この1冊、ここまで読むか! 超深堀り読書のススメ
鹿島茂
祥伝社
ここでは博覧強記で知られるホスト役の鹿島茂が、楠木建や成毛眞や内田樹や高橋源一郎などの論客と、1冊の本について語り合うのだけれど、実は本そのものについての言及はあまり多くなく、むしろその本が扱っているテーマそのもの、その著者やそれが書かれた時代背景、社会世相の考察へと話題は広がっていく。
つまり、本そのものは深く広く展開される教養の世界に飛び込むための触媒に過ぎない。まさに「ここまで読むか!」である。ここまで語れてようやく読書の醍醐味というのが出てくるように思う。
だけど、自分の読書歴や印象に残った本などを振り返ってみると、1冊の本からここまで深みにはまっていくことができたものはそう多くない。
①たいていの本は、字面に書かれたものをそんなもんかなとか、へえーといった程度で消化されて終わっていく。
②何冊に一冊かは、じっと考えて関連する分野のことに思いをはせたり、自分のこれまでの行いなどをふりかえってみたり。つまり脳みそに歩留まって、ちょっとした新たな地平を見せる。
③さらに何冊かに一冊になると、その本のテーマそのものや著者自身が気になりだし、似たようなテーマの本をさらに探し出して読んだり、同じ著者のものをさらに読んでみたりする。ここまでくると読書の甲斐もあったというもので、最初に出会ったその本はかなり「当たり」ということになる。自分が生きるこの世界に新たな時空間がひとつ加わった感じがする。
④そして、数年に1冊あるかないかの稀なこととして「目の前の景色が変わる」本というのに出くわす。自分が今まで見知っていたつもりの世界観がくずれていくような本である。
「名著論」に近いものは④であり、座右の本などと呼ばれるのも④だ。
だけれど④は、もはや己の身体と分離できないところまでいって、どこまでが本の世界でどこからが自分なのかもはや感知できないようなことにもなっている。本の思いを伝えることはできても、その本が本来持っていたテーマ性や背景を「深堀り」して語り倒すにはもはや主客一体化していて難しい。信仰みたいなものだろう
なので、本書に近い感覚の本というのは、むしろ③あたりだなと思う。④は狙い定めて得られるような本ではない。僥倖に近いといってよい。
だけど③は目標にできる。考えてみると、僕が大型書店を定期的にさまよったり、WEBの読書コンテンツをチェックしたりしているのはこの③ねらいのところが多分にある。もちろん①で終わってしまうことのほうが多いし、②でも満足感の得られる本はたくさんある。
ただ、③を得るにはどうしても書店にいって実物をパラパラとでも見ないとなかなかむつかしい。②まではたとえAmazonの購入でも、巷の評判や著者の実績や出版社などからある程度「読める」のだが、この情報だけで大当たりさせるのは難しく、どうしても書店にいって実物を確認したくなる。目次立てなどみて、これは当たりそうだと思ってレジに持っていく。
だから③の本は電子書籍がほとんどない。ここらへんの本選びの感覚を、電子書籍でもまっとうできるようになるUIUXはできないもんかななどとも思う。Amazonもそれ以外の電子書籍ECサイトも、本選びのアルゴリズムが情報検索のそれ、つまり目的志向型だ。それはそれで便利なんだけれど、書店でぷらぷらするような具合のものができれば絶対そこに入り浸るんだけどなと思う。あるいはそれこそがリアル書店の生き残る道でもあるわけだけど。
中古典のすすめ
斎藤美奈子
紀伊國屋書店
「中古典」。これはもうコンセプトの勝利だ。戦後の日本、とくに60年―90年代にベストセラーになった本を、2020年となった今あらためて批評するという試み。それを「名作度」と「今でも使える度」という2つの尺度で評価しているのも心憎い。これだったらオレでもできたな、と思う評論家や読書インフルエンサーは多かったんじゃないか。ちょっとでも読書歴のある人ならば、ここに出てくる本の何冊かは読んでいるだろう。
自分が若いころ読んで心踊らされた本が、クソミソにやっつけられるのは心おだやかではないが、逆に「今でも使える度」でトリプル満点だと、わが同意を得たり、と思うあたり、著者の術中にはまっている気がする。
このブログにとりあげているものでも「文明の生態史観」「日本人とユダヤ人」「赤頭巾ちゃん気をつけて」などが含まれているし、それ以外でも「されどわれらが日々」「二十歳の原点」「自動車絶望工場」「ノルウェーの森」「窓ぎわのトットちゃん」「蒼い時」「構造と力」「日本沈没」「なんとなくクリスタル」「タテ社会の人間関係」「マディソン郡の橋」など、当時の話題作が次々と肴になっている。
僕が多いに心を動かされた「文明の生態史観」は、その初読のインパクトを、今でも初めて読んだ人は開眼してしまうほどの説得力があると評する一方で、これは「居酒屋談義」の域だとも突き放し、名作度は★★★だが、使える度は★★と採点され、ムッとする。「居酒屋談義」というのは穏やかでないが、この評価は著者の梅棹忠夫自身が「ただの遊び」と言及していることにあるようだ。もっとも梅棹忠夫にとってはすべて学問とは遊びであって、これはコトバを額面通りとらえすぎだぞ、とついついこちらもムキになる。
遠藤周作が1963年に発表した「わたしが・棄てた・女」に対しての酷評も面白い。今となっては著者のいうように「最低の気分になる」小説である。どこまでも自分勝手で高邁で保身な男の吉岡努と、不遇と不幸と不運をこれでもかと抱える森田ミツの話であり、原罪とか運命とか不滅の愛とか人の弱さとか文学価値的深読みはいくらでもできるが、著者としてはそもそもの男女観にステロタイプをみている。つまり、男女の立ち位置や不幸な女性の描き方に安易な予定調和がみられる。遠藤周作は「沈黙」や「海と毒薬」といったそれこそ「古典」入りした文学を書いている一方、「軽文学」というのも書いていて、この「わたしが・棄てた・女」はそちらにあたるとされる。始末に負えないのは、遠藤周作という人は、非常に文章がうまい人で、もうこれでもかこれでもかと読み手を感情移入させてお涙頂戴にして、これひょっとして超名作なんじゃないの? という感じにしてしまう技に長けている作家である。今で言うと浅田次郎みたいなものか。たいしたことないものでも、さも重要で深刻で壮大な風に書けてしまうというある意味タチの悪い超絶技巧名文家という遠藤周作の側面を60年越しに指摘した評だ。
大絶賛しているのは橋本治の「桃尻娘」で、ここでは著者もノリノリである。いわく現代文学の流れを変えた作品。もちろん名作度★★★使える度★★★。この本がなければ「僕は勉強ができない」も「インストール」も「阿修羅ガール」も出ず、日本文学は死んでいたと。オジサン的既成概念に凝り固まっていた女子高生像をぶちこわしたということも多いにあるだろうが、やはり表現手法として饒舌系というものを切り開いたところが大きいか。DJか大阪のおばちゃんか古舘伊知郎かと言いたくなる過剰にして加速するコトバの戯れによって描かれる世界が示す圧倒的な力は、「なんとなくクリスタル」で使われた注釈手法なんて姑息に過ぎないと見せるに十分ではあっただろう。僕がこれを読んだのは高校生くらいのときだったと思うが、まあ、たしかに最初読んだときはぶっとびましたね。やがてこの「桃尻語」のスピンアウトとして、「桃尻語訳 枕草子」なんてのも出た。春って曙よ!
「中古典」とは確かに言いえて妙で、これらは評価が完全に定まっていない。殿堂入りしたものは見事「古典」となる。「古典」というのは、時代を超えた普遍性がある、ということであれば、これら中古典は当時の時代の波をもろにかぶったものであり、そして2020年の現在、歴史の試練の真っただ中にさらされているものだ。これを耐え抜いたものが時代を超えた普遍性を見出されて「古典」の座につく。脱落したものは単なる中古品になる。本書の「今でも使える度」はあくまで著者斎藤美奈子の主観であるとはっきり断っているから、自分でもこれら中古典をもういちど反芻してみるのも面白そうだ。本書には登場してないが個人的には岸田秀「ものぐさ精神分析」、藤村由佳「人麻呂の暗号」、椎名誠「哀愁の街に霧が降るのだ」あたりはビミョーなところとしてその命運が気になるところだ。
行く先はいつも名著が教えてくれる
秋満吉彦
日本実業出版社
著者はNHK教育番組「100分de名著」のプロデューサーである。この本では、著者の名著との出会い、名著に救われ名著に背中を押された人生の中での様々なエピソードを、それぞれの本とその作者に最大限の敬意を払いながら書いている。フランクルの「夜と霧」、岡倉天心の「茶の本」、レヴィ=ストロースの「月の裏側」、三木清の「人生論ノート」などが登場する。
しかし、その本を読む前と読んだ後で、もはや違う自分ー新たな地平を得た自分が出現するような、そんな「名著」はやはりそうあるものではない。そういう本の出会いについて、本書では最終章「歎異抄」で触れている。曰く名著とは「情報」ではなく「物語」としてせまってきた本である。
真の「名著」とは、その本を読んでしまったらもう後戻りできない。「情報」として消費されるのではなく、「物語」として自分と一体化してその後の生き方を変えてしまう本である。ここまでのインパクトを与えるには、本そのもののエネルギーだけでは不十分であって、その本を読んだときの自分の状況、心境、事情その他も多いに関係ある。何事かに追い込まれたときの自分と、その打開を示唆した本、それこそが自分にとっての真の名著である。つまり「名著」に出会うということは”本と自分の相互作用”と言ってよいのである。
もちろん、多くの人が「自分を変えた本」といって挙げてくる本、言わば”名著率が高い本”というのは確かに実在する。「夜と霧」なんかはその代表例だろう。だからといって誰もが「夜と霧」で人生が変わるということはないだろうし、逆に多くの人がスルーする無名の本でも、当人がそれで変わったのならば、その本はその人にとって名著であろう。
つまり、名著との邂逅というのはタイミングがある。まして、自分の人生に並走するような、人生のバイブルともなる名著となると、もう滅多なことでは出現しない。
これは恋愛とまったく同じだ。しかも人生のバイブルともなる「名著」との出会いともなれば、一生の伴侶と出会う愛の奇蹟と同じである。しかし、多くの人が現在の伴侶との出会いを語るに、知らず知らずのうちにそこに出会うようにモノゴトが流れていったかのように感じるように、自分にとっての名著との邂逅も、当時に至る人生の流れの期待にこたえるように一生懸命に生きていたら、やがてその本に出合うことは必然だったという振り返り方も可能だろう。愛の奇蹟がそうであるように。
僕も何冊かそういう自分にとっての「名著」がある。たとえば音楽評論家の故・吉田秀和が書いた「世界のピアニスト」がそうである。
まごうことなくこの本は僕にとって人生のバイブルになっている。よくキリスト教の信者は、眠る前に聖書の一節を読んでそのことを頭に眠ると言われるが(ホテルのベッドサイドに必ず聖書があるのはそのため)、僕にとってはこの本がそんな位置づけにある。自宅の本棚のほかに会社のデスクの上にも一冊置いていて、朝出社してデスクのパソコンのスイッチを押すと、立ち上げるまでの時間のあいだ(けっこうかかる!)、僕はこの本から適当なところを開いて目に入ったところを数ページ読むのだ。そしてそこに書かれていることを反芻しながら今日の一日を開始するのである。
僕はこの「世界のピアニスト」でいろいろなものの見方や考え方を学んだ。気に入らないものの受け止め方や赦し方を学んだ。齢をとることの哀しみと偉大さも教わった。双方に矛盾するものの昇華のしかた、外国と日本の感受性の違いと両者の尊重。挑戦すること、守りぬくこと。あいまいのものをあいまいにしない態度、その反対に、あいまいなものをあいまいなものにしておく美意識。そんな人として幸福に生きる術のすべてをこの1冊から学びとったといっても過言ではないのである。教科書やガイド本に出てくる古典名著数十冊分の薫陶を、ぼくはこの文庫1冊で得ることができたと本気で思っている。
この本に出合ったのは高校1年生のときだ。したがって30年来の付き合いということになる。通算で100回以上は開いた本といっていいが、しかし今もなお新たな気づきがあるし、忘れていたことを思い出させもしてくれるし、落ち込んだときの慰めにもなる。つまり、僕にとって「世界のピアニスト」は、僕の人生の物語そのものになっていて、分離すらできなくなっている。
と、ここまで書いてさてさぞどんなに凄い本かと思われるだろうが、大方のヒトにとって興味も共感も得にくい内容であることは想像に難くない。これはおもに20世紀に活躍した世界のクラシック音楽ピアニストを個別に評論したものである。したがって、クラシック音楽を知らなければなかなか読みにくい本だし、その内容も今から半世紀前の世の中に出されたものだから時代のずれもある
もちろんクラシック音楽や芸術評論に詳しい人であれば、吉田秀和は大家中の大家であったことに異存はないだろう。彼の評論が広範な教養と美意識を母体とし、その文章の磨かれ方も一級の文芸作品として遜色ないことを認める人も多いと思う。その人柄も切実で人徳にあふれ、しかし中にはつよいパッションを持つ誉れ高き人物であったことに賛同するだろう
しかし、この「世界のピアニスト」が僕の人生のバイブルとまでになぜ機能するかを僕が他人に一生懸命説明しても、絶対に理解できないだろうし、だいたい”僕ではない人”がこの本が人生のバイブルになりっこないのは僕自身もよくわかるのだ。本書の表現を借りればこの本は「僕一人がためなりけり」だからである。
最初にこの本を手にすることになった高校1年生のときの経緯がまたきわめて個人的事情だし、その後の自分の人生に折に触れてこの本を開き、そして僕なりの読み方を深め、ついには僕にしかできないような読み方になっていったと思うのである。30年かけて読んでいるようなものだ。この本を僕にとっての「名著」にしたのは僕自身なのである。
今回、「名著が人生を導いてくれる」を読んで、この本自体が「名著」だと感じた。本には確かに人生を導く力がある。そして「名著」をつくるのは読み手自身であることも本書は示唆している。名著とは本と読み手の相互作用で出現するものであることを本書は解き明かしている。
岩波書店
メインとなるコンテンツは、哲学者の鷲田清一氏、憲法学者の長谷部恭男氏、詩人の伊藤比呂美氏の3名による講演とゼミ生との質疑応答ということになるが、それ以外にゼミ生の自己紹介文的なものとか、座談会録とかいろいろなものが挿入、混入されていて、巻末や奧付のレギュレーションも、なんか守られてなくて、それでいてこれら要素がとくに分け隔てなく本書を構成いるのに、一冊となってしっかりとメッセージを発している。
個人的になるほどなあとしみじみ思ったのは以下のセリフ。それこそ学生のころに聞きたかった。
あと、ゼミ生の小島夏水さんの文章。
カルチャロミクス 文化をビッグデータで計測する
著:エレツ エイデン ・ ジャン=バティースト ミシェル 訳:阪本 芳久
草思社
ずいぶん前だが「『文系知』と『理系知』の融合 ~コンピュータによる文学における暗黙知的可視化」という本を入手した。白百合女子大学アイリエゾン研究会という研究グループがプロジェクトを本にしたものである。この本はまだ手元にあるので調べてみたら2002年刊行であった。
どんな中身かというと、「コンピュータの使用を前提とした数学的手法である線形空間論を用いて、文学作品の文体構造を四次元時空間に可視化し、その作品の文体構成、性質等を客観的に明らかにしようとすること」であった。芥川龍之介「杜子春」や夏目漱石「坊っちゃん」や宮沢賢治や古今和歌集の諸作品にあらわれる文字や単語の出現パターンとか、会話文と地文の出現パターンなどから、裏にある因果関係をせまるという意欲あふれた試みであった。
つまり、文字というテキスト配列を、スペクトルとして解析することで、その文学が支える思想を見抜くという、まさに文系と理系の融合的試みなのであった。
面白いことやるんだなあ、と当時の僕は思った。青空文庫などでテキストがデジタル化されて読み込めるようになり、数量解析の対象になったのである。
その後、「テキストマイニング」という言葉がはやった。当時の僕は統計の仕事をしていたので、このテキストマイニングというのも調べてみた。アンケートの自由回答結果とか、ネット掲示板に長々と書かれている文章から、単語の出現頻度とか、Aという単語とBという単語の出現の相関関係とかをみながら、そこでくりひろげられている情報の構造を見抜くというものである。もっともこのテキストマイニング、一見カッコいいが、けっこう下準備がたいへんで、何回か試みたが結局のところ僕はサジを投げてしまった。
それと並行して、「文献計量学」という学問が注目されるに至った。やっていることは上に同じである。たとえば、源氏物語五十四帖が、句点の打ち方パターンなどからみると、一帖から五十四帖までが、定期的にこの順番で執筆されたわけではなく、順番も執筆感覚もバラバラ。あまつさえ、同じ作者であったかどうかもあやしい帖が何章か存在する、なんてことがわかったそうだ。
そのうち、僕の興味の対象はよそにうつってしまって、こういうテキストを統計的にみる、という世界からは遠ざかってしまったのだが、やがて、時代はビッグデータを迎えるようになった。
で、ようやく本書の話。日本版の刊行は2016年2月。ついこのあいだだ。書店の平積みを見つけ、久しぶりにみるこの世界の進展が知りたくてすぐ購入した。
グーグルが、全世界の図書館の本をデジタル化するというプロジェクトを進めて9年。いまや中世時代から現代にいたるまでの膨大なテキストデータがストックされつつある。これらによって、文献計量学も、1冊の本を計量するというよりは、本の歴史そのものが計量の対象になった次第である。中世から現代という時代の幅が解析の対象だから、これは人類の記号単語史といって差し支えない。
本書は、このグーグルのプロジェクトと提携し、過去の膨大なテキストデータを分析しようとしたものだ。
これによって、単語の歴史的な変遷がわかる。なるほど、●●という言葉が、時代のいつごろから、文献に出現していったかとか、○○という言葉が△△という言葉に置き換わるようになったのはいつ頃かとか、現代は見られない××という言葉は、いかにして滅んでいったか、などが、グラフで可視化されている。
個別の単語を追跡した分析も、そのひとつひとつがなかなか示唆に富んでいて面白いのであるが、こういった単語の出現パターンが、実は「べき乗分布」とか、伝染病の普及モデルとか、「エビンハウスの学習と記憶のモデル」とか、あるいはダーヴィニズム的生態学の法則性があるという発見がなかなか面白い。感覚的な後知恵ではわからなくもないが、なにしろ数百年を俯瞰して初めて目の当りにできる事実なので、これこそグーグルのプロジェクトにして初めて掌握された事象だろう。言語もまた生態学的なふるまいにあるということだ。このことから、未来への見通し、例えば、driveという英単語の過去形はdroveだが、これがdrivedという形で使用されるようになるのは7800年後、なんてことが分析できたりして痛快である。
一方、ナチスやスターリンによる言論弾圧によって、一時期に使用不能になった言葉や人名を追跡する話は興味深い。シャガールやトロツキーといった禁句の名前は、統制下の時代はものの見事に出現しなくなる。時の権力はそのまま歴史的抹殺をはかったに違いないが、だがしかし、その暗黒の時代を終えると、むくむくっと名前の出現が復活するのだ。たとえ徹底的な焚書を行うとも思想は滅びない、ということを1枚のグラフが示したのは、ちょっと感動的でもある。
言うまでもなく、テキストデータをこうやって解析する技術は、アカデミズムだけでなくてマーケティングでも使われている。本書でも最後に警告しているように、個人があちこちで痕跡を残しているデータを追跡する技術はかなりの精度に達している。僕自身は、こういうマーケティングで用いられるビッグデータは気色悪くてしかたがない。
ただ、マーケティングならまだしも、国によっては、あるいは未来によっては、思想検閲の一手段になることも考えられる。「図書館でその人がなんの本を借りたかは絶対に秘密にしなければならない」というのは、現代の図書館思想の代表的なものだが、CCCがの武雄市図書館でやろうとしたことは、そこのところで大議論を巻き起こした。
本書ではテキストの「書き手」、つまり著作権の観点からのテキストの保護を何度もとりあげられているが、この技術は、「読み手」がどんなテキストを読んできたかの集積からも分析できることを示唆しているわけで、なかなか恐ろしい時代になってきたと言える。
書斎の鍵 父が残した「人生の奇跡」
喜多川 泰
現代書林
先日よんだ「戦略読書」と似たようなコンセプトの本。本好きにとっては我が意を得たりというしかない、読書の効能を高らかにうたっている。
本書が他の読書啓発本と異なる点としては「書斎」の効能を説いていることがあげられる。
曰く「書斎は心のお風呂である」。なるほど。
書斎というのは不思議な空間の使い方で、たいていの場合、そこには既に読んだことのある本が並んでいる。もちろん未読本だってあるだろうが、自分の家の本棚や、本好きの友人の家を拝見するにそうである。
じゃあ、そこにある本は、資料棚のように頻繁に出し入れするかというと、これまた必ずしもそうではない。そういう本もあるが、多くはそこに収まったまま特に出入りがない。
本を読まない人からすれば、空間のムダ遣いだし、今まで読んだ本を、戦利品のように並べて喜んでいるナルシズムにしか見えないかもしれない。
「今まで読んだ本」の背表紙がずらっと並んでいるものを眺めることの効能をちゃんと解題した話はあまりないように思うが、多くの本好きにとって書斎や大きな書棚はアコガレであるのは間違いない。このえもいわれぬ欲望はなんなのかということで、本書ではそれを「心のお風呂」と読んでいる。なるほど確かに、本棚をぼんやり眺めることは、やさぐれた心の浄化作用はあるように思える。
かくいう僕の家にもつくりつけの本棚がある。本書にあるように、夜な夜な立ち並ぶ背表紙を眺めている。毎日の自分の知識や美意識の棚卸しといった趣きがあり、確かに「心のお風呂」的な効果はある。
さらに閉塞感を感じたり、脳みそに刺激が欲しくなると本の並び替え作業をしたりする。実はこの並び替え作業、すごく楽しい。時を忘れて没頭する。
美術評論家の西岡文彦が若い頃に出した本に、書棚と戯れる話が載っていて、彼は今まで自分が吸収してきた「知の曼荼羅」が、そこの本棚には現れているはずと喝破していた。
そして、この知の曼荼羅を活かすにはたまに本を並び替えることであるとし、それを「配架術」と呼んでいた。
この配架術は、東京は池袋のいまはなき本屋リブロで80年代に「今泉棚」としてそのスジには知られた立派なメソッドなのだが、とにもかくにも本好きは本の並び方にもウルサイのである。
本書は一種の自己啓発本なのだが、あまり本を読まない人が何かの拍子でこの本を読んで、そして読書に目覚めさせるだけの力があるのかどうかはわからない。読まない人はホント読まないからね。むしろ読書好きが、なんでオレらはこんなに活字に夢中になれるんだっけという問いに、そうそうそうなんだよ、と膝をうつ答えを用意した本だと思う。
戦略読書
三谷宏治
ダイヤモンド社
そういや僕もこんな感じで本を選んで読んでいたのだが、最近すっかり失念していた。久々にこの感じを思い出した次第である。
学生のころ、社会人も20代のころは、間違いなく年間100冊は読んでいた。この100冊の中身は小説、サイエンスもの、当世を語る新書から美術解説書までいろいろバラエティに富んでいたが、人文系、社会系、科学系、サブカル系と意識して散らしていた。
もっとも本書と違って僕の場合、いわゆるビジネス書には長いこと近づかなかった。敬遠していたのである。だから、本書で推奨しているようなポートフォリオで本を読んできたわけではない。
しかし、いつ頃からかサイエンスものや小説の類がぐっと減ってしまい、美術系への関心も薄くなってきてしまった。このブログも初めて7年くらい経っているはずなのだが、当初のころにくらべてバラエティの幅が狭まってきているような気がする。
そして気がつくと本を読むペースが大変遅くなっていた。決して早読みでもなかったのだが、年間100冊のペースはとてもとても無理である。集中力が続かないのだ。10分か15分読んでいると、もう休憩したくなる。好きで読んでいるのか何かの義務感に駆られて読んでいるのかよくわからなくなってくる。
しかも会社勤めの人生も20年経て何をとちくるったのか、ここ1年ほど急にビジネス書に手を出してしまうようになった。カーネギーのような古典から、いくつかのフレームワーク本、管理職の心得本みたいなものまで手にとる。「他人と同じ自分にならなくては」というへんなコンプレックスが生じたということである。もちろん読書は遅々して進まない。しかも頭に入っているのか血肉になっているのか、まったく自信がない。
あきらかにメンタルが空回りしているというか、スランプであると言えよう。当ブログの更新がとまってしまったのもそこに理由がある。
もちろん、これは読書に限らず、要は人生としてのちょっとした踊り場にさしかかっているということなんだろうけれど。とは言え、読書は僕の中で間違いなく喜びの時間の一つであったはずなので、これは由々しきことであった。
たまたま本書の紹介記事を読んで、ピンとくるものがあり、発売前からAmazonで予約をしてしまった。手元に届いたのが今週初め。この分厚さにもかかわらず、平日の2日で完読してしまった。読みやすい。頭に入る。イメージがわく。この感じはかなり久しぶりである。憑き物が落ちたかのようだ。
これはまさに僕がかつて「楽しんでいた」読書の姿だった。
そう。本書の帯にもあるように僕は意識して「みんなと同じ本を読んではいけない」と思ってきていたし、「私たちは読んだ本でできている」と確信して、“みんながあちらを行くなら僕はこちらを行こう”みたいな精神で、したがって教養と多様性を信じて様々なジャンルの本を読んでいた。その過程の中で、司馬遼太郎にはまっていた時期もあれば、興味がわいて日本人論を追いかけていた時期もあれば、ミステリー系ばかりだった時期もあった。
そういうことをすっかり忘れていた。
読書は自分にとってエンターテイメントであり、オフのものであり、知的好奇心を満たすものであったはずなのに、いつのまにやら義務感というか自己模倣、自縄自縛に陥っていたようである。
というわけで、本書は初心を思い出すことができた。ありがたいことである(ビジネス書だけはどうしたもんか当面の課題。読んでて苦痛感がどうしても抜けないんだよな)。
ところで、僕の本の読み方は、基本的に1冊ずつの熟読であった。斜め読みとかつまみ食いではない。また、同時に何冊の本を読むわけでもない。つまり、もっとも古典的かつ基本的かつシロウト的な読み方である。最近の読書指南の本を覗くと、「本は一度に10冊読め」とか「まずは目次を俯瞰して全体をイメージしてから読め」とかいろいろある。本書でも粗読みから重読まで4通りの読み方を紹介している。つまみ食い的な読み方だけはあまり読書を楽しんでいない気がするのだが、同時読みというのも一度やってみようと思う。
あと、読書時間を奪っているのは実はスマホいじり、というのは、たしかに真実。自重しよう。
文体の科学
山本貴光
野心に満ちた本である。
本書は、「文章の科学」ではなくて「文体の科学」である。「文体」とは「配置」であり、その機能は、物質と精神のインターフェースであると見立てる。
書籍であれ、電子ブックであり、制約された空間での文字の大きさや行間のとりかたがあり、そこに文字が配される。本書で再三強調されるのは、「たとえ同じ文章」であっても、配置が異なれば、つまり文体が異なれば、読み手に違う印象を与える。
ただ、本書が白眉なのはそれだけではない。実に、上記の意味での「文体」論は、たとえばカリグラフィ論や本の装丁論でも十分に触れられるところである。
本書は、このような形式上の配置だけでなく、書き手の意志、世界観、書き手が書こうとする対象を支配している文脈やルール、そういったものが、文体という配置の秩序によって、読み手に何をどう与えようとしているのか、およそ「文章」と等価の「文体」にせまろうとしている。
たとえば「批評文」というものをとりあげている。「批評文」はなぜあるのか。たんに、作者の上から目線のドヤ顔のためにだけあるならば、「批評文」はここまで世界中に普遍化しなかっただろう。
著者は「批評文」について小林秀雄の言を引用している。「批評するとは自己を語る事である、他人の作品をダシに使って自己を語ることである」。そして、著者の見解としてこうつけたす。「本当は、批評とは書き手にとってなかなかおっかない営みなのではないか、とも思う。なにしろそれは、知的に裸になってみせるようなものであろうから。書かれた批評のことばに、書き手の姿や知のあり方が、否応なく現れてしまうのだから。」
その裸の激突として、ヨハネ福音書の有名な冒頭「はじめにことばがあった」を批評した2つの偉大なる古典、マルティン・ルターの信仰に根ざした批評文と、理性で徹底的に言葉を重ねたマイスター・エックハルトの批評文を比較検討する。この2つの宇宙のあまりの距離。しかし、どちらも読み手に新たな知的興奮に似た気づきを与える。優れた批評は、たしかに知の地平を広げる。
ほかにも対話体の文書、法律の文書、植物図鑑の文書、あるいは辞書の世界など、さまざまな「文体」を解題してみて、興味深いのだが、もっとも人間臭い文章として最後に「小説」を検討している。
「小説」の「文体」とは何か。というのは、これだけで一冊の本になりそうだが、著者はここで、夏目漱石の「文学論」を引っ張り出している。
文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。Fは焦点的印象または観念を意味し、fはこれに附着する情緒を意味す。
つまり、認識と感情が描かれたものであり、さらにいえばこれに時間と空間の条件が加わる。漱石の論文の中に「文芸の哲学的基礎」というのがあり、人の意識は連続的であり、その中である意識が焦点をつくって明瞭化し、そういったいくつかの明瞭化した意識の点が時間や空間を決め、その統合こそが小説のプロットである、なんてことを言っている。本書によれば、この見立ての下敷きがイギリスの心理学者ロイド・モーガンの意識モデルだそうだ。
こういった認識と感情、その位相を決める時間と空間の妙として、本書は「吾輩は猫である」をとりあげている。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生まれたか頓と見当がつかぬ、何でも暗薄いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事だけは記憶して居る…
冒頭の数行で、3つの時間的経過が並走していることを著者は読み解く。①読者が読む時間②猫が語る時間③猫の語りのなかで想起される過去の出来事の時間。
なるほどいわれてみればそうである。漱石に限らず、小説というのは、時間を自在に閉じ込めている。批評や辞典や六法全書に、時間的推移はない。空間的位相もない。
小説とは、文体によって、時間と空間による位相をはりめぐらし、そこに認識と感情を配置する。ふだんの我々の感情は断片的で無作為的でとりとめがない。そうしたせつな的な感情が、小説を読むとき、こうした小説のプロットによって、あたかも磁力を帯びた鉄片のように、一方向にむかって秩序を持つ。
文体とは配置であり、そこは著者が描こうとする混沌とした世界から秩序へむかおうとする知恵と知識なのだということがわかる。はじめにことばありき。ことばこそは秩序である。
ところで、漱石の描く時空間の妙として、僕もひとつ「吾輩は猫である」で挙げたいことがある。
「吾輩は猫である」は冒頭が超有名だが、ではどうやって終わるのか、というのは案外知られていない。
答えは、酒樽に落ちて死ぬのである。
で、本書でも指摘する通り、この小説は「吾輩」である「猫」が過去を振り返って語っているのだから、つまり「吾輩」は「現在」死んでいることになる。これもまた空間と時間を自由自在に浮遊させた漱石マジックであろう。(内田百は、だから酒樽に落ちた「吾輩」は死んでいない、という風に解釈して、その後の続編を書いている)。
創作の極意と掟
筒井康隆
筒井康隆がことし80歳になるというのがオドロキである。なんか、60歳くらいの感じのつもりでいた。
さすれば、これが本人いうところの「遺書」というのもあながち冗談でもない気がする。言わば、彼の技法全開陳の虎の巻といってもよいのではないか。
もっとも氏はこういう文章読本というか創作技法本がこれまでもいくつかあって、本書でも紹介されている「着想の技術」を文庫本で初めて手にしたときは面食らった。大学生の頃だったかな。すさまじく難解というか、高所から切れ味鋭い舌鋒ならぬ筆鋒がかまわず繰り広げられ、これについてこれないならアンタはダメです、と言ってるがごとくで、しかも解説が斎藤由貴というのがまたすごいオチ。
それに比べると、この「創作の極意と掟」はぐっと”降りて”きている。とはいっても筒井康隆だから、俺様節はまったくもってご健在。だいたい「揺蕩」だ「濫觴」だ「諧謔」だと、もはや日常にみない用語をしれっと表題にひっぱってくるあたり確信犯に違いなく、しかもその中に「電話」とか「薬物」とか乱入してくるのが人を食っている。
創作技法を大きく2つにわけるとすると、アイデアの着想ないし妄想の方法と、それを文章にする技術であろう。本書もこの両者がある。ただ、筒井康隆の特異なところは、着想ないし妄想の破天荒さもさりながら、それを着実に文章に転化してきた確かな技量だと思う。本書の価値はこの彼の文章作成技量が開陳されているところにある。
「文章にする」というのは確かに技術であって、小説を名乗るのなら手あかのついた表現は避けるべきとか、話しぶりの特徴が書き分けられてない「会話」はみっともない、とかいろいろ留意すべき技術はあるのだが、本書で挙げられるような「凄味」「色気」「表題」「迫力」「省略」「遅延」などなどは、じつは小説に限らず、情報伝達技法全般に通用するように思う。つまり読み手を唸らせ、巻き込み、笑わせ、感動させるための技法なわけで、それならばこんな愚にもつかないブログを書く際だって教科書になりそうだし、人前で話さなければならないときとか、会社で書くような企画書とかプレゼンテーションの立てつけにだって援用できるヒントがいっぱいある。
ただ、ここにあがっているもの、読めばまるで自分の文章力が向上すること間違いなしのような錯覚に陥るが、もちろん見よう見まねでは下手こきそうなものばかりである。筒井康隆のあの驚異の文章は、同じく驚異的であるあの莫大なアウトプット量、すなわち数をこなしてきたことの鍛錬もあるに違いなく、であるならばこの「創作の極意と掟」はまさに五輪書。門外不出の指南書で、これを教本に日々の稽古をすることこそ、本書のねらいとするところかも。
それにしてもまるで「魚の釣り方を教える」寓話のようだ。本気で「遺書」のつもりなんじゃないかと思うと心おだやかでない。