モノローグ書店街
小坂俊史
竹書房
4コマ漫画の大御所にして天才にして鬼才と言われるいしいひさいち御大が認める4コマ漫画家が小坂俊史である。(本作に出てくる「ポリバケツができるまで」がいしいひさいちの「ゴムホースができるまで」のオマージュであることを私は見逃さない!)昨今4コマ界を席巻する「日常系」や「美少女系」とは一線を画す作風であり、もはや孤高の感まで漂わせつつある。とくに「モノローグ系」と呼ばれる一連の作品は他の例をみないものである。
さて、本作は書店に勤める何人かの書店員を主役にしたものだ。大手チェーン系、町の小さな本屋さん系、24時間開店系、古本屋系、空港内書店系、地方の個性店系といろいろ出てくる。店員のプロフィールも様々で、本が大好きな店員もいれば、自分はまったく本を読まないギャル系のバイトもいれば、誰が何の本を買ったか全部覚えているベテラン店員もいれば、みずから古本屋を開業したおっさんもいれば、実は小説家志望の店員もいる。「本」というものを出発点にいくらでも世界は広げられそうだ。この拡張性の広さこそ「本」の力だろう。とはいってもこの「モノローグ系」、実はつくるのはたいそう大変であることをかつて何かの作者コメントで見た覚えがある。
しかし、世の中にはほとんど本を読まないという人種も少なからずいて、そういう人から見ればこの作品はまったく異世界のニッチなものとしてうつるのだろう。大人の半数が1か月に1冊の本も読んでいないというデータもある。
僕はこんなブログを10年以上もちんたら続けているくらいだから本は読んでいるほうに属するはずだが、それでもけっこうムラがあって、1か月に5,6冊読むこともあれば、1冊に満たない月もあったり、新作を読む気力がなくて過去に読んだ本の再読に浸ることもある。ここ数か月ペースはダウン気味である。
ただ、本屋さん通いはかなり長いこと習慣化している。現在の世の中であるから、Amazonで注文したり、あるいは電子書籍で購入こともあるのだが、それはそれこれはこれで、本屋さん通いそのものは週に1回は行っている感じだ。それも大学時代から続いている習慣である。
というわけで「本を読む」のと「本屋さんに通う」は近接はしているけれど別個の趣味だという気がする。僕は「本を読む」のと同じくらい、あるいはそれ以上に「本屋さんに通う」のが好きである。というわけで、ここから先は僕の「本屋さん通い」の話(モノローグ)である。
もちろんどんな本屋でも良いわけではない。家の近くにどんな本屋があるかというのは実はぼくにとって重要な問題である。これまでも引っ越しのたびに確認するのは近所にいい本屋(つまり通いがいのある本屋)があるかどうかということだ。
このマンガのように、本屋にもいろいろなタイプがある。まちの小さな本屋もあれば、何フロアもあるような大型書店もある。マーケティングデータをフル機能させて売れ筋ばかりをおさえているような本屋もあれば、店長の裁量によるユニークな品揃えのところもある。
「通い」の身として個人的に手頃なのは、ビルのワンフロアをすべて使っているくらいの広さで、人文系の品揃えに多少の個性があるところだ。しかしこういうのは意外に少ない。駅ビルに入る本屋は売れ筋重視のことが多いし、繁華街の本屋はビジネス本は充実していてもそれ以外はあまりたいしたことがない場合が多い。せっかくいいところを見つけたと思ったら数年後に閉店してしまったというのも1回や2回ではない。けっきょく、そこそこ気合と期待をこめて本屋詣をするときは電車に乗って都心の大型書店に行くことになる。
そうまでしてなぜ本屋通いをするのか。習慣だから、何か本を買うアテがなくてもいく。むしろアテがないことのほうがずっと多い。むしろアテがあるときはAmazonに頼ってしまうことだってある。つまり、本屋に通うというのは「何か面白いものに巡り合うかもしれない」というセレンディビディの期待があって通っているわけだ。
このセレンディビティこそが実は今日において重要で、昨今のデジタル技術革新は検索と行動履歴によるチューニングで自分自身が能動的に気になったものの関連情報ばかりが与えられてくるようになった。「検索」という行為がまず能動性を試されるものだし、SNSの情報もまずは自分の気になった人というバイアスが働くし、ニュースアプリも自分が踏んだ記事の嗜好性のものが次からも優先的に表示されるようになっている。Amazonで本を注文すると、その本の関連本や、「その本を買った人が他に買った本」が画面に出てくる。それはそれで思わぬ発見がないこともないがたいていは食傷気味になるというか、たいしてピンとこないことのほうがずっと多い。
そんなわけで、自分が想像もしなかったような、あるいは想定しなかったような、興味など持たないようなものまで含んで何かの情報に出くわす機会というのは、むしろこちらから積極的につくらないとならない。
それでこういうことに意識的な人は、毎日数紙の新聞を読むとか、様々なタイプのインフルエンサーや有識者をマークしていて毎日チェックするとか、それぞれのやり方をとっているっぽいが、僕の場合はこれが本屋通いということになる。犬も歩けば棒にあたるである。学生時代からこれを続けているから、僕の場合、世の中のウォッチというのは基本的に本屋を通してこれまでやってきていたということになる。
定期的に通っていれば、だいたい平積みの様子で世の中なにが話題かがおおむねつかめる。ビジネスコーナーを睥睨すればなにが最近のキーワードか確認できるし、社会の空気とか今なにが人々の重圧になっているかとかもわかる。季節性のトレンドもわかる。人文思想系、サイエンス系、学芸系、芸術系もさあっと眺めてトレンドをチェックする。文庫の新刊も見逃さない。そして気になるものがあれば手に取ってぱらぱらっと見てみるし、ピンとくるものがあればお買い上げとなる。そしてたまに書店のほうで何かをテーマにフェアがあったりすると、そうかこんな世界の切り取り方があったのかと多いに学ぶところがある(そういう意味で店長との相性はとても大事である)
そんな感じでの本屋通いなので、何も買わずに手ぶらで出てしまうことも多いことを白状する。世の中のスキャニングが目的みたいなものだから、本を買うのは3回の来店で1冊といったところかか。本屋さんからみれば、あまり上等な客ではないかもしれない。
というわけで、単なる本屋通いが趣味の人の勝手な言い草を述べてきたが、これだけ本屋通いをしてきたわりに本屋や書店員がどんなインサイトでどんなつもりでやってきていたのか今まであまり考えたことがなかった気がする。本の流通の仕組みというのもいまいち理解していない。本屋さんの売り上げはマンガと雑誌で決まり、それ以外はお情けなのだという話を聞いたこともある。それならばマンガの電子書籍化と雑誌の衰退はさぞかし大打撃だろう。
今回のこの書店員マンガ、読めば本屋に行きたくなること確実だし、書店員を見つめる目も少しは変わりそうだが、白状すると実はこれ自体はAmazonで買ってKindleで読んだものだ。読み終わったところで初めてその倒錯に気が付いた。ちょっと心が痛む。
よつばと! 第15巻
あずまきよひこ
KADOKAWA
連載開始18年目にして、物語はようやく第1話から半年が経過したという「異化」としか言いようのない実験的作品にいつのまにやら大化けした本作であるが、不覚にも本巻最終話「よつばとランドセル」で涙してしまった。Amazonのレビューを観たら同様の人が多かったようである。
なので今回は久々にマンガをとりあげる。いちおう内容を説明しておくと6才の女の子「よつば」と、育て親「とーちゃん」(血の繋がりは無い?)を中心とした超絶日常系マンガである。
このブログでも実は過去に一度扱っている。それは13年前。なんと第7巻である。
よつばと!における「とーちゃん」のよつばに対する距離感の取り方は、僕の育児においてなかなか影響を受けるものであった。
うちの長女が喃語から幼児語を話すようになったころのコミュニケーションの取り方を、僕はまさに「とーちゃん」に見習っていた。その本質は、こちらはガチのテンションでコミュニケーションをするというものだった。こちらは幼児語も甲高い声も用いず、適当な応答で済ませもせず、通常のボキャブラリーと声色で、しかし全力で子どもの相手をするというものだった。つまり「とーちゃん」のスタイルである。
それがどこまでうまくいったのかはよくわからない。子どもにとってよかったのかよくなかったのか、それとも関係なかったのかも不明だが、このコミュニケーションスタイルは、そのやりとりを見ていた保育園の先生方からはなかなかユニークなものと映ったようだった。
「よつばと!」に限らず、僕の育児におけるマンガの影響や参考はけっこう多かった。宇仁田ゆみの「うさぎドロップ」とか榎本俊二の「カリスマ育児」は繰り返し読み返していた。父親の育児がテーマになっていたことが大きい。
たとえば「うさぎドロップ」では、主人公のダイキチが祖父の隠し子であり遺児となった「りん」をひきとって父親代わりになる話である。保育園の送迎や子育て時間の確保のため、ダイキチは所属していた残業上等の営業部の部署から、定時退社の部署への異動を上司に願い出る。ダイキチはそれを出勤途中の電車の中で決心するのだが、そのときのダイキチのせりふは“やっちゃうか…?”というつぶやきであった。
この“やっちゃうか…?”はなかなか僕に効いた。カッコいいと思った。そして僕は当時、職場の僕の上司に定時退社ができる部署への異動を願い出たのだった。まだイクメンというコトバが世の中に出る前のことで上司はかなり慌てたが、幸運なことに上司はさらにその上と相談してくれて、僕は当面のあいだ終業ベルがなると同時に会社を出て保育園に娘を迎えにいく毎日となった。
あの時の僕の決心を後押ししたのは「うさぎドロップ」の“やっちゃうか…?”だったのである。
榎本俊二の「カリスマ育児」では、作者の娘のアトピー治療の話が出てくる。
我が長女にも1才になる前からアトピーが出ていた。アレルギーはけっこうひどくて牛乳も卵もダメだった。小児喘息でもあった。小児科の先生は厳しい現実を言い、妻はなかなか悲壮にくれていた。
そんな中、「カリスマ俊二」の作者は、マンガ表現の誇張の上であろうが(なにしろ榎本俊二である)、このアトピー治療を陽気なギャグとテンションでやっていくのだ。初めての育児においてこれはかなり救いだった。アトピーとはこうやってつきあっていけばいいのだ、と思った。
そんな長女もいまや花のJKであって、アトピーは完治はしてないもののだいぶよくなったし牛乳も卵も平気になった。喘息も引っ込んだ。女子高生らしく学校の部活やら友達とのLINEやらYoutubeやらの毎日を送っている。「よつばと!」も当初は僕の部屋の本棚に並んでいたが、いつのまにか全部彼女の部屋のほうに持っていかれてしまった。よもや自分の子育ての参考にされていたとは夢にも思わないだろう。
このペースでいけば次の第16巻が出るころは、もう長女は成人なんじゃないかと思うと驚愕的ですらあるが、その巻を手にするのはどちらなんだろうとか、そもそもその時に彼女はまだ家にいるのかなどと、陳腐ながら時の流れを思う次第である。「日常という奇蹟」とはよくぞ言ったりだ。
ピーナッツ・シリーズ
チャールズ・M・シュルツ 訳:谷川俊太郎
鶴書房・角川書店・河出書房新社
河出書房新社で「完全版ピーナッツ全集」が予約受付中である。全25巻。1冊が2800円。つまり全巻で70000円という大全集だ。
「ピーナッツ」というのは、要は「スヌーピー」である。正式には「ピーナッツ」という名前のシリーズなのである。作者の名前はチャールズ・モンロー・シュルツという。
ハコヅメ 交番女子の逆襲
泰三子
講談社アフタヌーンコミックス
警官を主人公とした漫画といえば何といっても「こち亀」であり、だいぶ後ろに「逮捕しちゃうぞ」、番外として「がきデカ」あたりが僕が思い出すところだ。しかしいずれもかなり常軌を逸した「警官もの」だった。また、刑事ものだと「親子刑事」に「ドーベルマン刑事」に「俺の空」にといろいろあるが、刑事ものと警察ものはやっぱり性格を異にすると言ってよいだろう。
この「ハコヅメ」は過去の警察ものとはかなり違う。言わば「警察の日常」。リアルな警察の日常というのは、取材程度では描きようがなく、本作の作者が「元・婦人警官」だったという特異なキャリアこそが可能な作品ということである。
興味深いのは、その作者の画風というのが 楳図かずおみたいなとでも言ったらいいのか、なんかギョロっとした目、不自然に傾く姿勢、どこ見ているのかわからない視線、妙な頭身スケール、不思議な曲がり方をする手足など、一見ホラー的というか、シュールレアリズムみたいな不安感を誘う画風であり、それなのにその内容がシリアスとギャグとヒューマニティが微妙にブレンドされていたものでヘンに中毒性がある。なんでこういう画風になったのかとても興味があるが、この絵が本作をさらに独特なものに仕立て上げているようにも思う。一見テレビドラマの原作などにしやすそうだけれど、この絵が持つ不思議さが放つオーラはけっこう馬鹿にできないぞ。
究極超人あ〜る 第10巻
ゆうきまさみ
小学館
普通に第10巻というのがすごい。つまり第9巻の次の第10巻。第9巻の最終話とされたものから数日後。それも後日談ではなくて普通に連載が続いているかのようなテンション。つまり舞台は昭和62年のまま。携帯電話もインターネットもない時代。
この第9巻と第10巻の刊行のあいだには30年の月日が経っている。やっぱり作者の筆致による絵柄はちょっとかわってしまっているが、全体を支配する緩急自在感、次々とノイズのようにはさまれる数々のギャグ、各登場人物のキャラ立ちぶりは当時とまったく同じで、作者もよくここまで再現させたなあと感心するばかりだ。
とはいうものの、この「究極超人あ〜る」。やはり80年代を背負ったマンガである。80年代はこういう空気だったなあ。
「究極超人あ〜る」は当時、週刊少年サンデーに連載されていた。僕は中学生だった。現代の中学生のニーズや好みをマーケティングしても、もはやこういうマンガにはならないと思う。Dr.スランプ、うる星やつら、ストップ!ひばりくん、などと同じ系譜といおうか、随所に細かいネタを仕込む(つまり情報量は多い)のだが、そのネタにたいして深い意味はなく、妙にあっけらかんとしてドタバタしながら通り過ぎていくような感じ。随所はめちゃくちゃだけどお話そのものはカタルシスを外すことなく前に向かっている感じ。(僕としてはあだち充の「熱血しないスポーツもの」、北斗の拳や魁!!男塾の「もはやギャグに転じた熱血もの」もこれに属していると思う)
これはマンガに限らず、当時のライトノベル(このころはこんな単語はなくて、かジョブナイル小説と呼んでいた)もそんなノリだったし、OVAとかCDドラマとか、要するにオタクっぽいコンテンツはこんなものが多かった。
90年代に登場した新世紀エヴァンゲリオンでは、こういった突き抜けた明るさはもはや無くて、登場人物の心理状態とか内面の葛藤とかがクローズアップされ、ノイズがノイズで終わらないで世界観構成のアイテムになったりとか、いわゆる「セカイ系」と呼ばれるものになっていったように思う。アニメに限らず、サブカル系コンテンツは、ゲームもケータイ小説もラノベもみんな「自分探し」的な要素が見られるようになった。(大塚英志は日本文学の底流にある「私小説」の遺伝子をここに見立てた)
もちろん80年代にも自分探しものはあっただろうし、90年代以降もドタコメはあるのだろうけれど、やっぱりこれらを支持する時代の空気が違うように思う。80年代にヒットしたJPOPと、90年代のJPOPが違うように。(80年代のJPOPは「現状最高!」で、90年代は「考え方によっては現状もいいじゃない!」)。
いうまでもなく、80年代というのは日本がバブルまっしぐらの時代であり、90年代とは不景気であるから、ここにわかりやすい明暗があるのは確かだ。ただし、そんな景気問題だけが背景ではなく、ここには社会と個人との距離感の違いがあると思う。家庭や会社や社会に身を預けること、全員でひとつの方向性をむいておくことの安心感が90年代以降急速に後退し、一方で個人を情報化し、武装化し、ブランド化する必要性が台頭してきた。携帯電話やインターネットの出現と歩調をあわせて個人化の動きは強まっていった。
承認欲求とか、自己肯定感とか、自分探しとか、こういうパーソナルなものへの志向性が高まるというのは、時代に身を任せるだけでは幸福感を得られない時代になったとも言えるし、それが成熟社会なのだとも言える。
90年代のアニメだったエヴァンゲリオンが、2018年現代なお飽きもせずに手を変え品を変える形で市場に支持されているというのは(細部の批判は多くとも)、現代の空気も90年代からの地続きにあるということかと思う。そういう意味では80年代の空気というのは、もはや現代からは断絶された過去のカルチャーである。
いまさら80年代に戻りたいとも思わないが、当時のテンションのままの「究極超人あ〜る 第10巻」を読むと、90年代以降肥大した承認欲求の時代になる以前の、「自分さがし」の「自分」なんてそもそもなかったし、そんなものはなくても普通に生きていけたのだ、という当時のフットワークの軽い気分を思い出させた。
服を着るならこんなふうに
作:縞野やえ・MB
角川書店
ユニクロ、というよりはファーストリテーリングのパブリシティがだいぶ入ったコミックであるが、ぼくみたいな無粋者にとってはたいへん勉強になる。完全にマーケティングの勝利だ。
おしゃれに凝りたいとまでは毛頭思っていないけれど、オタク然とした後ろ指さされそうな服装、面と向かっては言われなくても心のどこかでダサいと、ヒトとしての値踏みをされそうな服装はできればしたくない、しかしファッション雑誌なんか読んでも見どころがさっぱりわからないし、使われている用語もぜんぜんわからないし、ズボンをパンツというのはいまだに違和感あるし、出てくるモデルはぜんぜん自分とは違う人種でまったく自分のための指南には見えないし、店には怖くて入れないし、という男性の一群(というかオレのこと)のインサイトを見事につかまえている。そう。こういう人間でもユニクロならば入れるのである。無印良品ならば入れるのである。ZARAはちょっと勇気がいるのである。
大学生のときは、ほぼTシャツとジーンズとスニーカーだった。地方郊外のキャンパスで繁華街に行くといっても私鉄沿線の駅前くらいだったからそれでよかった(よくなかったのかもしれない)。他のみんなも、少なくとも男性はそのようなものだった。
この大学生期間を無粋に過ごしたためか、服の感度は鈍いまま社会人になってしまった。会社勤務の間はスーツで済むし、週末もそんなに遊び歩くライフスタイルではなかったので、服についてはおっくうになりがちだ。
そこで、この手の人間がよくやる「逃げ戦術」としてひたすらモノトーンでまとめていく、というのを僕もやっていた。ズボンはとりあえず黒、シャツも黒あるいはグレー。靴も同様。ただシルエットとか風合いとかはまったく考慮に及んでいない。
やがて結婚後、妻から少しばかり服装のアドバイスをもらったりしたが、あんまりおしゃれの要点を理解できず、なんとなくぐだぐだとくたびれた服を着ていた。柄のついたTシャツとか、ネルシャツとかが増えていった。まあ、会社にいくときはスーツだし。
ところがところが。会社のほうがだんだん服務規程(?)が緩くなって、要はクールビズだのなんだのでスーツ着用でなくてもよくなったり、内勤に異動して必ずしも外のお客さんと会う日々でなくなったりして、ゆるやかにカジュアル方向にいくことになった。
そうなってくると何を着て会社に行けばいいかわからなくなってくる。家にたいしてストックがあるわけでもないが、とはいえ何を買えばいいのかわからない。ファッションについての会話なんかを同僚としたことがないし、「気に入ったものを買えばいいんだよ」と指南はされるが自分が何を気に入っているのかもわからない。わからないところがわからない。
そのころ、スティーブ・ジョイスが、いつも同じ格好だというのが話題になった。イッセイミヤケの黒のタートルネックとジーンズ。どうやらノームコアというらしい。記事によるとジョブス曰く「どの服を着るか悩むのは時間のムダ」。
なるほどなるほど。ジョブズがいうならいいのだ。という全面的な他力のもと、そういや以前ぜんぶモノトーンでまとめていた時代があったなと思い、そこに戻ることにして、ほとんど黒と白とグレーの着回しで居直ってしまった。
そんなところで「服を着るならこんなふうに」。タイトルにつられて読んでしまったら、まさしく初心者は黒のスキニーから始まる、という完全に図星をつかれた形だったのである。
まあ、おおむね自分の考えは間違ってもなかったんだなとは思ったのだが、そこからの技の発展の仕方にようやく僕はなあるほどなあるほどと関心する齢40歳。しかも、そういうモノトーン型のストイックなやり方(つまり「逃げ」)も、もはやあまり通用しなくなっている時代だそうである。はあ。
ぱらのま
作:kashmir
白泉社
中毒性のあるマンガだ。
僕は10代を宮脇俊三氏の著作で育ったようなところがあって、要するに今でいう鉄オタだった。とはいえ宮脇俊三氏の鉄道紀行記は文学といってよいほどで、教養と抑制が効いたものであり、僕の鉄道好きは、この宮脇観から逸脱するものではなかった。ゆえに車両についての知識はまったくなく、収集癖があるわけでもなく、撮影欲もなかった。時刻表や地図を開いて旅情を催し、ふらふらと鉄道に乗ってどこか日常とかけ離れたところにいく、というスタイルをとにかく好んだ。必ずしも遠方でなく、また、必ずしも観光地でなくてよい。
今でもこの嗜好は残っていて、たとえ東京近郊でも、各駅停車しか止まらないような駅で降りて商店街をひやかせば十分におもしろい。銭湯などあったら最高だ。(だからブラタモリとか孤独のグルメも好きである)
そんなところにこの「ぱらのま」である。
このテンションの低さといい成り行き任せ感といい最高。鉄道に乗るけど、船もバスも徒歩もけっこう出てくるし、駅前散歩っぽいものや、コンビナート工場の光景に魅せられるところや、江戸時代の関東平野の水運ゆかりの地を訪ねるなどという渋すぎるものまで出てきて、インサイトえぐられまくりである。ついでにやたらビール缶をあけるところもいい。
それにしてもこの主人公の女性(残念系と紹介されている)、ありあまる資金と時間だ。いったいどうなっているのだろう。
本誌は、著者自身の対談や、単行本未収録作品が掲載されているのが魅力だが、もともとが硬派な思想誌であるから、ほかに様々な識者が深遠広大にこうの文代について論考している。
興味深いのが、かなり多くの人が「長い道」という作品に触れていたことである。
僕は、こうの文代は「街角花だより」「ぴっぴら張」「こっこさん」「さんさん録」といった作品もおさえていて、「長い道」もこれらのこうのワールドの中にあることに違和感はないのだが、たしかに「長い道」は奇妙な作品であり、ユリイカ的な識者には、一言弁じてみたい作品もである。
この作品がどういうものなのか、未読の人に説明するのはひどく難しい。お読みになった方は同感だろうと思う。
①まず、この作品は「道(みち)」という女性と、荘介という男性による夫婦の物語である。
まあ、ここらへんは穏当なところである。もちろん、「長い道」を既読の方なら、これではこの作品の特徴はなんにもわからないと言うであろう。
。
さあ、だんだん怪しくなってきた。
これはさぞ、ドロドロと悲しみが支配する作品のように思えてくる。
え? 荘介は女癖が悪いんじゃなかったっけ? 道というのはもっと悲劇的な立場の女性なんじゃなかったっけ?
⑦いちおう最終回にむかっての流れらしきものは(かろうじて)あるのだが、各編はショートショートで話が完結している。どこから読んでもさしつかえないほどである。
このユリイカでもそうだし、ネットを見ても、この「長い道」を解釈、分析している文章をわりと見かける。
僕もなにかこの作品に見えるものを串刺そうと考えてみたこともある。
なにか読者に挑戦しているような気がしてくるのである。
一迅社
・古典的名著は、ページが薄い本ほどありがたい。
・「舟を編む」を読破しても自慢にならない気がする。
・「銃・病原菌・鉄」は、文庫化前に読んだ人でありたかった。
・表紙が真っ黒なデザインの本は、何か期待させるものがある。
・村上春樹作品との距離感はどのくらいでいるのがちょうどよいのか考えてしまう。
・「面白くて一気に読めて、かつ読書通ぶれる本」を求めている
わかりやすいのが読書数である。1年間何冊読むかとか。このころ「1年間に百冊」というのはステイタスだった。もちろんコミックは除く。もっともラノベ(当時はジョブナイルと言っていた)は勘定に入っていた。そうなってくると「ページの少ない薄い」作品のほうが効率よい、なんてことを考えるのである。
中学生当時ぼくは鉄道の文脈から内田百閒の作品に流れ着いていた。夏目漱石の弟子というポジションでもある内田百閒は、当時はそれほどメジャーではなかったから、「冥途」といった幻想的作品がすごく傑作である、なんてしたり顔で解説するのである。そのくせ、師匠である夏目漱石の「夢十夜」の存在をまだ知らなかったりするのだから、お粗末極まりない。のちに「夢十夜」を知って冷や汗をかいた。
スティーブン・キングの「クージョ」はフィクションだけどすげえ怖くておもろいぞ、ああいう幽霊も超能力も出さずに怖い話をつくりあげる日本人はいないななどとうそぶいてみると、吉村昭の「熊嵐」というノンフィクションですさまじいのがあってだななどと返り討ちにあう。
要するに、読書好きというのはそれがアイデンティティであり、アイデンティティは承認欲求を得ようとするのである。
そんな年代からもうウン十年なのだが、いまだに僕の読書趣味に「虚勢」があることをまったく否定しない。そもそもこんなブログを書くこと自体がそうである。
「1年間に100冊」というのもいまだに意識していてちゃんと毎年数えているのだが、10年以上達成していない。
こちら葛飾区亀有公園前発出所
秋元治
集英社
ついに連載終了の報を聞いて絶句。感慨深いものがある。
連載40年。しかも週刊連載、いちども休載がない。単行本で200巻。驚異のクオリティコントロールである。これはもうイチローの通算安打新記録にも匹敵するんじゃないかと思う。
長期間、コンスタントに一定以上のクオリティを生産し続ける、というのは、アイデアフルとか運動神経とかとはまた別の才能が必要である。セルフマネジメント能力といってもよい。こち亀の場合、アシスタントスタジオである「アトリエびーだま」の運営もそうだし、バックアップにまわっている編集陣も相当優秀であるとみている。もちろん秋元治自身のモチベーションの維持が根底にあっただろう。こういったクオリティ安定のためのコントロールはまことに重要である。
もちろん、こち亀のクオリティについては常に批判もあった。モブキャラの絵柄が変とか、ある時期女性キャラが全員お色気になったとか、特殊刑事課編が適当すぎるとか、超神田寿司編は完全に蛇足だとか。
しかし、それでも「こち亀」はちゃんと続いた。単行本はコンスタントに売れ続けた。売れ続けているということは読者がついているということである。
こち亀が超長期連載をなしとげた秘訣はいくつかあると思うが、自分が感じるポイントを2つあげてみる。
ひとつは、つねに同時代性を取り入れたというところがあるように思う。これがサザエさんやちびまる子ちゃんとの大きな違いで、そのためには過去エピソードとの矛盾も辞さない。それは、お話の中に現れる時事ネタや小道具もそうだが、もっというと、その当時の時代が何に面白さを求めているか、を常に意識していたと思う。
少年ジャンプを主に読んでいるのは、小中学生くらいだと思うが、その時代その時代にあたっての小中学生が何を面白がるか、という点を実は外していなかったと思う。それが「オレが読んでいたころのこち亀は面白かったのに、最近のは全然面白くない」というこち亀批評としてよく見かける指摘につながる。しかもそれを各世代が言うのである。これこそがこち亀マジックだ。読者は年齢が上がれば価値観もかわるが、こち亀は読者の成長についていかず、あくまで定点的に、その時点での小中学生に焦点を合わせ続けた。
これはそうとうのリサーチ能力と、時代に対してのシンクロニシティを要求する話である。
もう一つはスクラップ&ビルドを認めていたということだろう。
新たな設定をとりいれてみて、何度か連載し、しっくりいかないようであれば潔く撤回するという姿勢だ。たとえば、中川は一時期髪型を変えたがある時期にもとに戻したし、隣にロボット派出所をつくってみたもののやがてなくなったし、ニューハーフの麻里愛は、時代とそぐわなくなると本当に女性になってしまった。一度設定してしまったものはその瞬間は面白くても、時間がたてばやがて自縄自縛をもたらしやすい。そこをすぱっと断ち切るのは勇気だが、こち亀はこのスクラップ&ビルドをうまくやってのけた。(だから、超神田寿司編なんかは支持者もけっこういたということだろう)。
つまり、こち亀は、40年間「こち亀」であったのだが、つねに古い血をすて新しい血をいれて入れ替わり続けていた。それこそが40年間週刊連載かつ無休載の秘訣だと思う。
こういう話で思い出すのが福岡伸一の言及で有名になった「動的平衡」だ。われわれ生命は、実は分子単位では常に入れ替わり続けている。入れ替わり続けることで全体としての体(てい)を健全に保っている。変わらないために変わっていく。
「こち亀」は見事に動的平衡を成し遂げていたのである。
縁距離な夫婦 躁うつといわれた嫁との20年日記
のんた丸孝
作者の名前に見覚えがあった。それはもう遠い遠い、四半世紀前のことである。
それは、当時高校生のぼくがベネッセ(当時は福武書店と言っていた)の進研ゼミを購読していて、その中で氏のマンガが連載されていたのである。もっとも話の内容自体は、学習雑誌の連載ということもあって他愛ない学園ものだったような程度にしか、もはや記憶にない。ただ、なんか人をくったようなペンネームと、画風(画面に白黒コントラストがはっきりしたギャグ風とでもいえばいいのかな。あと、手の書き方も特徴的)を覚えている。
記憶に残りやすいペンネームと絵柄なので、その後の人生で、商業誌でも見かければすぐに判明するはずだったが、特にその後見かけた覚えがない。先日書店でこの名前をみつけて心底驚いた次第である。宅配の学習雑誌で連載していた漫画家の名前を25年後に見かける、というのはなかなかないものである。
もっとも、上記の認識が失礼すぎるのであって、その後あわててネットで調べてみたらパチンコ雑誌などで隔週連載を持っていたり、メジャー誌の連載経験もあったり多忙であったようだ。不明を恥じる次第である。
さて本書。開いてみたら、当時の画風を思い出す部分もある一方、現代風な描写に洗練されたところもあったりして、画風の変化というものにまず目がいったのだが、そんな見方をしてしまうのは僕みたいなレアケースであって、本書はそもそもそんなところに焦点をあてる作品ではない。本書はエッセイコミックである。
タイトルにあるように、うつ病の奥さんと作者の20年の記録である。うつ病のエッセイコミックといえば、細川貂々「ツレがうつになりまして」とか藤臣柊子の「精神科に行こう」など、ひとつ定番感があるジャンルだけれど、それだけの需要がここにあるのだろう。
人は多かれ少なかれ、なんらかの心の偏りを持っている。「偏り」というのは、その人のこだわりのポイント(無頓着のポイントも)とか、価値観みたいなものである。「個性」と言い換えてもよい。どんなに健全な人でも程度の差はあれ「偏り」はあるのだ。ただ、自分で偏りを自覚するというのはなかなか困難なことである。だから、偏っている自分の心の軸の位置を、それを偏りと気づかず、ほかの人もその位置に心の軸があると思ってしまう。ここに気持ちの食い違いが生まれる。
その位相の差をつめていくのがコミュニケーションということになるが、この際に大事なこととして、コミュニケーションの相手がどのくらい寛容か、というところがすごく大きい、ということがある。相手とこちらの心のズレに対し、どこまで許容できるかということだ。これは裏をかえせば、残念ながら、こちら側の耐性だけではどうしようもないということである。
なぜならば、たとえこちらが寛容を示せても、相手が不寛容だった場合、そのダメージはどうしても自分のほうにふりかかってしまう。拒絶というところからくるダイレクトな 心理的ダメージもそうだし、たとえ「人は人それぞれの価値観や考えがあるから」と、相手の不寛容を理性をもって寛容に理解したとしても、そこはストレスとして蓄積される。ことに日本人はそうである。欧米では「意見の否定は人格の否定ではない」という感覚が発達しているそうだが、しかしそれさえも、言うならば理性的な克服であり、ココロはやはりダメージをうけているのだなというのが、むこうの映画や小説やマンガをみていると思う。
だから、日常に接する相手が不寛容なタイプだと、これは実に不幸なことになる。したがって、こちら側の防御策としては、不寛容な人に出くわした場合は、その人の前から去ってしまうほうがよい。
しかし、これが親とか家族とか、教室の先生やクラスメイトということになると、そう簡単に逃れるわけにもいかない。ここらへんはいじめや虐待とも一脈つうじる部分である。
もちろん、相手サイドも「自分はそれが普通(「不寛容」も一種のココロの「偏り」である)」と思っており、自分は不寛容とは思っていないから、相手のココロを追い詰めている自覚はなかなか持てない。この不寛容と四六時中接しているとついにはココロが破たんし、一生モノの傷を負ったりすることになる。本人はますます脆弱になり、相対的に相手の不寛容領域がますます広がり、ついには言葉尻ひとつまでもがトラップになっていく。
不寛容に対しての自衛は、先ほど述べたように深刻になる前に「不寛容な人からは逃げる」というしかないのだが、不幸にして不寛容にまみれて人生に傷ついた人に対しては、その人を救うというのはかなり難しいことである。作者の妻は、不寛容にさらされた子ども時代を生き、それゆえに心的な障害を持ってしまった。作者もかなりの努力をしているものの、作者自身の意識せざる「不寛容」部分が奥さんを追い詰め、作者自身もそれに傷つく(奥さんが放つ「不寛容」にやられてしまう)という修羅場に陥る。
作者が寛容を確保できる距離感を探り探り当てて、現在の小康状態がある。本書の時点でまだ決着はみていない。個人的には四半世紀ぶりにみた著者の名前だが、その期間こんな人生を送ってきていたのかと思うと、やるせない気持ちがいっぱいになる。それでも奥さんのシマコさんを見捨てなかったことに希望をみる(あとがきのシマコさんの直筆が切ない)。
人は意識しないと寛容になれない。つまり、寛容たれということである。
それには不寛容がどれだけ人を傷つけるかも知らなければならない。
ヴォルテールの「寛容論」では、「寛容の精神は我々すべてを兄弟にする。しかし不寛容の精神は人間を野獣にする」と述べている。
NHKの中の人は「不謹慎ならあやまります。でも不寛容とは戦います。」と言いのけた。
はだしのゲン
中沢啓治
たまたま子どもの小学校に行く用事があり、ついでに図書室に入れる機会があったので覗いてみたら巷で話題の「はだしのゲン」が全10巻ならんでいた。
僕もご多分にもれず、「図書室で唯一読めるマンガ」ということで「はだしのゲン」を手にしてしまい、その阿鼻叫喚の世界の罠にかかってしまったひとりである。たぶんこの小学校にも、ついつい開いてしまってもう後戻りできずに目を離せなくなってしまった子どもがいっぱいいるのだろう。
作者の生前のコメントに、あえてトラウマになりそうなことを描くことで、戦争というものがどれだけ人を狂わす恐ろしいものかを叩き込もうとしたのだというのを見たことがある。その作者の執念というべき思いはかなりの確率で適ったのではないかと思う。
さて、松江市教育委員会が自由閲覧禁止を通達し、閉架にしてしまった。その言い分は、作品の価値は多いに認めながらも一部の描写に日本兵の蛮行など残酷な描写があり、これを理由に「閲覧許可制」にした。「許可制」だから禁止したわけではない、というものである。
「申請すれば読めるのだから禁止ではない」というのは詭弁もいいところであって、大津市のいじめのときもそうだったが「教育委員会」というのは狡猾で陰険でそのくせ横柄なつまり「イヤなオトナの見本」みたいなところである。
しかも、コトのきっかけとなったある市民からの陳情そのものは、市議会で不受理としながらも、教育委員会がその陳情内容とはべつにその残酷描写を理由に議会判断のプロセスを経ずに市内小中学校に自由閲覧の禁止を通達したようである。
ここからは僕の想像である。過日ひさしぶりに小学校の図書室にはいって、はだしのゲンを読んでみた僕の想像である。
たしかに「はだしのゲン」は広島の原爆による悲惨さを描いたマンガである。原爆の熱線で皮膚がどろどろに溶けた人や、ガラスの破片が全身に刺さった人、あるいはウジがわく描写は多くのオトナがいまだ記憶にとどめているものだろうと思う。
だが「はだしのゲン」がいったいどんなストーリーだったか、全10巻でゲンはどういう人生を歩んできたか、を克明に覚えている人は案外に少ないのではないかと思う。
そして、たぶんだが、松江市教育委員会のメンバーは「はだしのゲン」を少なくとも全10巻を読んではいなかったと思う。その某市民の陳情があったまでは「はだしのゲン」とは「原爆の被害を描いたマンガ」以外の認識はなかったに違いないのである。
なので、その某市民が間違った歴史認識、日本軍の蛮行のシーンといって具体的にそのページを見せたとき、驚いたはずである。(この某市民についてもネットで検索するといろいろ噂されているようだ)
朝のワイドショーでその「日本軍の蛮行」と呼ばれるコマが数秒あらわれた。
僕は、図書室でそのコマと思われるシーンに遭遇した。それは第10巻なのだが、しかし教育委員会が本当にやっかいだと思い、かつ各学校がその通達にしたがった本当の理由はその「日本軍の蛮行」というよりも、そのシーンをふくむエピソードそのものだったのではないかと思う。
そのエピソードというのは、ゲンが通っていた中学校の卒業式なのである。
ゲンの中学校はこの卒業式で「君が代」を生徒に歌わせるのだ。そして、ゲンは「君が代」を歌うことに反対するのである。そしてこれはどう考えてもこの戦争の責任者であるはずの天皇を崇拝する歌であると教師に対して抗議し、ついに君が代を歌わずに、かわりに生徒全員で「青い山脈」を歌う。
僕は、このようなエピソードがあることはすっかり失念していた。全10巻読んだつもりであったが、なまじ前半の描写が凄まじいだけに、後半のほうを忘却していたのである。
教育委員会が動揺したのはこの君が代拒否と天皇責任問題のところが最大の理由だったのではないかというのが僕の推測である。下手な抵抗をみせずに小中学校が従ったのもまたここが大きいのではないか。国が「とくに問題はない」とコメントしたのもここがあったからではないか。
小中学校の卒業式で君が代を歌う歌わないは極めてセンシティブなテーマで、多くのセンセイたちはできるだけ不問に穏便に済ませたいことだろう。
教師の個人的抵抗はあっても多くの公立の学校では君が代は歌われている。その学校の図書室に「君が代を歌わないマンガ」が配架されているということを、松江市教育委員会は、その市民の陳情で始めて知ったに違いない。
だが、これを理由に閉架処置を通達するとまた大騒ぎになることは火をみるよりも明らかであり、その変わりに理由にしたのが「日本軍の蛮行」である(これはこれでなかなかエグイのだが)。
以上は僕の勝手な推測である。
「はだしのゲン」というマンガはなかなか骨太で、単なる原爆憎しマンガではなく、戦争にまつわるもの全てふくめて、軍人から銃後の生活者まで国を問わず「戦争とはここまで人を狂わせる」ことを描いたマンガであった。いろいろ狂わされたゲンや仲間たちがアウトローな世界にもまれながら、それでも生きていかなければならなかったという、これがこの作品の底力である。
僕はこういうのが学校図書館にあってもいいと思う。
戦争はいけません、というテーゼは実にたやすい。「かわいそうなゾウ」から「ひめゆり」まで戦争の犠牲の話は学校の内外で触れる機会は多い。
だが、どちらが加害でどちらが被害とか、どちらが正しくどちらが正しくないとかではなく、清濁関係なくすべてをぐちゃぐちゃにしてしまう「戦争とはどれだけイヤなものか」をここまで克明に、しかも子どもにもわかるように描いた作品はやはりほかになかなかないだろうと思う。
異形の名作なのである。
中央モノローグ線 ・ 遠野モノがたり
小坂俊史
文藝別冊「全特集いしいひさいち」で、いしいひさいち氏が自ら“他に得難い”と評していた小坂俊史氏。そういえば「トーキョー博物誌」の日高トモキチ氏も「中央モノローグ線」のただ事でない具合を、自身のブログで語っていたことを思い出し、俄然興味を持って調べたのだが、「中央モノローグ線」はとっくに版元品切れ。やれやれと思っていたら、なぜか出張先の山形の本屋さんで発見、続編ともいえる「遠野モノがたり」とセットでゲットしたのであった。
とはいえ、しばしば“4コマの概念を破壊した”と評されるいしいひさいち氏その人が絶賛しているのが意外でもあった。かつてまんがタイムとかの4コマ誌で小坂氏の作品を読んだときはそれほどピンとはこなかったからである。
というわけで手にとった「中央モノローグ線」。なるほど読ませる。いわゆるナンセンスとかスラプスチックというものではなく、大笑いできるものでもなければ、時事ものでも最近はやりの日常系でもない。あえていえば、女性漫画家にみかける、自虐風のエッセイ4コマの遠縁と言えなくもないが、本作は紛れもないフィクションである。そういう意味で、4コマの地平をもうひとつ拡大した作品といえなくもない。
作品の内容としては、中央線のそれぞれの駅近辺に住んでいたり、職場を持つ年頃の女性を主人公にした日常と内省をタイトル通りモノローグで連ねたものである。それの何が面白い、と言われても困るのだが、なんというか、単館映画でもみているような感覚になる。
続編の遠野モノがたりは、中央モノローグ線の主役級の女性が中央線沿線を離れて遠野に引っ越してからの話である。こちらのほうがややルポめいて感じるのはなんだかんだで自分が首都圏に住むからだろうか。
モノローグという手法、内省的な世界観を4コマで体現したその新基軸はたしかに面白いが、「遠野モノがたり」が観察者的な立ち位置、あるいはエッセイ色が強め(とはいえ座敷わらしとか出てくるのだが)であるのに対し、「中央モノローグ線」が映画のように感じたというのは、やはり作者が、中央線が持つ群像劇の世界構造を見抜いたことにあろうと思う。もちろん作者自身が中野に数年住んでいたという経験知がもとになっていることが原点になっているのだろう。
中央線沿線の各駅というのはたしかにそれぞれブランドを持つ。それもどちらかというとサブカルチャーであり、そういう意味ではたしかに話題に事欠かない。90年代には三善里沙子著「中央線なヒト」という本もあったくらいである(イラストはなにをかくそう大田垣晴子!)。実際のところはそこまで極端ではなかったりもするのだが、なんとなく、高円寺とか、中野とか、荻窪とかに異空間な響きを感じるのは確かである。
こういった世界に対して「中央モノローグ線」では、それぞれの各駅にふさわしい登場人物が設定されている。中野に住むイラストレーター、高円寺に住む古着ショップの経営者、阿佐ヶ谷のOLに三鷹の女子高生に武蔵境の中学生。偏見承知で、中央線沿線になじんでいるとやはりなんとなく、中野のヒト、高円寺のヒト、荻窪のヒト、というとなんらかのパーソナリティを感じてしまうものである。
ちなみに、そういう中央線沿線の中で唯一のメジャーカルチャーともいえるのが吉祥寺である。なんとなく等身大なキャラが多い本作品の中で吉祥寺住人の祥子さんだけが、かっとんだ不条理キャラというのが面白い。(たぶん、作者にとって吉祥寺はいまいち肌があわなかったのだろうな)
ののちゃん --「吉川ロカ」シリーズ
いしいひさいち
いしいひさいちによる朝日新聞の4コマ連載「ののちゃん」を丹念に読んでいる人でないとわからないネタであるのだが、おととい(3月24日)、、2年越しの「連載」の最終回をむかえた。作者のサイトで作者本人がそうコメントしているのだから、最終回なのだろう。
この「吉川ロカ」シリーズというのはなにかというと、
10年前の海難事故で母親を亡くした高校生の吉川ロカは、ポルトガル歌謡のファドの歌手になることを夢見て、路上でライブ活動をやっていたところ、町で食堂を経営している一家が彼女の歌にほれ込み、平日うちでバイトをすれば、定休日に店をライブ会場にしていいと言ってくれ、ロカはこの一家の食堂「キクチ食堂」で働くことになる。学校ではどちらかというと浮き気味であったが、高校留年を繰り返す同級生が、引っ込み思案のロカに代わってマネージャー役を買って出て、地元のFMやレコード会社とわたりあい、さまざまな人間模様もあって、ついに高校卒業を目前にCDメジャーを果たす。
という青春ヒューマンストーリーである。
で、この話、何が特筆すべきかというと、上記のような話を、まるまる「ののちゃん」の中でやっていたのである。
「ののちゃん」というのは、20年以上朝日新聞で連載されている4コマまんがであり、いしいひさいち特有のシュールで破天荒でとにかく(ファンには)オモシロおかしい連載なのだが、当然1話完結型であり、そのベースはギャグである。日本人離れしたののちゃんのお母さん「まつ子」も、いつも二日酔いでやる気のない藤原先生も、いつもお茶をこぼすミヤケさんも、朝日新聞紙上において読売新聞最高トップをモデルにした「ワンマンマン」も、ギャグをベースにしていて、そこには人情とか心温まるエピソードとかそういうものは一切ない。それどころか、いっさい時事ネタを絡めないことも有名で、3.11の際も、これはもう鉄の意思で徹底して日常のギャグを描き続けた(「地球防衛家のヒトビト」と好対照をなしていた。もちろんどちらが良い悪いという話ではない)。20年にわたって登場人物は年をとらず(いつのまにかいなくなったキャラや、設定が変わったキャラはたくさんいるが)、永遠の中をののちゃんたちは怠惰に生きていた。
その中で2年ほど前に始まったのが、この吉川ロカなのだが、最初から異彩を放っていた。これだけが物語にストーリーをもち、毎回毎回のエピソードはオチがあることもあるが、ギャグとしてオチるのではなく、むしろヒューマニティとか、あるいは切なさ満点のまま4コマを終える回も少なくなく、そして吉川ロカとその周辺は連載の回を重ねるにしたがって年をとっていく。「ののちゃん」のレギュラー登場人物で、「吉川ロカシリーズ」にかかわるのは、キクチ食堂の面々くらいであって、そこだけ異空間のようであった(服装やアクセサリーの描写、さらには頭身も少し違っている)。こんな話が2週に1度くらいの割合で、「ののちゃん」に出てきていた。
で、いしいひさいち本人によれば、これは「連載内連載」だったのだそうだ。コメントの前後の文脈から推し量るに、一種の実験作だったようである。
4コマ新聞連載の中に、ある種の連続ものヒューマンストーリーを盛り込むのは、マンガ史においては必ずしもこれが初めてではない。アメリカで長期連載していた「ピーナッツ」(スヌーピーのこと)はたびたびそのようなエピソードを載せていたし、朝日新聞夕刊でかつて園山俊二が連載していた「ペエスケ」にもそういうエピソードはあった。だが、これらはみな短期に集中して行われたものであり、2年間にわたって、ちまちまと入れ込み、しかも本編のレギュレーションとあえて無視したシリーズ(まさしく「連載内連載」)というのはおそらく史上初である。
いしいひさいちという人は、僕が小学生の頃にはもう「がんばれタブチくん」とか「おじゃまんが山田くん」で一世を風靡していた。バイト君、忍者無芸帳、鏡の国の戦争など面白がって読んでいた。それから30年近いわけだが、いっこうにクオリティが衰えない。もう大御所なのに、連載をやたらに抱え、実験的試みをあいかわらず「ののちゃん」でしている。徹底した職人魂、4コマにかける情熱は世界一といって良いかもしれない。恐れ入るばかりである。
※追記 単行本「ROCAストーリーライブ」の感想もこちらに書きました。