エゾ中村のブログ

「藤圭子」から「現代医学の功罪」まで、思いの丈を綴ります。 ・・・ From 北海道 ・・・

“北前船”の謎

2020-06-01 09:12:20 | “アイヌ文化”関連

北海道は、“昆布”の産地です。 と言うより、世界的に昆布の採れる地域は、北海道に限られている様です。 その中でも、“利尻昆布”や“羅臼昆布”が有名です。 昔から 道民は、地産地消を心掛け 質の劣る(二級品)を食べていたと思います。 一体、高級昆布は何処へ運ばれたのか? “出汁文化”が根付く“京都”や“大阪”は、昆布の消費が多いのは分かっていましたが、江戸時代に“琉球(現・沖縄)”や“中国”まで、密かに運ばれていたのは“”でした!

関西の出汁文化は、5~600年になると言われます。 そこには、“北前船”の存在があります。 徳川幕府が、“鎖国政策”を取っていたにも拘らず、長崎や横浜に“出島”を設け“ヨーロッパ”との貿易は、半ば黙認されていた様です。 そんな中、“近江商人”が主導する“北前船”は、果たして正当な貿易だったのか? 「士農工」の中で、身分が低いとされる商人による“密貿易”ではなかったのか? そんな疑問が、湧いてきます! 何故なら、「近江商人が通った後は“ぺんぺん草”も生えない・・・」 要するに、取引が強引だったのは通説です。 特に、アイヌ人との商談は“あくどかった”と思います。 当時の物々交換では、数を誤魔化し「始め・1・2・3・4・5・終わり」で、常にプラス 2 を騙し取っていた様です。 そんな事で 北前船は、蝦夷(現・北海道)交易で莫大な利益を得たのは確かです!

北前船のルートは、蝦夷地(北海道)から日本海経由で、関門海峡~瀬戸内海を通り、大阪まで至る海の道でした。 勿論、沖縄県や中国に 物資を運ぶルートは無かった筈です。 その運搬を可能にしたのは、当時“漢方薬”で中国と交流のあった“越中富山の薬売り”でした。 北前船を造り、密かに薩摩藩・琉球・中国と貿易していた様です。 財政難だった薩摩藩は、この密貿易(昆布・乾燥アワビ&ナマコ)で、瞬く間に再建した。 後に、徳川幕府転覆計画(倒幕)の資金源になったのは、明らかです。 薩摩藩(島津家)の「西郷 隆盛」や「大久保 利通」、結果的にアイヌ人を利用し蝦夷地を侵略する切っ掛けになったとすれば、明治維新の想いは複雑です! 蝦夷を守ったのは、最後の将軍「徳川 慶喜」および“新選組”の「土方 歳三」であり、明治政府ではありません。  

蝦夷地の“アイヌ人”と“和人(日本人)”の交易は、縄文弥生時代に遡るのは確かです。 北前船が無い時代でも、津軽海峡を小型舟で渡るのは可能です。 元々 アイヌ人と和人は、長い間“共存共栄”の関係があった筈です。 その証拠は、日本犬です。 縄文時代 蝦夷に運ばれ、アイヌ犬として大切に育てられたのです。(日本犬で、純粋に血統を守り続けたのは“アイヌ犬”だけです) それを、明治時代に北海道犬と改名したのは、軍国主義下で歴史を歪める暴挙です! 

北前船によって、近江商人は莫大な利益を得たのは確かです。 商人だから、貿易による儲けは必要です。 しかし、アイヌが統治する蝦夷地に起点(藩)を置いた商人だけが潤い、アイヌ人には僅かな米や酒で騙し続けたのは“不公正な取引方法”です。 その証は、アイヌ人の中に富を得た者は、500~600年もの交易で誰一人いない事です。 残念ながら 我々の先祖は、先住民族(アイヌ)に対し“悪行三昧”だった様です。 正当なのか、明治政府が掲げた「土人保護法」は、全てを物語っています!