Z世代的価値観
竹田ダニエル
講談社
本書の隅々の情報から察するに、どうやら、著者の前作「世界と私のAtoZ」がセンセーショナルだったらしい。本書はその続編のようだ。くだんの書を僕は読んでいないことを先にお断りしておきます。著者はアメリカ在住の二十代日本人とのこと。本書はアメリカにみるZ世代の洞察だ。
ここ数年言われている「Z世代」。いままでの世代との隔絶があるとか、社会問題に敏感とか、環境保護意識がべらぼーに高いとか、SNSネイティブとか、9時5時の仕事さえ耐えられないとか、代行事業者に退職を伝えさせるとかいろいろ言われているが、僕は半分都市伝説だという疑いが晴れない。いつの時代だって若者はいままでと違うと言われてきたし、大人のつくった社会に異を唱えてきたのはミレニアム世代もさとり世代もゆとり世代も同様である。
むしろ「こいつらは●●世代だからしょうがない」という免罪符をつくってことなかれにしているのは上の世代なのではないかとさえ思う。一時期、海外旅行離れアルコール離れ恋愛離れと、××離れがまことしやかに言われていたが、離れているのは若者ではなくて、既存の価値観が若者たちから剥離してしているのだ、という見方を持ったほうがよいのではないか。どうあったって世の中の流れはとまらないのである。
・・と、なかば自分を律して戒める意味も含めて僕はそう思おうとしてきた。
それでも、我が勤務先に入社してくるここ数年の新入社員をみているとかなーり勝手が違うことを白状する。3年くらいまではなんとか理解と共感の糸口を見つけてきたつもりだが、去年と今年に続けて我が部署に配属された2人の新人とはいまだわかりあえていないきらいがある。ちなみにどちらも男性だ。なぜかそれまで5年連続で女性の新人配属が続いていたのだが、世代のせいなのか性別のせいなのか、女性のほうがなんというかうまく折り合いつけるというか上手に立ち回るというか良くも悪くも賢い、つまり彼女たちはなんだかんだで他の社員や会社のしきたりやビジネス作法とうまくやっていくのに対し、この2年連続の男性新人にはあっけにとられっぱなしである。
どういうことかというと、彼らは自分たちの出すボキャブラリーやアウトプットや立ち振る舞いに疑いも不安もない。その自己紹介の仕方から飲み会の清算の仕方、経費の申請の仕方、取引先への会話の言葉選び、そこに場違いや勘違いがあったことを(優しく)指摘してみても、すみませんの一言もない。今までそれを覚える機会がなかった以上べつに知らないことは罪でも恥でもなく、こっちもそれを批難しているつもりも弁明を求めるつもりも一切なく、本気で謝罪を求めているわけだってもちろんないのだけれど、その場を潤滑油的に流す一言の「すみません」や「気をつけます」が素で出てこない風をみると、本当にこの人たちはピュアに育ってきたんだなあと、むしろある種の感慨がある。それ以前の5人の女性の新人のほうが、その手のちょっとした「やらかし」をしたあとの対処、立ち振る舞いがやはり一枚上手なのである。男性だ女性だということ自体が時代錯誤なのはよーくわかっているのだけれど、ジェンダー的な由来が彼女たちをしてこのような折り合いをつけるスキルをつくったのかと思わないでもない。男性はそのぶん摩擦なくすくすく育ってきたのかなどと考える。
というわけで、ようやく本書の話である。
本書の主張では、そもそも日本でいうところのZ世代は、企業がマーケティング活動の一貫としてとりいれた方便以外のものではなくて、何も本質を言い表してはいないという。「Z世代」というのはアメリカで発現された「現象」なのだ。GAFAにおける生活プラットフォームの上で、ブラック・ライブズ・マタ―に象徴された人種問題、トランプ政権でアジェンダとなった格差問題や移民問題、銃の乱射事件、気候変動そしてコロナ禍といったものをティーンエイジに目の当たりに経験することが、アメリカにおける2000年代生まれの若者たちに何を精神形成させたかという話なのである。
その結果、アメリカのZ世代にみられるのは、強力な自己肯定感と自己有能感への渇望、とでもいうべきものになった。これからの未来において社会も政府も企業もオトナも信用できない、すなわち冷戦後のアメリカがつきつめた民主主義と資本主義のレジームへの疑心があり、頼れるのは自分たちの嗅覚という問題意識の中で、今の自分の採択は大丈夫、という安心と手ごたえをとにかく欲することとなった。この自愛を求める手段としてSNS、とくにこのときにタイミングよく出てきたTiktokが彼らの精神土壌のプラットフォームになった、というのが本書の筋書きである。
そういうことであれば、日本の「Z世代」の原体験はアメリカとは相違がある。日本の場合は、SDGsに代表される社会課題的なものへの関心はむしろ外挿的に後付けされたもので、どちらかというと、拡大するジニ係数と長く続いた安倍政権と少子高齢化という社会ベースに、Instagram・twitterそしてTiktokという匿名ないし半匿名の情報インフラ、そしてコロナ禍によってつくられた世代だろう。「Z世代」はコロナ以前から言われていたが、本当に特異な世代と思えるのは、やはり多感かつ精神形成に重要な十代をコロナ禍にやられてリモートで過ごさざるを得なかった彼らであろうとは思う。
これらがどういう精神形成をつくりあげたかはいくらでも深読みができそうだが、結果的に彼らは「いやに現在の自分のやり方に自信を持っている」という形となって表れているということだ。いつの時代のどの国の若者もそうじゃないかとも思うのだが、ただ彼らの立ち振る舞いや言動をみているとそこに「ぬぐえない不安の裏返し」というのがどうしても見て取れてしまうのである。今やっている自分の言動は正しい、と自信を持っているというよりはしがみついているといったほうが良いか。本書におけるアメリカのZ世代の「自己肯定感への渇望」もこういうことなのでは、と思う。ただ、アメリカのZ世代が、社会への「不信」を背景にそこに新たな「連帯」や「社会変革」を見つけようとする外向きのエネルギーを感じるのに対し、日本のそれは単に「不安」が転じて自分が思っている正しさにしがみついている、という防衛本能的なものをどうしても感じてしまうのである。
これが日本のZ世代なのだ、という風にステレオタイプに決めつけるのはよくない。一人一人の個性の差異は年代や性別の差異よりも大きい、というのがダイバーシティの原則論である。ただ、この世代に確かに共通しているのは学生時代がコロナ禍によるリモートだったということはかなり考慮したほうがよいとは思っている。限られた学生期間を数年にわたって自宅からのリモートで過ごし、通学が復帰しても学友はみんなマスク姿ということがどういうことになるのかというのは、近代史上に初めて現れた自然実験とはいえよう。その特異な経験が彼ら彼女らにどのような自信と不安を植え付けたのかを心底から共有して理解するのは他世代にはもはや不可能である。
ただ、我が部署に配属された新人たちをみるに思うのは、「ダニエル=クルーガー効果」あるいは「ジョハリの窓」などに代表される「無知の知」「無知の無知」に無頓着なのは己れ自身のリスクをむしろ高めるのではないかという老婆心である。信じられるのは自分だけ、なのは結構なのだが、自分自身というのは案外にそう信じられるものではないよ、というのは僕自身の黒歴史もさりながら歴史が証明していることでもある。このあたりのニュアンスを彼らに気付いてもらえる日がいつかくればいいと思っているのだけど、さてどうしたものか。
地形の思想史
原武史
角川書店
本書は、タイトルにあるように「地形」がポイントである。岬、峠、島、高台など7つの特徴的な地形をもつ地域の訪問記だ。
本書の根底にあるのは、地形が直接的に作用して、あるいは間接的に影響して、その地の人文地理環境に因果をつくりあげるという見立てだ。古くは和辻哲郎の「風土」、近年ではジャレド・ダイアモンドを想起するが、近代日本思想においてもそれは現れる。本書では日本の近現代思想にまつわる事件やエピソードを持つ地域ーー大菩薩峠(赤軍派のクーデター未遂事件の現場)や三浦半島(ヤマトタケルとオトタチバナの伝説を持つ軍都)や富士山麓(新興宗教の集積地)などを訪れる。近代思想そのものがこの特有の地形に何を投げかけたのか、あるいはこの地形が近代思想の何を誘い込んだのかを、現地を訪れながら考えていく。このあたりの著者の手腕はたいへんに面白い。政治近代思想史を専門とする著者の独壇場といった感がある。
いずれの章も示唆に富んでいるが、とくに面白いと思ったのは東京湾を挟む西の三浦半島と東の房総半島の対比だ。
この地にはヤマトタケルの東征伝説がある。ヤマトタケルの一行は、西方から三浦半島までやってくると東京湾の入り口、すなわち浦賀水道を船で渡って対岸の房総半島に上陸したとされる。古事記や日本書紀の記述によれば浦賀水道は流れが速くて渡るのが困難とされた。すると、ヤマトタケルにこれまで連れ添ってやってきた妻のオトタチバナが、ここで海を鎮めるためにいけにえとなって入水する。ヤマトタケルは嘆き悲しむも、海は凪いで一行は無事に対岸の房総半島にたどり着く。
この記紀のエピソードに対して近代日本思想のステークホルダーは、素朴に言えば感銘を受け、うがった言い方をすれば利用ないし活用したわけである。オトタチバナの犠牲的行為は夫ヤマトタケルへの忠誠心すなわち「妻の鑑」であり、皇室への忠誠心である「日本人の鑑」なのであった。
とくに西側の三浦半島ーー横須賀海軍基地や葉山御用邸があるーーにおいてはヤマトタケルをまつる神社があり、オトタチバナも一緒にまつられる。明治天皇の内親王や大正天皇の皇后がオトタチバナによせて詠んだ歌が石碑に彫られ、現存している。これらの歌の内容にも先の価値観が見え隠れすることを著者は指摘している。(一方で現上皇后美智子がある講演でオトタチバナに触れた際は、戦後観のある解釈を述べたことも指摘している。)要するに三浦半島における神社はヤマトタケルとオトタチバナという記紀の世界観と歴史観に根拠をおいており、近代日本もそれになぞらえたのである。
記紀の記述にしたがえば、対岸の房総半島にわたったのはヤマトタケルのみである。ところが房総半島ではヤマトタケルはスルーされ、オトタチバナをまつる神社や史跡が実に多いのだ。房総半島にはオトタチバナが身につけていたとされる櫛や袖が海岸に流れ着いた。房総半島の神社はそれらをまつるのである。オトタチバナのことは地名として現代も生きている。「袖ヶ浦市」の、この「袖」とはオトタチバナの袖のことである。「富津」というのは“古い布が流れた着いた津”の意であり、この古い布とはオトタチバナが身に着けていた布を指すらしい。
ここにみられオトタチバナの扱いは「ヤマトタケルの忠実な妻」ではなく、海に没したひとりの乙女なのだ。ヤマトタケルの存在感が消えたことによって「ヤマトタケルのために犠牲になった」という文脈がなくなり、記紀の記述から独立した、ひとりの聖なる乙女が現れるのだ。実際に上陸したのはヤマトタケルだけなのにこのような逆転現象が起こるのである。
東京湾を挟む三浦半島と房総半島の章(「湾」の章)は、記紀の神話とそれにあずかった近代思想の話であり、現代においては過去の名残りとでも言うべきものだろう。しかし、今なお深刻な影を落とす地域もある。本書の中でも大きな課題を投げつけられた感があるのが、「島」の章と「半島」の章だ。
「島」では岡山県の長島と、広島県の似島が出てくる。
長島は、ハンセン病患者の隔離施設「長島愛生園」があったところーー過去形ではない。この施設はまだある。回復者の中には、国の長期間の政策によってこの島で高齢化して社会復帰の道を閉ざされ、故郷に帰っても生活の術がないためにまだここにとどまっている者がいるのだーーで、島の隔離性を徹底的に利用した。この島に本土から橋がかかったのはずいぶん最近なのである。それまでは船で渡るしかなかった。(患者用と従業員や家族用とで桟橋を分けていた)。
広島県の似島は、大本営が設置された軍都広島に付随する形で防疫のための検疫所が設けられた島で、外地から帰還した兵士たちはここで検疫をうけてから本土に上陸した。いわば水際阻止のための島だった。そして検疫所の設備があることがその後の島の歴史を決めた。広島に原爆が投下されたとき、大量の被ばく負傷者が運び込まれた。そのまた多くがここで亡くなった。
これら島はその島の隔絶性ゆえに、現代なお訪れる人は限られ、当時の気配が色濃く残る。広島市内にある原爆ドームを中心とした平和記念公園は立派に整備され、世界的にも知られて訪問者が訪れる。誤解を恐れずに言うと観光地化されている。しかし、この似島はいまだ当時の記憶がむき出しのままひっそりとしているのである。
また、実はこの2つの島は、皇室にもからんでくる。日本近代思想において皇室は切っても切れない関係があるが、皇室の慈愛や浄穢の思想が、事と次第では図らずも残酷な結論になる空恐ろしさがここでは見える。ある意味、本書の白眉とも呼べる部分なので詳細は控えるが、聖武天皇皇后の光明皇后あたりまでたぐることができそうな話である。
もうひとつ重さをつきつけるのが、最終章の「半島」だ。舞台は鹿児島県の大隅半島である。
この地はかつて尚武主義で知られた薩摩藩の地であり、戦前には海軍基地の鹿屋飛行場があった。ここから多くの特攻隊が飛び立った(ちなみに有名な知覧飛行場は薩摩半島にある)。
戦後はここから二階堂進と山中貞則という二人の大物自民党議員が出て鹿児島3区の議席を30年近く確保していた。
そういう土地柄である。これらの因果から、この地は男尊女卑と封建主義の強い、極めて保守的な風土となった。
著者はこの地を訪れ、鹿屋飛行場の歴史館や、二人の議員の記念館を訪れ、2019年に市議会議員になった女性と面会する。この女性はなんとこの地において初めての女性の市議会議員なのであった。去年までこの地、垂水市には女性議員はいなかったのである。もちろん全国唯一であった。
そして、著者がこの地で得た見聞を読むに、大隅半島の保守的な気風はちょっとやそっとでは解けない印象を強く受ける。ようやく女性議員が登場したわけだが、くだんの女性議員とはべつに他の女性候補もいてこちらは落選したのだそうである。そして、この二人の女性の選挙戦術をみるに、ここに根深い闇をみる。(詳細は本書を参照されたし)
一方で大隅半島は過疎化の一途にある。大物議員も亡くなり、JR路線も次々と廃止された。こうしてこの半島の生活空間の孤立化と、外部の血が入らないことによる生活文化の濃縮化をみるのである。
このように地形のはざまに凝固するように近代思想の残滓がこびりついているのを見つめるのが本書である。
それにしても。著者の他の著作でも言えることなのだけれど、全体的に閉塞感が漂う。ありていにいうと重くて暗い。
著者自身の性格によるものといってしまえばそれまでだが、やはり“地形や環境がそこに生きる人の思想や行動をしばっていく”という立脚点によるところが大きいように思える。その思想や行動はイノベーティブなこともあるが(本書でも取り上げられている、明治の東京は多摩地方で生み出された五日市私擬憲法なんかはそうであろう)、一方で、地形や環境は人間の罪や闇をつくりだすこともある。施政者はそんな人間性のスキをついて慣習や制度をつくっていくということをはからずも示しているように思う。
トランプのアメリカに住む
吉見俊哉
岩波新書
もう2年前のことになるのか。
アメリカで大方の予想をうらぎってドナルド・トランプが大統領に選ばれたときの驚愕。
こんなマンガのキャラみたいなエキセントリックな人間を選んでしまうなんてアメリカ国民はアホちゃうかと思わず呟いてしまった。アメリカの大統領選の仕組みは複雑なので一概には片付けられないが、かつてなら予備戦や候補者選びの段階で外れそうな人物であった。
そのトランプだがもうすぐ中間選挙がやってくる。あいかわらずインテリからの受けは悪いが、全般的な支持率はそんなに悪いものでもないらしい。つまり少なくないアメリカ人が彼を支持しているということである。
つまり、我々には見えていないアメリカがあるということだ。サイレントマジョリティならぬアンヴィジブルマジョリティとでも言おうか。
ラストベルトの貧困に落ちそうな白人層が彼の支持基盤というのはいまや日本の受験中学の時事問題にまで出てくるそうだが、もちろんアメリカはラストベルトだけではない。それなりに彼のポジションやメッセージは普遍性があるということだ。
オバマ政権の反動とは当初から言われていたが、僕はオバマの何の反動かといのがよくわからなかった。アメリカ史上初の黒人大統領を選んだ反動で次はとっても白人主義なトランプを選んだということ?
本書を読んでなるほどなと思った。
オバマ政権までは人種や性別による差別をなくした多文化多様性共創社会だった。これまでの人類の歴史は人種を差別し、民族を差別し、宗教を差別し、性別を差別してきたものだった。それの克服こそが真に平和で幸福な人間社会をつくるのだった。
しかし大きな落とし穴がここにあって、それは「経済的豊かさを担保しない」ということなのだ。むしろ既得権益を失う白人カテゴリーが出現するということになる。グーグルやアップルのような巨大時価総額企業も、どちらかというとボーダーレスな企業体だし、そもそもアメリカ国内での工場とか設備投資とかがあまりないビジネスモデルである。つまり多文化多様性共創社会を進めることは経済的損失をある種の集団にもたらすのである。で落とし穴というのはこの「ある種の集団」というのは決して小さい集団ではなく、むしろ大きな票田になるくらいのボリュームを占めるということだ。本書曰く「文化テクストをめぐる理論ばかりに傾注し、現実の経済の問題に正面から取り組むことを忌避した結果」なのである。
「人はいちど楽を覚えるとなかなか戻れない」とはよく言われる。まして収入というすべてに直結するものに至ってはなおさらだ。年収1000万円の人が年収400万円になることの恐怖は、最初から年収300万円で生活してきた人とは別の次元である。世の中の福祉は後者の人を救おうとするが、前者は見過ごされやすいしわ同情も買われにくい。つまり前者の保護は世論から支持されにくい。
しかし、既得権益を奪われることの恐怖と抵抗はけっこう馬鹿にならない、ということがトランプ大統領支持をみればよくわかる。既得権益のはく奪の抵抗感というもの、当事者以外は低く見積もりがちということなのだろう。
トランプ大統領がヤバいというより、そういう人物を選出してしまうアメリカのコンディションがヤバいとみるべきだろう。トランプ大統領の選出と支持はアメリカという国の体調が放つシグナルである。トランプ大統領を支えているものはアメリカに積もる「怨嗟」だ。怨嗟が大統領を選出する世の中というのは過去の歴史でろくなことがない。アメリカ社会における銃乱射事件も性被害告発もフェイクニュースも極まった感がある中での今度の中間選挙のトランプ支持率がどのくらいかはけっこう注目だ。過去の中間選挙はだいたい野党側に有利になるのである程度は民主党寄りにはなるだろう。しかし、そんな予想統計の範囲内で済む下降ならまだ安心できない。
たとえばデマや暴動はどうやって起こってひろがっていくのか、とか、モノや価値観はどのように普及してくのか、とか。
社会にはそんな法則性を要するようなメカニズムなんてない。社会というのは物理法則なんかと違って、どこにも収れんしない無目的なものであり、ひとつひとつの現象事例は多数の偶然と運の積み重なりで出てきたもので、それを物理学のように何か法則性とか目的性があるかのように見立てることができると思い込んでいたのは、ひとえに我々が稚拙な科学技術で観測してそれを常識と信じ込んでいたにすぎない、とまで言っている。ミもフタもないとはこのことだ。
同様に、なぜAppleは成功したのか。それは、成功したから成功したのだ。に最後はいきつく。つまり、本当の意味ではモナ・リザもAppleも再現可能性がない(再現可能性を証明できないという言い方が正しい)。我々は美術学でモナ・リザを、経営学でAppleを学ぶが、では新たにモナ・リザやAppleのような作品や企業を再現できるかというと、できないのである。
若者の「地域」志向とソーシャル・キャピタル 道内高校生1,755人の意識調査から
梶井祥子
中西出版
お堅い論文の集まりだから愛想はないが、言わんとすることは心情的にわかる。
ソーシャル・キャピタルというのは、なかなか定義がむつかしく、ググったって簡明にわかるものは出てこないのだが、あえてざっくり言うと「人脈」である。それも金の切れ目が縁の切れ目にならないような「人脈」だ。本書では「人間関係資産」と表している。言い得て妙だ。
本書は、北海道に住む高校生を調査して、それをもとにいろいろな角度から論じたものである。将来の進学や就職において地元を出るか出ないか、地元から出ようとする力学はなにか、地元にとどまる、あるいはいったんは出てもいずれ地元に帰ろうと思う力学は何か、などをアンケート結果やインタビュー結果をもとにアカデミックに調べている(統計学的に成立するか否かなども厳密に)。
で、要はソーシャルキャピタルを確保している高校生ほど、地元志向が強いのである。地元の家族や親せき関係が良好で、友人知人との関係が強く築かれているほど、地元の進学や就職を希望する。その家の経済状況や、住む地域の規模や経済力も影響するが、そういった地元を出る出ない因子のひとつとして、「ソーシャルキャピタルの程度」が影響するのだ。
まあ、そうだろうなとは思う。
いつごろからか、同じ中学出身の仲間を「おなちゅう」、同じ高校出身の仲間を「おなこう」と称するようになったり、そういった所属するコミュニティごとにSNSのアカウントを使い分けたり、キャラを演じ分けたりーーつまり、「仲間メンテナンス」にいそしむ若者は増えてきている。
こういった、ヒトとのつながりが当人にとって重要なのは、やはりリスクヘッジなんだろうと思う。将来は見えないし、職場は信用ならない。何かあったときに自分のためになってくれそうなのはやはり、地縁や血縁に根差した人間関係だ。ゲマインシャフトだ。地元こそがソーシャルキャピタルの母体だというのはたいへん納得する。
その思いが強ければ、とうぜん進学や就職を意識するだろう。
じゃあ、ソーシャルキャピタルが強ければ強いほど、地元から出なくなるのか、というとそういうわけでもないと思う。
かつて、地方から都市部に人がどんどん出ていった。その理由はいろいろあるが、ひとつはキャピタルが強すぎたためでもあった。大家族主義、ムラ文化、濃すぎる人間関係、確保されないプライバシー。都市生活はこういったものから解放された。60年代に首都圏や阪神圏で続々と団地がつくられたが、そういうところに入居した核家族は、そのさばさばした住空間にすぐなじんでいった(たとえば男女のつきあいや性生活ひとつとっても地方でプライバシーを確保するのは大変であった。ここらへんは原武史の「団地の空間政治学」に詳しい)。
では、地元から出たくなるほどの強烈なソーシャルキャピタル(資産というより負債というべきか)よりはマイルドで、地元に留まりたくなるちょうどよい程度のソーシャルキャピタルのありようと言うのは果たしてあるのだろうか。
ぼくの直観としては、そういう「ちょうどいい水準」というのはないように思う。もちろん個人差もあるのだろうが、ソーシャルキャピタルの程度と、地元志向を生み出す力は、振り子のように強く効いたり、反対に作用したりを状況とともに繰り返すように思う。
かつて息苦しくて、そこから出たいと思われた地元の人間関係が、今度はその場を引き留める力になった。かつてのほうが人間関係は濃かったというむきもあるが、いっぽうで昔は、SNSなんてなかった。LINE疲れなど存在しなかったのである。
ソーシャル・キャピタルの充実は、地方の活性化だけでなく、ヒトととしての幸福量の増大、脱経済成長時代の中で何に生活価値をおくかという点でもたいへん注目されている。高校生がソーシャル・キャピタルの確保に乗り出しているのは、ヒトとしての成熟進化なのかもしれない。水無田気流によれば、いちばんソーシャル・キャピタルが弱いのは中年男性とのことだ。なんとかしなくてはと思う。
水無田気流
日本経済新聞出版社
この人が書いた本は以前からいろいろ追いかけている。文壇には詩人としてデビューしているのだが、いまや完全に社会学者だ。TVでもコメンテーターとして見かけるようになった。
今回も、ミもフタもない切れ味よい文章で、日本の性別役割分業意識がもたらした現代の病理を描いている。そのご指摘いちいちごもっともである。秀逸なタイトルもまさにその通りである。
子どもの声が騒音といってクレームを言ってくるそのほとんどが「居場所のない定年後の男性」という観察は、まさしくそういうことなんだろうと膝を打つことしきり。要するに勤め人時代にほぼ家庭を顧みず、子どもの声なんかこれまで耳にすることもなかった元・企業戦士の男性たちが、定年後に居場所をなくし、家の中や図書館や公園で時間つぶしをしている。子供の声のクレームが話題になった時期と、団塊世代の大量定年の時期は一致するそうだ。
私事になるが、去年自分の住んでいるマンションの理事をやった。輪番でまわってきたのである。で、理事をやってみてわかったのだが、とにかくクレームをつけたり、いろいろ言ってくるのは決まって爺さんなのである。誰も頼んでないのに駐輪場で放置自転車のチェック(1台1台パンクしているかとか、キーがかかっているかとかを確認)を毎月していたり、御苦労なことに各フロアをまわって共用スペースの使い方に違反がある部屋をチェックしたりして、それをご丁寧にエクセルで一覧表にして理事会に提出してきたりする。
そんなわけで、辟易としているのだが、そういった元・企業戦士たちも、好きこのんでその戦士道を邁進してきたわけではない。時代が、周囲が、雇用主が、それをさも美徳のようにしていったのである。それは、少年たちを洗脳によって徹底的に冷酷無比な子供兵にしたてあげる内戦国に一脈通じるものである。
救出された元・子供兵の洗脳を解くことは容易ではないらしい。元・企業戦士たちの洗脳を解くことも、実は大きな社会課題ではないかと思う。
一方、女性たちについての本書の指摘もその通りその通りと思う。僕は男性だけれど、確かにぐうの音もでない。政府が女性の活躍を掲げているその実態が「女性超人化計画」というのは、見事にこの政策の白々しさを言い当てている。今なお残る性差役割分業意識の中で建前だけ平等論を言われ、家事をやり、育児をやり、仕事も(男性同様に)やり、介護もやる女性を作ろうしている。しかも少しでもそれをやろうとすると、保育園には入れず、会社はめんどくさそうな対応をし、介護条件は厳しくなるばかり。「日本死ね」と言いたくもなるだろう。
著者が指摘する通り、これの根底は日本の「性差役割分業意識」にある、と僕も思う。これが高度経済成長時代にあって、それで世の中がうまくまわっていたことが原体験にあることがすべての錯覚である。高度経済成長時代の諸条件が結果として「性差役割分業」を助長させたのであって、「性差役割分業」があったから高度経済成長がなしえたわけではない。
しかし、現在の自民党の成功体験はなんだかんだでここにあるから、未だに家族規範、標準家庭像がここから離れない。「永田町と世間の時間差」とは、これもまたごもっともである。
ステレオタイプな「性差役割分業意識」を改めることは、多様性を尊重する、ということである。著者は、日本社会は「観念としては多様性の重要性はわかっているが、いざ実践となると抵抗感がある」と評しているが、僕は本当のところで多様性なんてまっぴらごめんと思っている日本人が実は多いんじゃないかと思っている。出る杭は打たれるという昔からあることわざ、空気を読むという習性、移民論の排斥、自分以外の立場の人が優遇されることの極端な非難。これは日本人の致死遺伝子といってもよい。生態学的には均質性は種の絶滅をいざなうリスクを極めて高め、種の保存のためには多様性が重要であることがわかっている。
だけれど、男女性差だけではなくて、いろいろな多様を本当に多様として社会を運営していかないとますます閉塞感は募るばかりだ。今はみんな何かしら留保条件を抱えているように思う。僕の勤務先の周囲の同僚をみていると、もちろん育児中のお母さんもいれば、介護中の親を持つ人もいる。奥さんが妊娠中の人もいる。離婚調停中の人もいる。趣味に有給休暇を全て使うことを公言してはばからない人もいる。本人が内臓の疾患もちの人もいれば、過去にメンタルをやられた人もいて、こういう人は仕事量をセーブしないとならない。つまり「無条件に会社に時間を預けられる人」は驚くほど少ないのである。それなのに勤務体系は画一的である。
なんとかならんもんかと本当に思う。
無頼化した女たち
水無田気流
新聞広告をみたら、本書が紹介されていて、あれ? 先に新書がでて、後からハードカバーを出すなんて珍しいなと思った。数年前に洋泉社新書から出た「無頼化する女たち」はなかなか面白ったのである。
だが、よくよく調べてみると、今度は「無頼化した女たち」である。微妙にタイトルが異なる。なるほど続編か、と思った。
そこでamazonで注文した。
で、届いて、本を開いて初めて知ったのだが、本書の半分以上は既刊「無頼化する女たち」の完全再録で占めているのだ。
うーん「無頼化する女たち 増補版」くらいにしてほしかったな。
それにしても、「無頼化する女たち」にある東電OL殺人事件の被害者女性の話は圧巻である。本当にすみませんでしたと頭を下げたくなる。彼女をさいなんだのは、女性の生き方に対して時代が投げた「呪い」のようなものであり、言わば彼女は時代の犠牲者であった。
さて、本書の増補部分で述べられるのは例の木島佳苗である。
こちらも罪状がホントならばまことに極悪非道の悪魔ということになるわけだが、一方で、東電OL事件との対比でみれば、木島佳苗は時代の復讐者であった。東電OL事件と同じ根っこを持つ呪いに対しての強烈な復讐心なのであった。
東電OLと木嶋佳苗を結ぶ一本の軸が見えてくれば、ここに日本社会の病理が表れる。
それは、「男性が期待する女性像」という呪いであり、もはやエートスと呼べる病理である。
これが「女性が期待する男性像」以上にエートスになっているのは、平たく言ってしまえば女性の場合「男性が期待する女性像」を全うし得れることができれば、それは当面の人生を全うできる、平たくいえば金や衣食住を獲得する大きなスキルとなってきたからである。それが良いとか悪いとか幸せとか不幸とかはおいといて。
かたや男性の場合、「女性が期待する男性像」を持っていても、持っていなくても、人生を全うできるかどうかのリスクは、少なくとも女性ほどの影響を被らなかった。これもそれが良いとか悪いとか幸せとか不幸とかはおいといて。
だが、「男性が期待する女性像」を天然でゆるふわでやりきれる女性は実はそんなに多くない。ひとつの社会的処世術として身につけているだけで、もちろん長いことそれをやっているから、身体感覚、運動神経感覚、あるいは生存本能感覚として身についていている人は多くとも、好きでやっているわけでは必ずしもない(同僚の武闘派系女子曰く、いまだにおじさんの多くが大カンチガイしている点)。
よって、その耐性がなく社会から強制されて破滅したのが東電OLであり、その気がなくても側(がわ)だけで強烈な耐性で徹底的に演じきってみせたのが木嶋佳苗であった。
この両端を極として、この「男性が期待する女性像」のエートスに対する攻防、正面突破から搦め手に目くらましに敵前逃亡、完全粉砕から妙手奇手にまで至る幾多の攻防こそが、女子の無頼化の歴史、それも本書言うところの「クソゲー」とも言える。
とはいいつつ、結局は僕は男性で、こんな遠巻きなことしか言えないのだけれど、果たして自分の娘はどのように育っていくのだろうか。
個人的には、ひとりで生きていける能力、すなわち自力で稼ぐ能力を身につけておいてほしいと思う。これは西原理恵子が繰り返す教訓に近く、そこにひどく共感するからである。曰く「自分で稼ぐということは自由を得る」ということ。金がないのは首がないと同じ、自由がないのと同じ。これがどれだけ人生を不幸にするか。
どんなにきれい事をいおうと、自力で稼ぐつまり自由に金を使える身分でないとこの国では幸せになれないのである。(女性の人生のロールモデルを扱う本でやたらに取り上げられるのが光文社の女性誌VERY。しかし、誰も言わないけど、僕はVERY妻(専業)ってすっごくDVのリスクがあると思うんだけれどなあ。)
やさしさをまとった殲滅の時代
堀井憲一郎
またしばらく忙しかったのだが、隙をみつけて本は読んでいてその中の1冊。
2000年代の最初の10年、俗にゼロ年代と呼ばれるこの10年間に日本社会は何を得て何を失ったかを散文調に語っている。
いくつかのキーワードがある。「ラノベ」「BL」「ブラック企業」「スマホ」「ステマ」これらの言葉の中心にあるのは何か。
あるいはネット発のコンテンツである「電車男」と「ブラック企業に勤めているんだが、もう俺は限界かもしれない」の決定的な違いは何か。
本書の鋭いところは(たぶんに皮膚感覚なものだろう)、この10年間は前半と後半で、かなりの相違を嗅ぎ分けていることだろう。
前半の代表が「電車男」であり、後半の代表が「ブラック企業に・・」なのである。
本書を代弁すると、個人主義が行きつくところまで行きついたのが、後半の5年なのである。
もちろん2000年の時点ですでに個人主義はかなりきていた。だがしかし、この時代の「個」は、まだあたたかく他人の「個」を見守る、干渉しようとするだけの余裕があった。
これが後半になると、自分の「個」の優先とのバーターとして、他人の「個」に無干渉でいく姿勢がみられるようになる。本書の言葉でいうと「人に迷惑をかけない限り、何をしてもかまわない」ということになる。
一見もっともな理屈だが、この概念もかなり先鋭化していて、「迷惑」というのはほんのちょっとした手間ヒマだったり、ちょっとだけ相手の作業の中断を必要とする(たとえば電話をかけるなど)」ようなものも入る。そして、「何もしてもかまわない」というのは「ほんの少しの介入も許さない」ということになる。年賀状に子どもの写真がはいるのもNGである。
まるで個人の殻がATフィールド並みに強くなって、これを突破させるのは一つの技術になってしまい、相手に干渉出来る人を「リア充」、できない人を「コミュ障」と区分けできそうな勢いなのが昨今である。
この先鋭化する個人主義――私が私として満足であれば他はどうでもいい。私も他人に迷惑かけないから、他人も私に干渉しないでくれ。私に無理強いするものはすべて「ブラック」であり、そんな私の全能感をひたしてくれるのが「ラノベ」であり「BL」なんだからほっといてくれ。私は欲しい情報があれば、それは私がこの手にもつ「スマホ」で、それがかなり極私的な趣味にかなうものであってもタダでネットで調べあてられるし(なにしろライフログだビッグデータだで、システムのほうもそれを追随しているから)、頼みもしないのに私に押し付けるのは全て「ステマ」なんだから――つまり、極私的でいられることの抜け出しがたい快感にまで社会のシステムが行きついてしまったのが、ゼロ年代後半から今にかけてなのである。
こう考えると、例の悪ふざけ自慢や強制土下座などを鼻高々にツイッターなどで報告してしまうのも、「私」が満足できるからのみの価値観ゆえの行動といえるし、これに対して、天下の極悪人なみに制裁を与えようとするのも、他人に無理強いしたり、迷惑かけていながらなんの罪の意識も感じていないことに対しての許しがたい「私」への侵犯をそこに見出すからともいえる。
実は個人主義がどんどん先鋭化してきていることの指摘はずいぶん前からあった。夏目漱石の「私の個人主義」以来必然の時代と言う人もいたし、社会学では「第2の個人化」というコトバを用いるし、2003年に、この極まっていく個人主義の行く末を秋葉原という都市空間の変容から予言していた本もあった。
だが、その個人主義の先鋭化は同時に恐ろしい排他主義を併存させることまではやはり気付かなかったのである。(ほんの数年前のようにも思うが、現在ならば「電車男」は成功しなかっただろう。)
では、行き着いた個人化の先はどうなるのか?
個人のさらなる分裂か。ひとりの人間がいくつもキャラを使い分ける現象はすでに10代を中心に世渡りのリテラシーとして起こっているし、平野啓一郎はこの先の「分人化のススメ」を説いている。
あるいは究極の大逆流がおこって個は無に帰し巨大なひとつの所属意識に至るのか(おお、まさにエヴァンゲリオン(「ヱ」じゃなくて「エ」のほう)の人類補完計画)。それが暴力的なナショナリズムでないことを祈りたい。(この意味で「3.11はふたたび日本を一つにした」という指摘は、現実はそう牧歌的なわけにはいかなかったにしても、「個」の先鋭化を一時的にでも立ち止まらせる契機にはなったかもしれない)。
ところで、本書では、この2000年代前半の、まだ他人の干渉の余裕が若干ながら残っていた時代と、きわめて個が強くなった後半の境目を2006年から2007年くらいと感じている。その境い目に何があったかを本書は特に指摘していないが、思い返してみれば、このころ「WEB2.0」というコトバがサービスとともに流行ったように記憶する。ブログ、ミクシィ、RSSリーダー、はてな、そしてウィキペディアが始まった頃だ。「みんなが考えることはだいたい正しい」なんてテーゼが出てきたころだ。
そう考えると、実はこの時期ネットに大放流されたのは集合知なんかではなくて、極限まで細分化され、固い殻で覆われた「個」の大バラマキであった、ということになるんだなあ。(ウィキペディアの項目が、諸国の中で日本だけやたらに趣味に特化しているという記事を読んだことがある)