“コンピューティング・ロガー”は、“コンピューター”が実用化される前の研究・実験装置です。 昭和30年頃から、2進法(0と1)を応用し“記憶媒体”を模索していたのです。 当時の半導体は、ラジオやテレビに使われていた“真空管”でしたので、部材が大きく 大量の電力が必要でした。 記憶(メモリー)表示(ディスプレイ)の素材は、“お粗末”そのもの。 テレビモニターなどはなく、演算出力は電球を使った表示が限界だった。 現在、100均で買える“電卓”を真空管で作ると、事務机より大きく 200キロもの重量になったのです。(価格は当時数百万円?) “テンキーボード”と 8桁の“ディスプレイ”(ニキシー管)だけの装置で、今の電卓より遥かに性能が劣るのですから、実用にはなりません。 “ロガー”とは、データを保存し如何に表示(出力)するか、“暗中模索”した古い時代の一場面でしかありません。 “コンピューティング・ロガー”は、昔話 程度と思って下さい。
「内田 康夫」原作ドラマ、“浅見 光彦”シリーズの初代主役「榎木 孝明」(1956年生まれ)は 5年前、約 1ヶ月の“不食生活”を終え、テレビカメラの前に立ちました。(不食とは、“絶食”や“断食”と同じで何も食べない事) 何とも、異様な会見でした。 「不食会見」? 本来 人間は、水も食べ物も口にしなければ約 1週間で死ぬと言われています。 ただ 「榎木」は、水と数個のアメを口にし飢えを凌いだ様です。 それにしても、一般人には真似が出来ない勇気ある行いです。 ある意味で、“武士道精神”とか“宗教上の修行”を想像してしまいました。 インタビューを受けた「榎木」は、痩せて少々老けた印象でしたが、目には生気が宿っていて安心しました。
私の憶測ですが、「榎木」は 還暦を目前に二枚目俳優からの脱却を試みたと思います。 あえて老け顔を晒す事で、今後の役者人生を模索したのではないかと感じました。 いくら“男前”でも、迫り来る老化は避けられないのが現実です。 目尻や口元のたるみ 喉のシワは、化粧では隠し切れません。 「榎木」は、あえて命懸けの不食にチャレンジし、肉体の限界を自ら見極めたと想像します?
一方 欧米のファーストフードと言えば、“ハンバーガー”です。 小さなバーンズ(パン)に、ハンバーグ・卵焼き・トマト・レタス・チーズなどを挟む、旨くて栄養満点の食材です。 欧米は元より、世界中で好まれています。
北海道は、“昆布”の産地です。 と言うより、世界的に昆布の採れる地域は、北海道に限られている様です。 その中でも、“利尻昆布”や“羅臼昆布”が有名です。 昔から 道民は、地産地消を心掛け 質の劣る(二級品)を食べていたと思います。 一体、高級昆布は何処へ運ばれたのか? “出汁文化”が根付く“京都”や“大阪”は、昆布の消費が多いのは分かっていましたが、江戸時代に“琉球(現・沖縄)”や“中国”まで、密かに運ばれていたのは“謎”でした!
関西の出汁文化は、5~600年になると言われます。 そこには、“北前船”の存在があります。 徳川幕府が、“鎖国政策”を取っていたにも拘らず、長崎や横浜に“出島”を設け“ヨーロッパ”との貿易は、半ば黙認されていた様です。 そんな中、“近江商人”が主導する“北前船”は、果たして正当な貿易だったのか? 「士農工商」の中で、身分が低いとされる商人による“密貿易”ではなかったのか? そんな疑問が、湧いてきます! 何故なら、「近江商人が通った後は“ぺんぺん草”も生えない・・・」 要するに、取引が強引だったのは通説です。 特に、アイヌ人との商談は“あくどかった”と思います。 当時の物々交換では、数を誤魔化し「始め・1・2・3・4・5・終わり」で、常にプラス 2 を騙し取っていた様です。 そんな事で 北前船は、蝦夷(現・北海道)交易で莫大な利益を得たのは確かです!
北前船のルートは、蝦夷地(北海道)から日本海経由で、関門海峡~瀬戸内海を通り、大阪まで至る海の道でした。 勿論、沖縄県や中国に 物資を運ぶルートは無かった筈です。 その運搬を可能にしたのは、当時“漢方薬”で中国と交流のあった“越中富山の薬売り”でした。 北前船を造り、密かに薩摩藩・琉球・中国と貿易していた様です。 財政難だった薩摩藩は、この密貿易(昆布・乾燥アワビ&ナマコ)で、瞬く間に再建した。 後に、徳川幕府転覆計画(倒幕)の資金源になったのは、明らかです。 薩摩藩(島津家)の「西郷 隆盛」や「大久保 利通」、結果的にアイヌ人を利用し蝦夷地を侵略する切っ掛けになったとすれば、明治維新の想いは複雑です! 蝦夷を守ったのは、最後の将軍「徳川 慶喜」および“新選組”の「土方 歳三」であり、明治政府ではありません。
蝦夷地の“アイヌ人”と“和人(日本人)”の交易は、縄文~弥生時代に遡るのは確かです。 北前船が無い時代でも、津軽海峡を小型舟で渡るのは可能です。 元々 アイヌ人と和人は、長い間“共存共栄”の関係があった筈です。 その証拠は、日本犬です。 縄文時代 蝦夷に運ばれ、アイヌ犬として大切に育てられたのです。(日本犬で、純粋に血統を守り続けたのは“アイヌ犬”だけです) それを、明治時代に北海道犬と改名したのは、軍国主義下で歴史を歪める暴挙です!
北前船によって、近江商人は莫大な利益を得たのは確かです。 商人だから、貿易による儲けは必要です。 しかし、アイヌが統治する蝦夷地に起点(藩)を置いた商人だけが潤い、アイヌ人には僅かな米や酒で騙し続けたのは“不公正な取引方法”です。 その証は、アイヌ人の中に富を得た者は、500~600年もの交易で誰一人いない事です。 残念ながら 我々の先祖は、先住民族(アイヌ)に対し“悪行三昧”だった様です。 正当なのか、明治政府が掲げた「土人保護法」は、全てを物語っています!