旧暦から新暦に変わって150年、十二月の終わりころにはせわしさを感じ、そして初日の出とともに一気に空気がかわっていることを感じるのは小生だけではないだろう。
本来、日の入りとともに一日が終わり、夜からはじまる次の一日、それゆえ昔は、夜よりお節をいただく風習があったそうだ。豆をまき鬼を退治し(節分に移動)、大祓を行い、歳神を迎えるためにしめ飾りや門松をたて、新しい年をみんなで祝うのは、稲の実りを意味する「年」から想像できるように、命を繋ぐお米を今年も恵としていただけるからであり、喜びの表現の「おめでとう」の1つの意味でもある。それゆえ、数え歳では、新年とともにみな1つ年をとる(恵を戴く)と考えてきた。
その年神は、祖霊(御先祖さま)とも考えられることから、正月は先祖祭りでもある。初日の出を待ちわびる風習が世界にはなく、日本にあるのも太陽の恵、日の本、日本の祖先の大元である天照大御神のご誕生の地が日本であるからこその風習であろう。
さて、その対はというと、本来7月に行われる先祖祭り、いまでいう「お盆」(現在は月遅れの8月)である。日本人は、季節季節(正月、春分、お盆、秋分)に先祖を丁重に祀ってきた民族である。先祖をもっとも大切にしているのは、皇室である。天照大御神をはじめ歴代の天皇、皇族方の先祖祭りをかかすことがない。それが2000年前の先祖であってでもちゃんと祭を行っている。
ところがである、近年、新しい風習を斯界の一部ではじめられている。一神主の発案(発案神社は夏祭りが盛んであるから、理由は少しありそうだが)から全国の神社で夏の詣でを正月の対という根拠のない発想からはじめているのだ。
これには歴史的信仰的な意味は一切ないにも関わらず、年々この風習をとりいれる神社が増えてきているのは、古典に習熟しようとする務めが求められている神主が自ら天に向かって唾を吐くようなものだ。
もしこれが定着することになるならばコロナ禍ではじまった正月前に神社参拝を促しているものと共に根拠のない悪習となり、チョコ配布風習を作った商業的発案と同等、いわば神社の商業化となっていくだろう。
信仰が消え、商業化する斯界に、いずれ、良心をもつ人々の足は離れ、非課税根拠は薄れ、神社への法人税課税にもなっていくだろう。自ら穴を掘っていることに早く気付くことを願ってやまない。