アーティストのためのハンドブック 制作につきまとう不安との付き合い方
デイヴィッド・ベイルズ テッド・オーランド 訳:野崎武夫
フィルムアート社
この本はアーティストの自己啓発書とでもいうべきものである。アーティストーー画家であれ、音楽家であれ、写真家であれ、パフォーマーであれ、その他ジャンルによらない何であれ、芸術家を自称する人が幸福に生きるための心構えを説いている。”幸福”というのがポイントで、”社会的成功”するための指南書ではない。
つまり、金銭的成功や社会的名声はあくまで”場合によっては最終的に副産物としてついてくる”ものであり、そんなものとは縁がないままに一生を終わるアーティストは多い。本人の死後に名声を得る例も多いが、生前も死後も無名のままにおわるアーティストはもっと多い。
さらにもっと多いのは、芽が出ず、社会的な評価もされず、無視され続けた結果、アート活動を辞めてしまうという場合だろう。アート活動を辞めてしまった人はもはやアーティストではない。(本書でも出てくるが、社会的に猛烈な批判を浴びるアーティストは、黙殺されるよりもはるかに「アート」している)。
本書は、そんな挫折感に苛まされそうなアーティスト、それに怯えるアーティストのための本と言えよう。金銭的成功や社会的名声にたどり着くよりもずっとずっと手前のところの心構え。つまり「アーティストでい続ける」ための本である。
そのココロは、究極的には「自分の制作プロセスを信じ、とにかく取り組み続ける」ということに尽きる。
アートというのは制作物そのものだけれど、それをアート足らしめているのは制作の過程(プロセス)そのものにある。したがって制作の過程にウソがない限り、制作物はアートだし、制作の担い手はアーティストなのだ。なにやら禅問答のようだけれど、本書の強調はほとんどこれである。それもひとつの作品の制作過程に限らない。ひとつの作品すなわち制作物は次につくる制作物の礎になり、次につくる制作物はそのまた次につくる制作物の糧になる。あのときの失敗作はつぎの作品に経験値として取り込まれ、若いころに次々と場当たり的に手を出した技法は将来においてなんらかのかたちで収斂し、本人さえ気づかないところでカタチに現れていたりする。制作のプロセスに無駄な回り道も余計な寄り道もない。だから大事なのは途中で挫折したり諦めたりせず、作品を制作し続けるということなのである。
そして、そのとき制作している作品というのは、決して理想的なゴール像が掲げてあってそこをめがけて逆算して制作プロセスを算段して着手するーーつまりビルを建てる工程表とプロジェクトマネジメントのようなものでもない。なんとなくあいまいなままの見切り発車、成り行き任せなのである。つくっている最中にいろいろ思い至ることがあったり、考えを変えたりすることもある。どこがゴールなのかもわからない。むしろアートに「完成」や「完璧」はない。そのプロセス自体がアートなのだ。アートとはプロセスなのである。とにかく中断せずに手を動かし、ひたすらその中で手探りしながら次に進む。どうしてもその作品が前に進まなくなったら、また新しい次の作品に挑む。
しかし、そんな見切り発車で本当にいいのか。いいのである。そのとき、自分が何の衝動や誘惑に駆られて着手したのか。ここにウソがなければよい。
その誘惑の誘い手は何か。「ウソ」のない着手とは何か。
それはアーティスト本人がかかえるところの社会性、時代性ということと、アーティスト本人が固有に抱える感受性とでもいったことになる。こう書くとなんだかよくわからないが、自分のよく知らないことはアートにできないということだ。自分の知らない社会、時代、あるいは誰にでも通用しそうな普遍的な美をモチーフにしたところで、理屈っぽくなったり頭でっかちになったり借り物のままになったりしたままであり、そんな制作はけっきょく長続きしないということだ。長続きしなければプロセスが続行できないから、アーティストを続けられない。アーティストを続けるためには何がなくとも「自分がよく知っていること」「自分がよく感じること」をモチーフにし、方法論にしていく(これが転じて習慣となり、さらには芸風となる)ということなのである。
自分がよく知っていること、よく感じることを信じて、ひたすら作品を作り続ける。これがアーティストでい続けられるための秘訣なのだ。
ところで僕はアーティストであったことはこの人生で一度もない。普通の大学を出て普通の企業でデスクワークをする会社員である。業務においてデザインとかクリエーティブとかいうものとかにもほとんど縁がない。
そんな会社員にとって本書は敷衍できる本かというと、それもけっこう微妙である。この本はやっぱりアーティストのための本だと思う。僕がこの本を手にしたのはどちらかというと厚顔無恥、傲岸不遜なアーティストかぶれの人間に最近手を焼くことが多く、彼らのインサイトを得ようと思ったからなのだが、彼らのコンプレックスを垣間見たようには思う。本書はアーティストに広く支持された本なのだそうである。
それにしても翻訳が生硬というか、英語の教科書の直訳みたいで頭に入りにくいのが弱点。訳者のあとがきにはスタバで90分で読める本と書いてあるがそれは無茶である。
ドビュッシーはワインを美味にするか? 音楽の心理学
ジョン・パウエル 訳:濱野大道
早川書房
ずいぶん以前だが、モーツァルトを聴くとアタマがよくなるという都市伝説が出回った。
それで胎教とか、勉強のBGMとかでモーツァルトがやたらに担ぎ出された。
本書によるとべつにモーツァルトでなくてもよいそうである。
つまり、自分の気分があがるものならば他の作曲家でもよいし、ロックやポップスでもよい。それどころか落語や朗読でもよいということだ。
ただ、脳生理学的には、作業効率を高める、つまり脳みそがそれなりにやる気と集中力を出す分泌物を輩出するには「長調の音階を持っていて高めのピッチのメロディ」であることと、「比較的はやい速度のメロディ」があるとよいらしい。前者は気分を前向きにし、後者はアッパーとでも言おうか覚醒の効果がある。
確かにモーツァルトにはこの両者の条件がそろっている曲が多い。しかしそうでない曲もあるので(有名な交響曲40番や「レクイエム」など)、モーツァルトならばすべて作業効率がよくなるわけでもない。
そもそも西洋音楽の音階であるドレミファソラシド(平均律)になじんでいない人だと妙に聞こえてしまって落ち着かないだろう(民俗音楽や古楽にはドレミファソラシドとピッチが異なるものもある)。平安時代の日本人にモーツァルトを聴かせてもけったいな音の戯れ以外の何物でもなかっただろう。
いずれにせよ、大方のヒトは音楽が好きである。もちろん個人の好きレベルは様々であり、さして興味のない人も多いに違いないが、人間というものは生理学的には音楽に心地よさをもつベースがあるらしい。それは世界中のどの民族にも音楽らしきものがあるし、古代の遺跡や遺物からも楽器らしきものが発見されるからだ。本書はダーウィンの進化論を引用しており、「特定の活動が非常に古くから広く普及しているとすれば、その活動が種の生存にとって役立つものだったから」という観点から音楽は人類の生存に好ましい影響を与えたものだったにちがいないと推測する。
気分の覚醒だけでなく、ストレス解消とか、仲間内の団結力の向上とか、音楽にはさまざまな力がある。音楽を構成するメロディ、リズム、ハーモニーにその力が隠されていることを本書は説いているがたぶん因果関係は逆で、古代の人類社会には、気分を高めたり落ち着かせたりする必要が先にあって、音をつかってそれを行うことでメロディ、リズム、ハーモニーにあたるものが徐々に方法として確立していったということなのだろう。
結果として音楽をたしなむ人は人間社会の機敏に敏感になるとも言える。また、そういう繊細な人がいい音楽をやるというのも納得しやすい。本書によれば音楽の訓練を受けた人は、受けていない人よりも「他者が表現する感情の機敏をみきわめるのがほかの人よりもやや得意」「言語能力のテストにおける成績がいい」「語彙を覚えるスピードが速い」「視空間能力に優れている」のだそうである。
なお、今も昔も日本はピアノを習う子どもが多い。その上達はまちまちである。楽器の演奏や上達には人によって「才能」の差があるかないか。本書の研究結果によると”ほんの一部の天才”を除けばさして差はないとのことである。上達はすなわち「練習時間」に比例する。もし、才能やセンスというものが関係あるとすればどうやらここがポイントらしく、”長時間の練習に耐えるセンス、集中力”こそが才能の正体ということである。楽器演奏に限らず、すべてに通用しそうな話だ。
また、かなりの腕前に上達した人に共通するのは「初めについた先生はとにかく楽しくフレンドリー」「次についた先生は厳しくとも技術を会得させるスキルがある人」なのだそうである。ここらあたりも習い事全般、あるいは学業全般、新入社員の教育なんかも含めてなんだか納得するものがある。
なぜ、世界のエリートはどんなに忙しくても美術館に行くのか?
岡崎大輔
SBクリエイティブ
さいきん、ビジネス本の領域でアートのことに触れたものが次々刊行されている。つまり、エリートビジネスマンたるものアートの素養が無くてはダメなのだ、という問題提起である。
そのためか、美術館にスーツ姿の人が増えたとか、そのために混んできてしまい、もともとの美術ファンから「にわか」などと毛嫌いされているとか、そんな話も聞く。
アートと言っても当初は主に絵画関係のことを指していたが、その余勢を買って最近はクラシック音楽についてのビジネスマン向けの本も出るようになった。AI隆盛の今日、人間様の最後の砦がアートということなんだろうか。
幸いにも僕は中学生のころからクラシック音楽が好きで、クラシック音楽が好きだと自動的に西洋芸術全般に興味が広がりやすい。絵画と音楽は芸術史的には連動していることが多いし、いずれも人間の表現行為だから、絵画にも音楽にも、保守と革新、王道と邪道、若書きと老境、破壊と創造がある。
なんて言っちゃってるけれど、大学生のときに一生懸命背伸びしたというのが本当のところである。クラシック音楽が好きだったのは本当だけれど絵画方面はさっぱりであった。モネとルノワールの違いもわからなかった。大学生になってできた異性の友人がアート関係に関心を持っている人間で、見くびられたくなくて僕は一生懸命美術史の本を読んでみたり(美術出版社から出ていた「抽象美術入門」「現代美術入門」「世界デザイン史」を虎の巻にしていた。印刷はきれいだがお値段は学生にはなかなか優しくなかった)、都内の美術館に通ってみたりしたのだった。所蔵品が良いというので青春18きっぷで富山県立近代美術館や滋賀近代美術館に繰り出してもみた。若いって大事だ。
その子とは残念ながらそれ以上の関係にはなれなかった(今でも立ち直れない・・)のだが、でもあのとき無理しておいてよかったと思う。エリートビジネスマンかどうかはおいといて、たしかにアートの会話をナチュラルにできる人とできない人では、人としての面白さが全然違う、というのが社会人になって二十年以上も経ったいまは経験的にわかってきている。アートの話題というのは人を試すところがあって、むこうからさりげなくふってくることもある。いちおう僕も切り返すと相手はおっという顔をする。当時の彼女に感謝しなければなるまい。
最近奨励されているのが、画家の名前や背景など、付帯情報がなくてもその作品を読み取るVTSと呼ばれる手法である。製作者が画面上に投げかけたなぞなぞを解くような鑑賞方法はルネサンスから現代まで通用する。
それはそれで大事な審美眼だと思うけれど、けれどやっぱり付帯情報があるほうが美術鑑賞は楽しい。美術館の音声ガイドのような細かい情報まで勉強するのは大変だけれど、「国」と「時代」をおさえておくだけでもだいぶ違う。これくらいの情報はふつうの美術館であれば案内プレートに書いてある。「国」と「時代」の手がかりさえあれば、たとえそれが知らない作者のものだろうといろいろ想像できることが広がるし(たいへんだったんだろうなあ、とかそんな作者の心情に心よせることもできる)、過去に別の美術館でみた同時代の作品や、同国の作品との相違を思い出したりし、それこそ世界史や他の分野の芸術史との連動も相まって自分のデータベースも充実してくる。
ということなので、今でも西洋美術についてはルネッサンスから現代アートまでとりあえず大丈夫というか、まあ最低限の鑑賞や会話はできると思っているが、さてまったく音痴なのが東洋美術である。彫像も陶芸も書画もさっぱりだ。海外の流派だけ勉強しておいて足元の自国の文化についてないがしろにしてきたわけで右の人から怒られること必至だ。そんなだから楽天もセブンドットコムも使わずにGAFAのカモにされちゃうんだ、と今さら反省。
ピカソになりきった男
著:ギィ・リブ 訳:鳥取絹子
キノブックス
著者は、近代絵画の多くの贋作を描いてきた画家である。シャガール、ブラック、ドラクロワ、ミロ、フジタ、デフォー、ピカソ・・
贋作といっても、オリジナルの絵があってそれを模写するタイプの贋作ではない。実はこのタイプの贋作は非常に犯罪効率が悪いのである。なにしろ同じ絵がもう1枚あるのだから、必ずどちらかが偽物ということになるし、そうなれば鑑定家も黙っていない。
作者が手掛けた「贋作」というのは、本来の画家が持つ、つまりシャガールやピカソが持つ画風で完全な新作を描くのである。つまり「未発見の作品」となるわけだ。
しかも一人だけの画家の画風を徹底的に追求するのではなく、まったく画風の違う何人もの画風を同時並行でこなすというところが、作者の腕の凄いところといえるだろう。
したがって、彼の手による「新作」は、ディーラーや鑑定家の目をパスし、美術館や画集にまで登場したらしい。本書によれば、彼が描いたシャガールやピカソの写真は1枚もないということだが、インターネットで検索したらいくつか出てきた。これらを一人の人間が描き分けたのだとすればやっぱりすごい。
そんな作者もついには警察の御用となって足を洗い、そしてこんな手記を書いたわけだ。
本書を読んで思ったことはふたつある。
ひとつは、アート市場というのはけっこういいかげん、というかうさんくさいものなんだなということだ。
そもそも美術品の相場というのはかなりオカルトといってよい。ピカソの絵1枚にウン十億円というなんであんな高額な金額がつくかといえば、けっきょく売り手と買い手のチキンレースがその金額をはじきだす、ということに尽きる。その金額で買ってしまう人がいるからそれが相場となる。
じゃあ、その買い手はなににそんな超大金を支払っているのか。それはしばしば指摘されるように「ピカソ」というブランドへの大枚である。かりに実はその絵がピカソではなくて、そこらへんの小学生が実は書いたものだ、と種明かしをしたらその絵にウン十億円出すかといえば、出さないだろう。絵は全く変わっていないのに。
ところが、画家の名前をふせておいて「この絵にいくら出す?」とやっても絶っっ対にウン十億は出さない。どんなに目をひいても数万円とか数十万円とかだ。そこで実はこれはピカソが描いたもので・・となると、いっきに価格は高騰する。絵は全く変わってないのに。
だから、ピカソの書いたものならば、完成品に限らず、スケッチでも習作でも、あまつさえメモ書きでも高値で取引される、ということになる。
そこでカギになるのは、「これはピカソの手によるものだ」と証明する人ーつまり、鑑定家の存在である。鑑定家がシロといえばシロであり、クロといえばクロである。
ところが、鑑定家が真作贋作を判定する根拠というのは案外にいいかげんだ。もちろん科学的な鑑定もする。顔料に使われている成分の分析とか、キャンパスに使っている布地とか。
しかし、贋作の作り手からすれば、そんなものは古い絵の具やしかるべき布地をはじめから用意すればいいということになる。肝心の絵筆の筆致そのものはどこかで必ず「主観的な判断」によって真贋つけることになる。
そして、鑑定士も実はまたアート市場のステークホルダーの一人なのだ。要は、画家と鑑定士とブローカーは「ビジネス・パートナー」になりやすい。よく「医者と葬儀屋と警察が結託すれば人をひとりこの世から消すことができる」と言われるように、画家と鑑定士とブローカーが結託すれば、「この世に巨匠の未発見の新作を登場させる」ことができるのだ。それも巨額なマネー付で。
なんでそういうことになるかというと、絵画というのは投機の商品だからなのだ。アート市場というのは投機ビジネスなのである。もちろん本当に芸術を愛し、手元にそれを置いておきたい、この貴重な人類遺産を未来に継承したいと思うまっすぐな人もいる。しかしそういう人は結局「カモ」にされてしまう。
アート市場の多くの人間は、金もうけとして、転売ビジネスとして携わっている。そして、そういう鑑定家だっているのだ。で、アート市場というのは、少々真贋怪しくても、転がしておいてその差分の儲けをつくりこんでいくほうがハッピーな人のほうがずっと多いのである。贋作画家と鑑定士とディーラーの結託は、アート市場の活性化のためにはむしろ必要、とだって言えるだろう。そうしないと過去の巨匠の作品の数はもうこれ以上増えないわけだから、いずれ停滞してしまう。もちろん現役・新進の作家だっているわけだけれど、ウン十億円の高値をつけられる作家はほんのわずかだ。
そして、思ったこと二つ目は、そんなウハウハなビジネスなのに、贋作作家は、「自分のオリジナルの絵」を描こうとすることだ。世の中のニーズはないのに「自分の絵」を書こうとする。
こういう例えがいいのかどうかわからないが、ものまね芸人が自分自身の歌をライブやアルバムで取り上げるのを読かける。あのコロッケでさえ、ライブで自分の歌をうたったのを目撃した。青木隆治も自分の歌をうたっている。やっぱりものまね芸人としてどんなにちやほやされても、自分のオリジナルを歌いたくなるものなんだなあと思わずにいられない。切ないのは、市場はあまり本人オリジナルには興味がなくて、やっぱりものまねのほうに圧倒的なウケがあるということだ。
作者ギィ・リブも、オリジナルの絵を描く。贋作の道を絶たれてからはいよいよ描く。だけれど、本人自身も認めているように市場はそれを求めていない。買い手はつかない。値段もつかない。ディーラーも引き受けない。
釈放後に作者の作品で人気が出たのは、堂々とギィ・リブ本人のサインによる、シャガール風、ピカソ風、フジタ風、ルノワール風の「絵」である。つまり、偽物、パロディとして合法的に描かれた絵だ。作者本人自身の画風による絵ではない。
しかし、作者は、プライドをもって今もオリジナルの絵を書いているそうだ。しかし今後も彼のオリジナルが市場に評価され、需要がおきることはないだろう。けっきょく、アート市場が画家の名前で需要が決まるように、「贋作作家」のラベルがついた画家の名前には「贋作」にしか需要がおきない。贋作ビジネスという巨額マネーゲームに参加するときに引き換えた呪いというべきか。
新潮社
二ノ宮知子の「のだめカンタービレ」や、羽海野チカ「ハチミツとクローバー」のように、音楽や美術といった芸術系の大学を舞台にした話は、決まって奇人変人が続々登場するし、それが群像劇となって様々なドラマが展開する。
そういった音大美大において、我が国の頂点にあるのが東京藝術大学、略して藝大である。もちろん桐朋音大や金沢美工大など、独自のブランドをもつ芸術大学もあるわけだが、素直にいって日本の芸術大学の最高峰は東京藝大と言って良いと思う。それは、一般大学における東京大学みたいなものである。
下手に誇張されていない分、リアルに藝大生ってこんな感じなんだろうな、と思わせる。
僕は音楽も美術も実技に関しては全くのど素人で、藝大はおろか他の音大美大もまるで縁のない人間だが、音楽を聞く分には、あるいは美術を観る分は大好きで、したがって音大美大というのは「アコガレ」であった。彼らに嫉妬しているといっていいくらいである。
僕は、一般の大学にむけた受験勉強者ではあったが、大学にいった暁にはこんな面白い生活が待っていると、受験勉強の励みになったのは本当である。この本はまだ僕の家の本棚に並んでいる。
もちろん、藝大に合格したするのは難しい。東大より難しいと言われる。本書は藝大生の日々が描かれているけれど、実のところ、ここに出てくる人たちはいかなる取り組みによって藝大に合格したのだろうか。藝大に入るまでがまず様々なドラマがあったのだろうなと思う。
そして、入学後の藝大というのは基本的にサバイバルである。通ってもいないのに断言するのは、数少ない藝大卒の知人にみるそのサバイバルのための努力と能力をみているからだ。とある年の入学式で、学長が居並ぶ新入生にむかい、「ここにいるみなさんは、ここにたった一人いるかもしれない誰かのための砥石です」と言ったとか言わなかったとか。似たようなエピソードは本書にも出てくるし、まあ実際そうなんだろうなあと思う。
そういう厳しい厳しい世界であって、決して自由を謳歌しているわけでも適当人生を送っているわけでもないのは本書でもよくわかる。
それに「森のうた」もそうだったし、本書でもそうなのだが、僕がいいなあと思えるのは、出てくる人々がみんな心底マジメであることだ。この時間を一時でも無駄にしまいと、一生懸命マジメに取り組んでいるのである。たとえ、その取り組みの方向性が他人からみてなんだかよくわからないものだとしても。
心底うちこめるものがあるというのは本当にいいものだなあ、などと学生を卒業して20年以上経ってしまった僕はしみじみ思うのだ。
建築家走る
隈研吾
新潮社
可視化を商売にする人は、批判が宿命的についてくる、という指摘が面白い。意思決定とか行動が電子化によって、調達や資金がグローバルによって遍在することによって、見えないところで事態が進行し、そしていきなり建築物は可視化されて現れる、よって叩かれやすい。
新国立競技場をめぐるゴタゴタは、あれに特有のものもあるのだけれど、この国のかたちというか、普遍的な課題を象徴したように思う。
舘野仁美
中央公論新社
著者は、あのスタジオジブリにいたアニメーターのひとりである。それも「となりのトトロ」から「風立ちぬ」までいたというから、相当な古参だ。
アニメーション作成の現場というのは、今も昔も相当な集約労働型による過酷な日々とされており、しかもスタジオジブリにいるのは宮崎駿と高畑勲という、2人の超怪物と、鈴木敏夫という名プロデューサーである。はた目には日本アニメの聖地に他ならないが、そこで働く人々はなかなか凄まじい日々なんだろうなと思う。
本書では、そういった現場の熱気や緊張感が伝わってくるエピソードがいろいろ紹介されているが、そんな中に新人採用の話が出てくる。
僕はアニメーターの世界というのは基本的にフリーランスと契約の世界なのかと思っていたのだが、スタジオジブリは社員制なのだった。
新人採用にあたっては、面接や実技や研修を通して候補を絞っていくそうなのだが、採用の基準が面白い。
(1)線が引けること(引ける可能性があること)
(2)テキパキと作業がこなせるでこと
(3)協調性があり、コミュニケーション力があること。人の話を聞いて理解し、わからなければ質問できること。
興味深いのは、専門的技術能力は(1)だけである。それも即戦力ではなくて、ポテンシャルでもOKというところだ。新人採用だから当然なのかもしれない。
そして(2)(3)なのである。テキパキとしているかということと、人と一緒に仕事ができるかということ。
職人の世界でさえそうなんだな、と思った。
そんな感想をもったのは、たまたま僕が職場でとある新しいプロジェクトで、メンバーを誰にするかという会議に参加したとき、似たような場面に出くわしたからである。
それはある種の専門性を必要とするプロジェクトではあったのだが、しかしそこであがってくる候補者の名前は、専門性というよりは、まさに、てきぱきと仕事をするタイプか、ということと、コミュニケーション力があるか、ということだったのである。
なぜかというと、そこではもちろん専門的知識も要求はされるが、それよりは、いろいろな立場の人が複数参加する長丁場のプロジェクトであり、幾多の困難や回り道やクライアントの無茶な要求も当然予想されるものであり、それを乗り切っていかなければならない、ということで上記のような人材がいいね、ということになるのだ。
さらに翻ってみれば、いちプロジェクトに限った話でなく、けっきょく「仕事ができると評される人」「他のメンバーから支持されやすい人」「まわりから指名されやすい人」というのは、こういう人のことなんだよな、ということである。
専門に長けている人というよりは、混乱の中に乗り込んで行って、ちゃきちゃきとさばいて、ダメなものはダメ、やるものはやる、わからないものはその場で質問する、それをカラリとやってのけて、屈託を残さない人である。つまり「明朗活発な人」ということだ。
だから、就職活動で「コミュニケーション力」という一見不可思議なものが求められる、というのは、実際の現場がそういうことだからなのである。(D・カーネギーの「こうすれば必ず人は動く」によると、カーネギー工科大学の研究結果で、ビジネスで成功するためには、ビジネスや職業の種類にかかわりなく、高度な知識がカバーする割合は15パーセントで、85パーセントはひとがらと人を扱う能力次第である、とか。)
アニメーション・スタジオという、専門職人技がないと務まらないようなところでさえ、実はそうなんだ、と思った。
ところで、著者は先に触れたようにスタジオジブリの古参である。その職種というのは「動画チェック」というものらしいのだが、現場の古参というのは教育係でもある。若手を厳しく叱ったり、励ましたり、悩んでいれば相談にのったり、心を鬼にしてダメ出ししたり、マネージャーと現場との間に入ったり、そっと若手にチャレンジがいのある仕事を差し込んでおいてあげたり、さりげなく手助けしておいたり。
人が集団で何かを成すところ。スポーツチームとか建設現場とかオーケストラとか劇団とかに、こういう人が必ずいる。戦争映画とか任侠映画なんかでもたたき上げの鬼軍曹風にそんな人をみる。その集団にとっては宝となる存在である。
アニメーターといっても、かなり色々な職種に分かれるらしく、またそこには見えないヒエラルキーみたいなものもあるようだ。また、宮崎駿とか高畑勲という超大物にして芸術家肌の人物が、スタッフにどう接し、どんな発言をしているかも本書では取り上げられている。
そういった秩序とカオスがせめぎ合う中で、実はこういう著者みたいな人が、一見地味だが、実は組織を支え、活発化させているのだ。
ヌードと愛国
池川玲子
あまり馴染みない切り口でとても面白かった。ここにあがった7つの事例、僕はほとんどしらない。本書を読むまで、こういう見方があることさえ気づかなったくらいである。(「nude」と「naked」は明確に違うこともこれで初めて知った)。
なるほど、たしかに「女性観」というのは、近代と前近代が衝突するところに立ち上がる。女性というものをどう見るか、どう見られるかは、時代と社会の鏡なのである。
そこに「ヌード」という西洋美学に前提を持つ見立てが加われば、ここに「日本」が現れる。つまり、この日本において「ヌード」が現われるところというのは、その当時の日本がたしかに抱え込んだ時代と立場の複雑な部分が顕在化したところといえるわけだ。画家や映画監督や写真家が、世に問うものとして、つまり問題意識をもってヌードを世に送り出したとき、そこには絶対に創作者の日本に対してのアンビバレントな思いが浮かび上がるのである。「愛国」であるほどそうなる。
それぞれの事例のひもときは、なにしろこちらは門外漢なので拝聴するしかないのだけれど、それにしても、と思うのは、国策やプロパガンダとしての方法論が、今も昔もまったく変わらんということには愕然とする。
本書では、満州への移住を勧めるためのプロパガンダ映画が紹介される。日本最初の女性映画監督である坂根田鶴子の『開拓の花嫁』という作品では、満州に渡った女性が、そこで安心して結婚ができて、周囲の協力もあって子どもを生み育つことができ、仕事があるというユートピアが描かれる。
こういうプロパガンダ映画がつくられるということは、本書で指摘されているように、「女性が生きやすい」ことは、近代国家がその社会の成熟度を示す上でひとつの指標になるということが当時においてもあったということだ。満州の広大な農地には保育所があり、夫も育児に教育し、共同体の絆が描かれる。そんな牧歌的な光景がドキュメンタリー映画としてつくられる。
しかし、実態はそんなことはなくて、この映像は「やらせ」であって、満州の女性はじつに悲惨な孤立無援であったらしい。しかも周知のように、最後は満州移民は国から棄民にされている。
昨今、地方の市町村が人口減きわまって消滅するということで、安倍政権は地方の創生という名のもとに地方への移住を勧めている。そこで強調されているのが地方のほうが女性が結婚しやすく、子どもを育てやすく、働きやすい、ということである。そんな事例をとりあげようとしている。現実には年頃の女性が流出していることこそが地方人口減の原因であることからすると矛盾もいいとこだが、そうやってユートピアを描くところは、満州開拓団から70年以上たつのにいっこう変わらない。
それにしてもこの本、面白いテーマだけに、わざとであろう妙にやさぐれた文章がもったいない気もする。最近こういう文体のものよく見かけるけど、流行ってるのかな。
ピカソは本当に偉いのか
ルイス・キャロルの「不思議な国のアリス」といえば、ジョン・テニエルによる挿絵が有名で、これでなければアリスではない、というくらい人口に膾炙されている。日本で角川から和田誠による挿絵のものが刊行されていたのを、中学生のときに読んだが、どうにも違和感があって仕方がなかった。唯一対抗しているのは、力技マーケティングで浸透させたディズニー版のそれ、くらいだろうか。
実際、テニエルの描くキャラクターのユニークさが、さらにキャロルのアリスの世界観を増強させており、もはや両者は分かちがたくなっている。
あるブログで、トーベ・ヤンソンの挿絵による不思議な国のアリスがある、という情報をもらったときは、それは是非とも見てみたい! と思った。凡夫な挿絵なら見る気もないが、ヤンソンの手によるものなら見てみたかった。
断っておくと、ヤンソンってのは、あのムーミンの生みの親であるヤンソンである。コミック版とかキャラクターグッズではわかりにくいが、9冊の小説版ムーミンシリーズに挿入されているものからは、禁欲的でラフな筆致で北欧の自然を表現したヤンソンの不思議な絵の世界が見られる。自然の光景だけでなく、木箱とかぬいぐるみとかガラス瓶なんかの小物の描かれ方や、人物の後姿を遠景から描くところの妙とか、挿絵を抜きにして単独に鑑賞しても耐えられる。
入手が難しいと聞いていたが、先日それをヴィレッジ・バンガードで発見した。さすが「遊べる本屋」である。 テニエルのでもディズニーでもない、ヤンソンのアリスは、妙に手足がやせこけていて服も質素だ。髪もざんばらに近い(それはハプニングだらけの旅の結果そうなったのかもしれないけれど)。何よりも主人公としての体をなしていないほどシンプルで特色がなく、そういやムーミンの挿絵の背景で、通行人Aのような感じでこんなのいたかも、という造形だ。 だが、それがネガティブなことかというとまったくそうではなく、ヤンソンの着想は、アリスという人物をたたせることよりも、「不思議な国」そのものを描くところにこだわりを見せている。そう。「不思議な国」にあって、アリスは唯一「不思議でないもの」であり、その凡庸な姿がむしろ「不思議な国」のミステリーとファンタジーに溢れた世界を引き出している。 まず、アリス以外のキャラクターの描写、有名なうさぎやチェシャ猫やスペードの女王や帽子屋や芋虫や海亀といった面々は、テニエルの描いたものとはまったく異なる造形を見せ、アリスがシンプルなだけに彼らのほうは凄みがある。
ただ、何よりも全体を支配している独特の雰囲気というのは、その「不思議な国」の風土の描写だろう。
たとえば、ディズニーが描くアリスの不思議な国は、色とりどりの花が溢れ、緑はさわやかでかつこんもりとしている。どちらかといえば温帯気候のそれ、である。テニエルのは、エッチング風の描写ということもあって、ディズニーに比べればはるかにとげとげしいが、草の丈の高さや、その形状をみるに、それなりに草木に溢れた世界になっている。
が、ヤンソンによる「不思議な国」は実に荒涼としている。はげ山のような素寒貧とした背景、ちょぼちょぼとした植生、はえていてもそれは細い熊笹のようであり、水面はどんよりと黒く、空は憂鬱な曇り空で、太陽は薄く弱く、しらじらしく天に輝く。これこそが、ヤンソンの住むフィンランドの光景なのか。
ムーミンにおいても、自然というのは鑑賞の対象でもなければ、安寧のふるさとでもたく、たいがいは人々を不安と孤独に陥れ、自分をちっぽけな存在に感じさせるものだ。これこそがヤンソンの自然観かもしれず、アリスの不思議な世界においても異彩を放つ結果となっている。
なるほど。たかが挿絵というなかれ。その画家を通すだけで、同じ物語がここまで異なるのだ。中学生のときはとんとピンとこなかった和田誠バージョンも、いま見れば、まったく別の感想があるかもしれない。
ヌードの泰西名画をひもとく試み。たしか、むかし別冊宝島でも同じコンセプトの本を出していた。
これまで、彼の美術解説本はほとんど読んだと思うが、その中で圧倒的な登場回数を誇るのはダ・ヴィンチの「モナ・リザ」かと思っていたのだが、それと同じくらい頻度よく登場するのが、マネの「草上の昼食」と「オランピア」だ。よほど琴線に触れるものがあるに違いない。
本書を読んでいてうなづくのは、まさしく「ヌード」というのは多弁であって、誘惑であったとしても、口実であったとしても、はたまた反骨であったとしても、そのすべての記号足りうるということだ。つまり、「ヌード」というのは徹底的に非日常であって、そこに「ヌード」がある以上、何事もなかったというわけにはいかない、という徹底的な自己主張を伴うということだ。
で、その「ヌード」が語らせる自己主張の極北とも言えるのが、マネの「草上の昼食」と「オランピア」だろう。単なる「当時スキャンダラスを巻き起こしたいわくつきの絵」というだけでなく、黙して実は多弁な「ヌード」の力を最大限味方につけた作品がこの2作品とも言える。
また、マネが、アカデミズムに反骨しようという気が一切なかったにもかかわらず、こういう作品をつくったのかという逆説には、これこそが「ヌード」が放つ魔力に逆らえない芸術精神なのだろうかとも思う。
番外。
行ってみたらたいそうな盛況で、入場30分待ち。さすが「ルーブル」のブランド力だ。サブタイトルにあるように、主眼は当時のフランス宮廷のベルばら的優雅でおハイソな生活の一端が見えてくる展示だ。徹底的に装飾をほどこされたティーポットとか煙草入れとか蒔絵箱が次々と現れる。
ただ、僕はあまり下調べをせずに「絵画」のほうを期待していったので、その分肩透かしだ。僕は本場のルーブルに行ったことがないのである。ただ、実際に本場ルーブルに行ったら、むしろこの手のものは素通りしていたには違いない。
僕が最も興味をひいたのは、これら展示品が後半にマリー・アントワネット関連のものになって(パンフレットに出てくる旅行用かばんとか)いよいよ爛熟のきわみになった最後の最後の展示物が、ベスビオ火山噴火の油絵だった、ということだ。
われわれはこの火山噴火の絵を見て、明るいミュージアムショップコーナーに出ることになる。
破滅のメタファーで終わるこの展示順番を考えた学芸員、やりましたな。