映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

『獣人』 - LA BETE HUMAINE - (1938年 フランス 監督 ジャン・ルノワール 原作 エミール・ゾラ)

2013年02月02日 09時54分41秒 | ジャン・ルノワール
『獣人』 - LA BETE HUMAINE -
1938年 99分 フランス

監督  ジャン・ルノワール
原作  エミール・ゾラ
脚本  ジャン・ルノワール
撮影  クロード・ルノワール
    クルト・クーラン
音楽  ジョセフ・コズマ

出演  ジャン・ギャバン
    フェルナン・ルドー
    シモーヌ・シモン
    ジュリアン・カレット
    ブランシェット・ブリュノワ
    ジェラール・ランドリ
    ジャン・ルノワール


夫は、憎しみから妻の養父を殺したのだけれど、夫婦仲は元には戻らない.夫は博打にのめり込み、賭で負けた借金を払うために、盗んだ金を使い果たした.最後に残った時計を手にして、自分を盗人と罵るであろう、妻の様子を伺ったのだが、その妻は殺されていた.彼はその時になって、自分の犯した罪の恐ろしさを悟る.
殺人を犯して手に入れたものは、幾何かのお金だけ、ただの盗人と変わらないお金のみであり、その金も、良心の呵責から逃れるために、博打にのめり込み使い果たしたとすれば、妻の死を見つめる彼の姿は、殺人とは自分自身から、全てのものを奪い取る行為であったことを物語る.

なぜランチェが自殺したのか、この事が持つ意味が良く分からなかったのだけど.
単純に考えれば、女を殺した所為.あるいはその原因となった病気の所為なのだけど.
でも実は違う.一度は夫を殺そうとして、確かに思いとどまりはしたけれど、最後はやはり夫を殺しに行ったのだった.けれども、その時、発作が起きて、病気のために女を殺してしまった.病気のために、本当に殺そうと思っていた夫を殺さなかったに過ぎない.
ランチェは殺人者であり、その事を悩んだ末に自殺した.やはり、殺人とは自分自身から、全てのものを奪い取る行為であることを物語っているのだけど.

操車場で、ランチェは女と二人で、夫を待ち伏せて殺そうとしたのだけれど、彼は殺すことができなかった.
なぜ殺さなかった、殺せなかったかと言えば、操車場を歩く夫の虚ろな姿は、殺人とは自分自身から、全てのものを奪い取る行為である事を物語る姿であったから、簡単に言えば、生きている姿には見えなかったからである.
殺人とは、人から全てのものを奪い取る行為であると共に、自分自身からも全てのものを奪い取ることになる.
もっと簡単に言えば、人を殺すことは、自分を殺すことである.

ピクニック -PARTIE DE CAMPAGNE- (ジャン・ルノワール 1936年 40分 フランス)

2013年02月02日 09時42分47秒 | ジャン・ルノワール
『ピクニック』 (-PARTIE DE CAMPAGNE- 1936年 40分 フランス)

監督  ジャン・ルノワール
製作  ピエール・ブラウンベルジェ
原作  ギイ・ド・モーパッサン
脚本  ジャン・ルノワール
    ギイ・ド・モーパッサン
撮影  クロード・ルノワール
音楽  ジョセフ・コズマ
編集  マルグリット・ウーレ・ルノワール
助監督 ジャック・ベッケル、イヴ・アレグレ
演出見習い ルキノ・ヴィスコンティ、アンリ・カルティエ=ブレッソン
カチンコ アラン・ルノワール

出演
シルヴィア・バタイユ
ジョルジュ・ダルヌー
ジャヌ・マルカン
ジャック・ボレル
ガブリエル・フォンタン
ジャン・ルノワール
マルグリット・ウーレ
ジョルジュ・バタイユ
ジャック・ベッケル
アンリ・カルティエ=ブレッソン
アラン・ルノワール




ピクニックに来た幸せそうな金物屋の一家、でも娘の婚約者は、どうみても、どうしようもない馬鹿.許嫁で娘もそのつもりのようなのだけど、娘か好きになったのか、親が誰かの紹介でつれてきたのか、誰が、どんな理由でこんな男を結婚相手に選んだの?、と言いたくなる.

川辺のレストランに居た二人の男、彼らは、これまた誰がどう考えても、すけこまし.二人でボートに乗って、そんな男の口車に乗っちゃダメと、やはり言いたくなる.

娘と男、二人に何があったのかよく解らないけど、ピクニックのある日の出来事が、二人にとって忘れられない出来事になった.娘は、馬鹿の男と結婚はしたけれど、けれども、互いに相手のことを、忘れることはできないでいる.
でもね、あなた、馬鹿な男はしかり、この男と結婚したにしても本当に幸せになれたのか?.この男が好きならば、なぜ、あんな馬鹿と一緒になってしまったの、と、言いたくなるけれど.
続けて「あなた、ちゃんと考えて結婚しなかったから、こんなことになってしまったの.自分の結婚について、自分でもっと考えなくちゃ」こう、言いたくなるのだけれど.

自分の結婚について自分でしっかり考えて決めること.他人の恋愛、結婚についてとやかく言うことは、おせっかいに過ぎない.












ちょっと視点を代えて、この映画、自然を描いているのは誰にでも分かる.ジャン・ルノワールは自然主義.自然主義のジャン・ルノワールが自然をどのように描いているか、考えてみましょう.

以下、三省堂国語辞典より
しぜん【自然】[1][名]
(1)人手の加えられない、ありのままのようす。天然。 - 描かれた風景
(2)人や物の本来の性質。 - スケベ
(3)人間を取り巻いている外界。
(4)哲学で、人間をもふくめた因果的世界。 - 毛虫が卵を産むの、蝶になるわ.
[2][形動]
(1)むりのないようす。▽―な姿。
(2)おのずとそうなるようす。▽病気が―によくなる。
[3][副] ひとりでに。おのずから。▽―そうなってしまう。 - 誘惑する相手がひとりでに替わってしまった.




秋のソナタ (イングマール・ベルイマン)

2013年02月02日 03時46分42秒 | イングマール・ベルイマン
(1978 92min)

演技によって愛する人間

子供が死んでからも、生きているときと変わることなく、子供を愛し続けていたエヴァ.
そのエヴァの母親は、生きている子供を、愛そうとしない人間でした.
彼女自身が娘のエヴァに言ったように、『自分のことしか考えない、わがままな親だった』のは、描かれたとおりと言うしかなく、
自分の病気の子供に会いたくない.最後には、死ねばいいのに、と言った、この母親は、良い人間の訳がありません.
と考えれば、問題は、どの様に悪いのか、あるいは、悪かったのか?.

母親はピアノが全ての人間だった.
『エーリックが生まれたときは、モーツワルトの録音で忙しくて来られなかった』
『演奏続きで忙しかった』
『指揮者と練習をしたかったから』
『背中を痛めて練習できず仕事はキャンセル続き、絶望してた』
子供がピアノの練習の邪魔をするのは厳禁、そして、子供置き去りにして、長期の公演旅行.彼女ははピアノが全ての人間だった.
さらにエヴァの言葉によれば、彼女の他人を愛する姿は演技であり、それでいて、自分を愛さない者を許すことが出来ず、愛を強要する人間だった.

彼女は、背中が痛いと床に寝て話し始めた.
『昔のことは覚えていない、両親に撫でられた記憶も、ぶたれた記憶もないの』
『私は愛情を知らなかった.優しさも、触れ合いも、ぬくもりも、何一つ』
『気持ちを表現する手段は、音楽だけだった』
『時々思うのよ.自分は本当に生きているのかと』
『誰もがそうなのか.生きるには特別な才能が必要なのか』
『才能のない者は生きるのではなく、存在するだけ?』
『そう思うと怖いわ』

列車の中でマネージャーに、
『私、冷たいと思う?』
『ポール、寝ないで聞いて.評論家は私を褒めてる』
『シューマンやブラームスに、暖かみが感じられるって』
『私、冷淡じゃないわよね?』
彼女はこう言ったのだけど?.

彼女はピアノが全ての人間だった.では彼女のピアノとはどの様なものだったのか?.
『気持ちを表現する手段は、音楽だけだった』と言うように、彼女はピアノを愛していたのかもしれないけれど、
『誰もがそうなのか.生きるには特別な才能が必要なのか』
『才能のない者は生きるのではなく、存在するだけ?』
この言葉から伺い知れるのは、自分のピアノの才能への不安、言い換えれば、自分のピアノに観客が喝采するかどうか、あるいは、評論家の評価を気にする姿であり、つまりは、彼女はピアノの演奏を通して、観客の愛を求めていたのではないのか.
エヴァは母親に嫌われないように、気に入られるように、自分を取り繕って母親に接していたのだと言ったけれど、観客に拍手を求める演奏者も、母親に愛を求める子供も、同じ姿であったのではないか.
今一度書けば、エヴァの言葉によれば、彼女は、自分を愛さない者を許すことが出来ず、愛を強要する人間だったのだけど、ピアノを通しても、やはり、観客の愛を求める人間であったのではないのか?.

俳優としてのイングリッド・バーグマンを、ピアノの奏者に置き換えて、バーグマン自身の人生を描いた映画であり、彼女が映画を通して観客を愛する女優だったのか、あるいは、映画を通して観客の愛を求めるだけの女優だったのか、彼女自身にそれを問う作品であったのだと思います.

付け加えれば、病気の娘は、ママ、ママと母親を求めながら、ベットから転げ落ち、母親を憎むエヴァも、また手紙を書きました.彼女が本来の母親に戻ることは、いつでもできたのだと言えます.子供たちにとっては、彼女が母親としての姿を取り戻して、自分たちの母親であって欲しい人間であるのは、いつまでも変わることはないのだ、と言うべきでしょうか.
描かれた母親は、子供を愛することも出来ず、ピアノを通しても、観客を愛することの出来ない人間であったように思われるのですが、逆に、映画を通して観客を愛する事の出来る人間ならば、子供を愛することも出来るはず.

『私は日々、生きるすべを練習している.問題は自分が何者か分らないことだ』
『答えは見えない.誰かがありのままの私を愛してくれたら分るかも』
病気の妹を引き取って、妹に愛情を注ぐエヴァであった.
そして、エヴァは、ありのままの姿を見せて、母親を愛そうとしたのだけれど.
(母親は演技によって、愛を求める人間であった)
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『私は日々、生きるすべを練習している.問題は自分が何者か分らないことだ』
『答えは見えない.誰かがありのままの私を愛してくれたら分るかも』

イングリット・バーグマンが、映画を通して観客を愛する女優であったのか、映画を通して観客の愛を求める女優であったのか、そんなことはどうでも良いことである.それよりも、演技ではない愛で、母親として子供を愛して行くことが、何よりも大切なはず.
イングリット・バーグマンを、イングマール・ベルイマンは映画監督としての愛情を込めて、映画に描き上げた.
一人の女性として描いたのか、あるいは女優として描いたのか、私にはよく分らないのだけど、しわだらけの顔をアップで、ありのままに描き上げたのですね.
その結果、彼女が生きるすべを見つけたとしたら、イングマール・ベルイマンの映画への愛は、正しいものであったはず.
     2013/02/03 追記