昨日テレビを見ていたら仁鶴さんの訃報が画面に出て来たのでとても寂しかった。
大阪テレビの夜の番組で100回あまり小生の手掛けた民話の再話が放送されました。私のお小遣いに役立ち、職場の仲間や挿絵の画家にもとても役立ったのでした。
その後、出版社は倒産してしまいましたが、印税もありがたかったのでした。テープが送られてきたのでお聞きしましたが、関西鉛の語りは、東北鉛の多い民話にはなじまなかったが、100会場も放送されたのですからそれ相当には役立ったのでしょう。ありがたいことです。※「ふるさと民話」全7巻(鳩の森書房)
仁鶴さん死去「笑いのコツお客さんが教えてくれた」2021/08/20 20:59
© 産経新聞 「第1回上方落語まつりinミナミ」で口上をのべる(左から)笑福亭仁鶴さん、桂春団治さん、桂米朝さん=平成22年4月、大阪市中央区・なんばグランド花月
17日に亡くなった落語家、笑福亭仁鶴さんは、昭和40年代以降、上方落語の新時代を告げる存在として、その中心を担ってきた。着物姿で座布団に座る従来のスタイルを打ち破り、ラジオやテレビでギャグを連発して若者をお笑いのとりこに。一方で高座にも真摯(しんし)に向き合い続け、自身の著書の中では落語のことを「唯一、自信を持って演(や)れる財産」と記した。仁鶴さんが落語と出合ったのは高校生の頃。古道具店で見つけた初代桂春団治のレコードを聴き、その面白さに衝撃を受けた。六代目笑福亭松鶴さんに入門したのは、芸風が春団治に似ていたからだった。松鶴さんをはじめ、当時の落語家の多くが松竹芸能に所属する中、自身は吉本興業へ。師匠らから、テンポが速く、ギャグの多い落語が「吉本向き」と言われ、松竹を追う立場である吉本の方が面白そうだと考えた。同社の劇場に立ち、漫才や新喜劇が目当ての客に受ける方法を模索。後に「笑いのコツは、お客さんが教えてくれた」と振り返っている。レギュラー出演した毎日放送「ヤングおー!おー!」をはじめ、当時のテレビ番組には仁鶴さんの他、桂三枝(現文枝)さんや月亭可朝さん(故人)ら多くの若手落語家が出演し、人気を博していた。だが新時代を築く一方で、落語をおろそかにすることはなかった。多忙を極める中で新しい噺(はなし)を次々と覚え、月20日間の劇場出演も続けた。自身の活躍について、「時代の流れと、会社の勢いに乗せてもらった」と、どこまでも謙虚だった。10年ほど前、毎年恒例の独演会に向けたコンディション作りを尋ねると、「目が覚めて寝るまでネタのことを考える。それが大事」と答えていた。ラジオのパーソナリティー時代、高校生リスナーの思春期の悩みにも正面から向き合い、「エロ仁鶴」とも呼ばれたが、伝統を重んじ礼節を欠かさなかった。テレビで見せる姿はいつも明るくて朗らかだった仁鶴さん。しかし、自身の本質を、コラム集「仁鶴湯」(主婦と生活社)の中で「マイナス思考。いつも後ろを見て、後ろを教訓に前に進んでいる」と打ち明ける。そして、〝笑い〟についての考えをこう記した。「この世界は大概がしんどい」「だから、人間は笑いという調味料がなかったら、生きていかれへんのとちゃうやろか」
仁鶴さんの入門時には20人ほどしかいなかった上方落語協会所属の落語家は、今では250人。戦後の上方落語復興に尽くし、いずれも今は亡き、師匠の松鶴さん、三代目桂米朝さん、三代目桂春団治さん、五代目桂文枝さんの「上方四天王」に続く存在だった。
上方落語界の重鎮、笑福亭仁鶴(しょうふくてい・にかく、本名・岡本武士=おかもと・たけし)さんが17日、骨髄異形成症候群のため、大阪府内の自宅で逝去した。84歳だった。20日、所属する吉本興業が発表した。長きにわたり上方落語界の発展に尽力し、劇場にとどまらずテレビやラジオなどでも活躍。「どんなんかな~」や「四角い仁鶴がまぁーるくおさめまっせ~」などヒットギャグを連発し、お茶の間の人気者となったタレント落語家が天国へと旅立った。
© サンケイスポーツ 共演する隆子さん(左)と笑いを取る仁鶴さん。おしどり夫婦としても知られた=1969年12月撮影
吉本の〝顔〟の訃報は突然届いた。高座だけでなく、ラジオやテレビ、舞台など幅広く活躍した仁鶴さん。お笑いにささげた人生に別れを告げた。すでに葬儀は近親者で執り行われ、関係者によると亡くなる直前まで元気だったという。一番弟子の笑福亭仁智(69)も「亡くなる2日前に、2時間いろいろなお話をしたばかりなので、びっくりしました」と驚きを隠せなかった。仁鶴さんは2017年6月に吉本新喜劇の女優だった妻の隆子さん(享年72)を亡くしてから、約2週間仕事を休むほど気落ちしていた。体調不良で30年以上司会を務めた「バラエティー生活笑百科」(NHK)と、長寿番組「大阪ほんわかテレビ」(読売テレビ)の収録を欠席してから、休演状態となっていた。2018年9月に大阪・天満天神繁昌亭で行われた「六代目笑福亭松鶴生誕百年祭」では、約8分ほどの立ち高座で1年2カ月ぶりに舞台復帰。同年10月の「京都国際映画祭」でのあいさつが最後の公の場となった。表舞台から遠ざかっても、一門の弟子が順番で夕食をともにしていたが、コロナ禍でそんな交流もなくなっていたという。上方の芸能界に残した功績は計り知れない。落語との出合いは、10代後半。初代桂春団治の高座を収めたレコードを、古道具店の店先で耳にしたのがきっかけだった。そのレコードを擦り切れるほど聞き、「身も心も奪われた」。腕試しにとラジオの素人参加番組に出演。審査員だった六代目笑福亭松鶴(当時枝鶴)さんに弟子入りした。ラジオ大阪の深夜放送で発した「どんなんかな~」が当たりギャグとなり、若者の支持を獲得。ラジオで鍛えた話術でテレビにも活躍の場を広げた。69年放送開始のMBS「ヤングおー!おー!」では桂三枝(78、現文枝)と初代司会を務め、「視聴率を5%上げる男」と評された。73年、ボンカレー(大塚食品)のCMでは「3分間待つのだぞ」のせりふは流行語に。67年に結婚した隆子さんとおしどり夫婦として共演も。仁鶴さんが呼ぶ「たか子姫」の愛称も有名になった。落語は若い頃は勢いのある語り口で聞かせ、70年代後半にのどを痛めてからは、バリトンの声を生かした正統派の上方落語で高い評価を得た。86年に師匠の松鶴さんが死去した後、七代目襲名を固辞。2005年に吉本興業の特別顧問に就任し、若手や社員らに親身にアドバイスを送った。お別れの会などの予定はなし。上方だけでなく、全国民から愛された仁鶴さん。多彩な芸で爆笑をとる姿は永遠に語り継がれる。
◆骨髄異形成症候群 赤血球や白血球などの血液細胞のもとになる骨髄の造血幹細胞が侵され、正常な血液細胞がつくれなくなる血液がんの一種。骨髄の中に白血病細胞が20%以上になると白血病で、骨髄異形成症候群とはこの2割に達していない状態。笑福亭仁鶴(しょうふくてい・にかく) 本名・岡本武士(たけし)。1937(昭和12)年1月28日生まれ。大阪市出身。61年に六代目笑福亭松鶴に入門。ラジオのディスクジョッキーで頭角を現し、吉本興業が東京に進出する足がかりを作った。同社の中興の祖とされる。歌手としても「おばちゃんのブルース」などがヒット。74年に上方お笑い大賞を受賞。「バラエティー生活笑百科」(NHK)では86年から30年以上にわたり司会を務めた。2005年、吉本興業の特別顧問に就任。
大阪テレビの夜の番組で100回あまり小生の手掛けた民話の再話が放送されました。私のお小遣いに役立ち、職場の仲間や挿絵の画家にもとても役立ったのでした。
その後、出版社は倒産してしまいましたが、印税もありがたかったのでした。テープが送られてきたのでお聞きしましたが、関西鉛の語りは、東北鉛の多い民話にはなじまなかったが、100会場も放送されたのですからそれ相当には役立ったのでしょう。ありがたいことです。※「ふるさと民話」全7巻(鳩の森書房)
仁鶴さん死去「笑いのコツお客さんが教えてくれた」2021/08/20 20:59
© 産経新聞 「第1回上方落語まつりinミナミ」で口上をのべる(左から)笑福亭仁鶴さん、桂春団治さん、桂米朝さん=平成22年4月、大阪市中央区・なんばグランド花月
17日に亡くなった落語家、笑福亭仁鶴さんは、昭和40年代以降、上方落語の新時代を告げる存在として、その中心を担ってきた。着物姿で座布団に座る従来のスタイルを打ち破り、ラジオやテレビでギャグを連発して若者をお笑いのとりこに。一方で高座にも真摯(しんし)に向き合い続け、自身の著書の中では落語のことを「唯一、自信を持って演(や)れる財産」と記した。仁鶴さんが落語と出合ったのは高校生の頃。古道具店で見つけた初代桂春団治のレコードを聴き、その面白さに衝撃を受けた。六代目笑福亭松鶴さんに入門したのは、芸風が春団治に似ていたからだった。松鶴さんをはじめ、当時の落語家の多くが松竹芸能に所属する中、自身は吉本興業へ。師匠らから、テンポが速く、ギャグの多い落語が「吉本向き」と言われ、松竹を追う立場である吉本の方が面白そうだと考えた。同社の劇場に立ち、漫才や新喜劇が目当ての客に受ける方法を模索。後に「笑いのコツは、お客さんが教えてくれた」と振り返っている。レギュラー出演した毎日放送「ヤングおー!おー!」をはじめ、当時のテレビ番組には仁鶴さんの他、桂三枝(現文枝)さんや月亭可朝さん(故人)ら多くの若手落語家が出演し、人気を博していた。だが新時代を築く一方で、落語をおろそかにすることはなかった。多忙を極める中で新しい噺(はなし)を次々と覚え、月20日間の劇場出演も続けた。自身の活躍について、「時代の流れと、会社の勢いに乗せてもらった」と、どこまでも謙虚だった。10年ほど前、毎年恒例の独演会に向けたコンディション作りを尋ねると、「目が覚めて寝るまでネタのことを考える。それが大事」と答えていた。ラジオのパーソナリティー時代、高校生リスナーの思春期の悩みにも正面から向き合い、「エロ仁鶴」とも呼ばれたが、伝統を重んじ礼節を欠かさなかった。テレビで見せる姿はいつも明るくて朗らかだった仁鶴さん。しかし、自身の本質を、コラム集「仁鶴湯」(主婦と生活社)の中で「マイナス思考。いつも後ろを見て、後ろを教訓に前に進んでいる」と打ち明ける。そして、〝笑い〟についての考えをこう記した。「この世界は大概がしんどい」「だから、人間は笑いという調味料がなかったら、生きていかれへんのとちゃうやろか」
仁鶴さんの入門時には20人ほどしかいなかった上方落語協会所属の落語家は、今では250人。戦後の上方落語復興に尽くし、いずれも今は亡き、師匠の松鶴さん、三代目桂米朝さん、三代目桂春団治さん、五代目桂文枝さんの「上方四天王」に続く存在だった。
上方落語界の重鎮、笑福亭仁鶴(しょうふくてい・にかく、本名・岡本武士=おかもと・たけし)さんが17日、骨髄異形成症候群のため、大阪府内の自宅で逝去した。84歳だった。20日、所属する吉本興業が発表した。長きにわたり上方落語界の発展に尽力し、劇場にとどまらずテレビやラジオなどでも活躍。「どんなんかな~」や「四角い仁鶴がまぁーるくおさめまっせ~」などヒットギャグを連発し、お茶の間の人気者となったタレント落語家が天国へと旅立った。
© サンケイスポーツ 共演する隆子さん(左)と笑いを取る仁鶴さん。おしどり夫婦としても知られた=1969年12月撮影
吉本の〝顔〟の訃報は突然届いた。高座だけでなく、ラジオやテレビ、舞台など幅広く活躍した仁鶴さん。お笑いにささげた人生に別れを告げた。すでに葬儀は近親者で執り行われ、関係者によると亡くなる直前まで元気だったという。一番弟子の笑福亭仁智(69)も「亡くなる2日前に、2時間いろいろなお話をしたばかりなので、びっくりしました」と驚きを隠せなかった。仁鶴さんは2017年6月に吉本新喜劇の女優だった妻の隆子さん(享年72)を亡くしてから、約2週間仕事を休むほど気落ちしていた。体調不良で30年以上司会を務めた「バラエティー生活笑百科」(NHK)と、長寿番組「大阪ほんわかテレビ」(読売テレビ)の収録を欠席してから、休演状態となっていた。2018年9月に大阪・天満天神繁昌亭で行われた「六代目笑福亭松鶴生誕百年祭」では、約8分ほどの立ち高座で1年2カ月ぶりに舞台復帰。同年10月の「京都国際映画祭」でのあいさつが最後の公の場となった。表舞台から遠ざかっても、一門の弟子が順番で夕食をともにしていたが、コロナ禍でそんな交流もなくなっていたという。上方の芸能界に残した功績は計り知れない。落語との出合いは、10代後半。初代桂春団治の高座を収めたレコードを、古道具店の店先で耳にしたのがきっかけだった。そのレコードを擦り切れるほど聞き、「身も心も奪われた」。腕試しにとラジオの素人参加番組に出演。審査員だった六代目笑福亭松鶴(当時枝鶴)さんに弟子入りした。ラジオ大阪の深夜放送で発した「どんなんかな~」が当たりギャグとなり、若者の支持を獲得。ラジオで鍛えた話術でテレビにも活躍の場を広げた。69年放送開始のMBS「ヤングおー!おー!」では桂三枝(78、現文枝)と初代司会を務め、「視聴率を5%上げる男」と評された。73年、ボンカレー(大塚食品)のCMでは「3分間待つのだぞ」のせりふは流行語に。67年に結婚した隆子さんとおしどり夫婦として共演も。仁鶴さんが呼ぶ「たか子姫」の愛称も有名になった。落語は若い頃は勢いのある語り口で聞かせ、70年代後半にのどを痛めてからは、バリトンの声を生かした正統派の上方落語で高い評価を得た。86年に師匠の松鶴さんが死去した後、七代目襲名を固辞。2005年に吉本興業の特別顧問に就任し、若手や社員らに親身にアドバイスを送った。お別れの会などの予定はなし。上方だけでなく、全国民から愛された仁鶴さん。多彩な芸で爆笑をとる姿は永遠に語り継がれる。
◆骨髄異形成症候群 赤血球や白血球などの血液細胞のもとになる骨髄の造血幹細胞が侵され、正常な血液細胞がつくれなくなる血液がんの一種。骨髄の中に白血病細胞が20%以上になると白血病で、骨髄異形成症候群とはこの2割に達していない状態。笑福亭仁鶴(しょうふくてい・にかく) 本名・岡本武士(たけし)。1937(昭和12)年1月28日生まれ。大阪市出身。61年に六代目笑福亭松鶴に入門。ラジオのディスクジョッキーで頭角を現し、吉本興業が東京に進出する足がかりを作った。同社の中興の祖とされる。歌手としても「おばちゃんのブルース」などがヒット。74年に上方お笑い大賞を受賞。「バラエティー生活笑百科」(NHK)では86年から30年以上にわたり司会を務めた。2005年、吉本興業の特別顧問に就任。