論が唱える共通項だ。

 

 

というわけで、この物語は、人間とAIの「赦し」をめぐる物語である。なお、本小説では、この「赦し」に関わる重要素として「フィクション」の価値というものが通底されているが、ここでは取り上げないでおく。

人間とAIという、本質的に異なるものをどう赦すのか。人間はAIを赦せるのか。AIは人間をどう赦すのか。

人間は、AIは、この世界にどういう幸福を願っていたのか。AIの語るセリフは胸を打つ。

 

AIが語る「この事実はたぶん、これからずっと私たちの原罪となってのしかかってくる。」

そして

AIが語る「あなたは、断じて『たかが』じゃなかった。」

 

 

 


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世界を変える日に (ややネタバレ)

2017年01月11日 | SF小説
世界を変える日に(ややネタバレ)


著:ジェイン・ロジャーズ 訳:佐田千織
早川書房


 なんか悲惨な話だったな、これ。アーサー・C・クラーク賞を受賞し、SFではあるがわりと純文学っぽい命題を持っているように思う。

 MDSという「妊娠すると100%死亡する伝染病」が世界中にまん延したあとの話である。これはすなわち、子どもが生まれない世界ということになる。そこで16歳の少女がとった行動は・・というのがこの小説だ。

 この小説の主題は、16歳の少女による、上の世代への闘争と未来の世代への責任感だ。

 SEALDsの登場は、多くの大人たちが嘲笑った。同年代の若者も大多数は冷ややかにみていたように思う。
 だけれど、今の社会をめぐる閉塞感は、ようするにこの小説のようなことなんだと思う。ここに出てくるMDSという病気は架空のものだが、上の世代がお構いなしにいろいろなことをやりまっくたり収奪してきたことのしわ寄せが次の世代にきたとき、その新世代ができること、上の世代に抵抗をみせることは、決して笑う見世物ではないはずだ。

 一方で、僕も人の親であり、自分の子どもが、このようなものだったり、カルトにはまっていくとしたら、やはりどんな手段をとってでもやめさせようとするだろう。主人公の少女の選択と行動は、理解できる気もするし、いっぽうで若気の至りというのもわかるほどわかるから、だからこそ両親の絶望感もまた感情移入できる。


 この小説、途中いろいろなエピソードがあってずいぶんだれてしまうのが難なのだけれど、この一人称小説の意味するところは最後になって明らかになる。最後まで読めば、だからこんな中だるみもものともせず書いているのかとわかる。
いろいろ考えさせるし、スカッとするものでもない。重たい読後感がある。

 あまり話題にならず、増刷もなかったようだが、今の日本ならば読んでみる価値があるかもしれない。
 なお、訳者あとがきは壮大にネタバレしているので気を付けたし。

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一九八四年

2016年09月25日 | SF小説
一九八四年
 
著:ジョージ・オーウェル 訳:高橋和久
早川書房
 
 
言わずとした古典SF、というかもはや古典文学。学生の頃に一度読んだのだがだいぶ中身を忘れていて、先ごろ新約版を読み直したところである。
しかし1990年代に読むのと、2010年代に読むのではまったくインパクトが違う。1948年に書かれた小説なのに、2010年代に読むほうがはるかにリアリティを感じさせる。
そもそも、この小説をあらためて読もうと思ったのは、「<インターネット>の次に来るもの」の記述が「一九八四年」と裏表だと思ったからだ。「一九八四年」は、スターリン時代のソ連がそのモデルになっているものの、ここに登場する技術はみんな「<インターネット>の次に来るもの」で示唆される。人々の行動を24時間「トラッキング」するし、顔の表情の筋肉の動きからその心情まで読み取る「インタラクティング」があるし、あちこちに設置される双方向性のテレスクリーンという「スクリーニング」がある。過去の記録は常に忘却のかなたに消却され、いま現在の情報だけが真実とする「フローイング」だし、情報は徹底的に「フィルタリング」されている。
「<インターネット>の次に来るもの」が述べている未来の方向性は、まさに「一九八四年」みたいなことをやろうとすれば技術的にはできるようになることなのである。要するにユートピアかディストピアか、の裏表なのだ。
 
オーウェルの「一九八四年」と並んで、もうひとつ「1984」で有名なのはアップルコンピュータのTVCMだ。これは1984年にアップルコンピュータがハリウッドボウルの時間帯に放ったTVCMだが、ここでは最高権力者「ビッグ・ブラザー」は、巨大なコンピュータ、つまりIBMを揶揄していると言われている。オーウェルでの「ビッグ・ブラザー」は最後までその正体を明らかにしていないが、超全体最適を判断するのならば、「人間的誤謬」をおかさないAIこそがその場所にいるという発想は決して突飛ではない。手塚治虫の「火の鳥」未来編もそうである。
僕は「ビッグ・ブラザー」の正体はAIに違いないという仮説でこの小説を読んでいる。
つまり、殿堂入りした古典というよりも、シンギュラリティが指摘され、徹底したトラッキング技術が発達し、西洋型民主主義社会にやや陰りがみえ、第2次世界大戦を経験してきた人がいよいよ少なくなってきて「歴史修正主義」みたいな議論が出てきた今日こそ、「一九八四年」は改めて警告の書として読める。Google HOMEとかAMAZON echoとか、あれ、家庭内の会話を全部聞いてるってことだぜ。
 
「<インターネット>の次に来るもの」と「一九八四年」は、ぜひ併せて読まれたし。
 

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ハローサマー・グッドバイ (ネタバレなし!!)

2016年08月15日 | SF小説

ハローサマー・グッドバイ (ネタバレしません!)

著:マイケル・コーニイ 訳:山岸真
河出書房新社


 オチがスゴいSFといえば有名なのは「猿の惑星」だ。有名過ぎて、映画を観たことなくてもラストは知ってるという人のほうが多そうな勢いだ。もっとも、これは本人にとっても作品にとっても不幸なことかもしれない。僕は幸いにもオチを知らずに映画を見ることができてものすごいカタルシスを得ることができた。

 本作も「オチのすごさ」が有名である。Amazonのレビューをみたら、ほぼみんなそこに触れている。たしかにそう来たか! というものであるが、レビューの中にはネタバレしてしまっているものもあったり、ヒントをほのめかしているものも多かったので、本書未読の方は気をつけられたし。

 もっとも本作はオチだけの一発狙いでもないのであって、SFでもあり、青春小説でもある。SFと青春というのは一見そぐわない気もするが、うまくプロットがしてあり、SFの舞台設定のなかでしっかり青春している。この青春がいかにも往年の海外小説という感じで、今となってはセピア的な感じもしてなかなかこっぱずかしいのだが、このベタでピュアな思春期のひと夏に読者を誘っておいて、いつのまにか伏線を張り巡らせているという、じつはミステリー小説としてもよくできている。

 

 本作、SFファンの間では長いこと知られた作品だったらしい。ただし日本では翻訳本がずいぶん前に絶版になり、幻の作品になっていたとのこと。それが8年前に河出文庫で復刻したということである。

 そういう意味では、復刻されて8年が経っているわけで(続編も翻訳刊行された)、なぜそんな本を今さら手にしたかというと、施川ユウキの読書マンガ「バーナード嬢曰く。」で紹介されていて興味を持ったからである。

 このマンガ、読者好きのインサイトをよくとらえられていて抱腹絶倒なのだが、このマンガに登場するSFマニアの女子高生が、SFビギナーのヒロインに本作を勧める。その薦め文句が「おもしろくて読みやすくてかつ 読んだら読書家ぶれるから読め!」というものであった。これは読まねばなるまい。

 ちなみにAmazonの「この本を買った方はこんな商品も買ってます」でしっかり「ハローサマー・グッドバイ」が出てきたので、僕以外に買ったヒトがいたことになる。おそるべし「バーナード嬢曰く。」


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