(お友達から送られてきた写真。鳳凰。)
『8龍のエネルギー・4鳳凰のエネルギー』ハイヤーメッセージ45
↑前回の続きになります。
鳳凰の数字4=死
「死というものは忌み嫌うものではなく、全て受け入れるもの」
死について素晴らしいお話がありましたので、今日はこの本をご紹介します。
☆**~☆**~☆**~☆**~
本:神との対話3
著:ニール・ドナルド・ウォルシュ
(YouTubeで朗読の動画も見つけましたので、音声で聞きたい方はこちら)
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【神との対話3】第八章
この朗読の動画は30分と長いので、必要な所だけ抜粋しました。(0:00~08:50までを抜粋)
本は第8章のP176~181
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「死について」
ニール:
生命というのは、永遠にいつまでも続くんですね、そうなんでしょう?
神:
もちろん、そうだよ。終わりはない。
ニール:
輪廻転生は事実なんだ。
神:
そうだ。望めばいつでも、死すべきかたちに戻れるよ。「死ぬ」ことができる物質的なかたちに。「戻るかどうか」、「いつ戻るか」、それは自分で決める。
ニール:
いつ去るかも自分で決めるんですか?いつ死ぬかを自分で選ぶんですか?
神:
どんな魂でも、意思に反した経験が訪れることはない。そもそも不可能なのだ。魂がすべての経験を創造しているのだから。魂にかけているものは何もない。すべてをもっている。すべての智恵、すべての知識、すべての力、すべての栄光、魂は、あなたのなかで決して眠らず、決して忘れない部分だ。魂は、身体が死ぬことを望むか?いや。魂はあなたが決して死なないことを願っている。だが、身体を離れることはある。身体のかたちを変えて、物質的な身体のほとんどを残していく。そのかたちにとどまる目的はもうないと悟った瞬間に。
ニール:
わたしたちが決して死なないことを魂が願っているとしたら、なぜ、わたしたちは死ぬんですか?
神:
死にはしない。かたちを変えるだけだ。
ニール:
そうならないようにと魂が願っているなら、どうして、そうなるんですか?
神:
魂はそんなことを願ってはいない!あなたは「移ろいゆくかたち」だ!
特定のかたちにとどまっても、もう何の役にも立たなくなったとき、魂はかたちを変える。自分の意思で、喜んでかたちを変え、宇宙の車輪の上を進む。大きな喜びを感じながら。
ニール:
悲しみつつ死ぬ魂はないんですか?
神:
魂は死なないよ、決して。
ニール:
いや、そうではなくて、現在の物質的なかたちの変化、つまり「死」を悲しむ魂はないんですか?
神:
身体も決して「死なない」。魂とともにかたちを変えるだけだ。だが、あなたが言いたいことはわかる。だから、あなたがたの言葉を使って説明しようか。
「あの世」で自分が何を創造したいか、はっきりわかっていれば、あるいは死後は神のもとに戻り、一体となるというはっきりした信念をもっていれば、魂は決して「死」を悲しんだりしない。その場合の死は、輝かしい瞬間、すばらしい経験だ。魂は自然なかたち、本来のかたちに戻る。信じられないほど軽くなる。全的な自由、融通無碍(ゆうずうむげ)だ。(意味:行動や考えが何の障害もなく、自由で伸び伸びしていること。 「融通」は滞りなく通ること。 「無礙」は妨げのないこと。)「ひとつであるもの」の認識、それは至福だ。その変化を魂が悲しむことはありえない。
ニール:
それでは、死は幸せな経験だとおっしゃるんですか?
神:
そう在りたいと思う魂にとっては、つねに幸せな経験だよ。
ニール:
魂がそんなに身体から離れたいのなら、なぜ、さっさと離れてしまわないんですか?一緒にいるのが不幸なら、どうして、もたもたしているんでしょう?
神:
魂が「身体から離れたがっている」とは言わなかったよ。喜んで離れると言ったのだ。それとこれとは、べつのことだ。何かをしていて幸せで、それからべつのことをしてまた幸せだ、というのはありゆるだろう。二つ目のことが楽しいからって、最初のことが不幸なわけではない。身体と共にいる魂は不幸ではないよ。それどころか、現在のかたちのあなたといることを、楽しんでいる。しかし、そこから離れることもまた楽しいということは、充分にありうる。
ニール:
死について、わたし理解してないことがたくさんあるようですね。
神:
そう。だから、考えたくないんだよ。しかし、人生のどんなときでも、その瞬間を意識したとたんに、死と喪失について考えられずにはいられないはずだ。そうでなければ、まったく人生がわかっていないことになる。半分を知っているにすぎない。
どの瞬間も始まったとたんに終わる。それがわからないと、その瞬間のどこがこのうえなく大切なのかわからず、平凡なひとときにしか思えないだろう。
どんな交流も「はじまりが始まった」瞬間に「終わりが始まる」。そのことをよく考え、深く理解してはじめて、すべての瞬間の、そして人生そのものの貴重さが充分にわかるだろう。
死を理解しなければ、生命は与えられない。理解するだけではいけない。生を愛するように、死を愛する必要がある。
これが最後だと思えば、誰かと一緒のひとときが輝くだろう。どの瞬間も、経験するのはこれが最後だと思えば、はかり知れないほど重いものになるだろう。死から目をそむけているから、自分自身の生命を考えなくなるのだよ。
何かを深く見つめれば、相手を見抜くことになる。何かを深く考えれば、そこを見抜くことになる。そうすれば、幻想は消え、真の姿が見えてくる。そのときはじめて、ほんとうに楽しむことが出来る。そこに喜びを加えることができる(楽しむ、とは、相手に喜びを加える:en-joyということだ)。
そうすれば、幻想さえ楽しめる。幻想だとわかれば、それも楽しみの半分になる!本物だと考えるから苦しみが生じる。
死もまた幻想だとわかれば「死よ、汝の針はいずこにある?」と言える。それどころか、死を楽しむことだってできるよ!誰かの死を楽しむことさえできる。
死は決して終わりではなく、つねにはじまりだ。死は閉じられたドアではなく、開かれたドアだ。生命が永遠であることを理解すれば、死は幻想で、その幻想があなたの意識の身体に集中させ、身体が自分だと信じさせていることがわかる。だが、あなたは身体ではない。だから身体が朽ちても、あなたとは何のかかわりもない。
死は、真の生命とは何かを教えている。生命は、避けられないのは死ではなく、移ろいゆくことだと教えている。移ろいゆく、それだけが真実だ。不変なものは何もない。すべては変わる。一瞬一瞬に。一時一時に。
これがダルマ(法)であり、ブッダだ。これが、ブッダの法(ダルマ)だ。これが教えであり、師だ。これが教訓であり、〈マスター〉だ。すべてはひとつしかない。それをほぐしたのはあなただ。あなたの生が展開するようにと、ほぐしたのだ。
花が散るのを見て、あなたは悲しむだろう。だが、花は樹全体の一部で、変化してまもなく果実をつけるのだとわかれば、花の真の美しさが見える。花が開いて落ちるのは、樹が果実をつける準備だとわかれば、生命が理解できる。そこを注意深く見つめれば、生命とはそれ自身のメタファーであることがわかるだろう。
あなたは花ではなく、果実でさえない。あなたは樹だ。あなたは、わたしのなかに深く根を張っている。わたしはあなたが芽生える土であり、あなたの花も果実もわたしに還って、わたしはさらに肥沃な土になる。こうして、生命は生命を生み、決して死を知ることはない。
美しいですね。ほんとうに美しい。ありがとうございます。
(ニールはこのあとに自殺についても質問しています。続きは本を、または先ほどご紹介しました朗読の続きにあります。)
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本:「神との対話3」に〝先に逝った愛する者は常に側にいる”というお話がありました。
こちらも次回載せたいと思います。
(これからは真の繁栄、鳳凰の4という数字も大切にしたいと思います。)
今日も読んでいただきありがとうございました。
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