青裸々日記 Aorara Diary

真面目で一生懸命な人に寄り添うブログです(^^/
あったかい未来が、きっと待っています。

挫折は良薬?

2013年05月05日 23時27分48秒 | 青裸々日記。
花菖蒲(東京都立川市)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 「嫌なことや挫折にもいいところはあるし、それをバネに人間は成長するんだから、がんばろうよ」。


 一見、最もな言葉ですし、まさに挫折している渦中の人にとっては、救いとなるものかもしれません。
 しかし、いつまでも挫折にしがみつくのは本望なのか、ちょっと考えていただきたいのですね。


 たしかに、逆境なしに生きていては、人を舐めてかかったり、身勝手な態度が板につき、ろくでもない人生を送ることにも繋がりかねません。
 挫折は嫌なものですが、たまに転ぶから、普通に立って歩けることの尊さやありがたみもわかるんですよね。

 しかし、いくら逆境が人を磨くからといって、じゃあ、自分を磨くためにはいつも苦行や逆境を経なければいけないのか、
 こんな話も、考えていただきたいのです。
 いい経験になるからと、上手くいく場面ですら自ら進んで逆境を選ぶようなら、
 それはやめたほうがいいのです。



 人生、本当は、普通に生きていくだけで大変なものです
 挫折を選ばない道が楽かといえば、そうではない。
 きちんと負荷は用意されているのです。
 ただ、逆境の下にいると、その負荷が何パーセントが多くかかるので、
 そんな時に思い出してほしいなという意味で言われるのが、冒頭の言葉なんです。
 何も、自分から求めなくても、ても、大変なことはあるのです。



 だいたいの話、自分を磨くということ自体、本当はかなりの負荷がかかることだと知るべきです。
 無理なく自然体でいれば、なんにも苦労はありません。
 しかし、自分を変えていくということは、どこかでペースを変え、癖をつけ、新しい基礎を作らなければいけないわけです。
 ということは、なるべく楽しく、負荷は少なく、効果は大きいほうが、気分も効率もいいですよね。

 そこを、苦行ばかり積む上に、さらに自ら好き好んで逆境を選ぶとなれば、
 負荷がかかりすぎて楽しむ余裕が減り、効率が悪くなるばかりか、
 つらすぎて本当に目指すべき場所すら、わからなくなったりもしないでしょうか。



 挫折は人を磨きますが、人が磨かれるのは、挫折を経験した時だけとは限りません
 自ら進んで、楽しんで自分を磨いて、成果を挙げている人だって大勢いるのです
 成長する道と、遠回りする道は、必ずしも一致するわけではないんです


 無理に苦行を積む必要はありません。
 同じ効果があるなら、楽しんで進める道をとりませんか。

「よかったね」。

2013年05月04日 22時43分10秒 | 青裸々日記。
ネモフィラの花(東京都江戸川区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 「よかったね」と、どれくらい心から言えるか。
 これは、自分がどれくらい幸せかどうかということと、ほぼ同じなのではないかと思います。


 人間、自分が不幸だと、なかなか人の幸せを喜んではあげられないものです。
 いくら人の幸せを妬むのは良くないといえど、
 じゃあ、自分がつらい思いをしている時に、人を幸せや成功を嬉しく思えたりはしないというのが、ほとんどいないのではないでしょうか。
 「人の不幸は蜜の味なんてけしからん」とか「人の幸せを願いましょう」というのはたしかに理想的かもしれませんが、
 自分が満たされていない限り、やっぱり人に伝えられるのは形だけで、心を伴わせるのは難しいのが、現実ではないかと思うのですね。


 だからこそ、自分を幸せにし、満たすのです。
 自分を満たすというのは、一見、利己的で我欲に満ちているように見えます。
 しかし、自分が満たされていないからこそ、人に親切の押し売りをし、いい人ぶって、
 それでいて、報われなかったり、見返りがないと腹を立てる、
 これこそが、利己的で我欲に満ちた行為ではないでしょうか?
 それなら、自分が満ちたりていて、心から人の幸せを考えているほうが、何倍も人のためにならないでしょうか。
 それに、自分を幸せにするようになると、見返りを求めなくなるので、
 人に差し向ける気持ちや行動も、自然なものになったりはしないでしょうか。



 自分を幸せにして、人に「よかったね」と言えるから、
 ますます人に慕わるのです。
 反対に、自分が満ち足りないまま、心が伴わないままでは、
 何をやっても見返りを求める汚さが出ますから、
 自然と人が引いてしまうのです。


 「見返りを求めず」というと、あたかも無欲で、自分を犠牲にするかのようなイメージがなされるものですが、そうではないのです。
 自分が幸せだから、なかなか心から言えないことも言えるようになるし、見返りがなくても平気でいられる
 そればかりか、「こちらのことを構っている余裕もないのか、かわいそうだな」ぐらいまで、人のことを考えてもあげられるのです。



 自分の面倒は自分で見る。
 人に機嫌を取らせない。

 人に与えられる幸せより、自分で自分に与える幸せを優先させましょう。
 そしてまた、自分が幸せかどうかを知るためにも、「よかったね」という言葉は、大切にしたいものですね。

権利と権利。

2013年05月01日 23時06分06秒 | 青裸々日記。
ネモフィラの花(東京都墨田区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 人付き合いを上手くやりたかったら、「権利」という考え方は、なるべくなくすほど、良い方向へと向かいます
 これ、是非とも覚えていただきたい法則なのです。


 なぜたか分かりますか!?

 「権利」というのは、早い話が、椅子取りゲームみたいなものだからです
 つまり、「権利」は、必ず他の「権利」とぶつかり合うか、干渉するのです。
 そしてまた、権利の主張が激しければ激しいほど、衝突もとんでもなく酷いものになったりします。

 簡単な例で、一緒に考えてみましょう。
 「日照権」という言葉がありますよね。
 隣の建物のせいで、日当たりが悪くなった場合、
 「いい日当たりの恩恵を受ける権利」がなくなってしまうわけです。
 しかし、隣の建物を作る人にだって、権利はあります。
 見晴らしをよくして、建物をたくさん使ってもらう権利もあれば、
 自分こそが良い日当たりを得て、気分よく過ごす権利だってある。
 そこで、お互いが「自分こそが」と権利を主張すればするほど、対立も深まってしまうわけですね。


 そしてこれ、「権利」が絡む関係には、押しなべて言えることなんです。
 「自分は〇〇されるべきだ」と言えば言うほど、他人の権利を損なったり、傷つけたりするのです。
 さらに言えば、「自分が自分が・・・」と言いたい放題言っていると、他人が当然得られるべき権利にまで手を出すことになる。
 これで、嫌われないわけがないでしょう(笑)
 逆に言えば、人の権利を大切にすれば、そうそう嫌われることもないのです。
 見方を変えれば、偉そうにしている人、被害者意識の強い人は人の権利を害し、
 謙虚な人は、人に権利を譲る人とも言えます。
 このあたりからも、人に好かれるかどうかは、「自分の権利」を無駄に主張しないかどうかと同じだということを、理解していただけるはずなんですね。


 こう言うと、「人間関係は必ず我慢なのか」と思う方もいらっしゃるでしょう。
 でも、違うんです。
 あえて同じ言い方をすれば、「人間関係は必ず「知恵」」なのです。

 先の「高い建物」の場合、隣の日差しを干渉しないよう、上にいくにつれ建物を細くして、
 影ができないようにする例があります。
 それと同じで、「どうすればお互い気持ち良く譲り合えるか」を考えればこそ、
 生まれる道もあるのではないでしょうか?



 賢い皆さんは、わかりますよね。
 「権利」というのは、声高に言うためのものではなく、気持ち良く使ってこそのものだって。

バカになってみる。

2013年04月30日 23時29分11秒 | 青裸々日記。
亀戸天神社の藤(東京都江東区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 あまり綺麗な言葉ではありませんが、「バカ」という言葉は、よく目にしたり、耳に入ったり、
 あるいは使ってしまったり・・ということがあると思います。

 「バカ」というのは、簡単に言うと「考える力がない」ということです。
 たまに「知識」を頭の良さのバロメータだと考える人がいるものですが、
 ただ単に物知りで覚える力があることと、知識を実際に使えることとは、全く別の問題です。
 知識も大切ですが、本当に頭がいい人というのは、知識がなくても知恵や洞察力を働かせて、
 結局は自分で物事を練り出し、知識がある人と同等かそれ以上くらいまでの力を付けてしまうもの。
 いずれにしても、「観る力」や「考える力」、「頭を早く回す力」があればあるほど、「頭がいい人」ということになるのは、間違いないようです。
 そしてまた、頭がよくなれば、できることや、見えるものも違ってきますから、
 みんながみんな、考える力をつけようつけようと、必死になって頑張っているわけです。




 しかし。
 ここに、落とし穴があるのです。

 車でもなんでも、一日中、モーターをブン回していると、必ず金属疲労が出てきます。
 だから、そんなことがないようにちゃんと休ませるから、トータルとして、長い間使いつづけることができるんです。
 しかし、人間の頭は四六時中働きっぱなしです。
 頭が回っているのは、「脳を鍛えよう」と、意識して頑張っている間だけでなく、
 普通に日常生活を送る中で、意識的にせよ、無意識でやっているにせよ、
 色々な所が働いているんです。

 思考力を磨くのは、大いに結構かもしれません。
 しかし、頭を使い、鍛えるなら、こんどは休ませ時を考えなければいけません。
 さっきのモーターの話じゃないですが、頭がくたびれてしまっては、無意識的に使っている能力にまで支障が出て、当たり前のことすらできなくなる場合だってあるのです。


 「頭を休ませる」というと抽象的ですが、頭の回転数を下げればいいのです。
 なんとなく何にも考えずに、テキトーに過ごせばいいのです。

 そうすると頭が休まって、思考力にも締まりが出てくるのです。



 「バカ」は、頭をよくしたい人ほど、意識的にやってみたほうがいいのかもしれません。
 人間、バカになれなきゃ、頭もよくならないのです。

騙される知恵。

2013年04月29日 22時53分51秒 | 青裸々日記。
亀戸天神社の藤(東京都江東区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 人を見抜くこと、真実と嘘を見分けることは、大切です。
 何でも疑うことなく全てを信じると、たとえ相手に悪意がなくても、間違えた方向に行ってしまうことがあるからです。


 ただ、ここに落とし穴があります。
 「見抜くこと」が大切だからと、いちいち人の嘘に突っ込んだりする人がいますが、
 はっきり言えば、それは間違いです


 「嘘も方便」といいます。
 上手く嘘をつくことで、体よく場を纏めたり、つまらないすれ違いを減らすことができる、
 こんな例えを謡っているわけですが、ここで立ち止まって、考えていただきたいのです。
 たとえば、せっかくその場を繕っている最中に「えっ、それは嘘でしょ?」と、
 「嘘を使って、丸く収めようと頑張っている人」に言葉を投げつけたら、どういうことになるかは、明らかだと思いませんか。
 そりゃあ、「嘘」はないに越したことはないかもしれませんが、
 場を丸く収める努力をしている人に、いちいち嘘だなんだと突っ掛かるのは、見方によってはただの揚げ足取りであり、因縁でしかないのです。


 そうなんです。
 「嘘がいいか、悪いか」といえば、あまり「良い」とは言えないかもしれません。
 しかし、「嘘をついてでも、場を暖かくする配慮、人を傷つけまいとする気持ち」というのは、
 必ずしも責められるべきものとは限らないのではないでしょうか。
 もちろん、毒入りの食べ物を「安全ですよ」と言うような、直接損害を与える嘘、不幸に繋がる嘘は、厳に慎むべきでしょう。
 しかし、お世辞に代表される、誰も傷つかないような伝え方があるなら、相手を喜ばせようとする前向きな気持ちから出たものですから、
 それは嘘であろうが、見破られようが、全く構わないのではないでしょうか。

 そしてまた、相手の言っていることが疑わしくても、どうしてそうまでして気をつかってくれているのかを汲むことです
 「見破った」「見破れなかった」という次元で人を見るのは、程度の低い話です
 上手く乗せられつつも、「この人の心はこんななんだろう」と、気持ちを分かってあげるところまで出来て、はじめて「見抜いた」ことになる
 そして、わかっていながら、「そういう気持ちなんですね」と心でつぶやきつつ、わざと騙されてあげる、
 ここまでするのが、本当の思いやりではないでしょうか



 「嘘も方便」というのは、騙される側の言葉です。
 自分に被害がないなら、相手の幸せを望むなら、
 たまには相手の嘘を許してあげる度量が大切です。

「怒り」は通訳できます。

2013年04月28日 22時22分26秒 | 青裸々日記。
亀戸天神社の藤(東京都江東区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 「怒りは感情の蓋」と言われます。
 これは心理学やカウンセリングから来た金言のひとつで、
 「どんな人でも、表面上は怒っているように見えても、その下には、本当は別な思いや気持ちが隠れているのですよ」という意味なのですね。
 怒っている人は、必ず理由があってやっているのです。


 これ、一見、納得がいかない人もいるでしょう。
 たとえば、自分勝手な人、自分に酔っているだけで力のない人が、「誰も自分の真価をわかっていない」と当たり散らしたら、
 「なんだい、自分のことを鏡で見たことはないのかな?」と、こちらこそ怒りたくもなりますよね。
 でもこれ、「正しい理由」がなくても、「怒り」には下敷きとなる感情があるのです。


 さて。
 皆さんは、満たされない思いがあるとき、どんな気持ちがするでしょうか?
 邪険にされたり、聞く耳を持たれなかったりしたら、どんな気持ちになりますか?

 ・・・それが、答えなんです。

 「怒り」は、こちらの期待や願望を理解されなかったり、あるいは受け止めてもらえなかったりすると出てくる態度なのですね
 つまり、「わかってほしかった」「してほしかった」というような、
 悲しみや無力感を表現するために、「怒る」という態度に出るわけです



 怒りっぽい人、ちょっとしたことですぐに「キレて」しまう人というのは、
 裏を返せば、普段からいかに満たされていないか、人に分かってもらえていないか、我慢を強いられてきたか、
 これらのやる瀬ない思いを受け止めて下さい、どうにかして下さいと、
 心の中で言っているようなものなのです。


 もちろん、怒りを抱えた人を目の前に、見抜くのはまだしも、適切に対処するのは難しい場合もあるでしょう。
 怒っているのが自分の側だったとしても、やはり、強い感情はコントロールしがたいのが、現実だと思います。

 しかし、一歩下がったり、「ほとぼり」がさめた後なら、
 そこにあった「怒り」にどういう経緯があったのかを見ることで、開ける道もあると思うのですね。
 そして、その見抜く力を付けることこそが、人間としての器量を育てることにも繋がるはずなのです。



 繰り返しますが、「怒り」は、満たされない思いが具現化したものです。
 何が満たされなかったのか、何を我慢してきたのか。

 それを理解し、受け止めさえすれば、全ての怒りは収まるのです。

自分とつながろう。

2013年04月27日 23時43分19秒 | 青裸々日記。
ウコンザクラの花(埼玉県秩父市)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 自分のことは、自分が一番よく分かっている、
 そう思う方が、大半かもしれません。

 しかし、自分が一番よく分かっているのは「つもり」の話で、
 実は、自分自身が自分をよく分かっていないということも、本当はよくある話なのです。


 自分の気持ち、自分の意見、自分の理屈。
 これらをいつも正確に把握することは、ほぼ不可能に等しいのではないでしょうか。
 なぜなら、いつも自分のやっていることを、自分自身がモニターを見て監視できるわけではないからです。
 そして、もっと言うと、自分自身の気持ちや考えだって、
 なんらかのボルテージが上がったり、動揺したり、エスカレートすれば、
 コントロールが効かなくなったりもするわけです。
 よく「自分を見失う」とか言われますが、この「自分自身をコントロールできない」というのが、「自分を見失う」ことの原因にはならないでしょうか。
 なんでもそうですが、コントロールをするためには、感覚を掴み、精通しておくことが必要だからです。



 さて。

 自分を見失わず、しっかりコントロールしていくには、どうすればよいのでしょうか?


 それは、「抑圧」をしないことなのです。
 「抑圧」というのは心理学用語でもあるのですが、簡単に言うと、「自分の本音を押さえ込んだり、感じないようにしておく」思考のことを指すのですね。

 これ、たしかに、気持ちを押さえ込むことで、自分の情けなさを感じずに済ませたり、気持ちを隠して事なきを得たりと、
 その場では凌げるかもしれません。
 しかし、自分を押さえ込んでいるうちに、何が自分の本音なのかがわからなくなる
 そして、自分の本音がわからなくなると、今度は自分を見失い、自分をコントロールしずらくなってしまうのです
 これ、間違いなく、つらい話であり、不幸なことだとも思うのです。


 逆に言えば、本音を覆い隠すような真似さえしなければ、自分をコントロールしやすくなるのです。


 世の中、打たれ強さや前向きさ、特に男性であれば「男らしさ」が求められてやみません。
 しかし、スーパーマンはいないのです。
 人間であるということは、誰もが弱さや情けなさと共存していくということでもあるのです。


 どうか、自分の本音を、粗末にしないでいただきたいです。
 それが自分を守り、癒していき、人の幸せにも繋がっていくのですから。

自分を責めるフィルター。

2013年04月26日 19時31分26秒 | 青裸々日記。
芝桜の花(埼玉県秩父市)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 人からの批判や文句は、自分がそれに同意しない限り、自分を傷つけることはありません。


 簡単な例を出しましょうか。
 汚い言葉で、「バーカ」とののしってくる人がいたとします。
 その時なんですが、自分をどう思っているかで、受け止め方や傷つき方も違ってくるのですね。
 自分を愚かだと思っていればいるほど、自分を攻撃する言葉を聞くと「その通りだ」と反応し、心が傷ついてしまうのです。
 反対に、「馬鹿ではないよ」と思っていれば、傷つくこともなければ、反応したり意識することもなく、
 むしろ、「人に毒を吐くなんて、かわいそうな人なんだな」と、憐れんであげることすらできるのです。



 ただし。

 これ、単純なようですが、あながち単純とは言い切れない部分があるのです。
 たとえば、先を読む力や人を察する力がまだまだの人が、「自分はアタマがいいから」と踏ん反り返っていては、
 思い込みと実態が一致しませんから、物事の回転が鈍くなるわ、人からは疎まれるわで、
 そしてまた、向上もおぼつきません。


 ただ、「自分を責めれば辛いけど、批判的に見なければ改良できない」ということになる。
 これ、どちらも嫌ですよね(笑)
 というわけで、どこが間違っているのでしょうか?


 自分を責めないことと、向上心を持つことは、本当は全く別の問題なのです
 自分を責めないでいると、批判や文句は「提案」に聞こえるのです
 しかし、人間は完璧ではありませんから、どこかで自分を責めたり、罰したりしています。
 あるいは、たまに慢心をして、自分に酔いしれなければ、人生、やっていられないということもあるでしょう。

 しかし、自分を責めたりするだけ、余計に心の負荷がかかってしまう。
 それを軽くするために、自分を肯定的に見るのです。
 だから、自分を責めないことを、怖がることはないのです。


 自分を責める声は、自他ともに多く飛んでくることがあります。
 しかし、その全てを受け入れる必要もなければ、力を与えることもないのです。
 それに、批判の全てが的を射たものとも限りません。



 自分を責めると、耳が、心が、歪みもしてしまいます。
 変なフィルターは外したほうが、世界が綺麗に見えるものなのですよ。

「趣味」。

2013年04月24日 21時09分28秒 | 青裸々日記。
鈴蘭の花(埼玉県秩父市)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 「趣味」というと、一般には「生業(なりわい)ではなく、楽しみとしてやっていること」を指しますよね。
 その「趣味」なんですが、もう少し深いところから、一緒に考えてみたいと思います。



 「趣味」という言葉は、「好み」とか「センス、感覚」という意味でも使われます。
 「趣味がいい」というと、単純にセンスがあるという場合もありますが、
 人に対する物腰が良いとか、気づかいができるとか、心が美しいとか、
 その人の「姿勢」がなっていて素晴らしいという様を指して、「趣味がいい」と言われることもあります。


 さて。
 「趣味」とか「好き」にも、深さや角度は色々あるのです
 たとえば、一言に「ケーキが好きだ」と言っても、形が好きなのか、味が好きなのか、個人的に食べるタイミングがあって、その時が楽しみだという意味で言っているのか、
 ちょっと考えれば、たくさん挙げられますよね。
 また、「どれくらい好きか」というのも、人にもよれば、時と場合にもよる場合があるでしょう。

 そうすると、いくら「見た目では趣味が同じ」といっても、
 それだけでは噛み合わないことだって、十分にありえるわけです。



 反対の場合もあります。

 「見た目の趣味が違い」という場合でも、取り組み方や意識のレベルが同じなら、
 お互いがお互いに、相通じるものを見出だし、楽しい関係を育めるということだってあるのです。


 お分かりになったでしょうか。

 「いい趣味をする」というと、カッコいいもの、流行っているもの、受けが良さそうなものを選ぶ…という意味で考えがちです。
 しかし、「いい姿勢で取り組み、人を明るく元気にする」から、何をやっても「いい趣味」に見られるのです。
 格好だけで何をやっても、元の姿勢がなっていなければ、絶対に幸せはおぼつきませんし、好印象を得るなど、増してとんでもない話になってしまいます。


 「大は小を兼ねる」と言われます。
 趣味は、いくらでも磨いたほうがいいのです。
 そうしたら、きっとより多くのことに、前向きに取り組めます。



 趣味のいい人には、趣味を変えることでなれるとは限りません。
 人間性を高めるから、趣味の楽しみ方がよくなっていく、
 このあたりを、噛み締めて考えたいと思うのです。

元気が出る道を。

2013年04月21日 23時08分41秒 | 青裸々日記。
紫陽花の花(東京都台東区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 「人に尽くす」というと、皆さんはどんな気持ちがするでしょうか?

 尽くすことは、一見、自分を犠牲にするような、どこか苦痛であるかのよう認識になるものです。
 しかし、必ずしも、「尽くす=犠牲をする」とは限らないのです。


 簡単な例で話しましょう。
 「一日一善」という言葉、ありますよね。
 これ、なんで言われているかというと、「人は支え合って生きてるんだし、人に親切にするのは気持ちいいから、やってみようね」と、
 人に温かくすることで、自分の気持ちも温かくなるから…と、勧められているわけです。
 だから、「無理矢理人に親切を押し売りする」とか、「相手の都合は二の次で、いい人ぶって自分に酔う」ために良いことをする、
 こんなことは、どこにも言われていないわけです。
 あくまでも、純粋に人の力になることはお互いにいい気分になるから、やってみませんかと言っているだけの話なんですね。



 さて、これでお分かりになったでしょうか?

 尽くすのは尽くすでも、人の力や幸せに預かれて、自分まで元気になれるなら、
 それは積極的にやったほうがいいのです

 ところが、尽くして尽くして、自分まで擦り減ってしまうなら、
 尽くす意味や目的を、見直してみたほうがいいのかもしれない。
 冷静に考えれば、下手に巻き込まれるだけなら、なんのために力を差し出すのかは、果たして疑問にはならないでしょうか。


 「尽くすこと」は、美徳に違いないかもしれません。
 しかし、尽くすことで、その結果が不幸な顔なら、
 顔がいけ好かないのですから、美徳とは感じてもらえないことだってあるのです。


 もちろん、いつだって明るく元気でやれるとは限りませんし、
 いくら「犠牲は望ましくない」とて、ある程度は犠牲を払いつつ、何かに尽くしていくという場合もあるでしょう。


 しかし、です。
 正しく尽くすとは、尽くすことで元気になる」という原則がわかっているか、
 なるべく望ましい状態に近づけるように考えているかです

 自分を粗末にしなくても、自分も人も、明るく元気にしていける道はあるはずなんですね


 「人のためなら」という考えでいると、ついつい心の姿勢には無関心になってしまうもの。
 でも、自分を大切にしても、罰は当たらないのですよ。

正義と正義。

2013年04月20日 23時32分39秒 | 青裸々日記。
ヤマザクラの花(埼玉県秩父市)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 世の中にある、「正しい基準」というのは、一つだけではありません
 なぜなら、個性や価値観は、人の数だけあるからです。


 たとえば、一口に「外見を磨く」と言っても、色々ありますよね。
 服装から入る人、体型を整える人、美容液にこだわる人、
 それぞれみんな、「外見を磨いていること」には、変わりはありません。
 しかし、やり方や考え方の筋道はというと、全然違います。
 そうすると、ややもすれば、筋道の違う人同士が意見を交換した時、
 「考え方が食い違っている」ということで、摩擦や衝突が起きてしまったりもするわけです。
 そしてまた、「外見を磨くやり方」という意味ではどちらも正しいわけですから、
 お互いに「自分が正しいんだ」とか、「正しい側が譲る必要はない」と、
 態度を硬くし、頑固というか、意固地にすらなってしまいかねないわけです。


 しかしこれ、すごい惜しい話だと思いませんか。
 なぜなら、ちょっと離れたところから見れば、エネルギーは同じだからです。
 それぞれにこだわりはあっても、「外見を磨きたい」という意志は共通しているのですから、
 「ああ、そういうやり方もある」とか「+αとして考えておくのもアリだな」と考えれば、何もぶつかるまでするいわれはない
んですよね。
 つまり、お互いに距離が近すぎて、しかも意志が強すぎるから、せっかくのいいエネルギーを浪費してしまうのです。
 それと、少し手厳しい話になりますが、そんなにも向上心があると言ってはばらないのなら、対立する方向に力を使っていることに対しても、なんらかの違和感を感じられなければおかしいのです。


 譲れない部分ややり方。
 自分なりに編み出した哲学。

 人に対して一歩も譲れないものがあるというのは、間違いなくそれだけの力や思い入れがあるということです。
 しかし、正義はどこまで行っても正しいわけではないのです。
 正義は正しく使ってはじめて、「あの人は正しいね」と言われるようになるのです。



 何事も我慢すればいいというものではありませんし、言うべきは言う態度も必要です。
 しかし、出来るだけ多く、離れた視点から見ることができたらいいですね。

「キック・ミー」のゲーム。

2013年04月18日 23時19分33秒 | 青裸々日記。
撫子の花(東京都台東区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 人間、人に好かれたい、評価されたい、大切にされたいと、
 「自分をよくして欲しい」と思っているものです。

 ・・・というと、「なーんだ、当たり前のことじゃないか」と思う方が大半でしょう。
 しかしこれ、当たり前のようで、必ずしも当たり前でなかったりするのです。


 人間には「深層心理」というのがあります。
 読んで字のごとく「心の奥底で思っていること」を指すのですが、
 この深層心理が、頭で自覚している心理、自分で意識できる心理と違う場合があるのです



 たとえば、歩いていて、左に曲がろうと頭で思ったとします。
 しかし、心のどこかで「右に曲がろう」という意識があった場合、
 なんだか曲がっている最中に得体の知れない不愉快さが沸き上がってきたり、
 オーバーな場合、気を抜いた瞬間に、右に向かって歩いてしまったりもするのです。



 ただ、「歩く」ぐらいなら、こんな極端な話はないかもしれません。

 しかし、「自分のことをどう思っているか」とか、「人生の目標はどこにあるか」という、
 長い期間で形作られた考え方に関しては、「頭と心、そして行動がちぐはぐになる」ということも、珍しくはないのです


 さて。
 冒頭の「人に大切にされたいのは当たり前」という話です。

 そりゃ、もちろん、人に好かれれば嬉しいし、人に酷いことをされたら、悲しくもなるでしょう。
 しかし、「心の奥底では、どこか「どうせこんな自分なんて」とか「大切にされた経験がなく、実は下心や裏がありそうで怖い」と思っている」と、
 「大切にされたい」反面、「自分が大切にされることはおかしいこと」と内心どこかで思っていれば、
 人に対しても、どこか遠ざけるような行動、嫌われるような接し方をしてしまうのです。
 ちなみにこれ、心理学では「キック・ミーのゲーム」と言われ、
 「どうぞ嫌ってください」と、人を試したり仕掛ける、一連の心の癖のことを指すのですね。



 では、どうしたら、人を試したり、わざわざ嫌ってもらうために傷つけるようなことをせずに済むようになるのでしょうか?


 自分を大切に思えないのは、どこか必ず、自分を無価値だと思ったり、罪悪感があったりするからです。
 つまり、自分を尊重できないから、人にも尊重させないように仕向けているのに他なりません。

 しかし、自分を認め、尊重するのは、そんなに難しいことなのでしょうか
 たしかに、人間は様々な側面がありますから、自分の価値に疑問を抱くことはあると思います
 でも、人に嫌われるほどの影響力があるなら、その影響する力を、それだけ幸せな方向へも向けられることにはなりませんか


 人を傷つける人は、本当は自分を助けてほしいと願っている優しい人。
 ここを見抜けば、幸せはもう目の前です。

「そういう人なんだ」。

2013年04月18日 05時12分18秒 | 青裸々日記。
八重桜の花(東京都台東区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 「常識」という言葉には、ソフトな強迫観念があるものです。

 「知っていて当たり前」とか、「一人前になるには必須」、「できないことはありえない」、
 こういうプレッシャーを、「常識」という言葉から受けたりはしないでしょうか。


 もちろん、お互い人間同士ですから、「これくらいだとこうなるかな」という感覚があればこそ、
 相手の気持ちを読んだり、先行きを考えて、より適切な行動ができるわけですよね。
 しかし、「これくらいだとこうなるかな」という感覚そのものこそ、人によって違うものでもあるのです。
 なぜなら、周りにいる人、本人の感じ方、体質や習慣など、
 つまり、育ったり過ごしてきた環境だって、一人ひとり違っていて当たり前なのです
 それを、結局は一人ひとりが持つ「常識」が違うのに、「常識」という言葉ひとつでバッサリと人を裁くようでは、
 結局、どんな人間関係も立ち行かなくなってしまいます。


 相手とて、必ずしも悪気があって、こちらの理解できないことをしてくるのではありません。
 相手の中では、その「理解できないやり方や考え方」が、「常識」なのです。

 つまり、「そういう人」なんです。


 固い話になるかもしれませんが、人間関係では、お互いを尊重することが不可欠です。
 性格ではなく、まるごと相手を「そういう人」だと認めるのです。


 すると、不思議な感覚がしてきます。

 自分がラクになるのです。



 どういうカラクリかというと、
 「相手は相手」と、人を認めた分、「自分は自分」と、自分を許し、認めることができるからです。


 「常識」でも、「~~すべき」という考え方でもいいですが、
 縛られた状態には、自由がありません。
 そこを、お互いちょっと思いやりを持って、「そういう考え方もあるよね」、「そんな時だってあっていいかな」と、
 気持ちをフッと緩める。
 そうすると、批判的な見方ではなく、「この人が生き生きする方法や環境ってなんだろう?」と、
 建設的、肯定的な見方が出来るようになるのです。


 どうしても変えたい相手や性格も、まるごと変えようとするのは、尊重や尊敬から外れた考え方であり、
 上手くやる前に、人間関係そのものを破綻させてしまいます。
 もし困った時は、「常識、常識」と言って批判的になったり変えようとするのではなく、
 「長所を付け加える」ぐらいに考えると、開ける道も、あるのではないでしょうか?

あらさがし。

2013年04月17日 01時49分49秒 | 青裸々日記。
八重桜の花(東京都台東区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 腹の立つこと、不当な扱い、邪険な相手。
 こういった、自分が傷つくようなことや、理不尽な思いがあると、不満を訴えたり、謝罪のひとつもほしくもなるものです。
 そして、謝罪や改善の訴えが受け入れられないと、今度は、自分の正当性を示したいがために、
 相手の気に入らない点や落ち度を、ひとつひとつ確かめるようにつついていくわけです。


 これ、「正しい人が悪い人を指摘するぐらい、何が悪いんだ」と思うでしょう。
 しかしこれ、実害がない限り、人の落ち度は許すか忘れるほうがいいのです。


 ちょっと考えてみて下さい。

 2つ以上のDVDを同時に見ることは、まずできませんよね。
 同時に見ようとすれば、必ずどちらかがおろそかになるか、内容の理解度や感動の深さも、1本をじっくり見るより薄くなるでしょう。


 これ、人のあらさがしについても、全く同じなんですね。
 人をああだこうだと言い立てて文句を言っていると、視点や焦点は相手に向きますから、
 その分、自分が見えなくなるのです。
 「自分が見えなくなる」ということは、仮に自分が相手と同レベルのこと、あるいはもっと根本的で致命的なことをやっても気が付けないということにはなりませんか。
 人に茶々を入れたり、ツッコミを入れるのは勝手かもしれませんが、
 ただでさえ人を傷つけるようなリスクがあるだけでなく、自分のレベルまで下げてしまう危険すらあるのです。

 だいたい、完璧な人間など、どこにもいません。
 完璧じゃないから、みんな頑張るわけです。
 頑張るから、成長や改善があるんです。

 そこを、完璧でないからといって、いちいち事を荒立てていては、成長もおぼつきません。
 指摘でも批判でも文句でもいいですが、相手が精一杯であればあるほど、反感も買いやすくはならないでしょうか。


 そうであれば、あらさがしをする目は持たないか、それでももしあらさがしが大好きで仕方ないなら、
 その目を向けるべきは、他人でなく自分です



 もし、人を導くなら、あらさがしをするのではなく、手本を示すように、時間を使いましょう
 貴重な時間を、嫌なものに向けるいわれはないのです。

「心理学」の基礎。

2013年04月14日 23時04分27秒 | 青裸々日記。
八重桜の花(東京都台東区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 「心の時代」と言われて、ずいぶん経ちました。
 時間の流れや多様な価値観など、色々なものに振り回されやすくなればこそ、
 内側の部分、つまり「心を見よう」という気持ちになる人が多くなるのは、全く無理のない、自然な話ではないかと思うのです。

 そこで、「心理学を学ぼう、心に詳しくなろう」とする人も増えたわけですが、
 私は、「学べばいいというわけではない」と、強くお話ししておきたいのですね。


 鮃(ひらめ)でも鱸(すずき)でもなんでもいいですが、魚の生態に詳しくなったからといって、
 実際に育てたり、守ったりできることにはなりませんよね。
 逆に、勉強なんかしなくたって、「なんとかして育てたり守ってあげたい」と思えば、
 その気持ちが洞察力を磨き、魚に対して、本当の意味で詳しくなるわけです。
 そして、経験を重ねれば、生態にしてもなんにしても、実際に勉強した人と同じか、それ以上に詳しくなれるのです。


 これは、心についても全く同じなんですね。
 極論を言えば、「心について、詳しくなりたい動機が、どれだけ純粋か」、「学ぶ根底に、心から大切にしたい思いはあるか」、
 ここがしっかりしているかが、肝要なのです。
 形だけ心の仕組みを知っているだけで、実際にそれを幸せに繋げたり、肌で感じたり、人を助けて力になれるわけではありません
 きつい言い方をすれば、頭ではなく、心で感じ、心で想像して学ぶ姿勢がなければ、「心の時代」といえども、心理学を勉強する時間すら無駄だと言えるのではないでしょうか。


 「心理学の基礎!」とは、基本的なスキーム(仕組みや一連の流れ)や用語のことを考える方が、大半だと思います。
 しかし、もし「心の時代」と、心理学を自分や人に役立てたいなら、基礎と考えるべきは、知識ではなく、感受性や人間性、愛情、人徳といった、
 「心理学を運用する人間の心」です。
 それに、悪気を持って心理学を使うつもりなら、「相手も実は自分を心理的に操作するんじゃないか」と疑心暗鬼になり、
 自滅するだけが関の山です。
 いずれにせよ、心や人間性がなっていないなら、心理学など、使いこなせるわけがないのです


 心理学を学ぶにしても、学問だけとしてなのか、人間そのものについて役立てるために学ぶのか、
 向学心もいいですが、まずはここから考えてみましょう。
 学ぶだけではできないこと、学ばなくてもできること、
 これらは沢山あるのです。

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