チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学
小川さやか
春秋社
噂にたがわず面白かった。初版が2019年7月だからちょっと出遅れたことになる。すでに第12刷まで出ている。この種の本としてはベストセラーだ。
人類学の中では「贈与経済」はポピュラーなテーマだ。本書もそうである。香港における巨大雑居ビル「チョンキンマンション」におけるタンザニア人コミュニティを、一緒に生活(参与観察)することによって書かれたものだが、大きくみれば「贈与」の観点で解題したものではある。「贈与」が絡む絶妙なビジネスのからくりや、贈与と分配のありようがセーフティネットにもなっているTRUSTというオンラインコミュニティの在り方には目を見張るものがある。
しかし、一般に人類学でイメージされるほどの贈与経済社会のしがらみほどには、このタンザニア人コミュニティは拘束力が強くない。
なぜならばこのコミュニティは人の出入りがかなり流動的であり、メンバーが固定できないという前提の上で成り立っていからだ。
そもそもなぜ香港にタンザニア人がいるのか。彼らの正体は出稼ぎや買い出しや食い詰めや一攫千金狙いなどさまざまである。老若男女いると言ってよい。そんな彼らだから、人によって香港の滞在期間はまちまちだし、持っている資産の格差もはげしく、その素性も、脛に傷の具合もみなバラバラである。合法的にビザを持っているものから偽名を使っているものから、不法滞在から難民申請者までいる。こんな流動性かつ多様性が前提になっているから、コミュニティの拘束力は限定的にならざるを得ない。
だけれど、コミュニティはコミュニティとしてちゃんと維持される。拘束力は強くないのにコミュニティは確かに維持されている。この妙こそが本書の主題とも言える。
彼らのコミュニティが持続する秘訣は、彼らが何事も「ついで」に行っているからだ、というのが著者の見立てである。この「ついで」というキーワードは本書の全般にわたって登場する。
「ついで」とは何か。
彼らは、しばしば他人の頼み事を引き受ける。頼み事を引き受けることで経済がまわっている。引き受けたほうからすればそれは「贈与」という行為になる。
では彼らがなんの頼み事を引き受け、なんの頼み事はさりげなくスルーするのか。これを観察してみると、自分たちの何かの「ついで」になるようだったら引き受けやすい、というところに著者は気づく。頼まれ事と同じ方向にたまたま自分も用があるとか、その頼まれ事は自分の商売ネタにも使えそうとか、まわりまわって自分の評判形成に役立ちそうとか、そういうことを算段して彼の頼みごとを引き受けかどうかを決める。つまり、彼らの「贈与」は単なる贈与ではなく、自分の利己的行為を多いに含む「贈与」なのである。
しかし、この「ついで」は隠し持つものではない。お互いに織り込み済みである。したがって頼み事をした方はその分「負担」が軽くなるという効果がある。後ろめたさが減るのである。「贈与経済」は、贈与される側の「負担」という力学が指摘されるが、この「ついで」という存在によって贈与がもたらす拘束力は緩やかになる。
著者が「ついで」の価値に着目したということは、現代の日本社会ではこの「ついで」がなかなか見いだせないということでもあるかと思う。日本では頼まれごとに利己的な目的を見出すのは卑しい行為とされるだろう。やるならば全力を出してやらなければならないという美意識とか、自分の目的のついでに他人の頼みごとを紛れ込ませることのめんどくささとかある気がする。少なくとも僕には覚えがある。
「ついで」の他に、もうひとつ僕が気が付いたキーワードがある。それは「ダメもと」である。
この「ダメもと」という言葉は、じつは本書の中では1回だけしか登場しない。しかし、本書を読んでいると、実は彼らの行動原理のかなり根っこなところにこの「ダメでもともと」というのがあるのではないかと思ったのである。
ひょっとすると「ダメもと」を意味するタンザニア語(スワヒリ語)は無いのかもしれない。
コトバが無いということは、あえてそれを意識することがないくらい彼らの中では普通のことなのかもしれないということだ。日本語に「ダメもと」=「ダメでもともと」という言葉があるということは、そういう概念を意識しなければならない日本特有の価値観がそこに存在するということを意味する。日本では「ダメな可能性の高いものはそもそもトライしないのが倫理と論理」という価値観がある。だからこそ、それでもあえてそれを行うときは「ダメもと」という概念が輪郭を伴って登場する。
だけれど、本書に出てくるタンザニア人の彼らたちは、あまりにも簡単にものを頼むし、探してみるし、会ってみるし、チャレンジする。うまくいかなかったらどうしよう、という陰りをあまり感じない。楽観的というのともちょっと違う。むしろ「たいていのものは「ダメもと」なのだ」ということを彼らはデフォルトとして自然に身につけている感じがする。
だから、人にものを頼むときも、人に何かの貸しをつくるときも「ダメもと」がついてまわっている。そしてたとえ何人かに断られても、どこかに「ついで」で引き受けてくれる人がそのうち出てくるから、コミュニティは成立するのだ。また、「ついで」と同じようにこの「ダメもと」も相互認識されているからお互いの気遣いは軽くなる。
彼らは本質的に仲間意識を大事にしているし、相互扶助社会のようである。困った同胞がいれば必ず助ける。だけど一方で、他人を信用しきってはおらず、「まかせず」「頼らず」「あてにせず」という精神がある。来るもの拒まず去るもの追わず。いらぬ詮索はしないし、過剰な期待もしない。
矛盾しているようだが、そのパラドックスをつなぐのが「ついで」と「ダメもと」であり、結果として「緩やかな拘束力」をもったコミュニティとなる。
というわけでなかなかに興味深い香港におけるタンザニア人コミュニティの実態なのだが、よくよく考えてみると、これはタンザニア人特有なのかというと、どうもそうとも言い切れない気がする。まさに「アングラ経済」の人類学というサブタイトルの通り、素性もさまざま、生活の安定度合いもさまざま、脛に傷の度合いもさまざま、要するにある種の多様性の中で行政的な制度や福祉をあてにしないで持続可能な社会をつくろうとすると自然とこうなるのではないかという気もするのだ。もっというと、日本でもかつてはアングラな立場の人はこんな感じではなかったか。フーテンの寅さんの行動原理もよくよく考えれば「ついで」と「ダメもと」ばかりやっていたような気もする。
それにしても母国タンザニア大海を隔てた香港の地でいきいきとたくましく生きる「チョンキンマンションのボス」ことカラマとその仲間たちの眩しいことと言ったらない。本書の見どころはむしろこっちかもしれない。
ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと
奥野克己
安芸書房
いささか旧聞に属するが平積みされていたときは評判がよくてあちこち書評も出ていたように思う。
ただそのときぼくは、タイトルがちょっと気にくわなくて(ドヤ顔感が鼻について)、スルーしたのだった。
それがこんなコロナ騒ぎの最中に急に読みたくなって手を出したのである。
こういう社会不信や不穏な中で読みたくなる本として、「理系の本」というのを先に挙げたことがあるが、同時にこのような「民俗学(文化人類学)の本」にも救いを求めたくなる。
それは自分の世界が陥っている閉塞感や不条理が絶対なものではなく、あくまで一面のとらえ方でしかないというのを確認したいからかもしれない。こことは違う場所では、まったく違う価値観と違う様式の世界があって、そこで人は普通に生きているのである。本書のあとがきにあるようにまさに「人類学とは、別の生の可能性を、私たちの日常の前にもたらすことによって、私たちの当たり前を問い直してみることや、物事のそもそもの本質的なあり方に気づく」であった。
それにしてもタイトルにある「ありがとうもごめんなさいもいらない」の意味するところはなかなか斬新である(近代自我社会に生きる我々にとっては)。これはマレーシアはボルネオ島に生きるブナンという部族の話である。
要するにブナンにおいては、「個人や自我」という概念、人間と動物という世界観、進化論や生命倫理、政治と公共という、いわゆる近代思想があてはまらないのである。それは近代思想に抵抗しているのではなく、はじめから無いし、近代思想が介入する隙がない(マレーシア政府は子どもたちに学校に行くことを奨励するがブナンの子どもたちは学校に行かない)し、それでいっこうに不都合がないからだ。
つまり、「ありがとう」も「ごめんなさい」も近代思想の産物なのである。所有の概念も、反省という心境もないのは、彼らが近代思想の外にいるからだ。そうだったのかー
ここで「近代思想」の「前」にいる、と書いてはいけないのである。「前」とか「後」の前後関係で書くのは、「近代思想」に染まった人の見立てである。本当は近代思想の「外」というのもちょっと違うのだろう。「中」も「外」もない。そもそもそんなものは「無い」のである。
この「無い」ことの思考の難しさといったら。いっぺん「ある」ことを知ってしまったものが、それを「ない」ことを与件として世界をどうみるかはそうとうの思考の訓練を必要とするだろう。本書では“「ある」べきものが「ない」事態”に際したときの思考について一章を割いているが、本書まるごとが、「近代思想」という我々に骨の髄までしみ込んでいる価値観様式が「ない」ブナンを描いているのである。この本で描こうとしているブナンの世界観に思いをよせることは、そうとう脳みそに汗をかく仕事である。
いまのコロナ騒ぎ(コロナというより、その周辺で混乱していく社会の騒ぎ)のさなかに読んだこの本はまさに彼岸の世界であった。この騒ぎも多くは近代思想に根差しているような気がする。本書に通底しているのがニーチェというのがまた痛快である。ニーチェなら、いまのコロナ騒ぎに沸くこの社会をどうパースペクティブを変えて看破するのだろうか。
記憶すること・記録すること 聞き書き論ノート
香月洋一郎
吉川弘文館
予備知識なく何気なく書店で見つけて手にとった本なのだが、思いのほか名著だった。
著者は民俗学者でかの宮本常一の弟子でもある。紹介されている宮本常一のセリフがまたすごく良い。著者が宮本に尋ねるのだ。
「宮本先生、『民俗』というのは別の言葉で言うと古くから伝わってきたもの、ということですな。」
「そうなんですがね、ひとつ条件がつくんですよ。自分はそれで生きてきた、という。」
そう。「自分はそれで生きてきた」である。聞き手は「この人は何で生きてきたのか」を見抜かなければならない。
本書で強調されているのは、「説明」はアテにならないということだ。
著者は「叙述」と「説明」を区別している。
話す側にある目的や方向性があり、その通りに受けとってもらうべく話すことを、とりあえずここでは「説明」と表現し、受けとる側一人一人にとってその受けとり方が違っても、それは聞き手が自由にご理解くださいといった姿勢で話すことを、ここでは「叙述」、と表現しておくー
そして民俗学者はフィールドワークにおいて話者の「説明」は鵜呑みにしないのである。むしろ「叙述」で語ってくれることを重視する。
なぜなら「説明」は、後付けであり、情報の編集であり、話者の中での意味づけや再定義が成されているからだ。
我々は世の中を把握するとき、論理を手掛かりにする。物語性で解釈する。したがって話すほうも聞くほうも「説明」というアルゴリズムを用いる。著者が指摘するように「近代教育の現場では、あるできごとをそのできごとのままに示すのではなく、なんらかの位置づけをそこで行って伝える」よう訓練されてきたのである。
いわば世の中は「説明されたもの」で成り立っているといってもよい。コミュニケーション力とかプレゼンテーション能力などもこの範疇と言ってよい。
しかし、実はここに罠があって、「説明」=「真実」とは限らないということである。
世の中は、人の行動は、歴史の経緯は、ずっと偶発的で散発的で同時多発的なものだ。そして、本来的には刹那的な判断によるその場しのぎの連続や、互いに矛盾するいくつかの要素を、後知恵でひとつの論理でまとめたり、後解釈として記録する例は非常に非常に多い。とくに時系列な歴史をかたるときは、学校の教科書、企業の社史、就活での自己紹介、結婚式披露宴で紹介されるふたりのなれそめなど、かならず「編集」が入っている。
だから「説明」からこぼれ落ちたものは些細なもの、あるいは「無いもの」とされる。
このことは反対に「説明されたもの」はそれが些細なものあるいはウソのものであっても「事実」とされるということだ。
就職活動をしてきた人ならば「学生時代に真にやってきた自分」より「面接での語り方による自分」によっぽど事態が左右されることにみんな身に覚えがあるだろう。
これを活用ないし悪用してはばからないのが国会議員たちだ。国会の問答をみていると「うまく説明できたもの勝ち」の世界である。
マスコミの報道の罪としてよく取り出されるのもこれである。大規模な自然災害がおこると、報道陣が入ったところと入らなかったところで報道に差がでる。そうすると報道陣が入らなかった被災エリアは、まるではじめから災害などなかったかのように日本社会では受容される。そして報道陣が入ったところだけが何度も何度もクローズアップされ、そここそが今回の自然災害の典型的被災地と見なされるようになる。マスコミによって今回の自然災害が「説明」されたのである。
それどころか、昨今話題の「フェイクニュース」も、この話に関連する。「フェイクニュース」というのは案外にバカにならない。なにが真実でなにがフェイクかというのは、実は紙一重というか相対的なものである。われわれ人間社会は「説明できたもの」で構成されているのだとすれば、「説明」できたものが真実であり、「説明」できないものがフェイクと解釈されやすい。そして我々は「うまく説明できたもの」に与しやすいのである。
「真実」と「事実」と「現実」は思いのほか混線しているのだ。
民俗学者や地理学者は、学究的態度として「説明」と距離をおく。
どんなに理路整然とした語りであったとしても、「叙述」として聞く。学者がじっと見ているのは語りのむこうにあるその人である。この人の何がこれを語らせているのか、それを見ている。著者いわく「人が人に話を聞くということは、まず、人が内に潜ませている不確定性をもそのまま受けとめてみる姿勢を抜きには行えない行為」なのである。
だから、本当に目の前にいる人に敬意を持つならば、その語たれる内容ではなく、この人は何で生きてきたかを見通す目が必要だ。本人の語りからこぼれてしまったこと、うまく説明できなかったもの、言語化されなかったものに、彼の生き方が宿されていたかもしれないのである。
現代生活で我々はあまりにも「説明」の期待とその訓練をされすぎてしまっている。本当に真実を分かち合えるにはどうすればいいのか。
本書では「対話」による信頼関係の蓄積と言っている。
昨日までの世界 文明の源流と人類の未来
ジャレド・ダイアモンド 訳:倉骨彰
日本経済新聞社
他の本と並行しながらちまちま読み進めていたら上下巻で1か月以上かかってしまった。内容はとても面白く、決して難解なものでもないが、ひとつひとつのエピソードや論旨が意味深なことだらけで、傍線を引いたりアタマの中で再整理しながらの熟読となり、あたかもひとコマずつ授業を受けているような感じの読み方となってしまった。
「昨日までの世界」とは、西洋型(とくにアメリカ型)の現代生活を送るようになる以前、人々はどのように社会を形成し、どのように生活してきたかを、ニューギニアをはじめとする世界各地の前近代的=伝統的な民族のライフスタイルから考察する試みである。著者のフィールドワークや他の学者からの研究発表などを編集しながら、西洋型現代社会と伝統型社会それぞれのメリットデメリットをとにかくいろいろな角度から考察する。
知的刺激というかインパクトの点では「銃・病原菌・鉄」のほうに軍配が上がるが、いろいろ人生や生活に学ぶところがあるなあという点ではこちらのほうが上かもしれない。「昨日までの世界」で人類が学習してきたもの、人類が会得してきたものの中には、西洋型現代社会が近代化の過程で捨て去ってしまったものがけっこうあるが、これからの世界にとって実はヒントになることがたくさんある。日本を含む現代社会がかかえる様々な課題に対し、「昨日までの世界」は決して過去ではなく、現代のオルタナティブな在り方として多いに参考になる。最近はとにかく未来を問う本が「ホモ・デウス」はじめ次々と出てきているが、「ホモ・デウス」や「拡張する未来」を読みながら、一方でこの「昨日までの世界」を併読してきたのは、幸運な読書体験だったかもしれない。
「近隣住民との付き合い方」「子どもの育て方」「ご近所トラブルの対処法」「バイリンガル」「商売の仕組み」「病気やケガのリスク感覚」「高齢者の取り扱い方」「宗教の機能の仕方」などとにかく様々なテーマで比較文化論が展開されて圧巻なのだが、印象的だたったものを以下にいくつか挙げてみたい。
①「建設的なパラノイア」・・・伝統型社会の人々におけるリスク回避の取り方
②大人社会の「ひな形」として機能する子どもの遊び
③伝統型社会にほとんど見られない高血圧と糖尿病の話
①「建設的なパラノイア」というのは、リスク工学でいうところのヒヤリハットに近い。大事故というのはだいたい小さな事故がいくつも偶然条件的に重なって起こるもので、その小さな事故がひとつでも起きていなければ大事故にはならなかったりする。一般にひとつの大事故が発生する前に、大事故に至らずにおわった30の中事故が見過ごされており、その中事故さえ未然に終わった100の小事故が見過ごされている。「建設的なパラノイア」はその100の小事故を自覚的に警戒するというものだ(こんな仕方の説明を本書ではしていないが、そう外れていないはず)。
なぜなら伝統型社会では中事故や大事故が起きたときのリカバーが西洋型現代社会ほど期待できないからである。病院や医療技術の水準も低いし、福祉や保険の水準も低い。足の骨を折るだけでも命とりになったり、その後の人生を棒にふったりする。骨折どころか切り傷ひとつでも破傷風リスクがある。したがって伝統型社会では、西洋型現代社会では見過ごすような些細なことでも慎重になる。朽ち木が倒れてこないか、足場の悪いところで転ばないか、ここに見知らぬ誰かがきた可能性はないかなど、野生の勘ともいうべき警戒センスが働くように習慣づけられている。
西洋型現代社会は万事仕組みが整っているので、いちいち街路樹の木が倒れるんじゃないかと心配することはないし、家の鍵は頑丈だし、少々風邪をひいたところで手近に薬も病院もあるし、室内空調も効かせられる。とはいうものの、この「建設的なパラノイア」は一聴に値するだろう。リスクというのは「発生確率」×「生じたときのダメージの大きさ」で計算するが、いま自分が肌感覚で感じているリスク計算、つまり風邪とか交通事故とか失業とか天災に対しての「発生確率」と「生じたときのダメージの大きさ」それぞれの見積もり感覚は、案外数十年前のだったりするのではないか。VUCAの時代でもあり、社会保障制度も先細りの日本であることを考えると、もう少し我々も「建設的なパラノイア」になったほうがいいかもなと思った次第である。
②大人社会の「ひな形」としての子どもの遊びの話も、言われてみればなるほどというものだ。つまり伝統型社会での子ども時代における狩りの真似事や木登りやナイフを使った諸々の細工は、大人になってそのまま獲物をとらえたり、見張りに登ったり、様々な道具をつくるスキルになる。女の子の場合、まだ子どものうちから近所に住む自分よりさらにちいさい子どもの面倒を買ってでる。それが自分が母親になったときの訓練になる(おおむね10代で母親になる)。そして子どもの遊び集団は基本的に性年齢が多様で構成される。大人の社会はもちろん性年齢が多様であるから、多様空間の中の身の処し方を自然に身につけたまま大人になることになる。
これに比すると、日本も含む西洋型現代社会の子どもの遊びは、ゲームやスマホでの動画視聴がかなり幅を利かせるようになり、出入りするコミュニティがきほん的に同性同学年であると考えていくと、そこで培われたスキルが、社会に出て稼ぐ必要性が出たときに直接作用するかというと、伝統型社会に比べれば距離があることは否めない。
なお、本書では子どもの育て方、とくに乳幼児の育て方について詳細に比較されている。赤ん坊の抱き方、授乳のタイミング、直接の両親以外以外の大人の関わりかたなど。子どもの抱き方とか授乳にまつわる話なんかは、日本はアメリカ型というより「昨日までの世界」に近いところもあり、日本はやはりアジアなんだなと思ったりもする。
③の高血圧と糖尿病については、「昨日までの世界」には高血圧も糖尿病もほとんど存在しない、という事実が何を意味するかという問いかけから始まる。そんなの「西洋型現代社会」のファーストフード型食生活が原因でしょ、と言えばそれまでだが、本書は単に食事の問題としてそこで思考停止していない。着目するのは、「伝統型社会」に生きていた人が、政府の保護とか移住とかの事情で急に「西洋型現代社会」に移ったとき、従来そこで「西洋型現代社会」をしてきた人よりも高血圧や糖尿病に発病する確率が高まるというところである。
これすなわち、長い人類の歴史において「塩分を身体に蓄える能力(具体的には腎臓の能力)」「糖分を身体に蓄える能力(具体的には脾臓の能力)」を必要とした時代が長かったため、飽食の今日になって通常の現代的食事内容と現代的運動量では、自動的に塩分も糖分も過剰になる、ということなのだ。伝統型生活において調達される食事の量や栄養バランス、調達される頻度のばらつきというものは、過去の人類の歴史のそれに近しいだろうというのは想像に難くない。また、運動量もずっと多い(食糧を確保し、住宅環境を安全に保ち、日々の移動で十分すぎる運動量となる。過去の人類がそうだったように)。我々の生理学的な身体能力は、塩分と糖分についていまだ過去の適性を失っていないのである。
したがって「西洋型現代社会を無批判的に送っていると自動的に高血圧・糖尿病になるリスクが高い」ことを意味する。食物繊維や野菜はむしろこちらから積極的に探し出して食べに行かなければならないし、塩分糖分は外食や加工食品にはとにかくたくさん入っているから意識して回避しなければならない。
などなど。他にもいろいろ考えさせられることが多い。
もちろん「伝統型社会」には、残酷めいた風習、殺し合い、人権的な問題、不衛生も大いにある。著者が本書中で何度も主張するように、すべてが「伝統型社会」に学ぶものでないのは確かだ。
大事なのは、温故知新、そして弁証法的とでもいった思考態度だろう。「伝統型社会」はそれはそれで10000年にわたる人類の知恵が切磋琢磨されたところであり(著者曰く「自然実験」)、前近代だからといって下に見るものでも博物誌的な興味対象にみるものでもないだろう。伝統型社会が「昨日までの世界」ならば、歴史に学ぶ、という点ではこれ以上に豊富な歴史はないわけである。
21世紀の民俗学
畑中章宏
角川書店
挑戦的なタイトルである。しかもWIREDで連載されたものというから興味深い。
本書の巻末書き下ろしでも述べられているが、「都市民俗学」と称して口裂け女とかトイレの花子さんとかの都市伝説を、古来の河童伝説や浦島太郎伝説の研究と同じような方法論で、分布やバリエーションを調べているようなものはたまに見かける。ただし、これは「民俗学」とはいっても本格的なアカデミズムというよりはサブカル研究みたいなものであることが多い。
民俗学というからには、その観察対象に、その地で生きている人たちの記憶や知恵が累積されているものを見出すことが一般だろう。「トイレの花子さん」はなぜ出現するのか。そういうものの出現を「必要」とする学校という子供たちの時空間は、何を意味しているのか。
著者はもちろんわかっている。だから、「21世紀の民俗学」と来たからには、目の前の現象はあくまで21世紀を象徴とするそれだけれど、しかしそこに見え隠れする人の所作や思いは、古来からある人間の喜怒哀楽であり、その観察対象を持つに至る人々の心理的背景や合理的理由を見出そうと試みる。
自撮り棒、ホメオパシー、アニメの聖地巡礼、ポケモンGOまで、21世紀今日の社会現象を、そこに生きる人の記憶や知恵の累積のあらわれとして、民俗学的に考察していく。
もっとも、雑誌の連載ということもあって、ひとつひとつの深堀はそれほどつめられてはおらず、次から次へと21世紀の観察対象がカタログのように紹介されていく体裁ではある。自撮り棒なんか、本気で考察したらそうとう面白いことになりそうだが、WIREDの連載なので、薄く広いのは仕方のないことだろう。
そのかわり、というのか、考察のショートカットというべきか、著者の挑戦として面白いのは、そういった21世紀の現象に対し、比較軸として、いわゆる代表的な民俗学的素材をもってくることで、なんらかの普遍性を見出そうとすることだ。
たとえば、自撮り棒には座敷童子を援用する。なるほど、自撮り棒によって写された写真とは、従来の写真ならばいないはずの、しかしあたま数的には矛盾しないはずの、という一種のパラドックス的違和感をたくした座敷童子というフォーマットをあてはめてみることで、この奇妙な撮影習慣の普遍性にせまろうとする。
ほかにもホメオパシーには富山の民間薬、FM電波で流れる音楽をイヤホンで聞きながら踊る名古屋の無音盆踊りには、柳田邦男が地方で見つけたお囃子などがない静かな盆踊りを引用している。事故物件リストで有名な大島てるのデータベースには、地名学というその土地の記憶そのものの考察をぶつけてくる。
いずれの現象にも見えてくるのは、かくして、21世紀の人間も、古来の人間と同じく、悩み、恐れ、刹那の快楽を求め、忸怩たる思いに後をひく。それが現象となる、ということだ。
ぼくが「21世紀の民俗学」として考えたいものがあるとすれば、昨今のバーベキューの隆盛だ。
屋外で大勢の人数が集まって火を起こして肉を焼いて酒を飲むという、きわめて原始的な祝祭をにおわせる行為が、ここ数年非常に流行っているが、ヒトをここに追い立てるものは何なのか、というのはかなり興味深い。
バーベキューは、日常のわれわれの何を解禁し、われわれの何を作用すべく機能しているのか。
万事が清潔で快適な住空間に追われ、万事空調の効いた室内空間や、風合いのよい衣服にくるまれ、安全なIH調理器やオーブンレンジでほどよく調理された食事の供給と、SNSによる大変都合がよくもシステム的な他人とのコミュニケーションいう「飼いならされた」日常によって、実はカチコチに凝りきってしまった心身の、大いなるほぐしという祭りこそが、この原始的なバーベキューという気がしないでもない。
異文化理解力
エリン・メイヤー 訳:田岡恵
英治出版
アメリカ人は直接的に物言いする、というステレオタイプがある一方、でもアメリカ人にネガティブな評価を伝えるときは、3つポジティブなことを伝えた後で1つネガティブを添えるくらいがちょうどいい、という話に始まり、それぞれの国で「常識」と思われるコミュニケーションのありようをふれていく。
結論から言うべき国、背景から説明すべき国。即決するけれど修正可能な国。なかなか決断しないが一度決断すると変えない国。
もちろんこれらにはそれぞれこれ以上はやってはいけないという「程度」があるので、行き過ぎはご法度である。
そして、この本ではっきり示されているのは、日本という国は諸外国の中でもかなり極端だということ。つまり中国よりも中東よりも外国人にとって意思疎通がが難しい国なのである。
これは逆にいうと、われわれ日本人にとっては、他のどの国よりも外国人とコミュニケーションするのが困難な前提があるということでもある。
テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代史を辿る
厚香苗
祭りにいくと、屋台な縁日が連なっている光景をよく見る。この屋台にいる人たちがいったいどこからやってくるのかいつも疑問だった。
屋台の中にいるのはおじさんや若い金髪兄ちゃんだけでなく、太ったおばさんが座っていることもあるし、中学生か高校生くらいのお姉ちゃんが店番していることもある。後ろの方で子どもが手伝っていることもある。
この人たちの生活はどうなってるのだろう。この子どもたちは学校とかどうしているのだろう、とは素朴な疑問だった。
まさか、いまどき旅芸人のように全国の祭りを追いかけて旅しているわけではあるまいが、我々とは異質の世界に身をおく人々という感じはありありとする。
いささか不気味でもあり、あまり深入りしないほうがよさそうでもあり、でも興味ある。ワイドショー的な野卑た根性であることは認めなければならない。
さて本書は、著者のテキヤに対する愛情と民俗学的探求のあいだにある本である。
本来、民俗学的探求に余計な「愛情」はあってはならない。観察対象に対して肯定で否定でも評価的態度をとらないことが民俗学では大前提となる。
だから、本書に本格的なテキヤの生態の解明を期待すると、食い足りなさを感じる。著者のテキヤに対しての親身ないし同情的態度がしばしば現れ、それが情報の取捨選択につながっているからである。
たとえばテキヤという職業集団がどのような歴史的背景をもって現代に至っているのかはわりと詳しく書かれているが、では、そのテキヤを構成する人々が生来どこの何者で、どういう流れでこういう商売をするようになったのかはけっきょく本書では知らされない。もしかしていくつかの事例は知りえたのかもしれないが、本書では扱われない。むしろ「どこの何者であるか」はテキヤの慣習では「重要ではない」という結論を本書は導く。
また、テキヤは「7割商人、3割ヤクザ」と、テキヤ自身のコメントを得ても、その「3割ヤクザ」には踏み込まない。
むしろテキヤの信仰する「神農道」と、ヤクザの「極道」は違う、と強調する。
それでも、いくつかのことがぼんやりとわかった。
まず、彼らの多くは「近所から来ている」ということ。そうか。彼らは定住者なのか。なんだかすごく安心した。あの子ども達は学校へ行っているんだ。
また警察署や保健所にまめに届けを出さなければならない関係上、その身元はかなりはっきりしている、ということ。
一方で、テキヤは個人商店ではなくてかなり堅固な社会関係の中にいる集団であること。
しかも「サンスン」だ「コロビ」だ、という響きの隠語や、親分子分関係がつくる閉鎖的な秩序関係、ならびに文献を残さずに口碑を中心に伝承されていくその社会形態は、やはり彼らが我々からみれば異質な世界の住人であることをうかがわせる。
本書を読んで思ったのは、もしかしたら著者はテキヤが何者かを世の中にわからせてやろう、などとは考えていないのかもしれないということだ。むしろ、わからないままそっとしておいてあげてほしい、というのが著者の本音なのかもしれない。暴力団の件だけでなく、行政の面でも衛生観念の面でもテキヤをめぐる環境は厳しくなるばかりである。そういう意味ではテキヤは先のない商売であり、そこに著者の同情をみる。
本書のタイトルは珍しモノみたさ、物見遊山的な読者の興味をひくに抜群だが、そんな好奇心の視線からかばおうとする著者の心情もまた感じる。聞くところによると新書のタイトルは必ずしも著者の案によるものではなく、むしろ編集部に決定権があるらしい。本書のタイトルも、ひょっとすると著者にとっては忸怩たるものがあるのかもしれない。