読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

抱きしめる、東京 町とわたし

2021年08月31日 | 東京論
抱きしめる、東京 町とわたし
 
森まゆみ
講談社
 
 
 というわけで森まゆみの「しごと放浪記」を読んだら、もういちどこちらも読み直したくなり、本棚の奥から引っ張り出した。僕が持っているのは1997年刊行の講談社文庫版第一刷である。
 あらためて読んでみると、こちらも「しごと放浪記」同様に著者の半生記ではあるのだけれど、主題は「東京」である。戦後の東京の変貌を著者の身の回り1キロ範囲の肌感覚で書いた東京論といえるだろう。著者のあとがきには「研究者により概念的な、あるいはデータによる東京論は多く書かれているので、自分で見聞きし、考えたことしか書かなかった」とある。
 
 「しごと放浪記」の項でも少し触れたが、この「抱きしめる、東京」はちょっとした名著だと思う。地域雑誌「谷根千」で培われたのだろうと思うけれど、見たり聞いたり自分自身が体験した定性情報を拾い上げて世界を描くような技法と、著者自身の心身の成長と変化そして家族のことといった私小説的な領域、そして1950年代から1990年代までの東京の変貌というダイナミズムが絶妙にブレンドし、あまり類書がない大河的な作品になっている。NHKの朝の連ドラあたりにできそうな仕立てである。
とくに80年代後半から90年代にかけての土地バブルの狂騒と悪質な地上げに狙われる不忍通り沿いの描写は、今となっては貴重な記録であろう。
 
 庶民史でも生活史でもなければ私小説でもないこのユニークさはひとえに著者の独特なポジショニングにあるだろう。
 著者の経歴は両親が開業歯科医、中学高校がお茶の水女子大付属、大学が早稲田大学、卒業後数年はPR会社と出版社に勤めてオフィスは銀座と赤坂である。恵まれた立場ではあっただろう。学生時代の恋人と結婚し、子どもが3人生まれて後に離婚し、フリーランスの立場で非常に経済的に苦しんだ時期もあってエリートな感じはしないが、その頭脳と目線は完全にインテリだ。現代の感覚からすればこの本はちょっと上から目線のように見えるかもしれない。スキがない。
 著者にはラディカルな批評眼でもって事象を足で稼ぐこととそれを文章に起こす技術があった。単に第3者的批評なだけであれば「研究者により概念的」に終始してしまうが、本書はそれを実体験の上に描いていることで生々しい迫力と私事に終わらない普遍性を確保している。本書の執筆の動機は、不忍通りの乱開発に対する「怒り」であったと著者はあとがきで述べているが、まさに告発の書だったのだろう。本書のスキのなさは、この逃げ場を与えようとしない怒りにあったとみるべきか。
 
 
 本書が上梓されたのが1990年代。そこから東京の住宅事情や生活事情はさらに二転くらいしたように思う。建築基準法も何度か改正され、世代交代もずいぶん進んだ。泉麻人が書いた東京23区本「東京23区物語(1988年)」「新・東京23区物語(2001年)「大東京23区散歩(2014)」で文京区の項目を追いかけるとまちの様相も住民のありようもかなり変化したことがわかる。今現在も不忍通りは高層マンションだらけだが、シンプルでナチュラルな雰囲気を漂わせたカフェやショップも増えていて、人通りが絶えない。谷根千に至っては完全に人気ブランドエリアとなった。「谷根千」の名づけ親である著者は、当初の予想や理想と違う形で観光地化・ブランド化してしまったことをその後に正直に告白している。
 そう考えると、生活空間や光景というものがこれからどう変化していくのかは、行政も大手ゼネコンもまちづくりのNPOもわからないことだ。本書を再読して、まちとは社会装置ではなくて生態系そのものなのだなとしみじみ思う。

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東京裏返し 社会学的街歩きガイド

2021年03月28日 | 東京論
東京裏返し 社会学的街歩きガイド
 
吉見俊哉
集英社新書
 
 本書は、7日間にわけて東京都の城北城東地区を街歩きする。このエリアこそ歴史と文化が蓄積された東京の面白さがあるということだ。似たような観点を持ったものとしては森まゆみの「東京ひがし案内」があるが、「東京ひがし案内」がどちらかというとそのあたりの老舗やそこに生きる人々に注目したエッセイであるの対し、こちらは歴史や地勢をふまえた思索的なものだ。
 この「アースダイバー」と「東京の地霊」を足したような着眼点は面白いし、街歩きガイドとしてユニークでいろいろ新しい情報もあったのだが、読んでいてどうにもいちいち気になるのは、やたらに建築や土木や行政に対してのダメ出しが多く、そしてうんざりするほど「何々すべき」という物言いが頻発することである。上野動物園の柵割りの位置はダメ。パンダもダメ。隅田川の堤防デザインはダメ。スカイツリーの商業スペースはダメ。王子駅前の公園はダメ。今の浅草六区はダメ。高層タワーマンションはダメ。地下鉄はダメ。インバウンドはダメ。そして首都高は撤去すべき。都電荒川線は延長すべき。上野駅前は開発しなおすべき。湯島聖堂はもっと展示案内を上手にすべき。いったい何様のつもりなのかとあまりの上から目線ぶりに途中から辟易するようになってしまった。
 ここまでいちいち怪気炎をあげるくらいなら街歩きなんかしなきゃいいんじゃないかとか、こんな意見は挟まずに調べ上げた資料や遺構をもとに事実のみで語らしめたほうがぐっと格調高い東京案内ができたのになと思いながら読了した。
 
 なんでこんなにけんか腰なのかと、あらためて著者のプロフィールや前口上を確認し、頭の中で本書で書かれていたことを再構成していくうちに、どうも本書のねらいは東京散歩ガイドなどではなく、著者の東京改造論のほうにあったのでは、という気がしてきた。
 
 本書において著者は、東京は三度「占領」されたという歴史観をベースにしている。三度というのは「徳川家」「薩長」「GHQ(とその後の日本政府)」と言うことだが、わざわざ「占領」という挑戦的な言葉をチョイスしているように、そこには地域文化の尊重なしの暴力的なガバナンスが中央集権の手によって3回行われた、という歴史観なのである。
 
 中央集権的なガバナンスを行おうとするとき、施政者から見れば邪魔なものとして真っ先に片づけたいのは地域ごとのバラバラな「固有性」だろう。言語・風習・価値観・倫理観・宗教観といったものだ。中央集権制とか国家行政というのは、これらの標準化のことと言ってもいいくらいである。とくに反体制的なものは厳しく制限するだろう。
 「東京」というところは、まさに中央集権のお膝元であり、それも、徳川家、明治政府、GHQ(とその後の日本政府)の3度にわたって「標準化」が繰り返された。そこまで徹底的にやられてはかつて東京にあったであろう「固有性」なんてほとんど消滅したであろうが、それでも「標準化」の荒波をかいくぐって岩礁にしがみつくように生き残った「固有」の東京の痕跡を観察できるところが随所にある。それがとくに城北城東地区にみられる、という、そういう仮説にもとづいた本なのである。
 
 で、こういった街歩きでの観察を引き合いに出しながら、「標準化」される前の時代の東京を尊重し、東京本来の固有性を回復した都市に改造しようという主張こそがどうやら本書のねらいなのだ。そのためには「標準化」の代表である首都高は撤去しなければならないし、「標準化」前の上野の姿を取り戻すために上野公園や不忍池の在り方を再考しなければならないし、東京の様々な「固有性」をいい塩梅に体感させやすい都電は復活させたいし、「固有性」があった時代に活用されていた神田川や墨田川はいまいちど俎上に載せなければならない。
 
 ではなぜ東京をそんな風に改造したいのか。それは現在の東京(GHQ以降3度目の「占領」の東京)が、経済成長時代を前提としてつくられた「東京」の姿形だからである。首都高も地下鉄も治水行政もそうである。しかし、いまや脱成長・縮退の時代であり、その観点では今の東京は時代の温度と合っておらず「使いにくい」ということなのである。
 
 なるほどなるほど。そういう思想の本だったのだ。街歩きガイドのくせにいちいち説教がましいと思ったのは、僕がこれを東京散歩本の類のつもりで手に取って、ずっとその頭で読んでいたからである。本書は街歩きガイドではなくて、いざ四度目の占領を行わせんとする過激な東京改造論なのであり、本書の街歩き部分はいわば四度目の占領のための査察、ロケハンなのである。きっと家康も薩長もGHQもこんな感じで、どこに何をつくるか、どれとどれは取り壊すか、あれは感じ悪いから無くそうなど値踏みしながら東京をロケハンしたんだろうなあ。
 

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国道16号線 「日本」を創った道

2020年12月06日 | 東京論
国道16号線 「日本」を創った道
 
柳瀬博一
新潮社
 
 
 国道16号線の本がまた出た。国道16号線というのは、どうやら研究者や作家やアーティストをして食指が動くものらしい。
 
 社会学的な見地としても、あるいは文芸作品に登場させる舞台としても、昨今の国道16号線へのフォーカスは「郊外」を象徴するものとして扱われてきた。
 その「郊外」は、いま分が悪い。量産型の商業施設、退廃的な影をおとす住人たち、蓄積された歴史も文化もない虚無的な空間。16号線を通して描くカリカチュアされた郊外像とはこんなものだった。
 
 こういった言説に対し、いやいや、16号線が通っているエリアはそんなうすっぺらい土地柄ではない、古代日本から立派な歴史と文化の蓄積があったのだ、と主張するのが本書である。
 
 関東平野という地勢がもつ特異性が古代においてこの地に人を住まわしめ、この地特有の地形や水事情がここに特有の産業を発達させ、そしてこの地ならではの文化や生活様式をつくった。関東には古代から固有の関東史があった。この見立ては説得力がある。
 古代から中世にかけての関東地方は、現在の都心部よりも外縁のほうが人が住みやすかった。海岸線の形も現代とは違うし、利根川や荒川の流れ方も異なっていた。治水も利水もまだまだ未熟なこの時代、人が住みやすいのは下総台地や武蔵野台地という丘陵地帯であり、必然的に現在における首都圏外縁が人の営む土地となったわけである。
 そういった地を足場に古代から中世にかけて平将門や三浦義明や結城氏朝や太田道灌といった地方豪族が栄えていった。
 国道16号線沿線の土地柄は「古い」のである。
 
 「古い」だけでなく、進取の気性を取り込む回路もできていた。それが三浦半島である。これは地形が与えた恩恵である。湘南海岸から三浦半島をぐるりとまわって横浜へ至る海岸線の形こそが、関東地方の歴史を決定づけたのだ。
 三浦半島の地形は言うならば天然の良港であり天然の要塞だったのだ。源頼朝の鎌倉も、ペリー来航の浦賀も、軍港の横須賀も、開港地の横浜も、三浦半島の地形が持つ好条件が軍都・軍港・商港をそこに誘うことになった結果である。
 そして、このような重要拠点が整備されると、物資の流通がここを起点に誕生するし、それがきっかけとなって他の軍事拠点や商工業拠点も物流動線上に配置されるようになる。広大な関東平野はこれらを抱え込むだけの余地があった。本書の指摘通りたしかに現在の16号線沿いには自衛隊や米軍の基地が点在するが、関東平野はそんな拠点を何か所もつくることができた。
 また横須賀や横田、横浜での米軍の出入りは外国異文化の流入を可能にした。これは相当なインパクトがあっただろう。
 
 本書で指摘するように、関東外縁地域は、確かにモノゴトを生み出す諸条件に満ちていたのだ。
 
 
 ところで、そのような関東外縁がなぜ今「郊外」として空虚になってしまったのか。
 
 いろいろな意見があるだろうが、16号線沿線で10年以上育った僕の個人的見解としては、「国道16号線」そのものが与えた影響というのは馬鹿にならないと思っている。社会学や文芸作品は国道16号線沿線を「郊外」の象徴として描くが、国道16号線こそが「郊外」を加速させた張本人と僕はにらんでいる。
 
 たしかに関東外縁部の土地は古く、固有の歴史や文化を持つものだった。そして随所に人の営む「町」ができれば、その町の間を結ぶ道ができるのも当然だった。
 
 しかし、国道16号線そのものは、戦後の経済発展において計画・整備された道路である。従来の道を拡張したり、新たな道を開くなどして計画されたこの道路の本質は「産業道路」である。物流をスマートに
 するために計画されたバイパス道路である。

 首都圏で生活するものの一般的なライフスタイルは、都心と郊外の往復の形をとる。鉄道会社の不動産開発は万事この方針で行われた。戦後の首都圏のライフスタイルとは、郊外に家があり、会社や学校や大きな百貨店は都心にあって人々はそこを往復する。日用のものは郊外その地にある店で調達する。そんなライフスタイルであった。
 これに対し、国道16号線や、その他の外環道路は、トラックやダンプカーが走る産業道路である。混みあう都心部を経由せずに地域間を迅速に移動して物資を配送するためのものなので、人々の日常生活の動きとは異にする動態である。つまり、関東地方における日々の生活という目線では国道16号線のダイナミズムはあまり可視化されないのだ。具体的な例で言うと、柏から東京に出たり、町田から新宿に出る機会は頻繁にあっても、柏から大宮に行くような、あるいは町田から八王子に行くような用事は滅多にないのである。いくら自宅に届けられるAmazonの段ボールが国道16号線を通って運ばれていようとも、我々の生活からは国道16号線の依存度はそれほどはっきりと体感できない。
 
 国道16号線のダイナミズムは、この体感できないゆえに、生活者が知らず知らずのうちにじわじわとその地域に本来あった固有の歴史や文化を侵食し、気がついたときにはあの特有のロードサイドの光景はできあがっていたような、そんな影響力であった。
 
 たとえば、物流拠点のある町はともかく、それ以外の町は単に素通りされるだけである。国道16号線には、そのように「単に町を横断しているだけ」という集落はけっこうたくさんある。
 そういう町にとって、国道16号はただひたすら右から左へとよそ者の大型車がひっきりなしに駆け抜けるだけの粗野で無縁な交通地帯になる。自分の地域のための道路というイメージは持ちにくい。むしろ町を分断するし、交通事故は危ないし、空気を汚すしで、あまりありがたくない道路である。
 
 また、そのような産業道路の「物流のしやすさ」に目をつけたのが全国チェーン型のロードサイド施設である。確かにブックオフもトイザらスも国道16号線沿いに第1号店が誕生したが、それはその地に新たなカルチャーを創造したかったからでなく、単に「安価で大量のブツを出し入れしやすい」という、産業道路の特性を活かしたからに過ぎない。
 これらのロードサイド施設の顧客は、必ずしも立地周辺の住民ではない。自動車で来店することを想定したもっと遠方からの客を商圏にとらえている。その客たちは、その地と無縁な国道16号線でやってきて、その施設で消費して、また16号線で帰っていく。ぶっちゃけ、その地域への敬意も憧憬もそこにはない。このロードサイドのビジネスモデルがもってこいなのは全国チェーン型の企業であり、全国チェーンでもあるために、ここにある種の類型的な景観をつくっていく。
 
 いつのまにか、その地域の日々の生活とはまったく感知しないところで、国道16号線という経済圏ができあがり、記号的で画一的なものが沿道にできあがり、無縁なよそ者がやってきて買い物をしてまた出ていく。
 つまり、国道16号線は、その地域に必ずしも寄り添っておらず、それどころか地域の固有性を知らず知らずのうちに奪っていくというそんな副産物を生んだのである。
 
 一方で、都心との往復というライフスタイルの側面からいうと、都心からの距離が国道16号線くらいまでのエリアになると、都心までは片道1時間かかる。毎日の通勤通学の往復をこれに費やす。
 これはやはりしんどい。1時間くらい普通でしょ、とかつては言われたが、それがどれだけ我々の時間と体力その他を奪ってきたかは、コロナでリモート生活になってからみんな気づいたことである。
 
 もともと、こんな都心から離れたところにニュータウンや住宅地が造成されたのは、ちょうど団塊世代が働き盛りになった時代に、都心では地価が高騰しすぎて買えなかったからである。自然に近い方が子どもの教育によいとか夢のマイホームとかいろいろ喧伝されたが、その実態は「都心で家が買えなかった」を糊塗したに過ぎない。鉄道会社は郊外と都心の往復という需要を創出することでビジネスモデルとしたし、国策としても日本住宅公団がこの地に住宅を大量配給するようになった
 したがって、地価の下落とともに、遠い郊外からの都心回帰が始まった。ライフスタイルから考えればそれは当然の帰結である。郊外に残ったのは「現状維持」をよしとするメンタリティの者ばかりになった。
 
 かくして、国道16号線沿いはますます「産業道路」のダイナミズムとしての側面が強くなり、関東外縁部の郊外を象徴するような光景がより先鋭化していくようになった。
 
 国道16号線に罪はないのかもしれない。ヒト・モノ・カネ・情報が行きかうところには化学変化が起こる。「道」とはそういうものだ。
 関東外縁の古層には、人々の生活の歴史と文化が積み重ねられている。それは固有に彩られたものだった。戦後にこれらのエリアを横に数珠つなぎにする産業道路ができた。そのダイナミズムは、過去の蓄積をなぎ倒す均質性と合理性をもたらした。
 
 しかし化学反応はまだ終わっていない。とくにコロナがもたらした人々の価値観変化は、パラダイムシフトをまねく可能性もある。東京都から、埼玉県や千葉県や神奈川県への人口流入の増加が数字として出始めている。
 鉄道のほうも、各社の相互乗り入れや、バイパス型の新線開発が相次ぎ、郊外における利便性がふたたび動きつつある。
 
 関東外縁部の歴史はまだ動き続ける。

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国道16号線スタディーズ 二〇〇〇年代の郊外とロードサイドを読む

2018年06月29日 | 東京論

国道16号線スタディーズ 二〇〇〇年代の郊外とロードサイドを読む

塚田修一・西田善行 他
青弓社


 東京の郊外論をたまに読む。で、読んでは鬱な気分になる

 なんでかというと、ぼくはまさしく東京郊外で育ってきたからだ。それもずばり本書にも登場する埼玉県狭山市ーー市の片隅を国道16号線がかすめていた狭山市に小学生のころ住んでいた。しかも公営団地で。

 我が家は自動車がなかった。移動は公共の交通機関か自転車か徒歩だった。だから「国道16号線」は縁がなかった。縁はなかったが、その存在は知っていた。入間川という川の向うにトラックや自家用車がひっきりなしにやってくる道路、ぼくはその様子を遠くから眺めていて、その光景を今でも思い浮かべることができる。

 

 僕が狭山市に住んでいたのは、1980年代だ。だからまだBOOKOFFもイオンモールもなかったし、そもそもコンビニがまだ黎明期の頃だが、一方で西友やニチイやダイエーや忠実屋といった大型スーパーないしショッピングストアがあり、すかいらーくや靴流通センター、大型電器量販店(今は淘汰されてなくなってしまったがセキド電気といった)といったいわゆる「郊外型店舗」がたしかに道路沿いにあった。忠実屋なんて鉄道の駅も西武バスのバス停からも遠いところにぽつねんとあってなんでこんな不便なところに巨大なショッピングストアが、と思ったものだった。小学生の僕はとにかく自転車を乗り回していて、この忠実屋にも、森林の中の鬱蒼とした道を通り抜けて行っていた(スイミングスクールが併設されていたのだ)。

 

 それにしてもこの本に書かれていることは二〇〇〇年代と言わず、一九八〇年代でもかなりあてはまっている。本書でも一章を割いて狭山市に言及しているがまあ本当にそうなのだ。本書の指摘にもある通り、狭山市というところはわりと恣意的に行政区域となった市で、しかも広大な自衛隊の基地がある。社会科の授業では私たちのまち狭山市について知りましょう、というのがありながら、地図を広げると広大な真っ白区域があって、そこは航空自衛隊入間基地なのである。当時はGoogleEarthなどなかったから、そこは知識として自衛隊の基地があるところなんだ、ということしかわからない。年に1度、航空祭というのがあってその日だけ市民に開放されるがその一日以外は誰もその存在を感知しない、しかし歴然とそこにある空白地帯であった。そして担任の先生は、その空白地帯について一切何も言わないのだ。そんな学校の上空を戦闘機が轟音とともに通り過ぎた。そんな時代だった。

 放課後になると自転車で団地の外に繰り出した。団地の外はまだ茶畑や野菜畑が広がっていて、本書でも指摘があるように、高圧線の鉄塔が立っていた。夕方頃になると、逢魔が時の丘陵地帯のむこうに鉄塔のシルエットが並んで、それをみると心細くなってはやく家に帰らなくちゃという気分にさせられた。

 狭山市とそれに隣接する入間市、所沢市、川越市。いずれもまだまだ広大な農地と雑木林が広がっており、その中に衛星都市のように団地とかニュータウンのようなまちが点在していて(本書曰くの「スプロール状」)、それを県道や二級国道が結んでいるという感じだった。僕は自転車でそんなまちを心細くもなりながら好奇心がまさってあちこち走り回って巡ったものだった。まちとまちの間は本当に畑か雑木林ばかりであり、そんなところに成人雑誌の自販機がぽつんと立っていたりした。

 狭山市の人口はどんどん増えて、森林が切り拓かれて新しい団地やマンションができるようになった。ぼくの通っていた小学校は同学年で最高7クラスまでできた。運動会は紅白では足りなくて、4色くらいの対抗戦になった。本書によると完全に自動車客相手ということなのだった。

 それでも国道16号線だけは無縁だった。遠くから、ひっきりなしに続く自動車の群れを眺めるだけで、ぼく自身が自転車で16号を走ったことはたぶん無かったと思う。
 本書の言う通り、国道16号線を有した狭山市は典型的な「16号線的」郊外であったが、これまた本書が指摘するように(僕という)狭山市民とは関係性が切れた道路だったのである。


 当時の僕は郊外以外の生活を知らなかったのでそんなものかと思っていたわけだが、やがて社会人となっていろいろ見知るようになり、一次的とはいえ都心に住んでみたりもして、そうすると「あの郊外の生活はなんだったんだろうか」と相対的に省みるようになる。そして、僕のネガティブなところと郊外というものがシンクロしてくる。責任転嫁意識なのかもしれないが、この頃の思い出は、どちらかというとイヤな気持ち、自分的には黒歴史、トラウマみたいな記憶として残っている。そこには郊外的なものが、本書になぞらえれば「16号線的」なものが後景となって広がっている。怒り、妬み、屈辱感、疎外感、喪失感。郊外論を読むとそのときの記憶や気分がよみがえってきて鬱になる。

 それなのにたまに郊外論に手を出してしまうのは、自分のルーツを知りたい怖いものみたさみたいなものか。(本書のコラムによるとマツコ・デラックスは16号線沿いの郊外生活に原体験があることを「身の丈の幸福」と称して愛情をもって語っているそうだ。僕がこんな風に思えなかったのは「身の丈知らず」だったということだったのかもしれない。)


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東京の街の秘密50

2018年05月15日 | 東京論

東京の街の秘密50

内田宗治
実業之日本社


 この本はあたりだった。知らなかったこと、気づかなかったことがたくさん。図版も豊富だし、これで新書だからお得だ。最近は東京の地形に関する本があまたあるけれどこれは買いだった。

 地形を理解するポイントとして水の流れというのがある。水は高いところから低いところにむかって流れる。また川の流域はそのあたりの土地ではもっとも標高が低いわけで、水の流れをつかんでおくとどこが台地でどこが低地かというのがわかる。

 しかし、東京都心部、とくに山手のほうはどこをどんな風に水が流れているのかよく感触をつかみにくい。特に山手線の内側の川というのはほとんど存在感がない。都心の東側ー下町のほうには隅田川、荒川、中川という大きな河川が東京湾にむかって流れているのがよくわかるけれど、山手線の内側はとんとわかりにくい。暗渠化がかなり進んでいるし、地上に姿を現している河川も川幅はさして広くなく、その両岸をコンクリートに固められ、高速道路が川を覆いつくすように建っているので見通しが効かない。そもそも山手線内側でもっとも水面を目立ってあらわにしているのはほかならぬ皇居のお堀だろう。お堀は河川ではない。

 山手線の内側を流れる川として例外的に知名度があるのは神田川だ。JR山手線の高田馬場駅付近にあるえぐれたような谷はまさに神田川の仕業である。JR御茶ノ水駅の横に広がる谷も神田川だ。聖橋から下を見下ろすとかつての渓谷がイメージできて、古来の神田川は暴れ川だったのかな、なんて想像していたのだが、本書によると、御茶ノ水付近の神田川はなんと江戸時代の人工水路なのだった。この谷は人間が掘削したのだった。
 じゃあ、古来の神田川はどこを流れていたのかというと、いまの日本橋川なのだそうである。日本橋川? そんな川あったの、という具合だが地図をみると確かにある。飯田橋あたりから神田川と分かれて南東に流れ、大手町、日本橋と通って最後は隅田川に出る。たしかに日本橋というからには川の上に橋がかかっているのであって、その川は「日本橋川」なのだ。日本橋は有名だけれど、その下に流れている川にとんと思いが及ばなかった。お粗末なことである。

 それから渋谷川というのがある。渋谷に川あったかなあ、と思うわけだがそのほとんどすべてが暗渠化されているらしい。裏原宿のキャットストリートがそれだという。びっくりである。しかも本来の渋谷川の水源は新宿御苑にあるというから二度びっくりだ。その渋谷川もかつて表に姿をあらわしていた。そのときはいまの渋谷駅前を通っており(遺構が残っている)、天現寺のほうに流れていた。そこから芝を通り、芝浦にて海にそそぐ。天現寺から先は現在も古川という名前の川で残っており、この目で見ることができる。とはいえ、今の説明はあくまでかつての渋谷川の流れだそうで、今は新宿御苑からキャットストリートの下を通る水は古川にはつながっていないそうだ。渋谷川の水はそのまま別の下水管を通って芝浦にいくらしい。じゃあいまの古川の水はどこから来ているのかといえば、杉並区荻窪の下水処理場の水をきれいにしたものが地下を通ってつながっているのだそうである。東京地下の水路は奇々怪々である。
 このような河川のつけかえは、大なり小なりかなりあるらしくて本書でもいくつか紹介されている。大規模で歴史的にも有名なのは利根川と荒川の付け替えだが、小規模なものになると国や自治体の河川局や水道局の人でないと把握できないだろう。

 暗渠化された川も明治の帝都開発以降たくさんあるらしい。徳永直のプロレタリア小説「太陽のない街」には谷端川というのが登場していて文京区にあった貧民街の真ん中を流れている描写があるが、これも今は暗渠化されている。

 しかもそれだけいろいろある河川とはべつに、江戸には上水が敷設された。代表的なのが玉川上水と神田上水だ。これだけ川があるのにわざわざ大がかりな上水をつくったのは、河川そのものでは低地を流れすぎて江戸市中に水を巡らせられなかったためらしい。また、川を頼らずに井戸を掘っても塩分が濃くてとても実用にむかなかったそうだ。
 この玉川上水と神田上水もなんとなくうろ覚えで名前だけ知っていただけで、本書を読むまでそのすごさに全く気が付かなかった。とくに玉川上水はすごい。立川市の西のほうにある羽村という場所から多摩川の水をわけてもらっているのだが、そこから武蔵野台地のゆるやかな斜面をみつけて尾根づたえに清水を運んで四谷までもっていき、そこからシャンパンタワーのように江戸市中に水を分配していくという大インフラだ。この構想、徳川家康がすごいのか玉川兄弟がすごいのかわからないが、なんとも画期的かつ奇蹟的な土木事業である。羽村から終点の四谷までは距離にして43キロ。高低差はなんとわずか126メートル。100メートルで20センチちょっとしか傾斜にならない。日常の感覚では気づかない傾斜だと思うが、それを43キロにわたって探し当ててつないだ測量技術に感服する。
 自然の河川の上を人工の上水が渡る場合もあって、その場所の地名が水道橋。納得である。神田川と神田上水がクロスしたところだそうだ。
 そして東京には皇居がある。かつての江戸城だ。内堀外堀といくつも堀がある。しかも本書に指摘されるまで気づかなかったのだが、お堀ごとに水面の標高が違うのだそうだ。棚田のようになっているわけだ。いちばん高いところにあるのが外堀で、この外堀の水は玉川上水からひきこんでいたそうだ。

 こうしてみると、江戸は自然の河川と人工の水路が錯綜する街だったんだなというのがあらためてわかる。それも複雑な地形を駆使しながら整備された水の都市だったのだ。おもしろい。


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地図と愉しむ東京歴史散歩(地下の秘密編)

2016年10月25日 | 東京論
地図と愉しむ東京歴史散歩(地下の秘密編)
 
竹内正浩
中央公論新社
 

 「地下の秘密編」である。
 
 本書はまず東京の地下鉄の話から始まる。
 東京の地下鉄の複雑怪奇さは世界的にも有名だ。東京メトロと都営地下鉄という2つの会社が絡み合っているところも異様で、もちろんこれには歴史的経緯がある。
 
 東京の地下の謎を扱ったものは、もうだいぶ旧聞になってきたが秋庭俊の「帝都東京・隠された地下網の秘密」というトンデモかつ大傑作な本があり、僕は今なおこの本に書かれたことの3割くらいは信じていたりもするのだが、それに比べると本書はだいぶ穏当だ。縦横無尽に入り組んでいるわりに局所的な偏重も多いこの東京の地下鉄網に対し、「帝都の陰謀」とは言わずに、冷静な歴史を紐解いている。圧巻なのは巻頭の標高を縦軸にとった路線図だろう。
 
 地下鉄の話のあとに、おなじ地下つながりで今度は「防空壕」の話になる。
 今となっては文獻や痕跡を見つけ出すのも一苦労な「防空壕」だが、実は東京の地下のかなりの場所に大小さまざまな防空壕があった。その中にはVIP用の巨大かつ堅固な防空壕もあった。また、戦前の地下鉄においては駅がそのまま防空壕になった。現在、防空壕跡として保存されているものもあるが、一方で忘れ去られたまま今なお地下にぽっかりあいている防空壕跡も状況証拠的にはあるらしいという指摘はなかなか不気味である。
 
 地下鉄や防空壕の話のあとに、本書は突如「怨霊」の話になる。
 東京におわします怨霊とは、菅原道真、平将門、崇徳上皇、新田義興とのこと。新田義興だけマイナーな感じもするが新田義貞の弟のことだ。彼以外の3人は俗にいうところの三大怨霊だ。菅原道真が湯島天満宮、平将門が神田明神というのはわりとおなじみだが、崇徳上皇は京より西に由来がある人物なので東京には主神が彼という神社は無い。虎ノ門にある金刀比羅宮がかれを副神として祀っている。金刀比羅宮は水道橋にもあるが、ここは崇徳上皇は祀っていない。本書では虎ノ門と水道橋と両方紹介されているが間違えないよう要注意だ。
 
 「怨霊」のあとはまた世界ががらっとかわって「団地」の話になる。東京には様々な団地があるが、その団地ができる前、そこにはいったい何があったのか、という話だ。
 あれだけ広大な敷地なわけだから、とうぜん団地造成の以前に、そこには何かあったわけだ。郊外のニュータウンなんかは単に荒野を切り拓いただけの場合もあるが、都心近くの団地はそれぞれ由来がある
 で、その多くは軍関係なのである。旧日本軍関係の施設のあった場所が、戦後になってアメリカ占領軍に接収されたり民間に払い下げられたりして、そこからさらに転じて戦後日本の住宅不足を解消する上での団地政策の土地となったのだ。
 
 
 整理すると、本書は

 ・東京の地下鉄の歴史や線形について
 ・東京の防空壕史と現在も残る防空壕跡
 ・怨霊の祀られた東京の神社
 ・東京にある団地はもともとなんの敷地だったか
 
 が扱われている。
 つまり、後半はぜんぜん「地下の秘密」ではないのである。本書のタイトルはかえってイメージが矮小化してしまってもったいない。本書が取り扱っているのは言わば「見えないもの」だ。
 地下鉄は地下にあって見えないし、防空壕だって地上からは見えない。怨霊は目に見えない恐怖の対象だし、団地の以前にそこにあったものなんてのも今はもう見ることはできない。
 
 つまり、「見えない」東京こそが、本書のテーマ。見えない時空間にぼんやりと包まれながら、今の「目に見える」東京は存在するのだ。本書はその見える東京と見えない東京の境界線、東京の逢魔が時、あるいは東京の黄泉比良坂をあつかったものだというとセンセーショナルすぎるが、なかなか面白い着眼点だと思う。
 

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東京の地霊

2016年07月28日 | 東京論

東京の地霊

鈴木博之
文藝春秋

こちらは再読。

ポケモンGOの狂騒に、もちろん自分もダウンロードしてやってはみてその中毒性は感じつつも、いっぽうなにか空疎な気もして考えたところ思い当たったのがこれ。私有地への無断侵入とか、様々なマナー違反とかネガの側面もおおく指摘されているが、このゲームはモンスターを随所から集めるゲームではあるが、実はその「場所」に対しての敬意が全くないのである。

新宿御苑や錦糸公園がレアなモンスター獲得の聖地になっているいっぽうで、この地に本来ある歴史や民俗誌や記憶はいっさい無視されている。本来、その土地にはその土地ならではの人類と自然の長い歴史があり、それが様々な形象や伝承となって今日に継がれている。

このゲームも、もう少しこういったその土地が持つ物語を汲んだものにすれば、モンスターだけでなく、その土地への興味や敬意を払う、文化的にも優良なコンテンツになるのではないかと思う。

 


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東京β 更新され続ける都市の物語

2016年07月06日 | 東京論

東京β 更新され続ける都市の物語

速水健朗
筑摩書房

 

 東京都市論はいろいろあるけれど、本書はメディアとしての東京論である。

 すなわち、小説や映画やマンガで、東京はどのように描かれ、そこから作者は何をメッセージとして発していたか、である。

 題材としてあげられた作品はかなり数多い。よくもここまでというくらい。「踊る大捜査線」とか「ALWAYS 三丁目の夕日」とかは記憶に新しいが、岡崎京子や島田荘司の作品、「太陽に吠えろ」「家族ゲーム」「ガメラ」に「ゴジラ」に「ウルトラマンシリーズ」、「男女七人夏物語」も出てくれば「若大将シリーズ」も出てくる。もちろん夏目漱石「三四郎」も、永井荷風「濹東綺譚」も出てくる。このほかマイナーなものもどしどし出てきて、それらが東京という都市をどうメッセージにとりこんでいったかを探求している。

 ビジュアルだけではない。音楽にも踏み込んでいる。松任谷由実の「中央フリーウェイ」や、沢田研二の「TOKIO」やYMOの「テクノポリス」が扱われる。

 「東京」とはここまでアーティストを刺激するのか。

 

 さて、さいきん「&TOKYO」というロゴを都心でよく見かける。

 舛添前都知事の記者会見の際に、後ろの壁紙に描かれているし、地下鉄や都バスでも見かける。

 なんか「I love NY」みたいだなと思って調べたら果たしてそうで、東京都行政が自ら東京のブランド化に乗り出したらしい。もちろん東京オリンピックをにらんでのことである。


 ウェブサイトをみると、この「&TOKYO」にはいろいろな意味合いがあるようだ。

 いわく、「世界一の観光都市を目指す」とか「いろいろな出会いがある都市」とか「5つの独自価値がある」とか。

 都政としてこういうことをしようと思うのは結構だが、どうもアーティスト達が読み取ってきた東京像とはだいぶ乖離があるようだ。アーティスト達は東京という都市をある種、批評的な観点でもみるから、こんなヨイショなだけの東京像に共感はしないのだろうが、本来的には発信力もあるアーティスト達が感じてきている東京像こそ、東京のブランドが世界につくられていくもののはずだろう。ブランドというのは数多の人の中で共有する世界観だからだ。行政がトップダウンでこういうのをやってどこまで人びとの心の中に定着するのかとは思う(もちろん広告代理店とか怪しげなコンサルティングとか参加しているのだろうけど)。


 本書で紹介された「メディアとして描かれた東京」は、美醜があり、陰影があり、清濁があり、裏表がある。喜怒哀楽がある。

 しかし、これこそが「都市」なのであって、むしろその「包容力」こそが都市であり、なかんずくTOKYOの真価だろうとも思う。良くも悪くも日本という国の一極集中の東京だからこそ、その時代の空気や希望や矛盾があらゆる形で現れてくる。そこにはもちろん日本人の特性みたいなものも大いに反映される。

 キレイごとだけの都市は、むしろ北朝鮮の平壌とか、ブラジルの首都ブラジリアとか、つまり、ディストピアめいたSF都市を彷彿させる。
森まゆみが「抱きしめる、東京」と題し、谷川俊太郎が「東京バラード」と詠み、中島みゆきが「東京迷子」と歌い、椎名林檎が「東京事変」と名乗ったように、東京にあるのは幾多もの情を発生させ、いろいろな物事をおこしながらも、最終的にそれを包み込む包容力である。愛情も友情も恋情もあれば、無情も薄情も劣情もある。アーティスト達はそんな東京を描いてきた。

 そういった清濁をあわせ呑み、しかしなおそういう東京という「場」を肯定できることが、東京に住む人や、東京で働く人、東京で学ぶ人、そして東京に観光に来る人が共有できれば、彼らは東京に対して深く根付く愛着に至るのではないかと思う。

 本書で紹介される東京像で、光明を感じたのは羽海野チカの「三月のライオン」で描かれる佃島界隈の「東京」だ。

 新旧、虚実、孤独と連帯、喪失と再生、人口と自然、海と空。カオスの果てに到達したアウフヘーベンの世界。これこそが東京から見出されたありたい姿かもしれないと思った。

 


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ぐにゃり東京 アンダークラスの漂流地図

2016年01月23日 | 東京論

ぐにゃり東京 アンダークラスの漂流地図

平井玄
現代書館


 富士ゼロックスの広報誌に「GRAPHICATION」という、雑誌業界ではわりと知られた雑誌があった。過去形で書くのは、去年から電子版になってしまったからである。コスト削減ということなのだろう。

 なかなか硬派な広報誌で、企業宣伝臭がいっさいなかった。むしろ世の中の現代化、合理化、国際化、資本主義化の中で忘れてはいけない文化・思想・民俗・風俗・自然・伝承・在野といったものを扱っていた。

 

 平井玄の「ぐにゃり東京」は、この雑誌で連載されていたものだ。毎号、東京のどこかのまちで、仲間と校正のアルバイトをしながら当世を憂いる内容だった。著者の名前に心当たりはなく、文章や内容から察して碩学にして日雇いの校正屋さんという感じであったが、ネットで調べたらwikipediaに出ていた。全共闘世代なのね。なるほど納得納得。

 連載を一冊にまとめた本書はいわば「平成版 太陽のない街」である。

 「太陽のない街」は、徳永直による1929年のプロレタリア小説で、よく小林多喜二の「蟹工船」とセットで紹介される。現在の東京都文京区にある共同印刷を舞台にした職工と資本家の闘争と挫折の物語である。「蟹工船」と異なるのは、徳永直はリアルに職工だった人なので、その現場の描写、劣悪な労働環境や生活空間の描写がリアリティにあふれている。

 で、それから80年余が過ぎて、今なおこういう人たちがいるのである。この80年の時間差はもちろん激変であって、同じところよりも違うところのほうがずっとたくさんあるには間違いないのだが、組織というのは“立場の弱いものから「弱みにつけこんで」調整していく”という力学は想像以上に普遍なんだんなということがよくわかる。ポイントは「弱みにつけこんで」。つまり“イヤならやめてもらってけっこう”。それが校正屋という職業においてもあらわれている。

 

 先に述べたように雑誌「GRAPHICATION」は、現代化の一方にある文化や思想や民俗や風俗や自然や伝承や在野が、あるところにはしっかりと根付いて存在する、という方針でフォーカスし、識者の対談や寄稿、ルポや写真などが編集されていたので、「東京」だけがスタンダードではないという雑誌の中でのポジションメッセージがあったわけだけれど、こうして「ぐにゃり東京」だけを一冊にすると、東京という「都会」の不気味さが際立ってくる。

 「都市」ではなくて「都会」である。

 三浦展によると「都市」と「都会」は以下に分類される。


 都市
  ・多様性と集積の空間
  ・生産することでつながる人々がいる
  ・商店街的(消費の大空間だったが、個人事業主の集積だった)→かつての銀座
  ・多様な人々と出会うことが公共性を育む。

 都会
  ・消費をパッケージ化した空間
  ・生産がない。
  ・ショッピングモール化(海外ブランドやユニクロなどグローバルチェーン)→最近の銀座
  ・均質な空間で、公共性が育ちにくい。


 つまり、「都市」はインクルッシブだが、「都会」は一律性を要求されるということ。そうなってくると、「都市」は、ついていける人もついていかない人もそれなりに居場所があるけれど、「都会」はついていける人のみが表面に現れ、ついていけない人は暗渠化されるか圏外に排除されるのである。この「ついていく」というのは、経済的な場合もあるし、人間関係(ソーシャルキャピタル)の場合もあるし、価値観的な場合もある。

 このあたりを秀逸に描いたのが、巻末に収められた「北関東ノクターン」という鎮魂歌のような章。この章だけは「GRAPHICATION」ではなくて別の雑誌に寄稿されたものの再録である。ここでは、ほんらい都市とは人間がとぐろをまくところと表現し、しかしながら現代の東京は「ついていけない」人は、赤羽を起点として北関東の方向に扇状地のようにひろがっていく大地に、ひっそりと生きている(「下層たちの地理」と表現している)。

 

 東京というところは、本来は多様性に満ちたエリアだ。そこにはありとあらゆる人があつまる。通常の「都市」はこのカオスと秩序のせめぎ合いの中にあるといってよいかと思う。

 ところが2020年にむけての東京大改造とか、様々な保護規制の緩和とか、国際会計資本導入の企業の増加とか、個人事業主がチェーンやフランチャイズにのまれるようになったりとかで、かなりの均質性が要求ないし導入されるようになってきた。

 もっとも東京が特殊なのではなくて、都市の変容を進化論的に語るとこれは必然という見方は従来からある。こういった均質性の反動としてのコモンの動きとか、都市論でいうところの「悪所」やスラムにあたる機能をもつエリアの出現なんてのもあるわけだが、万事見た目が清潔であればあるほど、隠れたところにいろいろなバッファが押し込められているというところだ。ただ、世界で最も少子高齢化が加速し、経済成長率は先進国の中では最低ラインと言っていいほど停滞し、しかしGDPだけは世界第3位という異様な国の首都である東京。2020年にむけてなお改造と浄化を図ろうとしているが、そこにあらわれる都会の姿は、人類都市史のなかの類例のない姿かもしれない。


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人はなぜ<上京>するのか ・ TOKYO OMNIBUS

2014年12月27日 | 東京論

人はなぜ<上京>するのか

著:難波功士

TOKYO OMNIBUS ―一人で来た東京

著:小林紀雄

 

  「人はなぜ<上京>するのか」は、明治時代から平成の今日まで、いかに人は東京を想い、東京を目指し、東京で生活し、そして東京で成功したか、あるいは挫折したかを、文学や小説から、映画や歌謡曲の歌詞まで頼りながら文献をひもといたものである。

 僕はもっぱら首都圏で生まれ育っている。今は千葉県民だけど、子ども時代は埼玉県で育っている。大学生時代は神奈川県にいた。
 つまり、東京都のまわりをぐるぐるしている。
 勤務先は東京都である。高校も東京都であった。
 だから、東京のネイティブかといえば、そんなことはなくて、むしろ自分の原風景は埼玉県にあったりするのだが、しかし、日中を東京都で過ごす時代が長いためか、「東京」というものへの距離感を感じたことはほとんどなく、東京圏に住んでいる、という自覚である。

 だから、本書に描かれる野望や切望、期待と挫折感は、けっきょくのところシンクロできないわけである。
 イルカの名曲「なごり雪」が、東京で過ごしたカップルの片方―彼女が田舎に帰ることになり、それを見送る男性の心境をうたったもの、と指摘され、なんと今の今までそのシチュエーションに気付かなかったくらいである。

 そんなわけで、かなり遠巻き感覚で本書は読んでいたのだが、終わり近くなって、小林紀雄の「TOKYO OMNIBUS」が盛んに引用されていた。

 

 「TOKYO OMNIBUS 一人で来た東京」は読んだことのある本である。
 著者の小林紀雄は写真家で、今は小林キユウの名で活動している。本書の刊行は1998年で、その刊行の年に僕は本書を買って読んでいる。
 そしてなんだかすごく感銘を受けて、今でも書棚に納まっている。

 本書は、著者が様々な「上京1年以内の人」を探しだして、取材したものだ。対象はほとんどが若い人である。進学にあわせた上京、就職口を探すための上京、何かを成し遂げたくてやってきた上京。
 この本がなんで感銘を受けたかというと、「一人暮らし」の夢と焦燥が描かれていたからである。

 その頃、僕は親元で暮らしていて、ひどく一人暮らしがしたかった。
 ただいくつか事情があって、実家を離れることが難しく、一人暮らしは夢でしかなかった。

 「TOKYO OMNIBUS」は、確かに「上京」した者をモチーフにしているけれど、副題にある通り、「一人」なのである。家族総出の引っ越しではない。
 一人で、まったく異なる環境に身を投じることのドラマが、「TOKYO OMNIBUS」の主題なのだ。

 そこには孤独と暗中模索と希望と不安が解けない方程式のようにからみあっている。だけれど、このようにして人は生きていくのだ、と本書は示していて、なんだか僕はすごく追い立てられた気分になったのだった。

  その後、僕は結婚して実家を出たので、ついに「一人暮らし」は叶わなかった。

 あらためて「人はなぜ<上京>するのか」に戻れば、これも「東京に行く」ことがテーマだが、もうひとつはこのひとつの体で東京に行くという、「一人で来た東京」なのであった。
 「一人」で東京にやってきて、東京でいろいろな人と出会い、いろいろな物事に出会う。成功と同じくらい挫折もある。東京でうまくいかなかった「一人」もたくさんいる。
 だけれど、「一人」を試すことができた人生があることが、
「一人」で切り出していった経験知をついに持たなかった僕には、とても眩しく思えた。

 


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東京女子高制服図鑑 (昭和60年版)

2013年12月25日 | 東京論

東京女子高制服図鑑 (昭和60年版)

森伸之

古本屋で300円で投げ売りされていたのを入手。
昭和60年というと1985年である。なんともうすぐ30年前になろうとするとき。月日は百代の過客なり。ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。隔世の感を禁じえないのは、ここに取り上げられた制服のほとんどがセーラー服か紺ブレの類であるということ。追想するに、ブランドものの制服なんてのを各学校が採用するようになって話題になったのが、昭和の終わりくらいからだったので、この本もそうした動きの端を担ったのかもしれない。wikipediaの記述によると、刊行当初はなかなかのセンセーショナルだったそうだ。

 タイトルの通り、各学校ごとの制服を図鑑風の体裁で紹介している。しかし、一見ほとんど同じであるセーラー服や紺ブレであるから、相違点は細かいところ、タイの色や結び方の違い、セーラーの首の後ろに垂れるところの文様とか形態の違いという、要するに大同小異をこまかに観察し、つまびらかに記録し、几帳面に分類している。著者の積み重なる路上観察のたまもので、驚くべきことに、すべて制服が人物入りでイラスト化されている(ある意味、写真でおさめていくほうが難しいのかもしれないが)。

 こういう道行く人や街角のアイテムの差異を路上観察し、イラストで描きわけ、分類、分析する方法、つまり考現学と呼ばれる方法論がある。これのパイオニアが今和次郎で、大正時代の世に、銀座を道行く女性の髪型の違いとその件数なんてのを記録している。近年では路上観察学会の赤瀬川原平とか、女性誌なんかで活躍している大田垣晴子なんかがこの方法をやっている。

 一見真似できそうなのだが、これ、やってみると案外に難しい。仕事がら試みたことがあるのだが、観察中は神経を集中しなければならないし、もちろんその場でイラストスケッチなんかできないから、その段階では、記号とか正の字とかでメモしていくことになる。これはこれで、怪しい人間には間違いないし、これがいつのまにか違う記号で記録してしまっていたり、ちょっと目を離したすきに実態と記録とが混乱してしまったりして、まったくうまくいかず、けっきょく一度のトライで諦めてしまった。

 まして、本書の観察対象は女子高生である。その学校数足るや151校。うーん。今だったらドン引き、というか場合によっては通報されるだろうな。
 しかも夏服に限定していて特集しており、その理由が「期間の短い夏服に、その学校がどれだけ制服に気を使っているかが現れるから」ということだそうで、「夏服を見れば、その学校がわかる」のだそうだ。そうですか。
 まあ、男子としては、女子高生の夏の制服に思春期におけるひとひらのぐちゃぐちゃを思い出させるアンビバレントな記憶があるのも確かではある。

 ところで、僕が通っていた高校も、ここに含まれていた。繁華街に近いせいか遊び人風の女子が多いのに何を間違ったか伝統的なセーラー服の学校で違和感ありまくり、みたいに紹介されており、この本の刊行時、まさしく僕は毎日ここに通っていたわけだから、その女子高生もリアルタイムで見ていたことになる。そうか、変だったのか。平成の始め頃に、我が母校ではスカートはひざ上10センチが基本とか言われていたなあ。そういえば。
 もっとも今の東京はひざ上15センチがスタンダードなんだそうである。



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現在知 Vol.1 郊外 その危機と再生

2013年05月21日 | 東京論

現在知 Vol.1 郊外 その危機と再生

三浦展・藤村龍至 編

 

 本書のテーマはタイトルのごとく、団地に代表される少子高齢化における郊外の縮退と、その再生のありかたである。
 本書は、論文集なので、ひとつひとつはバラバラなのだが、一冊読むと、やはり通底するものがある。

 

 それは、団地とかニュータウンとかにみられる「均質性の罠」である。


 最近は都市学でも社会学でも、あるいは生態学でも「多様性」こそが持続可能性のカギであることが言われているだが、にもかかわらず、人間というのは、なぜかくも均質性のほうに行こうとするのだろうか。
生存本能としてはむしろこれは致死遺伝子というしかない欠陥ともいえる。


 都心部が多様性に特徴を求め、かつてここから逃れるようにユートピアのニュータウンをつくっていったということは、人は本能的に均質性を志向するとしか言いようがない。なぜ人が、右にならえとか、同調圧力のほうになびくのかは、ゲーム理論的にはあきらかなのだそうだが、均質性というのは究極の部分最適なのだろうと思う。


 団地やニュータウンにおける均質性が部分最適というのは、ぶっちゃけていえば、「自分さえよければよい」ということである。
この「自分」に入ってなかったのが実は「子ども」である。その「子ども」がニュータウンから退出していっているのである。


 いや、当時入居した当人にはそのつもりはなかったのだろう。「子育ては、緑豊かな郊外がよい。都心なんてまっぴらである」というテーゼは根強い。

 だが、実際のところどうであろう。
 “緑豊かな郊外こそ子育てに最適な環境”とは、単に、「自分が子どもだったときは、まわりは緑だらけだった」という、自分自身のエピゴーネンにすぎないのではないか?

 これ自身も、自分と同じ「均質性」を子どもにあてはめる一種の罠である。


 ちなみに僕自身は、埼玉県のニュータウンに育ったクチであり、その限界というか、ぶっちゃけそりゃあ黄昏るわなというのがよくわかる。
 たしかに緑は多かったが、それ以上に人と人の社会空間の不気味なまでの閉塞性のほうがよっぽどトラウマになっているといってよい。
本書では浜崎洋介氏が、神戸の西神ニュータウンにおける生活を、例の酒鬼薔薇事件とリンクさせて述懐しているが、この感じよくわかるのである。


 そういう意味では、僕は幸いにも郊外から脱出できたし、そういう人は多い。
 これこそが、今のニュータウンの黄昏の原因である。

 つまり、ニュータウンは、当座の世代のみが満足するようにできており、次の世代もここに住むという配慮がなかった。よく言われるように世代移転の考えに及んでいないのである。世代移転のことまで含めて、人は物件を選んだり、買ったりしないということもである。

 

 脱出した人はいいとして、残されたニュータウン、そこに住む高齢者、あるいは脱出できなかった人をどうするか。

 

 ここに、ニュータウン世代の次世代のひとつ下の世代が、ニュータウンに新たな可能性を見出している。
僕自身は、上に述べたごとく、もはや団地やニュータウンは悪い記憶しかないのだが、その下の世代は、ここに新たな可能性をみる。

 これはどういうことだろうか。

 俗に東日本大震災以降人とのつながりが再確認されたとか、コミュニティって大事だよね、という見方が浮上したといわれる。
それはそうかもしれないが、もっと根本的なことは、バブル崩壊以降に生まれ、育った人は、本能的に日本の企業における利益集団、社会学でいうところのゲゼルシャフトにうそ寒さを感じているのだろうと思う。
 東日本大震災は、それを明快にしたと言える。

 ゲゼルシャフトを機能させるのは、共通の利益目的が必要である。
 だが、縮退と成熟のこの時代、互いに相反するような情報が錯綜するこの時代に、上の世代が設定する利益目的に、心底共感するのはもはや難しいといってよい。保身のために同調することはあっても、熱狂的に企業の利益目的に同化するのはなかなか難しいだろう。

 そのときにある種の地縁である団地やニュータウンの人々のありようは、脱利益集団としてのユートピアをみるのかもしれない。
かつて、均質性の温床だったところに、むしろ多様性の土壌を築こうとしているのである。


 なぜ、そんなまさかの大逆転が起こりえたか。

 つまり、はじめて人は(というか日本人は、というべきか)、本能的レベルで、均質性を忌避し、多様性を模索し始めたと言えるのである。
 これだけ、空気を読むとか、SNSでのいいね!の押し合いとかありながら、あくまでそれは社会上の礼儀であって、本能的には多様性のほうがよい、ということに気付き始めたのである。

 なぜかというと、かつては、みんなと同じであることがステイタスであったし、消費の欲望はそれを駆り立てていた。「みんなと同じでいよう」ということがストレスや苦痛であるよりは、それを達成することの喜びのほうが上回っていた。

 今はもはやそうではない。みんなと同じあることは苦痛だし、達成したところで徒労や虚しさしか出てこない。
 これは、共通の欲望や夢に、強固なものがなくなったからででもある。


 ならば、自分の思うようにしたい。自分と気のあったもの同士でつながりたい。エゴイズムを超えたつながりでありたい。
 そのとき、ニュータウンは、「自分らしさ」を発揮できる場所として再生したのである。

 「郊外」が、「都市化」する時代がようやく訪れたのである。


 


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レッドアローとスターハウス もう一つの戦後思想史

2012年11月06日 | 東京論

レッドアローとスターハウス もう一つの戦後思想史

原武史

 

個人的トラウマを戦後教育史に帰着させた執念の力作「滝山コミューン一九七四」はなかなか衝撃的だったが、著者の追及の手はその後も続き、本作は滝山コミューン前史である。

その実態は、西武鉄道堤グループと、日本共産党と、西東京エリアの公団団地に住む人々の三角関係であった。

なるほど、著者が看破する通り、戦後の日本はアメリカの生活を模範としながらも、公団に代表される団地の景観は、もろにソ連のそれである。たしかに団地のように近しい属性をもつ人々が均質的な生活空間に密集することそれ自体は、共産主義の温床になりやすいだろう。しかも一大コンツェルンとも言うべき西武鉄道グループの堤家が支配する土地に、あの不破哲三が住み、そしてやがて西東京エリアの団地群にかくのごとき打倒資本主義的な熱意がまきおこったのはやはり偶然ではないだとうと思う。

たしかに本書の指摘する通り、西武沿線に住むということはまともに西武資本の影響を受ける。西武鉄道で都心に行き、駅までは西武バスに乗り、タクシーは西武ハイヤーで、買い物は西友、大きい買い物は西武百貨店やパルコ、コンビニはファミリーマート、野球は西武ライオンズ、遊園地といえば豊島園か西武園、駅に張られるレジャーのポスターは秩父や箱根、そして軽井沢のプリンスホテルなのであった。都心まで1時間半から2時間もかかるこんな土地で、右も左も西武西武西武なのだから、アンビバレントな感情になるのも無理はない。当時子どもだった僕はそんな環境をごく自然に受け入れてしまったけれど、今ふりかえるとやはりこれは異常だった。当時、西武という共通の敵を相手に均質な生活空間に住む均質的な団地の人々は、均質であるが故の美徳を日本共産党によって鼓舞されていったわけである。言われて思い出したが、たしかに当時中選挙区だったこともあって日本共産党の議員は必ず出馬していたし、当選していたような覚えがある。

 

同じようなことをしていた東急電鉄グループがここまで顕著にならなかったのはなぜなのか。

本書でも指摘しているが、不動産開発、あるいは都市開発の有無がやはり大きいように思える。東急は、田園都市構想に代表されるようにまちづくり、都市開発も東急グループがかなりのイニシアチブを発揮してつくっていた。だから、鉄道と街並みがわりと足並みそろっている。

一方、西武はあれだけグループ資本を投下しながら、なぜか沿線の不動産開発は他の事業に比べて規模が小さい。現在なお、東急建設や東急コミュニティ、東急不動産の名は知られても、西武建設、西武不動産の名はほとんど知られていないのではないか。

けっきょく、沿線の不動産開発を西武にかわって行っていたのが、日本住宅公団なのである。本書では、日本住宅公団と西武鉄道グループがどのような関係にあったかを詳らかにしていないのだが、西武鉄道の創始者である堤康次郎は衆議院議長にまでなった人であり、戦後の住宅政策にコミットするのは可能だったと思う。

しかも、東急の後藤家、阪急の小林家と違って、なぜか堤家は、西武沿線に邸宅を構えなかった。堤家は港区にあり、墓地も西武沿線ではなく鎌倉である。最後まで西武グループは、西武沿線にあれだけ資本を張り巡らせながら、ついぞあのあたりの土地を愛さなかった企業グループなのである。日本共産党が活気づくのも無理はない。

 

ただし、いずれにしても今は昔である。「政治の季節」は遠くなり、日本共産党の影響力は当時にくらべてぐっと落ちているし、団地も衰退している。今は西武独占ということもなくて、各種のチェーン店がこの沿線にも進出しているし、当の西武グループも不祥事が明るみになってすっかり毒が抜けた。「戦後史」というサブタイトルが示すように、一種奇妙な戦後史の一里塚がそこにあったような、そんな感想を持つ。

 

本書は、それ以前に西武沿線が、戦前から結核病棟などの病院施設が非常に多いエリアであったことも指摘している。今でもこのあたりはそうである。武蔵野の大地がなぜそういう由来を持ったのか、東京近郊で多少なりとも空気がきれいで森林を持つエリアとなると必然的にそうなるのかもしれないが、なぜ相模の大地のほうではそれがなかったのか。本書は、「武蔵野に多い」という事実からスタートしているので、その原因までは触れていないが、これもまた興味深い話である。

 

 


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アースダイバー

2012年05月15日 | 東京論

アースダイバー

中沢新一

 

東京の地形がなんとなくブームということで、書店でも本書が改めて平積みされる例が多いようだ。縄文時代の海岸線の位置が本当にこの通りだったのかどうかは否定的意見も実は出ているらしいが、ただ東京の現在の地形をみる限りでも、あきらかに武蔵野台地の切れ目から下町にかけての境界部分に複雑な山あり谷ありの地形があり、このあたりまで海岸線が来ていたのだろうと実際に想像できる部分も多い。

本書は科学的アカデミズムの方法論で考古学をしているものではなく、あくまでファンタジー、あるいは古代の地勢を由来に精神土壌をさぐってみた東京論である――という前提で読めば、とてもとても面白い(科学的検証を立場とした貝塚爽平の「東京の自然史」という古典的名著があり、半世紀近く前の本であるにもかかわらず、いまだにゼネコンや不動産会社が東京という地形・地勢をしらべるときに参照するという)。

著者の想像力が、B級なスピリチュアル本や、オカルト本と一線を画すのは、しっかり足で稼ぎ、古来の伝説・神話を検討していることもあるが、やはり、かつての海岸線の位置に古代の東京人の精神土壌は由来する、という大胆な仮説の切れ味の良さ(現在の古墳遺跡や貝塚の後や寺社がそこにぴたりとあてはまるという傍証)と、巻末におさめられた地図であろう。正直いって僕はこの地図だけでも本書の価格のモトはとれるのではないかと思う。

 

もし、本書に僕がぜひとても付け加えてほしかった視点があるとすれば、東京湾に注ぐいくつもの河川をめぐる攻防と思い、である。高田馬場付近の谷の深さをみるに、古代の神田川はかなりの暴れ川だったに違いないし、現在は城東地区のゼロメートル地帯に流れる中川、そしてその名も荒川、もっというとかつては利根川だったわけで水系が全然違う。

また、今でも、東京都心には首都高の下などで静脈のように水路が張り目ぐされていており、なんとはなしに見下ろしていると、がらくたを積んだ船が静かに往来していたりする。今では黒く淀み、暗渠化した部分も多い東京の水の流れも、古来の東京人のココロに多く作用したに違いないと思うのである。

 

 

 


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階級都市 格差が街を侵食する

2012年01月10日 | 東京論

階級都市 格差が街を侵食する

橋本健二

 

マルクス主義観が散見されることにちょっと辟易してしまうところもあるのだけれど、なんとなくみんなが皮膚感覚的に思っていたことを、統計データとフィールドワークで明確に看破した感じの本である。ただし、東京23区に限定された話なので、それ以外の地域に住む人にはいまいちぴんとこない話だとは思う。

僕自身はついに人口減少に転じた千葉県住民だけど、職場が東京で、かつては区内に住んでいたこともあるので、本書の描写はどれもなんとなくわかる。私見の限りで言うと、90年代後半あたりから都心回帰現象が始まって、それが現在のジェントリフィケーションという都内格差をつくったわけだけれど、そもそも「都心回帰」というからにはそれ以前に「郊外進出」という時代があったことになる。その時代こそバブルの地価高騰の時期、80年代だ。団塊という最大人口ボリュームを持つ世代が、都内のサラリーマンとして働き盛りだったころである。このときは土地バブルで、一介のサラリーマンはとてもじゃないが、職場の近くに家など買えなかった。職場から1時間から2時間はかかる遠方の郊外に住居を定め、常軌を逸した満員電車で毎日通勤せざるを得なかったのである。だから、地価が下がって、多少なりともローンが組めるようになると、都心回帰するのは当然の力学なのである。

一方で、都市社会学的観点からは、都市の内部には必ず格差が出現する、とは本書でも先行研究事例として指摘している。東京、ひいては江戸においては、もともと江戸時代から、城西城南のほうが、城北城東より格上という地盤ができていた。それは江戸という西高東低の地形がそうさせたのである。その江戸が首都になり、そこに人口が集結すると必然的にこういうことになり、「格差の再生産」は容易に進む。発掘された下町の江戸時代の人骨を調査すると、けっこう貧しい暮らしを強いられた例も多かったことがわかるそうだ。

本書では多様性の保全こそが健全な都市のありかたということを終章で述べているが、根本的なところで日本人は多様性というのを信じていない国民だと思う。「一億総中流」という状況を心地よいと思うこの感受性を持つDNAが多様性をみとめるわけがない。

最近の報道では、東京23区では5割近くの中学生が私立中学通学者になっているそうだ。WEBと携帯電話で、土地をしばる社会組織力はますます弱まっており、土地柄を離れ、ステイタスで横軸に階層されていく都市像はますます加速していく様相である。本書でも指摘しているけれど、雑誌の「下町特集」とかNPOなどが行う「地域活性化プロジェクト」が最近随所で見られるということは、そういう動きが出るくらい、土地を縛る力が弱体化しているということに他ならない。モクミツ地域を睥睨する高層マンション。他の住宅街を通らなくてもよそに行ける張り巡らされた地下鉄網。ひとつひとつの殻がますます硬くなりながらモザイク都市はますます一極集中していく。

 

 


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