青裸々日記 Aorara Diary

真面目で一生懸命な人に寄り添うブログです(^^/
あったかい未来が、きっと待っています。

言葉とは距離を。

2010年03月31日 16時45分18秒 | 青裸々日記。
東京モノレール(東京都大田区)

 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 いやー。
 つい最近、気づいてしまいました。


 ■ ■ ■

 人間は言葉を使って生きています。
 そんな当たり前な、と思うような話ですが、
 実はとっても奥が深いんです。

 言葉、言語というものには、
 ・思考の道具になる
 ・記録ができる
 ・他人と共通の記号なので、意思の疎通ができる
 …といったような機能があります。
 つまり、とても便利だと言いたいのですが、
 その便利さ故の落とし穴もきちんとあるんですね。

 言語には、どこまで行ってもデジタル的という特徴があります。
 「嬉しい」
 「おいしい」
 「桃色の」
 などの単語や言葉は、人間の感情・五感を「説明する」ためのものです。
 でも、人間の心は、本当に言葉だけで説明できるものでしょうか。
 違いますよね。
 私は違うと思うんです。

 自分の心を知りたい時、
 それを言葉で考えるのではなく、
 心にどんな感覚がするのか、言葉にはせずどこまでも感覚を感じ、見つめたほうが、ずっとわかる気がしませんか


 ■ ■

 言葉も元をたどれば、服や洗面器と同じ、一つの道具に過ぎません。
 言葉というものはあまりにありふれているばかりか、
 生きる上で最重要なものであるだけに、
 つい感情と言葉は一緒にして考えてしまいがち。
 しかし実は、まず感情があって、それを客観的に知ったり人に伝えるために言語が出るのです。
 コミュニケーションでは言語化能力が不可欠ですが、
 そうであれば一層、感情というものを言葉と切り離し、
 その感情をどういう言葉で表現し、選ぶかが問われるのではないでしょうか



 感情は感情。
 言葉は言葉です。

 感情は言葉と密接な関係はありますが、
 全く同一なものではないのです。

作法は守りましょう

2010年03月31日 16時32分03秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 神社にお参りしてきたんですが、
 少しガッカリなコト。

 鳥居をくぐって、境内で参列するじゃないですか。
 あれって参道の真ん中を歩くのは、
 神様の通り道をふさいじゃうからよくないって聞いた経験があるんです。


 せっかくお参りするのであれば、
 増してお願いをするなら、
 作法はできるだけ守るのが礼儀だと、私は思います。


 私は生真面目すぎるのでしょうか?

目の奥底をみてみよう。

2010年03月31日 14時03分49秒 | 青裸々日記。
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 皆さんは「目は口ほどにモノを云い」という表現を知っていますか!?
 あるいは、
 ・目で訴える
 ・目つきを変える
 こんなコミュニケーションをしたこと、
 結構あると思うんです。

 ただ、「目」を意識するにあたって、
 留意したほうがよいことがあるんですね。
 それは、「人の目を読む」ということです。



 メイクやトレーニング等でことさら強調されるのが、
 「目力」を鍛えるとか強くするという売り文句です。
 それはまあ、一応の効果は認めましょう。
 でも、人間は得てして「話し上手」よりも「聞き上手」を求めています
 そうであればこそ、目力を付けるよりも目力を感じ取る力を磨いたほうが、
 より魅力的に映るのではないでしょうか
 しかも、目力を出すばかりにこだわっていると、
 目力の弱い人を
 「自己主張がない」
 「努力不足だ」
 として雑に片付けてしまいかねません。


 もちろん、目力を鍛えるなとは言いません。
 目力が必要な一方、
 人の目を読む力も、実はとても大切なのです。

 頭の片隅に入れておきたいですね。

普段と違うコート

2010年03月31日 13時49分19秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 最近、気温の↑↓が激しいので、
 毎日いろんなコートを使い分けています。

 今日は昨日に比べてあったかいというコトで、
 いつもと違う色のコートで出ています。
 よく使っている上着があると、
 なんだか違和感を感じますね。

1対1。

2010年03月30日 23時06分38秒 | 青裸々日記。
大師橋(神奈川県川崎市川崎区)

 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 皆さんは誰かに意見したり価値観を伝える時、
 相手に遠慮するほうでしょうか。
 もちろん気づかいは必要だとは言えど、
 基本的に遠慮は要らないと私は思います。


 人間関係には、立場や利害が少し絡んでくるのは仕方がないのかもしれません。
 しかし、それは自分の意見を伝えることを遠慮する理由にならないと思うのです。

 例えば私は去年、メールで嫌な思いをしました。
 正確には嫌な思いをさせてしまった側、させられた側、
 どちらも経験しました。
 お話ししたように「利害や立場」があるとは言えど、
 「メールは嫌いです」
 「顔を見て話してくれませんか」
 こんな風に主張すればよかったのかなあ、なんて思うわけです。


 相手が1人の人間であるように、
 私達も1人の人間であることは同じです。
 そうであれば、伝え方、言い方さえ配慮すれば、
 あとは存分に自分の主張をしてよいのだと思います。
 しかも、遠慮されていたと後から知っても、
 相手は決してよい思いをしないとも思うのです。


 自分の意見を主張することは、なにも悪いことではありません
 自分も相手も一人の人間として、自信を持って対等に主張すれば、
 遠慮し合うよりもステキな関係が出来るとは思いませんか



 「嫌なものは嫌だ」と言ってよい場合はきちんと言って、
 よい人間関係を築きたいですね。

幸福論

2010年03月30日 11時30分16秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 先日、深大寺に行ってきたのですが、
 御神籤に肘鉄を喰らいました。
 「吉」で、書いてあるコトもとても良かったんですが、
 最後に「幸せ過ぎると死ぬ」とありまして。
 後日、お納めしてこようと思いました。

 とりあえずやり残しがないとは言いきれないので、
 この際「幸せ」について考えてみれば、
 「幸せ過ぎる」とかいう状態もわかるのでよいかな、
 少しだけ思いを巡らせてみることにしました。


 私が思うに、幸せとは「心に制限が掛からない状態」のことを言うのではないでしょうか
 だから無限なわけです。
 まあ感覚的な問題なので、ここから先はコトバでは説明できないわけですが。


 …というわけで。
 満足して生きていたいので、
 あまり囚われないように、
 この御神籤からは自由であるようにします(笑)

優しさを使わない。

2010年03月29日 11時50分51秒 | 青裸々日記。
羽田空港第一ターミナル(東京都大田区)

 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 今回は自分にお説教させて下さい。

 ■ ■ ■

 このブログでは、ことある毎に「優しさ」についてお話しさせていただいています。
 「優しさ」はそれぐらい大切なものだからです。

 私は無私の優しさなど存在しないと思うんです。
 たとえ「自分が嫌われても構わない」に代表される「厳しさ」の皮をかぶった優しさでも、
 「自分が役に立ちたい」という欲が1mmでもないとは言い切れないハズです。
 だから、どんな「優しさ」にもエゴが混じる以上、
 「優しくなり切る」って本当は難しいんです。
 優しくなろうと思えば思うほど無私になり切れないことに気づく。
 だから、「優しさ」ってある意味では切ないものなんですね。


 …であるにもかかわらず、
 「優しさ」をあからさまに手段に使う人がいます。
 親切心を装って人のプライバシーを知りたがるとか、
 なんとか連絡先を聞いたり遊びに誘うとか、
 どこまで勘違いしてるんだと思うんです。
 私だって男だからたまに(間違って)好意を持たれたりするんですが、
 優しさを利用して近づいてこようとする人がいると、
 怒りを通り越して悲しくなります。

 そもそも、作った優しさなんてすぐ見抜かれるだけです。
 皆さんは英語を習ったコトがあると思うんですが、
 あれは普段から勉強してはじめて、
 とっさのトキに通じるようになるんです。
 私は大学で英語(の発音)をやっていたので、
 いきなり英語をぶつけられても、ごく簡単な対応が許されるならなんとか出たりするんです。
 この「普段から」というのがキーで、
 普段から英語をやっていなければぎこちなくなるのは当たり前ですよね。

 話が長くなりましたが、
 「優しさ」もそれと同じなんです。

 普段から人に優しくしていれば、
 「無私に」というのはムリでも、
 少なくともより自然な形で優しくできます。
 「優しさ」が自分の人格になるのです。
 そういう自然な優しさであれば、
 受けとってくれる人も増えるというものです。
 そういう意味では「自分磨き」も一緒で、
 「優しさ」に限らず性格を「即座に作る」のは本当は自分磨きでもなんでもなくて、
 自分がそうありたい思う性格や人格が染み込んで、
 それが「自然と」滲み出るようになるまで少しずつ自分を成長させる、
 これこそが本物の自分磨きではないでしょうか


 ■ ■

 本物の優しさを人に与えたいと必死になっている人がいるんです。
 それなのに「優しさ」を手段に使うなんて、
 本気の人からすればとてもじゃないけど比較対象にはなりえないし、
 そればかりか「優しさ」というものを貶めているとすら言えるのではないでしょうか。


 皆さんも一度、「優しさ」というものはなんなのか、
 よく考えてみませんか。

ブログネタ

2010年03月28日 16時35分53秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 腹黒い話をひとつ。

 私は基本的に、このブログは本心で綴るように心掛けています。
 だからこそ、自分に言い聞かせたいことを記録できるし、
 ブログはとてもありがたいツールだと思っています。


 さて、本心を綴るわけですから、
 不愉快に思ったコトをどう自分の糧に転じるかを書く場合もあるわけです。
 その発端が不幸にも身近な人だったりするトキ、
 どう書くか戸惑うわけですが、
 言い回しは配慮するにしても、基本的に遠慮しないで書いています。


 なんか昔、親しい人にすらブログのURLを教えなかったぐらいなんですが、
 蓋を開けてみると、すくなくとも結構な頻度で会う知人で、きちんと読んでくれている人はいないんです。
 実は知人と話すトキ、わざとブログに書いたネタを振るんですが、
 「ブログにも書いてましたよね」という反応は皆無なわけです。
 であれば、遠慮なんて要らないんですねえ(笑)


 もちろん直接会って話すに越したコトはないとは言えど、
 読まれていないというのはまだまだ改善の余地があるからでしょうか!?

 まあでも、ムリに読む人がいてもかえって悪い気もするし、
 とりあえずこの話なかったコトにして下さい(笑)
 ではまた…

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