合唱付き4管編成オーケストラの新作に着手。こんな大きな編成は書いたことが無い。演奏されるか否かに拘らず、作曲すること自体が嬉しい。
オーケストラの新作を世に問う…これは無謀とも言える挑戦だ。カルテットやピアノ曲もやり尽くされた感があるが、オケはその比では無い。
・当たり前の発想を捨てる、これは大前提。
・そして書き出し。天才は忘れた頃にやって来ない。書き出しさえ見れば分かる。それ故、凡人は書き出しに苦しむ。苦しまないのは天才、若しくはずぶの素人。
・自分がパッと飛びつくテーマを探すこと。即ち作品の「目」。善悪や高尚か低俗かなどの区別など度外視して。それさえ決まれば、数ヶ月間携わる作業の大きな拠り所となる。
音楽は天国にも地獄にもなり得る。多くの宗教作品には地獄の描写がある。マタイ受難曲にも、民衆が「バラバ!」と叫び、それによってイエスが磔刑に処される場面が描かれる。
地獄を描写出来ない芸術家が天国を描写出来るだろうか。
痛みの音楽は、ベルリオーズ、ヴェルディ、R・シュトラウス、マーラーなどは元より、古くはバロック音楽の作曲家も作っている。もっと遡れば有史以来、死者を悼む歌として演奏されている、最も根源的な音楽だ。
儀式の音楽という地位から、独立した芸術として高められてからは、喜怒哀楽の大切な一つとして、あらゆる作曲家があらゆる手法で痛みを描いている。
カタルシスの作用と同じく、世界中に多数実在する、死ぬ思いで痛みに耐えている人たちの、その痛みをせめて音楽で分かち合い、浄化しようとの思いで作曲されるのではないだろうか。
作品は、ある怪奇文学のテキストに拠る。
テキストが絵画などでは無く文学の場合、筋を追って音楽化すれば作り易く、分かり易い。反面、音楽がテキストに従属してしまい、場面ごとの継ぎはぎになり兼ねない。
ワーグナーはその形式を嫌い、切れ目のない「楽劇」を創出した。しかし拙作は歌曲でもオペラでも無い。独唱者はいない。歌うのはバックコーラスのみ。
そこでストーリーを追うのではなく、要となる場面を切り取り、言葉は必要最少限に切り詰めた。情景や内面をオーケストラに描写させるべく。
とかく大編成はごてごて飾りがちだが、むしろシンプルなテクスチャーにぞくっとする。暴風雨のごときカオスと対比させることで一層際立つ。
凝縮されたテクスチャーで、体の一部がもぎ取られたような痛みや怖れを表現したい。
♫ 試聴
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