「百年の孤独」を代わりに読む
友田とん
早川書房(ハヤカワNF文庫)
ついに新潮社から、あのガルシア=マルケスの「百年の孤独」の文庫版が出た、というのは出版業界的に大きな話題だったようである。
世界的な名文学でありながらこれまでいろいろな権利の関係で文庫化が為されなかったらしい。
「百年の孤独」は、その難解な展開と、複雑極まる登場人物たちによって、ラテンアメリカ文学の代表作だけでなく、現代文学の象徴のひとつに数えられている。曰く「マジックリアリズム」。その影響はわが日本でも、阿部公房や筒井康隆や、さらには椎名誠、森見登美彦や榎本俊二にまで及んでいる。
だけど、御多分にもれず、僕も「百年の孤独」は学生時代に早々に挫折した。3ページまでもいけなかったかもしれない。
おそらく、そんな読者が多かったのだろう。文庫化された「百年の孤独」は、かつてのリベンジとばかりに多くの人が買ったようで、あっという間に品切れになってしまったそうである。
最近の僕は難解本の読破に自信がなく、かつて玉砕した「百年の孤独」に、今また再び挑む気になれなかった。そんなときにひょいと見つけたのが本書である。
「『百年の孤独』を代わりに読む」。妙なタイトルだ。阿刀田高の「●●を知ってますか」シリーズのようなものか、と思ったがそういうのとも違う。むしろ「代わりに読む」というところにこだわりと野心がある。本って「代わりに読む」ことなんてできるの? という哲学的問いで、パラパラめくると80年代のテレビドラマやバラエティ番組などの写真がじゃんじゃん出てきてなんじゃこりゃと思う。つまりあらすじを追いながらも著者である友田とん氏の脱線につぐ脱線なのである。
だけど、このなんじゃこりゃ感こそが、「百年の孤独」を「代わりに読む」、つまり追体験そのものなのだろうと妙に納得して読んでみることにした。
読んでみて、これでも「百年の孤独」は難解であったが、でも全体的にどんな雰囲気であるかはなんとなくわかった。著者の脱線に次ぐ脱線も、このはぐらかされたような感覚自体が「百年の孤独」そのものだといってさしつかえない。こういうのをなんというのだろう。パロディでもないし、パステューユでもない。もちろん読書ガイドでもない。本書でもその驚異的記憶術に著者が驚いたとされるタモリは、まだ売り出し中のときに有名人のモノマネをしていた。それは「形態模写」ではなく「思想模写」と言われた。「モノマネされた人が実際にそう言った事実は確認できないが、いかにも言いそうなことをやってみせる」という芸である。令和の芸人はみんなやるようになったが、タモリの当時のモノマネは芸術的とすら言われていた。この「『百年の孤独』を代わりに読む」もそれに近いものかもしれない。そのままでは難解すぎてついていけない「百年の孤独」を、なんじゃこりゃの読後感そのまんまに食いやすいもので再編集している。つまり「読後感模写」。
そのような「読後感模写」を再現できていれば、それは「代わりに読む」と言えるのだろうか。
著者によれば、「代わりに読むことは結局できない」という結論だ。読みながら頭の中で展開されるイメージや妄想や脱線を、完全なまでに第三者に移植することはできない。であれば「代わりに読む」はできない。当たり前と言えば当たり前である。
だけど、本書の存在価値はそんな陳腐な結論ではないと思う。そもそもなぜ「百年の孤独」だったのか。「カラマーゾフの兄弟」でもなく「失われた時を求めて」でもなく、なぜ「百年の孤独」だったのか。
著者は、「代わりに読む」=「『百年の孤独』を読む」という結論に至っている。百年の孤独を読むことは、主人公級のひとりであるアウリリャノに代わって物語の舞台であるマコンドの興亡の歴史を読むことだったのだ、としている。
そうかもしれない。
だけれど、僕は「百年の孤独」というタイトルそのものに着目したい。マコンドという都市の勃興と消滅を描いた百年間の物語。その中で次々と登場する似たような、あるいは同じ名前の登場人物たち。彼らは突然姿を消したりとつぜん登場したり、街を去ったり戻ってきたり、産まれたり殺されたり、殺されたのにまた何事もなく出てきたり、愛し合ったり憎しみ合ったりする。だけれど、けっきょく彼らはどこまでもすれちがっていて孤独だ。わかりあえない関係の中でマコンドの百年の歴史は過ぎていく。いや、こんな収束がはかれるような文学ではないことは百も承知だ。
だけど、僕は群像劇のようでいながら、けっきょくどいつもこいつも誤解と無理解のなかで孤独なのだ、というのが本書を読んで痛感した。
そうすると、本書著者の脱線に次ぐ脱線もまた、孤独の脱線である。彼が拾う脱線はどれも無理解やすれ違いや信じられなさからおこるエピソードばかりだ。そして、この脱線の真の面白みのツボさえも著者にしかわからない。本人が一番盛り上がっている。だけれど、それが世の中の真実なのだと思う。他人のことはどんなに近しい仲でも本質的にはわかりあえない。「わかりあえないことから」を書いた劇作家の平田オリザもそう看破している(この講談社新書は名著のひとつだと思う)。人と人とはわかりあえない。人は本質的に孤独なのだ。
しかも、このマコンドという町は消滅する。人々の記憶から消える運命にある。
メキシコらしきラテン世界を舞台にしたディズニー映画「リメンバー・ミー」では、人は二度死ぬ、という格言が何度も出てくる。一つは実際の死、もう一つはその人が忘れ去られる事を指す。
世界中の大多数の人間は、忘れ去られる。百年より前に亡くなった人間でいまだに記憶されている人は、全世界人口のほんのわずかであろう。マコンドはそのような忘れ去られる宿命を描いてもいる。「百年の孤独」とは、群像劇内の各人の孤独でもあり、マコンドという都市自体の孤独であり、つまりは人も社会も忘れ去られる孤独の宿命にあるのだ。
著者友田とん氏が、「百年の孤独」を代わりに読む、という難解にして困難なチャレンジを続けたのは、A子さんなる女性の「まだ読んでいるんですか?」という一言だという。そのA子さんはもう長いこと会っていない。著者はA子さんを忘却しないことに努める。A子さんをわすれたとき、著者にとってA子さんは死んだことになる。著者はまたひとつ孤独になる。「百年の孤独」を代わりに読むのは、孤独への抗いなのだった。
ということは、80年代のシティポップでもいけるのだろうか。あれこそは当時の同時代性空気をしてビンビンに反応したものだと思っていたのに、ここにきて再注目されているのはなにか令和の当世にも感じるものがあるのかもしれない。杉山清貴の「二人の夏物語」で出会い、大沢誉志幸の「そして僕は途方にくれる」で別れ、大瀧詠一の「君は天然色」でふっけれる、あたりのエッセンスで物語をつくって、令和風に味付けしたらそれなりにいけるんじゃないか、と思う。
図書館の神様・幸福な食卓・強運の持ち主
瀬尾まいこ
瀬尾まいこは、今まで2作品ほどここにとりあげているが、最近さらにまとめて3冊ほど読んだ。
で、彼女の作風というかテーマというのがおぼろげながら見えてきたのでここに書いておく。いまさらここに書かなくても周知の事実なのだろうけど。
この人は、お約束の役割分担規範というものに疑問を持っている。それがとくに顕著なのが各賞受賞の「幸福な食卓」であろうが、ここでは家族構成員の役割、「父親」という役割、「母親」という役割、「息子」という役割、「娘」という役割の解体が試されている。単なる解体ではない。解体しても「幸福」は維持できる、という挑戦がある。話題作だった「そして、バトンは渡された」も同様と言えるだろう。
「強運の持ち主」では各連作において占い師を狂言まわしにしながら父親や母親というものをいじくっている(ついでに「占い師」のステレオタイプもいじくっている)し、「図書館の神様」や「あと少し、もう少し」では、学校の先生というもののステレオタイプを剥ごうとしている。他の作品も多くはそうなんじゃないかと予見している。
ものの情報によると、瀬尾まいこは、長いこと学校の先生をやっていたという。学校とか先生というのはきわめて役割分担意識を強く醸成する環境なんだろうなとは想像に難くない。「先生」として期待される立ち振る舞い、「生徒」として要求される言動、さらには生徒の保護者である「母親」「父親」のカリカチュアされた姿に日々さらされることだろう。
だけど、こういう規範はすぐに手段と目的が逆転する。父親らしく、母親の義務として、先生なのだから、学生として、としてあらねばならない規範に縛られるようになる。瀬尾まいこは教師生活の中でこの問題意識がどんどん大きくなっていったのではないか。要は幸福であれば、成長できれば、何かがわかれば、誰がどのように作用しようともいいのではないか。いや成長しなくっても、生きててよかったと思えればそれはそれでいいのではないか。
しかし、それでは単なるアナーキーイズムである。アナーキーであることはこれはこれで手段と目的が逆転しやすい。
瀬尾まいこの作品は、役割分担規範に縛られるのは閉塞感を生むが、それはそれなりに良いこともある、というバランス感覚はありそうだ。「父親」だからこそできること、「母親」だからこそ説得力があること、「先生」だからこそ動けること、「生徒」だからこそ許されること、というものは確かにあって、それはそれでうまく使えばよい。このあたりの上手な感覚をうまく使えばよい、というのが瀬尾まいこの作品の真骨頂なのではないかと思う。
瀬尾まいこの全部を読んだわけではもちろんないけれど、全体的に、女性キャラにまじめだけど無感動の人が多く、男性キャラに変に超越しちゃった悟った人が多い印象を与えるが、これさえ「男性」「女性」という性別役割分担規範をあえて批評的に再構成させたものなのかもしれない。
これは20世紀の大ピアニストであったアルトゥール・ルービンシュタインの名言だ。律は幸福を定義せず、信じることをただやっていた。