読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

魔術師と予言者 2050年の世界像をめぐる科学者たちの闘い

2024年01月23日 | 環境・公益
魔術師と予言者 2050年の世界像をめぐる科学者たちの闘い
 
著:チャールズ・C・マン 訳:布施由紀子
紀伊國屋書店
 
 
 書評を読んだら面白そうだったのでポチったら、想像以上の凶器本(※人を殴れるほど分厚い本のこと)が届いた。まるで予言者が手にする魔術書みたいだ。索引や注釈まで含めて全851ページ。
 こんな質量なら上下巻ものになるのがこの手の訳書の通例である。あえて一巻もので綴じたのは出版社の企図なのだろう。いまどきは電子書籍のほうが一般的なので、わざわざ紙本をオーダーする人は、本の装丁も愛する好事家だと考えたのかもしれない。
 
 で、果たしてその内容だが、主人公級はウィリアム・ヴォートとノーマン・ボーローグという2人の科学者である。近現代の自然環境資源をめぐる科学者の立ち位置は「予言者」型と「魔術師」型に二分されるというのが本書の主張だ。その代表格がこの2人なのである。
 
 
 「予言者」というのは、増加を続ける地球人口と拡大する経済活動によって地球の資源や自然環境は人間にとって取り返しのつかない破滅になるであろう、したがって人間は過剰な資源依存や経済活動を今すぐに慎まなければならないという見解をもつ者である。諸君ども、身を改めるのだ。破滅の時は近い! ウィリアム・ヴォートはその先覚者のひとりだった。レイチェル・カーソンの「沈黙の春」やローマ・クラブの「成長の限界」はこれに続く系譜と言えるし、意識高いZ世代の象徴のようになったグレタ・トゥーンベリや「人新世の資本論」で一躍論客入りした斎藤幸平などもこの一連と見なせそうだ。
 
 これに対して、いや人間の叡智でこれらは克服できる、と唱えるのが「魔術師」である。心配ご無用! 私に任せなさい! たしかに人口増加によって食料危機が予見され、石油枯渇説によってエネルギー危機が叫ばれたものの、けっきょくその都度人間は科学技術の力で、これらを克服してきた。フリッツ・ハーバーとカール・ボッシュによって窒素固定技術という神業が開発され、食糧生産効率は一挙に向上した。そして、本書のノーマン・ボーローグの超人的な努力により、痩せた土地や虫害に悩まされる地域でも丈夫に育つ小麦や稲が開発された。メキシコやインドの荒れ地が穀倉地帯になった。日本でも寒冷地帯であるはずの東北や北海道が一大米の産地になったのは品種改良の成果である。石油や天然ガスの発掘技術もどんどん進化し、21世紀になって石油の可採年数は減っていない。
 
 本書は農業、化石燃料、水資源、そして目下の温暖化と気候変動をめぐって「予言者」派「魔術師」派それぞれの科学者や行政の人物たちが、ヴォートとボーローグを狂言回しにして次々と列伝のように登場する。各アジェンダがたどったヒストリーについても詳しい。本書によると例のSDGsはその前身はMDGsというものであったがさらに系譜をたどると、アメリカのトルーマン大統領が掲げた政策「ポイント・フォー計画」に行き着く(共産主義との対抗政策であった)。パンダのアイコンで有名なWFFや過激な活動で知られるグリーンピースは、そのトルーマン大統領が発起した国連サミットの向こうをはって同日同場所で開催されたもうひとつの国際会議体から発展したものだそうだ。つまり、SDGsのDNAは「魔術師」で、WFFは「予言者」のDNAなのである。
 
 
 索引も充実していて何かを調べるときの資料としても役立つが、なんといってもこの「予言者」と「魔術師」の二分法が単純明快で切れ味鋭い。これまでのもやもやがスッキリした。目ウロコと言ってもよいくらいだ。
 
 僕が勤める職場の人間でも、あるいは業務の一環としても、この手のテーマが入り込むことが時勢柄ちょくちょくある。
 正直言って厄介である。テーマそのものは僕も無関心なわけではないし、だからこそこんな本も読んでいるわけだが、これがいろんな人が一同に介されての業務となるとどうも面倒くさくなることが多い。なんというか話がまったくかみ合わず、延々と堂々巡りの議論になるのだ。「総論賛成各論反対」どころか利益相反とでも言いたくなるほど、お互いの主張はかみ合わない。ここは会社が身銭を切ってやるべきでしょ、いやビジネスにしないと続かないでしょ、そんな事業は生態系を壊すだけだから認められない、いやまずは仕事にしていかないとますます見捨てられる、儲けたらだめでしょ、え? 儲けが出ること自体はいいんじゃないの? 脱炭素はいいけどカーボンニュートラルは言語道断。代替肉はいいけど培養肉はよくない、などなど。
 
 なんでこの手のテーマはいつも収拾つかなくなるのか不思議だったのだが、それもこれも、かの人の立場が「予言者」派か、「魔術師」派か、ということをふまえると腑に落ちるのである。なるほど。あいつは「魔術師」派だったんだな、と考えると彼のすべての言動が腑に落ちる。あーあいつは「予言者」派だからいちいちペシミスティックな言い方するんだ、と納得できる。このようなプロジェクトをするときは、メンバー構成を「予言者」派か「魔術師」派かどちらかに集中して固めないといけないのだ。
 
 
 ところで、本書を読むまで僕は心情的にはどちらかというと「予言者」に共感するクチであった。人間は自然に逆らえない。人間も自然のシステムの一環だし、この地球の平均気温上昇も気候変動激甚化も、もうとまらないんだろうなーなどと思うクチであった。それがいやなら、せめてエアコンの温度設定は控えめにして、移動はなるべく徒歩や自転車で、と考える。しょせん、企業なんて営利目的のマーケティングから逃れられないのだし、社会責任を全うすることが最終的に営利につながる、という最近の論調も、まあ後付けのきれいごとだよねーなどとも思っている。
 
 だけど、本書に出てくる「予言者」派の人々の様子をみていると、だんだんゲンナリしてきたのも事実だ。彼らはもちろん大まじめに全力投球して人間の行き過ぎた活動を抑制させ、貴重な地球の資源を未来に続けさせようと算段しているのはわかる。そして最終的には彼らの言う通り――時間軸を多いに延ばせばどこかで魔術師派の手は行き詰まることもなんとなく予感はする。のだけど、その議論の持っていきかたは、それを言っちゃあおしまいというか、なんか夢も希望もないな、という気にさせられてくるものばかりだ。
 どうやら予言者派はエリートが多いようだ。自分らのちょっとした我慢が地球環境の温存につながる、と考えてしまうが、その日の生活もかつかつな人のQOLを上げる希望をついつい忘れてしまう節がある。
 
 さらに、予言者派がこじらせると、産児制限・人口調整の主張に合流することになるのを見て目を丸くした。
 どういうことかというと、人新世と言われるように人間の活動が地球自然全体のありように影響した大きな要因は、人口の増加にあるからだ。僕が小学生のころの地球の人口は45億人だが、いまや80億人を突破し、100億人までは遠からず約束された未来だ。増えた人口分の食料を確保し、住まいを確保し、経済活動をまわし、そしてそれら増えた人口から排出される諸々が、地球自然に負のフィードバックを与えていくのである。なので、これを食い止めるには「人口増加を抑える」という発想になる。これは発展途上国の避妊教育とか、中絶の権利という話につながる。ここまではまだよい。しかし、ここから一人っ子政策などの産児制限、強制堕胎、産み分け、そして優性思想までは実は一直線であったことを人類の歴史は証明している。これについてはハラリも「ホモ・デウス」で警鐘を鳴らしていた
 
 では「魔術師」はどうか。
 「魔術師」においては、そういった魔術的技術が実社会に用いられることが実際においては経済格差の拡大に結びついたり、新たな収奪構造を招き寄せることを顕わにしている。たしかに産業革命は貧富の拡大をもたらしたことはよく知られているし、よく育つ稲の苗が持ち込まれることや、不毛の地で水資源が確保されることは、現実社会においてはそこに大資本の投入と労役者の大量出現があったり、地域固有の文化を滅してしまう副作用があったのである。
 これ以外にも魔術師が見落とした陥穽はいくつもある。
 
 
 本書は「予言者」にも「魔術師」にも与しておらず、どちらかに偏ることを慎重に避けている。本書のスタンスは予言者も魔術師も一理あったし欠点もあったというものである。では2050年。このままいけば地球の平均気温は2度上がり、海面は上昇し、人口は100億人を超える。その未来はどうなっているのか。予言者のいうように今すぐ節制しなければ破滅なのか、それとも魔術師のいうようにイノベーションが起こってみんな健康で快活な日々を送っているのか。
 本書の結論は、人間はなんとか折り合いをつけるんじゃないか、というものだ。いざ窮すれば環境変化に適応する能力が人間のDNAにはある。それは人間だけじゃなくて生命というものが持つポテンシャルなのだ。もちろん過去の事例ではうまく適応できなくて滅亡した生物や社会はたくさんある。だけど、実はそれ以上に、姿かたち仕組み諸々を変えながら存続していった生命の例は多く、人間もまたそれらしい経緯を経た事例が実はたくさんあるというのだ。まあ、なんとかなるんじゃないの、というところか。日本人は意外とこういうところはしぶといかもしれない。
 
 
 ところで、本書の魔術師サイドの主人公ボーローグが数千種もの種子を悪戦苦闘しながら掛け合わせ、不毛なメキシコの土地を行ったり来たりしてついに耐久性のある小麦の育成に成功させたり、紛争と政治的混乱、さらに保守的な価値観が支配するインドとパキスタンにおいて品種改良された種子をなんとか船で届けたりする話を読むと、説教垂れる予言者よりは、不屈の精神でトライ&エラーを続ける魔術師のほうがカッコいいなとは思う。(プロジェクトXっぽいとでも言おうか)。魔術師系の人って自然の力を小バカにするような不遜な印象があったが、決してそんなことはなくて埃まみれ汗まみれの泥まみれになりながら一縷の望みをかけて悪戦苦闘するのがその姿なのだ。むしろ予言者のほうが生真面目な優等生イメージであり、魔術師はむしろ不屈な陽キャっぽい。ついつい予言者的な嘯きをしてしまう自分は猛反省である。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コーヒーで読み解くSDGs

2021年11月23日 | 環境・公益

コーヒーで読み解くSDGs


Jos-e川島良彰 池本幸生 山下加夏
ポプラ社


 SDGsというのを考えてみたときにどうにも怪しいのは「コーヒー」と「チョコレート」だよなとは常々思っていた。

 SDGsが世間に浸透して久しく、さらに最近では脱炭素の問題なんかも絡んできて、メディアでとりあげられる機会も多い。、
 だけどコーヒーとチョコレートを大々的にとりあげたコンテンツをほとんど見かけない。やはり大スポンサーへの配慮や遠慮があるのだろうかとも思う

 コーヒーとチョコレートの共通点はいろいろある。原材料の生産国が発展途上国であること、生産地の肉体労働に依存していること、消費国は先進国でマーケティングによる過当競争になっていること、原材料から商品までに複雑な加工プロセスが存在すること、世界レベルの企業が参加していること(ネスレなんかコーヒーとチョコレートの両方に携わっている)。
 そして、これらの結果は生産者自身は商品としてのコーヒーやチョコレートを口にする機会が無いということも共通している。

 日本の受験生の必勝を願うひとつまみのキットカットは、アフリカの農園での労働が反映されている。それくらいの想像力は持ちたいと思っている。
 近年の課題意識の高まりをうけてネスレも個装をビニール製ではなくて紙製にしたり、チョコレート農家の育成とモニタリングに乗り出しているようだ。その取り組みは評価できるが、そもそもチョコレートとはウォーラーステインが言うところの世界システムの申し子であるという事実からは逃れられないだろう。


 コーヒーもまた、世界システムの上に構築された歴史を持つ産業だ。今日的目線でコーヒーを学ぶことはSDGsを学ぶことに他ならない。本書はSDGsの17の目標すべてに対してコーヒー産業の取り組みをレポートしている。

 企業や団体のSDGsの取り組みをみていると、ネガティブだったものをニュートラルにするものと、ニュートラルなものをポジティブなものまでもっていくものがあるように思う。たとえば、児童労働や低賃金労働などの不正労働を改善し、人として十分な待遇と保証で雇用することはネガティブからニュートラルへの取り組みと言える。さらにその労働過程を単なるタスクの処理ではなく、その過程を通じて化学や生物学の普遍的基礎を学ばせ、ビジネススキルも学ばせることで、労役人材としてだけでなく広範なビジネス人財として社会に出ていけるプログラムまで意識されるとそれはニュートラルを通り越してポジティブインパクトを持つ取り組みと言える。

 もちろん、ニュートラルに留まるより、ポジティブにまで転じる取り組みのほうがよいに決まっている。しかし、元来がネガティブの根が深いものであれば、ニュートラルに戻すまでがいっぱいいっぱいでもあろう。コーヒーにおいては過去の歴史が相当にネガティブだけに、その多くはニュートラルにまでもっていくのがせいぜいではないかと思う。
 本書の紹介事例もやはり「ニュートラル」のほうが多い。コーヒー産業システムの根の深さを思う。
 しかし、「ポジティブ」なチャレンジもないわけではない。むしろコーヒーだってポジティブインパクトをこの世界につくることができるという例を見ることは大いなる希望が感じられる。
 たとえば、タイの山岳地帯、かつて麻薬のトライアングルと呼ばれた無法地帯をコーヒー生産地に変え、ダークな経済圏に巻き込まれていたケシ農家を、十分にモニタリングされたコーヒー生産と経済にシフトさせたドイトゥンコーヒープロジェクトはその代表的な例だ。
 それから南米コロンビアで知的障害者を雇用したフェダール農園の事例。「障がい者施設がつくったコーヒーだから不味くても買ってあげようというのではなく、美味しいから買いたいと思われるコーヒーを目指す」試みもポジティブインパクトを生むものだと思う。

 どちらのプロジェクトも事業の持続可能性が前提であるが、コロナによる世界経済の打撃もあってその道のりは困難なようだ。まだまだ試行錯誤もありそうだが応援したい。
 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不安に克つ思考 賢人たちの処方箋

2021年11月07日 | 環境・公益
不安に克つ思考 賢人たちの処方箋
 
クーリエ・ジャポン編
講談社現代新書
 
 
 ここに出てくるのはリンダ・グラットンに、ダニエル・カーネマンに、トマ・ピケティに、ユヴァル・ノア・ハラリに、グレタ・トゥーンベリに、カズオ・イシグロなど。
 
 当初、この手の本をみたときに「超豪華なシンポジウムか神々の競演」と思ったが、その後に何匹めのドジョウのごとく、次々と同じようなコンセプトの本が出てくるのを見て、この種の企画は見かけ以上にコスパがいいんだろうなと思うようになった。原稿料だと破格になるのかもしれないが、ZOOMでインタビューしてこちらでまとめるだけだと、これだけのビッグネームの集合でも収支があってしまうようだ。
 
 本書においては、それぞれのインタビューの長さや深堀り具合が登場人物によってまちまちで、わずか数ページかつ浅いコメントで片付けられてしまっているものもあり、その出来は玉石混交といったところではあろう。その中にあって個人的に興味深かったのをあげるとすると
 
 ・行動経済学「ファスト&フロー」のダニエル・カーネマン→人間は指数関数的な予測が本能的に苦手である、したがって人間はAIの予測には叶わないのに、やはり人間的な心理バイアスでAIに命を預けることをためらう(自動運転など)。
 ・「レス・イズ・モア」のバーツラフ・シュミル→カーボンニュートラルの収支計算だけ解決しても地球のサステナビリティは本質的に解決しない、レアメタルの枯渇や生物多様性の損失は二酸化炭素とはまた違う動きで進んでいる。
 ・ジェイムズ・スタヴリディス→米中戦争の必至を予言。テクノロジーもGDPもアメリカを抜くのは時間の問題。台湾統一は計算範囲内。
 ・例のグレタさん(なんともう18才なのね)→二酸化炭素排出量を何年に何%という指標設定をした瞬間に、単なるゲームになってしまい、手段と目的が逆転する。
 
 これ以外にも、経済指標より物語のほうが感染力強く人を動かすと看破する「ナラティブ経済学」のロバート・シラーの話や、政治の対立軸は階級闘争に持ち込んだほうが健全に機能するというトマ・ピケティの話も気になったが、もうちょっといろいろ深堀してほしかった気がする。人間の判断力の限界点を彼らなりの専門領域で指摘したところと言えようか。
 
 
 この手の本は、今の世の中の課題や論点をさっと見渡す意味で都合いい。
 本書の場合、なべてみれば「格差の拡大」こそがいま世界におこっている問題の諸元と言えそうだ。しかもこの格差拡大のメカニズムはロックオンされてしまっていて容易には解消しない。本気で政治行動で変えようとしても、なぜか庶民層が保守派を支持するという謎の傾向が西洋諸国でも日本でも90年代以降続いており、階級闘争が政治のメインの対立軸になっていないのである。
 じゃあ、富裕層がこの世界を維持するのに重要なポジションにいるのかというと、これまたそうでもないよね、というのがこのコロナで判明したことであった。たとえば富裕層の代名詞GAFAは本当にこのコロナ後の世界で必要なのか。彼らはリモート禍において生活インフラを用意したと主張するが、でも実際において我々が生きていくこの社会において真の要になっているのは結局のところ配送や衛生や食料やエネルギー管理などの「エッシェンシャル・ワーカー」ではなかったか。
 しかし、エッシェンシャル・ワーカーこそが経済的に優遇されるという話にはけっきょくのところならない。これも不思議な経済のからくりとしか言いようがない。富裕層を富裕層を垂らしてめているのは単に税制優遇のためだけである、という指摘が本書にはある。本当はそういう税制こそしっかりと議論しなければならないのだが、今日の政治の対立軸では、どうも税制について熟慮できないまま決まりやすいところがある。(政局や族議員の都合によって決まるのは日本も世界も同じのようだ)。
 
 しかし、そんな格差社会に憂いている中でひしひしとしのびよっているのが、地球温暖化による気象異常の激甚化と中国のヘゲモニー国家化なのだ。どちらも2030年あたりが重要タームである。このときの日本は国民の3分の1が高齢者だし、東京には大地震が来てそうだしと思うとお先真っ暗な気分になってくる。このままいくと一部の富裕層だけが安全地帯を確保できて、それ以外は大いに時代に翻弄されかねない。
 
 本書のタイトルは「不安に克つ思考 賢人たちの処方箋」だが、全体的には望み薄な印象が強い。タイトルとは裏腹に、したり顔で議題を投げかけておいて処方箋は提示しない話者も多い。課題を示すには長けていても解決の方向性を示唆できないのは本書に限らずこの手の本の弱点なのかもしれない。なんとなく行間から透けて見えるところは、DXとかカーボンニュートラルといった当世流行るキーワードに惑わされることなく、何がこの先の社会で「エッセンシャル」かの透徹した視線だろう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地球が燃えている

2021年01月17日 | 環境・公益
地球が燃えている
 
ナオミ・クライン 訳:中野真紀子・関房江
大月書店
 
 本書の内容としては「人新世の資本論」とかぶる主張が多いが、興味深かったのが山火事の話だ。
 昨今、世界中で自然災害の話題に事欠かず、その中には山火事の話も多い。アメリカでもヨーロッパでもオーストラリアでも大規模な山火事のニュースが毎年のようにおこっている。ただ日本であまり話題にならない。
 
 本書「地球が燃えている」によれば、欧米豪で山火事が頻発するようになった要因のひとつに地球温暖化があるということである。
 であるならば、国土の7割が森林である日本でも山火事は増えそうだが、そういう事実はない。林野庁のホームページには山火事の統計が載っていて、そこをみるとここ数年の日本では山火事は減少傾向にある。もっとも頻発していたのは昭和40年代だそうだ。 
 
 山火事の原因はなんといっても乾燥した空気だ。日本の場合は湿潤型気候で、乾燥した風が吹くのはおもに冬季である。気温的には火事は起こりにくいというわけだ。本書によると、欧米豪では乾燥かつ高温という天候の日が増えているのだそうである。また、地球温暖化によって土壌が乾燥してきて樹木の湿度分が失われ、燃えやすくなっているということもあるらしい。
 
 むしろ日本では山火事よりも土砂災害のほうが増加している印象だ。地球上の水分の量は、個体気体液体を問わなければ常に一定であるという説がある。ということは、どこかが乾燥して干上がるということはその分どこかで水分過多になるはずである。すなわち日本ではむしろ水分を増しているのかもしれない。
 でもまあ、日本でも決して油断はできないのだろう。なにしろ「今までこうだったらこれからもこうである」という未来予測ほど危険なものはない。「今はまだ起こっていない」だけかもしれない。考えてみりゃ線状降水帯による土砂災害だって10年前にはほとんど聞かなかった話だ。あと10年後には山火事だって毎年日本のどこかで起こっていてもおかしくはないと言える。手入れが放棄された里山は日本にだって沢山あるわけだし。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人新世の「資本論」

2021年01月09日 | 環境・公益
人新世の「資本論」
 
斎藤幸平
集英社新書
 
 先ごろこのブログで「ユー・アー・ヒア」という地理学エッセイをとりあげた。そのとき書いたのは、「地学」という地球規模の自然現象を対象とする学問の領域に、「地理学」つまり人間の社会活動による影響が現れているということだった。つまり理系の地学に、文系の地理学が侵食してきているのである。4,500,000,000年の地球の歴史的変容に、わずか20,000年の歴史の人類がはっきり爪痕を残すようになったのだ。もっと言うと産業革命以降のほんの250年くらいの人類の在り方が地球環境に大きな影響を与えているのである。
 
 その後、それを「人新世」と呼ぶことを知った。一種のコンセプトである。Wikipediaには「人類が地球の地質や生態系に重大な影響を与える発端を起点として提案された、完新世(Holocene, ホロシーン)に続く想定上の地質時代」とある。
 
 
 今の経済活動をそのまま続けていくと西暦2100年には、地球の平均気温は産業革命時代から4度以上あがるとされる。甘くみても2度以上は確実に行く。もう既に1.2度くらい平均気温はあがっているのだが、この時点で世界のあちこちで異常気象がおこっているのは周知の通り。日本も例外ではない。果たして2度上がると、まして4度上がるといったいどんなことになるのか?
 
 2016年に締結されたパリ協定では、2100年の時点で気温の上昇を1.5度以下までに抑えることを目標にしている。
 そのためには、2050年の時点で人間が社会活動によって吐き出す温室効果ガス(二酸化炭素やメタンなど)の量と、樹木や土壌が吸収する量を相殺できるようにしなければならない。その中間目安として、あと9年後の2030年の時点で温室効果ガスの排出量を現状の半分にしなければならないと計算されている。
 
 これは相当な荒療治を世界規模でやらなければならないことを意味する。
 
 ほんまにできるんやろか? と意味なく関西弁で言いたくなる。
 
 そもそも、この温暖化の促進は人間の社会活動の促進の結果であり、それも地球規模に至ったのは、グローバル社会の必然だった。いみじくもグレタさんが言っていたように、これまでの経済学では地球温暖化はとまらないのである。
 
 そのことを初期から唱えていたのが歴史学者ウォーラーステインである。本書でも引き合いとして出されている。
 ウォーラーステインは、中核・半周辺・周辺という世界システムモデルで有名だが、その生産と収奪の関係は人的資本に限らないことを「入門 世界システム分析」で書いている。そこでは経済活動においては①「廃棄物」の処理コスト、②「一次原料」の再生コスト、③「インフラ」の整備コストが、外部経済化しやすいことを指摘している。
 これはつまり、①二酸化炭素やメタンなどの「廃棄物」の処理コスト、②森林や農畜産物や有限燃料をもう一度育て直すコスト、③長距離間の移動や輸送の実施やメンテナンスにかかるコストを、誰がどう負担するのかが宙ぶらりんになりやすい、ということである。
 まさに、この点が温室効果ガスの増加を助長させてきたと言えるだろう。
 しかし、地球はひとつである。これら「外部化」されたものはいやおうなしに今のしかかってきている。
 
 この「世界システム」を動かしているのは、まごうことなき「資本主義」である。商いは止まらない列車とと言ったのは西原理恵子だが、ウォーラーステインの師匠であるブローデルは、人間の経済活動の必然的進展として「物質社会」「経済社会」「資本主義社会」というのを置いている
 つまり、おのれを信じて経済活動を行うと必然的に資本主義社会に行き着く。よって地球温暖化にも行き着く。
 
 というあたりで、本書「人新世の「資本論」」は、ここでマルクスを登場させてきている。
 
 本書ではありうる未来社会像を4つの象限で表している。国家強権型⇔市民の相互扶助型の軸と、平等主義⇔自己責任主義の軸である。そこから①気候ファシズム②野蛮状態③気候毛沢東主義④脱成長コミュニズムという4つの未来像を示しているが、唯一の解答が④と主張する。その根拠がマルクスのコモン論である。
 
 僕はマルクスにはまったく明るくないので、その妥当性や説得力はよくわからないのだけれど、資本主義というのが基本的には止まらない成長ホルモンみたいなものであり(生産性の罠)、これが世界システムをつくりあげた。しかし外部化されていたコストがいよいよ覆いかぶさってきて、世界全体を窒息させようとしている。つまり、資本主義と地球温暖化はかなり密接な関係にあるというこの見立てはまあそうなんだろうなあとは思う。
 
 では、経済や社会の成長というのは、そもそもどの程度が妥当であったのか。
 
 本書はかなり多分野から言説やデータを引用していてとても勉強になるが、それらの紹介で興味深かったのは、ケイト・ラワースの「ドーナツ経済の概念図」だ。人間が健全な社会活動を行うには、社会的な「土台」がいる。この土台とは「水」や「食糧」や「健康」や「教育」みたいなものだ。SDGsの17個の目標にも近い。しかし、この土台づくりも過剰になると環境への負荷を起こす。つまり、土台づくりに勤しむにあたっては、環境上の上限があるのだ。それをドーナツ状に模式図にしている。
 この考えを応用すると、それぞれの国ごとに「達成された土台の数」と「行き過ぎた環境負荷の数」というのが出てくる。前者が足りないとその国はそもそも社会基盤がまだ満たされてないということになる。後者が増えすぎると土台が過剰ということになる。先進国のほとんどは、土台は満たされているが環境負荷が高く、アフリカやアジアの途上国は環境負荷は低いが土台が満たされていないという結果が出ている。そりゃあそうだろう。
 
 ベトナムである。
 
 つまり、どの国もベトナムくらいの民力と国力であるのがちょうどいい、ということになる。我々は2050年までに現在のベトナムのようにならなければならない。ちなみにベトナムは世界幸福度指数では世界第5位である(日本は58位)。
 
 もちろん、この模式図や考え方はひとつの見立てであって完全無欠ではない。が、温室効果ガスを半減させ、気温上昇を1.5度以内に抑えるインパクトはそういうことなんだなと直感的にわかる。
 
 当然のことながら、アナログな時代に戻っていくのが全てではない。再生エネルギーへの切り替え、二酸化炭素の分離や回収技術、環境負荷をかけない農業技術などテクノロジーの研究と開発は進んでいく。しかし本書はそういったテクノロジー開発そのものが環境負担をかけていたり(外部化しやすい)、テクノロジー開発に必須なレアメタルの採掘をめぐって「周辺」地域の人権を圧迫していると手厳しい。このあたりはSDGsのdevelopment議論と同じである。ディベロップメント議論をしているうちは、かつての帝国主義のシステムと変わりないのである。
 
 どうにもこうにもという感じだが、実は2020年はコロナの影響で人間の経済活動が大幅に抑制された結果、温室効果ガスの排出量は7パーセント減ったのだそうだ。あれだけじっとしていてもまだ7パーセントかという気もするが、ここまで劇的に下がったのは現代史において初めてらしい。ということは今回のコロナにおける経済活動や社会活動の変革は、来たる低炭素社会にむけての予行練習であるとも言える。本書ではコロナ禍もまた人新世の産物であると告げている。「コロナ」ではなくて「コロナ禍」というのがポイントだろう。
 
    ところで、僕個人としては「地球温暖化」という言葉がどうもいけない気がする。英語だとGlobal warmingで間違ってはいないのだが、どうにも生ぬるいイメージがある。こと日本語においては「温」も「暖」も心地よい漢字なのである。
 「地球高熱化」とか「地球熱暴走化」とかにすれば、もうすこし危機感つよいイメージを共有できるのではないか。
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

SDGsの正体 メディア報道ではわからない真の目的とは

2020年11月09日 | 環境・公益
SDGsの正体 メディア報道ではわからない真の目的とは
 
村井哲之
PHP研究所
 
   SDGs。SUSTAINABLE DEVELOPMENT GOALS。持続可能な開発目標。日本でもだいぶ巷間に知られるようになってきた。絶対善の象徴のようになりつつあるから、そろそろこういうアンチテーゼの本が出てくるんじゃないかと思ったらまさかのPHP社とは。
 
  もっとも、本書はSDGsを決して否定してはいない。強いて言えば、生兵法は大怪我の元みたいにしてSDGsをとりあげている。ただ、そのやり方が全体的に露悪趣味というか、やさぐれたテイストで、品の悪いB級本のような体を醸し出している。それが作戦なのかもしれないが、なにもこんな編集方針にしなくても真っ向勝負で切りこめたんじゃないかとも思う。
 
 SDGsに限らないのだけれど、なにか倫理的・公共的なものにふれたテーマの議論は、正論の暴力というか、誰しもがNOと言えない正論を武器に議論を前へ前と進んでしまうことがよくある。それは倫理や公共というものがもともと内包している性質とも言えるだろうが、ある種の思考停止というか、議論のための議論になりやすい陥穽を性質上そもそも持っているともいえる。したがって、この手の議論は重要ではあるが罠にはかからないリテラシーを要する。ゴドウィンの法則というのがあって、何か長引いた議論で誰かがナチスやヒットラーのことを持ち出したら、その議論はもう続けるべきではない、というものだが、これなんか正論の罠にかからないためのひとつの手段であろう。
 
 もはや一昔前の印象がある地球温暖化にて京都議定書が喧しいころにも同様のことを思っていたが、SDGsも列強各国の覇権争いという性格は多いにあるだろう。技術開発や経済水準で米国におされがちなヨーロッパが自分に有利なルールを敷いてゲームの機先を制しようとするのはSDGsに限らない。アメリカがパリ協定から抜けようとするのも、そんなヨーロッパの動きの牽制とみることもできる。
 ただ、「development」というなんとも適度な言葉を、世界秩序のために持ち込んだのはアメリカだと指摘したのは、世界システム論で有名なウォーラーステインである。もともと西洋史観では、西洋の価値観や歩んできた歴史をスタンダードとし、それに劣るものとしてのアジアアフリカ諸国や東洋諸国(つまり中国とのその周辺)、という世界の見立てが主流だった。レヴィ=ストロースなど思想の世界ではそれに異をとなえることはあったが、人々の常識的価値観はそんなものだった。文化人類学とは珍なるものを収集する博物学であって要は見世物であった。戦後は、このような格差観は望ましくないと、少なくとも表向きにはそうなって、アカデミズムとしては文化人類学や東洋学は、西洋とは「異質ではあるが対等なもの」と見做すものとして台頭した。そして経済活動においては「development」という言葉が持ち込まれた。
 「development」は、日本では「開発」という訳語があてられたが、実際には成長とか発展とか展開とか、もう少し広いニュアンスを含んでいるようで、日本語感覚でドンピシャな適語がないっぽい。ただ、端的に言うと「development」はすごく上から目線で自分主義な言葉なのである。「こちらがかかげた理想ゴール地点まで現状を変容させていく」という意味合いがある。
 アジアアフリカ諸国と先進国の間にある格差を格差のままにして収奪する仕組みはよろしくない、ということになって、アジアアフリカ諸国の経済発展を促すものとして「development」は導入された。しかしこれは先進国の贖罪でも無償の援助でもなく、やはりビジネスモデルなのである。欧米同様の技術様式・生活様式に至らせることで、西洋がもともともっていた技術インフラ・生活インフラを援用させ、西洋中心のグローバル経済にとりこむビジネスモデルなのであった。アジア・アフリカを植民地時代の文明文化水準のままにしておくのは忍びないからそれを西洋諸国まで引き上げる、ただし経済システムや資本は西洋中心のままであるというのがdevelopmentの含意である。
 つまり、西洋史観が本来もっていた欧米白人主義は根強く残っていて、彼らが設定するところの理想的なゴール像にむけて段階的に「後進」国や「発展途上」国を変容させていく、というのが「development」である。アフリカの医療水準があがり、アフリカの乳幼児死亡率は下がる一方で、もうかるのは欧米の製薬会社である。一見Win-Winだが、実は逆のパターンは一顧にされていない。逆のパターンとは、ボルネオの森の民は、ボルネオの森の民として持続可能かつそれなりに秩序と平和が保たれた技術様式・生活様式―それは自然資源との共存の在り方とか、金銭を介さない経済循環の在り方とかあるがこれを欧米が評価・導入して、欧米の過剰なエネルギー依存や資本依存を減退し、逆に西洋がもつ知恵や技術をボルネオがボルネオの様式のままさらに安定的な秩序と平和に資するようにするという発想は一切に無い。ボルネオは極論だということであれば他の国でもよい。ベトナムなんかは生活水準の充実度と地球環境への負荷度のもっともベストバランスな国として算出されたレポートもある。しかし、アメリカもヨーロッパも日本も、みんなベトナムを開発目標にしようという話にはならないだろう。
 つまり、アジアアフリカ諸国も「欧米同様の技術様式・生活様式」に至ればそれは先進国と格差がない、という前提があり、人間的で平和な世界という錦の御旗のもとに「development」は行われる。
 
 SDGsの前身は、MDGs「ミレニアム開発目標」だった。これは対象国が後進国や発展途上国に限定されていた分、先の「development」の意味合いがもっと露骨に出ていた。SDGsでは、「発展途上国」だけでなく「先進国」もなすべきことがある、というアジェンダが設定されて196か国すべてが同じ目標を背負う、ということになった。
 が、MDGsからSDGsと名を変えたこの時点で、「development goals」という言い方が継続されたところに、連中の本音が垣間見えているとは思う。あるいは彼らの無意識が露呈されていると言うべきか。設定された17の目標も国連196か国の総意ということになってはいるが、それぞれの目標の達成手段が欧米諸国が持つ生活様式や技術様式に依存することが大なのは暗黙の了解である。
 
 
 というところまでを十二分に理解し、「儲ける仕組みを作りながら」「17目標の達成につながるようにする」のがSDGsの在り方である。こんなことは欧米諸国も中国も多くの人間が知っているし、日本だって勘のいい人はわきまえているのだろう。性善説・性悪説・偽善・偽悪をすべて織り込んだゲームとして、プレイヤーたちはシノギをやっている。
 
 が、これが教育とか倫理の文脈が立ちすぎていて、経済的側面が見えにくいのが市井で多くみられるSDGs状況と言えるだろうか。
 どちらかというと「社会的責任として、弱者や環境にも配慮した生き方をしなければならない」という点が強調され過ぎて「儲ける仕組み」部分が影に回りすぎているきらいがある。これには日本特有のいくつかの背景があるには思う。
 
 もともと、「金儲け」をよろしくないもの、とする美学が日本にはある。「守銭奴」という言葉があるように、「儲け第一主義」は薄汚い観点がある。が、これが転じ転じて、「人様を助けること」と「お金儲け」は分離すべきという価値観にいきついている。稼いだ金から「寄付」するのは偉いが、税金対策だとなるととたんに非難の対象になったりする。NPO法人活動を多く勤めた谷根千工房の森まゆみは、NPOが儲かるのはおかしいという誤解があると指摘している(スタッフの人件費や次の活動資金のために利益確保は絶対に必要である)。
 したがって、「わが社は稼いでいますが、一方でこうやって人助けもしてますよ」という、なに金儲けの「免罪符」としてSDGsを使う企業や団体が増えてきた。発想の前提として「儲けること」と「17目標の達成につながるようにする」が別のことなのである。これは企業メセナとかCSRという前例があったため、その発想の延長にとらわれていると言えなくもない。
 
 また、近江商人の「三方よし」を引き合いに出して、日本はもともと「SDGs」の精神があるのだ、と自信満々にいう言説をあちこちで見るが(本書にもでてくるが)、どうもこれも思考停止の罠なんじゃないかと思っている。SDGsはもっと覇権をかけたビジネスゲームなので、うちは「三方よし」なんですなんてニコニコ言っていると、あっという間に乗り込まれて顧客も社会も収奪される気もする。耳障りのいいスローガンをかかげた日本企業がいつのまにかプラットフォームをすべてGAFAにとってかわられたのは、ここらへんの温度感の違いもあるんじゃないかと思ったりする。
 
 「SDGs」がはらむ問題というのは、「sustainable」と「development goals」がくっついたところにあるのでは、というのが僕の直観である。
 現在地球上にある人類や自然環境上の問題が存在することは事実であり、野放しにできないことも事実である。ほっておけば地球の気温は取り返しのつかない高さにまで上昇する。つまり「sustainable」は絶対に外せないアジェンダなのである。要は「sustainable」だけでいいじゃんということなのだ。気温も海洋も病原菌もエネルギーの確保も待ったなしである。なにかしなければならないのは確かなのだ。そこに17個の開発目標ルールをおいたところにSDGsゲームのルール設定者の我田引水の引き金がある。だから本書が「18番目の目標を勝手につくればいい」というのは一見乱暴でありながら、実はコトの目的と手段を明確に分けた切り込み方で、けっこう本質を突いていると思う。とにかくいまなんとかしなければならないのはSustainableだ。Development Goalsではない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プラスチックスープの海 北太平洋巨大ごみベルトは警告する

2019年05月11日 | 環境・公益

プラスチックスープの海 北太平洋巨大ごみベルトは警告する

 

チャールズ-モア カッサンドラ-フィリップス 訳:海輪由香子

NHK出版

 

去年あたりから、プラスチック製のストロー使用の制限が急に取り出されるようになった。スタバやマックなどの外食産業で大量消費されるストローが注目された。

きっかけは、ゾウガメの鼻に刺さって抜けなくなった海洋投棄のストローの動画映像とされている。Youtubeなどで世界中で再生された。

いま思うに、あの動画映像は十分にセンセーショナルを与えるものとして周到に準備されて世の中に投げ込まれたものだと思う。

 

プラスチックストローはあくまでひとつの象徴であり、この問題は「廃棄プラスチック」略して「廃プラ」である。「廃プラ」の何が問題なのかは、ちゃんとした報道をしっかりみている人にはわかるが、なんでプラスチックストローが急に? で止まっている人も多いんじゃないかと想像する。

かくいう僕も、そんなにわかっていたわけではなかった。プラスチックつまり「燃えないごみ」だ。ごみの分別がかつてに比べて非常にクリティカルになっていること、ごみの大量出現はもう何十年も問題視されていること。これはよくわかる。とくに「燃えないごみ」が大量に増えていることは地球環境にとってもよくないだろうことは想像に難くない。

だけれど、「燃えないごみ」というのは、つまり「大型焼却炉で高温で燃焼させなければならないごみ」ということで、どちらかというと大気汚染とか資源エネルギーの浪費とか地球温暖化とかそっちにひもづく話なのだと解釈していた。焼却に間に合わない「燃えないごみ」が、不法投棄されたり、土壌に直接埋められたりして土壌汚染を引き起こす、これが問題なのだと思っていた。スーパーのレジ袋を控えてエコバッグにしようというのは、資源の有効とか、地球温暖化文脈のものだと思っていた。したがって「廃プラ」の「海洋投棄」というのは、そういう「燃えないごみ」の「不法投棄」が陸だけでなく海にも漏れ出ちゃっている、とまあそんな解釈でいた。

 

で、そんな悠長な話ではない、というのが本書である。啓蒙書であり告発書だから、いくぶんセンセーショナルな書き方をしているのかもしれないが、これまでほとんど意識していないことがここでは扱われていて、素直に不明を恥じている次第である。

なんで「燃えないごみ」の中でも「プラスチック」なのか。それも「海洋投棄」のことを指しているのか。ストローがやり玉にあがったのか。ようやくわかった次第である。

 

本書の研究や検証が十分なのかそうでないのかを判断するだけのリテラシーを僕は持たない。その上で本書をひとまず信じるとして(話の筋は通っているし、断片的には確かにあちこちでこういう言及や報道を見てきたなと後になって思うからである)、けっこうヤバいのである。

まず、プラスチックというものがこの地球上に近代以後そうとうな量として出現しているということだ。もちろん高温焼却されて気体に戻ったプラスチックも多いだろう(ダイオキシンとか別問題がそこにはあるわけだが)。しかし、処理しきれずに固体のまま廃棄されたプラスチックもまた多い。

で、人類がどのくらいのプラスチックを生産してきたか、というのが実はものすごいのである。ここがまず僕の想像を超えていた。というのはあれもプラスチック、これもプラスチックなのだ。

スーパーのレジ袋はプラスチックなのである。牛乳パックの裏側の水を通さないための加工処理もプラスチックなのである。もちろん電化製品の筐体もプラスチックだし、ナイロンもプラスチックである。発泡スチロールもビニールテープもプラスチックである。現代生活をとりまく素材のほとんどがプラスチックといってよい。

で、プラスチックが汎用化・大量生産化されて60年くらい経ち、いまや世界70億人の人口で使われるようになった。開発途上国でもプラスチックは持ち込まれている。プラスチックの生産量は年間3億トン。世界の食肉消費量よりも多いとのことである。

ここで肝心なことは「プラスチックは消滅しない」ということだ。強制的に高温焼却しない限り、未来永劫そこにある。一部の特殊なものを除けば「自然に土に還る」ということがない。では、ここ60年にわたって残存するプラスチックはいったいどこに行っているのか?

地球の面積の大半は海である、というところから必然的にひとつの答えが出てくる。消滅せずに蓄積されたプラスチックは海にある。

とはいえ、海は広いな大きいな、である。60年の人間活動によって破棄された不焼却のプラスチック量と、海の体積の比率はどのくらいか。そんなに海洋に影響を与える量なのか。たぶん、ここがアメリカとヨーロッパ、先進国と途上国、あるいは産業界と保護団体などで、見解を異にするところだと思う。全員が納得する解答は無いとは思うのだが、本書の見立てでは事態は深刻である。

たしかに浜辺なんかを歩いていると、ペットボトルとかビニール袋とか落ちている。しかしそこまで酷いかなあと思うのだが、そんな表面的な印象で判断してはいけないという。浜辺で打ち上げられているごみはほんの一部だ。

まず、海流は偏っていて、非常にごみが集まりやすいところとそうではないところがある。そして集まりやすいのは浜辺より沖合であり、それも太平洋のど真ん中だったりする。地球的規模における海流の渦の中心があり、そこに船をむけると大量のプラスチックごみが浮遊している(これがサブタイトルである「北太平洋巨大ごみベルト」である。ネーミングインパクト抜群だ)

また、プラスチックはすべてが浮遊するわけではない。海底に沈むものもある。海底にどのくらいのプラスチックが沈んでいるのかは目で見ることができない。

そして、プラスチックは消滅はしないが、細かい粒子に分解はする。これが「マイクロプラスチック」である。ビーズ上のプラスチックが海面と海底に大量に漂っているのが現代の海洋であるというのが本書の告発だ。

 

そして海は食物連鎖の世界ということ。

小生物は、マイクロプラスチックを体内に取り入れる。また、餌と間違えて食べる魚や海鳥や海獣がいる。もちろん投棄された魚網(これもプラスチックである)に絡まるものもいる。海上でとらえられた魚や海鳥やクジラやアザラシの腹の中から次々とプラスチックが出てくる事例が本書で紹介される。誤って食したプラスチックで肛門をふさがれて死んだ魚や鳥も出てくる。何キロものビニール袋が塊になって胃の中にとどまったクジラが出てくる。

食物連鎖だから、体内に蓄積された小生物のプラスチックを大型生物が食す。もちろん人間の食卓にあがるものも含む。これが海洋の生態系にどのような影響を与えるかはわからない。たいしたことないかもしれないし、破滅的な結果になるかもしれない。産業界は前者よりを支持しそうだし、予防原則をとりたいむきは後者を警戒するだろう。

 

つまり、①未来永劫消滅しないプラスチックがここ60年ですさまじい蓄積量となっており、②それは「海」に集積していて、③食物連鎖の生態系の中に浸透されちゃっている、ということである。

 

本書を読む限りでは、ストローよりはペットボトルやスーパーのレジ袋のほうを控えたほうがよさそうにも思えたが、ウミガメの動画映像のインパクトゆえか、まずは「それがなくてもどうにかなるはず」として挙げられたのがストローだったのか、スタバやマクドナルドのようなグローバルに展開するファーストフードを象徴しやすいのか、ストローこそが廃プラの矛先に上がったというところである。

ストローにせよ、ペットボトルにせよ、スーパーの袋にせよ。廃プラと海洋投棄の話は、本書を読むと、これまでの大気汚染、資源エネルギー、地球温暖化の文脈以上に、これらプラスチック製品をごみ箱に捨てる際にうずく罪悪感を与えるに十分ではあった。人間社会への直接的影響でいえば、大気汚染や資源エネルギーや地球温暖化のほうが近いように思うのに、海と生き物への影響からせまるほうがより心に響くというのはどうしたことか。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

苦界浄土 わが水俣病

2018年07月15日 | 環境・公益

苦界浄土 わが水俣病

 

石牟礼道子

講談社

 

 

今年の2月に石牟礼道子が亡くなった。晩年は熊本の施設で過ごしていたという。

 

水俣病は言語道断といってよい公害であり、悲劇きわまるものであるが、水俣に「たまたま」石牟礼道子が存在したことは、水俣病の患者にとって、あるいは水俣市にとってかなりの影響があったと思う。それは奇蹟といってもよいかもしれない。その影響はもしかしたら「良い」ことばかりではなかったかもしれない。しかし、石牟礼道子が水俣在住だったことは、水俣病の深刻さを社会に知らしめたことにかなりの威力を与えたのではないかと思う。

 

 

石牟礼道子は名もなき詩人であった。実務の専門学校を出た一介の主婦であった。ただ、その一種異様ともいえる人をふるわす文才があり、それが水俣病を描くことによって、古今東西例がないといえるような「公害文学」あるいは「公害詩編」を生み出した。本編で水俣病患者がとつとつと現地の方言で話す魂の叫びは、解説で渡辺京二氏が明かしているように、けっして聞き書きではなく、耳も聞こえず口もきけず固まったままの患者のかすかな兆しから読み取った石牟礼道子の代弁である。

 

その創作性が、水俣病のルポルタージュとしては客観性に欠ける批判になったのも事実だ。

しかし、石牟礼道子以上に水俣病に長年寄り添った記録者は他にいないとも言える。患者の家に出入りし、市民会議にも出入りし、熊本大学病院や熊本県にも出入りし、東京にも行き来し、新潟の第二水俣病関係者のところにも出入りした。

他人をよせつけない圧倒的な経験値に、詩人の感受性と言語感覚が働いた結果がこの「苦界浄土」であった。「事実」はどうだったか、「現実」はどうだったか。というより、「真実」はこうだったのではないか、と思わせざるを得ない。これこそ芸術の真骨頂と言える。

 

 

 

詩人の武器は、世の中のちょっとした違和や兆しに感応するアンテナと、それを言語化するセンスだ。そういう意味で僕は詩人や純文学系小説家の社会批評に興味があって、最近では水無田気流とかウォッチしているのだが、今思い出すとそれは「苦界浄土」の圧倒的な説得力に原体験があるからだなと気づいた。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

101年目の孤独 希望の場所を求めて

2014年01月27日 | 環境・公益

101年目の孤独 希望の場所を求めて

高橋源一郎


 いい本だったなあとぐっときた。

 「13日間で名文を書けるようになる方法」で、当時2才の彼の次男が脳症に侵される話がでてくる。
 奇跡的に彼は回復できたのだが、その事件が著者に新しい視野を与えたらしく、彼の以後の作品はいかなるときでも目の前の人生を「生ききる」ことの賛歌がみられる。

 いかなるとき―これは文字通り万人のいかなるときであって、したがって、いわゆる社会的弱者と呼ばれる人々もここに入る。本書はそんな社会的弱者を取材する。その中には、まもなく死ぬことがわかっている人―それも、老人だけではなく子どもの場合もある―そんな過酷な運命にある子どもから、高橋源一郎は「生ききる」ことを学ぶ。


 本書で圧巻だったのは小津安二郎の「東京物語」に材を借りた「尾道」の章と、それから「長いあとがき」だった。
 いや、本書の他の章に現れる、ダウン症の子どものための絵画教室も、障がい者の劇団の話も、一般の学校に通えない子ども達とそのための学校の話も、心揺さぶれるに十分である。
 彼らは普段なかなか社会の中で可視化されない弱者である。それゆえに、彼らの存在は特殊に映る。いや、社会の中で特殊扱いされる、といったほうが正確か。
 その一方で、先に上げた「尾道」と「長いあとがき」の2章は、それこそ「弱者」とかなんとか定義は関係なく、これからすべての人にやってくる話を扱っている。

 この二章に共通するのは「老い」である。

 つまり、高橋源一郎は「尾道」の章と「長いあとがき」における「老い」の話を、難病の子ども達の話と同じ地平線上に入れているのである。

 これが著者がなんとしてでも伝えたいことなのだろう。


 超少子高齢化社会が進み老老介護とか、老老贈与とか指摘されている。
 いま、日本の人口で80才以上の人口が930万人いるという。そして、10年後には80才以上の人口が2000万人くらいになる。国民の6人に1人くらいがそうなる。

 アベノミクスや東京オリンピックや国土強靭化計画はあっても、日本全体が老いていくのは避けられない現実である。
 つまり、「強くあれ」とひたすら進んで100年の近代化する日本、いまなお強くあろうと掛け声をあげる日本は、この先確実に老いていく。
 日本は「弱く」なっていく。

 だが、本当に「弱い」のか。
 本書は、いま、社会で「弱い」とされる様々な人々を著者は取材している。
 そこで見た光景。彼らのどこに弱いことがあろう。彼らの「生ききる」姿、彼らが目で見、耳で聞き、肌で感じながら、この世界をつかまえ、生ききる力強さ。これこそこれから「弱く」なっていく日本において、101年目の希望を見た。

 いい本だったなあと心底思った。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界がもし100億人になったなら

2013年09月24日 | 環境・公益
 世界がもし100億人になったなら

 スティーブン・エモット


 なかなか絶望的な本である。類書としてはローマ・クラブの「成長の限界」とか、アルバート・ゴアの「不都合な真実」などがあるが、本書の結論は「どうしようもない」なのである。
 つまり、地球の人口が70億を突破し、80億、90億へとかつてないスピードで人口増大しているさ中、それを支えるだけの水と食糧とエネルギーの確保はどうなるのか。少なくとも今のところの見立てでは、今のままの生活様式を維持したまま、これらの確保は不可能である。
 で、あればその先は「争奪戦」の未来でしかない。中国資本が、日本の水源地を買いあさっているという噂を聞くが、ことの真偽はともかく遅かれ早かれ世界中がそういう動きに乗り出すことになる(というより、もう動いている)。
 
 だが、そうやって100億近い人間を生活させるとなると、当然それにともなうゴミ、汚染、そしてCO2といった排出物もまた幾何学級数的に増加することになる。
 これがこれでまた未知の影響を地球環境にあたえるリスクだってある。

 そもそも、地球生命史において、人口が大爆発した生命はまもなく死滅する。たとえ大隕石が落ちなくても、自然のフィードバックが働く。生態系を脅かすことによる植生の変化とか、それによる食糧不足とか。あるいは、病原菌の発生とか。
 
  
 こういったことを回避するのであれば、やはり人類はこれから生き方を変え、再生エネルギーとオーガニックな生活でつつましく生きていくか、ということになる。だが、本書は、とても人間はそんな選択はできないだろう、と言っている。
 まあ、そうだろうね。
 
 
 それにしても3.11以降、すっかり地球温暖化とかCO2削減の運動は存在感を失った。
 いまの再生エネルギー運動は、「原発を使いたくないから」であって、CO2を発生しないから、ではない(原発もCO2を発生しないから)。
 で、原発が動いてなくてもちゃんと電気は足りてるでないか、という声は、もはやCO2の問題が捨てられている(今の日本の電力を支えているのは火力である)。
 
 チームマイナス6%とか、京都議定書とか、フードマイレージとか言っていたあれはいったいなんだったんだろうと思う。

 やはり、単なる世界各国の覇権争いのネタに使われただけだったのだろう。この分野ではEUが有利だったが、けっきょくリーマンショック後の欧州危機でそれどころではなくなったし、いまさらCO2排出抑制能力で覇権はとれないということだ。

 本当のところにおいて地球が温暖化にむかっているのか、それとも実は寒冷化に向かっているのか、今となってはIPCCのデータも信憑性が疑われていてよくわからない。
 ただ、今年の異常気象は、日本だけでなくて世界規模のものだったというし、エキセントリックな気候がここ数年続いているのだけは確かだ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火山噴火・動物虐殺・人口爆発

2010年05月06日 | 環境・公益
 火山噴火・動物虐殺・人口爆発 20万年の地球環境史

 石弘之

 評価がしにくい本ではある。
 慧眼である。調べもわりかしきっちりしている。引用や示唆にも富んでいる。力作である。
 だけど、著者の著作行為における姿勢にひっかかるのだ。

 それが何かというと、このタイトルのセンス、あきらかにジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」の影響を感じるのである。本書の中身も、様々な学問を横断的に見る(本書では「タテとヨコ」と表現している)ことで、マクロな動態変化に新たな解釈を試みるという立ち位置が同じだし、具体的に、動物の家畜化の成功による人口の拡大と流動の発生、人間と動物間の相互干渉による病原菌の変異と伝染病のルーツにつながり、ひいてはアフリカな南米の原住民せん滅に導いたことなど、被るところも多い。
 被ることがダメなのではない。本書「火山噴火・動物虐殺・人口爆発」はいろいろな出典や参考が引用されているのに、「銃・病原菌・鉄」について本文はもちろん、巻末の参考文献でも触れられていないところに、セコさ、もっというと卑怯さを感じるのである。
 まさか、「銃・病原菌・鉄」の存在を知らなかったとは思えないのである。(なぜか「文明崩壊」のほうは参考文献リストに入っている)

 それからもうひとつ。様々な事例や記録を労をいとわずに集めているのに、その解釈や結論が妙に主情的というか牽強付会な描写となる。「事実に語らせる」に充分なだけの素材を集めているのに、語り口が主観的なのである。古代や中世の人間による焼畑の拡大や魚の乱獲を資料から証明させるのは立派だが、その結果、これらの行いを「批判」めいた書きぶりにするのは古代の人にとって酷というか、ナンセンスに思うし、これらの中に、「・・といわれている」という出所不明の事例がまぎれこんでいるのも気になる。
 逆にいえば、「銃・病原菌・鉄」は、このなんの愛想もないタイトルが発する「凄み」みたいなものが逆に説得力を持ち、事実関係を組み合わせて浮かび上がる状況証拠・物的証拠がひとつのダイナミズムに収れんされていくところが醍醐味であった。

 乏しいデータや事象を、巧みな文章で説得力あるように読ませてしまう本はいくらでもあるが、本書はこれだけのデータや事象があれば充分に面白い話になるのに、逆に味付けをしすぎてしまって、安っぽくしてしまった感がぬぐえない。
 要するに、「結論を急いでいる」ように見えてしまうのである。

 と、うがった目線をしてしまうのは、本書の内容に懐疑的ということでも批判的スタンスということでもなくて、明らかに力作であって、もっと面白く読めたはずなのに、ということなのである。
 本書の通り、「火山噴火・動物虐殺・人口爆発」は関連しあっていて、環境史を形成しているのだろう。中世絵画の空模様の分析から当時のヨーロッパの天候を見る話やスイスの森林再生の話、子供の背丈より大きい巨大なタラの写真など面白く、だからこそ、冷静に淡々とそのダイナミズムを描いてくれれば、充分に啓もう書となっただろうに、と思うのである。
 しかも、「銃・病原菌・鉄」も参照していることを明言したところで、本書で伝えたかったであろうことの内容の価値はちっとも変わらないはずなのだ。


 ・・と、ここまで書いて思いついたのだが、もしかしたら、タイトルは著者ではなくて編集部のほうがつけたのかもしれない。新書などで、タイトルだけ編集部が考えたというのはわりとよくある話である。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寒暖700年周期説

2008年09月12日 | 環境・公益
 寒暖700年周期説---西岡秀雄

 地球温暖化とCO2をめぐる政策の賛否論はおおむね以下に分類される。

 1.地球が温暖化すると人間にとって不都合か
 2.不都合であるとして、実際に地球温暖化は本当に起こっているのか
 3.起こっているとすれば、それはCO2増加が原因か
 4.CO2増加が原因として、それは人間の活動によるものか
 5.人間の活動が原因として、それは同じく人間が食い止められるのか

 で、5までをYESとして通過してはじめて「食い止められるとして、その際の経済的損失をどこまで許容するか」の議論となり、先進国と途上国のバランスとか、キャップ&トレードとか、環境税とか、まあ喧々諤々いろいろ議論されるのである。

 しかし、懐疑論者や否定論者は1~5の段階でだいたい引っかかる。
 正直なところ1~5に関しては明白な解答というのは出ない気がする。ひとつひとつは客観的なデータでも、そこから描く過去と未来のシナリオはしょせん状況証拠や帰納法的な推論の積み重ねであり、賛成者も反対者も自分の都合のよいデータを引っ張り出して戦わせているに過ぎないという印象を受ける。

 思うに、今のCO2削減は、地球のため人類のためというのはあくまで建前で、要するに近代社会以降何度も繰り返されている覇権争いなのである。資源(植民地)や工業、宇宙開発、ITなど様々なお題目がこれまで繰り広げられ、そして今度は「地球温暖化とCO2削減」であり、みんな自分の国が有利なようにCO2削減のルールの綱引きをしているのだ。だから“温暖化なんか関係ねーよ”という態度は、だったら好きにすれば、と国際競争からの棄権・離脱を意味する。
 鎖国時代ならともかく、エネルギー自給率も食料自給率も極端に低い現在の日本にこのような孤立主義は絶対にありえないので、それだったら中途半端なこと言ってないで、がんがん自分の国に有利なルールを掲げて覇権の旗取りに参加してほしい、というのが個人的意見である。


 さて、本書は70年代後半に書かれたものを改訂したもので(改訂にあたって著者は95才!)、当時は「地球温暖化」なんてほとんどささやかれておらず、どちらかといえば「寒冷化」の警鐘があった時代だったように記憶するが、本書によれば少なくとも地球の中で日本列島のあるあたりは、700年の周期で、寒期と暖期がいれかわるのだそうである。その原因は太陽黒点の移動など複合的なものだそうだが、それによると日本列島の場合

 弥生中期~弥生後期 温暖期(卑弥呼の頃にピーク)
 古墳時代~飛鳥時代 寒冷期(大化改新の頃にピーク)
 奈良時代~平安時代 温暖期(将門の乱の頃にピーク)
 平安末期~室町中期 寒冷期(元寇の頃にピーク)
 室町後期~江戸中期 温暖期(秀吉太閤の頃にピーク)

 で、江戸後期から寒冷期に入り(天明の飢饉とかあった頃だね)、幕末の風雲あたりに寒冷期のピークをむかえる。桜田門外の変は3月24日に起こったが、この日の江戸は大雪であった。そこから暖かくなって、現在は温暖期のピークにむかっている途上ということになる。

 本書というか、著者の長年の研究は、それを様々な歴史文献や考古学・民俗学資料、あるいは自然資料に基づいて仮説立てしている。文献のほうは、オーロラの目撃とか桜の開花記録などに注目するわけだが、たまたまの異常気象と中長期的傾向が混同している気がするし、火山や地震との関係性にいたっては牽強付会を免れない印象もある。ただ、年輪の観察や、時代ごとの屋根の傾斜角度なんかはわりと信用度が高そうだ。過去においては寒冷期も温暖期もあったということは事実なのだろう。
 もっとも、じゃあ寒かったとされる元寇の頃はいったい何度くらいだったのか、暑かったとされる秀吉太閤の頃は何度だったのか、は本書からは分からない。静岡県で油が凍ったとか、四国沖にアシカが出没した、とかエピソードが書かれているだけである。


 ちなみにIPCCは、このような「周期的な寒暖サイクルを考慮にいれても、今の温暖化のスピードは速すぎる」と言っている。
 本書では京都の桜の開花時期の記録を調べており、それによると温暖期のピークでも桜が咲き始めるのはやっぱり4月だった。現在の日本はちょうど寒暖のピークの真ん中あたり、つまり寒冷期から温暖期に移行しつつあるときなのだが、この時点にして既に最近の京都の桜は3月末から開花する。
 これはヒートアイランド現象のせいなのか、それともやっぱり過去にない暖かさになってきているということなのだろうか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最底辺の10億人-最も貧しい国々のために本当になすべきことは何か

2008年08月04日 | 環境・公益
 最底辺の10億人 最も貧しい国々のために本当になすべきことは何か?---ポール・コリアー

 「失敗国家」などとも称される、アフリカの最貧国の、負のスパイラルを読み解く。文明の生態史観のように、「失敗しやすい」条件として4つの項目を挙げている。この4つの項目にあてはまるほど、「失敗しやすい」ということである。
 1.内戦
 2.天然資源が存在する
 3.内陸国
 4.劣悪なガバナンス

 この4つは互いが互いを呼び合いやすい。また、1の内戦が起こりやすくなる要因として「低成長・低所得」が指摘されているから、要するに状況そのものが原因をつくり、結果を生み出し、その結果がまた原因になっているわけで、もうどこから手をつけていいのかわからないような具合になる。
 興味深いのは、2の天然資源の問題。デカプリオ主演の「ブラッド・ダイヤモンド」なんかでも注目されたが、未熟なガバナンスの地に重要な天然資源が生まれると、色々な意味で翻弄され、行政機構としてはかえって破綻する、というのはそうかもしれない。

 で、「擬似天然資源」とでも言えるのがいわゆる「金銭的援助」だ。その国の生産力が本来持ち得ないはずの金銭が「援助」されると、その国の経済循環をさらに破綻に追い込む。その仕組みはまるで「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな連鎖関係なのだが、なるほどマネーというのは不思議なものだ。「マネー」の使い手としてのリテラシーが成されていないと、あっという間に奈落の底に引きずりこまれる。

 究極の貧困国家がテイクオフするにあっては、中長期的に安定した教育と職業訓練の体制と、それが軌道にのるまでの対処療法としての生活援助というところなんだろうけれど、どこの誰が何のモチベーションでそれをやってあげるのか、と考えると、絶望的な気分になる。

かくいう目的のためには、先進国による軍事介入もありなんだろうけれど、軍事介入する先進国は、いずれにしても自分のところのリターンがなければやらないわけだし、その創出されたリターン(資源やプラントなど)は、結局その国の成長のノウハウとして健全に還元されていない(むしろ利権の争奪の引き金になる)。 当事者国の政府に安定国家行政を図ろうという意図がないというのも救いがたい。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

百年の愚行

2008年05月27日 | 環境・公益
百年の愚行---池澤夏樹・他---ノンフィクション

 数年前に話題になった写真集。手に入れる機会を探していたのだが、書店で残っているのを見つけた。
 以前「地球データマップ」という本を紹介したが、若干刊行された時期が異なるとはいえ(大きくいうと、9.11テロの前と後の違い)、相互に補い合う関係にあう。「地球データマップ」が定量的視点とストーリーという、いわば左脳的(とはいえ、小・中学生むけに書かれているので、イラストなんかも豊富である)であるのに対し、この「100年の愚行」は徹底的に視覚で訴える。寄稿されたいくつかの文章(また、これが名文だったりもするのだが)もあるが、本書を特徴づけるのは、この100枚の選りすぐられた有名無名の写真である。そして写真には、本当に必要最小限、あるいはそれ以下の、実に簡単な説明文が淡々と書かれている。

 だからこそ「凄み」がある。

 道端に捨てられた病気の子供。
 化学物質で真っ赤に汚染された湖と、奇形の魚。
 地雷で両足を失ったままごろんと転がる少女。
 朽ち果てた広大な森林。
 立ったまま手足と首を固定された実験用の猿。
 泥沼に半ば沈む名もなき兵士の死体。
   
 人間であることがイヤになってしまうくらいだ。

 だが素朴に、感情的にこの「愚行」を省みても、実はしかたがない。ある「愚行」を救うことが、逆に別の「愚行」を発生させてしまうことだってよくあるし、そもそも「写真集」とは、こういう直情的な「訴え」に極めて優れた媒体であって、かえって事態を狭く見せてしまうという裏腹な面もある。
 だからといって、ニヒリズムに徹するほど、世の中をキライな人になりたくはない。


 ひとつ思ったのは、これから何か目の前で選択肢が提示されたとき、「より、『泣く人』が少なくて済むほう(『笑う人』が多いほうではなくて)」を選びたいということだ。それは、昼食のメニューを選ぶときでも、交通機関を選ぶときでも。あるいはどの商品を選ぶか、旅行先をどこにするか。どっちの仕事を優先するか。どっちの人の言うことを優先させるか。
 たいてい、選択に迷うような事柄というのは、どっちを選んでもプラスとマイナスがあるということだ。その際の判断基準として、ひとつこんなことも加えてみてもいいのじゃないかと思う。10人が泣かされて100人が笑う商品よりも、誰も泣かずに10人笑う商品のほうを選んでみたい。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地球データマップ

2008年03月18日 | 環境・公益
地球データマップ   世界の“今”から“未来”を考える----NHK「地球データマップ」制作班

 本書の精神は「全てが連鎖して循環している」ということ。たとえば「僕たちが携帯電話を買い換えると、コンゴで内戦が起こる」。また、全地球規模にまで連鎖拡大した理由を、グローバル経済とモノカルチャー(交換符牒としての貨幣)に求めている。
 本書は学生むけの本で、偽善的な匂いとか左めいた教条主義の気配を感じることもあるけれど、自分の目の前の行為と自分とは遠く離れたとある場所での現象の因果関係を考えるという思考レッスンはもっとあっていいとは思う。というのは、自分が何かをすることによって(あるいは何かをしないことによって)、どこかの誰かにある影響を及ぼしている、という概念は、相当高度な思考力を必要とする一方で、この想像力が効かないと、どんどん独善的で身勝手になっていくからだ。しかも想像力の範囲が狭いから、本人はそれが独善とか身勝手とかに気付かず、正当な権利であり、賢い行動と自分で思ってしまいがちだ。

 先だって「本当の賢い主婦は牛乳を手前から取る」というテーゼを見て素直に感心したのだけれど、主婦が集まる掲示板では非難轟々なのだった。「自分の経営努力を棚に上げて、消費者を悪者にする狡賢い言い訳」といったところらしい。
 家計を切り詰め切り詰めやっていく立場から言えば、そんなキレイ事ばかり言ってられるか、ということで同情の余地も共感も多いにある上で、あえて言うのだけれど、よくよく考えると、やっぱり「後ろから牛乳をとる」という行動原則そのものに、暗黙のルールの隙間をついたような自分さえよければ的な「ズルさ」があるようにも思うのである。

 日本の食糧廃棄率は4割あるといわれている。一方で世界で8億人が飢えている。で、誰もが「捨てられる食材」と「飢えている子供たち」を結び付けたい、と思う。精神論としては思う。が、これを結びつける実践術がない。
 家庭の食材廃棄もあるのだけれど、大きいのは流通や外食産業からの廃棄だ。なぜ、捨てられるまで食材を仕入れてしまうのかというと、欠品が怖いからである。欠品はその店の信用力にかかる。あるのかないのかわからないような不安定な店にお客は来ない。だから、棚管理に厳格なコンビニなんかでは、仕入れ元のメーカーや商社に、欠品になることにペナルティを課すところがある。だから、メーカーや流通はペナルティを課されるよりは、余って捨てられてもいいから大量に商品を送り込む。かくして牛乳は大量に送り込まれ、「賢い主婦」は後ろから牛乳をとっていく。もちろん、捨てられる分の食料だってどこかの牛から絞られたものであり、その牛は誰かが世話をしており、そして水や飼料や土壌を費やされたものである。
 また、そういう購買行動が標準になると、けっきょくその買われた牛乳の価格には「捨てられる分」というのも折り込み済みになっていくのである。そうなってくると、我々は牛乳の何にお金を払っているのか、牛乳の「価格」とはいったい何に根拠づいているものなのか、というところに行き着く。

 「利他的な行為を利他的な人に対して行うことで自分に返ってくる利のリターンは、はじめから利己的な行動をしてきた人のそれよりも多い」というのはゲーム理論上は実証されているが、本能的にこれを感じ取れる人はやっぱり多くない。意外にも日本人は特にこの嗅覚がない、とも言われているそうな。たぶんそれは「利」に対するねじれた美学が原因だと思う。
 NPO法人として地域雑誌を刊行している森まゆみの本で、日本人のNPO活動に対する理解を示す一節に「NPOであるからには『利』があってはいけない、という日本人特有の美学が理解の壁になっている(つまり社会貢献事業であるからには、NPO会員の最低限の生活を保障し、活動を継続できる程度の「儲け」の追及も、拝金主義に見えるということだそうだ)」ということが記してあってなるほどと思ったものだ。

 だいぶ本書から話が遠くなってしまった。が、グローバル・マネー経済というものが本来「生きていくためのひとつの手段」だったのに「生きる目的」にすりかわってしまっていること事態には覚醒しておきたい。
 そして本書でも紹介されていたマハトマ・ガンジーの言葉を深くかみ締めたい。

 「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分がかえられないようにするためである。」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする