青裸々日記 Aorara Diary

真面目で一生懸命な人に寄り添うブログです(^^/
あったかい未来が、きっと待っています。

心を届ける。

2013年05月28日 21時59分54秒 | 青裸々日記。
ラベンダーの花(東京都渋谷区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 少し、深い話になります。


 人から感謝されるように、持てるものを出し切ることは大切です。
 人には優しく、親切にしていたほうが、幸せのお手伝いができますし、
 ひいては、人を傷つけないようにもなるわけです。

 あるいは、「感動しました」とか「元気が出ました」などと、
 嬉しい言葉をいわれでもすれば、気分もよくなるでしょう。


 ・・と、「人に対して、持てるものを出し切ることはいいことですよ」という話をしました。
 でもこれ、当たり前すぎる話ですよね。
 言われなくたってわかってるさ!と言いたい方も、相当いらっしゃるはずです。


 ここからが、ちょっと一癖ある話なんですね。

 「ありがとう!」とか「感動しました」と言われた。
 それはたしかに嬉しい言葉なのかもしれませんが、
 本当に目指しているところはどこかということ、考えたことはありますか
 言葉を投げかけられて、それで終わりにはしていませんか


 人に優しするのは、心から幸せになってほしいからではないですか。
 そうであれば、こだわるべきは、表面上の言葉や態度ではなく、
 本当に幸せになってくれたか、これに尽きるのではないですか。


 もちろん、人の言葉を信用しないなんて、本来であればあってはならないことです。
 しかし、「お世辞」に代表されるように、必ずしも本音ではないばかりか、本心と逆のことを言う場合するあるのです。
 だから、「幸せ」というものにこだわっていく必要があるのですね。



 褒め言葉や好意的な言葉は、気持ちがいいもの。
 でも、だからこそ、その相手こそ幸せなのかに対して、
 気分が上がったときほど、気にかける必要があるのではないでしょうか。

出来ないことはやらない。

2013年05月27日 23時21分36秒 | 青裸々日記。
クロッカスの花(東京都渋谷区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 力を尽くしても尽くしても出来ないこと、苦手なことは、
 出来るなら、可能な限りやらないでおく。
 これが出来ると、色々な発見が出てくるものです。


 どんな人も、あまり気の進まないことって、あると思うんです。
 でも、「やらなきゃいけない」とか「嫌だけど乗り越えないと、道が開けない」と、
 本音からは離れた、義務や責任に強いられ、努力をするわけです。
 そしてまた、「嫌だけど、それを乗り越えたからこそ得られる器量や能力、見られる風景」というものも、事実としてあるのは間違いないでしょう。


 しかし、「それで失う時間もある」ということも、たまに考える価値はあると思うのですね。

 人間、好きなことばかりして過ごすわけにはいきませんが、
 だからこそ、好きな時間は大切にしたいと思いませんか



 好きなこと、得意なこと。
 そんなものだからこそ、なるべく力を割きたいとは思いませんか。


 気の進まないことを、自分から無理にすすんでやることはないと思います。
 そのかわり、出来ることは精一杯やっていく。

 自分がやることを選べる場面は、そう多くはないかもしれません。
 しかし、やりたくないことや苦手なことを避けるのは、
 逆に言えば、自分の得意を活かすための、積極的な選択とも言えなくはないでしょうか




 人はみんな、人間性も能力も、それぞれ違います。
 つまり、なるべく力を出しやすいことを、力を出しやすいやり方でやった方が、
 人助けをしたり、幸せを与えられ、
 ひいてはそれが自分を助け、幸せにしていくことにはならないでしょうか。



 自分を出し切るのも、少しずつで構いません。
 好きな方向を向くことに、ためう必要はないのです。
 人は、幸せで、楽しんでいる時こそが、
 実は、人から見ても、一番素晴らしいのです。

信頼。

2013年05月25日 23時34分06秒 | 青裸々日記。
クサノオウの花(東京都武蔵野市)

こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。


 基本的に、人は、信じてもらうことで、伸びたり、幸せを育む生き物ではないでしょうか。

 たとえば、誰かが難しい課題や局面に相対したとします。
 そんなとき、思い入れがあったり、事が大きければこそ、
 ハラハラドキドキしてもしまうものではあるのですが、
 相手の身からすれば、心配されることは、
 気分の良いものではなかったりもするのです。
 心配するのは、大切に思い、気に掛ける気持ちがあるからということで、
 それ自体は、いいことなのです。
 しかし、私達は、可能性が100%のものにたいしては、普通、心配などしないですよね。
 できる可能性が低いからこそ、心配してしまうわけです。

 物事が上手くいくかどうかは、大きく分けて、「本人の力量」と「環境」の、2つの要因があります。
 このうち、「環境」が原因で上手くいくかが心配・・という場合、
 たしかに、ハラハラドキドキしてしまうのも、無理からぬ話でしょう。
 しかし、「力量」が原因で心配だという場合、なんだか、相手の力量そのものに疑いの目を向けていることにはならないでしょうか?


 そして、です。

 「どうせ」という態度でいい加減な接し方されれば、元はきちんと応えたい気持ちがあっても、
 その投げやりな態度から、期待に応える意味を見失い、
 その気がなくても、「どうせ」という態度で応えてしまうのが私達人間というものではないでしょうか。


 だからこそ、人に望みを託す時は、是非、楽天的になさっていただきたいのです。


 たしかに、期待は依存心から出る気持ちですから、場合によっては、重たくなったり、怖いような気分になってしまうかもしれません。

 しかし、人は、信頼に応えようとしていくことで、自分の良さを精一杯発揮するようになる、
 これは、動かぬ真理なのです。



 喜んで信じるということ。
 この気持ちの放つ強さは、きっと想像以上です。

信じる者こそ、救われる。

2013年05月22日 22時40分51秒 | 青裸々日記。
紫蘭の花(東京都渋谷区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 「信じる者は、救われる」と言います。
 この言葉、宗教じみていて、聞いただけで嫌悪感を覚える方もいらっしゃるでしょうが、
 厳然とした事実なのです。


 たとえば、誰かから「10日後に、いい内容の手紙を渡します」と言われたとします。
 そこでなんですが、「いやいや、ウソこけ、そんな話なんかあるわけないでしょ」と、
 はじめから疑って、受け渡す場所に行かなかったり、ポストを開けなかったりすれば、
 どんなにいい手紙が用意されていようと、受け取るのは不可能ですよね。
 だから、「約束は守られる」と信じてはじめて、手紙でもなんでも受け取ることができるわけです。



 それでは、どうして信じることが難しいのか。
 それは、一言で言えば「恐れ」です。
 「恐れ」が、信じる気持ちをおかしくさせてしまうのです。


 誰だって、一度や二度は、裏切られたり、傷つけられたことはあるでしょう。
 そうすると、「二度とあんな辛い思いはしたくない」と、信じることを止めてしまうのです。
 これ、以前に裏切られた経験が凄惨なものであればあるほど、うたぐり深くなってしまうのですね。



 でも、気付いていただきたいんです。


 信じれば、幸せは手に入るかもしれませんが、
 信じないことには、幸せは手に入らない
のです。
 信じて傷つくのは不幸なことですが、信じられないことも、実は不幸に代わりはないのですね。
 ここを分かっていただきたいのです。


 わかります。
 たとえば対人関係の場合ですが、
 人に気を持たされたりすれば、気分も良くはなりますが、
 同時に恐れも起きてしまうでしょう。
 期待が大きいということは、リスクを背負うということと、同じ意味でもあるのですよね。


 しかし、ここで立ち戻って考えてみましょう。
 自分が本当に欲しがっている未来があるのなら、その実現を信じ続けるからこそ、
 それだけのものが来た時、受け取ることができるのです

 せっかく明るいものを欲しがっていながら、半信半疑でいては、
 受け取り方はどうなるか

 信じているから、明るい未来、あったかい未来を受け取れるのです



 なんでも信じろとは言いません。
 でも、信じたい気持ちが、未来を明るくするのは、間違いないようですよ。

一緒に笑うということ。

2013年05月19日 23時03分10秒 | 青裸々日記。
ポピーの花(東京都千代田区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 人の居心地を良くするには、一にも二にも、相手の意見や存在そのものを認めるに限ります。


 こう言うと、「なんだ、簡単じゃないか!」という気持ちにもなるでしょうが、
 ところがどっこい、実践となると、なかなか一筋縄でいかせるには、訓練が必要になってくる部分もあるのですね。


 たとえば、誰しも理屈だけで動いているわけではありません。
 自分の決断が、気分や体調、環境に左右される部分もあるでしょうし、
 場合によっては、気に入らないことをされる場合もあるでしょう。
 問題なのは、まさにそういう人を相手にした時で、
 「不服を訴えてやろう」とか、「説教のひとつでも」などと、
 こちらがいかに正しくて、相手がいかに間違っているかを、相手をひっ捕まえてでも、言い聞かせてやりたくもなるものですよね。
 まして、こちらに非がないのに不愉快な思いをさせられでもしたら、
 無念を晴らそうとか、仕返しでもしてやろうとか、
 どんなに器が大きい人でも、一度は思うものです。
 (むしろ、それで自分が嫌な思いをしなかったら、人にも平気でやってしまいかねません)。
 そこでまあ、一度や二度は、人につらく当たってしまうのもまた、内容によっては無理のない話ではないかと思うのですね。



 しかし。


 相手の居心地をよくして、仲良くするために大切なのは、果たして正しさを競うことなのだろうかということです。
 正しさを競わせ、戦わせて、それで空気や雰囲気が良くなるのなら、誰だってそうしてますが、現実はどうでしょうか



 本当に望んでいることは、そこにいる相手と仲良くいい関係を育んでいくことではないですか
 あくまで「正しさ」が必要になるなら、それは、例えば「身体に悪い食べ物を口にする」などといった、
 お互いが悪い道に走り、堕落していく時のみです。
 逆に言えば、たいていのことは、相手を突くことに意味はなく、
 むしろ、楽しい時間を減らす結果が出来てしまうだけです。


 論破して仲良くなった例があったら教えてほしいと思いませんか
 人っていうのは、それぐらい、自分の意見というだけで、それが正しいかどうかは関係なく、こよなく大切に思っているものなのです


 自分なら、どんな態度だとホッとできるか。
 そんな考え方をすれば、正しさよりも許すことを選んでいけるはずです。

やり取りはやわらかく。

2013年05月18日 23時38分52秒 | 青裸々日記。
金魚草の花(東京都渋谷区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 人に優しくしてもらえるかどうかは、自分こそ人に優しいかどうかで決まる側面があります。


 たとえば、自分の意見を言ったとします。
 そうすると、受け入れてくれる人もいれば、浮かない顔をして、ちょっと否定してくる人も出てきます。
 そこでなんですが、この「浮かない顔をした人」に話をわかってもらうには、根気なりなんなりが必要になるわけですが、
 往々にして、話が通じなければ通じないほど、言葉や語気も荒くなります。


 だからこそ、人の言うことややることを、「そんなこともあるよね」とか「絶対に事情があるはずだ」と、
 なるべく認めて、理解してあげる方向で構えていれば、
 相手だって強く出る必要もなくなりますから、優しくしてもらえる可能性だって、本当は上がるのです。



 世の中、理不尽なこともあれば、納得がいかないこともあるでしょう。
 それに、たくさんの考え方や価値観があります。
 そんな中で、いちいち突っ掛かるような真似をすれば、
 我を抑えるだけで、多くの人から攻撃されるリスクを減らせるのです。


 ここで大切なのは、姿勢の問題です。
 相手を理解したかしなかったか、どれくらい完全にわかってあげられたかではなく、
 わかってあげようとする態度があったかなかったか、それだけの話なんですね。
 人に対する態度が優しく受容的だと、「この人ならわかってくれるかも」と、無駄な力みがなくなります。
 しかし、はなから受け入れる態度がないと、どうにかして分からせようと力ずくで来られたり、下手をすれば話すらされないことにもなってしまいかねないのです。


 もちろん、譲れない一線というものがあってもいいと思いますし、
 あまり見下されるようなら、それこそこちらから強く出ていかなければいけないこともあるでしょう。


 しかし。
 基本的に、優しい人は器が大きいがゆえに、人に強く出られにくいというのが、事実であり、盲点なのです
 そんなつもりはなくても、強情で分からず屋の人ほど、やっぱり強くやられやすいのです



 優しさは自分も人も幸せにしますし、無駄な力が掛かりませんから、それだけ強くいられることにも繋がります。
 どうか、意思のやり取りは、思いやりを持ってやってみませんか。

「癒し」とは、認めること。

2013年05月17日 00時01分28秒 | 青裸々日記。
代々木公園のバラ(東京都渋谷区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 少しだけ、抽象的な話になります。


 「癒し」という言葉が出て久しいですが、
 それだけに、色々なことを「癒し」と呼べるようになった側面があります。
 逆に言えば、「癒し」とはなんなのかがわかりにくくなってしまった、こういう見方もできると思うのですね。


 しかし。
 「癒し」というのは、本質は簡単です。
 「本来の自分を取り戻す」ということなのです。
 本来の自分というのは、無理をしない自然な自分、
 具体的には、無理のない性格やペース、五感でいられることを言います。

 逆に言えば、いつも無理なく自然体で、本来の自分でいられれば、
 癒しなんて、必要もないわけです。
 ところが、現実には、いつも素のままでいれば、衝突や消耗も激しくなってしまいます。
 「一つの意見を言うこと」だけを例に取り出して考えても、
 言い方や伝え方、タイミング、ケアやフォローにどれだけ工夫を加えるかで、
 起こる現象も、全く違ってきますよね。
 そして、だからこそ、人は、内側の世界を上手く外側に出す、あるいは隠すために、
 色々我慢をしたり、オブラートに包んだりして、その場その場に適応して、生きているわけです。



 しかし、です。
 適応するために色々やっていくうちに、自分の気持ちがわからなくなってしまったり、苦しいには苦しいけど原因がわかりにくくなったり、
 つまり、普通に生きているだけだと、自分の内側がとんな風になっているかが、把握できなくなってしまうのです。

 そこで、自分の中には色々な気持ち、
 特に、人には見せられない気持ちがどこにどれだけ溜まってしまったかを見ることで、
 本来の自分の姿に、蘇っていくわけです。


 ところが、これがなかなか難しくて、やりずらいのです。
 なぜなら、ネガティブな気持ちやエゴ丸出しの本音があるなんて、なかなか認めたくないのが人情だからです。
 まさか自分にそんな卑しい気持ちがあるなんて認めてしまったら、自分のしてきた努力や美点が水の泡になってしまうと考えてしまうからです。


 しかし、ちょっと待ってください。

 自分の卑しさといっても、それを認めたところで、美点が失われるわけでもなければ、苦しみが増えるわけでも、実はないのです。
 自分に蓋をするから、どこか自分をごまかしてしまい、結果的に苦しくなるのです。
 だから、認めてしまいましょう。



 「卑しさがあってもいい」と見つめるのが、癒しの本質の一部です。
 こんなダジャレでも、癒しのヒントになればと思います。

余裕を持つ余裕。

2013年05月15日 23時33分21秒 | 青裸々日記。
クロッカスの花(東京都江戸川区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 皆さんが「余裕がないなあと思う時」は、どんな時でしょうか?

 時間的、物理的な意味での余裕のなさを挙げる人もいると思いますし、
 精神的、心理的な窮屈さを感じている人も、もちろんいるでしょう。


 しかし。

 余裕を手に入れるには、一個、大切なことがあるんです。
 それは、「余裕は後から勝手についてくる」ということなんですね。


 たしかに、本当のことを言えば、「余裕」は、勝手に出来るものもあれば、意識して作り出せる場合もあるでしょう。
 しかし、ちょっと想像していただきたいのですが、余裕を作ろう作ろうと必死になっている人って、本質的には余裕がないんじゃないかって、思えたりもしませんか?
 「余裕があるかどうかはよくわかんないけど、まあ、だいたいこんなもんかな」と、
 「余裕」をいちいち意識することなくゆるーくやっているくらいが、本当は余裕があるんじゃないかという気が、私にはあるのですね。



 余裕を持つ大切さは、皆さんよくご存じのはずです。
 しかし、なかなか余裕が持てないことそのものがどうしてか、ここが盲点になっているから、
 現実に余裕を持って生きることが難しくなっているわけです。


 余裕を作るなら作るで、労力が要るのです。
 その労力を生み出すために、余裕をなくしてしまうから、「やっぱり余裕なんて難しい」ということになってしまうのです。

 本当の意味でゆったりと構えていたいなら、余裕がどうとか、あまり意識しないことです
 苦労の先に、余裕がある保証はないのです。

 ゆったりゆるーくやる目的についてもそうです。
 「こういう状態でなきゃいけない」という執着が、力みを生み、かえって欲しい状態が遠くなってしまうこともあります。



 いずれにしても。

 輝かしい理想が、そのつもりはなくても、かえって自分を縛ることに繋がる場合があります。
 「余裕」とか「ゆとり」は、その最たるものです。
 むしろ、「ゆとりなんかなくってもいいや」ぐらいに割り切ってしまったほうが、
 気持ち的には、ゆったり構えられるのかもしれません。



 何を目指すのも自由です。
 しかし、目指す気持ちが、はたして自分を本当に幸せにしてくれるのか、
 たまには外から眺めてみることがあっても、いいのではないかと思うのです。

ならせていただく。

2013年05月13日 22時43分36秒 | 青裸々日記。
椿の花(東京都江東区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 今日は簡単な話をします。


 「傷つけられた」とか、ネガティブな感情がある場合。
 感情に振り回されて、自分が自分でなくなってしまうような気分になることも、たまにあるものです。

 そんな時は、


 「傷つかせていただく」
 「落ち込ませていただく」
 「くたびれさせていただく」

 などと、もし余裕があるならば、自分を主体に考えてみましょう。



 感情を操っているのは、本当は他ならぬ自分自身です。
 自分自身で、ある程度感情は選べるんだ
 そんな感覚を取り戻すだけでも、ずいぶんラクになるものですよ!

90゜で十分。

2013年05月12日 21時48分15秒 | 青裸々日記。
チェリーセージの花(東京都江戸川区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 人に指摘や批判をされると、自分を全否定してしまいたくなる時があるものです。
 なぜなら、人間の脳は、案外単純にできているからです。
 簡単に言うと、「全肯定」か「全否定」しか出来ないのが、私達人間というものです。
 たとえば、食事を食べたら、だいたい「おいしい」か「おいしくない」に分かれますよね。
 程度や雰囲気はありますが、「どちら側か」を決めてから入るのが、私達人間というものなんです。


 さて、「自分を肯定する」とか「否定する」という話に、立ち返ってみましょう。
 人に悪く言われてしまうと、頭や心が混乱してしまうこともあると思います。
 そういう混乱している時は、間違いなく自分を全否定してしまっています。
 自分を肯定していれば、心が乱れることも少ないからです。

 そして。
 あまりに自分を否定的に見てしまうと、「自分を全部、作り替えないと!」と、
 自分のやってきたことの全てが間違っているような気がするものです。


 しかし、人間のやることなすこと、そんなに不正確なんですか?って、思うのですね。

 たしかに、間違っていることを全くしない人間はいないでしょう。
 悪気があろうとなかろうと、判断がちょっとだけ狂ってしまうことだって、本当はあるはずです。
 でも、全てが間違っているとしたら、それは心構えからベクトルから、ありとあらゆる点が無茶苦茶だったということになりますが、
 そんなに判断力が乏しいなら、きっとこれまでの苦労はハンパないでしょうから、
 逆に、上手くいくのは時間の問題かもしれません(笑)
 ・・・と、これは軽口ではありましたが、
 特に、「その時はベストだと思っていた」という場合はそうです。
 人間、情報が十分でないと、概して判断力も弱ってしまうものです。



 つまり、どういうことかというと、
 「志が正しいのなら、出てくる行動も、いずれきちんとした方向になっていく」ということです。
 あるいは、「きちんとした心でやったことを責めたり、全てを直すこともない」とも、言えるかもしれません。



 心を正しく持てば、あまり責められるべきものは、本当はないのかもしれません。
 ちょっとした不調から、落ち込んだり、自分を責めさいなむいわれはないし、
 結果だって、本当は後からついてくるのです。

安心感。

2013年05月11日 23時03分44秒 | 青裸々日記。
昼咲月見草の花(東京都江戸川区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 人間の心が不安定になる理由は、たった一つです。
 心のよりどころがあるかないか、この一点だけなんですね。

 どんな建築物も、足場がしっかりしていなければ、いずれぐらついてしまいます。
 それと同じように、人の心も、結局はどこかに腰を据えていなければ、必ず不安定になるのです。



 さて。

 「仕組み」だけの話なら、別にどうということはないでしょう。
 しかし、「仕組みがわかること」と、「実際にできること」は違います。
 今この場で、飛行機の操縦法と、機体の構造を知ったところで、
 じゃあ、いきなり操縦桿(そうじゅうん:アクセルやハンドルに当たるもの)を握って飛ばせますか?と言われても、
 無理な話ではないかと思うのですね。
 それと同じで、「こうすれば心が安定します」と言われたところで、
 全くわからないというのが、実際のところではないかと思うのです。



 それでは、どうすれば心が安定するか、ちょっとだけ考えてみましょう。


 心を安定させるのに大切なのは、一にも二にも「変わらない」という要素です。
 足場がおかしい場所にいると、それに応じた体勢を取らなければいけませんから、
 足場の状態に依存し、左右されている間は、きっと安定も安心もおぼつかないと思うのです。
 「これなら安心だ」としがみついものが絶え間無く色々と変わったり、グラグラと揺れていては怖いでしょう(笑)


 しかし、何が難しいかというと、世の中、良くも悪くも、変わらないものはないのです。
 そしてまた、安定を求めれば求めるほど、小さな変化に気を取られようというものです。



 それでは、心のよりどころを置けば良いのかという話になりますが、
 大雑把に言うと、「目に見えるもの」よりも「一定性を貫いているもの」を見れば、だいたい間違いはない気がします。


 たとえば、どんな人も、髪形や服装は変わりますし、気分で態度も変わるものです。
 しかし、内面を貫いているもの、平たく言えばこの人は普段、どんな気持ちで生きてるんだろうという目で見ると、
 言動に左右されることは少なくなります。
 普段がいい加減だったり、ひどい態度の人がたまに優しくしたって、なかなか本心からやっているとは思えませんよね。
 ・・・と、そういうことなんです。



 内側を見る心掛けが、安定感を持つ秘訣です
 わかりやすいものや表に惑わされるのではなく、節々に出る「普遍性」を見ていきましょう


 貫くことが、安定の鍵。
 安定するから、貫くことが楽になる。



 そこに気がつくと、ラクになれますよ。

「いっぱいいっぱい」。

2013年05月10日 20時12分08秒 | 青裸々日記。
ラベンダーの花(東京都江戸川区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 自分のキャパを越えたものが押し寄せれば、誰だって、周りが見えなくなるものです。

 いや、「周りが見えない」ということですら、自分ではわからないかもしれません。

 「周りが見えない」ということをさとるのは、その時が去った後、少しずつ冷静に戻りつつある時です。
 そして、周りが見えなかった自分が、いかに情けなかったか、いかに未熟で、人に迷惑をかけてしまったかを思い知り、
 ある人は自己嫌悪に陥り、ある人は罪悪感にさいなまれ、ある人は厳しく自分を戒めたりします。
 いずれにしても、「いっぱいいっぱい」を吊るし上げているのですね。


 そうすると、今度は「いっぱいいっぱいで、周りの見えない人」を、断罪し始めるわけでし。



 たしかに、一般には「悪いものをくじいて、いいものを推し進める」ことは、いいことかもしれません。
 しかし、どんなことにも例外があるように、「いっぱいいっぱいの人」を断罪するのは、間違いなのです。




 「自分はあれから、余裕を持った考え方をしてますから」と、得意げに言うのは自由かもしれません。
 成長し、努力をしたことも、本当かもしれませんし、もしかしたら褒められるべきものかもしれません。
 しかし、「じゃあ、そんなに意気にかかって言うってことは、キャパを大幅に越えた問題が、いつどんな形で来ても、あなたは絶対に人に迷惑をかけずに対処できますね?」と聞かれたら、
 必ず「はい」で答えなければなりません。


 そうなんです。
 人を未熟者呼ばわれするからには、自分はそれより高い位置にいることが絶対です。
 しかし、「どんなことがやって来るか」を予知するのには、限界があります。
 限界がある以上、キャパを越えて、いっぱいいっぱいにならざるを得ないことが来る可能性だってある。
 それならば、「そういう時は、お互い様ですよね」とか、あわよくば「大変な中、よくがんばってますね」ぐらいに声を掛けていたほうが、
 どれだけ気分がよく、また、回り回って、自分を楽にするかと思いませんか。



 粘りや器量を付ける努力は必要です。
 しかし、人間の成長や可能性が無限である以上、誰もが成長の途上とも言えるのです。
 程度の差こそあれ、未熟者同士が、時にいっぱいいっぱいになりながら支え合っている、
 これが、世の中の現実なのです

 だからこそ、人を楽にすれば、自分も許されていくのです



 いっぱいいっぱいな人は、自分でそうなりたかったわけではありません。
 だからこそ、自分もそうなりえると考えればこそ、温かく見守ることで、自分も成長できるのです。

心を開くには。

2013年05月08日 23時24分14秒 | 青裸々日記。
藤の花(東京都江戸川区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 人に心を開いているかいないかは、どれだけ自分を許せているかでわかります。
 間違えやすいのですが、「自分に嘘をついているかいないか」というのは、
 後でお話ししますが、もう一歩の惜しい話なのですね。


 たとえば、人に嫌なことを言ってしまったとします。
 そこでなんですが、自分のしでかした間違いに対して、言い訳をすることもできますし、黙っておくこともできます。
 なぜ言い訳をするか、なぜ黙っているかは、
 自分の弱さや未熟さを人に見せることで、批判されたり、見下されるのが怖いとか、傷ついてしまうからです。


 しかし、人間、意外なしなやかさも持ち合わせているのです。
 たとえ自分が未熟だったとしても、「しかたないよね」とか「そういうこともあるよね」と自分を受け入れてさえいれば、
 そこを突かれても、平気で涼しい顔をしていられたりするのです。
 たとえば、テストで悪い点を取ったとして、「ああ、不勉強だったなあ・・・」と自分を責め付けていると、
 人にそのことを言われた時、苦しい気持ちになるか、猛然と怒り出すかなど、
 いずれにしろ、ネガティブな反応になるはずなのです。
 しかし、「たまには自分にも、そういう時はあるさ」と思っていれば、
 「まあ、調子がいいときもあるし」などと、受け流すこともできるのです。


 さて、先程「「心を閉ざしている人は、自分に嘘をついている」というのはちょっと違う」とお話しした理由も、
 これでお分かりいただけると思うのですね。
 自分に嘘をついて、あたかも惨めな気持ちがなかったかのように振る舞うこと、心を押し殺すようなことをしても、
 自分を受け入れたことにはなりませんから、きっとどこかで違和感を感じるはずなのです。
 反対に言えば、何か心に引っ掛かりを感じる時は、自分になんらかの嘘をついている可能性があると考えられるということになります。



 いずれにしても、自分を許せば、人からの言葉のダメージを減らせます
 そして、ダメージが減るから、自分の心を、人に臆せずさらけ出せるのです。


 自分を許すと、人に近付けます。
 ゆえに、「人のためにも、自分を許す」という考え方があっても、私はいいと思うのですね。

気持ちを受け取る。

2013年05月07日 23時33分40秒 | 青裸々日記。
花菖蒲の花(東京都渋谷区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 「人の優しさや親切心、あたたかい心は受け取りましょう」というと、どんな気持ちになりますか?
 おそらく、大半の人は「人の手を借りることはみっともないこと」と思い、
 差し出された手を、なかなか取ろうとは考えませんよね。


 しかし。
 自立心に則り、なんでも自分でこなすことはすごく大切なのですが、
 幸か不幸か、無理のない範囲でなら、気持ちは受け取ったほうが、摩擦や軋轢(あつれき)は少なく済む傾向があるのです。


 ドライな話になりますが、基本的に、好意でも愛情でもなんでもいいですが、
 本来、気持ちは差し出す側の勝手で、見返りなく無条件で行われるべきものです。
 だから、自分が差し出した気持ちがどうされようと、文句を付ける権利だって、本当はないはずなんです。

 しかし、人間というのは、得てして見返りを期待してしまう生き物です。
 やっぱり、せっかく誰かに親切にしたら、感謝のひとつでもされたほうが嬉しいでしょうし、
 見返りだって、あるに越したことはない、
 これが、大多数の人の本音だと思うのですね。
 早い話、勝手に親切にしているだけでも、見返りを考えてしまうのが、人間の自分勝手さなのです。


 でも、この矛盾を責めたいわけではないのです。
 私だって、相手によっては見返りを期待してしまう場合がありますし、
 そんなに出来た人間、どこにいるんだと言いたいです。



 だから、ちょっとハードルを下げて見ませんか?というお話をしたいのですね。
 「誰にでも、何でも無条件でやるのが無理なら、ちょっとずつ感謝をして、見返りを差し出してみませんか」ということなのです。

 人間、見返りがないと、「こんなにやっているのに」などと、愚痴が出てしまいがち。
 逆に言えば、気持ちを受け取り、感謝さえしていれば、相対的に「こんなにやっているのに」という不満も減っていくわけですよね。



 無理に何でも受け取りましょうとは言いません。
 まして、嫌なもの、嫌な人は、受け取ることで、面倒事が増えることも、多分にあろうかと思います。


 しかし、親切心というのは、キャッチボールみたいなところがあります。
 全てを受け取らずとも、わざわざ払いのけるまでは、しないほうがいい場合もあるのです。



 この話、理解が難しかったら、人に親切にするごとに、ちょっと振り返ってみて下さい。
 「受け取る」コミュニケーションも、満更ではないとわかるはずです。

あめあがり。

2013年05月06日 21時48分05秒 | 青裸々日記。
バラの花(東京都江戸川区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 一生懸命やっているのに、色々と手も足も出ないときって、ありますよね。
 そんな時は、あれこれ考えないほうが上手くいくことがあったりするものです。


 もちろん、考えて考えて、それで答えが出たり状況が良くなるのなら、そうしたほうがいいに決まっています。
 しかし、誰だって、どんな時もより良い状態になることを、無意識にしろ、考えているものです。
 「大は小を兼ねる」と言いますが、選択肢にしろ、可能性にしろ、多くて大きいに越したことはないからです。
 少しでもよりおいしいものを食べたいし、より楽に毎日を過ごしたい・・・などと、
 「いい方向へ」と考えていくところが、人間という生き物の側面なのです。


 しかし、考えれば必ずいい方向にいくのかといえば、そうそう一筋縄でいくことばかりではありません。
 たとえば、難しく考えてしまったがために選択を誤ったり、動きすぎたがために余計なところにまで干渉してしまったりと、
 世の中には、「考えればいい」「動けばいい」「言えばいい」というほど、単純に出来ていないこともあるのです。



 さて。

 考えすぎる人には、責任感が強いという特徴があります。
 こうなったのは自分の責任だ、だから自分がなんとかしなくちゃいけないと、
 気負って気負って、自分を追い詰めてしまうのです。

 しかし、ちょっと立ち止まってみましょう。
 たとえどこに責任があろうとも、その責任を果たすべき時というのは、果たして四六時中なのかということです。
 責任があったにせよ、なかったにせよ、状況や環境を動かせる力というのは、いつもあるとは限りません。
 しかも、状況や環境が勝手に動いて、頑張らなくても勝手に解決してしまう場合すらあるのです。



 だからこそ、雨や風を鎮める、つまり、環境を動かすことが難しい場合、
 むやみやたらに動いたり考えることは、かえってエネルギーの浪費にも繋がりかねないのです。


 環境を動かせない時は、ゆったり休める時だと考えましょう
 どうせなら何をやってもしかたがないのなら、脳天気に未来を描いていたほうが、何倍も元気でいられます
 そしてまた、元気でいるから、状況が動いた時に、すぐ対処できるのです


 押してダメなら、引いてみよ。
 雨上がりは、いつでもありえるのです。

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