読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

国道沿いで、だいじょうぶ100回・流浪の月・わたしはあなたの涙になりたい・他

2024年07月08日 | 複数覚え書き
国道沿いで、だいじょうぶ100回・流浪の月・わたしはあなたの涙になりたい・他
 
 
ここのとこライトめの読書が続いている。このブログでなんどかボヤいているが、難易度の高い本がどうも頭に入りづらくなっており、ちょっとリハビリ気味といったところである。うまくオチなかったり話が展開できなかったものをこちらまとめて。
 
 
国道沿いで、だいじょうぶ100回
 
岸田奈美
小学館
 
どれを読んでも涙がとまらない岸田奈美のエッセイであるが、今回こそが神刊かもしれぬ。デビュー作からずっとこの調子で、いつかはネタが尽きるんじゃないかと思うのに、本書はいつになく深刻な内容と救済と笑い飛ばしの展開のジェットコースター感がすごい。もはや凡庸なラノベをひるませるに十分。100字で済むことを2000字で書くのはお昼のワイドショーと一緒だが、100字のファクトを2000字のナラティブにしたてあげるのは超絶技巧だ。根拠なき「大丈夫」の一言。でもそれは段取りの目途がついていなくても、なんとかどこかに着地するだろうと自分の腹を信じる大丈夫だし、まずは大丈夫と言ってみることから大丈夫の道は拓ける。作者が言うのだから間違いない、と思う。
 
 
史上最強の内閣
 
室積光
小学館文庫
 
麻生太郎が総理大臣をやっていて、金正日が存命だった頃をモデルにした話だから、ちょっと旧聞に属する内容になってきた。北朝鮮の核ミサイル発射の威嚇に翻弄される日本政府が政権を投げ出し、緊急時用の京都由来の内閣が臨時に組閣される、という話。三条実美や坂本龍馬や山本権兵衛といった歴史上の偉人名人が現代で内閣を構えたらどうなるかというのは、思考実験的にもパロディ的にも面白いが、どの大臣も浪花節をきかせて記者をうならせ、要人に詰め寄り、世論を湧き立てる。ナラティブに勝る説得力なしといったところか。外交とはピンポンのようなもの。こっちが繰り出した球をどう相手が返してくるか。こちらが奇手を放てば相手はどうでるかをしたまで、というのは案外に本質をついている。ついでに北朝鮮のプロパガンダを指して、恐怖を盾に正論を迫っても人はついていかないよ、も人心掌握の基本ではある。
 
 
流浪の月
 
凪良ゆう
東京創元社
 
2020年の本屋大賞受賞作。家庭内強制わいせつ・毒親・DV男など、ひどい連中がいっぱい出てくるのに、それらから逃れようとした文と更紗が、少女誘拐監禁のかどでデジタル・タトゥーを残し、世間から追い回される、というどこまでも悲惨な話。しょせん世の中こんなもんよという厭世的な空気も漂わせている。それでも似たようなプロットの「八日目の蝉」よりかは最後に希望があるのは、更紗と同僚のシングルマザー佳奈子の介入だろう。トリックスター的な立ち位置で、これが事態を混沌とさせながらも、結果的に全体を希望の方向にもっていくのが興味深い。これも奇手のひとつか。
 
 
武士道シックスティーン
 
誉田哲也
文春文庫
 
もう10年以上前の小説になるのか。勝負を決める短い時間のあいだに、様々な思考が入ってきてそこだけ時間の進行がぐぐっと停滞するのはスポーツ系やバトル系のアニメの演出の特徴だが、それを小説でやったような感じ。本質的にはあり得ない無感知の思考を言語化してドラマツルギーにする。でもこれはドフトエフスキーや夏目漱石も行った文芸的技術。いまやエンターテイメントのカタルシスとしてごく自然に受け入れられ、ついには瞬間の勝負である剣道にまで至った。ある意味でその後の「鬼滅の刃」を予見した作品だったのかも。
 
 
わたしはあなたの涙になりたい
 
四季大雅
ガガガ文庫
 
本屋大賞を特集した雑誌で紹介されていて興味を持ったので読んでみた。徹頭徹尾ラノベ。美少女・難病・ツンデレ・冴えない男子・お涙頂戴といったテンプレを臆面もなく動員しながら、最後までお約束に終始するのに、伏線にてラノベとは毒にも薬にもならぬものとしゃあしゃあと言いのけ、売れるための計算づくと指摘し、ドラマツルギーに毒されるなと登場人物に語らせるというメタな展開がされる。かといって最後はラノベの解体とか逸脱といった青臭い破壊行為に出るのかといえば、そうではなくてちゃんとラノベとして完全決着させ、しかもラノベの価値とは何かにまで行き着くという実に野心作。

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美しき愚かものたちのタブロー‣指導者の不条理‣海と毒薬‣イワン・デニーソヴィチの一日

2023年08月01日 | 複数覚え書き
美しき愚かものたちのタブロー‣指導者の不条理‣海と毒薬‣イワン・デニーソヴィチの一日
 
 
 すこし更新が滞った。読んではいるのだけど、どうもこちらにまとめようとするとうまくオチなかったり、整理できなかったりしている。
 というわけで、いったんこちらにまとめて記録。そのうちサルベージしてちゃんと書くかもしれない。
 
 
美しき愚かものたちのタブロー (ネタバレ)
原田マハ
文藝春秋
 
 東京の上野にある国立西洋近代美術館に所蔵されている美術品の中核をなすのは松方幸次郎コレクションだ。極東にある西洋美術館といって侮れない。松方コレクションの質量は、実は世界的に見ても遜色がない。もちろんルーブルやメトロポリタンのような膨大な所蔵数は要していないものの、その粒揃い度としては決して悪いものではない。
 しかし、当初の松方コレクションは現状よりももっと膨大だった。松方がヨーロッパで絵画を買い付けしてから、現在に至るまでは二度の大戦があり、これらのコレクションの命運には幾多のドラマがあった。
 といった史実をベースに、フィクションを大なり小なり混ぜて、このコレクションに関わった人物たちの小説にしたのが本書。実は定評ある原田マハを僕は読んだことがなく、本書が初めてであった。冒頭からしばらくは人物描写が類型的で陰影がなく(豪胆な人はどこまでも豪胆な人、暗愚な人はどこまでも暗愚な人)、ダレ気味なところがあって読むのをやめようかと思ったが、中程で日置釘三郎が登場するあたりから面白くなってきた。この小説は、松方幸次郎をはじめ何人もの人物が出てくるが、白眉は第二次世界大戦中に松方コレクションの命運を背負った日置釘三郎だろう。これもフィクションが多いに交じっていて本小説のどこまでが史実なのかちょっとわからないが、あまり資料が残されていない人物のようだ。ただ、この人が松方コレクションを守ったのは事実だ。事実は小説より奇なりというが、この人はほんとどうやってナチスの支配を逃れたのだろうか。この人のことだけをもっとクローズアップした物語を見てみたい。
 
 
指導者の不条理
菊澤研宗
PHP研究所
 
 名著「失敗の本質」にケンカを売った「組織の不条理」でメジャーデビューした著者もあれから幾星霜。野中郁次郎とも邂逅し、研鑽も積んで最新の境地が本書とのこと。カントの「理性批判」を引き合いに出すところまで至った。そのココロは、組織は合理的な判断を繰り返すと最後は腐敗するという宿命があり、それを克服するには組織のリーダーに合理的判断を超える道徳的判断が必要ということ。野中郁次郎が提唱する「共通善」とも近い話だ。確かにそうかもしれぬ。組織のトップに上がり、そこで君臨するということは、基本的に頭がよくないとできない。しかし「頭がよい」というのはなかなか厄介で、世の中の変化は個人の頭の良さの手に負えない状況をしばしば作り出す。そこで従来頭の良いそのトップリーダーは合理的判断をするのだが、まあたいていの人間は自分を含めた目下の立場を守ることを最優先になるよう判断し、なまじ頭がいいだけに妙な理屈やロジックやその場の切り抜けを考え付いちゃうのである。目下、中古車ビジネスのビッグモーターの不祥事が世をにぎわせているが、あの創業者一族はかなり頭がよかったのだろう。
 それにしても本書がケンカをうったのは、あの山本七平の「『空気』の研究」である。この著者、永遠のチャレンジャー男なんだろうか。
 
 
 
海と毒薬
遠藤周作
講談社
 
 名作の誉れ高い作品である。もう十分に古典かもしれない。
 ここでも書いたけれど、遠藤周作という人は、戦後昭和を代表する小説家である。その作品の幅はかなり広くてこれぞ文学芸術というものもあれば、とてもセンチメンタルな大衆娯楽的なものもあった。ただ、この人は非常に技巧家というか、たいしたことがない話でも炎の名作のように書き立ててしまう筆の立つところがあるなと思っていた。浅田次郎は遠藤周作の系譜の先にあるというのは僕の与太話である。
 絵画でいえばドラクロワのようなとでも言おうか、温度や湿度まで感じさせるような描写は、映画を見ているごとくその世界に引き込まれるが、その美文が目くらましになって、作品テーマのかんじんなところが実はかえって見えにくくなることがあるかもしれない。もちろん本作「海と毒薬」は遠藤周作の初期代表作だけに、その中身についても十分に鑑賞・議論されているわけだが、本作のテーマが人間の罪と罰、原罪、陳腐な悪といった哲学的命題というものを持っていたにもかかわらず、「捕虜の生体実験」というスキャンダラスな犯罪の告発としてとらわれてしまうきらいがあったというのは、この感情移入させまくりの描写にもあるんだろうなと思った。
 反対にプロットだけ借りてヘミングウェイのような、あるいは安部公房のような文体でこの話を綴ったら、どうにもできない人間のもつ不条理さが浮かび上がる小説になったかもしれない。こういう実験ってAIの今日やってみると面白いかもしれない。
 
 
 
イワン・デニーソヴィチの一日
ソルジェニー・ツィン
新潮社
 
 さしずめ「強制収容労働施設版ていねいな暮らし」といったところか。小説ではあるが、著者の実体験がベースになっている。
 太平洋戦争後のシベリア抑留でも多くの日本人が犠牲になったソ連の強制収容労働施設ラーゲリは、社会主義政治手法の悪名高き仕組みのひとつだ。単純な犯罪というよりは、政治犯思想犯あるいは戦争捕虜から抵抗勢力とされたかなり多くの人物がここに送り込まれた。その毎日の過酷さは想像を絶するものがある。本小説の主人公シューホフはここで10年間収容されている。
 凄惨きわまる強制収容所の日々に生きる望みを見出す、といえば名著「夜と霧」がある。「夜と霧」で著者フランクルが記したのは「生還してやりたいこと」をもつ希望であった。与えられてしまったこの人生をどう試すのかは自分次第である、という意思であった。
 「夜と霧」は語り継がれる名著であり、日本ではロングセラーだが、一方この「イワン・デニーソヴィチの一日」はそこまで知られていない。ノーベル文学賞を受賞していて文学界では名作の地位を得ているかもしれないが、「夜と霧」のほうな絶対的教養の書のような地位にはない。
 だけど、「夜と霧」だけではない。そういうやり方で生き過ごす幸福の作り方もあるのだ、というのを本書は示唆している。主人公のシューホフは、自分の裁量と工夫の余地をつくることに幸福の手がかりを見つけている。実はこれが幸福感を左右する因子なのだとすることは、ユヴァル・ハラリが「サピエンス全史」で挙げていた原始時代の人間と、現代の人間が人生に「幸せ」を感じる程度はそこまで変わらないのではないかという仮説や、今日的議題であるWell Beingの話などとも絡みそうだとは予感していて、ここらあたりをちゃんと解題しようかなと思ってるのだけど、どうもうまくまだ整理できていないのでいったんここで匙投げ。

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店長がバカすぎて いつかの岸辺に跳ねていく ライフ 逆転力 人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした じぶん・この不思議な存在

2021年08月13日 | 複数覚え書き
店長がバカすぎて いつかの岸辺に跳ねていく ライフ 逆転力 人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした じぶん・この不思議な存在
 
 
ライトな読み物を立て続けに読んでいてここにまとめて記録。
 
 
店長がバカすぎて
早見和真 ハルキ文庫
 
 本質的には書店を舞台にして出版業界の内実などにも触れた「お仕事小説」だが、ライトなミステリー要素が加わっていて、最後のほうで伏線回収、あえてのミスリード、叙述トリックまで加わるという突然の乱戦状態に面食らってしまった。
 店長をバカ呼ばわりするのは主人公谷原京子さんである。店長だけではない。谷原さんの一人称で書かれるこの小説、つまり自分のまわりはもうバカばかりである。バカすぎる小説家に、バカすぎる社長に、バカすぎる出版社の営業に、バカすぎる神様(つまりお客様)にきりきり舞いをさせられる。ここらへんはお仕事小説の真骨頂である。なぜ自分のまわりはこんなにみんなバカすぎるんだろうとは、どの仕事においても誰もが思うはずだ。
 ということは、自分も誰かにとって「バカすぎる」はずである。仕事とはお互いに「バカすぎる」と思うエネルギーで動いているのかもしれない。
 
 
いつかの岸辺に跳ねていく
加納朋子 幻冬舎文庫
 
 だけれど、誰だって誰かとの距離感と相互作用の中で生きている。相手あっての自分だし、自分あっての相手である。「バカすぎる」ならまだましである。「愛」の反対は「無関心」。一番切ないのは話が通じないことだ。話を聞いてもらえないことだ。
 この小説におけるヒロインである徹子の孤独は、彼女の持つユニークさゆえに絶望的な運命を背負わされる。徹子からは相手が見えていても相手から彼女の言いたいことを伝える術がない。相手は目の前にいるのに徹子の思いは透明人間のようにすべてすり抜けていく。狂おしいほどのもどかしさがある。徹子はその処世術で表面上はフラットを装っているが、それだけに内実は断末魔の爪痕のようなレリーフになっている。巻末の解説で北上次郎氏が「驚くぞ!」と書いているがフラットの裏側にここまでのレリーフが刻み込まれていることに本当にびっくりする。
 だけど、実は徹子自身も気づいていなかった。徹子にも近くの人はいた。一人ではない。熊みたいな幼馴染護くんを始め、何人もいた。ちゃんと目に入っていなかった。徹子もまたちゃんと認識していなかったのだ。徹子という凍結された世の中だって、自分さえ相手を認識すれば、「自分を認識しようとする相手がいる」ことを認識すれば、幸福の道は動き出すのだ。
 
 
ライフ
小野寺史宣 ポプラ社
 
 この小説の主人公幹太くんだって、いったんは自分の周りから人がいなくなって喪失感のうちにただ無為に毎日を過ごすだけだったが、新たな人々と知り合うことで少しずつ前を見るようになった。アイデンティティとは自分の中にあるようで、じつは他人がいてくれるからこそ見つかる。劇的な出来事はほとんど起こらない小説だが、「がさつくん」ことアパートの住人やご近所さんと知り合い、関わっていくことで、少しずつ少しずつ幹太くんの目の焦点は定まっていく。
 それは、他人と関わることで自分自身を上から見つめるような感覚を手に入れるということかもしれない。自分を見つめるためには他人との相互作用が必要ということだ。自分を上から見つめる感覚、世阿弥はこれを「離見の見」といった。相手あって初めて自分というものは客観視できるのである。
 
 
逆転力 ピンチを待て
指原莉乃 講談社
 
 相手あっての商売といえばアイドルである。この商売は絶妙な自分への客観視が要求される。とある情報サイトで見た話だが、アイドルになれる三条件とは「ネットの誹謗中傷に耐えられる方」「自分の推しだったはずの人が別の人のヲタクをしていても耐えられる方」「特典会で自分の列が少なくても耐えられる方」なのだそうである。
 しかし、アイドルになりたい人というのは本質的に人一倍承認欲求が強いだろうし、自己肯定感に翻弄されやすいであろう。それなのにこのアイドル三条件とは。アイドルというのは他人の目線に敏感な資質を持つ人でありながら、かつ他人の言動に鈍感な気質でなくてはやっていけない稼業なんだなと思う。鋼のメンタルが必要であろう。
 したがって、指原莉乃のメンタルの強さというか、この人の抜群のサバイバル力には一目置いている。HKT移籍のきっかけになったスキャンダルを武器にのまさかの大逆転ホームランは芸術的とさえ言えるし(ある意味で秋元康の才覚を見た思いもする)、空気を読む力に長けているのだろう。本書でのブルーオーシャン戦略や「離見の見」まで彷彿とさせる彼女の生存戦略はバカにできないところがある。「うんと偉い人にはフランクに、ちょっと偉い人にはていねいに接する」は世渡り術として名言であろう。実は彼女は他人との距離感をうまくはかる名人なのだと言える。
 
 
人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした
大木亜希子 祥伝社
 
 指原のようにサバイバルできるアイドルはほんの一握り。本書の著者は元アイドルである。強制的なグループ「卒業」の後、一般人として働きだすも酷使されすぎたメンタルでパニック障害にまでなってしまった。「人生が詰んだ」著者が「赤の他人のおっさん」とのシェアハウスで少しずつ治癒されていく話だが、そう簡単には治らない。彼女の心を乱す出来事が次々と起こる。自分の気持ちをコントロールできないで七転八倒する。それでも少しずつ癒されていく。この過程において「赤の他人のおっさん」ことルームの家主「ササボン」がとってくる距離感は絶妙だ。距離感こそが人を救うことの見本であろう。
 「バカすぎる」でも「熊」でも「がさつくん」でも「赤の他人のおっさん」でも。「見ていてくれている」ことでようやく自分のアイデンティティは定まってくる。
 
 
じぶん・この不思議な存在
鷲田清一 講談社
 
 その指原の逆転力の中に「他人が決めたキャラにはとりあえず乗る」というのがあるらしい。それが持続可能性があるかどうかは慎重に判断する必要があるが、ニーズには乗るということなのだろう。この他人あっての自分、他人の認識あっての自分、を自己問答したのが本書。
 とはいっても、他人から認められない限り「じぶん」など無いという承認欲求の話ではなく、著者の視点はもっと深淵だ。ポイントは他者がこの「自分」を「一個人」としてどう認めているかどうかだ。いちばん辛いのは他人にとって自分が「無関心」、空気なような存在になるときである。「無関心」でなければ、「好き」でも「キライ」でも「尊敬」でも「嫌悪」でも「バカすぎる」でもひとまずは良いのだ。なぜならばその世界において間違いなく「自分」がそこにいて世界において影響を与えていることになるからだ。伝聞だが、太平洋戦争で捕虜になった日本人が、自分たちの目の前で女性の米兵が着替えだしたとき、かの日本人はヒドイ虚しさを感じたそうである(人間扱いしていないということ)。
 幼児がとてとて歩いて転んで泣いた。これは痛いから泣くのではなく、親に痛い思いをした自分を見てもらいたくて泣く。誰も見ていないときに一人で転んでも泣かないことが多い。そこで親は子どもが転んだとき、大丈夫?というのではなく、「見てたよ見てたよ」といって駆け寄る。そうすると子どもは気持ちを落ち着かせるそうだ。
 
 ということは、自分もいつも誰かを見ていたいものである。そうすることで、その人がアイデンティティを持てて、しっかりと生きていくことができていることだってきっとあるはずだからだ。

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ナッジ?・インバウンド再生・ドローダウン・戦争と指揮

2021年05月06日 | 複数覚え書き
ナッジ?・インバウンド再生・ドローダウン・戦争と指揮
 
うまくおちなかったのでここでまとめて4冊。いずれも専門分野の本だ。
 
 
ナッジ? 自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム
 
編著 那須耕介・橋本努
勁草書房
 
 本書は「ナッジ」がはらむ「リバタリアン・パターナリズム」の是非についての論考アンソロジーである。つまり、読者としては「ナッジ」と「リバタリアン・パターナリズム」について最低限の知識があることが大前提となる。しかし、「ナッジ」という概念はどれくらい人口に膾炙されているのだろうか。まして「リバタリアン・パターナリズム」なんてどのくらいの人が知っているのだろう。
 そういう意味では人を選ぶ本というか専門書の類のはずだが、そのわりにタイトルや装丁がカジュアルで、入門書みたいな印象を与える。それに、中身を読んでみたら寄稿されている論文はどれもわりと読みやすかった。全体的には専門書というよりは啓発書なんだろうと思う。巻末にガイドブックもついている。
 
 こういう顔つきをしている本は初心者むけだという社会的因襲を逆手にとり、いつのまにかポリティカルな議論に巻き込ませる。まさにナッジにおけるリバタリアン・パターナリズムを実践した本である。
 
 
インバウンド再生 コロナ後への観光政策をイタリアと京都から考える
 
宗田好史
学芸出版社
 
 コロナによってあれだけひしめいていた外国人観光客がまったくいなくなった。外国人観光客の増大による影響はポジネガどちらもあったように思うが、本書はネガ、とくに「オーバーツーリズム」に焦点をあてている。オーバーツーリズムというととにかく外国人観光客による混雑やマナーの問題にフォーカスされされがちだが、その根源を見定めていくと粗悪な旅行業者の存在が見えてくる。彼らのやり方は「薄利多売型」で、地元生活者や地域経済を軽視したビジネスモデルなのである。
 著者としては、そうではなくてむしろ厚利少売型のビジネスモデルこそが持続可能な観光都市のありかたであると説いているわけだが、そこで本書がインバウンド再生として参考にするのはイタリアと京都だ。どちらも良くも悪くも観光客にさらされた歴史を持つ都市だけに試行錯誤の経験値にあふれている。共通するのは観光への経済的依存度は強くとも、その文化を守るための誇り高き固辞の態度である。イタリアにおける、たいして歴史も美術も勉強していない中国人観光客のために郊外にアウトレットモールをつくってそっちに誘導し、市内には足を入れさせない、という観光導線設計はそこまでやるかという気もするが。
 
 
ドローダウン 地球温暖化を逆転させる100の方法
 
ポール・ホーケン 編著 江守正多 監修 東出顕子 訳
山と渓谷社
 
 パリ協定によって2050年までに二酸化炭素の排出量を実質ゼロにしなければならなくなった。そんなこと本当にできるんだろうかと思うが、日本政府は2030年までに46%の二酸化炭素削減目標を発表した。この数字の根拠については小泉進次郎環境大臣が「目の前にイメージが浮かんだ」と抜かして周囲を煙に巻いたが、本当のところそんなわけあるはずがなく、何かしら言えない事情があるのだろう(アメリカに言われたとかかな)。こういうときに茶番にしてしまうのは政治家の仕事のひとつなのかもしれない。
 それはともかく、大事なのはじゃあどうやって削減するのか、という方法論だ。二酸化炭素をそこまで大削減するにはかなりの大仕掛けが必要に思うのだがいまひとつ展望が見えていなかった。太陽光パネルや風力だけで達成できる気もしないし、最近は水素がどうのこうの電気自動車がどうのこうのと宣伝されているものの、それがどのくらいのインパクトを持つのかがどうもよくわからない。
 そんなところに、ここに100の方法が紹介される本が現れた。太陽光発電や電動自転車といったものから、都市部においてはエネルギー制御された都市、緑地化する壁と屋上などがあり、農村においては森林を温存したままの牧畜、多年草を中心とした畑作なんてのがある。はてには途上国における女児の教育や先住民による土地管理というようなものも含まれる。要するに人の営みをまるごと刷新するということである。
 めちゃくちゃ気合が入った本だが、こういう本を東洋経済でも日経BPでもなく、山と渓谷社が出してきたことにメッセージ性を感じる。
 
 
戦争と指揮
 
木元寛明
祥伝社
 
 著者は、もともと自衛隊の上級職まで上り詰めた人。そういう意味では国防とか戦争とか政治というものに対しての価値観が一般の生活者とちょっと違うかもしれない。内容的には「ランチェスター思考Ⅱ」とかとか、「知的機動力の本質」ともかぶってくる話だ。
 「ランチェスター思考Ⅱ」にもさりげなく出てきていたが、全体時間の最初4分の1を立案に使い、残りの4分の3を準備に使うという「3:1」時間ルールなんてのは、かなりひろく敷衍できる考え方だと思う。中央本部が4分の1を使い、残りの4分の3を各地方本部にあずけ、その地方本部がそのまた4分の1を立案に使い、残り4分の3を現場統括に預け、現場統括がそのまた4分の1で算段して残り4分の3を各支部隊に預け・・というフラクタル構造になる。
 
 

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四畳半タイムマシンブルース・AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争 ・他

2020年08月30日 | 複数覚え書き

四畳半タイムマシンブルース・AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争 ・他

 

たまにやってくるうまくオチなかったものの覚書き。


四畳半タイムマシンブルース

森見登美彦
KADOKAWA

 おお。森見登美彦の初期のケッタイな世界が帰ってきた。文庫化を待とうかなと一瞬思ったが、最近かための本が続いたので息抜きに購入。
 といいつつ、「四畳半神話大系」の詳細はもうすっかり忘れている。小津って誰だっけ、樋口ってのは重要人物だったっけ、そうそうヒロインの名前は明石さんと言ったっけな・・という状況である。せりふ回しもすっかり忘れている。「四畳半神話大系」を確認したくても、自分が持っていた文庫本はだいぶ前に処分してしまっていたので、本屋さんで確認。あーやっぱりあのセリフはここに伏線があったのかと納得。
 それにしても、ドラえもんはすごい。日本人はドラえもんのおかげでタイムマシンパラドックスの妙に対してのリテラシーがあるといってもよい。同じ時空間に同じ人物が多種存在してドタバタする狂騒さや過去と未来のつじつま合わせのトリックは映画「バックトゥザフューチャー」よりはるか前に、我々は「ドラえもんだらけ」で知ったのである。

 

縄文の思想

瀬川拓郎
講談社新書

 日本人論を語るのに、「日本人は農耕民族だから」という日本人観はわりと自縄自縛というか、好都合につかわれてきたレトリックのように思う。
 日本列島の特徴を「四方で海に囲まれてる」と表現するくらいだから、漁労文化もまた日本を特徴づけるものになるだろう。また、国土の70%が森林山岳地帯となれば、狩猟文化だって日本文化のメインどころとなる。
 「反穀物の人類史」でも壮大に示されたように、狩猟採取文化と農耕文化は同時並行的に存在し、共依存のような関係でもあったと言えなくもない。学校の教科書では「縄文」のあとに「弥生」がくる教え方をしているから、われわれは一般において「縄文」は米作前の旧時代という印象が強い。しかしあらためて考えれば農耕民族史観というのは、天皇家(とその取り巻きの氏族・貴族)がその行政基盤となったわずかな平野に対してつくった歴史観にすぎないのではないかなどとも思う。「縄文文化」と「弥生文化」は並走していたとみてもよいように思う。


AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争

庭田杏珠・渡邊英徳
光文社新書

 こうしてあらためて見ると「モノクロ写真」がもつイメージの束縛力は大きいのだなと感じる。カラーになったときのいまの我々の「地続き感」ははんぱない。いままで近現代の歴史における記録写真や記録動画は「モノクロ」のもつ隔絶性とでもいった免罪符に守られていたのではないかとまで思う。ぼくはNHKスペシャルの「映像の世紀」が大好きだが、あれも「モノクロ」ゆえのすごみというか、不思議な説得力があった。映画「シンドラーのリスト」ではスピルバーグがあえてモノクロで全編撮影をしていて、すさまじい虚無感に襲われるがこれもモノクロのもつしたたかさとも言える。あの映画、カラーだったらずいぶんまた印象が違うのだろう。


漱石を知っていますか

阿刀田高
新潮文庫

 完全に漱石作品のダイジェスト集。「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「草枕」「三四郎」「それから」「門」「虞美人草」「こころ」「明暗」など、有名な漱石の小説のほぼすべてをカバーしてあらすじを整理している。労作だが、しかし小説というのは骨子だけダイジェストにすると魅力は半減するのであって、こうして装飾を取り払われた骨子だけの漱石というのはさして面白くないなというのが発見であった。登場人物の思わせぶりなセリフやちょっとしたたちふるまいの描写、街の光景、場面転換の妙に漱石の神髄はあったんだなというのを改めて感じだ次第である。

 

アルゲリッチとポリーニ ショパン・コンクールが生んだ2人

本間ひろむ
光文社新書

 なんでこの2人? というのが率直な感想だった。
 僕が高校生くらいの頃(80年代)、クラシック音楽の世界で頂点に位置するバリバリ現役のピアニストは4人いた。マルタ・アルゲリッチ、マウリツォ・ポリーニ、ウラディミール・アシュケナージ、アルフレッド・ブレンデルである。このうちアシュケナージとブレンデルは2020年現在すでに引退を発表している。
 ぼくは当時もいまもアシュケナージ派で、したがってアルゲリッチやポリーニにはそれほど思い入れがなかった。なんというか判官贔屓のような思春期特有のメジャー嫌いがたたって、当時すでに絶大人気だったアルゲリッチやポリーニは忌避していたのである。アシュケナージだって大人気だったが、どういうわけか彼は「通ウケ」がよくなかった。ブレンデルは高校生のぼくには、そのストイックなピアニズムが渋すぎた。
 この4人はいわばレコード会社の看板を背負う向かうところ敵なしの4大ブランドであったが、ブレンデル以外の3人はまっとうな精神状態でピアニストをやり切とげることができなかった。アシュケナージは途中から指揮活動のほうに夢中になってしまった。ポリーニは90年代ころに演奏スタイルが激変し、その後はあきらかに切れ味が落ちた。いちばん顕著なのはアルゲリッチで、ソロ活動ができなくなってしまい、2台ピアノのための作品や室内楽ばかりやるようになった。
 こうしてみると最後までぶれずにふみとどまったのはブレンデルだけだったということになる。この人はもともと屈折したところがあってそれゆえに試練への耐久性があったのかもしれない。
 超一流ブランドでありつづけることの苦悩は想像を絶する。ということで、実はアルゲリッチとポリーニだけでなく、アシュケナージとブレンデルをふくめた4人でやってみたら戦後のクラシック音楽界のピアニズムやピアニストの事情を壮大に俯瞰できたのではないかとも思う。

 


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カラマーゾフの兄弟 ミステリーカット版・第三のチンパンジー・女の子が生きていいくときに、覚えておいてほしいこと

2020年01月29日 | 複数覚え書き

カラマーゾフの兄弟 ミステリーカット版・第三のチンパンジー・女の子が生きていいくときに、覚えておいてほしいこと

 

困ったときの複数覚書き。いわゆる落穂ひろい。


カラマーゾフの兄弟 ミステリー・カット版

ヒョードル・ドストエフスキー 編集:頭木弘樹
春秋社

 編者曰く「エベレストを高尾山くらいにした」という、文学史上最高傑作として名高い「カラマーゾフの兄弟」をたいへん食いやすくした版である。全体の量がおよそ20分の1になっているというから驚異的。
 といっても単なるダイジェスト版ではなくて、原作をうまいこと抜き出してミステリー小説のプロットにしてしまっているところがミソ。この文学の構成をことさらややこしくしているゾシマ神父とかをばっさりカットしてしまっているわけである。
 で、僕は原作「カラマーゾフの兄弟」はまだ完読していないのである。いつかは読んでやろうと思っているもののどうにも優先順位が後回しだ。とりあえず、このミステリーカット版は読んだ。これならものの数時間で読み切れる。それから、「まんがで読破」シリーズのも読んだ。ここまで前知識を得たうえでようやく光文社古典新訳文庫(もっとも読みやすいといわれている)を手に取ったのだが、現在、第3巻の途中で完全に止まっている。やはりミステリーカット版は上澄みの上澄み。「カラマーゾフの兄弟」の真価はそんなところにはない、というのは原作と向き合えばおおいにわかるのだがあまりの重厚長大で目下工事凍結中。いつか再開するときがくるのであろうか。


若い読者のための第三のチンパンジー 人間という動物の進化と未来

ジャレド・ダイアモンド 訳:秋山勝
草思社

ハラリの「21Lessons」を家人が先に読み始めたのだがいっこうに読了する気配がなく、なかなかまわってこないので、いったんこちらを読む。思えば、ダイアモンドのこの本はハラリの「サピエンス全史」よりも早かったんだよなあ。だけど、ダイアモンド流にハラリの「サピエンス全史」から「ホモデウス」までをカバーしちゃっているとも言える。ダイアモンド入門として位置づけられる本だけれど、これ1冊に人類のと希望と内省と教訓がもりこまれていると思う。


1万人のリーダーが悩んでいること

浅井浩一
ダイヤモンド社

ぼくもいちおう部下持ちの管理職ということでたまにこんな本を読んでみる。が、この類の本も何冊か読んでみるとどれが多くの著者が共通して言っていることで、どれが著者特有のものかというのが見えてくる。前者にあたるものは一種の真理とは言えよう。そのココロは「部下が話しかけてきたときはどんなに忙しくても必ずパソコンの手をとめ、話しかけてきた部下のほうに体をむけ、彼ないし彼女の顔をみて、しっかり話を聞く」ということである。ゆめゆめ手も止めず顔も上げずの応対だけはNGなのである。


二十世紀の音楽

吉田秀和
岩波書店

底本は1957年に書かれたもの。ストラヴィンスキーやヒンデミットが存命どころか現役作曲家として出てくる。にもかかわらずここに書かれたクラシック音楽業界が持つ限界、作曲家と演奏家と聴衆という三角関係がクラシック音楽を袋小路に導くことを本書は予言しているのだがまさに現在その通りである。吉田秀和おそるべしである。この人こそは知の巨人だった。巻末に出てくる人名辞典も興味深い。1957年にまとめられた本にあってブーレーズやシュトックハウゼンは出てくるが、ペンデレツキやクセナキスは出てこない。今となってはすっかり忘れられた「現代音楽」の作曲家の名前が気鋭の音楽家として紹介されていたりして栄枯盛衰、弱肉強食を感じる。


女の子が生きていいくときに、覚えておいてほしいこと

西原理恵子
KADOKAWA

この本の感想はこんな断片ではなくてちゃんと一篇として書けそうだけれど、十二分に話題になった本であり、いまさらぐだぐだ書くのもあれなのでまあいいや。およそ1時間くらいで読めてしまうが読後感は胸いっぱいである。彼女ならではの女子の生き方論であり、独特の迫力と無類の説得力があるのは確か。それを支えているのは彼女の人となりだろう。この人は無頼派の芸風ではあるし、たしかにそういう人なんだろうけれど、一方では繊細というか傷つきやすくもあるんだなと思った。たしかに一見雑に見えるが、あれだけ笑いどころや泣かせどころのツボをおさえたマンガを書けるということはやはりそうとうに繊細な神経を持っているといえる。「毎日かあさん」もたびたび心を痛めて休載していた。あの画風作風は気の赴くままなのではなく、周到に計算された超絶技巧ということになる。そりゃ神経すり減るわ。


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読む力聴く力・野宿入門・人はなぜ物語を求めるのか・他

2019年10月01日 | 複数覚え書き

読む力聴く力・野宿入門・人はなぜ物語を求めるのか ・他


最近読んだもので、うまくオチなかったものをここでまとめて集大成。


読む力・聴く力

河合隼雄・立花隆・谷川俊太郎
岩波現代文庫

 ものすごい面子によるトークショーの収録。「書く力」でも「話す力」でもなく、「読む力・聴く力」である。でもこれは、書くためには、話すためには、まずは読む力・聴く力が必要ということでもある。
 立花隆のI/O率の話にすべて集約されているように思う。良質な1のアウトプットを成すには100のインプットがないといけないが、書きものに限らず、相手に敬意を払いながら相手のことを見定めてコミュニケーションするのも同じことかと思う。河合隼雄がインプットをバッハやモーツァルトからもらうというのも面白い。



野宿入門

かとうちあき
草思社

 ここで挙げられている野宿とは、山の中で一晩明かすとか、テント張ってキャンプとかそういうのではなく、まさにそのへんの公園で段ボールを布団代わりに一晩明かす行為である。それもやむを得ずの野宿ではなく、エンターテイメントとしてやっている。思いつかなかったなあ。段ボールを調達するにはコンビニがいいとか、トイレがきれいかどうかでその公園の安全度がわかるとか、けっこうリアリティある。四十過ぎた今となってはチャレンジするには億劫だが学生時の自分だったらマネしてみただろうな。



失われたドーナツの穴を求めて

芝垣亮介
さいはて社

 類似の先行書として大阪大学ショセキカプロジェクトの「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」がある。凝った表紙のつくりといい、いろいろな専門の先生がそれぞれの専門領域から寄稿する形式といい、その際の著者の写真が手にドーナツを持つところといい、たまにコラムが入る構成といい、もはやパクリといってよいほどの編集なのに、先行書に対して敬意がないのがどうにもいただけない。先行研究に対して差異を表明し、そこをつむぐのは研究姿勢としてむしろ必要だが、この本は単にディスっているだけである。こういう本はまずは品位が大事である。



人はなぜ物語を求めるのか

千野帽子
ちくまプリマ―新書

 「物語」というのは情報を人にインプットさせるための一種のプログラムなのである。だから、本来は断片的にばらばらな情報の集合体でも、編集して前後の因果関係をつなげた「物語」にしてしまう。そうしないと理解や納得の手がかりがうまれないからである。
 「物語」は古今東西の人類に共通するから、ヒトが社会を営むにおいて必要なプログラムと言えそうだ。ただ、ここから転じて「物語」にならない情報は存在しないに等しくなったり、本当は物語などないのに、さも物語にして「真実」にしてしまうバイアスが登場することになる。
 あまりにもよくできた「物語」はむしろ眉唾であると思ったほうがいい。(古来から言われる「話ができすぎている」というのはそういうことですね)



ずんずん式★壮絶メンタルトレーニング

ずんずん
すばる舎

破天荒なようでいてちょいちょいはっとさせる気づきがあった。「相手に期待値をちゃんと伝えるって大事」「心配や不安を考えることでいいことはなにもない」「ライフミッションを見つければ目の前のトラブルに動じることはない」「タスクベースではなく、ヒューマンベースで評価」。



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「読まなくてもいい本」の読書案内 ・RE:THINK・最高の飲み方・カラシニコフ

2019年05月20日 | 複数覚え書き

「読まなくてもいい本」の読書案内 ・RE:THINK・最高の飲み方・カラシニコフ


うまくオチなかったものをこちらでまとめて。あとでサルベージできればいいなと。



「読まなくてもいい本」の読書案内

橘玲
ちくま文庫

 いぜんハードカバーで出たときは、書店の平台に積まれたのをパラパラと立ち読みしてまあいいかと済ませていたのだけれど、このたび文庫で出たので購入。

 ここであげられているのは

 ・複雑系(システム論)
 ・進化論(生物学)
 ・ゲーム理論(行動経済学)
 ・脳科学(認知科学)
 ・功利主義(社会科学)


 だ。これらは従来の学説を根底から覆したものである。つまり、パラダイム変換より以前のことについては勉強してもしょうがないーーということで「読まなくてもいい本」というタイトルになっている。マルクス経済学とかフロイト心理学とかダーウィンの進化論とかは、一生懸命読んだところで「無用の知識」なのだ。ハイデガーやラカンのポストモダン哲学ももういらないというわけだ。

 まあ、その一刀両断の是非はおいといて、こうしてみると、僕は幸いにも案外いいセンいってたんだなと思う。この5つの分野それぞれなんとなく勉強したり本を読んだりしてきた。もちろん素人の手すさび程度のものである。あらためて本書を読んで初めて知ったこともいろいろあったけれど、だいたい基本は押えていたようで一安心だ。それに、こうして同じレベルで横並びにして論じられると再整理もできてよかった。



RE:THINK リ・シンク 答えは過去にある

スティーブン・プール
早川書房

 表紙のデザインに惹かれて買ったというのが本当のところだ。古きロシア・アバンギャルド風というか。

 それはともかく。
 新しいアイデアというのは既知のアイデアの組み合わせである、というのはアイデア学の基本中の基本だ。世の中のたいていの目新しいものは、過去に類例がある。ただ過去の時代はなんらかの制約や条件があってうまく成立しなかった。
 よく例えとして出てくるのはアップルコンピュータとiPhoneだろう。マウスを用いたGUIはゼロックスのほうが早かったとか、指でタッチして操作するケータイは三菱電機のほうが早かったとか言われている。

 テクノロジー商品ならまだ罪はかるい。病理学や衛生の世界になると人の命がかかってくる。本書では「手洗い」の効能のエピソードが出てくる。現在は手洗いは衛生上の最低条件だし、子どもの頃から叩き込まれているからそれが当然のように思われているが、かつてそうではなかった。乳児の死亡率の高い産院とそうでない産院の違いに、スタッフの手洗いの有無を見て取った医者がいたが、非科学的として嘲笑された。

 ゼロックスにしろ三菱電機にしろ、手洗いを推奨した医者にしろ、有効なはずなのになぜ成立しなかったのか。むしろここがポイントだろう。「答えは過去にある」かもしれないが、なぜ過去は当時にあっては答えにならなかったのか。このバイアスの強さははかりしれない。真実を発見する力より、バイアスを除く力こそがイノベーションの肝心である。パラダイムシフトは世代交代を果たすまでは難しいとは言われるが、力業で価値観をかえた例も興味深い。



酒好き医師が教える最高の飲み方

葉石かおり・ 監修:浅部伸一
日経BP社

 さいきん「最高の」とか「最強の」とか冠されたビジネス書が多い。これがビジネス書なのかどうかは微妙だが、たいていビジネス書コーナーにおいてある。ほかにも「東大式」とか「京大式」とか「スタンフォード式」とか「ハーバード式」とかいうのも多い。

 どんな言葉でも頭に「夜の」と付け加えると、なんだか意味深になる、というコトバ遊びがある。「夜の教科書」「夜のすごろく」「夜のラジオ体操」・・ 同様に「大人の」をつけるバージョンもある。
 それらと同じで、「最高の」とか「東大式」とか、これらの枕詞は、たしかになにか引き立てている効果を持つ。
 
 とはいえ、最近の書籍のタイトルは、百花繚乱というか粗製乱造というか、なんでもありだ。「最高の睡眠」「最強の筋トレ」。「東大式記憶術」に「京大式読書術」に「スタンフォード式ストレス解消法」。

 そんなところでついに「最高の飲み方」が登場した。「睡眠」「食事」と来ていたので次は何かと思っていたら「飲み方」か! もうなんでもできそうだな。「入浴」「散歩」「通勤」「歯磨き」・・・ 「ハーバード式歯磨き」なんてのがあったらみんな実践するんじゃないか。


カラシニコフ

松本仁一
朝日新聞出版

 いつか読もうと思っていていつまでも読まないまま刊行から15年以上経ってしまった。なかば忘れかけていた。先日たまたま別の新刊本で本書が薦められていて「おお!」と思い出した。

 ものの本によると、アメリカはマンハッタン計画によって開発された原子爆弾による犠牲者――すなわち広島長崎の直接的な犠牲者は25万人ほどとされている。もちろんその後も後遺症で多くの人が亡くなった。マンハッタン計画には22億ドル以上の予算がかけられ、13万人が従事した。
 旧ソ連の技術者カラシニコフが開発した自動小銃AK47はその姉妹機種・派生機種含めて1億丁以上が世界に散った。そして、このカラシニコフ銃の犠牲者がやはり推計25万人なのだそうである。
 つまり、アメリカとソ連は、それぞれ原爆とカラシニコフ銃で、同数の死傷者を引き出す武器を世の中に送り出したことになる。カラシニコフ銃は「世界でもっとも多くの人間を殺した武器」とされている。

 カラシニコフ銃の秘訣は、どんな劣悪な環境でも故障しないタフな構造、素人でも使いこなせる操作と管理の容易さ、さして難しくない原材料調達と製造過程にあった。これはモノの普及の大原則だろう。一般商材の商品開発ならばそれで問題ないが、これがこと殺人兵器であったことで悲惨な事態を招くことになった。ほんのわずかの訓練で実用を可能にし、アフリカにおいて大量の少年兵少女兵を生み出す原動力になった。安価に製造ができて大量に流通するカラシニコフ銃は貨幣替わりとなった。場所を選ばないタフな耐性は極寒地帯も高温多湿地帯も砂漠地帯も使用可能にし、グローバルレベルの経済圏を形成してしまった。

 ガバナンスの効かない未成熟な国に、扱いが容易な武器が流通すれば、あっという間に社会は崩壊する。「失敗国家」にあふれたアフリカでカラシニコフ銃は猛威をふるった。
 しかし、ここで重要なのはアフリカのガバナンスが、独裁者が絶対悪と言い切れないところにある。

 もともと、アフリカには文化・習俗の異なる部族が群雄割拠していた。それぞれの部族はそれぞれのガバナンスがあった。経済社会があった。
 欧州の国々が植民地経営に乗り出し、部族の生態分布とは関係なく、緯度と経度で国境線を引いた。そして第二次世界大戦後、ロクな後始末もしないまま独立させてしまった。何の因縁もない部族間同士の統合と分断で、いきなり統治をしろと言われても難しいだろう。しかもそこで算出される資源ーー石油や鉱石の資本はあいかわらず欧米で握られている。各国の思惑が自分に都合のよい部族を支援する。その最前線にカラシニコフ銃を手にした少年兵がいる。
 このあたりのからくりは、国際世論にもだいぶ知れ渡るようになった。ディカプリオ主演の映画「ブラッド・ダイヤモンド」はこのあたりの事情を克明に描いた。アフリカ会議TICADは、日本が主導となって開催されている。このような地での安定的に生活水準を向上させて経済発展に寄与するBOPビジネスという観点も生まれるようになった。国連もSDGsを掲げている。
 しかし、中国政府が偏った肩入れをしていることが問題になったり、あいかわらずテロリストの拠点になっていたりと、アフリカは様々な思惑に利用され続けられてもいる。カラシニコフ銃も未だ横行している。



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人口減少社会という希望 ・ 生き延びるためのラカン ・それから 他

2014年06月22日 | 複数覚え書き

人口減少社会という希望 ・ 生き延びるためのラカン ・それから 他

 

なんだかまた忙しくて、とりあえず備忘録。あとでサルベージできればいいな。

 

人口減少社会という希望  広井良典

 団塊Jr.より上の世代にもう少し利他的精神があるとよいのだろうがとは思う。経済成長主義と利他主義は本当は両立するはずだったのにどこかで見誤ったのだろう。経済学と経営学の違いみたいなものかもしれない。ここが克服できない限り、「国民総幸福」という指標も負け惜しみにしか感じ得ないのだろう。
 それから「自己責任」というコトバ、あれこそ悪魔のキーワードだったと思う。あれ以来、殺伐に拍車がかかった気がする。イラク人質事件のときに登場した言葉だったが、ああやって世の中あおっといたスキに、国会は粛々と裁判員制度を可決させてしまっていることを忘れてはならない。

 

生き延びるためのラカン 斎藤環

 すべては相対主義なのさと思えれば気も楽になるというものだ。
 我々が認識する世界は文脈で解釈されるものであり、その文脈を構成する文節はたいがい意味そのものというよりは記号なのであって(シニフィアン)、しかも尽きることなき欲望のエンジンとなっていて、そういった欲望で構成されたものこそが対象аである。あってる?

 

史記のつまみぐい 宮脇俊三

 再読。自分の会社人生が長くなってきたからか、今回は身にしみる記述が多かった。大意を示し、詳細を任せる。実力と思うか運と思うかが馬鹿と利口の分かれ道。人が一生懸命に書いたものをながしろにしてはいけない。

 

それから 夏目漱石

 理屈を語らせれば一人前、政治家が悪い、ブラック企業は潰れろ、社畜は馬鹿だ、ビッチは去れ、老害は一掃せよ、マスコミは腐っていると息巻くパラサイトシングル。夏目漱石の先見性凄すぎる。

 

星の王子さま サン・テグジュペリ

 最後の別れの場面こそ真骨頂ではないかと思う。こういう別れができるということは、見えない大切なものを分かち合ったということだ。「水」とは「愛」に他ならない。

 

失敗の本質 戸部良一・他

 再読。ほんとこれはマネジメントの教科書である。目的の二重性、現場戦闘から戦略プラン修正へのフィードバック機能の欠如、創造的破壊因子を擁す余裕がない構造体、ものの見方の固定。その本質は、自己否定することの勇気だけど、これはむしろそれでも芯の部分で揺らぎない自己肯定感が確保されているからこそ可能なふるまいという気もする。
 それにしても、最適化し過ぎると、時代の変化に合わせるのに遅れが出る、というのはけだし教訓だと思う。今でいうイノベーションのジレンマみたいなものか。

シンプルに書く! 阿部紘久

何かで読んだんだけど、「時間がないので文章が長くなってすみません」という手紙の冒頭。心底共感した。シンプルに書くって技術なんだよね。

 


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ナウシカの飛行具、つくってみた。 評価と贈与の経済学 絶望な国の幸福な若者たち 他

2014年03月07日 | 複数覚え書き

 色々読んでいたんだけれど、また仕事が忙しくなってここに書き留めるヒマがなくなりつつあるので、いったん備忘録。もしかしたら、のちにサルベージするかも。


ナウシカの飛行具、つくってみた。

八谷和彦

 できるもんなんだなあ、というのと、こういう情熱って自分はいつごろからなくしちゃったかなあ、というのが読後感。
 できるかできないかわからないものにチャレンジする感覚を最近わすれつつある。ついつい、やって失敗するくらいならやらないほうがましみたいな思考回路を発令させてしまう。もちろん、会社勤めのひ弱なサラリーマンだし、なんでもかんでも無鉄砲はいかないけれど、少しばかりリスク回避のバーを下げてもいいかも、と思った。1センチだけバーを下げるだけで、地平は何万ヘクタールも広がる。

 

評価と贈与の経済学

内田樹 岡田斗司夫

 「評価と贈与」の対語は、「契約と等価交換」だな。前者は惰性とか慣性という運動エネルギーをつくり、後者は平衡とか均等などの静止エネルギーを生む。時代そのものが能動的だったときはよかった。しかし、こn停滞しやすい現代、惰性をつくることが大事ということかな。それにしても太宰治はツンデレですか。

 

絶望な国の幸福な若者たち

古市憲寿

 たいそう評判よんだのは知っていたが、タイトルといくつか読んだ書評でもうなんとなくわかっちゃった気になったのと、著者のドヤ顔が目に見えるようで敬遠していた。文庫にでもなったら買うかなと思っていたのだが、kindleにあったので購入。意外にも順当な社会学の手続きを踏んでいた。慧眼に満ちているのは確か。

 

勝手にふるえてろ

綿矢りさ

 饒舌系の自問自答系。ネガティブダメぶりは「N.H.K.へようこそ」なみかも。

 

書楼弔堂破暁

京極夏彦

 いろいろ試みがあるのはわかるんだけれど、きほん対話劇で事件も事故もないから、展開はいたって地味で、退屈じゃないといったらウソになる。西洋近代化は、正しい答えはひとつ、という価値観を持ち込んできたが、ほんらい真実は多様なのである。

 

スワロウテイル 人工少女販売処

藤真千歳

 美少女ラノベとハードSFをあわせたような。2001年宇宙の旅とエヴァンゲリオンとブレードランナーとAKIRAと甲殻機動隊とルー=ガルーとプレイとヨコハマ買い出し紀行と最終兵器彼女をぜんぶミキサーに押し込んで強制排出したような。作者のアイデアと妄想とこだわりと趣味嗜好が全てぶちこまれたような。

 


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NHKにようこそ! 聞く力 わかりあえないことから ひきこもりはなぜ「治る」のか?

2013年01月30日 | 複数覚え書き

NHKにようこそ!
滝本竜彦

聞く力
阿川佐和子

わかりあえないことから コミュニケーション力とは何か
平田オリザ

ひきこもりはなぜ「治る」のか? 精神分析的アプローチ
斎藤環

 

 上記4冊を立て続けに読んだので、この4題噺をこころみてみる。
 キーワードは「コミュ障」。

 まず滝本竜彦の「NHKにようこそ!」。
 大学中退したまま4年間「ひきこもり」をしている主人公男と、謎の美少女(実は自己否定感たっぷりの不登校女子高生)の実にネガティブいっぱいなエンターテイメント小説である。10年以上前に出た小説で、コミック化やアニメ化もされた。
 実は僕は今にして初めて読んだのだが、SNSが登場しないくらいで、あとはまんま今でも通用しそうだ。それどころか「ひきこもり」は完全に定着した社会問題となっているだけでなく、いわゆる彼らが繰り広げるコミュニケーション不全な状況は、この作品が登場した頃より今現在のほうがさらに注目されていると思う。

 ちなみに「ひきこもり」と「ニート」は何が違うのか、ということだが、斎藤環によれば、「ニート」は勤労も職業訓練もしていないが対人関係がまだできている人のことである。「ひきこもり」は、対人関係の構築ができなくなっている。
 つまり、「ひきこもり」の本質とは、人の相手ができない、ということなのである。

 もっとも、 「NHKにようこそ!」の主人公はまったく対人関係が築けないほどには至っていないからむしろ「ニート」のほうが正しいかもしれないが、しかし、自分から切り出して人の輪に入っていくのがどうにも苦手、他人の目線が怖いというあり様はよく描写されている。

 
 この「人の輪に入っていくのが苦手」という人こそが今まさに受難の時代になっているのである。

 なるほど、むかしから口下手という人はいた。でもそれはそれで受容されていた。ところが、口下手はいまや大きなハンデとなってしまった。
 もちろんこれは一方で「コミュニケーション力」というものがもてはやされていることと関係している。就活で求められる人材とは「コミュニケーション力」がある人材である。モテる男性とは「トーク力」がある男性である。人見知りのリア充というのはなかなか想像しにくい。プレゼンテーションという行いもやたらに注目されている。
 こういう世相のプレッシャーも手伝って、かつては口下手だった人はさらにハンデとなり、最近はこれを「コミュニケーション障害」とか「コミュ障」とか表現したりする。

 いったい全体、なぜ人の相手をするということが、他人と会話するということが、こんなにプレッシャーになってしまったのか。
 阿川佐和子の「聞く力」が2012年もっとも売れた新書、というこの現代はいったい何を意味するのか?

 「聞く力」というタイトルがまず秀逸である。
 つまり「話す力」ではない。いまや「他人に話す」という行為は大事業となっている。なぜかものすごい高いスキルを必要とするかのようになってしまった。
 でも「聞く力」ならば自分でもなんとかなりそうだ。「話す力」ならばいろいろ訓練や度胸がいりそうだが、「聞く力」ならば心掛けだけでなんとかなりそうな気がする。
 そんな期待と希望が「聞く力」の100万部をつくりあげたような気がする。

 もっとも、コミュニケーションというのは一方通行ではないわけで、本書を読めば、実は「聞く力」とは、「相手に話をさせる力」にほぼ等しいということがわかる。阿川佐和子はインタビューについて語っているのだから、本書が触れているのは実際は「相手に話をさせるにはどうすればいいのか」なのである。
 まさにここがポイントで、「相手に話をさせる力」に現代人は悩んでいるといってよい。
 ニコニコだまっていれば相手は勝手に話し出すわけではない。相手の話を聞くには、話をさせるための口火を切らなければならない。うまく会話の加速がつくまではひっぱっていかなければならない。実にここの部分がいまや最大のネックになっているのである。(京極夏彦の近未来小説「ルー・ガルー」もこれがテーマだったなあ。)


 このことを実にうまく説明しているのが平田オリザの「わかりあえないことから コミュニケーション力とは何か」である。
 「わかりあえないことから」では、なぜ「コミュ障」がうまれてしまうのかについて、子どもの時代に他人と接する機会が減っていることをあげている。

 たしかにかつてに比べ、いまの子どもたちや学生は社会に出るまで、知らない人とちょくせつ会話する、という機会は少なくなっているように思う。電車の中で乗り合わせた見ず知らぬの人と世間話をするなんてこともなくなったし、携帯電話やメールがあるから、友達の親と会話するという場数も減っているように思う。
 等身大の「気のあう人」以外の人と話をする機会がないのである。

 だいたい子どもの数だって少ない。僕が小学生のとき、クラスの数は同学年で45人のクラスが全部で6クラスもあったのだが、いまの小学校は35人で2クラスとか3クラスしかない。
 そうなってくるとたしかに他人と接する機会は減ってくるだろう。もちろん高校時代からアルバイトに精を出して社会性を身につける人も出てくるだろうが、一方で、他人との会話や対話を十分に果たさないまま受験勉強を終えたり、就活を迎える人だっているに違いない。

 対話や会話というのはやはりメールとは違うものだ。たしかにメールのほうが楽だと思う場合もある。だが、その面倒の回避は確実にコミュニケーション力の成長を阻害していく。その末に「コミュニケーション力」こそが大事、と言われる世界にいきなり放り込まれ、コミュ障になってしまう。

 

 いったい口下手な人はどうすればいいのか。

 「わかりあえないことから」では、口下手は自分の語りの矯正を意識する前に、まず話し相手の立場、話し相手の文脈に乗ることを指摘している。実は「聞く力」も同じことを言っている。
 畢竟、コミュニケーション力とは何か、というと、「相手の文脈にのる力」なのである。相手の文脈にのった発言をすれば、相手はどんどん話をする。これが「話させる力」である。
 つまり、口下手というのは、話すのが下手なのではなく、「話し相手の状況を推しはかるのが苦手」ということになる。

 

 では、「話し相手の状況を押しはかれるようになれる」にはどうすればいいのか。

 それが斎藤環の「ひきこもりはなぜ「治る」のか?」に出てくる。
 結論からいうと、「話し相手の状況を押しはかれるようになれる」にはダメ元で「話す」しかない。ダメ元というのは、ダメでいいのである。黙って察してもらおうという態度こそがNGなのである。これは上記4冊すべてに共通していたのだが「察してほしい」コミュニケーションは、もう今の日本に通用しない。

 「話す」のである。相手に「声」を届けなければならない。外しても滑っても声が上ずってもいい(ただし声が小さくて聞きとれないのはよろしくない)。
 うまくテンポにのれなかったり、間が悪かったりして、うまく会話が続かなかったり、へんな空気になってもそこで自信喪失をする必要はない。
 何を話せばいいのか、きりだせばいいのかわからない。という。なんでもいいのである。

 なぜならば、「話す」ことは、少なくとも「私はあなたを好ましく思ってますよ」という態度を表明しているからである(もちろんケンカ腰は困る)。
 人は「自分のことを好ましく思ってくれる人」には話をしてくる。難解で知られるラカンも要はこういうことを言っているのだ。(ラカンはわからん、とはNHKにようこそ!で出てくるセリフ)。
 ということは、話を切り出さないと、会話は始まらない。というきわめて当然のことに帰結する。だがこれはとても大事な視点である。
 気の効いたことや面白いことをあえて言おうとしなくてよいのである。気の効いたコメントをしようという気持ちは、相手にウケよう、という利己的な動機が働いており、会話をつづけようという双方向を意図した動機になっていない。会話は大喜利大会ではないのである。

 その会話の応酬の中で、なんとなく相手の状況がぼんやりと見えてくる。
 会話が上手な人、コミュニケーション力がある人というのは、面白いことが言える人、なのではなく、実はずっと大事なことは、たとえ「間が悪かったりして、うまく会話が続かなかったり、へんな空気になっても」たいして気にしない人、なのである。数うちゃ当たるの精神であり、羹に懲りて鱠を吹いてなどいないのである。これが大きい。

 それでも、口下手な人、なれない人にとって、会話を切り出すというのは骨のおれることである。
 でも、それは本当に骨の折れることなのである。事実なのである。本人のせいではない。時代が、コミュニケーション力を求めるようになってしまったのだから。「わかりあえないことから」の表現でいえば、日本は成熟化し、協調性より社交性のほうが重要な時代になってしまったから。
 それなのに、社交を訓練する機会はむかしより減ってしまっているのだから。 

 でも、とにかく話せばよい。気の効いたことや面白いことをあえて言おうとしなくてよい。この会話を続かせるぞ、とだけ決めて話せばよい。相手が何かいったら、その何かを無骨でもいいから引き延ばしていく、たとえ失敗しても気にせず次もそうせよ、というのがなんと4冊の本を貫く堂々たる答えなのであった。

 

 

 

 

 


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中国化する日本 ・日本とは何か・南極点のピアピア動画・同人音楽とその周辺

2012年03月23日 | 複数覚え書き

現状報告

ここ最近読んだのをまた列挙すると、

・中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史 與那覇潤

・日本とは何か 網野善彦

・南極点のピアピア動画 野尻抱介

・同人音楽とその周辺 井手口彰典

 

である。脈絡ないようで実はつながっている。

まず、「中国化する日本」はネット上でも評判になっていて、読んでみてたしかに面白かった。この大胆な仮説の作り方は京都学派に通じるなと思ったのだけど、どうやら本当に一脈つながっているようだ。物議をかもしだしそうなタイトルだが、要するに中国化=グローバル化という図式なのである。このレトリックは、グローバリズムというのは、西洋諸国が台頭する以前に、中国でそのための社会体制が整えられたというところからくる。僕は不勉強なので、本当に中国がそうなのか、平清盛や後醍醐天皇らが「中国化」だったのかなど、本書が語ることの真実の程度を判断するだけの材料も頭脳も持ち合わせていないのだけれど、その真逆が「江戸時代化」という指摘はなんとなくそうかもなあ、と思う。人情とかムラ社会とか終身雇用とか年功序列とか本音と建前とかこのあたり江戸時代くさいといえばたしかにそう思う。

「江戸時代化」の基盤は何かというとコメによる農業を前提とした政治体制である。士農工商と検地と石高制。これが人を土地にしばりつけ、身分の固定性を促し、集団で一単位という社会単位をつくり、貨幣経済との矛盾をつくってしまった。良くも悪くも、コメは日本人と日本国家の歴史の中枢にある。というのは多くが共有する日本史観である。

 

・・というところを日本はもっと多様性を保った歴史があり、石高と武家社会と天皇制だけが日本の歴史ではない、というわけで網野善彦の「日本とは何か」。網野史観として名高く、「中国化する日本」でもこの名前が出てくる。僕も随所で彼の名前が出てくるのを気付いていながら本気で著書を読んだことがなく、改めて講談社学術文庫を手に取った次第である。日本列島を囲む海岸線は内地への防波堤ではなく、むしろ外地へむかって開くものであった。このポジネガ逆転の発想のカタルシスは筆舌に尽くしがたい。その観点からいえば、島国としての特殊性というのは、閉鎖性ということではなく、外地に開けることによる多様性の担保された社会ということになる。もっとも多様性というのは支配側にとっては厄介な状況であり、多様性の周辺部を切り捨てて真ん中を一律にすることに腐心することになる。鎖国政策なんてのもそのひとつで、支配側が外部から来る多様性の種を一律管理することになった。

というわけで、ボトムアップが多様性を担保するのに対し、トップダウンとはひたすらに均質性を求める。つまり、多様性と国家統一というのは互いに矛盾しあっていて、国家統一とは均質化をはかるということであり、学校で教える日本の歴史が、誰がどのようにして国家を統一したか、という話で語られるのだから、「どの点で均質化させたか」という話に終始してしまうのはしかたがない。(結論として次々支配者が変わって争いだらけになるわけだが)

ただ、興味深いのは、そういう日本の均質化の動きはあくまで日本という次元の中において発揮され、グローバルでの均質化にはまったく乗ってこなかったところにある。むしろ、グローバルの均質化の中では、日本は「ガラパゴス」という特殊性をまとうことになった。だが、改めて思うに、均質化した社会で強みを発揮するのは、パワーゲームで勝ちにいくか、比較優位で個性を発揮するしかない。日本は均質化の波の中でガラパゴス戦略とでもいうべき後者を選び、これが世界市場で売り物になる時代がかつて確かにあったのである。

もちろん21世紀になって10年が経過した昨今、かつての日本ブランドの威力が失墜しつつあるのは多くが知るところである。「ガラパゴス」がもつ精緻さは、グローバルのスピードとコストについてこれなくなった。比較優位性が薄れたのである。

じゃあ、もう日本はだめか、均質化するグローバルの中で塗りつぶされてしまうのか、というのが昨今の論調であるが、実は世界が魅了する日本というのがある。これのために世界は日本を無視できず、そこにマネーも動く。

それが何かというと、これが「南極点のピアピア動画」である。

唐突かもしれないが、そうなのである。

「南極点のピアピア動画」に出てくるのは、まず精緻さが要求される宇宙技術。日本が「はやぶさ」で見せた奇蹟の連続技はあれはまさしく日本が世界に誇る宇宙技術である。中国が有人宇宙船「神船」を飛ばしたのは確かに偉業であり、あれはウルトラDであったとすれば、「はやぶさ」はひいき目にみてもウルトラCを100回連続でやったようなものであり、どちらが技術的に困難かは即答が難しい。

それから深海探査技術が出てくる。深海探査は海洋王国ニッポンのお家芸と言われている。宇宙も深海も、素材技術が極めて重要であるが、ここでも日本の繊維メーカーや材料メーカーの研究はすごい。なぜマスコミがおいかけないのか。アップルばっかりおいかけてないで、こちらもちゃんと取材しなさいといいたくなるくらいだ。

それからこの小説はコンビニエンスストアのロジスティックスがでてくる。これも日本の物流マネジメントの極みであり、究極のサラリーマン巡回問題みたいなものである。この複雑怪奇な一筆書きを行うような仕組みは日本だけであり、Fedexもウォルマートもできない。

そしてこれらを横断するのは、なにをかくそう初音ミクとニコニコ動画である。これこそ日本のポテンシャルの極め付け、初音ミクが世界で引く手あまたなのは周知の通り。ニコニコ動画も要するにP2P技術なのであって、そのビジネスモデルと交わされるコンテンツの多様性はyoutubeに負けていない。

・・と、かなり乱暴に片付けてしまったが、今の日本も世界に誇れるものはある。ただ、問題があるとすれば、宇宙も深海もコンビニも初音ミクもニコ動も、奇妙にオタクっぽいところである。というか、本当に日本はもうこんなのしかないのか、とがっかりされるむきもあるかもしれない。

だが、ここで「同人音楽とその周辺」である。

個人個人が持つパワーが妨げられずに発露する機会が与えられると、日本人が作り出す世界はまだまだ世界を魅了できるのである。そのためには本書で再三強調されるように「妨げられない」という環境が重要になる。その意味で、インターネット社会、あるいは同人社会というのは「妨げられない」社会である。

つまり、「妨げられない」自発的なボトムアップという分野で日本が世界に誇るものが出現している。そして、これはボトムアップゆえにゆるされた「多様性」からうまれている。「中国化」というのはとにかく「妨げられない」社会をさしている。「江戸時代化」を憧憬に持つ日本は、「妨げられる」ことを自ら選んでそこに安住し、そして安楽死していくところがあったわけだが、ここに一番「中国化」した世界がなにをかくそう「同人」の分野であり、初音ミクであり、台湾返礼に見せたパワーなのである。最近になって国のほうでもクールジャパンといってこれらを持ち上げたり、大メーカーがキャンペーンに使うようになったが、トップダウンが完全にボトムアップの後塵を期した好例である。

  ただ、この「妨げられない」という、要するにネオリベラリズムが、政府主導である限りは格差云々の不公平感の蔓延を助長してしまうのは確かであり、ボトムアップのピープルパワーがかわりにそれを成し遂げるのか、日本人には本当にそれだけの分別と行動力があるのか、その出先が「初音ミク」に行ってしまう日本のカルチャーは本当にアジアの日本として世界に復権できるのか、それは本当にわからない。


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森見登美彦・涼宮ハルヒの憂鬱・他

2011年06月28日 | 複数覚え書き

森見登美彦・涼宮ハルヒの憂鬱・他

 

とにかく仕事のほうがむちゃくちゃ忙しかったのである。こんなに忙しいのも何年ぶりかといくらいの数カ月となってしまった。

だから、まともに本が読めない。

とはいえ、こういうときは仕事ばっかりしていてもよくない。僕はとくに仕事が好きなわけではないので、本でもなんでも、ココロの逃避上をつくっておかないと精神が荒廃していく一方だ。

というわけで、こういうときはあまり頭を使わない―というか、気軽に、深刻ではなく、だがしかし、次はどうなると推進力のある小説を携えておくことが理想である。小説といっても、読後が重たいの、たとえば社会派めいていたり人間の暗部をついたようなのはこういうときはNGだ。だから「告白」とか「八日目の蝉」とかかなり面白いらしいのだがひとまずパスした。また、本格推理とかハードSFのような、常に油断ならないものもあまりふさわしくない。「虐殺器官」読もうと思っているのだがまだ手をつけていない。

さらにこれらに加えて文庫本であることも重要である。食事や通勤、あるいはエレベーターの待ち時間などにささと引っ張り出して読めることが求められる。

 

というわけで、この3カ月の間、ひたすら読みやすいエンターテイメント小説を手に出していた。それが以下である。

・森見登美彦 夜は短し歩けよ乙女
・森見登美彦 四畳半神話体系
・森見登美彦 恋文の技術
・森見登美彦 走れメロス
・森見登美彦 美女と竹林
・有川浩 阪急電車
・有川浩 図書館戦争
・鯨統一郎 新・日本の七不思議
・三上延 ビブリア古書堂の事件手帖 栞子さんと奇妙な客人たち
・越谷オサム 陽だまりの彼女
・谷川流 涼宮ハルヒの憂鬱
・谷川流 涼宮ハルヒの溜息
・谷川流 涼宮ハルヒの退屈
・谷川流 涼宮ハルヒの消失
・谷川流 涼宮ハルヒの暴走
・谷川流 涼宮ハルヒの動揺
・谷川流 涼宮ハルヒの陰謀
・谷川流 涼宮ハルヒの憤慨
・谷川流 涼宮ハルヒの分裂
・谷川流 涼宮ハルヒの驚愕

 

こうやって並べてみると、涼宮ハルヒシリーズの存在感あるな。

 

まず、森見登美彦だが、実はまったく初見で、やたらに平積みだけされていたのだけは知っていたのだが、立ち読みさえしたことがなかった。たまたま、職場の同僚が「夜は短し・・」がめっぽう面白い、というので、どれどれとあまり期待せずに読み始め、そのまま没入した次第である。

好悪わかれそうな文体だが、個人的にはけっこう好きである。清水義範をちょっと思い出させる。最初に読んだのが「夜は短し歩けよ乙女」で、けったいな世界観と不思議にひきこむ文章で、そのままひきこまれた。しかも、彼の小説はなんとなく舞台や小道具が各作品つながっていることもあり、そのまま次々と読むに至った。「恋文の技術」なんてけっこうな離れ業でしかも、荒唐無稽と思いきや、なかなか説得力もあって、最後のほうはけっこう唸ってしまった。「四畳半神話体系」は、最初はなんじゃこりゃとむしろ引き気味だったのだが、第2話を読み始めて、ああ、そういうことなのね、と作品の「主旨」がわかったら、俄然たのしくなった。

有川浩は残念ながら二冊で打ち止め。ちょっと自分の琴線と違うかも。大人気なのはわからなくもないが、個人的にはあと半歩、ココロか仕掛けかギミックに踏み込んでほしいという感じ。

越谷オサムの「陽だまりの彼女」は、これも行き帰りの電車と食事中に読破したものの、実はしてやられた。この喪失と安寧がごちゃっとなる読後感は、あんがい類例がない。最後まで読んで、ああそういうことかともう一度随所を読み返す。

鯨統一郎の「新・日本の七不思議」は、作者自身が小説の体を諦めたのではないか。言い方悪いがやっつけ仕事のようにも見えるぞ。彼の歴史ミステリーは、なんだかんだでデビュー作の「邪馬台国はどこですか」が秀逸な気がする。

三上延のはなかなか選書がマニアックであってシリーズ化希望。

 

涼宮ハルヒシリーズは、これも存在はむろん知っていたわけだが、この手のジャンルにまったく無縁だった。だが、「驚愕」が東京駅の本屋で平積みされ、都内の大型書店でランキング1位に入ってきたり、ユリイカで特集が組まれるとなると、本好きとして知らないわけにはいかないような気概にかられ、購入した。この文章と内容なら多忙であっても1日1冊のペースでいける。最初の1冊目「憂鬱」は、まあライトノベルというのはやっぱこういうやつなんだなという具合で読んでいたのだが、「消失」あたりからけっこう面白くなった。いい感じに作者にエンジンがかかった気がする。やたらに衒学な引用をちりばめてきたり、いろいろなSFプロットを借用してきているなど、なかなかどうしてやるもんである。今まで完全無視してきた不明を恥じたといっていいくらいである。たまに入ってくる挿絵が、電車の中などで読んでいてハズカシイのが欠点。

まあ、そんな感じである。ここ数カ月はとにかく仕事が忙しく、とにかく殺伐としたココロにだけはならないよう気をつけたい。

 


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