春のソナタ
三田誠広
集英社
クラシック音楽を題材にした小説というのはけっこうある。
最近だと直木賞をとった恩田睦「蜜蜂と遠雷」が大ヒットした。同年に本屋大賞を受賞した宮下奈都の「羊と鋼の森」もピアノの調律師の話だ。推理小説だと、中山千里の「さよならドビュッシー」にはじまる一連のシリーズがある。
僕が好きだった小説は藤谷治の「舟に乗れ!」だ。これは高校生が主人公の単行本全3巻。なにかの賞をとったとは聞かないが、佳作だと思う。高校生たちの青春音楽ものだが、登場人物たちの役割分担(?)がけっこう巧みで、舞台かドラマを見てるみたいだし、物語の展開もなかなか切ない。
クラシック音楽が出てくる小説としてむかしからよく知られたものでは、三田誠広の「いちご同盟」がある。映画化もしたようだ。ヒットしたマンガ「四月は君の嘘」でも引用されていた。引用どころか「四月は君の嘘」は「いちご同盟」のオマージュなんではないか、というくらい、通底に似たものを感じる。
三田誠広にはもうひとつ「春のソナタ」という似たような小説がある。「いちご同盟」の主要登場人物はみんな中学生だが、「春のソナタ」の主人公は高校生。そして周辺に出てくる人物は大人たちである。「いちご同盟」に比べると、「春のソナタ」のほうが鬱屈度が強いというか、重ためであるが、その差は「大人たち」にあるのは言うまでもない。オトナになるということは鬱屈になるということだ。そのためか「春のソナタ」は飲酒のシーンが多い。それも美味い酒ではなく、現実逃避の酒、自分を奮い立たせるための酒、そして慰めの酒ばかりである。
主人公の直樹くんは高校生だからもちろんお酒は飲まない(ちょっと飲むシーンはあるが)。酒に逃げ、酒から逃げられないオトナたちを見ていくことで,彼は真理をつかんでいく。
ところで、「蜜蜂と遠雷」も、「舟に乗れ!」も「いちご同盟」も「春のソナタ」もみんな主人公は若い。10代だったり20代の前半だったり。これにマンガの助けも借りると「四月は君の嘘」も「のだめカンタービレ」も「神童」も「ピアノの森」も、みんなみんな登場人物は若い。
クラシック音楽というと、趣味性が強いというか、高尚なイメージもあってまるでオトナの嗜みのようにも見えるが、実はクラシック音楽は青春ものと相性がよい(これがジャズだとそうはいかないのがミソ)。
クラシック音楽というのは、とくに演奏者にとっては身体能力がものをいう世界なので必然的に若くなる、とか、部活動や学校行事に結び付きやすいというのもあるが、クラシック音楽というものが妙に頭でっかちで中二病を誘発しやすいというのも多いにあると思う。
神童
作:さそうあきら
双葉社
久しぶりに読み直して感動しまくった。
「蜜蜂と遠雷」も「四月は君の嘘」も「のだめカンタービレ」もいいけれど、やはり真の傑作はこれじゃないかと思った次第である。
「蜜蜂と遠雷」「四月は君の嘘」「のだめカンタービレ」に共通するものとして「好きな曲を好きなように弾いて何が悪い」という問題提起があったように思う。なぜクラシック音楽はそれが許されないのか、あるいは許されるときというのはどういうときか、というせめぎあいがこの3作にはあった。
「神童」は、意図的にそれを避けたのか、あるいはそこに価値を見出さなかったのか、この観点をめぐることはない。
「神童」は、天才アーティストの栄光と挫折と復活をメインテーマにしている。
これが実にドラマチックなのである。
そう。クラシック音楽において、「天才」は、はなから「好きなように弾いて、しかもそれがクラシック音楽としての美学を逸脱していない」のである。実存した巨匠である、ルービンシュタインもリヒテルもグールドもポリーニもミケランジェリもアシュケナージもアルゲリッチもそうだった。唯一の例外はホロヴィッツくらいかもしれない。(そのホロヴィッツをモデルにした人物が「神童」には出てくるのも面白いところだが。)
しかし、それだけに「天才」にとって最大のリスクはおのれの身体である。
指回りの身体能力や耳の感受性と音楽全体を見通す論理構築力と、聴衆とのコミュニケーション力みたいなものがぎりぎりのところで高度にあわさって天才の音楽は体現するから、ちょっとした不調が全体の破滅につながる。
まして、深刻な不調となると、これはアーティスト生命全体を終わらすものとなる。
「神童」に出てくる天才少女の成瀬うたは、この破滅を経験する。
そして、主人公である和音は、そんなうたの栄光と挫折、そして復活に並走することで、決して天才ではない自分の音楽の生きる道を見出す。
そうなのだ。クラシック音楽の世界は、一部の天才以外に、「天才」になれなかったごまんのアーティストがいるのだ。「神童」のすごいところは、タイトルのように神童である成瀬うたの起伏を描きながら、主人公である決して天才でなかった和音が、それでも音楽を着地させるところを描いた傑作なのである。
そこには「好きなように弾いて何が悪い」という、クラシック音楽をあつかう話においてある意味語り尽くされたような問題提起はもはや捨象されており、むしろそんな葛藤はとっくに克服したアーティストたちの、それでも天才と凡才の絶望的なまでの格差、それぞれの苦悩、挫折、そして希望が描かれている。
やはり次元がひとつ違うと思うのである。
講談社
これ、どれくらい読者の間口があるのだろう。
ブルックナーの音楽は、どうも真性オタクな人に好まれやすいところがある、というのは僕の私見ないし偏見だ。
これからそれがどういう意味かという説明を試みてみる。
ブルックナーの音楽はわかりやすさとわかりにくさが同居している。
リズムや休符のうちかたにも特徴があり、これもドラマチックな効果を持つ。カタルシス抜群である。
一方でわかりにくいのは楽曲の構成だ。ブルックナーの交響曲はどれもこれもやたらに長大である。長い曲となると80分くらいに達する。ベートーヴェンの交響曲の2倍かかる。しかも主題となるメロディがいくつも出てくるし、それぞれがみせる展開も極めて複雑でややこしい。聴いているほうはなにがどうなっているのかわからなくなり、鬱蒼とした樹海で迷子になったような気分になる。一聴するだけではこの曲の見通しはまず計れない。
つまり、ひとつひとつの響きやメロディはなんともカタルシスを刺激する美味しさがあるし、最後まで頑張れば、ちとダサいところはあるものの感動的で虚脱感いっぱいのフィナーレに立ち会えるのだけれど、そこまでやたらに情報量が多くてひたすら彷徨する長時間につき合わせられるのだ。
すなわち、キャラの造形はどれも魅惑的だけれど、ストーリーは複雑で情報過多、しかもどこか鬱展開、さらにいくつものディレクターズカット版があるという、実にオタク好みになるわけである。
これが展開部になると、主人公の日々の逡巡や過去の思い出がクローズアップされ、それがブルオタ男性の書くブルックナー伝に干渉するようになる。その影響を受け、ブルックナー伝も提示部の頃よりずっと深みを増したものに変容していく。苦悩と試練に満たされながらこの展開部は話が進んでいく。
しかしその結果、2つの主題はそれぞれに新たな心境に到達する。再現部では、両主題とも何やら希望を感じさせて終わる。しかも、この再現部はかなり簡潔に詰めてあってダラダラしていない。
なぜ、これが国際ピアノコンクール小説のタイトルになるのか。
大東亜共栄圏とTPP ラジオ・カタヤマ【存亡篇】
片山杜秀
アルテスパブリッシング
「現代音楽と現代政治」「線量計と機関銃」に続く第3段。
しかし時事放談の色がどんどん強くなって、音楽のほうが付けたしになってきた。近現代の日本史世界史知識を背景に、異なるテーマをアウフヘーベンさせていく様は手品のように痛快。「隕石」と「体罰」なんてどうやって話をつなげるのかと思ったら、「隕石」→「発生するくらい大きな国」→「ロシア」→「こんな国と戦争しなきゃならない日本」→「時短で皆兵して鍛え上げらないといけない」→「体で覚えさせる」→「そういう原体験のある人が人を指導する年齢につく」→「体罰」ということ。これをちゃんといつごろから体罰が文献上に現れるかを検証した上でやってるんだからおそれいる。寺小屋時代に体罰はなかったんですね。
池上彰や佐藤優が面白い人はこちらもいけると思う。斜めにみている分だけより賢げかもしれん。
四月は君の嘘
新川直司
コミックでクラシック音楽ものといえばストーリーの展開、キャラの案配、描写、音楽の造詣、絵柄などなど総合して例の「のだめカンタービレ」が最高傑作ではないかとみており(さそうあきらの「神童」も一目おいているけれど)、これを凌駕するものはなかなか出ないのではないか、と思っていた。
だから「四月は君の嘘」はかなり衝撃的だった。
実をいうと、最初の1巻、2巻くらいまではまあまあかな、という印象だった。
だが、この作品は、巻を追うごとにどんどん洗練と深みが増してきており、5巻あたりから先は大向こうをうならす出来になっていった。
まず、選曲がかなり凝っている。
主人公の有馬公生が選んだショパンのエチュードが作品25-5。24曲あるショパンのエチュードの中ではむしろ地味なほうに属するが、ショパンならではの繊細な変容と巧みな奏法技術がブレンドされた玄人好みの曲で、プロのピアニストでこの曲を愛奏する人は多い。大巨匠ホロヴィッツが生前最後に録音したアルバムにも、この曲が選ばれている。(ライバルの井川絵見が選んだ疾風怒濤の超有名曲「木枯らしのエチュード(作品25-11)」との対比もにくいほどうますぎる)
それから、クライスラーのヴァイオリン曲「愛の悲しみ」のラフマニノフによるピアノ編曲版。ヒロインであるヴァイオリニストの宮園かをりがクライスラー「愛の悲しみ」を持ちだしたときは、えらく陳腐な曲を選んだもんだ、と思ったのだが、そういう伏線か、と感服した(ここから先はネタばれ領域)。
さらにそこから、チャイコフスキーの「眠れる森の美女」のラフマニノフピアノ連弾編曲版となると、これはもうむしろマニアックといってよい。実は2台のピアノのための曲や連弾曲は、クラシック音楽におけるピアノの世界でもわりとマイナーというかイロモノのジャンルだったりするのだが、しかしその亜流分野においてラフマニノフのものは異彩を放つと評価されている。
もうひとつの特色は、演奏シーンの引っ張り方だ。わずか数分間の楽曲の演奏に2話3話と費やすところは、地平線のむこうにゴールポストがみえるキャプテン翼を思い出すが、この拡大された時間と、そこにたっぷりつめこまれた登場人物たちの背景描写や心理描写が実に圧巻である。
実は「のだめ」において唯一の弱点がこの演奏シーンではあった。なにしろ、マンガというのは「音が出ない」表現形態なので、演奏シーンをひっぱるのはけっこう至難なことだと思う。表現手法もわりと類型的になりがちだ。
だから、ここまで引き延ばしてみせたのは驚異的で、邦画屈指の名シーンとされる「砂の器」の、コンサートの場面を彷彿させる。
また、メインの登場人物が中学生という設定も、音楽家の成長を語る上でポイントだ。
いまや世界に通用する一流音楽家になるには小学生から中学生にかけての心身ともの成長期にどこまで熟達するかにかかっている。高校や大学から本格的に先生につくようではとても間に合わないのだ。
しかし、この重要な時期にキャリアを積むにはコンクールでどんどん入賞していかなければならず、だがコンクールで勝つには、この作品でも重要なテーマとなっているように「楽譜に忠実」でなければならない。ことに日本国内はそうである。
この徹底的に「楽譜の鏡」になることを厳しく叩き込まれ、いくつかのコンクールの入賞歴を重ね、それでいてけっきょく誰も知らない無名のピアニストやヴァイオリニスト、あるいはプロ演奏家としては食えずに学校や教室で教えながら過ごしていく人は、実に実に多い。
かといって、海外に出て好き勝手弾いてウケればそれでOKかというと、そういう世界でもない。ある意味、クラシック音楽という分野は、もはや遺物といってもよいくらい、ヨーロッパ伝統文化芸術の権化であって、保守的なことにはかわりないのである。「楽譜の鏡」以上のものを求められながら、なおかつ楽譜の逸脱は許されない、という極めて難しい様式美の上にある。
だから、国内で泣かず飛ばずだったのが海外で大絶賛されて凱旋帰国、というのは実はそうあることではない。
というわけで、今まで出ているのは第9巻までだが、このあと主人公の公正くんとライバルたちがどう成長していくのか、海外に留学するのか、どういう曲を取り出していくのかはたいへん楽しみである。
そしてもちろん、いやに暗いフラグが立ちまくりのヒロインかをりと、どこでどういう形で再び共演を果たすのか(最終回までおあずけってことないだろうな)も注目ポイントである。ピーナッツ・シリーズからの名セリフの引用や、三田誠広「いちご同盟」からの拝借など、読者を試すところも痛快である。
また、音楽テーマを縦糸に、いわゆる青春ストーリーとしての横糸があり、音楽家でないもう一人のヒロイン椿も気になるところである。
現代政治と現代音楽 ・ 線量計と機関銃
片山杜秀
すごいタイトルの本だが、実はラジオ番組の書き起こし本である。
TOKYOFMの関連会社であるミュージックバードがやっているCSデジタル音声放送のスペースディーバという音楽放送チャンネル群のなかのひとつのクラシック音楽専門チャンネルの中のさらに「THE CLASSIC」というチャンネルの中の1コンテンツである「片山杜秀のパンドラの箱」という番組の書き起こしである。
「現代政治と現代音楽」が3.11前まで。「線量計と機関銃」が3.11後を扱っている。
いずれも政治や経済をはじめとする時事放談に、それにからめて色々な音楽を強引(?)に音楽をあてはめて紹介している。音楽といってもJ-POPとかではなく、チャンネルの筋が表すようにクラシック音楽が主である。とはいえ、戦前の歌謡曲とか、どこかの国の民謡とか、音楽の選択にあたってはかなりアナーキーであり、またそこがこの番組の特徴であろう。対する時事テーマのほうも、なかなか硬派で、政治や外交を頻繁に肴にしており、「線量計と機関銃」では原発事故と日本の原発国策がほとんどを占めるようになる。これらと音楽をどう噺として結びつけるかが、当番組のミソともいえる。
しかし、音楽と時事を関係づけて話をつくる、というのが実に「コンテンポラリー=現代的」だと思うのである。
正直に言って、これはやはり音楽の宗教性が喪失したことと無縁と考えずにはいられない。
宗教性というのは、もちろん音楽のことの起こりのシャーマニズムとか、あるいはグレゴリオ聖歌このかたキリスト教との関係だとかいうのも意味するのではあるが、もっとマイルドに人々の心のよりどころ、浄化装置、熱狂の対象みたいなものも含めての「宗教性」である。宗教性という言い方が大げさならば「福音的効果」と言ってもよい。
この音楽の人のココロをとらえて離さなチカラそのものが、いま弱くなっており、むしろ時事時勢の一アイテムとして片付けられる時代になっているように思うのである。、
たとえば、今ではもはや信じられないわけだが、90年代のJ-POPははっきりいってすごかった。小室哲哉プロデュースのアーティストがダブルミリオンセラーを放っていたし、ミスチルだ、ELTだ、ジュディマリだ、とさまざまなアーティストがヒットを出していた。2000年代になってもしばらくは宇多田ヒカルと浜崎あゆみがミリオン競争をくりひろげていた。今のような惨憺たる状況、オリコンのほとんどをAKBとジャニーズが占めてしまい、ボーカロイドの曲に人気が出てくるこの現代の傾向は、やはり考察の対象になると思うのである。
ここで注目したいのはなぜAKBや初音ミクは人気があるのかということではなく、かつてのアーティストのようなものがなぜ流行らなくなってしまったのか、ということだ(かろうじていきものがかりとかミスチルがランキングのどこかにぶらさがっているくらいか)。
2000年代も後半になって、音楽の歌詞やメロディによって魂をゆさぶられ、人生に少しでもモチベーションが生まれるという、すなわち音楽の力が、急速に無くなっていった。それは音楽みずからが力を失ったというより、聞く者が音楽を信じなくなったといったほうが正しいかもしれない。
誰も信じない神は、奇蹟も祟りも起こせないのである。
AKBも嵐も初音ミクも、音楽の力というよりは人そのもの(初音ミクは「人」かという問題はあるが)への参加感みたいなものが人気の根底(もしくは全体)にあり、「音楽」は副次的なものという印象が強い。(なにかパフォーマンスしないと体を成さないから音楽でもやっている、という感じ)。
もちろん、これを悪とも嘆かわしいとも言っていない。これが同時代なのだということだ。
つまり、「何か」よりも「誰か」が優先されているのである。日本人はもともとそうだ、という説もあるが、この格差がさらに拡大しているということだろう。「誰か」が魅惑的でさえあれば、「何を」していてもよい、いっそ何もしなくてもよい(「自分」の気分を害さなければ)、という時代になっている。かつては「何か」をする「誰か」は良いあるいは悪い、という判断順だったのだが、「誰か」がする「何か」は良い、悪い、ということだ。
けっきょく、これはあまりにも「何か」が多すぎて似たものが氾濫し、そして氾濫するわりにはちっとも世の中は動かず(たまに「動く」ものがあるとなだれ式に大ヒットする)、それなら「誰か」の方をシグナルにしたほうが結果的にはずれが少ない、ということである。
で、この「誰か」に全ての信頼性を託すところが、とっても今、コンテンポラリーなのである。安倍晋三が言っていることはすべて正しい(つい数年前は安倍晋三が言っていることはすべて間違いだった)、フジテレビが言っていることは全て揶揄の対象(数年前はフジテレビが言っていることは全てお手本だった)なのである。
案外これはバカにならなくて、予言の自己成就性というか、一方で自信、他方で焦りが生まれるのか、前者はますます成功し、後者はますます自滅していくようなところがある。
そうすると、音楽だって、誰かの意思表明を表すもの、あるいは誰かがその時代にやったことの傍証でしかなくなる。純粋にその歌詞やメロディに心を震わせる素朴な鑑賞は、むしろこの複雑な時代にあっては危険なことになってしまう。
「片山杜秀のパンドラの箱」は音楽を絡めた辛口時事評論という触れ込みなわけだが、辛口なのは当番組の語り口ではなく、音楽に対する世の中の扱い方そのものだったりする。音楽受難の時代なのかもしれない。
おやすみラフマニノフ(ネタばれなし)
中山千里
デビュー作「さよならドビュッシー」に続く第2段。
話そのものは単独で成り立っているので、これだけ読んでも差支えはないが、登場人物が前作と被るので、「さよならドビュッシー」既読のほうが、本書の理解には早い。特に探偵役である岬洋介の出自情報は「さよならドビュッシー」のほうに詳しい。
ミステリの仕掛けなんかは前作のほうが大がかりだったようにも思うが、本書「おやすみラフマニノフ」の白眉は、克明な演奏描写にあるのではと思う。特に、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、そしてラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の細部に渡る演奏描写は、どの曲も数ページを費やして描かれており、実際にレコードを聴きながらよめば、臨場感抜群である。
もう一つの本書の特徴は、いわゆる「音大」の悲喜こもごもがテーマになっているところ。ここらへん「のだめカンタービレ」とかにも触れられているけれど、音大生の卒業後の進路というのは本当に厳しい。お話にならない、といってもよい。要するに、市場の人材ニーズと音大の絶対数のバランスがまったく狂っているのだ。しかも音楽教育というのはとにもかくにも金がかかる。医大よりもかかったりする。
この「おやすみラフマニノフ」は、そんな卒業前の焦燥感をベースにしたとある音大で、時価2億円のストラディバリウスが密室で消失するという事件が起きるのである。
え? ラフマニノフなのにストラディバリウス?
そう。実は本書最大のミステリーはここだったりする。
ストラディバリウスといえば、ヴァイオリンである。主人公の専門はヴァイオリンなのである。だが本書で消えたのはチェロのほうである。
ヴァイオリン専攻の人を主人公にしながら、で、ストラディバリウスを引き合わせながら、消失したのはよりマイナーなチェロのほうである。
だが、そもそもラフマニノフというのは、ピアノで有名な作曲家なのである。ヴァイオリンでもチェロでもなく、ショパンとならぶピアノ中のピアノ作曲家ラフマニノフがタイトルに掲げられているのだ。
つまり、
・主人公はヴァイオリニスト志望の音大生
・事件はストラディバリウスのチェロの消失
・クライマックスの楽曲はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番
この、居座りの悪さこそが本書最大のミステリーである。なぜ、こんな物語にしたのか?
ここからは推理である。
全部同じ楽器で統一するより、少しずついろんな楽器をちりばめたほうが、より広く感情移入を募れる、というマーケティング的な理由か? 作者がどうしてもラフマニノフで話をつくりたかったのだけれど、ピアノだけで話を作ってしまうと、前作と路線が同じになってしまうという編集部からの指導が入ったか? 主人公をチェロ弾きにする学園ものだと、「船に乗れ!」と同じになってしまう、という判断か? 学園もので話をつくろうとすると、いろいろな楽器を登場させないとうまくもたない、ということか?
僕が思うには、この第2作でこれだけバラエティに散らせておくことによって、第3作以降のバリエーションがつくりやすくなる、という長期的展望に基づいているのではないか、という推理である。きっと第3作はあの楽器のあの人と、この楽器のこの人が出てくるな、なんて。
シューマンの指(未読な人に差し支えない程度のネタばれなし)
奥泉光
これまでのクラシック音楽小説を凌駕する読み手を選ぶ本である。
幸いにも僕はクラシック音楽なかでもピアノが好きなので、ここに出てくる楽曲やピアニストの名前はほぼ知っていた(レコード等で聴いた)し、クラシック音楽が趣味な人であれば、出てくる楽曲もピアニストも決してマニアむけではなく、むしろ穏当なところが多いのだが、とはいえ、一般の読者からすれば、これはなかなか挑戦的である。
そもそもシューマンってのが、どこまで人口に膾炙された人なのだろうか。
同時代の生誕200周年のショパンは日本でも人気が高い。また、リストは、フジコヘミングの「ラ・カンパネラ」とか、やたらに超絶技巧な曲を書く人とか、まあそれなりにイメージがあるだろう。
だけれどシューマンというと、どうなのだろう。
たとえば「トロイメライ」という曲はメロディだけならだれもが知っているかもしれない。
だけれど、それが「子供の情景」という組曲のなかの第7曲目にあたる曲、なんてのは一般では認知されてないに違いない。
もちろんクラシック音楽好きであれば、シューマンは超ブランドの作曲家である。
本書は、シューマンのピアノ曲がモチーフになっている。小説のストーリーが進むにしたがって、そこに出てくる楽曲も、作曲された順に登場する。
若々しい技巧曲「トッカータ」、シューマンの性格が現れた「ダヴィッド同盟舞曲集」、最高傑作の誉れ高い「幻想曲」と「交響練習曲」、異形の大作「グランドソナタ」、後期の「森の歌」そして晩年の「天使の主題による変奏曲」。
「クライスレリアーナ」や「幻想小曲集」あるいは「暁の歌」のように、あまりコミットしなかった曲もあるが、なかなか野心的なミステリー小説である。
もっとも、ミステリー小説とはいえ、本書の楽しみは、耽美的かつ頽廃的な空気が見え隠れする文体と世界そのものに浸るところにあるだろう。
なにしろ、本書はシューマンがテーマなのだから。
シューマンというのは、変人が多いクラシック音楽の作曲家の中でも、とりわけ変人である。たぶんに多重人格的な精神疾患があったのだろうと思う。晩年、といっても45歳でライン川に投身自殺し、それは救助されたものの、そのまま精神病院に収容されて翌年そこで死んでいる。
だが、シューマンの楽曲は、そのまま野放図かというとそうでもなく、なんというか「計算された自然体」とでもいうような、きわめて精神のほとばしりのような情熱と気まぐれを見せながら、一方で、周到に音符が書かれている。構成と分裂の極端なバランスでつくられ、いわば絶妙ぎりぎりの均衡なところで成り立っている感じだ。晩年の作品になると、本当にタガがはずれて、遺作となった「天使の主題による変奏曲」なんて、そもそも創作品として体をなさなくなるが、若いころの作品には天才と狂気の狭間をゆくような作品が並ぶ。
こうした美学が作用してか、シューマンをレパートリーにいれるピアニストは多い。実はショパンを弾かない、あるいはベートーヴェンを弾かない、というピアニストはわりといるのだが、シューマンを弾かない、となるとこれはアーティストとしてもぐりのような状況になる。古今東西、一流と呼ばれるピアニストはみなみな内容は違えど、シューマンに関してヒトカドの演奏をする。あれだけロマン派をきらったグールドさえ、シューマンのピアノ五重奏曲を録音しているのだ。
芸術家にはそれだけ、シューマンによせられる何かがあるということだろうか。
本書も、シューマンというそういうアブナイ、しかし人をひき付けてやまない「ひととなり」が全体を支配する。むしろこの小説の世界そのものがシューマン的とさえいえるのだ。
現実と妄想の境界があいまいになったり、どこまでものぼりつめていくような感興の上昇があったり、突然後ろ側の世界がぼうっと手前に出てそして消えていったり。だが、あの話はけっきょくどうなったというような破綻は見せずに、統一感を持って。
というわけで、クラシック好きにはたまらない小説で、随所に出てくるシューマンの楽曲に関する指摘や解釈なんかも実におもしろいのだが(シューマンの曲はみんな途中から始まったように聞こえる、というのはなるほどなあと思った)、あまりクラシック音楽になじんでない人が読むとどういう感想を持つのかしら。やたら大仰で夢遊病的な印象になったりしないのかな。
青柳いづみこ
著者はクラシック音楽のピアニストである。特にドビュッシーの演奏と研究で知られており、博士号ももっているはずだ。一方、非常に筆が立つ人で、ずいぶん前から音楽エッセイ集などを出していたが、最近は新聞の書評委員をやったり、新書を出したり、文筆家としても活躍している。音楽だけでなく、ミステリー小説なんかもお好きなようで、こちらのほうも書評やエッセイがある。
そのセンスが爆発したのが本書だ。実に面白い。なぜ「あのピアニストはあんな風にピアノを弾くのか」というのを、さまざまな資料や証言を糧に、まさしく推理小説のように解題していく。そして、巷間とは真逆のような結論を推す。たとえば「なぜリヒテルは楽譜を見ながら弾くようになったのか?」「なぜミケランジェリはあんなに完璧主義だったのか?」「なぜアルゲリッチはデュオしか弾かなくなったのか?」「なぜフランソワはあんなに“ゆれた”演奏をするのか?」「なぜバルビゼは伴奏ピアニストとして名が通ってしまったのか?」「なぜハイドシェックはあんなに宇野功芳が絶賛したのか?」。
ここに出てくるピアニストの名や、そのピアニストの演奏にある程度のイメージがある人ならば、本書は間違いなく面白いはずである。ことに僕は「リヒテル」と「ミケランジェリ」の章のまことにショッキングな結論に、これは下手な推理小説の何倍も面白いのではないか、とうなってしまった。続編をぜひ期待したい。
さて、本書に出てくるピアニストは前述の6人だが、もちろん、本文中には引き合いとして、さまざまな演奏家が出てくる。
その中で、70年代に登場したマウリツォ・ポリーニが、やはりピアノ界においてひとつのセンセーショナルとパラダイムシフトをつくってしまった、という話がことに興味深かった。
ポリーニのデビュー盤「ストラヴィンスキーのペトリューシュカからの3楽章(「のだめ」でお馴染みになった)」と、セカンドレコードとなった「ショパンの練習曲集」が、“聴き手”にとってすさまじいインパクトを与えたことは事実だが、聴き手や批評家だけでなく、同業者であるピアニストにも強烈な影響、というよりも戦慄を与えたらしい。リヒテルやアラウやミケランジェリを警戒させ、ハイドシェックにあたってはもろに「被害」を被った。ポリーニの「超スーパーテクニック」と「完璧なまでの楽譜主義」が融合した結果現れた新しい世界は、それまでのピアニストのスタイルをすべて、旧世代の遺物にしてしまったようである。ホロヴィッツとかリヒテルのように、超ド級の名声を得ていたピアニストはそれでもよかったわけだが、地味めの存在だったピアニストは完全に忘れ去られてしまった。最近は超情報社会の例にもれず、この業界も物凄い数のCDが毎月出ていて、70年以前に“そこそこ知られていた”ピアニストの録音(LP用)が次々CDとしてリリースされるようになったが、確かに80年代のCD普及期は、ポリーニ以前の世代のピアニストとなると、本当に「巨匠」級のピアニストの録音がメジャーレーベルで出ているだけだった。フランソワだって、祖国フランスと日本以外ではもう半ば忘れ去られている、という話も聞いたことがある。
つまり、クラシック音楽のピアニストだって、人気商売の芸人なのであり、そこには時代の趨勢とか、時代の好み、みたいなものがやはり反映する。ブーム現象ともなったフジコ・ヘミングの人気に、中村紘子がかみついた文章を見たことがあるが、いくら芸術の神の使徒をきどっていても、芸人である以上、自分を偽ってもステージに立たなければならない。観客の期待に答えなければならない。前回成功したのなら、、今回も成功しなければならない。成功するのは当たり前で、もっと成功しなければ、観客の満足にはこたえられない。これがずっと続く人生なのである。どれだけプレッシャーになって返ってくるかは、音楽家でも芸人でもない人でも、日々のサラリーマン生活で多少は心当たりあるだろうし、そんなときに、自分のスタイルを全否定するような新人がさっそうと現れたときの動揺は想像に難くない。
というわけで、激務の間隙をぬって、「のだめカンタービレ 最終楽章 後編.」を見たのだった。ちなみに、コミックにおける同部分は、ここ(第20・21巻)とここ(連載最終回)、映画前編は、ここに、感想その他を書いている。
「前編」と違って「後編」はのだめが主役ということもあって、さまざまなピアノ曲が登場する。ラヴェルのピアノ協奏曲、ベートーヴェンのピアノソナタ第31番、ショパンのピアノ協奏曲第1番、そしてモーツァルトの2台のためのピアノソナタの4曲は重要なモチーフとなる。僕は、クラシック音楽の中でも特にピアノが好きなので、やはり曲と演奏には注目する。
ラヴェルのピアノ協奏曲が持つ楽曲としての特異性は、コミックのときにも記したが、映画での演奏は特に低音にドライブをかけた極めてヴィルトゥオーゾに満ちた演奏で、孫ルイの面目躍如といったところだった。かなり技巧的な難曲ではあるが、あまりこういう風にメカニックを誇示するようには弾かれない曲なので、むしろ個性的な演奏といってよい。
それに比べると、のだめがシュトレーゼマンとやったショパンのピアノ協奏曲第1番は、「独創的な解釈の名演」と映画上では扱われたが、それほど際立ったものではなく、むしろ模範・正統の範囲内だったように思う。
現実の世界では、この曲で「独創的な解釈の名演」といえば1999年のクリスチャン・ツィンマーマンとポーランド祝祭管弦楽団によるものが出色とされている。往年のピアニストだと、1954年にサンソン・フランソワが指揮ジョルジュ・ツィピーヌ、オケがパリ音楽院管弦楽団とやったものが、都はるみもハダシで逃げ出す演歌節ショパンということで、好事家に珍重されていた(これにくらべればのだめの演奏はずっと優等生である)。
また、この曲でセンセーショナルな登場をした人といえば、エフゲニー・キーシンである。1983年、巨匠ドミトリー・キタエンコの指揮、モスクワフィルハーモニー管弦楽団のオケの下でのライブ演奏が堂々たるレコード・デビューとなり、一気に世界中に知られることになった。このときのキーシン君なんと12歳! 神童伝説の始まりとなった。このときの録音は今でも現役で売られているが、天才児というよりは強烈に大人びた子どもという印象で、今聞いても十分に鑑賞に耐えられる。のだめのセンセーショナルなデビューはこのへんがモデルになっていそうだ。
さて、クラシックの様式美の中でひとつの「大成功」をおさめたのだめは、再び「好きなように弾いて何が悪い」というアンチテーゼに引き裂かれていく。この分裂はこの物語の中で何度も訪れてきたものだが、一番深刻なものである。その解消が、映画ではちょっと描写しきれていない気もしたが、これはもう永遠の課題だ。
現実に、この引き裂かれた二つの命題を抱え込んだピアニストも何人か実在している。いちばん有名なのは数年前に亡くなったフリードリヒ・グルダというオーストリアのピアニストだろう。クラシック音楽の完成された美学の中で圧倒的な水準に達しながら、なお、その制約に嫌気を感じ、いっぽうで羽目を外すことこそ音楽の原動力と見切って活動し、ベートーヴェンのピアノリサイタルをすばらしい名演を行った同じ晩に、同じ町のライブハウスでジャズを弾いていた。彼の自作の曲は、ジャジーなものだったり、ウィンダム・ヒル風だったりする。晩年のリサイタルはなんでもありで、モーツァルトの後に自作のジャズを弾いたり、グランドピアノと電子ピアノを交互に弾いたりするプログラムだった。
というわけで、最終楽章後編でみせたのだめの栄光と迷走は、カリカチュアこそされ、現実のピアニストの世界で実際にある夢と現実、希望と絶望なのである。
ちなみに僕は意外にもシュトレーゼマン、つまり竹中直人の「指揮ぶり」にやるじゃないか、と思った。たぶん、千秋すなわち玉木宏とは違うトレーナーが指揮の指導役についたのではないかと思うくらい、指揮のスタイルが違ったのだが、むしろ千秋以上に本物に見えた(あのふざけたヅラで)。