読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

人類学者と言語学者が森に入って考えたこと

2024年11月13日 | 民俗学・文化人類学
人類学者と言語学者が森に入って考えたこと

奥野克己
伊藤雄馬

教育評論社


 僕が文化人類学の本(といっても入門書)を読む理由は、観察対象を知るためというよりは、僕自身をとりまく生活環境の閉塞感の打破のためであることが多い。日々の生活において約束事や決まり事で忙殺されているうちに、価値観がどんどん狭窄的になる。知らず知らずにストレスが溜まっていく。

 そんなときに、自分とまったく違う世界において、まったく違う価値観と生活様式で生きる彼らを知ることで、自分自身がとるにたらないことにとらわれていたのだ、と気づくことができる。これは精神衛生上まことによい。文化人類学の本を読むことは、僕にとって詩集よりも写真集よりも癒されるのである。このことは「文化人類学の思考法 」のところでも書いた。

 ということを、もう少し本気でディープに語っているのが本書である。ボルネオ島のプナンの民を調べる人類学者の奥野克己氏と、ラオスの少数狩猟民族ムラブリを調べる言語学者の伊藤雄馬氏の対談と寄稿で構成された本だ。社会人類学者のティム・インゴルドやインフルエンサーのプロ奢ラレヤーなども引き合いに出していきながら、プナンやムラブリの生活のありようから、日本社会として何が学べるかを議論している。本書ではそれを「すり鉢状の世界の外で生きる」と表現している。我々の日常はすり鉢の中の世界で、あたかもそれが全てのように生きているが、実はその外にも世界があるという見立てだ。プナンやムラブリはすり鉢の外である。

 両者が行う議論の内容は難解なものもあるが、根本的には絵本作家ヨシタケシンスケの名言「それしかないわけないでしょう」という観点だ。科学的に真実はひとつでそれ以外は間違い、というものの見方に対し、いやいやA だってBだってありえるのだ、と発想する。「科学的に真実はひとつ」というものの見方自体が生き方の選択肢の一つである、ということである。「幽霊が見える」という人に対して、幽霊が見えるわけないじゃないか、何かを幽霊ということにしているのだ、というメタな話に収めるのではなく、彼らには幽霊が見えるのだ、ということをそのまま受容するのである。幽霊が見える世界観の中を彼らは生きている。そこから、幽霊が見えない我々は彼らから何を学ぶことができるかを考える。西洋論理学の基本である弁証法に似てなくもないし、いったん断定を保留するエポゲーのようでもある。哲学的態度による試みと言えよう。


 本書の白眉と言えそうなのが、伊藤氏が語る、インゴルドの引用をさらに発展させたofからwith、そしてasへという話だ。
 つまり、かつて文化人類学は、対象をあくまで距離を保ちながら観察していた。安全な場所から一部分だけをクローズアップしてみていたのである。それは対象のofを見ていたことになる。博物学や物見遊山を出ていない。インゴルドは、そうではなくて、観察対象とはwithでなければならない、とした。一緒に生活して一緒に食べて一緒にものを見て、はじめてそこで観察対象のことがわかる。参与観察とかフィールドワークとか今では当たり前になったが、そのココロは他者から学ぶということだ。文化人類学は観察の学問ではなく、我々がどう生きるべきかの取り入れる学問になったのである。
 伊藤氏は、さらにas、「…として」の境地を目指す。withいうところの「一緒に」というのはまだ対象に没入していない。日本人のままである。日本人がムラブリと一緒にいるのではなくて、ムラブリとして生きてみる。日本人がムラブリになれるわけないじゃないか、に対して「それしかないわけないでしょう」。本人がasになりきれている、と言うならば、多自然主義ならばそれもありなのだ。それどころか、本人がムラブリにasならば、その活動場所はもはやラオスでなくてもよい。日本でもよいのだ。その境地に達した伊藤氏はラオスへの渡航を中止してしまった。

 このof、with、asは、自分と対象の距離と重なり具合そのものであろう。ofは離れており、withは部分的につながっており、asは完全に対象の中に自分が入り込んでしまっているわけだ。こうなると完全に身体感覚である。むしろ頭で考えて理解しようとしている限りでは、本当に取り込んで対象から学びや糧を得ることはできない、ということでもある。本書では第2言語習得論というのが出てくる。「モニター仮説」というのがあって、それによると言語を覚える際には習得(無意識)と学習(意識)があるそうだ。習得されたシステムが発話の生成を行い、学習された知識はその発話が正しいかどうかをモニターする、という仕組みである。モニター機能が強すぎると、正しさの追求のあまりに発話ができなくなる。日本人の外国語苦手な習性はここにきているのかもしれない。少なくとも僕自身にはすごく思い当たる仮説である。出川イングリッシュは習得がずば抜けているということだろう。
 しかし、これもof、with、asという概念が援用できる。ofに留まる限り、あるいはwithであったとしてもそれは正しさを追求する「学習」的態度を免れない。しかし、本当に身に付けるにはasによる習得ということになるのだろう。
 伊藤氏によれば、asでいるためには単にムラブリの言語に興味を持つのではなく、彼らの会話の中身や生活そのものに興味を持たなければならない。この時点でもはや「言語学者」を逸脱する。対象を無限抱擁するasになることことそ、我々の日常生活ーーすりばちの中の生活から、外に出でる道なのだろう。

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RITUAL 人類を幸福に導く「最古の科学」

2024年04月18日 | 民俗学・文化人類学
RITUAL 人類を幸福に導く「最古の科学」
 
著:ディミトリス・クシガラタス 訳:田中恵理香
晶文社
 
 
 儀式や行事というものを軽視している人にとって実に蒙を開かれる内容だった。つまり僕のこと。
 
 文化人類学や民俗学でよく事例としてあげられる異文化の民が行う風習や儀式の中には、身体に苦痛を強いたり、多大な苦労を要求されたり、ありえない経済負担を背負うものもある。本書でも素足で炭火の上を歩く火渡りの儀式とか、四つん這いで山を登る行事などが紹介されている。異文化理解をしようとは思うけれど、何をまあ好き好んで・・と思ってしまう自分もいることは否めない。よそさまの民族や宗教だけではない。寒い中の大行列をものともしない初詣、一度しか着ない高価な振袖に気合をいれる成人式、減ったとはいえ家庭の年間郵便使用費の6割を占める年賀状、価格根拠不明な戒名なんてのは、なんでそこまでして・・という不思議な日本の風習とも言えるだろう。
 それぞれの会社や学校にだって独特の儀式や行事がある。オリジナルの乾杯の形式があるとか、毎年何月何日は創業者をしのんで何かするとか、ユニークな社訓や標語を全員で暗唱するとか。
 
 本書は、このような儀式や行事というものが組織や個人に与える効能を科学的に追及したものである。火渡りの儀式の参加者を心電図やサーモグラフィで追跡するのはなかなか痛快だ。
 
 科学的に追求すると、その儀式が要求するストレスが高ければ高いほど、団結力や浄化作用はむしろ強化されるという興味深い結果を本書は述べている。あえて体を傷つけたり、莫大なお布施を支払ったり、朝から晩までみっちり拘束されたり、ひたすら同じことの繰り返しを要求するような儀式が、結果的に彼らの団結力や心の浄化をより強めるのだ。むしろ、ゆるやかで出入り自由で快適でなにやってもやらなくてもいいような「儀式」なんてものは、もはや「儀式」とは言えないのだ。困難な「型」をやり通してこそ儀式であり、この「型の遂行」に、団結力の強化や心の浄化の鍵がある、ということらしい。
 

 では、なぜ儀式とは「型」の遂行なのか。なぜ「型」を遂行すると精神は浄化するのか。団結力が増すのか。本書の白眉はそこである。
 
 本書の仮説はこうだ。20000年の人類の歴史において明日はどこでどんなことが起こるかはわからない、明日は誰が何を言うかわからない、というのが、人類に染みついたDNAの感受性なのである。
 そして、予測不能・先行き不明な中を過ごすということはひどくストレスを呼び起こす。疑心暗鬼になる。予測不能な動きをする相手は信用しにくい。予測不能な天気は著しく行動を制限する。いつ果てるとも知れぬそんな予測不能な環境で生きることは心身を消耗する。
 そこで、そんな無秩序な日々歳月に、人間はあえての秩序を人工的につくりだし、安寧を得ようとする。生まれて生後何日の危なっかしい赤ん坊は、初七日、お食い初め、お宮参りと区切ってその都度確かめることで順調な生育にあることに安心する。子どもになればひな祭りやこどもの日で区切り、七五三で区切って日々の成長が予定通りであることを見出して安心する。入園式卒園式入学式始業式終業式卒業式と区切りをつくって、いまの位置の安定を確かめる。足元の踏み石がぐらついていないか確認するかのように。そしてここからここまでを子ども、ここから先を大人、と定義してその境目に「成人式」なる儀式を設ける。
 儀式というきわめて予定調和な行為に身を委ねることは、予測不能によって消耗するこの心身を回復させ、不安を防御し、決意を新たにするのである。同じ予定調和のプロセスに参加した仲間はより団結心が強くなる。
 そして、儀式というのはそれが身体の苦役、精神的重圧、経済的負担を強いれば強いるほど、結果的に仲間の団結力を高め、そしてその人の「幸福度」を上げてしまうという効果がある。
 過酷な地ほど儀式のしばりが強く、その儀式の敢行がその地で生きる活力を強くするという本書の指摘はなんとも説得力がある。砂漠や熱帯の地域に戒律に厳しいイスラム教が多いのは一種の必然なのだろう。北朝鮮が型にはまった派手な大規模行事をくりかえさせるのも、それくらいしないと先行き覚束なすぎて人心を統一できないからだろう。
 
 僕は、入社式も社長の訓辞もへんな乾杯の音頭もキライで、型通りのことをトレースして悦になってる儀式や行事なんて最低限の最小限でいいと思っている乾燥人間だったのだが、自分がそうだからと言って他人が同じとは限らない。家族や同僚をして、僕のことを物足りない、あるいは離反のリスクがあるのかもしれない、などと本書を読んでちょっと思った次第である。
 

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女二人のニューギニア

2023年03月02日 | 民俗学・文化人類学
女二人のニューギニア
 
有吉佐和子
河出書房新社
 
 往年の旅行記の復刻である。が、僕はこの旅行記の存在、不勉強で全く知らなかった。もちろん有吉佐和子の名は「複合汚染」とか「恍惚の人」の作者としては聞き及んではいたが、知識としてはそれくらいで、この著名な作家のこと実はあまりよく知らないのである。なにしろ、書店で最初みかけたとき、有吉佐和子ではなくて阿川佐和子かと空目したくらいである。
 
 それにしてもなんという体験記録だろうか。本書はいわゆる「抱腹絶倒系」であり、弥次喜多このかた旅行記のひとつのフォーマットであるものの、単に笑うで済まない3つの大いなる特色があって、それが今日の復刻においてがぜん意味をもってくるものと思われる。
 
 その3つとは
 
 ①1960年代のニューギニア島が舞台になっている。
 ②同行者、というかホスト役である日本人文化人類学者畑中幸子のニューギニア奥地での孤軍奮闘のありよう
 ③「急死に一生を経て」帰国した有吉を襲ったマラリア熱
 
 である。
 
 ①1960年代のニューギニア
 文化人類学の世界にとってニューギニアこそは、最後のフロンティアだった。なにしろ文明との接触が1960年代までなく、石器時代からほぼ変わらない生活様式を暮らしていた民族や部族がこのニューギニアの高地にはたくさんいたのである。
 文化人類学者ジャレド・ダイアモンドは著書「昨日までの世界」で、彼らの生活様式こそは文明時代以前の人間の様相を知る手がかりになるものとして、その交易の仕方、喧嘩の仕方、近隣部族との戦闘、子どもの育て方、信仰心やタブー、食と健康などを事細かに記している。この本は非常に面白くて、現代社会の閉塞や病弊を打破するヒントにもなりうる書として僕なんかは氏の代表作「銃・病原菌・鉄」よりも、この「昨日までの世界」のほうを推しているのだが、この本によるとダイアモンドは1960年代にニューギニア島で調査のために滞在していたとある。「昨日までの世界」で掲げられているニューギニア先住民の挙動―-「パラノイア的な用心深さ」「大人の仕事の手習いとしての子どもの遊び」「見知らぬものに接したときの反応」などはこの1960年代の調査によるところが大きい。
 ところが、作家有吉佐和子および文化人類学者畑中幸子がニューギニアの山奥にある集落ヨリアピに滞在していたのがまさに1968年。しかもそのヨリアピに住むシシミン族なるネイティブ部族は1965年まで文明と接触をしていなかったリアルタイム「昨日までの世界」の人なのだ。
 
 ヨリアピで出会ったシシミン族の男性のいでたちたるや、いまや漫画の表現としても差別や偏見を助長するとして自粛対象になっている「鼻に穴をあけて動物の骨を刺し」「アイヤアイヤと雄たけびを上げ(シングアウトというそうだ)」「下半身は性器をひょうたんの実で覆っているだけ」であった。さらに「女は野豚3匹と交換」「酋長はつい先の部族間争いで28人殺している(女子こどもは数に含まず)」「大蛇を蒸して食べる」。現代ではフィクションでも描写がはばかれることが、有吉の眼前で普通にノンフィクションとして展開されたり、会話されたりする。
 いわば、今となっては都市伝説化したものが、リアルなものとしてここに外連味なく描かれているのだ。
 しかし、それはあくまで有吉が直接耳目にふれたものを抑制的に書いているに過ぎない。シシミンの習俗や思考についてはあえて踏みこまなかった。「一人の文化人類学者が生命を賭して調査している聖域なのだ。ふらりとしてやってきた作家が、ことごとしく書き立てるのは学問に対する冒涜」という態度を示している。
 
②同行者、というかホスト役である日本人文化人類学者畑中幸子のニューギニア奥地での孤軍奮闘のありよう
 そう。この同行者の畑中幸子が凄いのである。あとで調べてみるとご存命で、日本の文化人類学界では著名な人なのだった。Amazonで検索すると新書や文庫、それから翻訳もけっこう出している。
 畑中が当時調査研究していたのがこのニューギニアであった。当時この地はまだパプアニューギニアとして独立しておらず、オーストラリア政府の信託領となっていた。畑中はオーストラリア政府から支援を受けた。ジャングルの奥地に拠点となる高床式の館(有吉いわく「御殿」)の提供と、通訳や護衛のスタッフ(山のふもとの町のネイティブ)を派遣してもらっている。と書くと好待遇のようだがさにあらず。このヨリアピなるところは、ふもとの町からジャングルの山と谷の道なき道を徒歩で二日ないし三日かけて超えたところにあり、当時はもちろんインターネットも衛星電話もなく、夏ともなれば日中は蒸し風呂だし、朝夕は得体のしれぬ虫がわんさか攻め、現地ネイティブは風土病なのか謎の皮膚病に侵されている地である。そのような地ゆえにシシミン族は文明との接触が遅れた。つまり、オーストラリア政府も掌握しきれていないのだ。オーストラリア政府が彼女を援助したのは、彼女を「囮」にして謎の先住民シシミン族を掌握しようという魂胆もあったそうである。彼女はこのヨリアピなる地で3年間調査のために滞在したそうだ。
 1960年代のニューギニアの山奥にそんな日本人女性の学者がいたのである。本書で畑中が語るところによると、以前は同じニューギニアでももっとアクセスの簡単な場所を調査地としていたらしい。ところが「論文書くために一年だけ日本へ帰ったときに、アメリカ人の若い文化人類学者夫婦が住みついてしまった」とのことで調査地をこのヨリアピの地にうつしたそうである。まさかこのアメリカ人夫婦というのは若い頃のジャレド・ダイアモンドではあるまいな。
 その畑中の、スタッフや集落のシシミン族に対しての声掛け、働きかけがとにもかくにも痛快で面白い。カーカペッペと英語とピジン語とシシミン語(!)を駆使して、とにかくなめられないように(女性のステイタスが低い文化なのである)君臨しつつも、文化人類学者であるから現地のカルチャーを混乱させたり影響を与えないように細心の注意を払う。曰く「私はニューギニアでは顔なんよ」「ニューギニアは私のフランチャイズなんだからね」。本書のタイトルは女2人だが、有吉曰く「畑中さんが1.8人力。私が0.2人前という勘定」。
 
③「急死に一生を経て」帰国した有吉を襲ったマラリア熱
 というわけで、60年代のニューギニアのジャングル奥地と豪快な文化人類学者畑中幸子に対して作家である有吉佐和子はあくまでひ弱な存在。本書冒頭で本人曰くは「一見丈夫そうに見えるけれども、その実はウドの大木で、体力は人並以下、わけても脚力のなさといったら(中略)、本当は虫一匹這い出してきても悲鳴をあげて逃げるような弱虫なのだ)」。
 それが、ヨリアピまでの3日間の山岳横断で足の爪もはがしてしまい、最後は気絶してしまって、ネイティブに紐で縛って下げられて運ばれ、腕に吸い付いたヤマビルをもはやギャーギャーいう気力さえなくなるまで完膚なきまで叩きのめされる。
 約1か月のヨリアピ滞在(というか足止め)の後に、僥倖が重なって有吉は下山が叶った。その際の表現は「ほうほうの体で脱出」。その後ニューギニアを出国して香港にまでたどりついたときは「急死に一生を得た」と表現。これはまことに本心だったのだろう。「幸運に恵まれて奇跡的生還を遂げた」のは偽らざる本心だったのだろう。
 にもかかわらず、有吉は帰国後にマラリヤを発症し、死の恐怖におびえる。当時の医療技術ではまだ治せるマラリヤと治せないマラリヤがあった。このとき採取されたマラリヤ原虫の入った有吉の血液は、東大で「アリヨシ株」として零下80度で保存され、血清として使用されたそうである。
 
 というわけで、ハードボイルド極まるニューギニア体験記であるにもかかわらず、「抱腹絶倒系」に仕立てて見せる有吉の作家の底力。なにしろ初版の刊行からもはや50年。有吉佐和子が亡くなって40年になろうとしているのに、令和の今なおここまで読ませて考えさせられるのだから凄すぎるったらない。よくぞ復刻してくれた。というか、いままで絶版だったのがむしろ信じられないくらいである。

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子どもの文化人類学

2023年02月07日 | 民俗学・文化人類学
子どもの文化人類学
 
原ひろ子
ちくま学芸文庫
 
 底本は1979年。つまり、30年以上を経て突如文庫化された。なんでまた? と思ったものの直観を信じて購入。結論から言うと、とても面白かった。
 
 著者は文化人類学者である。カナダ北部の森林地帯で狩猟をしながら暮らす先住民族「ヘヤー・インディアン」のことを中心に、母系社会インドネシアや、イスラム教シーア派の影響が強いバングラディシュの子どもたち、イスラエルのキブツ、アメリカの離婚家庭など、世界あちこちの民族の子育てや子どもの社会のことをつづったエッセイである。たまに日本のエピソードも顔を出す。刊行が1979年だから、フィールドワークはそれよりずっと前。1960年代の記録だ。さすがに2023年の今日においてこの通りだとも思いにくいが、しかし、現代なお学べるもの、考察したくなるものがたくさんある。むしろ現代だからこそ顧みたいものもある。
 
 親と子の情緒と規範の関係、こども同士の社会の作り方、学ぶことや学び方。働き方、巣立ち方。いちいち日本と違う。実子ともらい子の区別や垣根がない家族観だったり、そもそも物事を教えるという概念がなくて子供が勝手に見て学ぶだけだったり。子育てとは「仕事」か「家事」か「遊び」かの捉え方も日本と違う。性別役割分担意識も様々だ。だけどどの文化社会でも、だいたい子供たちは立派に育って一人前となっていく。人はどうあっても育つのだ。ひとつの「かくあらねばならない」という思想は単なる思い込みである。文化人類学の本を読む醍醐味はここにある。
 
 ただし。世界は広い、で読後感は止まらない。70年代の本を2023年に文庫された本書のすごみは行間から我々に警告を投げかけるものでもある。
 本書から見えてくるものは、文化というのは決して自然発生的に長い時間かけて育まれたものだけではなく、ひどく人工的なきっかけを由来にするものもあるということだ。本書で記されたバングラディッシュにおける子育てとこどもの世界は、きわめてアッラーの思し召しに支配されたものだ。本書におけるバングラディッシュの記述は文化人類学の常として淡々と感傷を拝して記述されるが、児童労働や、とくに女児児童の教育機会はく奪や強制婚の背景にあるのはイスラム教の考え方だ。1970年代の調査だが、今日でもユニセフや国際NPOの啓発ポスターなどで見る内容である。
 ウガンダの山岳地帯にすむイタ族は、親が子どもの世話をほとんどしない。ありていにいうと邪魔なのである。衣食住の確保はこどもの自己責任となる。その有様は目を覆うものがあるが、イタ族がそもそもそういう歴史を持つ民族だったのではない。当時のウガンダ政府の政策で、もともとイタ族が居住していた地域での狩猟と採集が禁止されてしまい、彼らは資源の乏しい山岳地帯に押し込められたのである。そこから弱肉強食の社会は誕生した。3才を過ぎた子どもに親はもう食事を与えない。自分の食べるものがなくなるからだ。
 
 ここが大事なポイントなのだが、空間軸的にこれだけの多様な子育て価値観があるということは、時間軸的にも子育て価値観は多いに変容していくことだって十二分にあるということである。タリバン政権の前のパキスタン、イスラム革命の前のイランの写真をみると、人々の服装、街角や店の佇まい、彼らの表情をみるに、我々西洋型民主主義社会の目からはむしろ非常に現代的に見えたりする。近代日本史において戦時中の閉塞社会の以前には大正デモクラシーがあった。社会規範が一定であり、かならずいい方向へと進化するという進歩史観は単なる「見立て」のひとつにすぎない。先のイタ族は、ウガンダ政府の政策の前はもっと健やかな共同体を営む部族だったのだ。つまり、規範はいつなんどき変化するかわからないのである。
 
 本書では、諸国各文化と比較した上で、日本は子育てがしやすい、こどもにやさしい社会である、と書かれている。70年代当時も悲惨な児童虐待事件はあって、そのたびに世論が騒いだが、そうやって騒ぐのは「こどもはかわいいもの」「こどもは愛情こめて育てるもの」という価値観が前提にあるからこそ、というのが著者の見立てだった。
 
 本筋では、今も日本は「こどもにやさしい国」の方ではあろうと思う。世界にはいろいろな国がある。それらに比べれば日本の子どもは恵まれているし、著者が言うように「日本人はだいたい子ども好き」なのだろう。
 
 ただ、現代日本の社会の空気では、素直にそうだとはとても思えないのはまぎれもない事実である。仮に統計的に、ファクトフルネス的に、日本は他国の社会に比べて「子育てがしやすい国」だったとしても、なんの注釈も弁明もなくこんな牧歌的なことは書けないだろう。「こどもは愛情こめて育てるもの」というこの一言さえ、議論の余地がある現代である。それは本書が執筆された1970年代、つまり団塊ジュニア世代が生まれてきた時代から50年近く経った日本の変化である。文化人類学は空間軸上の多様性を見つめる学問だが、それが自分自身の社会のいつか来た道、そしてやがて来る道になることも十分に思考実験する必要がある。

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文化人類学の思考法

2022年08月15日 | 民俗学・文化人類学
文化人類学の思考法
 
松村圭一・中川理・石井美保
世界思想社
 
 
 とかく結論を急ぎたい世の中である。映画はファスト動画で、ドラマは1.5倍速で、広告動画は6秒でも長い。現代を生きていく上で1日24時間では足りなすぎるということか。
 パターン認識があふれている。ちょっとした理解のとっかかりを見つけたら、ああこれは要するに●●のことだよね、と解釈し、結論する。見出しの数文字でコンテンツの結論を推しはかる。ひとつの写真だけですべての主張を判断する。
 よく言えば演繹的思考法。悪く言えばすぐに型に嵌めようとする思考法。行間とか伏線とか逆説とか閑話休題とかあえてのミスリードとそんなのはいらない。そんなのにかかわっている時間はない。さっとみてさっと判断したもので、眼前の世の中を見立てる。人は見た目が9割、人は話し方が9割、企画書は1枚である。
 
 そんな加速する現代を逆撫でするのが本書だ。いわく「文化人類学の思考法」。これすなわち、結論を急がない、用意された「型」や「理論」はぜんぶ疑ってかかる、すべては目の前ひとつひとつの現象をじっくり観察、それも実際に見て聞いて嗅いで触って舐める。外から観察するのではなく、中に入って一員になる。それからずるずると牛の反芻のように長い思考をする。

 序論にはこう書いてある。
 
 調査対象の「近さ」と比較対象の「遠さ」。この「距離」が、文化人類学的想像力に奥行と豊かさをもたらす。私たちの固定観念を壊し、狭く凝り固まった視野を大きく広げてくれる。それが世界の別の理解に到達するための可能性の源泉でもある。
 
 「思考法」こそが文化人類学の特徴であるから、その観察対象は決してアフリカの少数民族でもポリネシアの海の民に限るわけではないのだ。科学者の集団とか、美術館に集まる来館客とか、街角のデモや市民活動でさえも、文化人類学の観察・参与の対象になる。それどころか国家や戦争といったものまで考察の対象にすることができる。先入観や与件を徹底的に疑い、既存の理論や公式にあてはめることを慎重に避けながら、ひとつひとつの具体例を尊重して彼らの行動や思想や思考に思いを馳せる。安易に理論化させないのだ。理論というのは言わばいくつもの具体的事象の「平均的」なものをつないだロジックである。しかし、すべてが平均なものはこの世に存在しない。個体事例には必ずなにがしかのはみだしがある。文化人類学にとっては、マーケティングとか統計で結論を得る社会像は観念化された似非社会なのだ。文化人類学は態度としては哲学に近いかもしれない。
 
 文化人類学が追求していることを強いて言えば、頭で考えるのではなく、身体に宿した感覚で世界を認識しようという感じに近いだろうか。頭で考えるとどうしても抽象的になり、普遍的になり、理論的になる。しかし、身体が覚えるのはあくまでひとつひとつの具体的事例である。
 
 でも、そこまで時間も手間もかけて文化人類学は何をしようとしているのか? とは思う。この現代において文化人類学の思考は何の役に立つのか。
 
 アカデミズムに対して「何の役に立つのか」という質問は、鬼門でもあるし愚問でもあるし永遠の問いでもあるだろう。僕はたまにこのような文化人類学の入門書みたいなものを読むのだけれど、それは狭窄的視野に捕まってしまう恐怖から逃れたいという一心でもある。コロナ禍になって、Withコロナとニューノーマルの時代になって、DXやWEB3の世の中になって、カーボンニュートラルやサステナブルが合言葉になって、ウクライナがあって米中冷戦があって人生100年になった。情報も人口も気候変動も加速する世の中で、サバイバルのために「こうあるべし」が次々と襲ってくる。コスパとタイパの圧がとにかくすごい。この世を生きていくにおいて、正解に至るのはただ一つの細い道であとは全部間違い、というクソゲーのRPGみたいになっている。多様性はうたわれるけれど、「多様性とはこのようでなければならない」というひとつの正解、それ以外の多様性はすべて似非、といったファッショめいたこともたまに感じる。
 
 「正解」を押し付けられるというのは、その「正解」が「理論」であり「型」にもなっているということだ。でも歴史を振り返れば、「理論」も「型」も流行り廃りがあり、前進と後退があった。むしろ怖いのはその「理論」なり「型」との心中である。これこそが狭窄的視野に捕まる罠であろう。
 
 だけれど、海に泳ぐ魚が空や陸地の世界を感知しないように、三次元の生物が四次元の自由度を把握できないように、視野が狭まっていることを当人はなかなか気づくことができない。もっと広い世の見方がある、ということを自分に想像させるのは本能的に反した無理強いでもあるだろう。
 
 なのでせめて僕は逃げるように文化人類学の本を読んでいる。本格的な研究書はなかなか手が出ないので、入門書やガイドみたいなのが多いのだが、ひとときでも自分を囲む世界の壁が溶けて、ホワイトノイズの中のように浮遊する感覚になれるのだ。

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はみだしの人類学 ともに生きる方法

2021年10月13日 | 民俗学・文化人類学
はみだしの人類学 ともに生きる方法
 
松村圭一郎
NHK出版
 
 なんとなく疲れたり、閉塞感にとらわれると僕は文化人類学や民俗学の本を読む。難解な専門書ではなくて一般的な本であることが多い。
 なんでそんな本を読むかというと、自分の心が洗われるからだ。溜まっていた澱が溶けて流れ出るような思いがある。
 
 つまり、文化人類学や民俗学で描かれる人々の文化や思考ーーこんな考え方、こんな立ち振る舞い方、こんな生き方があるんだと思うと、普段の日々に自分を拘泥しているモノゴトが、単なるひとつのパターンでしかないことに気が付くのである。こんな考え方をしてもいいんだ、と思えたり、これは自分たちのほうがやっぱりいいな、と思ったり。つまりボルネオの森の民や、香港のチョンキンマンションの住人や、エチオピアの人々や、昨日までの世界の人々の話に触れることで、実は自分自身を顧みているのである。
 
 なんてことを思ってたら、まさにそれを語っていたのが本書だ。入門書というよりは、文化人類学イントロ編とでも言ったほうがいいかもしれない。
 
 とくに大事なのは、文化人類学の世界を知ることで、自分自身が変容することの喜びを知ることだろう。普段の生活において「かくあらなければならない」ということにこだわりすぎていると、そこにむかって一直線の取捨選択しかできなくなって「変容」するだけの余地や余裕はなくなるだろう。でも、実はそんな硬直的な生き方はとてもリスクがある。自分が設定した「かくあらなければならない」ものがどれだけ正しいものかは保証の限りではない。「無知の知」であることはふまえたほうがいいだろう。
 
 そういう意味で、本書が上げた「いきあたりばったり」の生き方。これは慧眼だ。
 「いきあたりばったり」は最近聞かなくなった言葉だ。使われるとしてもネガティブな意味だろう。PDCAとかバックキャストとか、目標を決めて最短距離をつっぱしるのがエレガントであり、スマートであるとされる昨今だ。
 
 だけれども、「いきあたりばったり」にしないと「無知の知」に気が付き、自分が思いもしなかった新たな知見を得るチャンスはむしろなくなる。文化人類学でもよく出てくるブリコラージュもセレンディビティも、その根底にあるのは「いきあたりばったり」だ。
 
 というわけで「いきあたりばったり」という言葉を再発見してくれただけで本書はぼくにとって「買い」であった。本書自身が、たまたま入った地方の本屋で発見してゲットしたものである。まさに「いきあたりばったり」なのだった。

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チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学

2021年04月26日 | 民俗学・文化人類学

チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学

小川さやか
春秋社

 

 噂にたがわず面白かった。初版が2019年7月だからちょっと出遅れたことになる。すでに第12刷まで出ている。この種の本としてはベストセラーだ。

 人類学の中では「贈与経済」はポピュラーなテーマだ。本書もそうである。香港における巨大雑居ビル「チョンキンマンション」におけるタンザニア人コミュニティを、一緒に生活(参与観察)することによって書かれたものだが、大きくみれば「贈与」の観点で解題したものではある。「贈与」が絡む絶妙なビジネスのからくりや、贈与と分配のありようがセーフティネットにもなっているTRUSTというオンラインコミュニティの在り方には目を見張るものがある。

 しかし、一般に人類学でイメージされるほどの贈与経済社会のしがらみほどには、このタンザニア人コミュニティは拘束力が強くない。

 なぜならばこのコミュニティは人の出入りがかなり流動的であり、メンバーが固定できないという前提の上で成り立っていからだ。

 そもそもなぜ香港にタンザニア人がいるのか。彼らの正体は出稼ぎや買い出しや食い詰めや一攫千金狙いなどさまざまである。老若男女いると言ってよい。そんな彼らだから、人によって香港の滞在期間はまちまちだし、持っている資産の格差もはげしく、その素性も、脛に傷の具合もみなバラバラである。合法的にビザを持っているものから偽名を使っているものから、不法滞在から難民申請者までいる。こんな流動性かつ多様性が前提になっているから、コミュニティの拘束力は限定的にならざるを得ない。

 だけれど、コミュニティはコミュニティとしてちゃんと維持される。拘束力は強くないのにコミュニティは確かに維持されている。この妙こそが本書の主題とも言える。

 

 彼らのコミュニティが持続する秘訣は、彼らが何事も「ついで」に行っているからだ、というのが著者の見立てである。この「ついで」というキーワードは本書の全般にわたって登場する。

 「ついで」とは何か。

 彼らは、しばしば他人の頼み事を引き受ける。頼み事を引き受けることで経済がまわっている。引き受けたほうからすればそれは「贈与」という行為になる。

 では彼らがなんの頼み事を引き受け、なんの頼み事はさりげなくスルーするのか。これを観察してみると、自分たちの何かの「ついで」になるようだったら引き受けやすい、というところに著者は気づく。頼まれ事と同じ方向にたまたま自分も用があるとか、その頼まれ事は自分の商売ネタにも使えそうとか、まわりまわって自分の評判形成に役立ちそうとか、そういうことを算段して彼の頼みごとを引き受けかどうかを決める。つまり、彼らの「贈与」は単なる贈与ではなく、自分の利己的行為を多いに含む「贈与」なのである。

 しかし、この「ついで」は隠し持つものではない。お互いに織り込み済みである。したがって頼み事をした方はその分「負担」が軽くなるという効果がある。後ろめたさが減るのである。「贈与経済」は、贈与される側の「負担」という力学が指摘されるが、この「ついで」という存在によって贈与がもたらす拘束力は緩やかになる。

 著者が「ついで」の価値に着目したということは、現代の日本社会ではこの「ついで」がなかなか見いだせないということでもあるかと思う。日本では頼まれごとに利己的な目的を見出すのは卑しい行為とされるだろう。やるならば全力を出してやらなければならないという美意識とか、自分の目的のついでに他人の頼みごとを紛れ込ませることのめんどくささとかある気がする。少なくとも僕には覚えがある。

 

 「ついで」の他に、もうひとつ僕が気が付いたキーワードがある。それは「ダメもと」である。

 この「ダメもと」という言葉は、じつは本書の中では1回だけしか登場しない。しかし、本書を読んでいると、実は彼らの行動原理のかなり根っこなところにこの「ダメでもともと」というのがあるのではないかと思ったのである。

 ひょっとすると「ダメもと」を意味するタンザニア語(スワヒリ語)は無いのかもしれない。

 コトバが無いということは、あえてそれを意識することがないくらい彼らの中では普通のことなのかもしれないということだ。日本語に「ダメもと」=「ダメでもともと」という言葉があるということは、そういう概念を意識しなければならない日本特有の価値観がそこに存在するということを意味する。日本では「ダメな可能性の高いものはそもそもトライしないのが倫理と論理」という価値観がある。だからこそ、それでもあえてそれを行うときは「ダメもと」という概念が輪郭を伴って登場する。

 だけれど、本書に出てくるタンザニア人の彼らたちは、あまりにも簡単にものを頼むし、探してみるし、会ってみるし、チャレンジする。うまくいかなかったらどうしよう、という陰りをあまり感じない。楽観的というのともちょっと違う。むしろ「たいていのものは「ダメもと」なのだ」ということを彼らはデフォルトとして自然に身につけている感じがする。

 だから、人にものを頼むときも、人に何かの貸しをつくるときも「ダメもと」がついてまわっている。そしてたとえ何人かに断られても、どこかに「ついで」で引き受けてくれる人がそのうち出てくるから、コミュニティは成立するのだ。また、「ついで」と同じようにこの「ダメもと」も相互認識されているからお互いの気遣いは軽くなる。

 

 彼らは本質的に仲間意識を大事にしているし、相互扶助社会のようである。困った同胞がいれば必ず助ける。だけど一方で、他人を信用しきってはおらず、「まかせず」「頼らず」「あてにせず」という精神がある。来るもの拒まず去るもの追わず。いらぬ詮索はしないし、過剰な期待もしない。

 矛盾しているようだが、そのパラドックスをつなぐのが「ついで」と「ダメもと」であり、結果として「緩やかな拘束力」をもったコミュニティとなる。

 

 というわけでなかなかに興味深い香港におけるタンザニア人コミュニティの実態なのだが、よくよく考えてみると、これはタンザニア人特有なのかというと、どうもそうとも言い切れない気がする。まさに「アングラ経済」の人類学というサブタイトルの通り、素性もさまざま、生活の安定度合いもさまざま、脛に傷の度合いもさまざま、要するにある種の多様性の中で行政的な制度や福祉をあてにしないで持続可能な社会をつくろうとすると自然とこうなるのではないかという気もするのだ。もっというと、日本でもかつてはアングラな立場の人はこんな感じではなかったか。フーテンの寅さんの行動原理もよくよく考えれば「ついで」と「ダメもと」ばかりやっていたような気もする。

 それにしても母国タンザニア大海を隔てた香港の地でいきいきとたくましく生きる「チョンキンマンションのボス」ことカラマとその仲間たちの眩しいことと言ったらない。本書の見どころはむしろこっちかもしれない。

 


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ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

2020年03月12日 | 民俗学・文化人類学

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

奥野克己
安芸書房


 いささか旧聞に属するが平積みされていたときは評判がよくてあちこち書評も出ていたように思う。
 ただそのときぼくは、タイトルがちょっと気にくわなくて(ドヤ顔感が鼻について)、スルーしたのだった。

 それがこんなコロナ騒ぎの最中に急に読みたくなって手を出したのである。

 こういう社会不信や不穏な中で読みたくなる本として、「理系の本」というのを先に挙げたことがあるが、同時にこのような「民俗学(文化人類学)の本」にも救いを求めたくなる。

 それは自分の世界が陥っている閉塞感や不条理が絶対なものではなく、あくまで一面のとらえ方でしかないというのを確認したいからかもしれない。こことは違う場所では、まったく違う価値観と違う様式の世界があって、そこで人は普通に生きているのである。本書のあとがきにあるようにまさに「人類学とは、別の生の可能性を、私たちの日常の前にもたらすことによって、私たちの当たり前を問い直してみることや、物事のそもそもの本質的なあり方に気づく」であった。


 それにしてもタイトルにある「ありがとうもごめんなさいもいらない」の意味するところはなかなか斬新である(近代自我社会に生きる我々にとっては)。これはマレーシアはボルネオ島に生きるブナンという部族の話である。
 要するにブナンにおいては、「個人や自我」という概念、人間と動物という世界観、進化論や生命倫理、政治と公共という、いわゆる近代思想があてはまらないのである。それは近代思想に抵抗しているのではなく、はじめから無いし、近代思想が介入する隙がない(マレーシア政府は子どもたちに学校に行くことを奨励するがブナンの子どもたちは学校に行かない)し、それでいっこうに不都合がないからだ。
 つまり、「ありがとう」も「ごめんなさい」も近代思想の産物なのである。所有の概念も、反省という心境もないのは、彼らが近代思想の外にいるからだ。そうだったのかー

 ここで「近代思想」の「前」にいる、と書いてはいけないのである。「前」とか「後」の前後関係で書くのは、「近代思想」に染まった人の見立てである。本当は近代思想の「外」というのもちょっと違うのだろう。「中」も「外」もない。そもそもそんなものは「無い」のである。

 この「無い」ことの思考の難しさといったら。いっぺん「ある」ことを知ってしまったものが、それを「ない」ことを与件として世界をどうみるかはそうとうの思考の訓練を必要とするだろう。本書では“「ある」べきものが「ない」事態”に際したときの思考について一章を割いているが、本書まるごとが、「近代思想」という我々に骨の髄までしみ込んでいる価値観様式が「ない」ブナンを描いているのである。この本で描こうとしているブナンの世界観に思いをよせることは、そうとう脳みそに汗をかく仕事である。


 いまのコロナ騒ぎ(コロナというより、その周辺で混乱していく社会の騒ぎ)のさなかに読んだこの本はまさに彼岸の世界であった。この騒ぎも多くは近代思想に根差しているような気がする。本書に通底しているのがニーチェというのがまた痛快である。ニーチェなら、いまのコロナ騒ぎに沸くこの社会をどうパースペクティブを変えて看破するのだろうか。



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危機と人類

2019年11月30日 | 民俗学・文化人類学
危機と人類
 
ジャレド・ダイアモンド 訳:小川敏子・川上純子
日本経済新聞出版社
 
  今月の注目本のひとつだ。
 著者ダイアモンドが選ぶところによる世界7か国での「危機」およびその対応を、徹底的に叙述的(ナラティブ)な語り口で解読する。そしてそこから普遍的な危機と対応の方程式を導き出す。アカデミズムの手続きとしてはあまりに叙述すぎていささか時代錯誤かもしれないが、それにしてもかなりの説得力だ。博覧強記とはこういうことを言うのだろう。
 
 本書は7つの国の歴史をみることから、これからの国際社会における危機を警告し、対策を啓発する書である。すなわち「歴史に学ぶ」書である。
 そんなコンセプトに際し、ダイアモンドは7つの国のなかのひとつに日本を選んでいる。しかも2つの例を取り上げている(2つの例をとりあげている国は日本だけである。つまり本書は7つの国の8事例が考察の対象になっている)。
 その2つとは、まず「ペリーの黒船来航によって開国を余儀なくされた明治維新の日本」である。これは国家的危機とそれを克服した成功事例として取り上げている。もう1つは「現代の日本」である。これは明らかに危機的状況にあるのに今なお打開を見いだせていない事例として取り上げている。ちなみに著者は今現在危機に直面しているにもかかわらず、打開が見えていない例として日本とアメリカ合衆国の2か国を挙げている。ダイアモンドからすると、日本とアメリカが世界の危機の最前線ということになる。中国でも北朝鮮でも中近東でもないのである。
 
 ダイアモンドは、危機に際した国家がそれを乗り越えられるか越えられないかを12の視点で整理している。
 12というのはいささか煩雑だが、著者によればこれを2個か3個にしぼるのは安直な妥協であり正確性を欠く行為であり、かといって12個より多いのはややこしすぎて実用に耐えないということらしい。
 その12個とは
 
 1.自国が危機にあるという世論の合意
 2.行動を起こすことへの国家としての責任の受容
 3.囲いをつくり、解決が必要な国家的問題を明確にすること
 4.他の国々からの物質的支援と経済的支援
 5.他の国々を問題解決の手本にすること
 6.ナショナル・アイデンティティ
 7.公正な自国評価
 8.国家的危機を経験した歴史
 9.国家的失敗への対処
 10.状況に応じた国としての柔軟性
 11.国家の基本的価値観
 12.地政学的制約がないこと
 
 である。これらの用意があればあるほど危機の対応ができやすくなり、少なければ少ないほど破滅のリスクが高まる。
 興味深いのは、ダイアモンドはこれらを導くのに、個人的危機のパターンから国家的危機のパターンへとメタファーとして導き出していることである。
 個人的危機に対しての帰結にかかわる要因も12個あって、
 
 1.危機に陥っていると認めること
 2.行動を起こすのは自分であるという責任の受容
 3.囲いをつくり、解決が必要な個人的問題を明確にすること
 4.他の人々やグループからの、物心両面での支援
 5.他の人々を問題解決の手本にすること
 6.自我の強さ
 7.公正な自己評価
 8.過去の危機体験
 9.忍耐力
 10.性格の柔軟性
 11.個人の基本的価値観
 12.個人的な制約がないこと
 
 つまり、心理療法を歴史の解題に援用したわけである。
 
 ということは、個人と国家の間にあるいろいろなレイヤー。たとえば組織とか企業とかの危機にもこれらのメタファ―は使えそうだろう。僕はちょうど本書と「知略の本質」を同時並行で読み進めていたので、なんか似たようなこと書いてあるなーと思った次第である(どちらも第2次世界大戦期のドイツやソ連が出てくる)。
 
 それはともかく。これら12の要素に照らし合わせて現代の日本は危機だというのがダイアモンドの見解である。とくに「公正な自国評価」に問題があるとされる。具体的には太平洋戦争における見方(中国や韓国に対しての罪の認識。原爆の被害者として自己憐憫に陥りすぎ等)、少子高齢化対策として、移民を受け入れないまま女性の活躍促進という名目で打開しようとする政府の方針などである。こういった著者の見解に対し、Amazonの星とり書評などは辛い評価も出ているが、外の国からはこう見られているという事実は事実として知っておくべきだろうとは思う。公正な自己評価というのは難しい。
 欧米からみて、太平洋戦争の敗戦国がこの戦争をどう総括しているかをみるとき、ドイツと日本を比較しようとするのはまあ当然だろうと思う。ドイツの総括の仕方はわりと欧米では支持されており、ダイアモンドもその在り方を評価している。そうするとそれに比べて日本は‥ということになる。こういう風に比較してみられるのだということも日本としては知っておいたほうがいいことであろう。
 
 著者は危機とその帰結に12の要因をならべているが、これら12の遠因となるところに地政学的要因・地理的要因を見出している。これこそが彼の真骨頂であろう。たとえばアメリカ合衆国という地域特性を、南北に侵略のおそれのない国と接し、北に広く南に狭い逆三角形の形状が農産物の育成にとって栄養素にめぐまれた豊かな土壌の土地になり、それが近代史に例をみない勝利の大国となったとみる。またそういった他に例のない好条件が、この気象変動によってリスクに転じようとしているにもかかわらず、格差の拡大やイデオロギーの固執といった内部からの劣化が進み、過去に参考となる他国の例がほとんど見当たらないため、現在のアメリカ合衆国を危機と見なす。
 日本の場合はユーラシア大陸の隅っこの島国ということで、歴史的に外部からの干渉を受けにくいことが好条件だった。しかもかつての要人は諸外国から遠隔にありながらもその位置に胡坐をかかず、熱心に外国の情報を取得していた。それによって日本の相対的な位置づけも公正に評価していた(ここが中国と大きな違いだったとされる)。しかし、島国という立地からする自然資源の依存の仕方とその資源観が、現在においては他国の感覚とのかい離を招いているとする。
 ほかにも、ドイツを、あまりにも多数の国と国境を接して外的要因をもろに受けやすいところと見抜き、こういうところは「リーダーによる出来不出来の影響が表れやすい」とする。ソ連(ロシア)という大問題大国と長い国境を接するフィンランドという国をその地域的特性から「フィンランド的」としか言いようのない独特にして殊勝な危機対応を評価する。ドイツもフィンランドも過去に惨憺な歴史を経た上で現在は軟着陸している。こういう話は国だけでなく、企業や組織やコミュニティにも敷衍できると思う。現代の日本やアメリカは着陸できていないわけだ。
 
 もっとも、本書の結論は現代の日本やアメリカを弾劾したいことではなく、ここにきてはじめて国際社会というひとつのまとまりで「危機」に面しているということである。つまり、これまでの世界史において7つの国における危機と対応を事例としてみてきた。そこには他国を参考にしたり、他国から援助されたりして乗り越えてきた例も多い。また、よそがあるから自分もある。アイデンティティというのも出来上がる。
 しかし、国際社会もっとわかりやすく言うと「地球」という危機においてはそれがない。ヨソの宇宙人が住む惑星を参考にすることも助けを求めることもできない。「地球人」というアイデンティティも正体不明である。そういう意味で、いまの国際社会の危機は前例がないのである。
 ダイアモンドは、国際社会の危機として「核兵器の脅威」「気象変動」「資源の枯渇」を挙げている。深く考えなくても、この3つは互いに影響しあっている。したがって何かが引き金となって他の何かに至ることはリスクとして十分に考えられる。
 
 ここにきて本書は人類の警告の書になるのである。
 
 ユヴァル・ノア・ハラリは、ホモサピエンス自身が内に所有する欲望と成長欲求から人類史を見出す。サピエンス全史からホモデウスまで。さらに新刊「21レッスン」まで、人間が持つ果てしなき欲望とそれがつくりだしたものの歴史と帰結の物語である。人間がそれを求めるから、社会はこのようになり、やがて国家は、国際社会はこのようになる。それはハラリもいうように「警告の書」である。
 
 ダイアモンドは外部環境に因果を求める。こんな地勢だから、地理だから、地政学だから、こんな人間社会が生まれ、だから個人はこのようにふるまう。そして危機に至るという「警告の書」となる。
 
 つまり、物事はかならず危機に至るのである。
 危機とは何か。それは「正念場」であり、「転換」へのきっかけである。選択的な未来にシフトするきっかけなのである。本書で著者は「危機とは長期間に渡って蓄積されてきた圧力を突然自覚したり、圧力に対して突然行動をおこしたりすることである。」と述べている。一番怖いのは「危機」を「危機」と気づかず(あるいは気づかないふりをする)ことなのであろう。
 
 

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記憶すること・記録すること 聞き書き論ノート

2019年09月18日 | 民俗学・文化人類学

記憶すること・記録すること 聞き書き論ノート

香月洋一郎
吉川弘文館


 予備知識なく何気なく書店で見つけて手にとった本なのだが、思いのほか名著だった。
 著者は民俗学者でかの宮本常一の弟子でもある。紹介されている宮本常一のセリフがまたすごく良い。著者が宮本に尋ねるのだ。

 「宮本先生、『民俗』というのは別の言葉で言うと古くから伝わってきたもの、ということですな。」
 「そうなんですがね、ひとつ条件がつくんですよ。自分はそれで生きてきた、という。」

   そう。「自分はそれで生きてきた」である。聞き手は「この人は何で生きてきたのか」を見抜かなければならない。



 本書で強調されているのは、「説明」はアテにならないということだ。

 著者は「叙述」と「説明」を区別している。

 話す側にある目的や方向性があり、その通りに受けとってもらうべく話すことを、とりあえずここでは「説明」と表現し、受けとる側一人一人にとってその受けとり方が違っても、それは聞き手が自由にご理解くださいといった姿勢で話すことを、ここでは「叙述」、と表現しておくー

 そして民俗学者はフィールドワークにおいて話者の「説明」は鵜呑みにしないのである。むしろ「叙述」で語ってくれることを重視する。
 なぜなら「説明」は、後付けであり、情報の編集であり、話者の中での意味づけや再定義が成されているからだ。

 我々は世の中を把握するとき、論理を手掛かりにする。物語性で解釈する。したがって話すほうも聞くほうも「説明」というアルゴリズムを用いる。著者が指摘するように「近代教育の現場では、あるできごとをそのできごとのままに示すのではなく、なんらかの位置づけをそこで行って伝える」よう訓練されてきたのである。
 いわば世の中は「説明されたもの」で成り立っているといってもよい。コミュニケーション力とかプレゼンテーション能力などもこの範疇と言ってよい。

 しかし、実はここに罠があって、「説明」=「真実」とは限らないということである。
 世の中は、人の行動は、歴史の経緯は、ずっと偶発的で散発的で同時多発的なものだ。そして、本来的には刹那的な判断によるその場しのぎの連続や、互いに矛盾するいくつかの要素を、後知恵でひとつの論理でまとめたり、後解釈として記録する例は非常に非常に多い。とくに時系列な歴史をかたるときは、学校の教科書、企業の社史、就活での自己紹介、結婚式披露宴で紹介されるふたりのなれそめなど、かならず「編集」が入っている。

 だから「説明」からこぼれ落ちたものは些細なもの、あるいは「無いもの」とされる。

 このことは反対に「説明されたもの」はそれが些細なものあるいはウソのものであっても「事実」とされるということだ。

 就職活動をしてきた人ならば「学生時代に真にやってきた自分」より「面接での語り方による自分」によっぽど事態が左右されることにみんな身に覚えがあるだろう。   
 これを活用ないし悪用してはばからないのが国会議員たちだ。国会の問答をみていると「うまく説明できたもの勝ち」の世界である。
 マスコミの報道の罪としてよく取り出されるのもこれである。大規模な自然災害がおこると、報道陣が入ったところと入らなかったところで報道に差がでる。そうすると報道陣が入らなかった被災エリアは、まるではじめから災害などなかったかのように日本社会では受容される。そして報道陣が入ったところだけが何度も何度もクローズアップされ、そここそが今回の自然災害の典型的被災地と見なされるようになる。マスコミによって今回の自然災害が「説明」されたのである。
 それどころか、昨今話題の「フェイクニュース」も、この話に関連する。「フェイクニュース」というのは案外にバカにならない。なにが真実でなにがフェイクかというのは、実は紙一重というか相対的なものである。われわれ人間社会は「説明できたもの」で構成されているのだとすれば、「説明」できたものが真実であり、「説明」できないものがフェイクと解釈されやすい。そして我々は「うまく説明できたもの」に与しやすいのである。
 「真実」と「事実」と「現実」は思いのほか混線しているのだ。

 

 民俗学者や地理学者は、学究的態度として「説明」と距離をおく。
 どんなに理路整然とした語りであったとしても、「叙述」として聞く。学者がじっと見ているのは語りのむこうにあるその人である。この人の何がこれを語らせているのか、それを見ている。著者いわく「人が人に話を聞くということは、まず、人が内に潜ませている不確定性をもそのまま受けとめてみる姿勢を抜きには行えない行為」なのである。

 だから、本当に目の前にいる人に敬意を持つならば、その語たれる内容ではなく、この人は何で生きてきたかを見通す目が必要だ。本人の語りからこぼれてしまったこと、うまく説明できなかったもの、言語化されなかったものに、彼の生き方が宿されていたかもしれないのである。

 現代生活で我々はあまりにも「説明」の期待とその訓練をされすぎてしまっている。本当に真実を分かち合えるにはどうすればいいのか。
 本書では「対話」による信頼関係の蓄積と言っている。


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昨日までの世界  文明の源流と人類の未来

2018年12月09日 | 民俗学・文化人類学

昨日までの世界  文明の源流と人類の未来

 

ジャレド・ダイアモンド 訳:倉骨彰

日本経済新聞社

 

 

他の本と並行しながらちまちま読み進めていたら上下巻で1か月以上かかってしまった。内容はとても面白く、決して難解なものでもないが、ひとつひとつのエピソードや論旨が意味深なことだらけで、傍線を引いたりアタマの中で再整理しながらの熟読となり、あたかもひとコマずつ授業を受けているような感じの読み方となってしまった。

 

「昨日までの世界」とは、西洋型(とくにアメリカ型)の現代生活を送るようになる以前、人々はどのように社会を形成し、どのように生活してきたかを、ニューギニアをはじめとする世界各地の前近代的=伝統的な民族のライフスタイルから考察する試みである。著者のフィールドワークや他の学者からの研究発表などを編集しながら、西洋型現代社会と伝統型社会それぞれのメリットデメリットをとにかくいろいろな角度から考察する。

知的刺激というかインパクトの点では「銃・病原菌・鉄」のほうに軍配が上がるが、いろいろ人生や生活に学ぶところがあるなあという点ではこちらのほうが上かもしれない。「昨日までの世界」で人類が学習してきたもの、人類が会得してきたものの中には、西洋型現代社会が近代化の過程で捨て去ってしまったものがけっこうあるが、これからの世界にとって実はヒントになることがたくさんある。日本を含む現代社会がかかえる様々な課題に対し、「昨日までの世界」は決して過去ではなく、現代のオルタナティブな在り方として多いに参考になる。最近はとにかく未来を問う本が「ホモ・デウス」はじめ次々と出てきているが、「ホモ・デウス」や「拡張する未来」を読みながら、一方でこの「昨日までの世界」を併読してきたのは、幸運な読書体験だったかもしれない。

「近隣住民との付き合い方」「子どもの育て方」「ご近所トラブルの対処法」「バイリンガル」「商売の仕組み」「病気やケガのリスク感覚」「高齢者の取り扱い方」「宗教の機能の仕方」などとにかく様々なテーマで比較文化論が展開されて圧巻なのだが、印象的だたったものを以下にいくつか挙げてみたい。

 

①「建設的なパラノイア」・・・伝統型社会の人々におけるリスク回避の取り方

②大人社会の「ひな形」として機能する子どもの遊び

③伝統型社会にほとんど見られない高血圧と糖尿病の話

 

①「建設的なパラノイア」というのは、リスク工学でいうところのヒヤリハットに近い。大事故というのはだいたい小さな事故がいくつも偶然条件的に重なって起こるもので、その小さな事故がひとつでも起きていなければ大事故にはならなかったりする。一般にひとつの大事故が発生する前に、大事故に至らずにおわった30の中事故が見過ごされており、その中事故さえ未然に終わった100の小事故が見過ごされている。「建設的なパラノイア」はその100の小事故を自覚的に警戒するというものだ(こんな仕方の説明を本書ではしていないが、そう外れていないはず)。

なぜなら伝統型社会では中事故や大事故が起きたときのリカバーが西洋型現代社会ほど期待できないからである。病院や医療技術の水準も低いし、福祉や保険の水準も低い。足の骨を折るだけでも命とりになったり、その後の人生を棒にふったりする。骨折どころか切り傷ひとつでも破傷風リスクがある。したがって伝統型社会では、西洋型現代社会では見過ごすような些細なことでも慎重になる。朽ち木が倒れてこないか、足場の悪いところで転ばないか、ここに見知らぬ誰かがきた可能性はないかなど、野生の勘ともいうべき警戒センスが働くように習慣づけられている。

西洋型現代社会は万事仕組みが整っているので、いちいち街路樹の木が倒れるんじゃないかと心配することはないし、家の鍵は頑丈だし、少々風邪をひいたところで手近に薬も病院もあるし、室内空調も効かせられる。とはいうものの、この「建設的なパラノイア」は一聴に値するだろう。リスクというのは「発生確率」×「生じたときのダメージの大きさ」で計算するが、いま自分が肌感覚で感じているリスク計算、つまり風邪とか交通事故とか失業とか天災に対しての「発生確率」と「生じたときのダメージの大きさ」それぞれの見積もり感覚は、案外数十年前のだったりするのではないか。VUCAの時代でもあり、社会保障制度も先細りの日本であることを考えると、もう少し我々も「建設的なパラノイア」になったほうがいいかもなと思った次第である。

 

②大人社会の「ひな形」としての子どもの遊びの話も、言われてみればなるほどというものだ。つまり伝統型社会での子ども時代における狩りの真似事や木登りやナイフを使った諸々の細工は、大人になってそのまま獲物をとらえたり、見張りに登ったり、様々な道具をつくるスキルになる。女の子の場合、まだ子どものうちから近所に住む自分よりさらにちいさい子どもの面倒を買ってでる。それが自分が母親になったときの訓練になる(おおむね10代で母親になる)。そして子どもの遊び集団は基本的に性年齢が多様で構成される。大人の社会はもちろん性年齢が多様であるから、多様空間の中の身の処し方を自然に身につけたまま大人になることになる。

これに比すると、日本も含む西洋型現代社会の子どもの遊びは、ゲームやスマホでの動画視聴がかなり幅を利かせるようになり、出入りするコミュニティがきほん的に同性同学年であると考えていくと、そこで培われたスキルが、社会に出て稼ぐ必要性が出たときに直接作用するかというと、伝統型社会に比べれば距離があることは否めない。

なお、本書では子どもの育て方、とくに乳幼児の育て方について詳細に比較されている。赤ん坊の抱き方、授乳のタイミング、直接の両親以外以外の大人の関わりかたなど。子どもの抱き方とか授乳にまつわる話なんかは、日本はアメリカ型というより「昨日までの世界」に近いところもあり、日本はやはりアジアなんだなと思ったりもする。

 

③の高血圧と糖尿病については、「昨日までの世界」には高血圧も糖尿病もほとんど存在しない、という事実が何を意味するかという問いかけから始まる。そんなの「西洋型現代社会」のファーストフード型食生活が原因でしょ、と言えばそれまでだが、本書は単に食事の問題としてそこで思考停止していない。着目するのは、「伝統型社会」に生きていた人が、政府の保護とか移住とかの事情で急に「西洋型現代社会」に移ったとき、従来そこで「西洋型現代社会」をしてきた人よりも高血圧や糖尿病に発病する確率が高まるというところである。

これすなわち、長い人類の歴史において「塩分を身体に蓄える能力(具体的には腎臓の能力)」「糖分を身体に蓄える能力(具体的には脾臓の能力)」を必要とした時代が長かったため、飽食の今日になって通常の現代的食事内容と現代的運動量では、自動的に塩分も糖分も過剰になる、ということなのだ。伝統型生活において調達される食事の量や栄養バランス、調達される頻度のばらつきというものは、過去の人類の歴史のそれに近しいだろうというのは想像に難くない。また、運動量もずっと多い(食糧を確保し、住宅環境を安全に保ち、日々の移動で十分すぎる運動量となる。過去の人類がそうだったように)。我々の生理学的な身体能力は、塩分と糖分についていまだ過去の適性を失っていないのである。

したがって「西洋型現代社会を無批判的に送っていると自動的に高血圧・糖尿病になるリスクが高い」ことを意味する。食物繊維や野菜はむしろこちらから積極的に探し出して食べに行かなければならないし、塩分糖分は外食や加工食品にはとにかくたくさん入っているから意識して回避しなければならない。

 

 

などなど。他にもいろいろ考えさせられることが多い。

もちろん「伝統型社会」には、残酷めいた風習、殺し合い、人権的な問題、不衛生も大いにある。著者が本書中で何度も主張するように、すべてが「伝統型社会」に学ぶものでないのは確かだ。

大事なのは、温故知新、そして弁証法的とでもいった思考態度だろう。「伝統型社会」はそれはそれで10000年にわたる人類の知恵が切磋琢磨されたところであり(著者曰く「自然実験」)、前近代だからといって下に見るものでも博物誌的な興味対象にみるものでもないだろう。伝統型社会が「昨日までの世界」ならば、歴史に学ぶ、という点ではこれ以上に豊富な歴史はないわけである。

 


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うしろめたさの人類学

2018年10月30日 | 民俗学・文化人類学
うしろめたさの人類学
 
松村圭一郎
ミシマ社
 
 
 エチオピアにフィールドワークに赴く人類学者の著者が思う、社会はどうすればよくなるか論だ。「構築人類学」という思想らしい。
 ジャレッド・ダイヤモンドの「昨日までの世界」のように、エチオピアでの生活から、日本をはじめとする先進国のありようを相対的に考察する。エチオピアの社会には、現代日本が失ったもの、あるいは日本には始めからなかったものがある。どちらが良い、どちらが悪い、という話ではない。ただ、社会のオルタナティブとしてそういうやり方もある、あるいはそういうやり方もかつてはあった、とどこまでも相対的に見ていく。これがアカデミズムとしての真摯な態度だ。本書の著者の態度も努めてひかえめだ。しかし、確かにそうだ、という視点を鋭く突いている。
 
 発想の端になっているのはマルセル・モースの「贈与論」だ。「贈与」という行為は贈与経済学として一分野を成しており、ポスト経済成長主義として最近脚光を浴びている。「評価と贈与の経済学」という本をこのブログでも取り上げたことがある。
 たとえば「贈与」とは、"貨幣を媒介とした価値の交換”とは異なる行為である。先に引用した本であれば、「贈与」とは「評価」に紐づくものであり、「貨幣経済」は「契約」に紐づく行為である。
 しかし、「贈与」は一方的な施しかというとそうでもなくて、「返礼」という社会的規範が張り付くことが多い。文化人類学ではコミュニティを観察する上において贈与と返礼の関係をかなり重視している。
 というのは、贈与と返礼は、そのコミュニティの特性を強く表すからだ。かつての日本を評論したJ・ベネディクトの「菊と刀」でも、日本文化における贈与と返礼ー「義理」を仲介としたコミュニケーションの特異性を指摘しているが、日本に限らず多かれ少なかれ世界の人類に贈与経済は存在する。
 本書で出てくる例でいえば、バレンタインデーのチョコレートは「贈与」である。現代日本ではそこにホワイトデーという「返礼」までもが暗黙の了解とされている。「贈与」されるものはモノに限らない。「貨幣」であっても贈与にあたるものがある。たとえば子供にあげるお年玉も「贈与」である。そして貧困国や災害被災地への物資援助やODAも「贈与」の一種だ。
 
 しかし、著者の指摘するように「贈与」に張り付く意味合いは、ときに重くのしかかり、ときに煩わしい。「返礼」もその一つだし、「贈与」には二者間に傾斜的な関係性をつくるものがあったり、やましさを生じさせることがあったりする。そんな「贈与」の重たさに耐えられず、人は敷居の低い「貨幣経済」に逃げようとする。先進国はそういう傾向がある。カネによるやりとりは、送り手も受け手もそれ以上そこに恩も負担も義理も人情も入れさせないチカラがある。カネさえあれば匿名社会で生きていけるし、カネさえあれば公正中立な立場をキープできる。
 そうして、日本をはじめとする先進国ではもはや「カネがない社会」は考えられない。日本国内でも貧困を原因として餓死に至る痛ましい事件がたまに起こるが、近因はカネの欠乏にある。カネがないと現代日本では生きていけない。
 
 
 とはいえ、本書ではエチオピアはカネがなくても生きているとは主張していない。また、カネがないと生きていけない現代日本はよろしくない、とも言っていない。エチオピアには「贈与」が溢れている。もちろん「返礼」も溢れている。それがユートピアとも煩わしいとも評価しない。現象は現象として指摘しつつも、そこにポジネガの評価を下さないのが学問的態度である。
 むしろ大事なのは、現代日本がそうなった由来に思いをはせることだ。そして同じくエチオピアがそうなった由来を考えてみることだ。それが著者のいう構築論的思考だろう。
 
 著者は、贈与をめぐる我々の日々の生活の先には国家があり、市場があることを指摘する。
 著者は、そこに「生活」と「国家」と「市場」の微妙な相互関係や重なりをみる。この三要素は三権分立のように独立しておらず、たがいに相互影響しあっている。
 そして、我々はかつての重たい贈与経済から逃れたと思いきや、新たな「贈与経済」に実は捕まっている。たとえばバレンタインデーが菓子メーカーのマーケティングが始まっているものだったり、祖父母の孫への学資補助が資産の世代間移転を担っていたり、ODAが外交政治の駆け引き道具に使われたり、財団法人が税の優遇になっていたり、「やりがい」が実は不公正な給与形態の隠れ蓑と看破されたように、いっけん見目麗しく彩られた「贈与」も、なにがしかの国家や市場のシステムの中に組み込まれているのが現代社会だ。
 
 指摘されてみれば当然のように思うが、しかし我々は普段の「贈与」の生活に、「国家」を意識しないし、「市場」への影響を顧みない。
 なぜ「贈与」に「国家」や「市場」の影をみない気がするのか。私論として思うに、それは「贈与」においてわれわれは「国家」からの自由、「市場」からの自由を信じたい気持ちがあるからではないかと考える。それくらい我々は「国家」や「市場」のシステムの中で生きている(生かされている)感触がある。
 現代の「贈与」とは、「国家」や「市場」のようなつまらないものから距離をおいた行為という意味合いが張り付いているように思う。そこに「無償の愛」とか「NPO」とか「絆」とかポジティブっぽい言葉が連想されやすいこともその証左だ。そこには「国家」や「市場」に対するネガな見方が存在することを意味する。
 しかし、実は国家や市場はそれでも「贈与」に忍び込んでくるのだ。近代の「国家」や「市場」は、古来からあった「義理」や「人情」を利用して「贈与」という形で近づいてくるのである。
 
 したがって、「贈与」的行為は、それが本当に何を意味するのか思考を果たしたうえで行いたい。「贈与」がダメとは言わない。「贈与」する人間を偽善と批判するつもりもない。誰がいったか「やらない善よりやる偽善」は極めて優れたアジェンダ設定だと思う。「贈与」もまた経済行為であり、社会秩序のひとつである。前近代的な「贈与」であっても、現代的な「贈与」であってもそれは変わらない。
 ただ、大事なのは「贈与」もまたシステムであるということを与件としておくことである。美麗辞句に惑わされない目線があれば、不当な贈与と、まっとうな社会であるための贈与を峻別するリテラシーもつくだろうと思う。
 
 
 なお、本書「うしろめたさの人類学」では、「うしろめたさ」を感じるかどうかをセンサーとしている。「うしろめたさ」という感受性が発動されれば、そこにあるのは道徳律であり、あえてそれを抑圧させず「贈与」してよいし、「国家」や「市場」から距離をおいてもよい。なぜなら「国家」や「市場」はうしろめたさを抑圧させる方向に機能させてきたからだ、というのが著者の指摘である。
 なるほどと思う一方で、実は「国家」や「市場」は、「うしろめたさ」を発動させることさえ計算づくなのではないかとも思う。学校の教育や企業の宣伝活動でいつのまにか良心を刺激させるような、でもよくよく考えるととても恣意的なものはけっこうある。ちなみにぼくは「スイート10ダイヤモンド」は人でなしの極め付けのようなキャンペーンだと思っている。
 自分に生じた「うしろめたさ」は、どこから由来したものかも、とくと思考した上で判断したい。少なくとも著者の言うように「贈与」は結果や成果を求めるものではないだろう。アウトカムを求めた瞬間、それは「国家」や「市場」のシステムに捉われる。ただ目の前の人間との関係性をつくること、それが「贈与」の贈与たる価値だろうと思う。

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21世紀の民俗学

2017年08月09日 | 民俗学・文化人類学

21世紀の民俗学

畑中章宏
角川書店

 

 挑戦的なタイトルである。しかもWIREDで連載されたものというから興味深い。

 本書の巻末書き下ろしでも述べられているが、「都市民俗学」と称して口裂け女とかトイレの花子さんとかの都市伝説を、古来の河童伝説や浦島太郎伝説の研究と同じような方法論で、分布やバリエーションを調べているようなものはたまに見かける。ただし、これは「民俗学」とはいっても本格的なアカデミズムというよりはサブカル研究みたいなものであることが多い。

 民俗学というからには、その観察対象に、その地で生きている人たちの記憶や知恵が累積されているものを見出すことが一般だろう。「トイレの花子さん」はなぜ出現するのか。そういうものの出現を「必要」とする学校という子供たちの時空間は、何を意味しているのか。

 著者はもちろんわかっている。だから、「21世紀の民俗学」と来たからには、目の前の現象はあくまで21世紀を象徴とするそれだけれど、しかしそこに見え隠れする人の所作や思いは、古来からある人間の喜怒哀楽であり、その観察対象を持つに至る人々の心理的背景や合理的理由を見出そうと試みる。
 自撮り棒、ホメオパシー、アニメの聖地巡礼、ポケモンGOまで、21世紀今日の社会現象を、そこに生きる人の記憶や知恵の累積のあらわれとして、民俗学的に考察していく。
 もっとも、雑誌の連載ということもあって、ひとつひとつの深堀はそれほどつめられてはおらず、次から次へと21世紀の観察対象がカタログのように紹介されていく体裁ではある。自撮り棒なんか、本気で考察したらそうとう面白いことになりそうだが、WIREDの連載なので、薄く広いのは仕方のないことだろう。

 そのかわり、というのか、考察のショートカットというべきか、著者の挑戦として面白いのは、そういった21世紀の現象に対し、比較軸として、いわゆる代表的な民俗学的素材をもってくることで、なんらかの普遍性を見出そうとすることだ。
 たとえば、自撮り棒には座敷童子を援用する。なるほど、自撮り棒によって写された写真とは、従来の写真ならばいないはずの、しかしあたま数的には矛盾しないはずの、という一種のパラドックス的違和感をたくした座敷童子というフォーマットをあてはめてみることで、この奇妙な撮影習慣の普遍性にせまろうとする。
 ほかにもホメオパシーには富山の民間薬、FM電波で流れる音楽をイヤホンで聞きながら踊る名古屋の無音盆踊りには、柳田邦男が地方で見つけたお囃子などがない静かな盆踊りを引用している。事故物件リストで有名な大島てるのデータベースには、地名学というその土地の記憶そのものの考察をぶつけてくる。

 いずれの現象にも見えてくるのは、かくして、21世紀の人間も、古来の人間と同じく、悩み、恐れ、刹那の快楽を求め、忸怩たる思いに後をひく。それが現象となる、ということだ。


 ぼくが「21世紀の民俗学」として考えたいものがあるとすれば、昨今のバーベキューの隆盛だ。
 屋外で大勢の人数が集まって火を起こして肉を焼いて酒を飲むという、きわめて原始的な祝祭をにおわせる行為が、ここ数年非常に流行っているが、ヒトをここに追い立てるものは何なのか、というのはかなり興味深い。
 バーベキューは、日常のわれわれの何を解禁し、われわれの何を作用すべく機能しているのか。
 万事が清潔で快適な住空間に追われ、万事空調の効いた室内空間や、風合いのよい衣服にくるまれ、安全なIH調理器やオーブンレンジでほどよく調理された食事の供給と、SNSによる大変都合がよくもシステム的な他人とのコミュニケーションいう「飼いならされた」日常によって、実はカチコチに凝りきってしまった心身の、大いなるほぐしという祭りこそが、この原始的なバーベキューという気がしないでもない。
  


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異文化理解力

2015年11月26日 | 民俗学・文化人類学

異文化理解力

エリン・メイヤー 訳:田岡恵
英治出版

 アメリカ人は直接的に物言いする、というステレオタイプがある一方、でもアメリカ人にネガティブな評価を伝えるときは、3つポジティブなことを伝えた後で1つネガティブを添えるくらいがちょうどいい、という話に始まり、それぞれの国で「常識」と思われるコミュニケーションのありようをふれていく。

 結論から言うべき国、背景から説明すべき国。即決するけれど修正可能な国。なかなか決断しないが一度決断すると変えない国。

 もちろんこれらにはそれぞれこれ以上はやってはいけないという「程度」があるので、行き過ぎはご法度である。

 そして、この本ではっきり示されているのは、日本という国は諸外国の中でもかなり極端だということ。つまり中国よりも中東よりも外国人にとって意思疎通がが難しい国なのである。

 これは逆にいうと、われわれ日本人にとっては、他のどの国よりも外国人とコミュニケーションするのが困難な前提があるということでもある。



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テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代史を辿る

2014年05月24日 | 民俗学・文化人類学

テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代史を辿る

厚香苗

 祭りにいくと、屋台な縁日が連なっている光景をよく見る。この屋台にいる人たちがいったいどこからやってくるのかいつも疑問だった。
屋台の中にいるのはおじさんや若い金髪兄ちゃんだけでなく、太ったおばさんが座っていることもあるし、中学生か高校生くらいのお姉ちゃんが店番していることもある。後ろの方で子どもが手伝っていることもある。

 この人たちの生活はどうなってるのだろう。この子どもたちは学校とかどうしているのだろう、とは素朴な疑問だった。
 まさか、いまどき旅芸人のように全国の祭りを追いかけて旅しているわけではあるまいが、我々とは異質の世界に身をおく人々という感じはありありとする。
 いささか不気味でもあり、あまり深入りしないほうがよさそうでもあり、でも興味ある。ワイドショー的な野卑た根性であることは認めなければならない。
 

 さて本書は、著者のテキヤに対する愛情と民俗学的探求のあいだにある本である。
 本来、民俗学的探求に余計な「愛情」はあってはならない。観察対象に対して肯定で否定でも評価的態度をとらないことが民俗学では大前提となる。

 だから、本書に本格的なテキヤの生態の解明を期待すると、食い足りなさを感じる。著者のテキヤに対しての親身ないし同情的態度がしばしば現れ、それが情報の取捨選択につながっているからである。

 たとえばテキヤという職業集団がどのような歴史的背景をもって現代に至っているのかはわりと詳しく書かれているが、では、そのテキヤを構成する人々が生来どこの何者で、どういう流れでこういう商売をするようになったのかはけっきょく本書では知らされない。もしかしていくつかの事例は知りえたのかもしれないが、本書では扱われない。むしろ「どこの何者であるか」はテキヤの慣習では「重要ではない」という結論を本書は導く。

 また、テキヤは「7割商人、3割ヤクザ」と、テキヤ自身のコメントを得ても、その「3割ヤクザ」には踏み込まない。
 むしろテキヤの信仰する「神農道」と、ヤクザの「極道」は違う、と強調する。


 それでも、いくつかのことがぼんやりとわかった。
 まず、彼らの多くは「近所から来ている」ということ。そうか。彼らは定住者なのか。なんだかすごく安心した。あの子ども達は学校へ行っているんだ。
 また警察署や保健所にまめに届けを出さなければならない関係上、その身元はかなりはっきりしている、ということ。


 一方で、テキヤは個人商店ではなくてかなり堅固な社会関係の中にいる集団であること。
 しかも「サンスン」だ「コロビ」だ、という響きの隠語や、親分子分関係がつくる閉鎖的な秩序関係、ならびに文献を残さずに口碑を中心に伝承されていくその社会形態は、やはり彼らが我々からみれば異質な世界の住人であることをうかがわせる。


 本書を読んで思ったのは、もしかしたら著者はテキヤが何者かを世の中にわからせてやろう、などとは考えていないのかもしれないということだ。むしろ、わからないままそっとしておいてあげてほしい、というのが著者の本音なのかもしれない。暴力団の件だけでなく、行政の面でも衛生観念の面でもテキヤをめぐる環境は厳しくなるばかりである。そういう意味ではテキヤは先のない商売であり、そこに著者の同情をみる。

 本書のタイトルは珍しモノみたさ、物見遊山的な読者の興味をひくに抜群だが、そんな好奇心の視線からかばおうとする著者の心情もまた感じる。聞くところによると新書のタイトルは必ずしも著者の案によるものではなく、むしろ編集部に決定権があるらしい。本書のタイトルも、ひょっとすると著者にとっては忸怩たるものがあるのかもしれない。


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