読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

「自分の意見」ってどうつくるの? 哲学講師が教える超ロジカル思考術

2024年11月06日 | 生き方・育て方・教え方
「自分の意見」ってどうつくるの? 哲学講師が教える超ロジカル思考術

平山美希
WAVE出版


 表題には書かれてないけれど、本書は「フランス流 自分の意見のつくりかた」といったところだ。著者は、フランスはソルボンヌ大学に留学後、現地にて教鞭をとっているらしい。

 何かの事象なり誰かの発言なりに接して、それに対してどう思うか? これすなわち「自分の意見」である。会社員なんてやっていると、自分の意見を求められることはよくある。同じくらいの頻度で、特に求めてないのに「自分の意見」を永遠としゃべり続けて周りを困らせる人もいる。

 「自分の意見」というのは案外に難しい。本書はイラストのテイストからみるに高校生大学生むけに書かれているのだろうが、この歳になってもまだ難しい。それは意見ではなくて感想だろう、というのは自他ともにあるし、それは主観に過ぎないだたのコメントだろう、というものだって多く心当たりがある。本書では「主観でない意見なんてない」と喝破しているが、主観か客観かというよりは、その意見は聞くに値するか、何事かの参考になるか、意思決定に役立つか、という観点からみたときに無用な意見であればその理由として「それは主観に過ぎない」とくさされるのが実態に思う。
 意見を言った後のその場の空気が気になって、その意見が正解だったのか不正解だったのかをひどく気にする国民性の日本人は、意見を言うのに口が重くなる。一方でフランス人はそんなのは無頓着でとにかく何か言う訓練をしている、というのが本書である。もちろん口から出まかせではなくて、それなりのロジック構築の訓練を子どもの頃から受けている。このあたりはアメリカのShow&Tellにも通じる話だ。

 そのフランス流の具体的テクニックとは、「問いをたてる」「言葉を定義する」「物事を疑う」「考えを深める」「答えを出す」というステップにあるとか、人が何かを主張するときは発言者が主に何にこだわっているかを「道具性」「経済性」「論理性」「良識性」で大まかに分類して、議論の際はそこを揃えないと水掛け論になったりボタンの掛け違いになったりするとか、弁証法、帰納法、演繹法を駆使せよ、とかいろいろ解説がある。

 それぞれについての解説はなかなか面白くて、この歳になってもなるほどなあと思ったりもする。とくに「①そもそも→②たとえば→③たしかに→④でも」というフォーマットで文脈をつくると自分の意見になる、なんてのは哲学講師ならではだ。矛盾や逆説を導き、さらにはアウフヘーベンさせるのは哲学思考の基本所作と言えるだろう。①は議題がなんであったかの確認、②はその議題の具体例、③は議題が是となる理由の導き出し、ときてここまで与件を揃えてから④でも・・・と導いてみたときに脳味噌は何を引き出してくるか、だ。なにかにつけて反対したり否定したり難癖付ける人はこの④の神経が研ぎ澄まされているのだろうと思うが、①②③をクリアにすることで、それなりに説得力が出てくる。

 要するに本書の伝えたいことは、「自分の意見を言う」というのはそこになんらかの正解(right)があるということではなく、ちゃんと答え(response)ができるということなのである。


 とは言うものの、議論好きの外国人(西洋人に限らない。中国人なんかもそう)とつきあっていると、単に自分の言いたいことを言ってアイデンティティを満たしているだけだな、と思うことは多々ある。まさに単なるresponseだ。
 「建設的な意見」という観点から見れば、海外の議論好きの中には「オレは言いたいことを言った。この『意見』をどう使うかはお前次第だ」という態度の人が多いように思う。しかも、その議題の結論がどうなろうと己の立場は変わらない人ほどいろいろ意見を言ってくる。
 と書くとまるで嫌味っぽいが、要するに自分の発言にそこまでの責任を持たないし、相手もそこまで発言内容の責任を追及しない、という合意がそこにあるのだろう。文化と言ってもよい。日本語は冗長性が多くて定義があいまいなまま会話が進行するのが特徴とされる言語だが、それゆえに上手いこと言えたか言えなかったかは発言者の言語あやつり能力の責任に帰結させることが多い。つまり発言するからには意味がなければならず、失言に不寛容である。一方で英語みたいにロジックがしっかりしている言語は、発言の趣意や定義は明確になるが、それだけに「でも人間そんなに一貫になれないよね」という前提があって発言そのものの責任制は軽くみられている(つまり失言に寛容)とか、そんな見方もできそうだ。英語やフランス語はそれが建設的かどうかは無頓着に意見しやすい言語ということなのかもしれない。

 なんて書くと、著者からはこの「自分の意見」とはまさにあなたはどう考えるのか、という問いへの対応を説いているのであって、議題の解決を進めるための繰り出し方を説明しているわけでない、と指摘されそうだ。「意見」というと社会課題への意見表明みたいな硬派なものを考えがちだが、むしろ食レポを上手にこなすやり方くらいの温度感でとらえるべき話なのかもしれない。


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最先端研究で導き出された「考えすぎない」人の考え方

2024年10月23日 | 生き方・育て方・教え方
最先端研究で導き出された「考えすぎない」人の考え方

堀田秀吾
サンクチュアリ出版


 だいたい、読書好きでこんなブログを長々やっているくらいだから「考えすぎる」クチである。家人にもよく言われる。
 「考えすぎ」は必ずしも良い結果につながらない。考えすぎているときは考察の対象が厄介ごとや面倒くさい類のものであることがほとんどだし、思考がぐるぐるして寝つけなくなったり、自家中毒みたいに隘路にはまって他のことに手がつかなくなってしまうこともある。身に染みてわかっているのだが、この「考えすぎ」は性分としかいいようがない。

 「悩まずにはいられない人 」という本によると、「悩んでいる人は悩みたいから悩んでいる」そうだ。悩んで立ち止まっているほうが事態を前に進めるよりも精神的に楽だからだ。
 これに準えれば「考えすぎの人は考えたままでいたいから考えすぎている」と言えるだろう。

 そうではなくて、考えるのはほどほどにしてちゃっちゃと決断しなさい。その決断の内容がのるものかそるものかは、結果論からみれば実は大事ではない。自分が味わうことになる幸福感(Well-being)としての結果はその決断内容がどういうものであれ、考えすぎて決断を先延ばしにしておくよりももずっと高いというのが統計的に証明されている。本書の「最先端研究」によるとそうなのだそうである。

 また、とにかく先に「行動」、つまり、えいやで手をつけちゃったほうがその先にいろいろ考えるべき判断があるにしても最善に近い結果に着地しやすいとも本書では示されている。早起きにしろ雑事の片付けにろ気が進まない他人への連絡にしろ先延ばしにいいことはない。ひところ流行ったアドラー心理学では、人は考えてから行動するのではなくて、まず行動してからそこに考えがあてはまっていくと唱えられている。だから、行動しないでぐちゃぐちゃ考えるというのは、「考えること」そのものが行動になりさがってしまい、その「考え」に「考え」当てはまることになってずるずると自家中毒のようになっていく、ということだろう。

 ということは、いちばんハードルが高いのは「行動」の最初の一歩である。重たい石の車輪をごろっと一回転させるごとく、ここの気力が大事なのである。フットワークが軽い人はこの最初の一歩にためらいがない人だ。


 僕だってもちろんそんなことはわかっているのだ。それでいて考え過ぎちゃうのだから始末に悪い。むしろ大事なアジェンダは「どうすれば考えすぎずに行動にうつせるか」である。本書によれば

 ①情報を過多にとらない。
 ②メリットデメリットで考えない。
 ③「損しないためには」という発想で考えない。
 ④第3者視点で見つめてみる。
 ⑤なにか夢中できるものに気をそらす。
 ⑥文字にして書き出す

 を挙げている。なるほど、あらためて解説されると思い当たることばかりだ。

 ①情報を過多にとらない。
 行動経済学でもよく言われているが、選択肢が増えると人は判断できなくなる。目の前に3つしか商品がなければ自分が買うべきものはすぐに選べるが、10個並んでいるとどれが最善の選択だかわからなくなる。これは様々な角度からの情報が増えて優先順位が作れなくなるからだ。昨今はとにかく情報が多い。しかもスマホでいちど調べたり注目したりしたニュースや情報については、レコメンド技術によって次々と類似情報が目に入るようになった。もちろんその中には相矛盾するものだって含まれている。判断の材料としては迷うものが増えていってどうしていいかわからなくなる。
 したがって、少ない情報のほうでとどめ、後はシャットアウトしたほうがむしろ行動には出やすくなるということだ。先に言うように、行動をしてみた結果がなんであれ、行動をせずに感じる結果よりは幸福感満足感は高いのだから、意図的に情報は少なくしておくというのは確かにありなのだろう。
 
 ②メリットデメリットで考えない。
 ぼくはあまりメリデメで検証するようなことはしないのだけれど、ぼくの周囲にはこのタイプがいる。しかしこれもいい判断結果を導かない。なぜかというとメリットよりもデメリットのほうを人は過剰反応するからだ。これも行動経済学で有名な指摘である。「結婚はすべきか」なんて問いをメリデメで考えるなんてのはあるあるだが、どうしたってデメリットのほうが多く挙がるし、深刻に見える。そうすると「やらない(つまり行動しない)」というジャッジになりやすい。メリデメ論に陥ったら思考のトラップだと思ったほうがいい。

 ③「損しないためには」という発想で考えない。
 これは、致命的な判断ミスにつながるリスクがあるからだ。「損」に対してのインパクト評価を人は実情以上にとってしまうので、それをカバーしようとしてとんでもないことをする。本書ではギャンブルで損した分を取り戻そうとありえないな大穴狙いをしてしまう話を挙げているが、出銭に関することだけでなく、いわゆる不祥事の隠蔽や粉飾行為もこれに当たると思う。怒られたくないあまりに嘘を嘘で固めたり、「クライシスマネジメントの本質 本質行動学による3・11大川小学校事故の研究 」のように、形だけの整合性をとって面倒を背負うことから回避している間に中身が破滅的なことになっていく例は枚挙にいとまがない。

 ④第3者視点で見つめてみる。
 いわゆる「離見の見」というやつ。自分のことというのは冷静に見れないものである。他人が同じ状況に陥ってたら、案外に自分はその人に冷静にアドバイスをしたり、論点がどこかがはっきりわかったりするだろう。よく自称を自分の苗字や名前で話す人(女性に多い)がいるが、あの自分自身を遠巻き感覚でみる感受性は、ライフハックの一つかもしれない。

 ⑤なにか夢中できるものに気をそらす。
 当座の考察はいったん脇においといて趣味でもスポーツでも他のことに頭を全振りすると、気分もよくなるし、脳の回路もほどけて考察の対象がシンプルになるということ。「アイデアの出し方」にも似たような話がある。脳生理学的に有効なのだろう。園芸が心身によいというのも(「庭仕事の真髄 老い・病・トラウマ・孤独を癒す庭 」参照)同じ観点かもしれない。強制的にぼーっとしてみるのも有効とのこと。いわゆるマインドフルネスだな。

 ⑥文字にして書き出す。
 頭の中のぐるぐるは手を使って文字に書き出すといい。ジャーナリングとも言う。これもよく知られたライフハックだが、スマホのメモ帳などを使うのではなくて実際に手に筆記具を持って書くところがポイントのようである。前頭葉が動くことで、ぐるぐるを司っていた大脳辺縁系の動きがおさまるそうな。要するに「考えすぎる」脳の運動をそもそも止めてしまう効果がある。


 本書のサブタイトルは「最先端研究で導き出された」だ。とは言え「考えすぎ」は情報過多時代の現代病かというとそうではなく、昔の人はこういうのを「下手な考え休みに似たり」「案ずるより産むが安し」と言っていたわけである。昔から人間の性としては知られた習性なのだが、だから考えすぎることに対してどうすればいい塩梅に落ち着くのかは永遠の問いなのかもしれない。さらに最々先端の研究結果求む。

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ヘルシンキ 生活の練習は続く

2024年08月16日 | 生き方・育て方・教え方
しヘルシンキ 生活の練習は続く
 
朴沙羅
筑摩書房
 
 
 本を再読することが最近は少なくなった。ほとんどの本は一度読んだらそのままおしまいである。
 しかし「ヘルシンキ 生活の練習」は初読の他に2回読み返した。たいへん珍しいことである。それくらいこの本は僕へのインパクトがあった。他人にも勧めたりした。
 
 先日、久しぶりに大型書店に行ったら続編が出ていた。やはり定期的に大型書店で新刊をチェックするのは大事である。最寄り駅ビルの本屋では限界がある。
 
 続編は、前回より骨太でハードな内容だった。本書の舞台は2022年以降のフィンランド。つまり、フィンランドと国境を接するロシアが、ウクライナに侵攻したときである。侵攻当時のフィンランドは西側諸国にありながらNATOに加盟していないという地政学的バランスの上にあったが、フィンランド世論はNATO加入に傾く。そうしたナショナリズムの高揚の空気は、著者に前書以上に、多様性とは何かを喚起させることになったようだ。
 
 フィンランドのロシアに対しての歴史上の経緯とそこに生じるアンビバレントな感情は、日本にはなかなか肌感でつかみにくい。だけど、暴虐な大国に常に晒され続けた国であり、その過程ではナチスドイツと手を組んだこともある国だ。PTSDとでもいうか、いびつなナショナリズムがそこに生起することは無理ない気がする。
 こういった世情の中で、フィンランドにおいて「移民」であり、もともと在日韓国人の血筋を持つ日本国籍で2人の子どもを持つ社会学者の著者は、フィンランドのナショナリズムと簡単には同調せず、ナショナリズムと個人は別個のものかつながるものか。一個人が権利を主張するとはどういうことか。どのような人にとっても多様性をみとめる社会とはどのようなものか。「普通」とは何か。と考えを巡らす。もちろん前書に続いて「8時間勤務するなら3時間はぼんやりしてなさい」とかいうフィンランド流生き方(?)も出てくるが、全体的には「生活の練習」を通り越して、多様性を否定されないための「生き方の練習」のレベルに格上げされた感がある。随所に関西弁とオチを挟みながら。
 
 
 ここで面白いのは、個人が生活をする上で、あるいは生きていく上で、困ったことになったり嫌な思いをしたり、みじめな思いをしたりすることがあったとしたら、それは個人の性質や能力に原因と責任があるのではなく、そうなるような社会の制度設計そのものに原因があるという本書が提示した考え方である。環境が状況をつくるということ。社会学者ならではだ。
 
 で、社会というのは流れに任せると、「普通」と「普通でないもの」に大別される状況をつくってしまう。ほっとくと正規分布される自然現象みたいなものだろう。正規分布の大部分はその出現頻度の高さから「普通」になる。しかし正規分布の両端はその出現頻度の低さから「普通でないもの」になる。そうするとパワーバランスみたいなものがそこに生まれて、マジョリティが「普通」、そうでないマイノリティが「普通じゃない」になる。
 
 本来的には、マジョリティとマイナリティは数の大小の差でしかないが、社会はここに価値差を生じさせる。議会制民主主義でトラップになりやすいところだ。ダーヴィニズムとでもいうか生物的生存本能がそうさせるのだろうか。数の多いほうが正義に錯覚しやすい。
 なので、マイナリティがマイナリティゆえに損失を被ることがあるとすれば、それはマイナリティゆえの性質や能力に原因があるのではなく、マイナリティが損失を被るような社会の仕組み(規則・規約・倫理・規範など)をマジョリティに属する人たちが無自覚的につくってしまっていることに原因があることが多い。
 言い換えると、移民や他国籍者や性的マイノリティや障がい持ちや片親家庭や左利きや職場の女性が、生きていく上で困ったり嫌な思いをしたりみじめな思いをすることがあるとすれば、それは、社会の仕組みが彼らに対して親和的にできていないということであり、彼らの「そうではないほう」つまり自国民や自国籍者やシスジェンダーのヘテロセクシャルや健常者や両親法律婚家庭者や右利きや職場の男性が「この社会は我々に特権が傾斜されている」ことに気がついていないか、その「特権」を手放したくないバイアスを持っているからと言うこともできてしまうのである。
 
 いやそんなことはない。ちょっと以前ならいざ知らず、今の社会は行政も企業もマイナリティへの配慮がずいぶん進んだと言うむきもあるだろう。確かに企業オフィスや店舗には多目的トイレ(ジェンダーレストイレ)が設置されていたり、公共施設には段差のないスロープが設置されていたり、多言語対応していたりする。もちろんこれは進歩である。
 
 ところがこれはまだ「普通」と「普通でない」が大別されていることにはかわりない。企業オフィスに多目的トイレは各階にない。店舗も男女別のトイレ設備は複数あっても多目的トイレはひとつしかない。公共施設のスロープはすべての入り口にはない。視聴覚言語障がいの対応対応は店員に申し出ないと出てこない。つまり、マイナリティ用の受け皿は確かに用意されてはいるけれど、マジョリティに比べてアクセスの機会が限定格差されているのだ。これでは「普通」と「普通でないもの」に大別されている前提は変わっていないのである。
 
 じゃあ、どうすればいいか。
 
 いったんここで暑苦しい極論めいた話をする。オフィスや店舗のトイレは、すべてを多目的トイレにする(シスジェンダーの人も使える)。公共施設のアプローチはすべてスロープにする(健常者も使える)。多言語対応はすべてをあらかじめ掲げる(母国語も同列に入っている)。
 極論するとそういうことになる。すぐには無理でも、少なくともそういう思考と志向が求められる。強制的にそうしていかないと、なりゆきまかせの社会は「普通」と「普通でないもの」に大別していく流れになる。
 
 しかしそんなものいちいち個別に配慮していっては、社会が滞ってしかたがないと思うむきもある。人手も予算も面積も限界がある。大多数はそう思うだろう。
 だけど、その「滞った社会」こそが本来あるべき社会だったのだ。「滞ってない社会」とは誰かが特権を貪っている社会、なのである。あなたが自分は滞ってない社会がいいと思うのだとすれば、それはあなたは特権を貪っていたということである。
 
 このようなマイナリティを合理的配慮のもとでノーマライゼーションしていくべしという話は、きわめて力こぶし的というか、左翼的主張というか、要は暑苦しく優等生っぽく闘争的な気配を漂わせがちだ。それゆえにこの類の話は政治的色合いやイデオロギーを帯びやすいきらいがある。
 
 そこで本書だが、フィンランドにはもっと力を抜いてごく自然なテンションで、そのような多様性を維持したまま社会とのつながりをつくろうとしているのだなと思った。そのテンションは、それってそんなに眉間にしわ寄せて乗り出さなければ言えないこと? という感じだ。この脱力感の発見こそ本書の白眉だろう。
 
 とくにそれを感じたのが、著者の長男が通う保育園での「特別支援」である。長男はやや注意力散漫・感情的であるということで、フォローする先生をひとり「特別支援」としてつけることになった。著者は最初そこにとまどいと抵抗を感じる。
 しかし、保育士の口ぶりは、名前こそ特別支援だが、実際のところその「特別」に特別感がない。この世の中に「普通な人」などいない。誰もがその人に特化された支援を受けるべきなのだ、という話になる。あなたの子供の場合、その特化された支援がこの「特別支援」だっただけである。
 
 そうなのだ。世の中に平均的に普通な人などいない。これは統計のマジックであって、多くの人はなんらかの留保持ちなのである。片耳が聞こえない。片目が弱視である。実は内臓疾患がある。実は不妊症無精子症である。実は子どもが発達障害である。実は親が認知症である。実はアレルギー持ちである。実は鬱病歴がある。実は注意力散漫である。人見知りである。運動神経がよくない。高いところが苦手。。
 だから、「移民だから」「性的マイノリティだから」「女性だから」という粒度でのくくりはまだ多様性ではないのだ。むしろこれは施政者の都合の良い整理でしかない。そうではなく、社会との親和のスキルを得るために一人ひとりにチューニングされた支援が必要なのである。そのためには膨大な予算と人員を割り当てる必要があるが、それでもよい。それが社会運営というものなのだから。というのをマイルドに試みているのがフィンランドだったのだ。
 個人の差異は、属性の差異よりも大きい。これは多様性尊重の基本である。ゆえに「個人の差異と社会の適合を試みるのが多様性への適応ということになり、その真価は「何もケアがいらない『普通』など無い」というところに行きつく。
 したがって予算や人員のリソースを個人個人の社会適合にあてるのは社会運営として当然ではないかということになる。むしろ施政者側やコミュニティのリーダーが「国籍」や「民族」や「性」といった粒度の属性を旗印に何かを機動させようとしたら、それは施政者側に都合のよい「普通」と「普通でない」ものにわけたい思惑がそこにあると思ったほうがいいのである。

 その肩肘張らない多様性の国フィンランドがじゃあ上手くいって天国なのかと言えば、著者いわくそういうわけでもない。歴史修正主義のナショナリズムは台頭するし、連立政権はぐだぐだだし、ストライキは不便だし、言語はややこしいし、寒いし、暗いし、モノは無くて物価は高い。
 でも、それもこれもフィンランドである。固有の歴史と地政学を持つフィンランドだから、多様性の保全に努力するし、努力しなければフィンランドは保てないということでもあろう。それならばなにか好きなところをみつけて生きていく眼をもったほうがいい。これもまた、何が普通で何が普通でないかといった鑑識眼ではなく、どれもそれぞれ固有の長短を持つ愛でたきものなのだと受け入れる審美感のなせる技だろう。


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庭仕事の真髄 老い・病・トラウマ・孤独を癒す庭

2024年06月22日 | 生き方・育て方・教え方
庭仕事の真髄 老い・病・トラウマ・孤独を癒す庭
 
スー・スチュアート・スミス 訳:和田佐規子
築地書館
 
 
 けっこうなボリュームの内容だが、言っていることはほぼ一貫していて冒頭で大意をつかめば、あとの大半はその補強情報といったところである。つまり、園芸や家庭菜園は、心身のために非常によく、心の治療や、利他精神の発露、対人症の克服、筋肉や内臓の健康回復と維持などに役立つ。
 現代社会における生活に少しでも悩みやストレスがあれば、これはなにはなんとも庭仕事をするのがよいのだ。
 
 庭というものを己の心身から離れた対象物ではなく、心身の一部あるいは心身が拡張された領域として扱えることができるという観点が、ガーデンニングの国イギリスでベストセラーになったポイントだろう。心理療法のひとつに、箱庭療法というのがある。庭と身体はボーダーレスなのだ。園芸という行為は、自分自身を整え育むことなのである。
 
 われわれ人類は、庭のような適度な広さで安全が保証されている自然空間に強い心の安寧をいだく。
 人類史20000年の中で、人間の身体は遺伝的に植物が放つさまざまな緑色や樹木が持つ非定型な輪郭、花の香り・土の匂いに好感と安寧を持つようになったのだ。人類にとってむき出しの大自然は脅威ではあるが、安全が確保されている庭ならばむしろ、自然とのほどよい相互作用の中に身を委ねることができる。園芸をしたことがある人ならば誰しも心当たりがあると思うが、農作物を育てるにも樹木草花を育てるにも、なかなか思うようにはいかない。かといってまったくコントロール不能かというとそうではない。自然の摂理の先を読み、雑草の駆除や新芽の間引きなど攻撃的なことをすることもあれば、風雪を避けたり水をあげたりと防御的な行為をする。継続的にケアをしていけば、大筋で当初想定していたような結果の庭になっていく。園芸とは、思い通り半分想定外半分のほどよい難易度の作業である。この適度な塩梅が心の平安を作り出すのだ。
 
 いちど庭仕事を開始するとやがて没頭して、日常の些事や悩みが頭から離れていく。手足を動かし、指先の感触に敏感になる。やがて少しずつ変化する自然のうつろいに気が向くようになり、現代生活をとりまく規則的・直線的・定形的な圧力を忘れていく。つまり、古来から人類が身体にもっていた感覚を取り戻す。人類史20000年を宿す身体のDNAにおいて、現代生活がもたらす刺激はどうしたってストレスを蓄積させるのである。園芸こそが現代社会を健康に渡り歩くための大事なエクセサイズなのだ。
 
 
 とはいうものの、本書は園芸大国イギリスの話だ。
 
 我が日本も、その自然観からすればここに書かれることは大いに共感するし、寺社の庭園なんかはそもそもが精神の一体化を前提としているところからすると、このような思想はむしろ先行していたのではないかとさえ思うが、実際のところ日本の住宅事情では必ずしもみんながみんな庭を持てるわけではない。本書のような日々を送ることは日本の都市部に住む人ではなかなか難しい。
 それでも、マンションのベランダにおけるプランター菜園とか玄関や路地裏の小路に置かれた鉢植え、宅内に飾られる季節の一輪、盆栽や観葉植物。なんとかして植物を置こうと希求する姿は、単に対象物を愛でたいというだけではなく、防衛本能とでも言いたくなるような突き動かされる何かがあるのだろうと思う。疲れたサラリーマンがやたら老後の自足自給生活を夢想するのも、そこに安らぎを求める何かを理屈抜きで本能的に感じ取っているからかもしれない。
 
 まずは室内に飾る鉢植えでも物色してみようか。

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「科学的」は武器になる 世界を生き抜くための思考法

2024年05月01日 | 生き方・育て方・教え方

「科学的」は武器になる 世界を生き抜くための思考法

早野龍五
新潮社

 浅学にして著者の名前を知らなかったが、科学者としていろいろ知られた人のようである。福島原発事故のときはTwitterで中立的なデータ情報を発表し続けてたというから、僕も目にはしていたのかもしれない。

 「科学的」とは何かーーいろいろな人がいろいろなことを言ってきたように思う。数字で証明できれば「科学的」なのか、再現性を担保することが「科学的」なのか。
 本書では「科学的」という言葉を、役に立つことを前提に結果から逆算して取り組むのではなく、どうなるかわからない、何に役に立つかわからないけれど、ただ仕組みや仕掛けの解明に追求したいという気持ちでの取り組みを「科学的」としている。科学的態度といったほうがいいのかもしれない。過去の偉大なる科学的発明発見の多くは、当初の目的から外れたところでなかば偶然に見つかったものだったり、とにかく無暗矢鱈にトライ&エラーを繰り返すその行き当たりばったりの中でなぜかよくわからないけど一つだけ成功したものだったりすることが多い。
 であるから、目標定めて最短距離で最大成果に到達させるようなコスパタイパ思考の持ち主は「科学的」とは言えないわけである。どうなるかわからないし、何の役に立つのかわからないけど、なんか面白そうだからとにかくあれこれやってみる。このモチベーションが実はイノベーションのとっかかりになる。このあたりの考えは「役に立たない研究の未来」も別の角度から同様の主張が為されていた。

 実は、このような概念はよく言われてはいるのである。セレンディビティピティやブリコラージュといった思考にも通じるし、スティーブ・ジョブズの名言のひとつ「stay foolish」はこれに通じるように思う。寺田寅彦は「科学者とあたま」というエッセイで、あまり先が読めてしまう賢い人は無駄撃ちや遠回りを避けるから偉大な科学者にむかないということも言っている。
 これを計画的に経営に取り入れるとチャールズ・オライリーの「両利きの経営」になる。

 これだけ言説があるのに、現実の世の中はなかなかどうして「科学的態度」を許してくれない。目論見と勝算を尋ねられ、結果のコミットを求められる。我々だって自分の税金が国のなにかの研究や開発に使われるとき、どうなるかわからないけれど面白そうなのでいろいろやらせてください、では納得できないだろう。

 つまり、「どうなるかよくわからないけれどなにかおもしろそうだからとにかくいろいろやってみよう」という科学的態度は、誰もが思うものすごく魅力的なユートピアでありながら、でも、誰だって自分の負担で他人にそれをやらせるには抵抗がある、という極めて難しい理想なのである。

 思うに、「科学的態度」を貫くには庇護者が必要ということではないか。サントリーの創業者である鳥井信治郎の矜持は「やってみなはれ」であったことは有名で、これは今でもサントリーの社訓になっているという。(これに対し「見ておくんなはれ」と返すことでワンセットになるのだと、同社の人が言っていた)。
 科学的態度が必要なのは、科学者ではなくてマネージャーやスポンサーの立場の人なんだよなー。昔の芸術家のパトロンは偉かったんだなーと思う。


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なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない

2022年12月01日 | 生き方・育て方・教え方
なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない
 
東畑開人
新潮社
 
 本屋さんでレジ待ちしているときに横をみたら平積みされていた。
 著者の名前に見覚えがあった。沖縄のセラピストを取材した「野の医者は笑う」の著者だ。この本はなかなか異色で面白かった。臨床心理士である著者が、沖縄の様々な民間療法セラピストと対決(?)するドキュメンタリーだ。瀉血を行うセラピストの場では、著者も血を抜かれてそのハイ気分を味わっている。
 
 「野の医者は笑う」から幾年か経って、いつのまにか著者は精神科クリニックの開業医になっていた。なんだか感慨深い。
 本書「なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない」は、あとがきによれば「メタ自己啓発本」。つまり、世の中にある自己啓発本やセラピー本、いろいろ流儀や主張はあるけれど、もうひとつ上のレイヤーから眺めてみれば、悩める人の心のからくりというのは要はこんな感じなんだよーという本である。
 
 すなわち、現代人の悩みは、あまりにも現代人が「孤独」にある(本書の表現を借りると「小舟」で大海を航海している)ことに起因する。社会のありようが「孤独」に生きることを強要するのだ。社会学で言うところの「個人化」というやつである。昭和から平成へと時代の変遷の中で、農村の大家族主義、地縁血縁の縛りが弱くなり、会社の家族主義も最近は流行らなくなり、結婚の圧力と後押しの力も弱くなった。これは当時の日本人が望んでいたことでもあった。しがらみより個人の自由を選んだのだった。しかしそれはいっぽうで自己責任の社会であり、他人の困りごとや悩みに冷淡な社会でもあった。人々は一人ひとりが小舟で世の中という大海を漕ぎ出すことになった。
 このような人生を強いられると、生きる上での価値観やよすがは「シンプルなものになる」というのが本書の指摘である。とにかくお金を儲けなければならない、とか、とにかく仕事で成功しなければならないとか、とにかく失敗だけは避けなければならない、とか。つまり、心のもっていきようがシンプルになるのだ。至上主義になると言ってもよいかもしれない。シンプルなのは一見良さそうに思えるが、実はそうではない、シンプルというのは正解はひとつで、あとはすべて間違い、ということである。社会の価値観がシンプルをもとめ、それを追求する人の心もシンプルになっていく。社会の問いかけはたった1問。その正解もたったひとつ。あとはすべてナシ。この世の中をサバイバルするには、正解の道はただ一つだけ、その他の分岐路はすべてゲームオーバーになる、という超難問な迷路かクソゲーのRPGにようになってしまった。
 そこで、どうサバイバルすべきかということをうたい、あおる自己啓発本やオンラインセミナーが市場に溢れているのである。
 
 いや、そんなシンプルじゃないんだよ。臨床心理学や社会学をしっかり深追いしていくと、その強迫的に迫ってくる一つの心的疲労には補助線が引ける。補助線をひいてみると我々の心は実は相反する二層になっていて、それぞれが真理を求めてやまないのだ、というのが本書だ。その二層というのがいろいろあって「馬とジョッキー」「働くことと愛すること」「シェアとナイショ」「スッキリとモヤモヤ」「ポジティブとネガティブと純粋と不純」である。最後のだけでは縦横二本の補助線になって4つの象限になる。なにやら人を食ったような表現だが、いちおうアカデミズムに根拠があるものを著者の言葉で形容したものらしい。
 
 なにかひとつの信念に凝り固まってこじらせてしまっている人を、いや実はそれ2つあってさ、という風に分解するのは有効な手立てのように思う。まっこうからあなたのその考えは間違っている否定されるとそれを受容するのはかなり困難だが(人は悩みたいから悩んでいる)、実は2つあって今あなたが沼にはまってしまっているのはこの片方のほうなんだよ、というのは光明が見える語り口だ、臨床心理学士は、もちろんいろいろな事例や症例を学んでいるのだろうけど、クライアント(患者さん)にどのように相手をしてどのように話をきいてどのように突破口を開くかのコミュニケーション術もやはり巧みだななどと、ちょっとお門違いな感心までしてしまった。
 
 それから本書の特色は、事例(としてはあまりにも長大な)として挙げられるミキさんとタクミさんの物語だ。まるでテレビドラマでも観ているような波乱万丈だが、シンプルな価値観に支配されてしまうことがそもそもの子供時代の家庭環境に原因があり、それが大人になってなおここまで自他を傷つけてしまうのかと思うとやるせない。
 
 シンプルな価値観に押し切られるには、いやいやそもそもそれは2つあるほうの片方であってさ、でもいいし、まあまあちょっと結論出すのは保留にしようよ、というやり口もある。なんにせよいまの社会は個人に対して優しくないのであって、個人でなんとかこの悩みを解決しようと思うこと自体が、ますます社会の思うつぼに囚われてしまっているということかもなあ。

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ヘルシンキ 生活の練習

2022年11月16日 | 生き方・育て方・教え方
ヘルシンキ 生活の練習
 
朴沙羅
筑摩書房
 
 本書は、幼い子供2人をつれてフィンランドの首都ヘルシンキに移住した著者のエッセイである(シングルマザーではない)。とはいえ、ほんわか北欧生活エンジョイ話でも、子育て奮闘記録でもない。あえていうとフレディみかこの「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」は近い類か。本書の前半は移住手続きや転職や子どもの就学の経験を通してフィンランドの福祉行政やものの考え方などが描かれるが、これを伏線にして後半になると著者自身や著者の家族、国への所属意識の是非といったアイデンティティに深く問答するようになる。なぜ勉強をするのか、どうして公共心が必要なのか、ジェンダーとは何か、戦争とは何かといった深淵な問いにも直面する。
 本書は生活エッセイではなく、フィンランドという国を通して、日本にまとわりつく思考様式と行動様式、あるいは日本と比較してのフィンランドの特徴。日本とフィンランドの「違い」。さらに“「違う」とはどういうことなのか”というのを思考し、問題提起していく内容だ。必ずしも北欧礼賛でもない。かといってアンチ北欧でもない。努めてクールな内容である。(随所に関西弁のオチがしかけられているが)
 
 本書を成立させている最大の特徴は、著者の来歴だ。戦後生まれの日本国籍をもつ在日コリアン女性である。結婚して子供が2人いる。著者の父親は韓国人で母親が日本人。どちらも戦前生まれ。戦前の価値観を身につけ、戦時中は空襲、戦後は平和運動を経験している。
 このような来歴を持つ著者が、幼少の頃からいろいろ苦悩させられたことが本書でも悲痛に語られている。好奇心と色眼鏡と無意識のバイアスにさらされたことは想像に難くないが、それで30年余り生きることが実際にどんなだったのかは当事者でない僕には絶対にわからない。
 そういった来歴が著者の思考、思想、行動、得手不得手を性格や人格として奥底から形成した。この人格を持つものにとって日本は生活がしにくいところだった。まして自分の子どもはこれからどのように日本で魚の目鷹の目見られて育つのか、を考え出すと沼にはまる。ついに海外移住を決断する。
 著者のフィンランドの移住は、日本の閉塞からの脱却なのである。生半可の移住ではない。その覚悟は、私はフィンランドの「移民」なのだ、という言い方で著者は本書にしっかり書いている。移民が移民にならざるを得ない事情はいろいろある。祖国の社会的事情、経済的事情。著者のそれはれっきとした「事情」であった。
 
 では、フィンランドで生活を送ることはそんなに「幸福」なのだろうか。
 北欧といえば「幸福度ランキング上位」である。日本の幸福度ランキングは世界的にみて低い、とよくニュースでも報道される。しかし「幸福」の定義とは何か。
 
 著者の結論から言えば、フィンランドの図る幸福とは日本の感覚でいう幸福=「happiness」ではなく、最近まことしやかにキーワード化されている「well being」なのである。
 たとえば、こういうのはフィンランドが考えるところの「幸福」ではない。
 「でっかい車に乗って毎日和牛を食べて豪邸に住んで最高だぜ!」
 「世の中に嫌なことはたくさんあるけど、家の外に出れば素敵なカフェやパチンコ屋や居酒屋があってそこに行けばほっとするし、ショッピングに行ったらいいものがお値打ちである」
 前者はカリカチュアだが、後者のような「小市民的幸せ」もフィンランドの「幸福」ではないのである。フィンランドの幸福とは
 「人間関係はそこそこありつつもお互いに一定の境界線を引き、ある程度から先は放置することができるような法制度が整っており、それを人々が十分に利用できて、自分や社会の状態に納得している」
 状態なのである。これはwell beingなのだ。
 
 なぜフィンランドでこれが「幸福」になったのか。著者は歴史博物館に行き、様々な資料をひもとき、人々のファッションを観察し、店の品ぞろえを体験し、結論する。
 もともとはといえば、北欧の気象条件がなせる地勢と、列強ロシアに脅かされてきた歴史がそこにある。地勢的条件・地政学的条件・地理学的条件は、結果として政府への信頼強化と、アメリカ型のマーケティングカンパニーの進出が遅れる経済環境をつくったのだ。そこで人々がしっかり生きるためには、あの名高い高税負担と高福祉という大きな政府のガバナンスが必要なのである。
 したがって「年の半分くらいの間、外は暗くて寒くて長時間いられないので、室内で過ごす。」「たいしていいものはない、あってもなかなか買えない(税金で高いので)」「おいしいレストランもそれほど見当たらない」「欲望を刺激するものに出会えない」ことを「心が静かになる」と受け止められない人にとってはフィンランドは幸福な場所ではない。「職場の服装で大切なことははなんですか?」というTPOの質問をしたつもりが「重ね着です」と返される国を受容できる感覚がなければ、それはwell beingの定義にははまってもhappinessな感情の毎日ではないだろう。
 
 したがって、フィンランドの幸福=well beingは、フィンランドの地勢と地政学と地理ゆえにおこった経済と社会と行政の文脈がいきついた最適解ということになる。これを日本はじめ他の国が「幸福度ランキング上位」としてマネして「北欧流のていねいな暮らし」をしてみても、その生活はおそらくhappinessにはならないだろう。日本でhappinessを得るにはフィンランドのマネをしてもダメなのである。日本の地勢と地政学と地理から最適解を導き出すしかない。日本には日本のhappinessにつながるwell beingがあるはずでそれを探さなければならない。
 
 もちろん、著者はフィンランド全面礼賛なわけでも、フィンランドにきて長年のプレッシャーとコンプレックスが消えた、というわけでもない。そんな予定調和な内容の本ではない。日本、韓国、フィンランド、女性、母親。所属意識はときとして人を追い詰める。フィンランドに移住しても著者は思い悩み、カウンセラーにも相談する。
 
 著者がそうして移住したフィンランドで目の当たりにしたのは、「人格」によるレッテルを徹底的に避けるソーシャルスキルへの傾注であった。見た目で判断しない技術、怒りで他人を動かそうとしない技術、保身に走りすぎない技術、助けを求める技術、孤独にならない技術、感情を言語化する技術、自分を保つ技術。ついでにいうと天気に服装をあわせる技術。夜道を歩く服装の技術。
 すべては「技術」なのであった。人には「いいところ・わるいところ」があるのではなく、「練習できているところ・練習できてないところ」がある、と考える。技術は練習すれば身につく。こと就学前や低年次の学校教育はこのソーシャルスキルの体得に大部を費やされる。それも座学ではなくてレクレーションを通じて体得する(著者の子どもいわく「遊びしかやってない」)。もちろんソーシャルスキルは学校だけではない。一生をかけて身に付ける。
 フィンランドの行政というのは、言うならば、誰もがこの「技術」の会得ができるよう環境整備を徹底している、ということになる。高福祉とそれを支える高額の税負担のコンセプトはここにある。この背景にあるのはフィンランドの地勢と地政学と地理であろう。与えられた生活条件を与件(今風にいうとガチャ)として、すべてを技術に解題し、well beingになっていくために一生をかけて練習していく。「生活の練習」とはよくぞ言ったりである。
 
 

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ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える

2022年09月10日 | 生き方・育て方・教え方
ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える
 
帚木 蓬生
朝日新聞出版
 
 「ネガティブ・ケイパビリティ」。初めて見たときに変な用語だなと思ったのだが、その意味するところは本書によれば「簡単に結論を出さず、あいまいなものをあいまいのまま耐える能力」ということだ。これでもわかったようなわからないような感じがする。逆の意味から攻めていったほうがよいかもしれない。すなわち「ポジティブ・ケイパビリティ」というのは「問題がおこったらさっさと解決策をみつけて実行する能力」のことである。昨今の課題解決能力というのは要するにこれであり、これがスピーディーにできる人が優秀であり、学校教育もこれを叩きこむ。仕事の現場でこれを形式知化したのがいわゆるマニュアルである。
 
 しかし、人生をそれなりに生きてみればわかるのだが、この世の中そんなに簡単に物事は解決しない。人も世も複雑であり、矛盾を抱え、葛藤に悩み、相克の中に生きているのであって、たいていの「解決」なるものは真の解決になっていない。「答えが出た!」というのは新たな問いのはじまりでしかない。
 
 であるからして、解答や解釈を急ぐのでなく、目の前の対象とじっくりむきあい、わからないところはひとまず棚上げにしつつ手の届く範囲から熟慮に熟慮を重ね、たとえ展望が見えなくともじっとそれにつきあい、そのあいだに起こるプレッシャーや勃発するトラブルも背負っていきながら、その場を耐え抜いていく。そうやってもちこたえていく過程で、時とコトの流れが味方になり、ちょっとした解決の光明を見出すことがある。そこにたどり着かせる能力こそが「ネガティブ・ケイパビリティ」というものになる。
 
 著者は小説家にして精神科医である。精神治療の現場でネガティブ・ケイパビリティがキーワード化するのはクライアントである患者と治療する医師の関係性構築で重要になるからだ。このあたりは、エンパシー論とか、ナラティブアプローチとか、コンステレーションにもにも通じる部分だ。文化人類学の思考とも似ているかもしれない。即断せずにあくまで対象の目線を持ったまま真摯にその話をきく。兆しのそのまた兆しがでてくるまで付き合う。
 この医療行為において著者が重視するのが「日薬」と「目薬」だそうだ。「日薬」というのは、その都度その都度、患者が訴える話、聞いてほしい話に辛抱強く相手をすること。すぐには解決しないが長い時間をかけていくうちにやがて解決の糸口が見つかることがある。そして「目薬」というのは、その長い過程において、どんなときでも私はあなたを見ています、という態度のことだ。誰かに見守られている、というのは人の心を安寧にする。小さい子供は親の前で転ぶと泣き喚くが、一人しかいないときに転ぶと、案外に泣きもせずにさっと立ち上がる。「泣く」という行為は親が見てくれてるという期待と欲求である。
 
 本書は、プラセボ効果にメルケル首相にシェークスピアに源氏物語まで次々と繰り出されて快刀乱麻を断つとはこのことだ。「簡単に結論を出さない(出せない)」ことこそが人間とこの世の真理であり、それをそのまま表現しようとすると、シェークスピアのように二重も三重も重ねる矛盾と葛藤に悩まされる人間像になり、源氏物語のように群像劇が織りなしつつも、山なしオチなしの大河小説になっていくのだ。予定調和だったり勧善懲悪だったりどんどん展開していく物語は、そういう意味では浅はかでしかないのである
 
 でももしかすると、ネガティブ・ケイパビリティというのは、日本人は本来的に持っているメンタリティではないかとも思う。矛盾を矛盾のまま、まあそういうこともあるよね、と保留する態度。山本七平によれば、戦前の日本人は「今上天皇は神の子孫である」ことを受け入れつつも「んなわけないじゃん、人間だよ」という感覚もちゃんと持ち合わせて、折り合いつけていたそうである。神社や日本家屋の屋根につかわれる日本独自の建築様式「てりむくり」にその思想をみるむきもある(松岡正剛)。西田幾三郎は難解ではあるが「絶対矛盾の自己同一」を掲げた。
 そういえば「しかたがない」という感覚は日本独特で、このニュアンスをもつ外国語はなかなか見当たらないのだそうだ。「しかたがない」にもいろいろあるが「手は出せないからそのまま保留にしてつきあっておこう」という肯定的なあきらめは、我々の日常で決して珍しくない。日本人のこのようなメンタリティでは竹内整一の「『かなしみ』の哲学」がお勧めである。
 
 
 ところでなぜネガティブ・ケイパビリティが必要なのか。
 これはネガティブ・ケイパビリティがないこと、つまり即断即決こそが身上、とすることのリスクの裏返しでもある。自分の持っている知識でなんとかなる、今のこの情報で解決できる、という態度は、どこか根底のところで大きなリスクをはらませているおそれがあるのだ。たいていの「解決」なるものは、なんか変な条件付きでとりあえずその場をしのげる、くらいのものである(この「条件付き」に本人が気づいてない例も多い)。
 そこまで言わなくても、即断即決されたものはしょせん、その場限りの知識や方法論にしかならず、時がすぎればもう通用しない。その場で急に流行り出した問題をその場の持ち合わせ知識と寄せ集め情報で済ませたような解決本の多くが、瞬間的にはフィーバーをおこしても1年も足らずして内容が古くなって価値をうしなってブックオフに並ぶ一方、熟慮に熟慮を重ねた本こそがいつの時代にも通用する普遍的名著としてロングセラーになる例もまた多い。そういう意味では、シェークスピアも源氏物語も、歴史の荒波に耐えたのは確かで、そこには吟味に吟味を重ねて簡単には出口にもオチにも到達させなかったネガティブ・ケイパビリティのたまものであったとは言えるのだろう。
 

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他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ

2022年03月19日 | 生き方・育て方・教え方
他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ
 
ブレイディみかこ
文芸春秋
 
 
 「他者の靴を履く」とはまさにエンパシーを試みる行為を形容した表現だ。本書のテーマはエンパシーをめぐる内容ではあるが、しかし、著者の本心はサブタイトルにもあるように「アナーキー」のところにあるとみてよさそうだ。本書は「アナーキーのすすめ」なのである。
 
 圧巻なのは、第10章「エンパシーを闇落ちさせないために」だ。この章の結論は「エンパシーはアナーキーとセットでなければならない」である。
 
 エンパシーは、この人間社会において彼我が共に生きていくために必要なリテラシーであるが、これだけに長じると「闇落ち」するリスクをかかえる。日本語では「ほだされる」というやつだ。エンパシーの能力を発揮することは、次第に当人が「自分自身は何をしたいか」を喪失させるリスクがあるという。そして、支配者や施政者や経営者は、他人のエンパシーにつけいる。いっとき、日本でも「やりがい搾取」というコトバが流行ったが、これはけっこう根深いのだ。ストックホルム症候群や、DVの共依存などにもつながるように、強化されたエンパシーはアナフィラキシーショックのような副作用を持つ。
 
 そこで著者の主張として、エンパシーは必ず「アナーキーであれ」という気概を共にしてセットアップせよ、ということになる。
 
 
 アナーキーとは、要するに「誰も自分を支配させない」。帰属意識に惑わされないということだ。
 
 宗教であれ、民族であれ、国であれ、地域であれ、企業であれ、学校であれ、血族や家族であれ、人は何かの帰属意識に安心や安寧を見出す。これは人間の生存本能レベルがそうさせているのであろう。
 しかしそれだけに、この帰属意識というものは意識無意識かかわらず当人の行動を縛るのである。法律、教義、社則、校則。不文律な規範や規律。我々は日常であまりにも当たり前のこととしてこの規範を受け入れているため、それが実は自分を縛っているということさえ気づきにくい。
 
 しかし、改めて冷徹に考えてみれば、組織はなぜこのような規律を作ろうとするのか。そこで保とうとしている秩序とはいったい誰のためのものなのか。
 もちろん、それは平たく言ってしまえば「みんな」のためと教えられることになるだろう。(「神」のため、というのもあるが、「神」のためになることが「みんな」のためになる、という体をとりやすい)。「みんな」がよく生きていくためには「秩序」がいる。「秩序」が目的であり、「規律」は手段である。
 
 だが、万事がそうであるように、目的はまた何かの手段になり下がる。「秩序」は「支配」の手段になる。施政者や経営者は「支配」の手段として、帰属意識を強化する術をすぐに繰り出すようになる。
 これは、組織を組織として維持して機能するために必然的に行き着くとも言える。これをビジネス分野では、ロイヤリティといったりエンゲージメントといったりファンベースといったりインターナルマーケティングといったりしているが、つまりは施政者や経営者のための人心把握だ。
 
 しかし、このような帰属意識の強化を施すということは、人を無警戒、無思考にさせ、余計な想像力は不要とするということでもある。あくまで目的は「組織」のためにあり、手段として「人」を使おうとしているからだ。したがって施政者や経営者にとってアナキストが目の敵になるのは当然である。独裁者が知識層を粛清してきた歴史の例は尽きない。
 
 だからこそ。エンパシーはアナーキーと一緒に用いることを自覚しておかないと、施政者の術中にはまりやすい。
 
 
 また、本書はデヴィッド・グレーバーの「ブルシット・ジョブ」がよく引用される。
 
 これも極論すれば、「ブルシット・ジョブ」とは、エンパシーを必要としない職種であり、組織を組織として維持させるために施政者や経営者が用意する仕事のことだ。
 グレーバーは、このブルシット・ジョブの対極として「キーワーカー」つまりケアワーカーやエッセンシャルワーカーを置いている。彼らキーワーカーは、人間を相手とする仕事であり、そのために常にエンパシーとしての想像力を働かさなければならない。
 
 想像力を働かせる仕事がキーワークならば、論理的帰結としてブルシット・ジョブとは想像力を働かせなくても成立する仕事ということになる。また、アートという行為が想像力と不可欠でるならば、ブルシットジョブはアートになりえない
 
 アートとはそもそも技法・技術というニュアンスを持つ。また、リベラル・アーツがそうであるように、そこにはとらわれからの解放という意味が少なからず込められている。アートには「自由」が担保されている
 
 ここまでの情報を御膳に並べ、そして本書は突きつける。
 
 あなたの仕事は「誰を自由にするための仕事なのか?」
 
 これが「目的」であり、すべては「手段」にまわる。
 
 「あなたは何をリソースにして人を自由にするのか?」
 
 もし、あなたの仕事がこれに答えられなければ、あなたの仕事はブルシットジョブである。にもかかわらず、あなたがその仕事をやらざるを得ないとすれば、それはあなたは施政者か支配者か経営者が下す術にはまり、帰属意識にとらわれている。そうこうするうちにあなたのエンパシーはどんどん搾取されて空っぽにされてしまう。
 
 読み進みながらとんでもないところに連れていかれる。読後の光景は戦慄に満ちている。本書はおそるべき警鐘の書なのである

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モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く

2020年09月26日 | 生き方・育て方・教え方
モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く
 
尹雄大
ミシマ社
 
 
 近代人足るもの「我れ思う、ゆえに我れあり」であるが、昨今は自分の存在価値を「承認欲求」という形で満たす傾向がつよくなったとされる。「承認」というからには他人を必要とするわけで、つまり「他人思う、ゆえに我れあり」という状態になっている。
 最近に限った話でなく、Vベネディクトの「菊と刀」のころから、日本人の特性として他人とのスタンスで自己のふるまいが決定することが指摘されているから、現代日本人の自己というのは二重の他人依存というわけで、ウスバカゲロウみたいにずいぶん脆いところで立脚しているということになる。
 
 ここまで、他人の視線を気にするようになった背景は、ちょっとでも横紙破り、というか逸脱した行為をしたとみなした人に対してバッシングが過激化する一方になっているからでもある。SNSによってこういったバッシングが手段化され可視化され、流布しやすくなったという技術背景もあろうだろう。ただ、「正義という名の暴走」は歴史的に人類が行ってきたものでもあり、人間が古来から「脳」に備わったプログラムが、現代技術を武器に大活性化していると言えるのかもしれない。
 
 本書の指摘にもあるが、「他人の視線を気にするようになること」と「ちょっとした他人の逸脱行為が許せない気持ちになること」は、根っことしては同じメンタリティであろう。「自分だって窮屈な思いをしているんだから、お前だって我慢しろ」といったところか。
 しかし、言いたいことも言えないこんな世の中じゃポイズンなのはみんなもわかっているはずで、それなのになんでこんなに先鋭化してくるのか不思議なメカニズムである。ゲーム理論的な力学が働いているのだろうか。
 
 じゃあ我々はどうすればいいのか、ということで、本書は「心」の判断に頼り過ぎず、「身体」の感受性を信用しろ、と説く。
 
 
 ここにきて「身体論」がクローズアップされるのは、やはり「脳」や「心」に依存しすぎなこの現代社会の揺り戻しということなのだろうか。なにしろ、あのハラリでさえ「21Lessons 」の最終章で、瞑想によって身体の声を聞くことを推奨しているのである。
 
 本書でいう「身体」は、身体といっても皮膚とか骨格ということではなくて、「氣」みたいなものかもしれない。腹が立つの「腹」とか、胸がわくわくするの「胸」みたいな身体感覚である。脳みそがシナプスをぷちぷちいわせてニューロンをこねくり回す以前に体得するされる感覚みたいなもの、とでもいおうか。
 こういった身体感覚は、自転車が倒れずに走行するように、たとえ脳意識が感知しなくても身体のほうでフィードバックを繰り返しながら順応化していく。いわゆる「体が覚える」というやつだ。
 
 たとえば「自信」というもの。
 よく、揶揄をこめて「根拠なき自信」と言ったりするが、著者は「そもそも自信に根拠なんてない」と言い切る。「根拠のある自信」というのは本来あり得ないというのである。
 というのは「根拠」の多くは自分もしくは誰かの「主観」に基づくものであり、そして「主観」とは結局おぼつかないものだからである。それに、自信を得ようと理論武装をしようとすればするほど、新たな疑問や穴が見えてきて、ちっとも完全武装にならないことは誰しも身に覚えがあるだろう。
 つまり「根拠ある自信」というのは不可能解なのである。「自信」とはもともと根拠がないものなのだ。
 畢竟、他人の情報をあてにしては「自信」はつくれないということになる。「自信」とはまさに字のごとくで自分を信じるしかない。「自信力」とは「自分を信じる能力」そのものであって、他人からの承認の欲求なんかでつくろうとしてはいけないものなのである。
 本書では、寡黙な職人が内に秘めてるものがこの「自信」であるとしている。できるもできないも言わず、表情も変えず、ただ目の前の対象に真摯にとりくむ。彼らに根拠なんかはなくって、単に己の身体を信じているのだ。
 自信は「身体」に宿るものなのである。
 
 職人でない我々は身体感覚が鈍く、どうしても周囲の情報から頭で意味を嗅ぎ取ることに過敏になる。
 本書の指摘としてなるほどと思ったのは、何かしら意思決定をする際に、とかく「客観的」と称して自分の周囲の状況や情報から最適解を導き出して行動を決定する人が増えてきている、ということだ。一種のライフハックといっていいかもしれないが、自分が本来何をしたかったかという気持ちはどんどん抑圧されていて、そのうち「そもそも自分が何を欲しているのか」という気持ちが無くなっていく。「自分の欲望」=「周囲状況からの最適解」になっているのだ。これ、自分自身省みても心当たりがある(若くないが)。
 こういう意思決定はリスク意識が働いているときにしたくなる。リスクが高いと感じるときは、自分の本能的欲求はひとまず抑えて、多くの情報源を参照して最適解を出そうとする。
 ということは、この世は「リスクだらけ」という世界観設定が現代日本人にはびこっているということになる。いつから世の中はそんなにリスクだらけになったのか。
 
 リスクの高まりは自信喪失につながる。そしてリスク回避のためには少しでも多くの情報を取ろうとし、意味を探ろうとする。マツコ・デラックスが「最近のテレビはたいしたことやってないわりには何か意味を探ったり、意味をひけらかしにいこうとする」と、かなり辛辣かつ的確なコメントをしていたが、これもテレビ局におけるリスクの現れかもしれない。つまり、テレビのこの態度は「守り」に入っているのである。
 
 実際に今の世はかつてに比べてリスクだらけになっているのか、それとも脳が過大にそう反応しているだけなのかは永遠にグレーだろう。
 だけど、リスクと感知することが「守り」に入らせて自信や主体性の喪失をもたらすとしたら、その「守り」の姿勢はかえってその人の「リスク」を高めているのではないかとは思う。かえって自分を危険においつめていることも考えられる。
 むしろ、身体感覚が鋭敏になるように鍛えるほうが、サバイブする能力は高まるのではないかとも思う。
 鈍感になった「胸」や「腹」の感覚をもういちど内省してみるのは、思った以上に大事なことかもしれない。
 

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ナラティヴ・ソーシャルワーク “<支援>しない支援”の方法

2020年06月03日 | 生き方・育て方・教え方
ナラティヴ・ソーシャルワーク “<支援>しない支援”の方法

荒井浩道
新泉社


 ここ数年前ほどから「ナラティブ」という言葉を聞くようになった。もともとは文化人類学あたりからの用語のような気もするが、カウンセリングとかコミュニケーション論においても注目されている。

 日本語でいうと「物語」ということになるが、「ストーリー」と違うところは、「ナラティブ」にはとつとつとしたとりとめもない口述というニュアンスがある。つまり再編集される前の、思いつくまま気のままくに口から出てくる語り。これが「ナラティブ」である。

 なぜ、このナラティブが注目されるかというと、これがもっとも語り手=対象のオリジナルに近いからである。考えを整理してもらって上でしゃべってもらったり、あるいは文章に書いてもらったり、あるいは聞き手が刈り込んで編集してしまったものは、もはやオリジナルではない。後知恵やバイアスや恣意的なものが入り込んでくる。そうなってしまうと、そもそも対象が持っていた真理はもう見えなくなってしまうのである。
 このとつとつとした問わず語りを受けることで、対象者が内包する世界観の真理に迫るのを「ナラティブ・アプローチ」という。

 「ナラティブ・アプローチ」に似たようなものとして、カウンセリングの現場では「傾聴」というものがあった。とにかく口をはさまずに相手の言うことに耳をかたむけるのである。早急なアドバイスなどはせず、真摯に話をきく。これが悩める対象者にとってはもっとも効果的とされる。これが転じて会社での上司部下のコミュニケーションとか、コーチングの世界でも「傾聴」は導入されることになった。
 本書によれば、「傾聴」と「ナラティブ・アプローチ」はやや異なるようだ。「傾聴」がひたすら話をきくことで対象者の溜飲を下げることを目的とするのに対し、「ナラティブ・アプローチ」はその語りの中から解決の糸口を見つけるのである。つまり「ナラティブ・アプローチ」のほうが真理解明に踏み込むということになる。
 ビジネス現場で「傾聴」が援用できるのならば「ナラティブ・アプローチ」も援用できそうである。僕が本書を手に取った動機はこれである。
 

 カウンセリングにおいて「ナラティブ・アプローチ」で解決の糸口を見つけるにあたって、本書にはいくつかキーワードがある。「社会構成主義」「無知の姿勢」「分厚い語り」。そして「『こだわっている物語』と『例外の物語』」。

 「社会構成主義」というのは、「われわれが日常生活を送るうえで「常識」だと思っている事柄は、実は社会的に作られている」という考えである。学校に行った方がよいとか、贅沢を言ってはいけない、というのはこれすべて外からの決めつけの価値観なのである。だから、カウンセリングで登校拒否者を再び通学させるために、「登校拒否」を「問題」として扱ってはいけない。登校拒否するその人をまずはそれでよい、とする。「AをAのままでよい」とする姿勢なのである。したがって、どうやってまずは学校に行こうかと話をもちかけるのはNGである。これは「AをBにする」行為だからだ。

 しかし、それで登校拒否者が再び通学するようになるのだろうか。登校拒否を問題にしないのならば、このままずっと登校拒否を続けるだけではないのか。
 ここからが面白い。登校拒否をしながら過ごす彼の生活に対してまずはカウンセラーはなんの解決手法ももちあわせていないつもりで対峙する。「無知の姿勢」である。一切の先入観・偏見・先行知識・専門知識を無用とする。そうすることで彼は語りだす。「厚い語り」を引き出すのだ。そういう彼の語りの中から「『こだわっている物語』と『例外の物語』」を見つけ出す。

 興味深いことに、当事者が登校拒否や介護虐待のようなある種の「極端」な行動に出るときは、当人が何か「強くこだわっている物語」に起因していることが多い。そのこだわっている物語を融解させていくことがナラティブ・アプローチの真骨頂だ。こだわっている物語というのは、当事者を自縄自縛にするし、言霊としての影響力、あるいは予言の自己成就性にでも通じるような束縛力がある。その肥大化したこだわっている物語からわずかな「例外」の兆しをみつける。この「例外の物語」を育て、本人にもそれとなく自覚させ、彼にはこだわりも例外もある「複雑な物語」がある、という風にマインドセットをしていく。そうすると、最終的な「極端」な行動がなくなっていく(こともある)。
 これはなかなかの離れ業というか名人芸で、本書で紹介されるエピソードは名探偵が困難な事態を鮮やかに解決していくかのような目覚ましさがある。そんなにうまくいくのかいなと思わないでもないが(うまくいった事例を載せているのだろうが)、勉強になる。

 このナラティブ・アプローチに通底しているのは「AをAのままでよい」とする姿勢だ。「Aのままでいるのはよくない」という前提をまず無しにするし、「AをBにする」という態度は排除される。「AをBにする方法を伝授する」という権威姿勢も厳禁である。「AをAのままでよい」としながら、何がAをたらしめているのか、を「分厚く」語らせ、そこから彼を支配している「こだわっている物語」を見抜くのである。
 
 
 さて。僕の仕事場である。

 思い起こすと、「AをBにする」ことの連続であった。新人教育とはそういうものであったし、上司やクライアントから怒られるときは「Aじゃない。Bだ」ということであった。「Aのままでいなさい」「Aで正解です」ということは本当に稀だった。そして世の中に出る商品やサービスはのほとんどみんな「AをBにする」といううたい文句で出来ている。
 世の中はすべて「AをBにする」力学で動いているのだ。

 そんなとき、たまたま読んだ文化人類学の本で、文化人類学の真骨頂は絶対に観察相手を評価したり変容を迫ろうとしてはいけない。「AをAのまま尊重し、そこに価値を見出すのが文化人類学の基本中の基本である、ということが記され、僕は目鱗だった。この分野に通じている人からみれば当たりまえのテーゼだが、当時の僕にとってこれはコペルニクス的転回だったのである。それ以来、文化人類学や民俗学に興味が出ていくつか本を読んでみたりした。

 しかし、この「AをAのままでよい」というこの思想をビジネスの現場に応用するとはどういうことか。それをずっと考えていた。そして管理職になったときにこれを部下や新人の指導・育成にあてはめることができるかどうか試みるにようになった。「AをBにする」のが指導ならば、「AをAのままでよい」とする指導は本当にあり得るのか。当然Bの人には「BをBのままでよい」とすることになる。つまり、この世の中にはAもBも正解となる。この世の中は多正解でできている。そんなことが職場で通用するのかどうか。そんな試行錯誤による部下との関わりを数年おこなっているのである。。

 結論からいうとその効果はさまざまだ。他部署でまったく評価も成果もあげられなかった人がいい感じで活躍するようなこともあれば、まったく成長なしにマンネリなままの人もいる。すごく利益をあげることもあれば、まるでダメなときもある。
 ただ、やってみて思うのは、「AをAのままでよいとする」「BをBのままでよいとする」マネジメントというのは、とてもヒューマン・ベースな考え方ということだ。これの対義語はタスク・ベースである。つくづく思うのは世の中はタスクベースでまわっている、ということを感じる。そりゃそうだろう。担当者が変わるたびにアウトプットのクオリティや方向性が変わってしまうようでは発注者側は納得できない。組織一岩となって一定水準のものを出し続けるにはヒューマン・ベースだけでは難しいところがある。
 それでもぼくがヒューマン・ベースにこだわっているのは、自分自身を顧みて、タスクベースの硬直化がかえってアウトプットのクオリティを下げることが多々あったことを経験値的に知っているからだ。どうしてもそのタスクが性にあわない社員もたくさんいたし、しかしそれが担当である以上は役務をまぬがれるわけにはいかない。とうぜんその姿は幸福ではない。一方で、まったく冴えなかった人が別の仕事でめきめき頭角をあらわす、ということは実際によくあったし、こういうヒューマン・ベースの力をなんとかマネジメントできないか、というのは僕の管理職上の野望みたいなものであった。

 ところが人事のほうから少々問題のあるやつはあいつのところにいれてやるといい、という変なルートができてしまったフシがある。引き受け手のいない人材がこちらにまわってくるのだ。
 実際のところ、「問題」のある社員を成果に導くようにするというのはやはりけっこう骨が折れる。頭を使う。今まで何人か「問題」のある社員を預かってきた。前の上司からの評価が最低だった人なんかがやってくる。いちおう直属上司としては彼の評価が上がるように仕事をさせていかなければならない。
 ただ、本当に無能という人はあまりいなくて(たまにいるが)、その多くは、前の上司とそりが合わない、与えられている仕事の内容がミスマッチングだったというのがほとんどだったことも確かなのである。「社会構成主義」風にいうと、彼の「問題」はすべて外部がつくりあげたものだったのだ。
  部下の立場からすると「心理的安全性」がある、ということになるらしい。そこそこ多くの部下からこのことを言われるので、それなりに現象として現れているのだろう。

 最近もっとも気をつかうのが新入社員だ。毎年配属されるわけではないけれど、年々彼らの正体はわからなくなる。新入社員の奇行は例年Webなどでネタになるが、最近の彼らをみていると「AをAのまま生きてきた」人が増えてきた印象である。ご同慶の至りではあるが、これがいわゆるZ世代というやつか。この「AをAのまま生きてきた人」をそれさえも包摂してどう「成果」や「成長」につなげていくか。これはこれでまた難題である。

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岐路の前にいる君たちに

2020年02月11日 | 生き方・育て方・教え方

岐路の前にいる君たちに

鷲田清一 式辞集
朝日出版社

 こちとらもうすぐ50に手がとどく年齢でありながら、なんだかじわーっとくる。

 本書は、大阪大学と京都市立芸術大学の学長だった鷲田清一の入学式と卒業式における学生への式辞をまとめたものだ。二十歳前後のぼくがこういう式辞を聞いて果たしてどこまで感銘を受けるのかわからない。難しいコトバ回しはしていないが、そこで示す思想や世界は、まったく酸いも甘いも知り尽くし、思考と内省をはりめぐらせた哲人こそが示せたもので、ほぼ「無知の無知」状態であろう学生にどこまでこの人はすごいことを言っているかわかるはずもなさそうだが、全力で語る鷲田清一もすごいし、学生たちも贅沢な体験をしたということになる。

 プロというのは、他のプローー自分からすればアマチュアーーとうまく共同作業できる人のことであり、そういう意味でのアマチュアに自分がやろうとしていることの大事さを、そしてそれがいかにわくわくするものであるかを、きちんと伝えられる人であり、そのために他のプロの発言にもきちんと耳を傾けることのできる人であり、つまりはノン・プロと「いい関係」をもてる人だということなのです。(大阪大学2010年度学位授与式)
 
 「実学系の学びというのは、自分の身体にまさにそうした「正しい大きさの感覚」を呼び戻すためにあります。(中略)そういう伝承と刷新、保存と創造のダイナミズムに、それぞが身を晒してきたのです。それが実技の学びということです。(中略)さいわい、みなさんは演奏する曲ごとに、制作する作品ごとに、一つの行為の初めと終わりを、何度も、強い緊張のなかで経験してきた。(中略)初めと終わりのあるプロセスを何度も何度も歩み抜いたということ、これはほんとうに幸運なことなのです。(京都市立芸術大学2016年度卒業式)」

 すでにわかっていることよりも、わからないこと、見通しのきかないことに、わからないまま、見通しのきかないまま、どう的確に処するかの知恵やスキルのほうが、ほんとうは大事だということです。(中略)「なんだか分からないけれど、凄そうなもの」と「言っていることは整合的なんだけれど、うさんくさいもの」とを直観的に識別する前‐知性的な能力とは、まさにそういうものなのです。(大阪大学2008年度入学式)

 理解には枠組みがあるということです。これはこんなふうに見る、受けとめるという、それぞれが属している文化の枠です。同じ時代、同じ文化のなかで育ってきた人は、世界を、同じ言語を用いて、同じような仕方で理解します。だから自分たちが世界だと思っているものの外にもっと違った世界があるということに、なかなか想像が及びません。自分のなじんできた解釈のレパートリーのなかへ何でも押し込もうとする。理解できないこと、わからないことを、取るに足らないこととして無視するか、あるいはそれらを無理やり手持ちの枠のなかに押し込めようとするのです、そういうことをくり返しているうち、世界は歪んできます。しかも歪んでいることに、当の本人は気づきません。(京都市立芸術大学2018年度入学式)

 二十歳前後の僕ならば、ここにあらわれた真理はまったくもってピンとこなかっただろう。この年齢になって読むと、自戒の意味も含めて本当にそうだなとしみじみ思うのである。そして若者むけにあてられたコトバだけれど、いまの自分を鼓舞する文章でもある。

 

 高校や大学での名式辞が話題になることがある。ネットなどでとりあげるにちょうどいい温度感のネタとは思う。
 2011年3月の立教高校の卒業式は、東日本大震災により中止となり、校長から卒業生にむけてメッセージが送られた。大学に行くとは「海を見る自由」を得るためなのではないか、という話は心の底から震えた。
 2019年4月の東京大学での上野千鶴子の祝辞も話題になった。「がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。」という挑戦的なものであったが、「これまであなた方は正解のある知を求めてきました。これからあなた方を待っているのは、正解のない問いに満ちた世界です。」と結んでいく下りは名演説だと思った。

 式辞なんて通り一遍のきれいごとを並べるだけで退屈な儀式でしかないなどとも思う。自分の高校や大学時での式辞祝辞がどんなものであったかほとんどなんにも覚えていない。子どもの入学式や卒業式に立ち会っても、大半はちっともココロに刺さらない。こちらの心構えに負うところも多いにあるとは思うが、祝辞を述べる側にも、あちこちの学校をはしごする市会議員の祝辞なんかは、いつでもどこでも通用するコトバを並べただけのものであったりする。儀式とはそういうものである。

 ところが本書のあとがきで鷲田先生はこう書いている。

 哲学をやっていると断言というのを控える習性があります。ここでいま何が言えて何が言えないかに、とても敏感だからです。そういう研究・教育現場の日常とは反対に、卒業式・入学式ではそれぞれ終わりの挨拶、始まりの挨拶なので、どうしても明確なメッセージを送る必要があり、コトバもつい伝えるべき確言と訴えに重きを置くことになります。

 “ここでいま何が言えて何が言えないか”に敏感な人がメッセージとしていまここで断言できることに心を砕いたものがこれらの式辞である。思うに、ひとの心を動かす演説というのはこういうことなのではないか。

 僕がこれまで体験してきた式辞の中にも、ここは一発がつんとみんなの心を動かしてやろうと気概を持つ人間もいたのだとは思う。さきほどちっともココロに刺さってこなかったと書いたが、例外がひとつある。僕がもう30年前になる自分の大学の入学式でのひとりの教授の言葉だ。入学式の会場になった施設を指して「ここにはもう用はない。●●(キャンパス名)にはやく帰りましょう」と言いのけた。あれは誰だったのかまったく覚えていない。その発言で会場の空気をどうなったのかも覚えていない。ただこの教授の一言は、大学で学ぶということの具体的なイメージがまったくなかった18才の僕に、「学ぶところは楽しいところだ」という、これまで考えたこともなかったすさまじいインパクトを与えたのだった。


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17才の特別授業 地獄の楽しみ方

2019年12月03日 | 生き方・育て方・教え方
17才の特別授業 地獄の楽しみ方
 
京極夏彦
講談社
 
 京極夏彦先生がティーンを相手に特別授業をやった記録である。この黄色い表紙のシリーズ、ほかにも高橋源一郎とか佐藤優とか岸見一郎とかひとひねりもフタひねりもある人選で興味深いが京極夏彦が何を話すんだろうとわくわくしながら手にとった。この人の小説は抜群に面白いが、実は小説以外も面白いのである。
 
 それにしても「地獄の楽しみ方」とはすごい。地獄ってのは要は”この世の中のこと”です。ティーンを相手に、オトナの世界を「地獄」と表現する。そんな世の中をどう楽しむのか。
 それは、コトバを身につけることなのである。
 
 京極小説に出てくる登場人物は、京極堂シリーズの「憑き物落とし」も百物語シリーズ「仕掛け屋」も、あるいは未来の女子高生も厭な気分になるやつも、みんなコトバで人を操る。あるいはコトバで機能不全に陥る、この人は妖怪屋で有名だが、その実はコトバ屋なのである。ということは妖怪とはコトバなのである
 
 おもいっきりリアリティなことを言えば「妖怪」というのは居るわけはないのであって、ではどうやって人々のあいだで妖怪が実像を結ぶかというと人々の言の葉でである。うまくコトバで表現された妖怪はかなりの説得力とイメージ喚起で人々の頭脳に入っていく。つまり、妖怪とはコトバなのである。
 
 妖怪がこのろくでもない世の中をレギュレーション無視で渡り歩けるように、コトバ使いは世の中をひょうひょうと渡っちゃうのである。神対応の反対は塩対応だから「神」の対義語は「塩」であり、「愛」とは「執着」のことであってそれに「愛」というもっともらしい字を持ってきたにすぎないのであり、「勝負」の多くは本当にそこに勝ち負けなんかないものを勝手に「勝負」というラベルを張ることで勝ち負け事にしてしまった、と次々とコトバの呪力を暴いていくのは爽快でさえある。世の中はそんな欺瞞に満ちた言葉でつくられた地獄なのだから、その仕掛けさえ見抜ければ、地獄(すなわちこの世の中)も楽々とたのしんで安全に歩いていけてしまうのである。10代でこんな話をきいてしまってよいのだろうか。
 
 それにしても京極夏彦。このコトバ使いの名手が本当に小説家であってよかった。詐欺師とか催眠術師とか「悪」の道に進まなかったのは幸いである。

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本業はオタクです。 シュミも楽しむあの人の仕事術

2019年08月29日 | 生き方・育て方・教え方
本業はオタクです。 シュミも楽しむあの人の仕事術
 
劇団雌猫
中央公論新社
 
 
 サブカル系かと思ったらまさかの中央公論新社! この出版社はたまにエキセントリックな本を出す。
 
 働く20代オタク女子のインタビューを中心とした本だ。声優オタクとアイドルオタクが多くを占めている。「沼」とか「現場」とかなかなか専門用語が多い。
 オタクというのはその対象がなんであってもお金と時間を浪費するものだ(時間とお金をかける趣味をオタクというと定義してもいいかもしれない)。したがってオトナともなると、お金の確保と時間の確保が大問題になる。でお金と時間というのはなかなかトレードオフの世界なのであって、本書でもだいたい次の2通りにわかれる。
 
 ①給料はそこそこでいいから極力労働時間を短く済ませられる職に就き、オタクに投じることのできる時間を確保する
 ②多忙だが給料はめぐまれている職に就く。時間の融通に関して裁量がはかれるかが重要である(フレックス制度や有休のとりやすさなど)
 
 ①②両タイプとも共通するのが「仕事は仕事・趣味は趣味」とぱっきり分けていて「仕事はお金を稼ぐ手段」と割り切っていることだ。②の場合は趣味と仕事が隣接していることも多いが、世間で羨ましがられるほど「趣味と仕事が一致」しているわけでもない。まあそりゃそうだろうな。彼女らは、仕事にやりがいとか自己実現とかそういうものを過剰にこめていないそぶりがみてとれる。  
 当方40代のおじさんなのでこういう女子たちのあっけらかんとしたもの言いは隔世の感ありだが、僕の持論として「オタク」の社員には会社にとって有能なのと無能なのがいる、と断言する(つまり「非オタク」の社員にも有能なのと無能なのがいる)。すなわちオタクであることは会社にとって有能無能とは本来は関係がないということだ。少なくともぼくはそう思っている。
 
 会社勤めも20年以上やっていると、同じ部署に入ってくる新人に対し、こいつはオタクだ、こいつはオタクじゃないというのがなんとなくわかる。明言する人もいるしなんとなく隠している人もいるが、オタク気質というのはどうしても言動や身の回りのものから漏れ出てくる。
 で、オタクが僕の部署にやってくると、こいつは「光のオタク」か「闇のオタク」かを僕は見極めるのだ。この「光のオタク闇のオタク」というのは僕の20年来の造語である。
 
 「光のオタク」は仕事が早い。とにかく早い。ずるずると会社に居残ってなくもながなの雑談会議とかしていないでとにかくちゃっちゃと業務を遂行する。今風にいうと生産性が高い。で、その仕事のクオリティは決して悪くない。高クオリティのアウトプットを出して残業もしないでさっさと帰っていくのだから有能である。その仕事や会社への「愛」は感じないが「クオリティ」はある。僕も管理職なのでそういうオタク部下がつくこともあるのだが、この手のタイプを僕は評価している。
 もちろんこれは僕の見方だ。人と足並みをそろえないとか社風に添ってないとかでこの手のタイプを低く見積もる管理職もいる。 
 
 一方で、「闇のオタク」は仕事が遅れがちだ。だらだらやっているというよりも、とっちらかって整理できていない感じである。仕事の「芯」が見極められていない。だから時間が経っても出てくるアウトプットのクオリティが低い。もちろんオタクだから仕事に「愛」もない。要するに「仕事」にはなってないわけだ。しかも本人に成長の野心もないから、この手のタイプはいつまでも向上せず、結果的に任せられる仕事は非常に限られる。
 
 この「光」と「闇」はの違いはどこで生じるのか。そこそこの数のオタク社員(および非オタク社員)を見てきて僕なりの見解をこれから述べてみよう。
 
 ひとつは、「地アタマ」があるかどうかだ。
 本書でもちょっとふれているが実はオタクというのは段取り力が優れている。それにオタク趣味には考察を求められるものが多いからそれなりにロジカルシンキングの素養ができる。
 ところがそうやってオタクで鍛えられた能力が、その趣味の中だけで閉じちゃっている人と、その他の仕事や世の中ごとのさまざまに敷衍できる人がいる。後者こそが「地アタマ」がある人だ。
 
 この地アタマのあるなしは、「雑学」と「教養」の違いといっていいかもしれない。趣味としてのオタクが本人の中で「雑学」で終わっている人と、「教養」として万事の肥やしになっている人がいるのだ。地アタマのあるオタクははっきり言って最強であると断言する。
 
 じゃあ「地アタマ」はどうやってできるのだろうか。
 これも地アタマあるオタクとそうでないオタクを観察した結果気づいたことがある。それは、複数の分野についてオタク趣味を持っている人は地アタマがあるという結論だ。「鉄道」にしか興味がないオタクと、「鉄道」と「プロレス」と「SF」に興味のあるオタクがいるとすれば、後者のほうが地アタマ率は高いといってよい。これは単に多趣味ということなのではなく(それだと雑学屋と同じだ)、彼の頭の中で「鉄道」と「プロレス」と「SF」を結ぶシナプスができているのである。彼はそのオタク活動の中で本人の意識無意識にかかわらず、鉄道のある知識が、プロレスのある見識に化学反応し、プロレスのある知見がSFのある見解を刺激し、SFのある見立てが鉄道のある魅力に気づく、という地アタマの地平をどんどんつくっていくのである。
 「鉄道」ばっかり見ている人は、そのセンスが横の別分野に広がる脳の体験をしていないから地アタマが育ちにくい。単に鉄道のことだけやたらによく知っているがそれはつぶしが効かない知識になってしまうのだ。
 
 僕が2つめの会社に転職したときに指導役として上についた先輩がまさに地アタマのあるオタクであった。この人は「アニメ」「声優」「ゲーム」「戦記」「歴史」「統計」「ロボット工作」「自作パソコン」「ビール」「料理」のオタクだった。テレビ版エヴァンゲリオンをリアルで観ていてレイテ沖海戦を語って会社に統計ソフトをインストールした自作パソコンを持ち込んでその壁紙が某ゲームのヒロインで深夜残業時間になるとオフィスでもビール飲みながら仕事をするがそのアウトプットは抜群、しかも驚くなかれ実は既婚者で奥さんの弁当も自分がつくっているというそれはそれはウルトラ優秀な社員だった。
 
 
 あともう一つあって、それは「コミュニケーション能力」である。ミもフタもない。
 
 しかし実際にそうなのであって、コミュニケーション能力があるオタクはたいがい優秀だ。これは「コミュニケーション能力がある非オタクには優秀じゃないのがけっこういる」ということでもある。コミュニケーション能力があるオタクは、そのオタク素質から「他人に通用するアウトプットを出そう」というマインドセットがあるようだ。つまり自分勝手ではないのである。もともと地アタマがあるだけに応用力を持っているから、あとはそれが他人に通用するアウトプットとして出せればこれはもう優秀社員として間違いないのである。
 ところがコミュニケーション能力がないオタクのアウトプットは、エゴが出るのか、他人への気配りが念頭にないのか、自分にしかわからないような、あるいは自分だけがこだわっているような、つまり仕事のアウトプットして二流のものとなる。
 
 コミュニケーション能力はどうやってできるのか、というのは壮大な課題だ。ただ、「コミュニケーション能力があるオタク」をみると、自己肯定感や自己有用感が健全だなとは思う。卑下でも尊大でもない良いバランスを持っている。こういう人は責任感がしっかりしているので頼もしい。
 

 というわけで「光のオタク」がやってきたらこれはめっけもんである。とにかくほめておだてて機嫌よく仕事してもらう。定時帰りも有休もフレックスで夕方から出社も問題ない。期日までのアウトプットはしっかりしている。抜群の戦力になる。
 

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劣化するオッサン社会の処方箋 なぜ一流は三流に牛耳られるのか

2019年08月14日 | 生き方・育て方・教え方

劣化するオッサン社会の処方箋 なぜ一流は三流に牛耳られるのか

山口周
光文社新書


 数量データやケーススタディではなく、哲学知を用いた社会インサイトあるいはコンサルティングといったところか。

 歴史的な哲人だけでなく、浅田彰・山本七平・中根千枝といった著名な日本の社会思想家、さらには反脆弱性のナシム・タレブ、ライフシフトのリンダ・グラットンといった売れっ子も引き合いに出してカッコよくまとめてみせるのはもはや著者の定番芸である。

 最初彼の本を読んだときは、なるほどこういうやり方があったのかと素直に関心してしまった。

 

 教養を学ぶことがその人の資質を育てることは斎藤孝や池上彰や佐藤優なんかもずっと繰り返していたわけで、著者もその一派と言えるわけだが読者ターゲットを明確にビジネスマンにしていることが特徴だろう。彼の前職が電通やボストンコンサルティングという、いわば様々な企業を相手に情報サービス的な商売をしてきたことも関係していると思う。ビジネスマンのコンプレックスを見抜いてうまいとこ突いたと言える。

 この“哲学を用いたコンサルティング”というフレームは小説やマンガにもなりそうだ。週刊モーニングやビッグコミックオリジナルあたりでどうかね。

 

 そういうことでいくと“歴史を用いたコンサルティング”なんてのもできるかもしれない。よく孫子に学ぶビジネスとか、織田信長に学ぶビジネスなんてのを書店のビジネス書コーナーで見かけるけれど、古今東西の歴史データベースをケーススタディにおこなえばそれなりに成立しそうである。とはいえ、これは発想としては順当なので、すでにあるのかもしれない。

 では“文化人類学を用いたコンサルティング”なんてのもどうだろうか。ジャレド・ダイアモンドの「昨日までの世界」なんかを読む限り、いろいろいけそうな気もする。ブリコラージュなんて最近とみにキーワードになっているがもともとは文化人類学でよく用いられていた用語だ。民俗学的な観点まで加えていけば、まったく違うコミュニティの本質が浮かび上がってくるかもしれない。



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