代々木公園から(東京都渋谷区)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
自分の人生は、最終的には、全て自分が決めているものです。
非常に乱暴な書き方をしました。
もちろん現実には、抗いがたい(あらがいがたい;抵抗が難しい)指示や命令があったり、
流れやその場の空気、人の気持ちを読めばとても出来ないことがあるもの。
だから、「人生そんなに甘くない、何を言ってるんだ」という方がいらっしゃって当然だと思います。
それでは、なぜ「人生は自分で決めてるもんですよ」と言えるのか、
これには、ちゃんと理由があるのです。
友達と、ランチに来ていると想像してみて下さい。
ランチですから、メニューを見て決めるわけですが、
友達同士ですから、オススメもあれば、やめたほうがいいものも話題になること、よくありますよね。
そうすると、「友達が勧めたから」とか「やめたほうがいいと聞いたから」などという理由でメニューを選ぶことになりますが、
そうやって選んだのは、最終的に誰なのかと言えば…、
お分かりになるでしょうか。
意見の強弱にせよ、その場その時の心情にせよ、
人の言うことや意見、考え方を採用するかどうかという点では、結局は自分が決定権を握っているのです。
「自分で全て決めている」という事実は、なかなか受け入れがたい側面があるでしょう。
そんなことを普段からして生きていれば息も詰まるでしょうし、
そうでなくとも、「あれもこれも自分の責任なのか…」と思うと、その重さに耐えられなくなることも、正直あると思います。
…というか、私だったら耐えられません(笑)
人間、そこまで完璧な生き物ではないのです。
しかし、です。
「自分で決められない世界」というのもまた、なかなかつらいものがあるのではないでしょうか。
そしてまた、自分の意思を大切にせず、流れのままに不本意さを感じていることがあるとしたら、
それもまた、しんどい気持ちにはなりませんか。
だから、「決める」のです。
自分であれ、他人であれ、意見を採用するか決めるのは自分です。
じゃんけんでグーを出す場合、背景を考えると、人からパーと言われようと、グーと言われようと、
最終的にグーと決めて出したのは自分ですよね。
それと同じなんです。
主役の座を、人に譲らない。
そして、その譲らないための心構えが、「決める!」ということなのです。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
自分の人生は、最終的には、全て自分が決めているものです。
非常に乱暴な書き方をしました。
もちろん現実には、抗いがたい(あらがいがたい;抵抗が難しい)指示や命令があったり、
流れやその場の空気、人の気持ちを読めばとても出来ないことがあるもの。
だから、「人生そんなに甘くない、何を言ってるんだ」という方がいらっしゃって当然だと思います。
それでは、なぜ「人生は自分で決めてるもんですよ」と言えるのか、
これには、ちゃんと理由があるのです。
友達と、ランチに来ていると想像してみて下さい。
ランチですから、メニューを見て決めるわけですが、
友達同士ですから、オススメもあれば、やめたほうがいいものも話題になること、よくありますよね。
そうすると、「友達が勧めたから」とか「やめたほうがいいと聞いたから」などという理由でメニューを選ぶことになりますが、
そうやって選んだのは、最終的に誰なのかと言えば…、
お分かりになるでしょうか。
意見の強弱にせよ、その場その時の心情にせよ、
人の言うことや意見、考え方を採用するかどうかという点では、結局は自分が決定権を握っているのです。
「自分で全て決めている」という事実は、なかなか受け入れがたい側面があるでしょう。
そんなことを普段からして生きていれば息も詰まるでしょうし、
そうでなくとも、「あれもこれも自分の責任なのか…」と思うと、その重さに耐えられなくなることも、正直あると思います。
…というか、私だったら耐えられません(笑)
人間、そこまで完璧な生き物ではないのです。
しかし、です。
「自分で決められない世界」というのもまた、なかなかつらいものがあるのではないでしょうか。
そしてまた、自分の意思を大切にせず、流れのままに不本意さを感じていることがあるとしたら、
それもまた、しんどい気持ちにはなりませんか。
だから、「決める」のです。
自分であれ、他人であれ、意見を採用するか決めるのは自分です。
じゃんけんでグーを出す場合、背景を考えると、人からパーと言われようと、グーと言われようと、
最終的にグーと決めて出したのは自分ですよね。
それと同じなんです。
主役の座を、人に譲らない。
そして、その譲らないための心構えが、「決める!」ということなのです。
亀戸天神社の梅(東京都江東区)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
基本的に、自尊心はあったほうが生きやすくなるものです。
こう言うと、「踏ん反り返った、偉そうな人」になることを勧めているようですが、
そうではありません。
後で詳しくお話ししますが、踏ん反り返ることと、自尊心を持つことは、違うことなのです。
さて。
自尊心があるとなんでいいか。
簡単です。
人の言動を、好意的に捉えやすくなるからです。
世の中、誠実な人ばかりとは限りません。
ということは、挨拶ができなかったり、嫌な顔をしてくる人もいるわけです。
そこで、その「好ましくない態度」をどう感じるか…という話になるのですが、
ここで、自尊心が鍵を握るわけです。
自分を低く評価していると、ただ笑っているだけの人を見ると、「自分の至らなさをあざ笑っているんだ」と、
自分の評価を、人に投影して見てしまうようになるのです。
それがゆえ、自尊心が低くなっていると、傷つかないでいい場面で、勝手に疲れたりストレスを感じるようになってしまうのです。
逆に、自尊心があると、どうなるか。
「笑う人を見る→自分に対するもの」という思い込みがなくなりますから、
冷静に「笑った理由」を考える余地ができます。
そしてまた、万が一人にあざ笑われたとしても、むしろ笑い返すことすらできるようになるのです。
なぜなら、「自分が笑われるに至るだけの理由ってなんだろう?」と、
あくまで相手の心のうちや本質に迫ることができるからです。
逆に言えば、人の言動にいちいち目くじらを立てるような人は、本当は自尊心のない人だということができます。
冒頭で、「踏ん反り返る人は自尊心を持っている人じゃないですよ」とお話ししました。
「笑っている人がそばにいる」例で言えば、踏ん反り返るような人は、事実をフェアに見られないという点では同じですから、
やはり、「笑っている人」には耐えられないと思うのですね。
自尊心は、人を許す器のようなものです。
自分を信じ、尊重すればこそ、周りに動じず、色々なことを、タズナを握るようにコントロールできるのです。
だから、自尊心は大切だし、あったほうがいいのです。
「自尊心」は、意味さえわかっていれば、心強い味方になるものです。
一緒に磨いてみませんか。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
基本的に、自尊心はあったほうが生きやすくなるものです。
こう言うと、「踏ん反り返った、偉そうな人」になることを勧めているようですが、
そうではありません。
後で詳しくお話ししますが、踏ん反り返ることと、自尊心を持つことは、違うことなのです。
さて。
自尊心があるとなんでいいか。
簡単です。
人の言動を、好意的に捉えやすくなるからです。
世の中、誠実な人ばかりとは限りません。
ということは、挨拶ができなかったり、嫌な顔をしてくる人もいるわけです。
そこで、その「好ましくない態度」をどう感じるか…という話になるのですが、
ここで、自尊心が鍵を握るわけです。
自分を低く評価していると、ただ笑っているだけの人を見ると、「自分の至らなさをあざ笑っているんだ」と、
自分の評価を、人に投影して見てしまうようになるのです。
それがゆえ、自尊心が低くなっていると、傷つかないでいい場面で、勝手に疲れたりストレスを感じるようになってしまうのです。
逆に、自尊心があると、どうなるか。
「笑う人を見る→自分に対するもの」という思い込みがなくなりますから、
冷静に「笑った理由」を考える余地ができます。
そしてまた、万が一人にあざ笑われたとしても、むしろ笑い返すことすらできるようになるのです。
なぜなら、「自分が笑われるに至るだけの理由ってなんだろう?」と、
あくまで相手の心のうちや本質に迫ることができるからです。
逆に言えば、人の言動にいちいち目くじらを立てるような人は、本当は自尊心のない人だということができます。
冒頭で、「踏ん反り返る人は自尊心を持っている人じゃないですよ」とお話ししました。
「笑っている人がそばにいる」例で言えば、踏ん反り返るような人は、事実をフェアに見られないという点では同じですから、
やはり、「笑っている人」には耐えられないと思うのですね。
自尊心は、人を許す器のようなものです。
自分を信じ、尊重すればこそ、周りに動じず、色々なことを、タズナを握るようにコントロールできるのです。
だから、自尊心は大切だし、あったほうがいいのです。
「自尊心」は、意味さえわかっていれば、心強い味方になるものです。
一緒に磨いてみませんか。
山茶花の花(東京都品川区)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
皆さんは、悪口を言われると、ムッとしたりしませんか!?
うん、頭に来るよ!という人、まあいいんじゃない?という人、
あるいは、気分や内容によるんじゃない!?という人、
色々いると思うんですね。
ただ、私の独断で言えば、悪口なんていうのは、自分の目や耳に入らない限り、どんどん言わせたほうがいいのです。
人間、人を批判したり、悪口を言っている間は「正しいボクや私」でいられますよね。
自分が悪い側だったら、声高に人を悪く言えませんし、
そもそも「悪いレベル」が標準になるので、人のことも悪く見えないか、許しているかのどちらかです。
それに、ちょっと腹黒い考え方かもしれませんが、
悪いのなら悪いで、勝手に自滅してもらえばいいだけの話…という場合も多分にあるはずで、
つまり、わざわざ悪口を言う必要だって、本当はないこともある。
そこを、あえて悪口にして人に話すというのは、つまりは「注目してほしい」とか「認めてほしい」、
辛口に言えば、「私は劣等感を持っています!と自己紹介したい」という見方はできないでしょうか。
つまり、です。
「悪口」というのは、「言われてしまった」と受け身に思うから辛くなってしまうのであって、
「言わせてあげた」、もっと言えば「コンプレックスを解消させてあげた」と思えば、ラクにはならないでしょうか。
「自分を気持ちを軽くする材料として差し出してあげた」と、能動的に考えるのです。
悪口というのは、言った側は勝った気でいるが、実は、言われた側の勝ちなのです。
言ってもらって、それで気が済むぐらいのことなら、ならどんどんスケープゴートにして使ってもらいましょう。
そうすれば、いい人になれる上に、器まで大きくなるのです。
それに、悪気がなくてつい出てしまうようなことなら、いつか本心だってわかるのです。
あえて言うなれば、悪口は、直接言ってもらえるぐらいを目指しましょう。
「この人なら、悪く言ってもわかってもらえる」と思ってもらえれば、しめたもの。
必ず絆も生まれます。
悪口は、自分から口にした時点で負けになること、人に言わせたほうが勝ちであること、
いつも気にとめておきたいものですね。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
皆さんは、悪口を言われると、ムッとしたりしませんか!?
うん、頭に来るよ!という人、まあいいんじゃない?という人、
あるいは、気分や内容によるんじゃない!?という人、
色々いると思うんですね。
ただ、私の独断で言えば、悪口なんていうのは、自分の目や耳に入らない限り、どんどん言わせたほうがいいのです。
人間、人を批判したり、悪口を言っている間は「正しいボクや私」でいられますよね。
自分が悪い側だったら、声高に人を悪く言えませんし、
そもそも「悪いレベル」が標準になるので、人のことも悪く見えないか、許しているかのどちらかです。
それに、ちょっと腹黒い考え方かもしれませんが、
悪いのなら悪いで、勝手に自滅してもらえばいいだけの話…という場合も多分にあるはずで、
つまり、わざわざ悪口を言う必要だって、本当はないこともある。
そこを、あえて悪口にして人に話すというのは、つまりは「注目してほしい」とか「認めてほしい」、
辛口に言えば、「私は劣等感を持っています!と自己紹介したい」という見方はできないでしょうか。
つまり、です。
「悪口」というのは、「言われてしまった」と受け身に思うから辛くなってしまうのであって、
「言わせてあげた」、もっと言えば「コンプレックスを解消させてあげた」と思えば、ラクにはならないでしょうか。
「自分を気持ちを軽くする材料として差し出してあげた」と、能動的に考えるのです。
悪口というのは、言った側は勝った気でいるが、実は、言われた側の勝ちなのです。
言ってもらって、それで気が済むぐらいのことなら、ならどんどんスケープゴートにして使ってもらいましょう。
そうすれば、いい人になれる上に、器まで大きくなるのです。
それに、悪気がなくてつい出てしまうようなことなら、いつか本心だってわかるのです。
あえて言うなれば、悪口は、直接言ってもらえるぐらいを目指しましょう。
「この人なら、悪く言ってもわかってもらえる」と思ってもらえれば、しめたもの。
必ず絆も生まれます。
悪口は、自分から口にした時点で負けになること、人に言わせたほうが勝ちであること、
いつも気にとめておきたいものですね。
山茶花の花(東京都品川区)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
「空気」は、きれいな方が気持ちいいのは、当たり前の話ですよね。
そしてこれは、物理的な意味でも、精神的な意味でも、全く同じことが言えると思うのです。
さて。
どんなに片付いた部屋でも、そこに匂いのするものがあったら、部屋中に嫌な匂いがしますよね。
あるいは、どんなに散らかった部屋でも、掃除をしたり、窓を開けて新鮮な空気を入れれば、
気分も良くなるのは当たり前のことです。
あえて物質的な「空気」の話をしましたが、これもまた、「雰囲気」という意味での空気でも、同じことが言えるからです。
その空間にある限り、どんな人も物も、漏れなく雰囲気を作る一員になるのです。
部屋を例に出すと、カーテンの色が変わるだけで、部屋全体の雰囲気が変わったりはしないでしょうか。
あるいは、雑然とした状態でも、花が一輪飾ってあるだけで、どこか安らぎを覚えることもあります。
反対に、どんなに綺麗な部屋でも、そこに汚らしい服があったら、部屋そのものの雰囲気がおかしくなってしまうこともあります。
これ、人間にも、全く同じことが言えると思うのですね。
居心地や空気、雰囲気というのは、多かれ少なかれ、自分の影響もあるものです。
つまり、人はいい空気も悪い空気も送り込める以上、その場の雰囲気に対しても、誰もが等しく責任を背負っているのではないでしょうか。
そしてまた、少しでも空気が明るく、軽くなるように振る舞えればこそ、
多くの人の居心地を気持ち良いものに出来、求められるようにはならないでしょうか。
自分がいる場所に対して、どれだけいい雰囲気にできるか、
このことが頭にあるかないかでは、全然違ってくるはずです。
一人ひとりが、空気を作る主役なのです。
自分の場に対する影響力の強さについて、いつも意識を持ちましょう。
難しい言い方をすれば、自分も空気を作る構成要素だという自覚を持つのです。
そして、そのためには、まず自分の機嫌を取り、明るさや元気をおすそ分けしていく…といった発想の大切さも、わかってくるのではないでしょうか。
「場」に対して、自分はどんな貢献ができるか。
これば、相手や環境、気分に関係なく、いつも問われ続けていることなのです。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
「空気」は、きれいな方が気持ちいいのは、当たり前の話ですよね。
そしてこれは、物理的な意味でも、精神的な意味でも、全く同じことが言えると思うのです。
さて。
どんなに片付いた部屋でも、そこに匂いのするものがあったら、部屋中に嫌な匂いがしますよね。
あるいは、どんなに散らかった部屋でも、掃除をしたり、窓を開けて新鮮な空気を入れれば、
気分も良くなるのは当たり前のことです。
あえて物質的な「空気」の話をしましたが、これもまた、「雰囲気」という意味での空気でも、同じことが言えるからです。
その空間にある限り、どんな人も物も、漏れなく雰囲気を作る一員になるのです。
部屋を例に出すと、カーテンの色が変わるだけで、部屋全体の雰囲気が変わったりはしないでしょうか。
あるいは、雑然とした状態でも、花が一輪飾ってあるだけで、どこか安らぎを覚えることもあります。
反対に、どんなに綺麗な部屋でも、そこに汚らしい服があったら、部屋そのものの雰囲気がおかしくなってしまうこともあります。
これ、人間にも、全く同じことが言えると思うのですね。
居心地や空気、雰囲気というのは、多かれ少なかれ、自分の影響もあるものです。
つまり、人はいい空気も悪い空気も送り込める以上、その場の雰囲気に対しても、誰もが等しく責任を背負っているのではないでしょうか。
そしてまた、少しでも空気が明るく、軽くなるように振る舞えればこそ、
多くの人の居心地を気持ち良いものに出来、求められるようにはならないでしょうか。
自分がいる場所に対して、どれだけいい雰囲気にできるか、
このことが頭にあるかないかでは、全然違ってくるはずです。
一人ひとりが、空気を作る主役なのです。
自分の場に対する影響力の強さについて、いつも意識を持ちましょう。
難しい言い方をすれば、自分も空気を作る構成要素だという自覚を持つのです。
そして、そのためには、まず自分の機嫌を取り、明るさや元気をおすそ分けしていく…といった発想の大切さも、わかってくるのではないでしょうか。
「場」に対して、自分はどんな貢献ができるか。
これば、相手や環境、気分に関係なく、いつも問われ続けていることなのです。