1兆ドルコーチ シリコンバレーのレジェンド、ビル・キャンベルの成功の教え
ジョナサン・ローゼンバーグ アラン・イーグル 訳:櫻井祐子
ダイヤモンド社
2016年に行われたビル・キャンベルの追悼式には、ティム・クック(AppleのCEO)とラリー・ペイジ(Google創業者)とジョフ・ベゾス(Amazon創業者)とマーク・ザッハーバーグ(FACEBOOK創業者)が参列したのだそうだ。彼こそはスティーブ・ジョブズ(Apple創業者)とエリック・シュミット(GoogleのCEO)のメンターであった。さらにはディック・コスト(TwitterのCEO)、ジョン・ドナホー(eBayのCEO)も指導を受けている。鼻血もんである。ここに上がっていない名前といえばビル・ゲイツくらいだ。
この本は、これらシリコンバレーの超大物列伝と言いたくなるような成功者を「メンター」「コーチ」としてなんと無償で支えた人物ビル・キャンベルのことを書いた本である。といってもビル・キャンベル自身を直接取材しているわけではない。彼が亡くなった後に企画された本だ。したがって、いろいろな人の証言と編集で成り立っている。
そういう経緯の本なので、生前のビル・キャンベルが実際に何を考え、どういうつもりでこれらの人々にリーダーシップやメンタリングやコーチングをしてきたのかはわからない。本書でとりあげられているのは彼の薫陶を受けた人々の証言や状況証拠といった断片の数々である。
それらの行間から読みとれるのは、ビル・キャンベルは、ジョブズやペイジといった彼らの仕事の「中身」、ビジネスそのものについてはとくに頓着しなかったということだ。そりゃそうだろう。AppleとGoogleのトップに同時に関わるんだから。
要するに、彼はどこまでも「人」を観ていたということだ。その人の仕事の中身を判断・判定しているのではなく、その人そのものをモチベートし、叱咤激励してきたということである。
「人」をみる、というのは当たり前のようで、多くの管理職やマネージャーは案外にそうではないと思う。マネージャーは通常はその人の「仕事の中身」をみるのであって「人」そのものは二の次である。その本質は「赤い猫でも白い猫でもネズミをとるのがいい猫だ」というやつである。
しかし、これは別の本で読んだものだが、とある外資企業の有能なボスが部下を「タスクベース」ではなくて「ヒューマンベース」でアサインし、指導し、評価していたという。そのことに部下になった日本人の社員がたいそう目ウロコだったというエピソードだ。これは普段の我々が「タスクベース」でアサインされ、評価されているということの裏返しである。
「ヒューマンベース」というのは、実際のところはなかなか困難に思う。人事や査定というのは、どんな人が担当しても一定以上のクオリティが出ることを求めるし、そのように社員を教育し、人事異動の計画も立てていく。要するに「タスクベース」なのである。一般的なマネジメントにおいて、担当者が変わったからといってクオリティが変動したり、特徴が変容することを許容することはなかなか無い。
したがって、ビル・キャンベルのようなメンターがいてくれること、あるいはビル・キャンベルのようにマネジメントすることというのは、理想であってもなかなか難しいなと思うわけだが、はたと気づいた。
それは、ビル・キャンベルというのは、日本においては「新宿の母」なんかがそれに近いのかもしれないということである。これも別の本で読んだことだが、超優秀な占い師のところには有名な企業の社長や大物の政治家が通ってくるのだそうだ。常連もいるという。それはその占い師の言うことにはそれなりに彼らにとって有効であるということを意味する。占い師がいちいち彼らのビジネスの中身や政治の内容にコミットしているはずはないから、その占い師は目の前の「人」を見て、彼らの決断を支えたり、何かしら考えるヒントを与えているのだ。大物が集う銀座の高級クラブの「ママ」も同様なのであろう。
本書によると、ビル・キャンベルも、彼自らがジョブズやシュミットに代わって何かを決断したわけではない。彼はコンサルタントでも参謀でもなく、コーチなのである。新宿の母であり、銀座のママなのだ。
つまり、人の上にたつもの、中間管理職であれ、チームリーダーであれ、その組織を成功させるためには組織メンバーひとりひとりの「新宿の母」になれ、ということだ。なるほどなあ。
Think CIVITY 「礼儀正しさ」こそ最強の生存戦略である
著:クリスティーン・ボラス 訳:夏目大
東洋経済新報社
数年前に職場で管理職というものになった。数名の部下がつくことになる。
戸惑ったことはたくさんあったが、困ったことのひとつに「僕は叱責するのが下手」というのがあった。
怒鳴りつけたり、それは違うだろと否定したりするのが不得手なのである。相手が出してきたものはどんなものであれ、なんとなく理があると思ったり、筋が通っているように思ってしまう。要するに人が良いのである。自分でいうのもなんだけれど。
だから、へんな口車に乗せられやすかったり、頼まれごとを断れなかったりする。くれぐれも詐欺にだけはあわないように気を付けないといけない。
ぼくが勤めている会社はどちらかというと体育会系というか武骨なところがあって、先輩上司たちはわりと横柄に後輩や部下を怒鳴りつけていた。もちろんここに書いているのは「ブラック企業」とか「パワハラ」とかそんなコトバが登場する以前の話である。
つまり、上司というのは、部下をどやすものだ、という価値観が漫然とあったころだ。
その後、電通やワタミの事件が明るみとなって企業にはびこるいろいろな澱がいっきに明るみになった。長時間残業とかパワハラ上司とか過労死とか、職場の閉塞感とその打破がいっきに社会問題になった。僕のへんなプレッシャーはまったくお門違いだったということである。
やがて「わたし、定時に帰ります。」という小説やドラマが登場するに至った。
閑話休題。
僕はわりと本は読んできたが、そのなかでビジネス書の割合はさして多くない。「失敗の本質」や「粗にして野だが卑ではない」みたいにビジネス界でもよく読まれる本というのはもちろんあって、そういうのは僕も読んでいたわけだけれど、これらはジャンルとしては「ビジネス本」ではないだろう。
管理職になったときに、そのあまりの未知の世界にいくつか「ビジネス本」を手にとった。
その中で圧倒的に説得力をもって響いたのが古典中の古典、カーネギーの「人を動かす」だった。
というか、この1冊さえあればもういいんじゃないかと思った次第である。この1冊で、ぼくの「人を叱責できない」コンプレックスはだいぶ解消されたといってよい。
さて。本書「Think CIVITY 「礼儀正しさ」こそ最強の生存戦略である」も、本筋的には「人を動かす」から一歩も外に出ていない。カーネギーがあくまで個人経験と主観から語ったことを、もう少し客観的に記述したに過ぎない。
ただ、本書が慧眼なのはサブタイトルを「生存戦略」としたところだと思う。
原書のサブタイトルは"A Manifesto for the Workplace"とあって、直訳すると”職場への宣言”みたいなものになるから、この邦訳はわりと意訳しているわけだ。
だけど、この意訳がなかなかいいセンをついているのではないかと思うのである。
なんとなく周囲を眺めて思ったことは「優秀な人は優しい」ということだった。これは「思考の整理学」の外山滋比古も書いていたことだけれど、思うに優秀な人が結果として優しくなる、とのではなく、「優しい人が優秀になれる」ということなんだなと思ったのである。
つまり、「優しい」のは技術である。エーリッヒ・フロムの名著に「愛するということ」原書のタイトルは"The Art of Loving"、つまり「愛する技術」というのがあるように、「優しくする」のは技術だ。本心の赴くままの「優しさ」ではなく、意図して、努力して「優しくする」というのはけっこうなエネルギーを要する技術なのである。そしてそうやって「優しさ」という技術を取得することはかなりの「優秀な人間」をつくりだすことになる。周囲に支持され、その人のためにまわりも積極的に動くようになる。そういう人が「生存」する。
たまたまの立場上あるいは職権上いばりちらしているような人はもはや生存できない。体育会な社風であったぼくの職場でもそうなりつつある。人に動いてもらうには、職権でも業務命令でもなく、人徳が問われるということになる。
つまり、戦略的に人徳を獲得しなければならない。そうしないと生存できない。そんな時代である。
もっとも人徳ある人こそが生存する、というのは悪い話ではない。ただ、後天的に技術として人徳を獲得するというのはこれはなかなかたいへんなことではある。
知的生産の技術
梅棹忠夫
岩波新書
メモのノウハウ本はビジネス書の定番だ。最近だと「メモの魔術」とか「スマホメモ」とかある。
メモ本の歴史を紐解いたわけではないが、梅棹忠夫の「知的生産の技術」はパイオニアのひとつと言って間違いないと思う。昭和44年の刊行だからもはや古典文献だが、しかしこの本は岩波新書としていまだ現役である。大きな書店の新書コーナーにいけばあるはずだ。
そして驚くことに、現在の氾濫するメモ本のほとんどが本質的に「知的生産の技術」から一歩もはみ出ていないのである。
その極意は「とにかくなんでもメモっとけ」と「メモったものはすぐに探し出せるようにせよ」。そして「たまに見返せよ」なのである。これでレポート作成もビジネスもアカデミズムも人生もうまくいっちゃうのである。
昭和40年代はそのメモ台としてA6判の「京大式カード」というものが提案されていたが、その後の時代の流れや技術革新やさまざまなアイデアで派生種が広がり、現在みられるような書店に並ぶ各種メモ術本に至っているわけだ。その術はA4判ノートだったり、100均のメモ帳だったり、データベースソフトだったり、スマホのメモアプリだったり、Evernoteだったりする。また、メモ帳もロディアが良い、モレスキンが良いが良いと色々な派閥ができている。
つまり「知的生産の技術」はメモ術の開祖なのである。
というわけで今日、百人には百人のメモ術があり、我こそはというわけで百家争鳴のメモ術本がビジネス書コーナーで氾濫している。
しかし、このひとメモ魔だなー、と思う人は仕事の場でも意外に見かけない。もちろん会議の場とか取材の場ではみんなメモるが(最近はデスクの上にモバイルPCを開いてパチパチするパターンが多い)、いわゆる「なんでもメモる」ような人というのはこれだけメモ術本が溢れているわりに見かけない気がする。
手を変え品を変えてメモ術本が次々でてくるということはそれだけ買う人がいるのだろうけれど、けっきょく実践する人というのはほんの少しなんだろう。そして見果てぬ夢をみてまた新たなメモ術本に手を伸ばす。
実はメモ術本ビジネスというのは、ビジネスモデルなんだと思う。
直観と論理をつなぐ思考法 VISION DRIVEN
佐宗邦威
ダイヤモンド社
会社の人間をぼんやりみていると、自分の中に何か美意識というか基準となる哲学みたいなものがあってまるで自分の作品を出すような気概で仕事をする人と、外部から言われたり、外部に何かきっかけがあって仕事をする人がいる。たとえばこれを内発⇔外発の軸とする。
それから、基本的に能動的に仕事を作り出す人と、受動的に仕事を引き受ける人がいる。これを受動⇔能動の軸とする。
この2つの軸を縦横に置くと、4つの象限ができる。
たとえば第1象限は「内発」かつ「能動」というタイプである。本書のビジョナリーな人というのはここなんだろうなと思う。本書はこの象限で成功するための指南書だ。うまく機能すると「世の中を感動させるアートなもの」を出せる人だ。だけど、うまくいかないとエゴイズムが漏れ出た単なる「かまってちゃん」になりそうにも思う。
第2象限は「外発」かつ「能動」というタイプである。外のなにかに触発されて自ら動き出す。うまくいけば「使命感」に支えられて完全燃焼ができる人だ。ヒーローになれる。しかし、これもうまくいかないと「おせっかい」な人になる。
第3象限は「外発」かつ「受動」というタイプだ。これはいわゆる受注型タイプであろう。うまくいけば「最小エネルギーで最大の効果」という生産性向上ができるかもしれないが、メンタリティとしては「指示待ち」であり、もっといえば「やらされ感」が強い。楽しくはないと思う。
第4象限は「内発」かつ「受動」というタイプ。「降りてくるのを待つ」とでもいうか、うまくいけば民話の「三年寝太郎」のような一発大逆転があるかもしれない。ただ、いつまでも芽が出ない「いつかおれはなにかやってやるぜ。何かを」と深夜のファミレスで息巻くフリーターのように見えなくもない。
何が言いたいかというと、なんであってもポジネガ両側面があるかもなあ、ということだ。「ビジョナリー」であることも大事だが、どうポジティブサイドに転がるようにコントロールしていくかということがもっと大事だろう。もちろん本書はそのコントロール方法を詳細に述べている。
いろいろなことが書いてあるが、そのココロは、試行錯誤と挫折(小さな失敗)を繰り返しながら、上昇カーブを少しずつ進めていってやがて偉大なる成功に至る、という道筋だと思う。ということはこれの核心は「やりぬく力(GRIT)」ということだろう。おのれを信じてとにかく続ける、というのは先ごろ紹介した「アーティストのためのハンドブック」と同じである。
ちなみに僕は第2象限の「使命感」もバカにはできないと思っている。「OODAループ」でも出てくるが、「使命感」は人が自律的に行動する組織に無くてはならないものだ。自律的組織といえば「ティール組織」だ。
なお、本書は「ティール組織」も、それから「センスメイキング」も取り入れられている。ジャーナルの習慣をつくるというところは「ゼロ秒思考」を連想する。「ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学」を彷彿させるところもある。「100年人生」も「サピエンス全史」も「SDGs」も出てくる。
なんとなく最近のビジネス書まわりの言説を集大成させた構築物のようでもある。組み合わせの妙から新たなアイデアを生むというのは発想の常道だが、それを冒頭に掲げられている1枚のイラストにしてしまったのが本書の真骨頂だろう。このイラストと目次があれば、勘のいい人ならば本書の内容を十分につかむことができるはずだ。
センスメイキング 本当に重要なものを見極める力
著:クリスチャン・マスビアウ 訳:斎藤栄一郎
プレジデント社
ビッグデータや、コンサルティング会社が良く使うような経営指標主義に反旗を翻す本。性格的には「世界のエリートはなぜ『美意識』を鍛えるのか」と似たようなところがある。アンチ「マネー・ボール」的とでも言えばよいか。
本書曰く、世の中を知るには、市場を知るには、人間を知るには、ビッグデータなどではなくてしっかり「センスメイキング」をしなければならない。センスメイキングというのは”鍛え上げられた直観”とでも言えばいいのか、いま目の前で起こっていることや、市場や人間や世の中が放つ有形無形の兆しを手掛かりに物事を判断する能力である。ビッグデータが定量的で抽象的な情報であることに対し、センスメイキングは定性的で具体的な情報を察知する能力が問われる。Wikipedia にも「センスメイキング」の項目があって、OODAとも関係してくるらしい。
で、そのセンスメイキングの能力はいかにして高めるか、というのが本書の主題である。本書いわく、必要とするのは「哲学」の素養であり、もっと具体的にいうと「現象学」の考え方である。
「現象学」かあ。たいして勉強していないのでよくわかっていないが、「現象学」というとフッサールを思い出す。しかし、本書で強力に推しているのはハイデガーである。ハイデガーの「現象学」を説明してみろ、と言われてもモゴモゴしてしまう。ある現象が目の前にあるとして、その現象を解釈するにあたってはその現象自体が単体独立として意味を持つということはなく、その現象の背後にある「文脈」がその現象に意味を与える、というものという感じだろうか。たとえば「腹が減った」という現象は、それが飢餓で何日も食べていないことによるものか、ダイエットの最中で目標達成まであとわずかというものか、どこからか鰻のいい匂いが漂ってきて思わず感じたものかによって、まったく意味が異なる。こういう文脈を切り離して「腹が減った」という現象のみを解釈することはできない。
つまり、目の前で起こっていること、市場の現象、人間の行動、世の中の現象はすべてなんらかの文脈を背負っている。言い換えると、大きな文脈の一部の現れなのである。郵便ポストが赤いのも何かの文脈の現れなのである。
よって、ある事件があったとして、その事件の解決法をめぐっていくらレポートを聞いてもケーススタディを調べても、その事件特有の文脈がわからなければ解決はしない。そして事件特有の文脈は現場に行かないとわからない。即ち「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ。」ということである。そうか。あれはハイデガーだったのか。
ところで、目の前の対象を、細かく腑分けしていくいわゆる「分析」という能力、これを素早く正確にできることがいわゆる「優秀な人」の素養と言える。偏見承知でいうと、優秀な東大の文系の人はこれに秀でている。エリート官僚なんかはこれがものすごく上手な気がする。複雑な問題をひとつひとつ解きほぐして手のひらサイズに解題していく。それを次から次へとこなす。これに必要な能力とは何がどうなっているのかの構造を見抜く「論理力」、分解しやすい単位に変換させる「定量化力」、特殊な現象を一般のものに敷衍させる「一般化力」だろう。
これに対して、目の前の対象は、実は何かもっと大きなものの一部である、というもうひとつ外側のレイヤーに思いを馳せようとするのが、梅棹忠夫や今西錦司などが所属した新京都学派の連中だ。これに必要な能力は、微細な情報も漏らさない「観察力」、どうすれば辻褄があう世界仮説がつくれるかという「物語力」、どんな特殊な案件でもそれを尊重する「個別適応力」である。
僕は勝手に「分析脳」と「統合脳」、あるいは「東大脳」と「京大脳」という風に読んでいる。どっちが良い悪いということはない。求められる時と場所がそれぞれ違うということなんだろう。
ただ、「思考の整理学」で有名な外山慈比古氏は、「分析はコンピュータの得意とすることであり、人間は統合力こそ求められる」ということを80年代に述べている。今年話題になった「AI VS 教科書が読めない子どもたち」の新井紀子氏は、なぜかAIが得意とする領域のほうに学校教育のカリキュラムが組まれる(つまり、AIの劣化版のことしかできず、AIができないことはできない「何の役にも立たない」人間が大量に発生する)という薄気味悪い指摘をしている。
目の前の現象から様々な兆しを読み取るのは、本来的には動物的な野生能力といってもよい。万事が定量化され、類型化され、管理化される「脱野生」的な今日だからこそ、その背後にある数字にならないもの、類型におさまらないもの、管理しようがないものを察知する能力が、これからの世の中における他人やAIとの競争力の源泉だろう。「分析脳」もけっこうだが、ここはひとつ「統合脳」を鍛えていかねばなどと思う。
そのための秘訣は本書によれば、「個人」より「文化」、「薄いデータ」より「厚いデータ」、「動物園」より「サバンナ」、「GPS」より「北極星」、「生産性」より「創造性」とのことである。詳細は本書を参照されたいが、僕が思うにこれはエスノグラフィ(民俗学)のセンスだ。
問題があるとすれば、これの欠点はひたすら風呂敷が広がっていって時間がかかってしょうがないことである。そもそもエスノグラフィというのはたいへん手間暇がかかる学問である。
したがってことの本質は「短時間でセンスメイキングができるようになるにはどうすればよいか」ということになる。これすなわち”鍛え上げられた直観力”ということになり、普段から筋トレよろしく「現象学」を身に着けるようになっていなければならない。
本ばかり読んでないで街に出なさい、ということだろうか。
世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」
山口周
光文社新書
本書でいうところの「アート」と「サイエンス」に近いのだけれど、「文系の感受性」と「理系の方法論」の両方を併せ持った人こそが最高だなと僕は常々思っていた。日本人でいうと夏目漱石の友人で知られる物理学者の寺田寅彦がそうだ。寺田寅彦の随筆集は岩波文庫から何冊か出ているがどれも小粋と論理が絶妙にブレンドされていて、平成の終わりの今となってもほれぼれする(路面電車の混雑に関する考察は、現代でもエレベーターや地下鉄で観られることがあり、僕はそれを応用している)。
寺田寅彦の自己紹介短歌が素敵である。
”好きなもの イチゴ珈琲花美人 懐手して宇宙見物”
こういう句が書けるセンスの人になりたいと思う。
というわけで、エリートはなぜ美意識を鍛えるのか。VUCAの現代、論理だけでは真の解決は見いだせず、アート的なセンスによる直覚型の判断ができるようにならなくてはならず、そのためには「美意識」を磨かないとならない。世界のエリートはそこにとっくに気が付いていて美意識磨きに余念がない。逆に「美意識」を持たないでエリートの座にいる人は社会にとって「危険」である、というのが本書の導入である。
僕が周囲を見ている限りは、「美意識」のもともとある人(少なくとも「美意識」が育つ素養がある人)が真のエリートになるのであって、エリートになった人があとから「美意識」を磨こうとしても見てくれに終わるというか、そんな人はつかの間のエリートか、あるいは”担ぎ出された”エリートなのではないかとも思う。したがって本書が要求している「美意識」とは、セミナーや研修でビジネススキルのように身に着けられるものでもなさそうだ。もっと大学生とか高校生とか、もしくはもっと前から自覚的にならなければならない素養のように思う。
本書の後半で、基礎として(古典の)哲学」を学びなさい、というところがある。古典の哲学からは
①コンテンツ
②プロセス
③モード
を学ぶ力が鍛えられるからである、というのが本書の主旨だ。
その通りではないかと思う、とともにこれこそが「美意識力」の正体なのではないか。
少し言い方は違うが、「表側」と「中身」と「背景」、あるいは「現象」と「原因」と「環境」、でもよい。つまり、目の前にある①コンテンツ・表側・現象には、そこに至る②プロセス・中身・原因があり、そういう現象を起こす時代や地域という③モード・背景・環境がある、ということだ。
で、古典哲学に限らず、アート鑑賞に限らず、すべての学問はつきつめるとこの3つを学ぶためにあるのではないかと思うのだ。つまり、手がかりからこの世界の正体を知る、という思考はこの3つを通じて行うのである。これが教養つまりリベラルアーツの正体であろう。世界の正体を知るということは、世界に対して自分を相対的に位置付けることができるということであり、自分を相対的に位置付けられれば、その世界の装置に自分は組み込まれていないと解釈できるようになり、その結果、自分は自由(リベラル)になれる。つまり自分を見失わない能力というのがリベラルアーツと言える。
だから、哲学を学ぶと確かにコンテンツ・プロセス・モードを学ぶ力が鍛えられるけれど、畢竟すべての知識は、そのつもりで学ばないと”生きた知識”にならないと思う。逆にこれさえ会得できれば、散歩ひとつでも無限の知的体験に昇華させることができる(ブラタモリがそうである)。
しかし、このような、コンテンツ・プロセス・モードを学ぶ力をつける、というのはかなりの鍛錬を必要とするよなあ。一朝一夕で身につくものではないし、よほど自覚的でなければならないし、そもそも日本の教育体系はそうなっていない。大学入試改革も検討されていて文理の垣根をとったり、思考力を鍛えるカリキュラムが考案されているが、つまりそれくらい教育の根っこからつくりあげていかないと、こういうセンスは育まれない。
そういう意味では、本書も実はけっこう意地が悪い確信犯だよな、と思ったりもする。つまり、美意識なんてものは簡単に身につくものではありませんよ、場合によっては手遅れですよ、だからあなたがたは「エリート」ではないんですよ、という突き放したところがあちこちに感じられる。プラトンやカントやアーレントまで引き合いに出して、世界のエリートはこのレベルで議論をしているのだ、お前らついてこれるのか? とまあそういう態度の本と言えなくもない。
そんな本が2018年のビジネス書大賞受賞とのことだ。ニッポンのサラリーマンのコンプレックスをぐっと突いたんだろうと思う。(「ビジネスマン」というとパリッとしているのに「サラリーマン」というと急に悲哀が漂いだすのはなぜなんだろうか?)
決断の本質 プロセス志向の意思決定マネジメント
マイケル・A・ロベルト
英治出版
「失敗の本質」以来、「〇〇の本質」というタイトルのビジネス本が次々と出て、本書もその一環のように見えるが、原書のタイトルは「WHY GREAT LEADERS DON'T TAKE YES FOR AN ANSWER」。「なぜ優れたリーダーは正解を言わないのか?」といったところか。
本書はそれなりに厚みのある本だが、主旨はけっこうシンプルである。チームが正しい決断を得るには、リーダーは「正解」を言うのではなく、「正解が出るプロセス」を整えることである、というものだ。
つまり、チームが間違った意思決定をした場合、間違いの原因は、それを導き出したチームの意思決定プロセスにあるというものである。したがって、そのプロセスが改善されない限り、同じ間違いを繰り返す。アメリカのスペースシャトル「コロンビア号」の事故は、その17年前に起こった「チャレンジャー号」の事故と、表面上の現象は違う技術的事故だが、その事故を許してしまったのはNASAという組織の意思決定プロセスにあり、それは両事故とも同じものであった。
「失敗の本質」も、言うならば日本軍特有の意思決定プロセスに失敗の因果が潜んでいたことを看破した本である。
僕の勤めている会社で、お得意先に採用されなかったりライバル会社に競り負けてしまったプレゼンの企画書を集めて、失敗分析をしようというプロジェクトチームが発足した。僕も採用されなかったプレゼンの企画書を提出させられた。しかし、はっきりいって企画書を集めて眺めたところで失敗の真の原因はわからないだろうとひがみ半分で思ったりする。焦点をあてるべきは、なぜそんな企画書に至ってしまったのかのチームの意思決定プロセスで、そこを検証しないことには、また同じような提案をして失敗を繰り返すだろう。
で、組織の意思決定プロセスというのはかなりその会社の社風というか、組織文化に左右される。フラットな雰囲気の組織と、ピラミッド的な官僚型の組織と、体育会的な組織ではモノゴトの決まり方はだいぶ違うだろう。その文化は時によってプラスにもマイナスにも作用するはずだ。
簡単に言ってしまう、「それって間違っているんじゃないかなあ」とチームの誰かが思っても、それを言わせない雰囲気のある組織は、けっきょく間違った意思決定を出し続けるリスクがある、ということだ。こういう組織は多かれ少なかれあるだろう。
とくに日本の場合は、年功序列的なものがなんだかんだいってあるから、先輩の間違いを指摘しにくい。これだけ変化の激しい今日の世の中では、先輩のほうが後輩より正しい答えを導く確率というのは必ずしも高いものではないし、むしろ過去の成功体験が今となってはミスリードになることもしばしばであるが、それでも先輩に異を問いにくいという組織は多いだろう。上を通して許可をもらわないと行動に持っていけない、というところは多いはずだが、このとき「上」が基本的に間違っていたりすると悲劇が繰り返されることになる。(新橋のサラリーマンのぼやきみたいになってきたぞ)
本書では、意思決定「プロセス」をコントロールすることこそが有能なリーダーであるとする。そして、非建設的な対立に陥るチーム議論の原因や、それを回避するためのファシリテーション方法などがいろいろ挙げられているが、その要諦は、誰もが畏れも警戒もなく自由に意見が言えること、意見を言われた相手が機嫌を損なわせないようにすることということなのである。簡単そうで難しい。そこには面子や立場といったなかなか厄介なものがあるし、「立場」というものがかなり言動を制限することはスタンフォード監獄実験などの心理学実験でもよく指摘されている。
まずはリーダーそのものが、リーダーという「立場」なのだけれど、その「立場」が醸し出すネガティブ効果を抑えるように配慮する必要がある。配慮しながら、しかしファシリテーションを繰り広げなければならない。感情的になりすぎるところを先回りして制し、なあなあで妥協しそうになるところをもうひと踏ん張りさせる。チームがあたかも自発的にそれを意思決定したかのように、実はリーダーの差配でその結論にもっていくようなコントロールを行う。まさに離れ業である。
第2次世界大戦時に最高司令官となり、戦後に第34代アメリカ大統領になったアイゼンハワーはこれの名人だったそうだ。
アメリカの大統領というのは、キューバ危機のケネディにしろ、剛腕ニクソンにしろ、冷戦終結のレーガンにしろ、9.11後に最高支持率を獲ったブッシュにしろ、Yes We canで全世界を感動させたオバマにしろ、そのリーダーシップのありかたはそれぞれで賛否もあるけれどなんだかんだで人をよく惹きつけるものだ。出てくる政策や最終的な成果だけみれば疑問も多い歴代アメリカ大統領だが、それこそ「プロセス」のコントロールに関しては相当に鍛えられているように感じる。ほぼ1年にわたる大統領選を勝ち抜くことがそれのスクリーニングになっているのかもしれない。トンデモなのか実は凄いのかよくわからないトランプ大統領も、なんだかんだで国民の支持は下がっていないし、人をいかにまとめあげるかというDNAが移民と開拓の歴史の中で培われたのであろうか。このへんは日本の歴代首相にはなかなか見られないものである。
1440分の使い方 成功者たちの時間管理15の秘訣
ケビン・クルーズ 訳:木村千里
パンローリング
人生は100年時代なのに、1440分(24時間)を合理的に生産的に使わなくてはならないとはなんとも難儀な時代になったものである。情報テクノロジーの生産性はムーアの法則として累積的に加速していくが、人間自身もまた、ムーアの法則のように生産性を加速度的に高めていかなければならないのである。つまり10年前は1週間かけてやってよいこどが、いまや数時間で完成させないと人材として認められなくなってしまった。とほほ。
したがって、「仕事ができる人」=「時間使いの名人」ということである。熟慮に熟慮を重ね、みっちり時間をとってこつこつしあげる職人肌の人は「仕事ができない人」なのである。これがここ数年にあったパラダイムシフトだ。24時間かけて100の完成度を誇るより、12時間で60の完成度を仕上げてしまい、それを1日間で2つ作れてしまう人のほうが「仕事ができる」のである。
本書にはテクニカルなことがいくつもかかれている。スケジュールは15分単位でいれろとか、ToDoリストではなくスケジュール表にしろとか、朝起きたらたくさん水を飲めとか、運動しろとか、何も予定がない時間をあえて確保してスケジュール帳でブロックしておけとか、手書きでメモれとか、常にメモ帳を携帯しろとか、後回ししたいものこそ先に片付けろとか。
まあそういうことなのかもしれないが本書で目玉のは「80対20の法則」の敷衍だろう。実際に僕の周囲などをみても「時間使いの名人」すなわち「仕事ができる人」は、この法則を自覚的経験的にかかわらずわかっているように思う。
「80対20の法則」とは、その仕事の価値の8割を占める重要ポイントは、実は全体の2割に満たない、という逆説的な法則のことである。つまり残りの8割は価値としては2割ほどでしかない。
これが何を意味するかというと、その仕事のコアバリューを決める大事なところは、仕事全体にかける時間の2割で済むということだ。残りの時間8割はそのコアバリューをフォローするための資料集めなどに費やす時間に過ぎない。
たとえば企画書をまとめるとしたとき。100ページの企画書があるとして、大事なところは20ページ程度である。残りの80ページは演出や規定演技であるに過ぎない。
そうすると「時間使いのうまい人」は、その大事なコアバリューの「8割」のところだけをさっと見抜き、先に「2割」の時間でやってしまうのである。残りの8割時間のほうは誰かに任せたり、隙間時間でちまちまとうめたり、あるいは未完成のまま押し通してしまう。一番大事なところが抑えられているからなんとかなるのだ。
反対に「時間使いの下手な人」は、時間がかかる8割ーー実際にその価値は「2割」しかないのにーーから着手してそこに延々に時間をかけてしまい、いつまでたっても一番大事なところに行き着かないので「あいつは仕事が遅い」「何が大事かわかってない」となって、「仕事ができない人」になってしまう。
この「80対20」の法則はいろいろ応用がある。たとえば会議。だらだら続くもいっぱいあるが、本当に大事な意思決定や討論は会議全体時間の中の2割程度だったりする。「時間使いの名人」すなわち「仕事ができる人」は、その2割のところだけ積極的に参加して、あとは退出したり手元のノートパソコンで他の仕事をしている(隙間時間でちまちまうめたい「8割」のほうの仕事をしていたりする)。
人間関係や人脈もそうで、フェイスブックに登録されている友達などソーシャルネットワークのなかで本当に大事なのはその中の2割である。あとの8割はたいして作用していない。(クレジットカードなんかでも、アクティブなのは2割でのこり8割は幽霊会員というのはよく聞く話である)
つまりこういうことが言える。1440分のうち、本当に大事なのは2割にあたる288分つまり4時間48分だ。ざっくりいうと5時間である。
5時間を上手にねん出して、ベストのコンディションをつくり、自己裁量を確保して価値あることに使えると「時間使いのうまい人」すなわち「仕事ができる人」になる。
5時間のうち、1時間を読書などのインプットに費やし、1時間をジョギングなどの健康増進に費やし、1時間を「大事な人(ソーシャルネットワークの2割!)」と話すのに費やし、そして2時間を仕事の本当の大事なところのアウトプットに費やす、でもよい。それを毎日続ければあなたは1440分の使い方の名人、「超・仕事ができる人」になる。
秘訣はこうだ。朝起きてから通勤時間中などの時間もふくめて午前中いっぱい、ランチタイムが終わるまでをその「大事な5時間」にしてしまうのである。まずは早起きから始めてみることだ。
・・・・うーん。みごとに自己啓発書的なストーリーの完成である。そうはうまくいかないのが世の常だ。
8割のムダの中に実は破壊的イノベーションのアイデアがあるという説もある。本当に本当に大事なのは、8割のムダの中に「よくわからないけれどこれはなにか後々使えるかもしれない」という直観的なアンテナを働かす能力なのではないかとも思う。これが鍛えられないと、しょせんは本物のAIのムーアの法則の前には叶わないのではないかと思うのである。