コーヒーで読み解くSDGs
Jos-e川島良彰 池本幸生 山下加夏
ポプラ社
SDGsというのを考えてみたときにどうにも怪しいのは「コーヒー」と「チョコレート」だよなとは常々思っていた。
SDGsが世間に浸透して久しく、さらに最近では脱炭素の問題なんかも絡んできて、メディアでとりあげられる機会も多い。、
だけどコーヒーとチョコレートを大々的にとりあげたコンテンツをほとんど見かけない。やはり大スポンサーへの配慮や遠慮があるのだろうかとも思う
。
コーヒーとチョコレートの共通点はいろいろある。原材料の生産国が発展途上国であること、生産地の肉体労働に依存していること、消費国は先進国でマーケティングによる過当競争になっていること、原材料から商品までに複雑な加工プロセスが存在すること、世界レベルの企業が参加していること(ネスレなんかコーヒーとチョコレートの両方に携わっている)。
そして、これらの結果は生産者自身は商品としてのコーヒーやチョコレートを口にする機会が無いということも共通している。
日本の受験生の必勝を願うひとつまみのキットカットは、アフリカの農園での労働が反映されている。それくらいの想像力は持ちたいと思っている。
近年の課題意識の高まりをうけてネスレも個装をビニール製ではなくて紙製にしたり、チョコレート農家の育成とモニタリングに乗り出しているようだ。その取り組みは評価できるが、そもそもチョコレートとはウォーラーステインが言うところの世界システムの申し子であるという事実からは逃れられないだろう。
コーヒーもまた、世界システムの上に構築された歴史を持つ産業だ。今日的目線でコーヒーを学ぶことはSDGsを学ぶことに他ならない。本書はSDGsの17の目標すべてに対してコーヒー産業の取り組みをレポートしている。
企業や団体のSDGsの取り組みをみていると、ネガティブだったものをニュートラルにするものと、ニュートラルなものをポジティブなものまでもっていくものがあるように思う。たとえば、児童労働や低賃金労働などの不正労働を改善し、人として十分な待遇と保証で雇用することはネガティブからニュートラルへの取り組みと言える。さらにその労働過程を単なるタスクの処理ではなく、その過程を通じて化学や生物学の普遍的基礎を学ばせ、ビジネススキルも学ばせることで、労役人材としてだけでなく広範なビジネス人財として社会に出ていけるプログラムまで意識されるとそれはニュートラルを通り越してポジティブインパクトを持つ取り組みと言える。
もちろん、ニュートラルに留まるより、ポジティブにまで転じる取り組みのほうがよいに決まっている。しかし、元来がネガティブの根が深いものであれば、ニュートラルに戻すまでがいっぱいいっぱいでもあろう。コーヒーにおいては過去の歴史が相当にネガティブだけに、その多くはニュートラルにまでもっていくのがせいぜいではないかと思う。
本書の紹介事例もやはり「ニュートラル」のほうが多い。コーヒー産業システムの根の深さを思う。
しかし、「ポジティブ」なチャレンジもないわけではない。むしろコーヒーだってポジティブインパクトをこの世界につくることができるという例を見ることは大いなる希望が感じられる。
たとえば、タイの山岳地帯、かつて麻薬のトライアングルと呼ばれた無法地帯をコーヒー生産地に変え、ダークな経済圏に巻き込まれていたケシ農家を、十分にモニタリングされたコーヒー生産と経済にシフトさせたドイトゥンコーヒープロジェクトはその代表的な例だ。
それから南米コロンビアで知的障害者を雇用したフェダール農園の事例。「障がい者施設がつくったコーヒーだから不味くても買ってあげようというのではなく、美味しいから買いたいと思われるコーヒーを目指す」試みもポジティブインパクトを生むものだと思う。
どちらのプロジェクトも事業の持続可能性が前提であるが、コロナによる世界経済の打撃もあってその道のりは困難なようだ。まだまだ試行錯誤もありそうだが応援したい。
プラスチックスープの海 北太平洋巨大ごみベルトは警告する
チャールズ-モア カッサンドラ-フィリップス 訳:海輪由香子
NHK出版
去年あたりから、プラスチック製のストロー使用の制限が急に取り出されるようになった。スタバやマックなどの外食産業で大量消費されるストローが注目された。
きっかけは、ゾウガメの鼻に刺さって抜けなくなった海洋投棄のストローの動画映像とされている。Youtubeなどで世界中で再生された。
いま思うに、あの動画映像は十分にセンセーショナルを与えるものとして周到に準備されて世の中に投げ込まれたものだと思う。
プラスチックストローはあくまでひとつの象徴であり、この問題は「廃棄プラスチック」略して「廃プラ」である。「廃プラ」の何が問題なのかは、ちゃんとした報道をしっかりみている人にはわかるが、なんでプラスチックストローが急に? で止まっている人も多いんじゃないかと想像する。
かくいう僕も、そんなにわかっていたわけではなかった。プラスチックつまり「燃えないごみ」だ。ごみの分別がかつてに比べて非常にクリティカルになっていること、ごみの大量出現はもう何十年も問題視されていること。これはよくわかる。とくに「燃えないごみ」が大量に増えていることは地球環境にとってもよくないだろうことは想像に難くない。
だけれど、「燃えないごみ」というのは、つまり「大型焼却炉で高温で燃焼させなければならないごみ」ということで、どちらかというと大気汚染とか資源エネルギーの浪費とか地球温暖化とかそっちにひもづく話なのだと解釈していた。焼却に間に合わない「燃えないごみ」が、不法投棄されたり、土壌に直接埋められたりして土壌汚染を引き起こす、これが問題なのだと思っていた。スーパーのレジ袋を控えてエコバッグにしようというのは、資源の有効とか、地球温暖化文脈のものだと思っていた。したがって「廃プラ」の「海洋投棄」というのは、そういう「燃えないごみ」の「不法投棄」が陸だけでなく海にも漏れ出ちゃっている、とまあそんな解釈でいた。
で、そんな悠長な話ではない、というのが本書である。啓蒙書であり告発書だから、いくぶんセンセーショナルな書き方をしているのかもしれないが、これまでほとんど意識していないことがここでは扱われていて、素直に不明を恥じている次第である。
なんで「燃えないごみ」の中でも「プラスチック」なのか。それも「海洋投棄」のことを指しているのか。ストローがやり玉にあがったのか。ようやくわかった次第である。
本書の研究や検証が十分なのかそうでないのかを判断するだけのリテラシーを僕は持たない。その上で本書をひとまず信じるとして(話の筋は通っているし、断片的には確かにあちこちでこういう言及や報道を見てきたなと後になって思うからである)、けっこうヤバいのである。
まず、プラスチックというものがこの地球上に近代以後そうとうな量として出現しているということだ。もちろん高温焼却されて気体に戻ったプラスチックも多いだろう(ダイオキシンとか別問題がそこにはあるわけだが)。しかし、処理しきれずに固体のまま廃棄されたプラスチックもまた多い。
で、人類がどのくらいのプラスチックを生産してきたか、というのが実はものすごいのである。ここがまず僕の想像を超えていた。というのはあれもプラスチック、これもプラスチックなのだ。
スーパーのレジ袋はプラスチックなのである。牛乳パックの裏側の水を通さないための加工処理もプラスチックなのである。もちろん電化製品の筐体もプラスチックだし、ナイロンもプラスチックである。発泡スチロールもビニールテープもプラスチックである。現代生活をとりまく素材のほとんどがプラスチックといってよい。
で、プラスチックが汎用化・大量生産化されて60年くらい経ち、いまや世界70億人の人口で使われるようになった。開発途上国でもプラスチックは持ち込まれている。プラスチックの生産量は年間3億トン。世界の食肉消費量よりも多いとのことである。
ここで肝心なことは「プラスチックは消滅しない」ということだ。強制的に高温焼却しない限り、未来永劫そこにある。一部の特殊なものを除けば「自然に土に還る」ということがない。では、ここ60年にわたって残存するプラスチックはいったいどこに行っているのか?
地球の面積の大半は海である、というところから必然的にひとつの答えが出てくる。消滅せずに蓄積されたプラスチックは海にある。
とはいえ、海は広いな大きいな、である。60年の人間活動によって破棄された不焼却のプラスチック量と、海の体積の比率はどのくらいか。そんなに海洋に影響を与える量なのか。たぶん、ここがアメリカとヨーロッパ、先進国と途上国、あるいは産業界と保護団体などで、見解を異にするところだと思う。全員が納得する解答は無いとは思うのだが、本書の見立てでは事態は深刻である。
たしかに浜辺なんかを歩いていると、ペットボトルとかビニール袋とか落ちている。しかしそこまで酷いかなあと思うのだが、そんな表面的な印象で判断してはいけないという。浜辺で打ち上げられているごみはほんの一部だ。
まず、海流は偏っていて、非常にごみが集まりやすいところとそうではないところがある。そして集まりやすいのは浜辺より沖合であり、それも太平洋のど真ん中だったりする。地球的規模における海流の渦の中心があり、そこに船をむけると大量のプラスチックごみが浮遊している(これがサブタイトルである「北太平洋巨大ごみベルト」である。ネーミングインパクト抜群だ)
また、プラスチックはすべてが浮遊するわけではない。海底に沈むものもある。海底にどのくらいのプラスチックが沈んでいるのかは目で見ることができない。
そして、プラスチックは消滅はしないが、細かい粒子に分解はする。これが「マイクロプラスチック」である。ビーズ上のプラスチックが海面と海底に大量に漂っているのが現代の海洋であるというのが本書の告発だ。
そして海は食物連鎖の世界ということ。
小生物は、マイクロプラスチックを体内に取り入れる。また、餌と間違えて食べる魚や海鳥や海獣がいる。もちろん投棄された魚網(これもプラスチックである)に絡まるものもいる。海上でとらえられた魚や海鳥やクジラやアザラシの腹の中から次々とプラスチックが出てくる事例が本書で紹介される。誤って食したプラスチックで肛門をふさがれて死んだ魚や鳥も出てくる。何キロものビニール袋が塊になって胃の中にとどまったクジラが出てくる。
食物連鎖だから、体内に蓄積された小生物のプラスチックを大型生物が食す。もちろん人間の食卓にあがるものも含む。これが海洋の生態系にどのような影響を与えるかはわからない。たいしたことないかもしれないし、破滅的な結果になるかもしれない。産業界は前者よりを支持しそうだし、予防原則をとりたいむきは後者を警戒するだろう。
つまり、①未来永劫消滅しないプラスチックがここ60年ですさまじい蓄積量となっており、②それは「海」に集積していて、③食物連鎖の生態系の中に浸透されちゃっている、ということである。
本書を読む限りでは、ストローよりはペットボトルやスーパーのレジ袋のほうを控えたほうがよさそうにも思えたが、ウミガメの動画映像のインパクトゆえか、まずは「それがなくてもどうにかなるはず」として挙げられたのがストローだったのか、スタバやマクドナルドのようなグローバルに展開するファーストフードを象徴しやすいのか、ストローこそが廃プラの矛先に上がったというところである。
ストローにせよ、ペットボトルにせよ、スーパーの袋にせよ。廃プラと海洋投棄の話は、本書を読むと、これまでの大気汚染、資源エネルギー、地球温暖化の文脈以上に、これらプラスチック製品をごみ箱に捨てる際にうずく罪悪感を与えるに十分ではあった。人間社会への直接的影響でいえば、大気汚染や資源エネルギーや地球温暖化のほうが近いように思うのに、海と生き物への影響からせまるほうがより心に響くというのはどうしたことか。
苦界浄土 わが水俣病
石牟礼道子
講談社
今年の2月に石牟礼道子が亡くなった。晩年は熊本の施設で過ごしていたという。
水俣病は言語道断といってよい公害であり、悲劇きわまるものであるが、水俣に「たまたま」石牟礼道子が存在したことは、水俣病の患者にとって、あるいは水俣市にとってかなりの影響があったと思う。それは奇蹟といってもよいかもしれない。その影響はもしかしたら「良い」ことばかりではなかったかもしれない。しかし、石牟礼道子が水俣在住だったことは、水俣病の深刻さを社会に知らしめたことにかなりの威力を与えたのではないかと思う。
石牟礼道子は名もなき詩人であった。実務の専門学校を出た一介の主婦であった。ただ、その一種異様ともいえる人をふるわす文才があり、それが水俣病を描くことによって、古今東西例がないといえるような「公害文学」あるいは「公害詩編」を生み出した。本編で水俣病患者がとつとつと現地の方言で話す魂の叫びは、解説で渡辺京二氏が明かしているように、けっして聞き書きではなく、耳も聞こえず口もきけず固まったままの患者のかすかな兆しから読み取った石牟礼道子の代弁である。
その創作性が、水俣病のルポルタージュとしては客観性に欠ける批判になったのも事実だ。
しかし、石牟礼道子以上に水俣病に長年寄り添った記録者は他にいないとも言える。患者の家に出入りし、市民会議にも出入りし、熊本大学病院や熊本県にも出入りし、東京にも行き来し、新潟の第二水俣病関係者のところにも出入りした。
他人をよせつけない圧倒的な経験値に、詩人の感受性と言語感覚が働いた結果がこの「苦界浄土」であった。「事実」はどうだったか、「現実」はどうだったか。というより、「真実」はこうだったのではないか、と思わせざるを得ない。これこそ芸術の真骨頂と言える。
詩人の武器は、世の中のちょっとした違和や兆しに感応するアンテナと、それを言語化するセンスだ。そういう意味で僕は詩人や純文学系小説家の社会批評に興味があって、最近では水無田気流とかウォッチしているのだが、今思い出すとそれは「苦界浄土」の圧倒的な説得力に原体験があるからだなと気づいた。
101年目の孤独 希望の場所を求めて
高橋源一郎
いい本だったなあとぐっときた。
「13日間で名文を書けるようになる方法」で、当時2才の彼の次男が脳症に侵される話がでてくる。
奇跡的に彼は回復できたのだが、その事件が著者に新しい視野を与えたらしく、彼の以後の作品はいかなるときでも目の前の人生を「生ききる」ことの賛歌がみられる。
いかなるとき―これは文字通り万人のいかなるときであって、したがって、いわゆる社会的弱者と呼ばれる人々もここに入る。本書はそんな社会的弱者を取材する。その中には、まもなく死ぬことがわかっている人―それも、老人だけではなく子どもの場合もある―そんな過酷な運命にある子どもから、高橋源一郎は「生ききる」ことを学ぶ。
本書で圧巻だったのは小津安二郎の「東京物語」に材を借りた「尾道」の章と、それから「長いあとがき」だった。
いや、本書の他の章に現れる、ダウン症の子どものための絵画教室も、障がい者の劇団の話も、一般の学校に通えない子ども達とそのための学校の話も、心揺さぶれるに十分である。
彼らは普段なかなか社会の中で可視化されない弱者である。それゆえに、彼らの存在は特殊に映る。いや、社会の中で特殊扱いされる、といったほうが正確か。
その一方で、先に上げた「尾道」と「長いあとがき」の2章は、それこそ「弱者」とかなんとか定義は関係なく、これからすべての人にやってくる話を扱っている。
この二章に共通するのは「老い」である。
つまり、高橋源一郎は「尾道」の章と「長いあとがき」における「老い」の話を、難病の子ども達の話と同じ地平線上に入れているのである。
これが著者がなんとしてでも伝えたいことなのだろう。
超少子高齢化社会が進み老老介護とか、老老贈与とか指摘されている。
いま、日本の人口で80才以上の人口が930万人いるという。そして、10年後には80才以上の人口が2000万人くらいになる。国民の6人に1人くらいがそうなる。
アベノミクスや東京オリンピックや国土強靭化計画はあっても、日本全体が老いていくのは避けられない現実である。
つまり、「強くあれ」とひたすら進んで100年の近代化する日本、いまなお強くあろうと掛け声をあげる日本は、この先確実に老いていく。
日本は「弱く」なっていく。
だが、本当に「弱い」のか。
本書は、いま、社会で「弱い」とされる様々な人々を著者は取材している。
そこで見た光景。彼らのどこに弱いことがあろう。彼らの「生ききる」姿、彼らが目で見、耳で聞き、肌で感じながら、この世界をつかまえ、生ききる力強さ。これこそこれから「弱く」なっていく日本において、101年目の希望を見た。
いい本だったなあと心底思った。
スティーブン・エモット
なかなか絶望的な本である。類書としてはローマ・クラブの「成長の限界」とか、アルバート・ゴアの「不都合な真実」などがあるが、本書の結論は「どうしようもない」なのである。
で、あればその先は「争奪戦」の未来でしかない。中国資本が、日本の水源地を買いあさっているという噂を聞くが、ことの真偽はともかく遅かれ早かれ世界中がそういう動きに乗り出すことになる(というより、もう動いている)。
これがこれでまた未知の影響を地球環境にあたえるリスクだってある。
そもそも、地球生命史において、人口が大爆発した生命はまもなく死滅する。たとえ大隕石が落ちなくても、自然のフィードバックが働く。生態系を脅かすことによる植生の変化とか、それによる食糧不足とか。あるいは、病原菌の発生とか。
こういったことを回避するのであれば、やはり人類はこれから生き方を変え、再生エネルギーとオーガニックな生活でつつましく生きていくか、ということになる。だが、本書は、とても人間はそんな選択はできないだろう、と言っている。
まあ、そうだろうね。
いまの再生エネルギー運動は、「原発を使いたくないから」であって、CO2を発生しないから、ではない(原発もCO2を発生しないから)。
で、原発が動いてなくてもちゃんと電気は足りてるでないか、という声は、もはやCO2の問題が捨てられている(今の日本の電力を支えているのは火力である)。
やはり、単なる世界各国の覇権争いのネタに使われただけだったのだろう。この分野ではEUが有利だったが、けっきょくリーマンショック後の欧州危機でそれどころではなくなったし、いまさらCO2排出抑制能力で覇権はとれないということだ。
本当のところにおいて地球が温暖化にむかっているのか、それとも実は寒冷化に向かっているのか、今となってはIPCCのデータも信憑性が疑われていてよくわからない。
ただ、今年の異常気象は、日本だけでなくて世界規模のものだったというし、エキセントリックな気候がここ数年続いているのだけは確かだ。
石弘之
評価がしにくい本ではある。
慧眼である。調べもわりかしきっちりしている。引用や示唆にも富んでいる。力作である。
だけど、著者の著作行為における姿勢にひっかかるのだ。
それが何かというと、このタイトルのセンス、あきらかにジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」の影響を感じるのである。本書の中身も、様々な学問を横断的に見る(本書では「タテとヨコ」と表現している)ことで、マクロな動態変化に新たな解釈を試みるという立ち位置が同じだし、具体的に、動物の家畜化の成功による人口の拡大と流動の発生、人間と動物間の相互干渉による病原菌の変異と伝染病のルーツにつながり、ひいてはアフリカな南米の原住民せん滅に導いたことなど、被るところも多い。
被ることがダメなのではない。本書「火山噴火・動物虐殺・人口爆発」はいろいろな出典や参考が引用されているのに、「銃・病原菌・鉄」について本文はもちろん、巻末の参考文献でも触れられていないところに、セコさ、もっというと卑怯さを感じるのである。
まさか、「銃・病原菌・鉄」の存在を知らなかったとは思えないのである。(なぜか「文明崩壊」のほうは参考文献リストに入っている)
それからもうひとつ。様々な事例や記録を労をいとわずに集めているのに、その解釈や結論が妙に主情的というか牽強付会な描写となる。「事実に語らせる」に充分なだけの素材を集めているのに、語り口が主観的なのである。古代や中世の人間による焼畑の拡大や魚の乱獲を資料から証明させるのは立派だが、その結果、これらの行いを「批判」めいた書きぶりにするのは古代の人にとって酷というか、ナンセンスに思うし、これらの中に、「・・といわれている」という出所不明の事例がまぎれこんでいるのも気になる。
逆にいえば、「銃・病原菌・鉄」は、このなんの愛想もないタイトルが発する「凄み」みたいなものが逆に説得力を持ち、事実関係を組み合わせて浮かび上がる状況証拠・物的証拠がひとつのダイナミズムに収れんされていくところが醍醐味であった。
乏しいデータや事象を、巧みな文章で説得力あるように読ませてしまう本はいくらでもあるが、本書はこれだけのデータや事象があれば充分に面白い話になるのに、逆に味付けをしすぎてしまって、安っぽくしてしまった感がぬぐえない。
要するに、「結論を急いでいる」ように見えてしまうのである。
と、うがった目線をしてしまうのは、本書の内容に懐疑的ということでも批判的スタンスということでもなくて、明らかに力作であって、もっと面白く読めたはずなのに、ということなのである。
本書の通り、「火山噴火・動物虐殺・人口爆発」は関連しあっていて、環境史を形成しているのだろう。中世絵画の空模様の分析から当時のヨーロッパの天候を見る話やスイスの森林再生の話、子供の背丈より大きい巨大なタラの写真など面白く、だからこそ、冷静に淡々とそのダイナミズムを描いてくれれば、充分に啓もう書となっただろうに、と思うのである。
しかも、「銃・病原菌・鉄」も参照していることを明言したところで、本書で伝えたかったであろうことの内容の価値はちっとも変わらないはずなのだ。
・・と、ここまで書いて思いついたのだが、もしかしたら、タイトルは著者ではなくて編集部のほうがつけたのかもしれない。新書などで、タイトルだけ編集部が考えたというのはわりとよくある話である。
地球温暖化とCO2をめぐる政策の賛否論はおおむね以下に分類される。
1.地球が温暖化すると人間にとって不都合か
2.不都合であるとして、実際に地球温暖化は本当に起こっているのか
3.起こっているとすれば、それはCO2増加が原因か
4.CO2増加が原因として、それは人間の活動によるものか
5.人間の活動が原因として、それは同じく人間が食い止められるのか
で、5までをYESとして通過してはじめて「食い止められるとして、その際の経済的損失をどこまで許容するか」の議論となり、先進国と途上国のバランスとか、キャップ&トレードとか、環境税とか、まあ喧々諤々いろいろ議論されるのである。
しかし、懐疑論者や否定論者は1~5の段階でだいたい引っかかる。
正直なところ1~5に関しては明白な解答というのは出ない気がする。ひとつひとつは客観的なデータでも、そこから描く過去と未来のシナリオはしょせん状況証拠や帰納法的な推論の積み重ねであり、賛成者も反対者も自分の都合のよいデータを引っ張り出して戦わせているに過ぎないという印象を受ける。
思うに、今のCO2削減は、地球のため人類のためというのはあくまで建前で、要するに近代社会以降何度も繰り返されている覇権争いなのである。資源(植民地)や工業、宇宙開発、ITなど様々なお題目がこれまで繰り広げられ、そして今度は「地球温暖化とCO2削減」であり、みんな自分の国が有利なようにCO2削減のルールの綱引きをしているのだ。だから“温暖化なんか関係ねーよ”という態度は、だったら好きにすれば、と国際競争からの棄権・離脱を意味する。
鎖国時代ならともかく、エネルギー自給率も食料自給率も極端に低い現在の日本にこのような孤立主義は絶対にありえないので、それだったら中途半端なこと言ってないで、がんがん自分の国に有利なルールを掲げて覇権の旗取りに参加してほしい、というのが個人的意見である。
さて、本書は70年代後半に書かれたものを改訂したもので(改訂にあたって著者は95才!)、当時は「地球温暖化」なんてほとんどささやかれておらず、どちらかといえば「寒冷化」の警鐘があった時代だったように記憶するが、本書によれば少なくとも地球の中で日本列島のあるあたりは、700年の周期で、寒期と暖期がいれかわるのだそうである。その原因は太陽黒点の移動など複合的なものだそうだが、それによると日本列島の場合
弥生中期~弥生後期 温暖期(卑弥呼の頃にピーク)
古墳時代~飛鳥時代 寒冷期(大化改新の頃にピーク)
奈良時代~平安時代 温暖期(将門の乱の頃にピーク)
平安末期~室町中期 寒冷期(元寇の頃にピーク)
室町後期~江戸中期 温暖期(秀吉太閤の頃にピーク)
で、江戸後期から寒冷期に入り(天明の飢饉とかあった頃だね)、幕末の風雲あたりに寒冷期のピークをむかえる。桜田門外の変は3月24日に起こったが、この日の江戸は大雪であった。そこから暖かくなって、現在は温暖期のピークにむかっている途上ということになる。
本書というか、著者の長年の研究は、それを様々な歴史文献や考古学・民俗学資料、あるいは自然資料に基づいて仮説立てしている。文献のほうは、オーロラの目撃とか桜の開花記録などに注目するわけだが、たまたまの異常気象と中長期的傾向が混同している気がするし、火山や地震との関係性にいたっては牽強付会を免れない印象もある。ただ、年輪の観察や、時代ごとの屋根の傾斜角度なんかはわりと信用度が高そうだ。過去においては寒冷期も温暖期もあったということは事実なのだろう。
もっとも、じゃあ寒かったとされる元寇の頃はいったい何度くらいだったのか、暑かったとされる秀吉太閤の頃は何度だったのか、は本書からは分からない。静岡県で油が凍ったとか、四国沖にアシカが出没した、とかエピソードが書かれているだけである。
ちなみにIPCCは、このような「周期的な寒暖サイクルを考慮にいれても、今の温暖化のスピードは速すぎる」と言っている。
本書では京都の桜の開花時期の記録を調べており、それによると温暖期のピークでも桜が咲き始めるのはやっぱり4月だった。現在の日本はちょうど寒暖のピークの真ん中あたり、つまり寒冷期から温暖期に移行しつつあるときなのだが、この時点にして既に最近の京都の桜は3月末から開花する。
これはヒートアイランド現象のせいなのか、それともやっぱり過去にない暖かさになってきているということなのだろうか。
「失敗国家」などとも称される、アフリカの最貧国の、負のスパイラルを読み解く。文明の生態史観のように、「失敗しやすい」条件として4つの項目を挙げている。この4つの項目にあてはまるほど、「失敗しやすい」ということである。
1.内戦
2.天然資源が存在する
3.内陸国
4.劣悪なガバナンス
この4つは互いが互いを呼び合いやすい。また、1の内戦が起こりやすくなる要因として「低成長・低所得」が指摘されているから、要するに状況そのものが原因をつくり、結果を生み出し、その結果がまた原因になっているわけで、もうどこから手をつけていいのかわからないような具合になる。
興味深いのは、2の天然資源の問題。デカプリオ主演の「ブラッド・ダイヤモンド」なんかでも注目されたが、未熟なガバナンスの地に重要な天然資源が生まれると、色々な意味で翻弄され、行政機構としてはかえって破綻する、というのはそうかもしれない。
で、「擬似天然資源」とでも言えるのがいわゆる「金銭的援助」だ。その国の生産力が本来持ち得ないはずの金銭が「援助」されると、その国の経済循環をさらに破綻に追い込む。その仕組みはまるで「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな連鎖関係なのだが、なるほどマネーというのは不思議なものだ。「マネー」の使い手としてのリテラシーが成されていないと、あっという間に奈落の底に引きずりこまれる。
究極の貧困国家がテイクオフするにあっては、中長期的に安定した教育と職業訓練の体制と、それが軌道にのるまでの対処療法としての生活援助というところなんだろうけれど、どこの誰が何のモチベーションでそれをやってあげるのか、と考えると、絶望的な気分になる。
かくいう目的のためには、先進国による軍事介入もありなんだろうけれど、軍事介入する先進国は、いずれにしても自分のところのリターンがなければやらないわけだし、その創出されたリターン(資源やプラントなど)は、結局その国の成長のノウハウとして健全に還元されていない(むしろ利権の争奪の引き金になる)。 当事者国の政府に安定国家行政を図ろうという意図がないというのも救いがたい。
数年前に話題になった写真集。手に入れる機会を探していたのだが、書店で残っているのを見つけた。
以前「地球データマップ」という本を紹介したが、若干刊行された時期が異なるとはいえ(大きくいうと、9.11テロの前と後の違い)、相互に補い合う関係にあう。「地球データマップ」が定量的視点とストーリーという、いわば左脳的(とはいえ、小・中学生むけに書かれているので、イラストなんかも豊富である)であるのに対し、この「100年の愚行」は徹底的に視覚で訴える。寄稿されたいくつかの文章(また、これが名文だったりもするのだが)もあるが、本書を特徴づけるのは、この100枚の選りすぐられた有名無名の写真である。そして写真には、本当に必要最小限、あるいはそれ以下の、実に簡単な説明文が淡々と書かれている。
だからこそ「凄み」がある。
道端に捨てられた病気の子供。
化学物質で真っ赤に汚染された湖と、奇形の魚。
地雷で両足を失ったままごろんと転がる少女。
朽ち果てた広大な森林。
立ったまま手足と首を固定された実験用の猿。
泥沼に半ば沈む名もなき兵士の死体。
人間であることがイヤになってしまうくらいだ。
だが素朴に、感情的にこの「愚行」を省みても、実はしかたがない。ある「愚行」を救うことが、逆に別の「愚行」を発生させてしまうことだってよくあるし、そもそも「写真集」とは、こういう直情的な「訴え」に極めて優れた媒体であって、かえって事態を狭く見せてしまうという裏腹な面もある。
だからといって、ニヒリズムに徹するほど、世の中をキライな人になりたくはない。
ひとつ思ったのは、これから何か目の前で選択肢が提示されたとき、「より、『泣く人』が少なくて済むほう(『笑う人』が多いほうではなくて)」を選びたいということだ。それは、昼食のメニューを選ぶときでも、交通機関を選ぶときでも。あるいはどの商品を選ぶか、旅行先をどこにするか。どっちの仕事を優先するか。どっちの人の言うことを優先させるか。
たいてい、選択に迷うような事柄というのは、どっちを選んでもプラスとマイナスがあるということだ。その際の判断基準として、ひとつこんなことも加えてみてもいいのじゃないかと思う。10人が泣かされて100人が笑う商品よりも、誰も泣かずに10人笑う商品のほうを選んでみたい。
本書の精神は「全てが連鎖して循環している」ということ。たとえば「僕たちが携帯電話を買い換えると、コンゴで内戦が起こる」。また、全地球規模にまで連鎖拡大した理由を、グローバル経済とモノカルチャー(交換符牒としての貨幣)に求めている。
本書は学生むけの本で、偽善的な匂いとか左めいた教条主義の気配を感じることもあるけれど、自分の目の前の行為と自分とは遠く離れたとある場所での現象の因果関係を考えるという思考レッスンはもっとあっていいとは思う。というのは、自分が何かをすることによって(あるいは何かをしないことによって)、どこかの誰かにある影響を及ぼしている、という概念は、相当高度な思考力を必要とする一方で、この想像力が効かないと、どんどん独善的で身勝手になっていくからだ。しかも想像力の範囲が狭いから、本人はそれが独善とか身勝手とかに気付かず、正当な権利であり、賢い行動と自分で思ってしまいがちだ。
先だって「本当の賢い主婦は牛乳を手前から取る」というテーゼを見て素直に感心したのだけれど、主婦が集まる掲示板では非難轟々なのだった。「自分の経営努力を棚に上げて、消費者を悪者にする狡賢い言い訳」といったところらしい。
家計を切り詰め切り詰めやっていく立場から言えば、そんなキレイ事ばかり言ってられるか、ということで同情の余地も共感も多いにある上で、あえて言うのだけれど、よくよく考えると、やっぱり「後ろから牛乳をとる」という行動原則そのものに、暗黙のルールの隙間をついたような自分さえよければ的な「ズルさ」があるようにも思うのである。
日本の食糧廃棄率は4割あるといわれている。一方で世界で8億人が飢えている。で、誰もが「捨てられる食材」と「飢えている子供たち」を結び付けたい、と思う。精神論としては思う。が、これを結びつける実践術がない。
家庭の食材廃棄もあるのだけれど、大きいのは流通や外食産業からの廃棄だ。なぜ、捨てられるまで食材を仕入れてしまうのかというと、欠品が怖いからである。欠品はその店の信用力にかかる。あるのかないのかわからないような不安定な店にお客は来ない。だから、棚管理に厳格なコンビニなんかでは、仕入れ元のメーカーや商社に、欠品になることにペナルティを課すところがある。だから、メーカーや流通はペナルティを課されるよりは、余って捨てられてもいいから大量に商品を送り込む。かくして牛乳は大量に送り込まれ、「賢い主婦」は後ろから牛乳をとっていく。もちろん、捨てられる分の食料だってどこかの牛から絞られたものであり、その牛は誰かが世話をしており、そして水や飼料や土壌を費やされたものである。
また、そういう購買行動が標準になると、けっきょくその買われた牛乳の価格には「捨てられる分」というのも折り込み済みになっていくのである。そうなってくると、我々は牛乳の何にお金を払っているのか、牛乳の「価格」とはいったい何に根拠づいているものなのか、というところに行き着く。
「利他的な行為を利他的な人に対して行うことで自分に返ってくる利のリターンは、はじめから利己的な行動をしてきた人のそれよりも多い」というのはゲーム理論上は実証されているが、本能的にこれを感じ取れる人はやっぱり多くない。意外にも日本人は特にこの嗅覚がない、とも言われているそうな。たぶんそれは「利」に対するねじれた美学が原因だと思う。
NPO法人として地域雑誌を刊行している森まゆみの本で、日本人のNPO活動に対する理解を示す一節に「NPOであるからには『利』があってはいけない、という日本人特有の美学が理解の壁になっている(つまり社会貢献事業であるからには、NPO会員の最低限の生活を保障し、活動を継続できる程度の「儲け」の追及も、拝金主義に見えるということだそうだ)」ということが記してあってなるほどと思ったものだ。
だいぶ本書から話が遠くなってしまった。が、グローバル・マネー経済というものが本来「生きていくためのひとつの手段」だったのに「生きる目的」にすりかわってしまっていること事態には覚醒しておきたい。
そして本書でも紹介されていたマハトマ・ガンジーの言葉を深くかみ締めたい。
「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分がかえられないようにするためである。」