われわれはなぜ嘘つきで自信過剰でお人好しなのか 進化心理学で読み解く、人類の驚くべき戦略
ウィリアム・フォン・ヒッペル 訳:濱野大道
ハーパーコリンズ・ジャパン
原題は「THE SOCIAL LEAP」である。直訳すると「社会的跳躍」となる。
翻訳本の中には原題のニュアンスに沿わない邦題をもつものが多く、本書も原題とはまるで異なる。原題のほうが人類史のスケールと奇蹟を感じさせる。では、この邦題がダメかというと実はそうでもなく、内容を端的に言い表してはいる。この「社会跳躍」とはどんな本かと問われると、たしかに回答としてはこの邦題ということになるのだ。
つまり、われわれ人類が、嘘をついたり、自信過剰になったり、お人好しになるのは、脳みそがそう働くからである。そして、なぜ脳みそがそう働くのかというと、20000年の人類史の中で、そうしたほうが生存確率が上がる時代が長く、そのように脳みそが最適化されたたから、というのが本書の主題である。
さらに、特にそのような心理を生んだのが本書よれば原題である「社会的跳躍」となったエポック、すなわちジャングルから離れて草原地帯に立ったとき、それから狩猟生活から農耕生活にシフトしたときであった。生活環境の激変の中で生き残らなければならなくなったとき、我々の心理において嘘をついたり、自信過剰になったり、お人好しになることが生存上有利になることが働いたのである。
要するにこの本は、ハラリの「サピエンス全史」の心理版と言えるだろう。
本書の仮説として面白いのは、人間が動物と異なるのは「社会の中で行動する」というところだ。いや、蜂だって狼だって猿だって「社会」なんではないかと問いたくなる。が、人間のそれが決定的に違うのは、ここに「駆け引き」が存在することだと本書は主張する。
つまり、集団の中で自分がいかに安全で得があるポジションをとるかというのを企てるのが人間の特徴なのである。
たとえば集団で狩りを行うとする。狩りは労力を使うし、危険も多い。したがって怠けたくなる。どうせ一人くらい抜けても多勢に影響はないし、個人的には楽で安全である。だが、もちろんこれは良くない結果を迎える。集団からはあいつは協力的でないとして獲物の分け前をもらえない。これはすなわち得ではない。
だからといって率先的に狩りの先頭にたつと、今度は危険である。したがってほどほどのところでほどほどの活躍にしようという気持ちがはたらく。ここに絶妙なバランスがある。
しかし、狩りの先頭に立つことは、自分は他人よりも「強い」ということを周囲に誇示することができる。仮にその人が「男」だとすると、そういう強い「男」は、「女」から「モテる」。「女」からすると、強い男のほうがDNAを継ぐ子孫の生存率が高いからである。その意味では少々危険でも狩りの先頭に立つことはDNA的には「得」になる。
では、体躯も筋肉も明らかに他と比べて劣った「男」はどうすればいいか。狩りの先頭に立つわけにはいかない。でもそんなポジションでは「モテない」。モテるかモテないかというのは「性淘汰」という観点で厳しい生存競争なのである。
そこでその小さな男は、狩りでは後塵を拝しても他の「男」の誰もができない罠づくりの技術を磨くことにした。その結果、彼は罠づくりの「専門家」として、集団から一定のリスペクトを集め、それなりに「モテる」ようになる。
ほかにも、力も指先の器用さも持ち合わせないけど、その人柄でやたらに他人から支援の手を差し伸べられるのもひとつの生存戦略である、いくら腕っぷしが強くても、他人に危害ばかり加えていれば、集団からは嫌われ疎まれ、ある日目覚めたときに自分ひとり荒野の真ん中に取り残されて仲間はみんな彼を見捨てることだってありえる。いくら彼が強くても、独りでは荒野では生きていけない。この、一人一人は弱くても徒党を組んで強いやつを駆逐するという連携プレーも人間に顕著なことらしい。
つまり、役割分担やなにがしかのヒエラルキーがある集団、しかもその中でポジションをめぐって生存をかけた相互の駆け引きがある。こんな集団の中でのかけひきをやる動物は人間の他にはない。
こういった人類史の中で、集団の中で自分はどう見えているかに対してのアンテナは敏感になり、それをつかさどる脳みそが発達していった。農耕社会になると、狩猟社会にくらべてより集団規模と役割分担が大掛かりになり、ますます社会の中でいかに立ち振る舞うかの生存戦略はシビアになっていった。
そうなってくると、より自分がまわりよりも優秀であるかを誇示するために嘘をついたり、あるいは自分を優秀と信じたいために自信過剰になっていたり、他人の好感を得ようとしてお人好しになっていったりもする。これらはもちろん行き過ぎると仲間から総スカンをくらって報復されるが、生存上有利になる一定の効果はあったのである。
これがわれわれがなぜぜ嘘つきで自信過剰でお人好しなのかの理由である。そのほうがモテて、安全で、余得のあることが多かったからなのだ。
こうしてみると、どの組織や地域にもいる「イヤなやつ」。嘘つきだったり傲慢だったりケチだったり他人を踏み台にするやつも、彼らなりの生存本能なんだなと思う。「社会」というからみんな規律正しくて合理的で公正的な動きと結果を期待されるが、人間の脳みそにとってはこの世の中は社会Societyではなく、20000年このかた世界Worldのままなのだ。生態系であり、生存競争なのだ。したがって誰もが自分と自分のDNAのための生存のために直接間接ウオの目タカの目で駆け引きをやっているのだと思うほうがよっぽどこの世の眺めとしてしっくりいくなという気がする。
反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー
ジェームズ・C・スコット 訳:立木勝
みすず書房
ハラリの「サピエンス全史」には、「農業革命」のことが出てくる。興味深いのは、狩猟文化から農耕文化に移行したことで、人間は不幸になったというものだ。労働時間は長くなり、摂取カロリーは減った。天災リスクも増えた、というものである。
それなのに、なぜ人間は農耕文化に移行したのか。最終的に誰が得したかという観点から逆算すると、ヒト遺伝子の存在が浮かび上がる。つまり農耕文化によって狩猟時代よりも人口増加度がふくれあがったからである(定住生活をすること、人手を要することから出生頻度が増えたのである)。ヒト遺伝子は子孫を増やすのに成功した、というわけだ。
おもしれーと思った。
その後、穀物遺伝子が、手先の器用なサルをうまく取り込んだのさという説もみた。この世界の覇者は穀物遺伝子説である。
というわけで、狩猟文化から農耕文化の移行は、かつてのマルクス主義的な進化論ではなく、もう少し複雑な事情があったのではないかというのが昨今の見立てである。
で、本書はタイトルの通り、まさにそこにフォーカスをあてたものだ。実にまことに知的興奮を味わえる本であった。
本書の前半は、狩猟文化から農耕文化に移行するための諸条件を考察するとともに、その結論として「みんながみんな農耕文化に一方的にうつったわけではない」と結論する。そう。狩猟文化を続けた人間も相当数いたのである。また、農耕文化に移行した人がその後ずっと農耕を続けたかというとそういうわけでもない。狩猟のほうに戻る力も多いに働くのである。初期の人類史は、農耕文化と狩猟採集文化は併存していたし、両方を組み合わせてやっていた人間も多かったし、農耕→狩猟にシフトした人間もいたのである。
そして、農耕文化と切っても切れない関係として「定住集団生活文化」というのがある。農耕と定住集団生活はニワトリとタマゴの関係だが、どちらが先だったのかは結論が出せないとした上で、しかし人類史として大きな影響を与えたこととして「定住集団生活」に注目している。
つまり、生態学的には不自然な人口密度で定住集団生活をするようになったことが、さまざまな影響を人類史に与えたのだった。
たとえば、狭い定住空間での集団の増加は、モノカルチャーの依存度を高めることを本書では示唆している。これが農耕依存度を助長させる。(穀物がもっとも施政者にとっては税管理をしやすいという指摘はおもしろい)。
結論としては、狭い空間における高い人口密度とモノカルチャーな農耕異存は、そのコミュニティの存続にとってはきわめてリスクが高いのである。著者は、初期の都市や国家はたびたび消滅や崩壊にさらされたとみている。疫病は流行りやすく、天災には弱く、労働はきつくて人々は荒野や森林地帯に逃げ出す。
したがって、「そもそも集団でモノカルチャー」なのが不自然なのだから、定住集団生活を捨てて荒野や森林地帯に分散して狩猟に戻るのはむしろ自然な流れではないかと著者は指摘する。狩猟→農耕の進化論は、農耕文化を善とする前提からくるバイアスでしかないのだ。「崩壊」という言い方にへんなミスリードがあるだけで、要はヒトは集まったり散ったりしていたのである。
また、はじめから狩猟採集で生活が十分に営める人は、好きこのんで農耕文化の集団に加わりはしない。それどころか農耕文化集団も、狩猟民からしてみれば狩猟の対象のひとつ、すなわち収奪の対象とみなすようになるのはまったく不自然ではない。
ということで、定住集団生活=都市には、収奪の力学が必然的に備わる。それは都市内における強制的な農耕労働とそこからの収奪(すなわち租税や賦役のこと。農業従事者の多くは蓋然的に「どこかから収奪されてきた人」になる)であり、そうやって積み上げられた収穫物や労働者は、都市外の狩猟採集民からの収奪の対象となる。
本書の後半は、この「収奪」にフォーカスし、農耕というよりは、そのような都市国家(自らを「文明人」と称す)と、その周辺に存在する狩猟採集民コミュニティ(都市国家からは「野蛮人」と称される)の関係性をみていく。破壊的な収奪はそれなりにエネルギーとリスクを伴うので、やがて「交易」や「取引(みかじめ料みたいなもの)」という手段がハバを利かすようになる。いつしか、あたかも共依存のように農耕民と狩猟採集民、「文明人」と「野蛮人」は相互関係しあっていくのだ。「野蛮人」も「文明人」が収奪の対象である以上「文明人」の存在なしでは生きていけなくなる。「文明人」は「野蛮人」と取引することで国家を維持できるようになる。
全書を通して示唆していることは、「農耕」が登場することによって「非農耕」すなわち狩猟採取文化が対の生活文化として浮上し、農耕と関連づく定住集団生活すなわち「都市国家」に対し、やはり対の関係として狩猟採取や牧畜による移動分散型生活の「野蛮人」が浮上することだ。すべては相対的というか、この生態学的な関係性こそが人類史の歩んできた道ということである。どちらにも脆弱性があり、どちらにも頑強性があって、相互に関連しあってポートフォリオとして人類史をつくってきたのである。
それにしても原書の初版は2017年。すでに「中国南東部、具体的には広東省が、新型の鳥インフルエンザや豚インフルエンザの世界最大の培養皿となってきたことも、さして驚きではない。あの地域にはホモ・サピエンス、ブタ、ニワトリ、ガチョウ、アヒル、そして世界の野生動物の市場がどこよりも大規模に、どこよりも高い密度で、しかも歴史的に集中してきた地域なのだ」と指摘していることは興味深い。
近世以降の人類史は、農耕文化と都市国家があまりにもハバを利かせているが、人類史の時間軸的には末端のほんのわずかな期間に過ぎない。本来的なフィードバックを考えると、都市人口集中のアンチテーゼとしての荒野への分散と狩猟採集文化の存在が必要という見方もできよう。コロナ禍によって、都市集中生活の脆弱性やデメリットがかなりクローズアップされている。都市を捨て、モノカルチャーに依存しないしたたかな狩猟採集文化、異動分散型生活の「野蛮人」視点も必要なのではないかと思う。「収奪」される側にだけはならないようにしたい。
クーデターの技術
クルツィオ・マラパルテ 訳:手塚和彰・鈴木純
中央公論新社
衝撃的なタイトルに思わず手にとってしまったが、そうとうに20世紀前半のヨーロッパ史に精通していないと読みこなせない内容だ。というのは著者マラパルテがヨーロッパの激動のさなかに経験し、その場で考察していることが書かれているからだ。つまり、その時代の空気をある程度知っているしかもそれなりに情勢に通じている人むけに書かれている。それもロシア革命、第1次世界大戦後のヨーロッパ、イタリアのファシズム台頭、そしてヒットラーの登場という、不穏なヨーロッパである。登場人物も各種勢力も僕にとってはあまりなじみがない。
とはいえ頑張って読んでいくと、タイトルにある「クーデターの技術」にはある種の法則性が確かにあるのは見て取れる。この本が書かれたのは1931年とのことだが、発刊当時において施政者側からも革命勢力側からも教科書にされたのは分かる気がする。いわばクーデターのケーススタディだ。そして21世紀現代において過去に行われた大小の「クーデター」のやり方というのを省みると、たしかにそうだなと思える。近代的なクーデターのやり方の元祖はトロツキーにあったのかなどと納得する。
①クーデターにおいてまず抑えるのは官邸とか宮城ではなく、電信局・発電所・交通上のジャンクション・放送局であるということ
②よって、まず必要な要因は軍隊的なものではなく、技術員であるということ
③決起までいっさい市内で目立つ示威行動はせず、水面下でコトは進行させる
④議会的(法律的)手続きと暴力的行為の両側面から進める
⑤「労働者」がキャスティングボードであるということ
興味深いのは、政権を転覆させて新しい政権を樹立させても、それを維持させるのはまた別のエネルギーがいるということだ。⑤の存在はそれをうかがわせる。
また、今日的社会においては⑥外部からの承認、というのも必要そうである。
1936年におこった2.26事件は、①③あたりはおさえたが、②の要員が不足し、④の事前工作をやっておらず、そして⑤の根回しもしていないということになる。
1996年にオウム真理教は地下鉄サリン事件というクーデターを起こそうとした。しかし上記の多くが守られていない。せいぜい③くらいではないか。放送局(TBS)と渡りをつけたり、④で国政に参加しようとして失敗はしている。むしろ状況証拠的には創価学会のほうがいいセン行っているようにに思う。(ていうか公明党がもう与党になっているではないか)。
で、これはクーデターを起こさせない、盤石な基盤をつくるための指針でもある。電力会社や放送局を抑え、表面上は平和裏を装い、実は議会だけでなく警察や軍隊もおさえ、国民の支持をとりつけておくのである。自民党というのはやっぱり狡猾なんだなあ。
歴史入門
フェルナン・ブローデル 訳:金塚貞文
中央公論新社
ウォーラーステインの近代世界システム論を追いかけるとブローデルに行き着く。大著「地中海」の存在は前から認識していて教養人必読書みたいに神格化されているのも知っている。しかし、現代なお、文庫化も電子書籍化もしておらず、大判で高価でしかも複数巻ものである。とてもモビリティに耐えられず、僕は未読である。実は第1巻だけ実家の書棚にあらせられたりするのだが、その質量の重厚感には手にとるだけで圧倒される。
そんなわけでウォーラーステインの近代世界システム論同様、ブローデルの歴史観についても浅い聞きかじりでしか知らない。歴史には長波と中波と短波がある。政治的な社会的な史事は「短波」に属し、とるにたらないつまらないものであって、人間社会の歴史をみるには地勢・環境・風土的要因である「長波」、そこでの人間の生活活動における「中波」を観なければならないーーーーというのだけはかろうじて何かから聞き及んでいたわけだが、ぼくのブローデルに関する知っていることといえばそれだけである。
そうしたら、中公文庫にブローデルから「歴史入門」という文庫本が出ていることを知った。「近代世界システム分析入門」に引き続きこちらも読んでみることにした。さいきん入門続きである。
で、読んでみて。
なるほど。ブローデルによると人間社会の3階層というのがさらにある。「物質社会」「経済社会」「資本主義社会」である。物質社会というのは生産と消費の社会、経済社会というのは分担と交換の社会である。ここで貨幣が意味を持ってくる。で、資本主義社会というのは経済社会の発展の末に登場するエージェント社会だ。エージェントというのは物事を支配するのである。
また、この本でも近代世界システム論の「中心」「半中心」「周縁」が出てくる。ウォーラーステインはブローデルの弟子(?)みたいな関係になるようだが、ブローデルの歴史観にもこの3層が出てくる。
したがって、歴史俯瞰としては
①時間軸としての「長波・中波・短波」
②社会軸としての「物質社会・経済社会・資本主義社会」
③依存関係軸でいうところの「中心・半中心・周縁」
という3つの次元があってそれの掛け合わせである。これで世界の歴史が俯瞰できちゃうのである。すごいなあ。
で、本当はそれぞれの軸について膨大な研究と著作があるわけで文庫本1冊で済むわけではないのだけれど、この「歴史入門」ではまずはその見取り図みたいなことを教えてくれる。なるほど「歴史入門」である。
訳者金塚氏による巻末の解説によると、時間軸「長波」に対応する社会軸が「物質社会」であり、「中波」に対応するのが「経済社会・資本主義社会」とのことだ。また「資本主義社会」が「中心・半中心・周縁」という共時型のシステムを強固にしたということである。
地中海都市国家からアムステルダムへ。それからロンドンへ。そしてニューヨークへと覇権の中心が移動し、今しばらくはニューヨークすなわちアメリカが覇権の時代ではあろう。とはいえ、しょせんは「中波」。また中心が移動する可能性は十二分にあるし、資本を生み出す元が何になるかも変わっていく。
この歴史観から思うのはやはり現代の中国だ。
いずれ必ずアメリカを抜くと言われる中国のGDP。金融や情報におけるハイテクの極みを中国は国家戦略的に進めていて、その最終的ねらいは世界を動かす「ドル通貨軸」からの解放、そして「元通貨軸」の成立である。中国は西洋諸国に比べて時間軸に対しての捕らえ方が長期スパンとされている。西洋諸国が10年単位でものごとの推移や段取りをとらえるとしたら中国は100年単位で決着をつけようとする(香港と中国本土の問題ももともとをたどるとこのあたりまで話が及ぶ)。本書によれば、中国は社会軸でいうところの経済社会で完結してしまって資本主義社会が発生しなかったことを指摘しているが、いまから見れば国家そのもの(中国共産党)が資本を蓄積して覇権に乗り出しているわけである。
それにしても、中学・高校時代の世界史という授業。ぼくはまったく興味が持てなかった。日本史の授業のほうが最近はやりのコトバでいうとナラティブ性があってがぜん面白かったのである。これは小学校時代にぼくが小学館のまんが日本の歴史全20巻を愛読していたからだ。(この小学館まんが日本の歴史は「ビリギャル」でもおすすめされていた良企画である)
世界史のほうが断片的で全体的な潮流がつかめず、僕にとっては暗記科目に堕してしまったのだった。まんが世界史というのも存在していたけれど、どうしてもエジプト・ギリシャ・ローマとエリアを渡り歩いたり、キリストが出てきたりと情報が散逸的になりやすく、物語に入りこむ機会がない。
ブローデルやウォーラ―ステインのようなイントロで歴史の授業に入ったら、世界史ももう少しおもしろくとっかかれたのかもしれないななどと思う。
入門 世界システム分析
著:イマニュエル・ウォーラーステイン 訳:山下範久
藤原書店
先月ウォーラーステインの訃報が流れた。まだ生きていたんだというのが正直な感想で、それくらい神話化された人物である。
ウォーラーステインといえば「近代世界システム論」である。これまで山川の世界史の教科書とか、河北稔氏の著作などでその片鱗には触れていたが、ちゃんとこの理論を俯瞰したことはなかった。というより、専門家でもないのにあんな重厚長大な研究を知ろうというのは無謀である。
ということでウォーラーステイン自身が晩年に記したという「入門」を読んでみることにした。
しかし「入門」とはいってもなかなか骨のある内容だ。じっくり読んでいけばそれほど難解なことは言っておらず、むしろ論理は明快なのだけれど、なまじ「入門」であるだけにすべての範囲にわたって概要が語られている。しかもすべてが伏線がはられているかのごとく関係してくるので油断できない。まさしく「システム」である。ここでこんな切り口の話がでてくるのは、あとでここにつながるためだったのかという具合である。だから本当は短時間で集中的に読破するほうがよいのだが、仕事や生活の合間合間にメモもとらずに読み進めたため、どこまで把握できたのかは正直いって自信がない。以下はそんな僕の覚書である。
「世界システム」というのは、地域の個別事情に根差した史事に拘るのではなく、この地球上の世界は大きなひとつの社会であると巨視的にみなし、その内部の力学の変遷・変容をとらえようとする世界観である。この見立ての背景には、世界の時空を、西洋・東洋・第3世界とみなす歴史学・東洋学・文化人類学というアカデミズムへの批判、さらにアメリカの世界戦略に利用されるアカデミズムへの批判などがある。ことアメリカにおける「開発論」、地域ごとの差異を段階論と見なし、「開発(development)」というビジョンで統合させたというウォーラーステイン氏の見解にはなんか納得するものがある。
「世界システム」はシステムだから、どんなに複雑怪奇で多種多様な人間社会の歴史においても、システムの根幹を成すひとつの原則に帰するように考察する。それが「生産活動」と「余剰の分配」である。本質的に人間社会というのは「生産活動」と「余剰の分配」が経済活動におけるもっともコアなのだ。社会単位もこれに準じて構成される(ここに「家計世帯」というくくりも出てくる)。
で、この経済活動が支配する社会での生存競争において必然的に帰結するのが「資本」を蓄積したものが勝つということである。
ではいかして「資本」は蓄積されるか。それは世界システムの中に存在する、あるエネルギー源を用いる。そのエネルギー源とは「差」である。
どの時空においても、水が上から下に必ず流れるように、不均衡とでもいうべき需要と供給の「差」があってこの傾斜をつかってモノ・カネ・ヒト・情報は流れていく。水力発電が水位の高低差を利用してタービンを回して発電するように、いずれの時空においても社会はこの「差」をつかって仕組みを維持しているのだ。近代世界システム論で最も有名な「中核」「半周辺」「周辺」という区分けは、この「差の仕組み」である。この「差」の維持と拡大と解消が、言わば作用と反作用が連鎖していくように推移して、これが歴史となる。よくしたもので、資本家が労働者から収奪しすぎると、労働者の購買力が衰えてモノが売れなくなり、資本家にとってダメージとなる。そこにフィードバックがある。これらをシステムと称す。この傾斜を最も有利に操ったものが「覇権(ヘゲモニー)」である。
「資本」をめぐるゲームにおいてやがて一つの方向に収斂されたのが近代における「国家」という枠組みであり、それを構成する「国民」というとらえかたである。これが近代世界システムである。主権とか国境とか植民地などの概念もここから派生する。「国家」や「国民」は地域や人民の線引きを現すから、ここに包摂と排他の概念も誕生する。
しかし、近代世界システムは永久機関ではないのである。システム内の「差」をエネルギー源として資本をつくりだす仕組みだから、エントロピーの法則と同じように最終的に「差」は均質化していく。廃棄物の処理、第1次原料の再生、インフラの整備維持を託せる空間、経済学でいうところの「外部コスト」を託せるところがこの世界から無くなっていく。そうすると動態は停滞する。
1968年の「世界革命」をひとつの目安として、近代世界システムは終焉にむかっているというのがウォーラーステインの見解である。つまり「差」が維持できなくなったということだ。また、これによって「国家」や「国民」から排他ないし軽視されてきた存在が主張を始める。
現状の世界は1968年以前のエネルギーの余熱で動いている、と言える。
日本においては「1968年」というのは歴史のメルクマールとしてはあまり意識されない。全共闘の大学紛争があったのがだいたいこのあたりだが、その後に社会の在り方が変わったかというとそんな手ごたえもなく、高度経済成長は続いていたので歴史認識としては目立っていない。経済史的には石油ショックのあった1973年なんかのほうが大きくとりあげられる。
しかし、1968年というのは、世界各地において「国家」や「国民」という枠組みに関係なく、いわば「100匹目の猿」のように同時多発的に同じようなイデオロギーが吹き荒れた節目であった。脱国家主義・脱資本主義・脱家父長主義とでもいうべきものだ。人種や民族差別の撤廃、性差別の撤廃、年齢主義の撤廃、地域差別の撤廃という、言わば今につながるSDGsの原点みたいなものがここで登場する。不均衡な「差」の中で役割を固定化されていた者たちである。
ただし、現代の世界は本当に「近代世界システム」の余熱で動いているだけなのかどうかは議論を要する。そもそも「世界システム論」もこの世の中の「見立て」に過ぎないといえばそこまでであるし、今日的には「世界システム論」は旗色が悪いという解説を読んだこともある。
ただまあ、ウォーラーステインの説を是としたとしても、「近代」世界システムをという資本を媒介としたゲームがたそがれているだけで、「世界システム」そのものは存在し続けると言える。この地球に生きる人間の数は近々100億人に達すると言われている。そしてこの100億人の生命を維持し、生存していくためには「生産」と「余剰の分配」はなくならない。「近代」はこれを司るのが資本というものだった。そうすると人間社会は今度は何を「差」としてエネルギー源にするのだろうか。
教養としての世界史の学び方
山下範久 編著
東洋経済新報社
本書は大学初年次の学生にむけての「世界史のリテラシー」を身に着けるための本とのことだが、なかなか骨のある内容だった。「大学初年次」ではなかなか難しいかもなあ。とくに後半部分。国公立大学やセンター試験の受験科目で「世界史」をとった人ならばなんとなく言わんとすることはわかる、くらいかもしれない。
本書の主旨は、世に流通している「世界史」の多くは「西洋史観」であるということへの批判と検証だ。「西洋史観」というのは、日本も含むアジアは西洋すなわちヨーロッパと相対的に位置するものとして認識され、評価されているということである。これが意味するのは、スタンダードなのはヨーロッパの歴史の歩み方であり、それとは違うアジアの歴史は「遅れている」とか「亜流のもの」という見立てである。これは偏った世界の歴史のとらえ方であることを本書は指摘する。
もっとも、世界史の見立てが西洋史観に毒されたものだという指摘は、決して目新しいものではない。近代以後の思想界におけるメインストリートのひとつといってもいいくらいだ。
にもかかわらず、文部科学省が認定する中学や高校の世界史の教科書はヨーロッパ史が中心である。
文明の登場こそ四大文明から始まるが、その後はおおむねヨーロッパを中心とした歴史が記述され、大航海時代になってアジアやアフリカに進出していく。やがてアメリカ大陸への移住となる。第一次世界大戦後にロシア革命がおきて、共産主義のソビエト連邦が成立し、第二次世界大戦が終わると米ソによる東西冷戦という形をとるようになってヨーロッパの影はうすくなるが、これも経緯を逆算するとヨーロッパに端を発しているわけで、世界史というのはヨーロッパを軸に語ると整理できるという編集方針になっている。
厳密に言うとは中国の歴史については別途ページを割いている。近代以前においては中国の歴史は、ヨーロッパの歴史とは別章として編集され、シルクロードなどの相互影響については部分的にしか触れられない。近代以降は列強によって進出、支配、抵抗という歴史として描かれる。つまり、中国は欧州とは別途独立した歴史を歩んでいたが近代に入って欧州に飲みこまれたという流れとなる。
ざっくり言うと、ヨーロッパのセオリーがいかに独自文化を持っていたアジアやアメリカに波及し、現地の抵抗や変容のすえ、ついには現代のグローバルスタンダードになったかというのが教科書のメインストーリーである。
近代以降のヨーロッパ、アジア、アフリカ、南米アメリカ、オーストラリアもふくめた歴史の流れをどうつかむことが適切か、ヨーロッパを中軸とした見方で本当によいのか、さらにはそういった世界の動きに日本はどう位置付けるべきかなども含め、世界史をどう学ぶかについての文科省学習指導要綱は、2022年度に「歴史総合」として大改訂されることが決定している。「歴史総合」の中には「日本史」も含まれる。
ややいまさら感があるとはいえ、このことは評価されていいと思う。
他の国ではどうなっているのかわからないが、現時点での日本における中学と高校の社会科は、「日本史」「世界史」「地理」「公民」と分かれている。科目が別だから教科書も別であり、多くは指導教員も別であり、それぞれに何単位必要かということが文科省から指定されている。
しかし、この4科目は相互に関連している。それどころか、関連している接点こそが実はこの社会を知る上で肝要だと思うが、大学受験の事情などからどうしてもそれぞれごとにバーチカルに学びがちだ。2022年度の「歴史総合」によって、近代史以降の世界史と日本史が共通化するのはいいことだと思うが、ぼくは「地理」と「世界史」も分かちがたく結びついていると考えており、中学や高校の時点でこの観点を持っておくことも大事なのではないかと思う。地理的な気候風土が歴史に与える影響はバカにならない。梅棹忠夫の文明の生態史観などもうだいぶ古い仮説になってしまったが現在でも一定の説得力があるし、直観的にわかりやすいからか中学生に説明すると目を輝かす。
また「世界史」における各国の行動原理には「公民」で扱う「倫理」が大きく関係している。そもそも「西洋史観」の正体とは、ヨーロッパにはびこった「西洋倫理」にほかならない。ここらへんのダイナミズムも学生のうちに是非知ってほしいところである。
つまり「社会」という科目の領域をメタで眺める目線である。
小学校までは「社会」の名で統一され、具体的にはそのなかで地理的なテーマと日本史的なテーマが扱われる。これが中学生以降になると科目ごとに細分化していく。だけれど、中学や高校でも、日本史ー世界史ー地理ー公民を俯瞰するような科目があれば、この「社会」を見つめるリテラシーはだいぶ深みが増すのではないかと思うのである。個別の「日本史」「世界史」「地理」「公民」についても理解が早くなると思う。
オトナになって池上彰の解説でそうだったのかと目ウロコするのはもったいない。
世界システム論講義 ヨーロッパと近代世界
川北稔
筑摩書房
山川出版社の「もう一度読む山川世界史現代編」は、「世界システム論」に準拠した見立てになっている。
「世界システム論」というのは、アメリカの歴史社会学者ウォーラーステインが提唱した歴史観で、とくに近代以降の西洋史を、英仏を中心とした中核地域・半周辺地域・周辺地域と3層に区分した相互作用による歴史とみる史観である。
従来の史観は国ごとや地域ごとにそれぞれの速度で歴史の歩みがあるとしていた。たとえば、国は開発後進国→発展途上国→工業先進国と成長していくものであり、イギリスが先進的でインドが後進的だったのは、イギリスのほうが歩みが速かったからであり、インドもいずれ先進国に仲間入りするというのが従来の歴史観である。
それに対し、「世界システム論」では、イギリスが先進的になるためにインドは後進的でならねばならなかった、あるいはインドが後進的だったのはイギリスが先進的だったからだ、という見立てになる。つまりイギリスとインドは同時に先進的になることはできなかった、という解釈である。
ちょっとでも世界史をかじった者なら、世界システム論は自明の理なのかもしれないが、僕がこれを知ったのはずいぶん最近のこと、つまり「もう一度読む山川世界史現代編」を読んだからなのであって、なるほどなあと納得したのだった。
というわけで、「世界システム論」についてもう少し知ってみたいと思ったのだが、本家のウォーラーステインのは分量も多く、とても手におえそうな気がしない。もともと僕は日本史ばっかり好きで、世界史はほとんど触らなかったのである。
そんなところを書店にてちくま学芸文庫になった本書を見つけた。放送大学用のテキストをアレンジしたものとのことなので手ごろだと思い、購入した次第である。
本書のグレードは、情報の深度という点では「もう一度読む山川世界史現代編」と同レベルと感じたが、いろいろな角度から要領よくまとめられているのでわかりやすかった。
たしかに紅茶に砂糖を入れて飲む「イギリス式紅茶の飲み方」は、世界システムで中核を成した大英帝国ならではの荒業なのであった(茶はアジア、砂糖は中米のもの)。また、イギリスの前にオランダがその地位にあったこと、産業革命がイギリスでは興ったのにフランスでは市民革命のほうに至ってしまったのはなぜかというと民衆への重税「感」の違いがあったということ、アメリカへの移民はピューリタンなのではなくてアイルランドやイギリスのを食い詰めた人が流れ込んだなど、世界システムゆえの因果でもろもろ起こったというのは、単純視しすぎるのは危険だとは思うが、それなりに説得力がある。
そして、イギリスの産業革命が逆にすぐに技術革新の頭打ちになり(労働者に事欠かなかったので生産性を挙げる必要がなかった)、アメリカが資源のわりに労働者数が少ないためにひとりあたりの生産性を挙げざるをえず、技術革新に至ったなんて説も、歴史の教訓を感じさせる。抑制のあるところに進化の芽は生まれる。
歴史観というのは複合的に見ていかなければならないし、なんでも単純視してしまうと危険思想や原理主義に陥りやすいから気をつけなければならないわけだけど、それを承知の上で思うことは、世界システムすなわち誰かの繁栄は誰かの犠牲の上で成り立つというのはじつに頑強な方程式である。
したがって犠牲者がいなくなれば繁栄者もいなくなる。犠牲者の数が足りなければ、繁栄者同士の争奪となる。また、いちど犠牲者の地位に組み込まれるとそこからなかなか繁栄者のほうには入れない。それこそ革命的なエネルギーを必要とする。しかも、犠牲者の地位に甘んじてしまうとその後遺症はかなり後まで残る。もしかしたら永遠に消えないかもしれない。現在のアフリカの状況をみるに本当にそう思う。
一方でアヘン戦争で列強に踏み荒らされた中国がGDP世界第2位に返り咲くまで150年。これを長いとみるか短いとみるかは意見がわかれそうだが、ヘゲモニー国家がいよいよ中国になろうとしているとき、日本が中国にとて「辺境」の地位に引きずり込まれることだけは何としても阻止したいものである。
もういちど読む山川日本戦後史
老川慶喜
山川出版社
歴史に「もしも・・」は意味のない考え、というのは百も承知だが、しかしこのたびのイギリスのEU離脱はいろいろ思わずにはいられない。
・・もしも、投票日の午後、エリート層が多く住むといわれたロンドン界隈に土砂降りの大雨が降らなかったら(家を出れないくらい凄まじかったらしい)。
・・もしも、前日に「残留派優勢」という報道がされていなかったら。(あれで残留派に油断、離脱派に危機感が生まれた)
・・もしも、スコットランド独立の住民投票というものを体験していなかったら。(住民直接投票のカタルシスをあれで覚えたのは確かだ)
このさき、スコットランドが独立するのか、ギリシャがEUから離脱するのか、勢いかってアメリカ大統領選でトランプ氏が勢いをますのか。そしてグローバル経済はリーマンショック以来の衝撃をうけるのか。それにしても安倍政権が消費税増税を延期しておいたのは僥倖と言わざるを得ない。
そんなわけで、戦後日本史である。
戦後日本史にもいくつか「もしも・・」と言いたくなるようないくつかがある。もちろん、阪神大震災や東日本大震災が起きなければなどとも思うのだが、政治経済史をふりかえると、
・朝鮮戦争が起こらなかったら。あるいは起きたとしてもあんなに激戦にならなければ。(GHQの日本政策方針の大転換)
・田中角栄が総理大臣にならなかったら。(列島改造論)
・橋本龍太郎時代の自民党が選挙制度改革で分裂しなければ。(小選挙区制の導入)
あたりは思考実験として面白いと思う。
ただ、戦後の日本の政治経済を根底で支えていたものは「原子力エネルギー」と「低い社会保障費」だ。
前者はアメリカの後押しもあって、おそるおそる動かしてみたところ、案外うまくいって、その後の放射性廃棄物をどうするかとかはとりあえずフタをしてしまい、次々と原子力発電所がつくられた。極東のエネルギー自給率3%の島国が、世界有数の工業生産国になったのはこれのおかげである。2011年3月11日まで大きなアクシデントはなかったのだ。
そして社会保障費。日本の社会保障が低かったのは、「社会保障を必要とする人口がそれほど多くなかった」「そのぶん企業の給料がよかった」から、である。前者はつまり高齢者層のことであり、後者は「その分まで見越した給与」ということだ。
この給料の安定性は、終身雇用や企業内組合といった日本式経営文化をつくったし、これが「お父さんが家族全員分の生活費を稼ぐ」モデルとなった。お父さんが残業常連で働いている間、家のことは専業主婦の領域になった。子育ても介護もだ。しかも年金は賦課制度、つまり「次の世代が負担する」である。上の世代の生活コストを負担するのである。
これは当時の人口ピラミッドのカタチでの発想である。日本の社会保障制度は、当時の人口ピラミッドモデルでつくられている。
しかし、経済成長が80年代後半についにバブルという形で終わり、雇用や給与の安定性に陰りが出て、そのうちに「超・少子高齢化」という「低い社会保障費」をやっていく上ではあまりにも世代別人口の割合がそれを支えられないようになってきた。そしてついに3.11で原子力エネルギーも禁じ手になった。再稼働はされ始めているが、もはや新造はできないだろう。
原子力エネルギーの問題も大きいが、なんといっても超・少子高齢化は大問題である。世界の中でも最速のスピードで突き進む日本の超・少子高齢化は、高齢者の寿命が延びていることによる医療福祉の負担増に注目が集まりやすいが、長期的にヤバいのは、子どもの数が激減していることだ。
子どもの数が減るということは、これからの長期に渡って生産人口が減るということだ。究極的には日本という国は自国民だけでは成り立たなくなる。自国民で生産人口を賄えないのなら、移民に頼るしかない。
移民の受け入れも国の有識者で検討が始まっているらしいが、先のEUの例のように、移民は移民でまた日本人の経験したことがないさまざまな課題をつきつけてくるだろう。
だが、改めて日本の戦後史を思うと、「子どもをつくりたくなくなる」歴史なのである。
戦後の日本がつくろうとしていた社会は、子どもの面倒をみる人が少なくなるように力学が働く歴史であり、子どもを(何人も)生んで面倒をみることのメリットがみつけにくい(社会を生きていく上で優先されにくい)歴史なのである。
なぜ子どもを産まないか、と問われれば「あなたがそうさせたのでしょう」と国にいいたくなる歴史である。
日本の戦後史は、経済成長を第一に置いた戦後史だ。(軍事第一でも王制第一でもイデオロギー第一なかったことは良しと言えるだろう。ここは大事なところである)。また、戦後の貧困にあえぎ、そこから抜け出すためになりふり構わず働かなくてはならなかったのも事実であり、国も何がなんでも経済をまわさなければならなかった。それこそが正義だった。
だから、経済成長第一主義は必然的な結実ではある。しかも内戦もクーデターも起こらず、それを全うできたのだ。
そして経済成長主義という「うんと働いてうんと稼いでうんと使う」循環をもって第一となす社会と生き方が、高度成長期を経ているあいだに、まるでそれ以外になにがあるかのように定着してしまった(長じて、働かずに投資と運用で稼ぐようになってしまったが)。
ところが、この経済循環をぐるぐるまわしていくことをもって至上とすると、この中に「子どもを生み、子どもを育てる」ことの価値観が入りにくくなるのだ。女性の社会進出と晩婚化、男性側の経済力確保(そのための残業常連的な働き方要請)、養育費の増大(むかしと比べて「いい加減」に育てられなくなった)。こういったものが経済循環の中で、「短期的には経済的成果の見えにくい」子育て関係は、政策においても企業経営においても、はたまた個人のキャリアプランの中でも後回しにされるようになった。
子どもを育てるところの規範や美意識だけが戦前と変わらず、あとは戦後の経済成長主義の中で、万事において子育ての優先順位が後回しの社会になっていくのは必然ともいえる。
つまり、「原子力エネルギー」も「低い社会保障費」も担保できないなか、生産人口がどんどん減っていくのがこれからの日本である。
そんな日本の国政も、原則的には選挙を通じた議会制民主主義で行われる。
しかし、超少子高齢化の人口バランスにおける議会制民主主義ってどんなもんだろう。
日本も「世代間闘争」が広がりつつある(「家の近所に保育園ができる」問題もそのひとつ)。18才から選挙権が認められるようになったのも、肥大化する高齢層へのバランスを考慮してのことだが、ほとんど焼け石に水である。イギリスのEUに関しての国民投票もそうだが、「残っている未来は少ないのに、数だけはやたら多い」年代が、数の論理で選挙を行うのはたいへん危険であることにほんと気をつけてほしい。